![]() |
||||||||||||
|
|
||||||||||||
![]() |
|
|||||||||||
|
A.父親は2年ごとに転勤するサラリーマンでした、兵庫にいた時に私が生まれました。その後、広島に移り、5才の時に東京に戻りました。理系に好奇心を持ったのは高校くらいかな。でもアルバムを見ていると中学の時に物理部に入っていたので、もっと前から物理が好きだったのかもしれません。高校では数学とか物理が好きでした。私の親戚には医者が多いので、そちらへの進路も考えたりしたのですが、解剖が怖くてね(笑)。大学の教養課程では理数系に進み、大学2年のとき、物理学科に進学を希望して、幸いなことに入れました。学部4年卒業研究は、レーザーの霜田先生の研究室に入れてもらいました。もともと波の干渉とか、水面の波紋など綺麗で見るのが好きだったんですね。子供の頃などは、僕は虚弱な体質で、寝ている時に天井の木目模様とか、水たまりに降る雨滴など自然が作るパターンに関心がありました。池に石を投げた時に広がっていく波紋なんかもじっと見入っていました。 自分の希望がかなって物理学科に入ったはずなのですが、物理に入ってみて、正直なところちょっと閉口しました。クラスメートには、頭の良い、すごい人ばかりでした。今、理科大にいる福山秀敏、日大の藤川和男、早稲田大の塚田捷、岡山大学の吉村太彦、カミオカンデの戸塚洋二、京大の堀内昶、慶応大の大岩元、東大核研の寺沢英純、埼玉大の伏見譲といった先生方、さらに日立の中村道治副社長(現・フェロー)等々。 Q.日立での研究のご経歴について、お聞かせいただけますか。 A.日立の中央研究所は、当時から有名でした。ここでは、基礎研究もやっていました。レーザーにも力をいれていて、すごい研究者がいました。大学4年の夏に見学に行ってみたら、楽しくていい人たちがたくさんいて、ここならやれるかなと思いました。その頃、学部卒は中央研究所に入りにくかったのですが、何とか入れてもらって、その後、希望して電子顕微鏡の研究室に入れてもらいました。 1973年から1年間、当時の西ドイツ チュービン大学のMöllestedt先生の所に留学しました。 社費留学は、毎年60名、世界の大学に留学させる仕組みで、 Stanford、 MIT、Harvard、などアメリカの一流大学に留学するケースがほとんどでした。僕は、もう花が咲いているテーマをやっている研究室よりも、将来の芽を探したいと思ってヨーロッパを頑なに希望しました。Möllentedt先生は、電子線の干渉を初めて行った方で、ここで研究するのが、若い頃からの私の夢だったのです。 1980年、干渉性の良い電子線を10年がかりで開発し電子線ホログラフィー(注1)がやっと実用レベルに達しました。すぐに、新しい用途が見出されました。電子の波の性質を利用して“極微の世界の磁力線”が直接見えるようになりました。この時までに、既に何篇もの論文を書き上げて、国内ではそれなりの評価を受けていたのですが、海外での反応は今一つで、不満でした。 日立の研究発表会の折に、副社長で物理の先輩だった久保俊彦さんに薦められて、サーキュレーションの良いアメリカの物理の速報誌Physical Review Lettersに投稿することにしました。当時、新しい物理の発見は、NatureやScienceよりも、この雑誌に投稿されていたのです。アメリカのベル研究所などでは、この雑誌に成果を出す度に、年収が千ドル上がるといわれていました。当時、電子顕微鏡分野の論文がこの雑誌に掲載されることは、ほとんどありませんでした。電子顕微鏡で面白いことがいろいろできるのに、物理の先生方に何故認めてもらえないかという不満もあって、これにチャレンジしました。 レフェリーからの反応が素晴らしかったのを未だに覚えています。内容のオリジナリティーを買ってくれました。発表後の反響も大きく、以来、重要な成果は、ここに発表することにしました。 この雑誌への投稿で最もてこずったのは、1982年のアハラノフ−ボーム(AB)効果(注2)の実験でしたね。当時、AB効果の存在をめぐって激しい論争が闘わされていたのです。賛否両サイドから選ばれたのですが、意見が真っ向から対立しました。一人は見事な実験だといい、もう一人はAB効果とは関係のない実験だというわけです。何回もの激しいやり取りの末に、編集者の判断で掲載されることになりました。 Q.日本のナノテクノロジーの世界は、電子顕微鏡の専門家が多いですよね。 A.飯島澄男さんもそうですね。日本の電子顕微鏡研究は非常に優れています。飯島さんというと、カーボンナノチューブという新材料を発見した人として有名ですが、たまたま見つけたわけでなくて、ご自分も電子顕微鏡装置の開発や改良をしながらナノの世界を研究していた訳です。日本が世界のトップになれる分野はなかなかありません。電子顕微鏡は産学両面で日本が誇れる唯一の分野といって良いと思います。 電子顕微鏡は1932年にドイツのルスカという若い学生が発明したのですが、彼はもともとテレビのブラウン管を研究していました。電子線を使うと、短い波長の効果で光学顕微鏡でも見えない小さなものが見える顕微鏡になるかも知れないと思ったのがきっかけでした。光学顕微鏡でも、これまで目にしたことのなかったビールスやバクテリオ・ファージが姿を現わした時には、世界が大騒ぎで、日本でも開発をスタートしたわけです。 日本の研究開発のやり方は非常にうまかった。錚々たる大学の先生が集結し、メーカーの技術者をも取り込んで、国を挙げて開発が始まりました。医学部の先生も、自分で顕微鏡を作ったりして、どんどん進歩していったわけです。しかし間もなく、戦争が勃発したため、国内に情報が入らなくなってしまいましたが、それが逆に、自分自身の頭で考え、しっかりとした基礎を身につけることになって、かえって良い効果をもたらしました。もう1つは菊池正士以来の日本の伝統芸であった電子回折のグループが加わったので、学術面でも非常に高いレベルに達しました。こうして学術・産業の両面で発展を遂げたわけです。 Q.ご研究を行う上で苦労されたことはございますか? A.最も苦労し最も嬉しかったのは、“干渉性のよい電子線”を開発したときです。テレビやパソコンのブラウン管の中を上下左右にふられながら映像を作り出しているのが、電子線ですが、これは熱した金属や酸化物の表面から熱エネルギーで出てくる電子を利用しています。ところがこの電子線は、干渉性が良いとは言えないのです。 そこで、全く違う原理で、電子を取り出す方式を採用しました。避雷針の原理です。常温の針の先に電気をかけると、針の先端に電気が集中して、針を熱する必要もなく電圧をかけただけで針の先から電子が飛び出してきます。この電子線は、速度がそろっていて、非常に小さな所から出てきます。いわば点電子源です。 速度が揃っていて、明るい点電子源であるという性質のため、レーザーのような“干渉性の良い電子線”が生じます。ところが、何しろ電子源が小さく電子線が細いので、ちょっとしたことで、すぐに乱されてしまいます。針が少しでも振動したり、浮遊磁場によって電子線がふられたりすると、小さな電子源がゆれて、電子線の干渉性がすぐに失われてしまうのです。 こんなことがありました。東京・国分寺にある日立中央研究所にいたときのことですが、電子線をフォーカスした時、本来なら一点にとまっていなければならない電子線のスポットが、何もしないのにあちこち振り回される。この原因をいろいろ探りました。 電子線を揺らしているのが、隣の部屋においてあるコンピュータではないかと思われると、電源を切ってもらい、上の階の実験装置から振動が伝わってきていると思えば、それをとめてもらう。ところがどうしても原因がつかめない。そのうち、だんだんと遠い所まで疑い始め、とうとう、近くを通っている電車(中央線、西武線)が悪いのではないか、ということになりました。 電車が悪いからといって、どけてもらうわけにもいきません。そこで、1人が12階の塔に上がり、実験室で電子線を見ている人に逐一電車の往来を電話で知らせることにしました。昼間、電車も頻繁に通りますし、自動車も通っているので、全く因果関係はつかめなかったのですが、終電近くになってくると、スポットの揺れもまばらになってきました。注意深く観測すると、やはり電車と関係があり、つながりが見えてきました、どうも電車が国分寺駅を発車する時に、スポットが動くようです。 終電が去った後、この大きな揺れはなくなりました。原因が見つかれば、問題はほとんど解決したのも同然。努力さえすれば、ほとんどのことは解決できます。あきらめた実験もたくさんありますが、そのときは、何がなんだか分からなくなって、暗闇の中で道を失ってしまう時です。この時は、原因が電車だとはっきりしたので、手を打つことが出来ました。 その数ヶ月経った或る日、飛び上がらずにはいられない程の結果が出たのです。びっくりするような写真が撮影できました。縦縞が数え切れない程たくさん並んでいる写真です。普通の電子顕微鏡写真は、目で見れば事は足ります。細かいものが写っているときにも、フィルムをルーペ、虫眼鏡で覗けば充分です。ところが、このフィルムは虫眼鏡で見ても、何も見えません。ただ、蛍光灯にかざすとこれが虹色になって3本に見えるので、何も写っていないのではありません。そこで光学顕微鏡でずっと拡大してみたら、実は数ミクロンの間隔で、縦縞が沢山びっしりと並んでいたのです。また、電子線の干渉縞を蛍光板上で直接みることはそれまで出来ませんでした。ちょうど夜空の暗い星を長時間かけて露光するように、暗闇の中でずっと息を殺してフィルムに露光し、現像してみて初めて撮影できたかどうか分かるのです。そうしても、最大でも、200本しか撮影できません。ところが、今度の装置では3000本もの干渉縞が撮影できました。しかも、蛍光板上で、干渉縞が直接肉眼で見えるのです。これが、波面の揃った干渉性の良い電子波が誕生し、電子線ホログラフィーが実現した日です。 Q.電子顕微鏡の研究は非常に繊細なのですね。 A.ここ基礎研究所(埼玉県)の土地は、周りに何も無くて地盤が強固なのでここを選んだのです。日本中さがして、交流磁場が少ないところ、高圧線のないところ、電車のないところ、高速道路の無いところを探して、鳩山に行き着きました。ここは電子顕微鏡にとっては恰好の場所です。 Q.電子顕微鏡はノイズの無い環境が必要だし、使いこなすのが難しいですよね。今の若い研究者はどうもそこに魅力を感じないみたいなのですが。どうしても人里離れたところでは暗いイメージになってしまうのですが(笑)。 A.そうですね。つくばなどは土地が柔らかくて条件としては良くないのですが、長いパイルを地面に掘って建物を揺れないようにしたりしています。半導体の研究でも同じような状況が必要になってきています。僕は面倒なので静かなほうがいいと思って田舎に来ました。 昔は原子が見えるなんてことは考えられなかったのですが、今では電子線で見えるようになった。これからも、もっともっとよく見えるようにしなくてはいけません。しかし、この研究では、今、日本は乗り遅れています。この原因に短期の成果を求める最近の日本の研究の仕組みにあると思います。これでは大きな仕事ができないですよね。例えば超高圧電子顕微鏡(注3)などは、とても長い期間をかけて成果を出しました。これは、2、3年ではできるものではないわけです。僕はそういうチャレンジングな研究をして成功した人を尊敬する社会にしたいのです。どうもみなお金に浮かれて、お金があると研究している気分になっている気がします。お陰で、今は、夢を追う人が少なくなっちゃった気がしています。ドイツなんかは、じっくりやっていますよね。僕は1年留学して、論文は1編もかけなかったけれど、ヨーロッパであちこちの研究者と親しくなりました。 Q.今後のご研究への抱負をお聞かせください。 A.日本の電子顕微鏡技術は、世界一で日本のお家芸でしたが、今、欧米に遅れをとってしまったため、追いつき、追い越すための要素技術の開発を文部科学省のプロジェクトで行いつつあります。私は、この要素技術を元に、欧米を再び引き離すべく0.1Åオーダーの高分解能を狙った超高圧電子顕微鏡の開発を目指しています。日本のお家芸の電子顕微鏡技術を取り戻すだけではなく、日本のものづくり復活の気運を盛り上げるきっかけにしたいですね。 Q.若い方に向けてメッセージがありましたら、お聞かせください。 A.研究というのは、今まで分かっていないことを明らかにしたり、予測しなかったようなことを発見したりすることです。ですから、不思議なことを見つけてそれを解明した時、むしょうに嬉しくなったり、感動したりする人が研究者に向いていると思いますね。 新しい現象は簡単には見つけられません。宝探しのようなところもあり、偶然が左右します。私の先生の上田良二先生(故人)がよく「一生に一度くらいは、すごい発見をする偶然が訪れるが、見逃してしまわない様にしなければいけない」といつも言っておられました。 それには、いつも子供のような素直な好奇心を持って、不思議な現象につきあたったら、何でこうなるのかと不思議がることが必要ですね。こんなことは、子供なら誰でもが持っている能力です。それが、だんだん少なくなってきて、ちょっとしたことでは驚かなくなり、関心を示さなくなる。これが理科離れにつながっているのだと思います。 子供の時の素直さと好奇心と無駄な遊びもしてみる、という気持ちをいつまでも大切にする。これが研究だと思います。
(注1) 電子線ホログラフィー:電子の像をそっくり光の像に変換する2段階の結像法。電子線で作った物体のホログラムフィルムに光をあてると、物体波が再生される。波長の比の違いを除けば、電子の波面がそっくり光の波面が再生されるため,三次元像が観察できる。 (注2) アハラノフ・ボーム(AB)効果:電子の波が、電場も磁場もないところを通ったときにも"ベクトル・ポテンシャル"という物理的な影響を受けることを理論的に示した効果。1959年、アハラノフ(Y. Aharonov)とボーム(D. Bohm)によって示された。 (注3) 超高圧電子顕微鏡:通常の電子顕微鏡は、電子ビームを対象とする試料にぶつける強さを示す加速電圧が数十万Vだが、超高圧電子顕微鏡は、これが数百万Vである。これによって、より厚い試料の内部の測定が可能になる。 |
||||||||||||