第五分科会「高齢社会フォーラム・イン東京」

「障がいも年齢も越えて支えあう社会活動」

梅原 健次郎
神奈川高齢者生活協同組合相談役、北里大学一般教育部 特別講師

〔趣旨・進め方〕

  第五分科会写真1  今年度のフォーラム全体のテーマである「少子高齢社会におけるシニアの役割」、そして、午前中の高連協代表である樋口、堀田両先生と本多内閣府参事官のお話の内容を受け、第5分科会に与えられたテーマ「障がいも年齢も越えて支えあう社会活動」について、いろいろ探ってみたいと思います。
 なかでも、樋口、堀田両先生からは「多様性にはタテの多様性だけでなく、ヨコの多様性やナナメの多様性といろいろな多様性がある」また「自立、尊厳、可能性、生きがい、されるよりする」、本田参事官から「孤立」から「つながり」そして「支え合い」「気軽に立ち寄れる居場所」というキーワードをいただきました。
 これからお話いただます3人の各パネリストとも、本日のテーマやキーワードの持つ意味をすべて盛り込んだ先駆的な事業・活動や運動に取り組み、数々の実践を積み上げてきた方々です。
 第1部では、3人のパネリストからそれぞれ取り組んでこられた実践事例報告を、お一人30分くらいでお話いただきます。
 第2部では、会場の皆さまからのご質問、ご意見を交え、テーマの意義を考え議論を深めたいと思います。

〔パネリスト〕

  • 柿沼矩子  (川崎市認知症ネットワーク代表、(N)川崎市認知症ピアサポートセンター理事長)
  • 多田千尋  (東京おもちゃ美術館理事長・館長、芸術教育研究所所長、高齢者アクティビティ開発センター代表)
  • 谷口奈保子 ((N)ぱれっと理事長)

■第1部

◇柿沼 矩子:市民グループとしての「川崎市認知症ネットワーク」活動による地域づくり

 私の認知症との出会いは、30年以上前もさかのぼります。私が20歳代後半のとき私の父が認知症になりました。当時は、有吉佐和子さんの『恍惚の人』が話題を呼んでいて、認知症という言葉はもちろん痴呆症という言葉もなく、一般的には「ぼけ」といわれていました。しかも、ぼけ(認知症の方)は「遺伝ではないか」「その人の生き方が悪かったから」といわれ、本人や家族は差別と偏見を受けながら、地域のなかで孤立し、息を潜めて暮らしていた時代でした。

 ところが、その頃から認知症のパイオニアといわれていた長谷川和夫先生(当時、聖マリアンナ医科大学教授)は、「認知症は病気である」と明言され、そのうえ「認知症になっても残存能力に焦点を当てて、みんなで支えあって地域のなかで一緒に暮らしていきましょう。」と呼びかけながら医療を展開されていました。

 当時、この長谷川先生の出現は、認知症を抱える私たち家族にとって、暗闇にあって前途に光明を見出す感じでした。そこで、認知症の介護で同じ悩みを抱える家族が声をかけあって、本人ともども一緒に小旅行をしました。みんな一緒にお風呂に入り、夜を徹して語り合い、悩みを分かち合い共有しあいました。このような仲間の集まりが回を重ね、川崎に「ぼけ老人を抱える家族の会」が生まれたのが1983年(昭和58年)です。「私たちは、認知症になっても、介護する立場になっても、一人の人間として、一人の社会人として、人々と出会い交流し、地域のなかで普通に生きていきたい」この素朴な願いが私たちの活動の原点であり、人間宣言なのです。

 次いで保健所で実施された認知症対象のデイケア、介護教室に、地域で孤立していた本人や家族の参加が次から次へと広がっていき、それを母体にいろいろな支援をするボランティアも生まれるという形で輪が広がっていきました。そして、1996年(平成8年)に川崎市7区それぞれの区で、地域密着の活動を展開していた16団体で、「川崎市認知症ネットワーク」という市民グループを立ち上げました。当初は家族会を中心に16団体でスタートしましたが、いろいろなボランティアグループ、ワーカーズコレクティブも加わって、現在、会員・会友で約40の団体・グループとネットワーキングとしてできた5つの団体―NPO川崎市認知症ピアサポートセンター相談活動「サポートほっと」、啓発寸劇「劇団SOS」、若年認知症グループ「どんどん」、ボランティアグループ「ねこの手」「わんわんパトロール あい」―で構成されています。

~合言葉、キャッチ・フレーズ~

忘れても・・・・Don't Worry !
出来ないことがあっても・・・・
住み慣れた地域で・・・・
共に支えあい、暮らせる街・・・・
Community support network

○主な具体的活動

 1.私たちは、認知症になっても本人はもとより介護する家族を地域で孤立させないというのが大きな活動目標になっています。「認知症介護、一人で悩まないで、抱え込まないで、ご相談下さい。専門家、介護経験者が電話相談・面接相談に応じます。お気軽にお問い合わせください。」と呼びかけ「サポートほっと」という相談活動を8年前から実施しています。

 今年4月から認知症のコールセンターを制度事業として全国展開することになり、私たちの「サポートほっと」で実施していた認知症相談は、川崎市の委託事業として「川崎市認知症コールセンター サポートほっと」に衣替えし、NPO法人川崎市認知症ピアサポートセンターが引き続き相談業務の実務を担っています。(毎週月・火・木・金、第1・3日曜日の午前10時~午後4時、毎月第2・4木曜日は午後8時までの受付、相談は無料)

 最近の特徴として、働きながら介護をしている方と男性介護者からの相談が増えてきています。なかでも男性介護者からの相談内容には、かなり深刻なケースがあります。そこでサポートほっとでは、定期的に「男性介護者の集い」を開催しています。

 2.働き盛りの40歳代、50歳代で認知症になれた方々、いわゆる若年認知症の場合は、本人、家族のショックが大きいのと、経済的にも深刻な状況が出現し、また、心理・社会的な苦しみも増し、家に引きこもりがちになられる方が少なくありません。

 そこで、「若年認知症グループ どんどん」を立ち上げ若年認知症の人と家族が、地域で安心してイキイキ暮らしていけるよう、2006年よりサポート活動してきました。「どんどん」とは「どんどん仲間になって、どんどん楽しもう」という意味を込めました。

 主な活動は、レクリエーション、研修旅行、家族懇談会、飲み会、冊子発行、自主製品の制作販売などです。なかでも自主製品の制作販売の取り組みでは、若年認知症の方がデザインしたTシャツ(Don't Worry!シャツ)を販売し、かなり話題を呼びました。

 3.認知症になられた初期の段階では、困惑と不安にさいなまれ、引きこもる方が多いので、本人・家族のちょっとした困りごとの解決やお手伝いをするボランティアグループ「ねこの手」を立ち上げました。この活動は、認知症介護経験者が二人一組で行います。

 認知症になり引きこもりがちになっている人のなかには、美術家、着付けの先生、元教員、料理の達人という方がいらっしゃいます。そこで「ねこの手」としてお手伝いさせていただく場合、ねこの手二人は、それぞれの生徒にさせていただくことで、いろいろなお手伝いが円滑に運び、そのうえ、適切な制度やサービスにつながったという事例があります。

 4.認知症ネットワークを立ち上げて以来、一番困った問題は、認知症の方々の生命に関わる危険性が高い「徘徊」の問題でした。

 認知症ネットワークが実施した実態調査では、徘徊中の1/3の方は住んでいる地域や区内で発見保護されましたが、2/3の方は横浜、東京、千葉、茨城などの他都市へと広域化して、保護にも時間がかかっています。

 実際のケースですが、武蔵小杉にお住まいの認知症のおばあちゃまが、お椀を持って夕食を待っておられたのですが、いなくなってしまわれた、なんと三日後に埼玉県の大宮でお椀を持った状態で発見保護されました。

 認知症の方の徘徊は、介護している家族が注意を払っていても、ちょっと目を離したときにいなくなる、家族はその対応に大変苦慮するばかりでなく、徘徊中の危険性を考えると、認知症ケア・サポートの重要な緊急課題だということを、私たちは訴え続けてきました。このところ行政側の理解も高まり、いろいろな対策が講じられています。しかし、詰まるところは、認知症の方が生活している地域・住民の目と力によるサポートが一番です。

 私たちは、地域住民の認知症に関するいろいろな課題に対する理解と住民同士の絆を強めることによって、地域の目と力を高めることが先決であると考えました。

 そこで、川崎市認知症ネットワークの「啓発活動」の一環として、「劇団SOS」を市民組織の劇団として旗揚げしました。「もし、あなたが、わたしが認知症になったら! 安心してこの街で暮らせますか? 」と呼びかけながら上演を重ねてきています。演目やシナリオの内容は、認知症に対する一般的な理解・対応というより、具体的な事例をベースにしたものです。例えば、徘徊SOS、認知症サポーター、行政の窓口、警察・消防、病院、地域包括支援センターほか諸施設・機関などとの関わり、おれおれ詐欺、悪徳商法、鬼嫁、老々介護、男性介護、パラサイトシングル、呼び寄せ介護など・・多彩です。演ずるのは18名の市民俳優だけでなく「ワンワン」(犬)もいます。つまり、朝・夕にわんわんちゃんと一緒に散歩している「人」「犬」「目」こそ「地域の目」だという思いから「ワンワンパトロール あい」というグループを立ち上げ、日々の活動のなかから徘徊者の早期発見につながるケースが多くなってきました。現在の登録「活動わんこ」は100匹を超えています。

 最後に、川崎市認知症ネットワーク活動の輪は、年を追うごとに広がりが出てきていますが、主に点と点の繋がりによる支えあい活動です。これからの課題としては、点の数を増やすことと同時に、その点のつながりを面の活動へと成長させていくことだと思っています。そこで、「わんわんパトロール あい」「劇団SOS」のような活動が、点から面の展開へとつながる可能性が大きいと考えています。活動を支えるメンバーが、老若男女、健常者、障がいや病のある人、いろいろな仕事・活動をしている人、学生・生徒、そしてワンワン、ニャンニャンという愛らしい動物も加わって、自然体によるコミュニケーションの広がりが絆へとつながっているという強い実感があります。川崎市認知症ネットワークの活動を通して、点から面へ、そして、地域コミュニティ再構築の原動力の一翼として努力していきたいと思っています。

◇多田 千尋:21世紀の多世代社会において、赤ちゃんからシニアまでの豊かな文化創造を目指して

 私の専門としているフィールドは、一つが「子ども」もう一つは「高齢者」、さらに、子どもと高齢者をつなぐ「幼老統合」を主にしています。

そもそも子どもと高齢者の領域を同時並行で取り組むきっかけは、20数年前にさかのぼりますが、日本女子大学名誉教授で日本福祉文化学会名誉会長の一番ヶ瀬康子先生と出会い「いままでは、高齢者分野の専門家は高齢者領域のことだけに焦点を当てて研究や事業活動を展開してきているので、お年寄りの世界が暗いイメージになっている。そこで、これからの子ども領域の専門家は、お年寄りの世界へも入っていかないといけません。このことは、これからの大きな課題です。」というお言葉が、大きく影響しています。

 私は1957年に私の父(多田信作)が設立した「芸術教育研究所・おもちゃ美術館」の2代目の所長として、「美しいものをこよなく愛し、美しいものを自分の力でつくり上げる、その喜びがわかる子どもたちや大人たちを培うこと」を基本理念に、現在、高齢者介護の現場へも目を向け、子どもたちからお年寄りたちの自己実現が可能となる社会を創り出そうと「芸術文化」「福祉文化」「遊び文化」をテーマに、その実践と理論化に取り組んでいます。

 本日は、私どもが現在展開している事業と活動のなかから、第5分科会テーマの内容を象徴するような取り組み事例として「東京おもちゃ美術館」「高齢者アクティビティ開発センター」「ウッドスタート事業」の3つについての実践報告をします。

○東京おもちゃ美術館

 「東京おもちゃ美術館」は、閉校となった伝統ある四谷第四小学校(東京都新宿区)の旧校舎を受け継いで2008年4月20日にオープンして2年3ヶ月が経過しました。ここで強調したいのは、公立ではなく、企業立でもなく、純粋な「市民立ミュージアム」であるということです。

 (旧)四谷第四小学校は、昭和6年に木造の旧校舎が火災で全焼し、昭和10年にドイツ人の技師による、当時としては最先端を行く近代的な校舎として再建され、しかも戦災をも逃れた歴史的建造物とされていました。もともと、昭和6年に校舎が全焼し、再建するための所要資金は、当時のお金で約10万円だったようですが、四谷地区の住民が声を掛け合って募金活動を展開したら、25万円の募金が集まった。こうして、全国に誇れる近代的なモデル校舎建設ということになったようです。注目したいのは、募金活動で示された、四谷住民の連帯とパワーです。このような歴史的土壌もあってか、今回の閉校についても、特に四谷地区在住の長老格を中心に多くのシニアの方たちから、閉校は止むを得ないとしても、校舎の建物は文化資源として残し、区民の文化向上のために活用すべきだという「うねり」が起こった。直ぐ、住民協議会を立ち上げ、新宿区当局との話し合いの結果、「校舎の半分は公民館のようなもの、残り半分は、おもちゃ美術館のような、子どもたちの賑わいが戻ってくるようなものに」というプランで進めようということになり私のところへ声がかかりました。私も、「これはとてもよいお話なのでぜひお手伝いさせていただきます。」ということでお引き受けすることにしました。

 東京おもちゃ美術館設立へ向けてスタートしたところ、12教室の改装費として約1億円、家賃と水道・光熱費等が年間約1千万円の負担、さらに常勤の有給スタッフの人件費負担などを考えると、とてもじゃないがギブアップということで諦めざるを得ないと思いました。

 ところが、私が理事長をしている「NPO法人グッド・トイ委員会」の理事のなかでもシニアの方たちから「1億円や2億円の資金はたいしたことはない。真剣に考えれば何とかなる。最初から諦めないで、みんなで力を合わせて東京おもちゃ美術館を創ろう。」ということで、力強く私の背中を押したんです。

 そこで、私は一人じゃないんだ、多くの仲間たちがいる。なかでもシニアの方たちの経験、知識・知恵、技の力に助けられました。資金調達面では、①熊本城改築のため、一口1万円の<一口城主>を募ったところ、予算を大きく上回る額の資金が集まったという熊本市の先例に倣って、「一口館長」を募集しました。次に、②一口50万円の「東京おもちゃ美術館設立応援債」という債券を発行したところ、シニアの方たちが率先して一人3口~4口で応募してくれました。さらに、③美術館内で来館者のご案内、子どもたちと一緒におもちゃで遊ぶ「おもちゃ学芸員」を文化ボランティアのスタッフとして設ける。そのため、おもちゃ学芸員養成講座(受講料4,000円)を開講したところ、当初40人の募集に対して、180人の応募があり、オープン時には、200名の登録学芸員でした。

 しかも、その約60%の方がシニアです。つまり、東京おもちゃ美術館設立に当たっては、多くのシニアの方たちからの経験、知識・知恵、技とお金プラス時間という寄付に支えられました。ミュージアムのなかで活躍するシニアの技として、例えば、壊れたおもちゃをたちどころに修理する「おもちゃドクター」というボランティアの方たちがいます。また、江戸時代の「仕掛けからくりおもちゃ」から牛乳パックでつくるリサイクルおもちゃまで、手作りのおもちゃなら何でもこいといった、「手作りおもちゃマイスター」という方たちもいます。

 東京おもちゃ美術館を、子どもからシニアまで楽しめる世代間交流拠点に位置づけ、新宿の地域活性化につなげる狙いから、実現したい3つのことがあります。①遊びを通して物づくりの喜びを子どもたちに伝える、②大人たちが、もっと楽しく子どもと遊ぶお手伝い、③若者からシニアまでが、子どもたちのために活躍できるチャンスをつくる。

 また、おもちゃ美術館は「出前おもちゃ美術館」として、ミュウジアムの外へも積極的に出て活躍しています。例えば、子ども療育センター、病院の小児病棟などを訪ね、主に難病の子どもたちの支援活動を展開しています。ここでもシニアの方々が活躍しています。

 こうして、東京おもちゃ美術館もオープンして3年目に入りました。入館者も初年度はご祝儀的なニュアンスもあって、10万人を突破しましたが、二年目は約8万5千人で,今年度も同じくらいの出足かなと予測しています。ちなみに、採算ラインは6万人と算定していただいていますので、お蔭様で順調に推移していると思っています。

○高齢者アクティビティ開発センター

 1990年より要介護高齢者のアクティビティについて研究・指導を重ね、2002年には要介護者の心の栄養補給を「Apty Care(アプティケア)」といった概念を構築し、季刊誌『Apty Care』にて現場に役立つ情報を発信してきました。「Apty」とは、Art、Play、Toyの頭文字をとった造語ですが、「芸術」「遊び」を高齢者ケアに注ぐことに力点を置いたものです。

 2005年に、新しいケアモデルの推進役として、芸術文化、遊び文化の創造による新しいシニア・ケア社会を提案する「高齢者アクティビティ開発センター」を設立しました。

主な活動内容は、

「アクティビティ インストラクター」、「アクティビティ ディレクター」、「アクティビティ プロデューサー」資格認定セミナー主催
②高齢者福祉・アクティビティ関連の専門書の企画・編集
③定例研究会・現場セミナー・海外研修等の開催
④講師の派遣およびアドバイザー活動などです。

中でも、特に力点を置いているのは、高齢者福祉のための「アクティビティ ディレクター」の養成です。

 近年、欧米諸国のどのような高齢者施設にもアクティビティ ディレクターが常勤していて、とても重要な役割を担っています。高齢者の心を豊かにし、日常生活に潤いをもたらすアクティビティ ディレクターは「心の栄養士」でもあるのです。日本でも芸術、遊び、遊具をケアの中心に置いた生活介護をデザイン、企画、演出、実践できるアクティビティケアの専門職として、福祉施設や医療機関、在宅介護の現場におけるリーダー的な役割が担える人材が必要であると痛感し、その養成に取り組むことにしました。シニアの方たちは、ここでも主役です。

○ウッドスタート事業

 最後に、私どもが最近取り組んでおります「ウッドスタート事業」についてです。ある種のソーシャルビジネスに当たると考えています。  「新宿区」を活動対象エリア・フィールドに考えています。

 <新生児対象>―ウッドスタートセットのプレゼント―

 私どもの提案で、新宿区では、毎年生まれる赤ちゃん約2千人に対して、従来、1万円の図書券を出産祝いとしていましたが、2011年4月以降、新宿区の姉妹提携都市になっている長野県伊那市の木工職人に伊奈材を使って木製玩具(例えば、漆仕立てのおままごとセット)を作ってもらい、それを出産祝いとしてプレゼントすることになりました。

 現在、日本のおもちゃ自給率は5%を切ってきているといわれています。わが国には豊富な木材と世界第一級の匠の技という宝があります。この素晴らしい技と資源を活かして、おもちゃの地産地消に結び付けたいと願っています。

 そこで、このプランを全国の市区町村へ広げる活動を展開していきたいと考えています。

 <乳幼児対象>―木育赤ちゃんサロンの開催―

 東京美術館において、日本一の木感あふれる乳幼児対象の集いを開催し、乳幼児とその保護者が、厳選された木のおもちゃで思う存分遊んでもらう。

 <年長組対象>―「木育」ホームカミングデイ―

 新宿区内の保育園、幼稚園の年長組みの園児を、東京おもちゃ美術館に無料で招待し、木のおもちゃいっぱいの館内で、木の温もりを感じながら遊んでもらう。

 <小学生対象>―木育アウトリーチ(出前授業)の実施―

 新宿区内の小学校において、東京造形大学春日研究室の協力を得、木のおもちゃを制作する木工教室や木育ワークショップを行う。

 <幼児・児童対象>―「森のめぐみの子ども博」の開催―

 東京おもちゃ美術館において11月に開催される「森のめぐみの子ども博」では、全国各地から出展される子ども向けのおもちゃ、家具、食器などの見本市とワークショップを行う。

 ここでも、「ウッドスタート事業」を支え、力強く推進するために欠かせないのが、シニア・パワーです。

◇谷口 奈保子:福祉に、発想の転換を

 柿沼さん、多田さんのお話を伺って、分野は違いますが、やはり同じだなとつくづく思いましたし、何か、とても意を強くいたしました。柿沼さんから、市民の支えあいのなかで、いろいろな活動が展開されてきたということ、また、多田さんが力説された、底なしのシニアの方たちの力に支えられているという力強い市民の力を感じました。

 昨年は、通商産業省に設置された「ソーシャルビジネス推進イニシアチブ」の委員として円卓会議に出席し、今年は、内閣府に設けられた「新しい公共」というテーマの円卓会議のメンバーの一人として関わり「新しい公共宣言」を発しました。「官」「民」がしっかり手をつないで、ということにおいては、官はどれくらい現場を把握しているか、市民はどれくらい力をつけて確たる声を上げているのか、というあたりが問われるわけですが、このところ、シニアの方たちの力強い発言と行動が多くなってきていることを実感しています。

 私は一般市民として、障害者のなかでも、主に、知的障害者の世界に根を据えていろいろ発信し、活動・事業を展開してきています。そのきっかけは、結婚して子育てに追われているさなか、長女が小児癌になり11ヶ月という厳しい闘病生活の末、4歳半でこの世を去ったことに直面したことでした。過酷な青天の霹靂でしたが、長女の死を通していろいろなことを学びました。「人生とは」「生き方」「社会のかかえる矛盾・理不尽さ」「一人ではない、仲間がいる」というテーマに、しっかり向き合わなければと思いました。

 そして、物事を理解する、読み、書き、算盤などがままならない知的障害者との出会いでした。当時は、知的障害者は人間じゃないといわれたりもしていた時代でした。同じ人間としてこの世に生を受けながら、たまたま障害をもって生まれたたことで、社会のなかで差別され、阻害・疎外されながら生きていかなければならないのかという現実を突きつけられました。憲法25条で確認されている「生存権」、つまり、「誰もが人間らしい生存を全うする権利」はどうなっているのだろうか、この疑問が納得できなくて、一人の主婦、親、地域住民、市民の素朴な感覚として我慢できませんでした。

 ところが、何かを起こし、行動しようにも、一人ではできないということを思い知らされ、地域の人たちをどれだけ多く巻き込めるか、これにかけることにしました。ちょうどその頃、地域のボランティア活動に誘われた。渋谷区教育委員会が主催で、知的障害者の社会教育を目的に設けられた「えびす青年教室」に参加し、若者のボランティアと共に活動することになったことが、「ぱれっと」へつながる第一歩でした。

○「たまり場ぱれっと」:誰でも自由に集い、新しい仲間と可能性を見つける余暇活動の場

 たまり場ぱれっとは、えびす青年教室に集う障害のある青年たちの人間関係や生活圏を広げるために「日常的に安心して集える場(たまり場)を地域につくろう」と呼びかけ、1983年に誕生しました。

 絵を描くときに色を混ぜ合わせ、新しい色を生み出すパレットをイメージしました。私たちは、絵の具の色を人に置きかえて、いろいろな人たち(傷害の有無・性別・人種に関係なく)が出会いを楽しみ、交流することで新しい可能性を生み出す場所、たまり場でありたいという願いをこめて「たまり場ぱれっと」としました。あえて平仮名「ぱれっと」にしたのは、絵画教室と間違えられないようにということもさることながら、あくまでも活動の優しさ、柔らかさを出したかったのです。

 おしゃべり、スポーツ、パーティ、旅行、英会話教室など、さまざまなプログラムを行っています。これからも、「色色」な人や個性が光る場、参加者が自主的、主体的に活動を創造できる場を目指していきます。

○「おかし屋ぱれっと」:クッキー、ケーキの製造・販売を通して社会参加と自立を目ざす福祉作業所

 「たまり場ぱれっと」をオープンして一年ぐらい経った頃、利用者の親たちから「子どもたちの働く場がほしい」という声が出てきました。当時、知的障害者の就労の場は、福祉作業所だけでした。しかも、福祉作業所では、殆んどが企業からの下請け作業で、支払われる工賃は1ヶ月3,000円にも満たない額でした。そのうえ、知的障害者にとっての作業所は、「先生と生徒」の域を脱しておらず、働く社会人としての存在からほど遠い職場でした。

 知的障害者にとって、障害があるがゆえに「福祉作業所=下請け作業」という図式の画一的な職場しか働く場がないことには納得ができなかった。そこで、知的障害者の働く場づくりにあたっては、思い切って発想の転換を図ってみることにした。

①知的障害者自身が製造・販売に従事できる独自の製品づくり。

②製造過程が知的障害者にわかりやすく、製品の出来不出来が理解できること。

③製品の販売を通して客の反応が直接得られ、その収入が自分の給料に還元される社会の仕組みが学べること。

④製造販売に関わることによって、働く喜びと社会人としての誇りがもてること。

⑤日常的に地域と融合できる開かれた職場であること。

この5つの要件を満たす職場づくりを目指すことにしました。

 どの様な製品でいくかについて、議論を重ねた結果、「食べ物」以外にないという結論に達した。そこで、彼らのペースで商品化できる食べ物として「クッキー」が最適であるということになり、迷いなく、クッキー製造販売の作業所を創ることになりました。こうして「おかし屋ぱれっと」は、1985年4月にスタートしました。

 当初、世間の声としては、「気持ち悪くて食べられない」「そんなことできるわけがない」「売り物(商品)なんかになるはずがない」ということで、総好かんを食いました。私たちは、「やってみなければわからないじゃないか」「食べてみなければわからないじゃないか」「美味しい美味しくない、売れる売れないはお客様が決めてくれる」「障害者であろうとなかろうと関係がない」と主張し続けてきました。

 新しいタイプの作業所として、注目を集めてスタートした「おかし屋ぱれっと」も25年の実践を積み重ねました。現在、知的障害者の可能性を追求する職場として認められるようになりました。そして、障害者がクッキーやパンを製造する作業所は、全国津図浦々に急激に増え社会に定着した感があります。

○「Restaurant&Bar Palette」:障害者、健常者、外国人がともに働き利益を追求する「株式会社」

 「おかし屋ぱれっと」は目を見張る発展振りであったが、働く場としてはなんとなく不自然さを感じていた。それは、おかし屋ぱれっとには一般の人が一緒に働いていないということでした。つまり、一般企業のように一般の人たちと一緒に働いている職場ではなく、通所員(働いている知的障害者)と彼らを指導する職員との二者の関係で成り立っているのです。このことは、障害者にとっては、やはり特別な場所で、一種の隔離であり、障害者が社会のなかで、当たり前に働いているとは言い切れないのではないか。という新たな疑問が頭をもたげてきました。障害者の一般企業への就労は、障害者雇用促進法に定められている法定雇用率1,8%にはほど遠いというのが現実なので、いっその事、私たちが株式会社を創ろうということになり、1990年4月に資本金3,500万円の「株式会社ぱれっと」を設立しました。「知的障害者の職域を広げ、働く場の選択肢を増やす」そして、「日常的に地域と融合できる開かれた職場であること」に、さらに「一般の人と共に働いて利益を生み出す」ことが加わった職場づくりに挑戦することにしました。

 そして、食べ物志向の延長線でレストランをつくることにして、料理の内容は、日本人が好きなカレーに絞り込んだ。たまたま私が立ち寄った居酒屋で出会ったスリランカ人との会話から、スリランカカレーの専門店でいけるという確信を得た。

 早速、本場のカレーを調理するスリランカ人コック一人を採用するためスリランカへ飛んで行きました。かくして、健常者と障害者と外国人の三者からなるスタッフ構成で、1991年1月、渋谷区恵比寿西に「スリランカレストランぱれっと」を開店しました。あえて、飲食店の大激戦区での競合に挑んだので、不安と悩みを抱えながら、何度も失敗を繰り返し、自問自答しながら20年が過ぎました。この間、1996年8月に42席のスペースから24席の狭い店舗に移転し、店名も「香辛酒房ぱれっと」に改称して新規まき直しを図りました。

 さらに、2003年12月からは、店名をRestaurant&Bar Paletteに変え、メニューにも工夫を凝らし、他店にない特長を生かすように努めています。

 Restaurant&Bar Paletteでは、障害のある人たちがスタッフとして働いているということについての広報や宣伝を一切していません。もし、それをしますと、障害者が働いていることが特別なことになってしまうのです。

 つまり、私たちの店は「障害者が働く店」ではなく、「ごく普通にみんなが共に働く店」であり、それこそ「あたりまえの職場・飲食店」なのです。

○「えびす・ぱれっとホーム」:知的障害者が自立した生活を目指し、地域の中で暮らす家、グループホーム

 「ぱれっと」のミッションは、「就労・暮らし・余暇などの生活場面において障害のある人たちが直面する問題の解決を通して、すべての人々が当たり前に暮らせる社会の実現に寄与することを目的とします」と謳っています。

 1983年に知的障害者と共に余暇活動を行う「たまり場ぱれっと」を立ち上げ、次いで、1985年に働く場を確保しようと、福祉作業所「おかし屋ぱれっと」を創り、1991年には当たり前の職場への就労を実現しようということで、「株式会社ぱれっと」を設立しスリランカカレーのレストランを開店してきた。その次に取り組まないとならない課題が「暮らし」(ホーム)でした。

 障害者を抱える家族にとっての大きな不安・悩みとして、親の高齢化の問題があります。この子だけは、最後まで手元において、しっかり護っていかなければと頑張っていらっしゃる親が、病気や亡くなった場合に、障害者の身の回りのお世話をどうするかという困難な問題に直面します。そこで私たちは、「護る福祉」から「社会に押し出す福祉」という発想で、知的障害者が生まれ育った地域のなかでの継続的な自立生活に対応できる「暮らしの場」をつくることにした。

 それが1993年に開設した「えびす・ぱれっとホーム」です。
①知的障害者を対象としたケアホーム(共同生活介護)
②渋谷区在住の知的障害児・者を対象としたショートステイ(緊急一時保護)の運営を、暮らしの場は安らぎの場であることを基本理念に、共同生活のさまざまな経験を通し、地域のなかでのあたり前の暮らしと自立を目指しています。

○「ぱれっとの家 いこっと」:障害者と健常者が共に暮らす家。良い人間関係のなかで自立して地域に暮らす住まい方の選択肢の一つ。

 これまで、知的障害者の共同生活の場としては、入浴、排泄、食事などのお世話をするスタッフを置く、グループホームやケアホームであった。しかし、少しの支えがあれば、地域で自立する可能性があるのに、親や施設職員が世話を焼きすぎて、自立の機会を奪っているケースがある。また、施設に障害者だけ固まっている社会は不自然ですし、いろいろな人が関わりあうことで生まれる活力は、地域再生にもつながるという思いから、軽度の知的障害のある人と障害のない健常者と一緒に支えあって暮らす共生の家をつくることにしました。

 コレクティブハウス(共生型集合住宅)を参考にして、2010年4月恵比寿に開設しました。家の名は「ぱれっとの家 いこっと」恵比寿駅から徒歩8分、3階建て、居室数8室です。次のようなミッションを掲げました。

~障害のある人もない人も安心して暮らせる家をつくる~
①障害のある人も、自分の力で暮らせる家です
②一人ひとりが個室を持ち、共用のキッチンとリビングがあります
③入居者同士のコミュニケーションを大切にし、自分たちで住まい方をつくっていく家です

2010年4月19日の朝日新聞夕刊に「いこっと」が掲載されました。

○「ぱれっとインターナショナル・ジャパン」:国際交流、国際協力、国際支援活動の場

 福祉の分野に限らず、社会的、文化的な側面からも、異なる国を見ることにより、視野を広げることを目的とした国際交流プログラムを行っています。

 1999年には、スリランカにPaletteを設立し、現地の障害者の就労支援活動を10年間実施しました。

以上が、あっという間に28年間が過ぎた「ぱれっと」の活動実践報告です。

 すべての人が当たり前に暮らせる社会の実現には、市民の力と企業、行政との協働、さらに教育者が加わることが、いかに重要であるかを痛感しています。また、シニアの力(知識、経験、専門性、考え方、豊かな人間性など)に支えられる面が大きいということを実感しています。

■第2部―参加者からの主な意見と質疑応答―

質問(榎本さん):川崎市認知症ネットワークの構成が、ハートマークのネットワーク所属、ダイヤマークの会友、ネットワーク活動となっていますが、その関係について。

柿沼:ネットワーク所属は会費を納入する会員で、活動はそれぞれの地域密着型です。会友は会費はなしで、直接の具体的な活動での結びつきというより、講演会、研修会などでの講師派遣やメンバー同志の相互参加交流ということでの結びつきが主です。5つのネットワーク活動は私どもが直接つくった活動です。それで、会員、会友は、それぞれ独自の活動をしながら5つのネットワーク活動にも参加するという2重構造になっています。

質問(榎本さん):東京おもちゃ美術館の入館者の状況について。

多田:開館初年度はご祝儀相場的な面があって約10万人、2年度は約8万5千人、今年は3年目になりますが、今のところ2年目と同じくらい、つまり8万5千人くらいのペースで推移しています。入館者の顔ぶれですが、子どもと大人の割合は半々というところです。大人だけのグループや保護者が引率しながらですが障害者グループの方たちも来館されています。また、来館者を地域別に見てみると、新宿区在住の方が23%で、約70%の方たちは東京都以外の全国各地から満遍なく、北は北海道から南は沖縄までという状況です。

質問(片田さん):多田さんにお尋ねします。アクティビティ ディレクターやインストラクターを受講される方たちはどの様な方たちなのか、また、受講して資格を取得した後の活動の場はどういうところなのか。

多田:現在、アクティビティディレクターの資格取得者は約500人います。主に、介護福祉士、作業療法士、看護師といった医療、福祉関係の専門職で、特別養護老人ホーム、老人保健施設、デイサービスセンターなどに所属されている方々が約70%を占めています。その他は、この分野に対する高い意識をお持ちのボランティアの方ですね。

 最近の特徴として、アクティビディレクターに対する有料老人ホームからの問い合わせや紹介要請が増えています。従来は、ホテル並みの豪華さと快適なサービスが売りだったと思いますが、今後は、入居者のQOL向上にも力を入れなければ入居者のニーズに応えられないという傾向が強くなってきているようです。

 それから、私どもでは、近く、アクティビティディレクターより上位の資格者であるアクティビティプロデューサーを約1,000人養成し、全国に配置したいという目標を持っています。

感想(伊藤さん):NPO日本写真療法家協会の副理事長をしています。アートセラピーのなかの一つですがフォートセラピーという比較的新しい分野です。
 難病治療中の子ども、障害児・者、認知症を始め要介護高齢者の方々のお宅や施設を訪問して、デジタルカメラで好きな事物を撮り、プリントし、アルバム(作品)にして、さらに、気持ちを書き込んで、お父さんお母さん、孫たちにプレゼントする。この一連の過程を通してみせる「笑顔」「目の輝き」に、逆に私たちが癒される感じです。このところ、テレビ、新聞等でも採り上げてもらい、世間に知られるようになってきています。

 三人の方のお話を聴いて、思いは一緒だし、どこかで通じている、やはり同じだという感を強くしました。写真が好きで、写真の楽しみ(撮る、撮られる、みる、みせる、加工するという5つの楽しみ)をお手伝いする活動です。折角の機会ですので、ご案内させていただきました。

感想(谷口さん):お写真のことでいいますと「ぱれっと」では、一人の女性スタッフが、セラピーということではなく、ひたすら障害者の人物写真を撮り続け、大変名誉なことですが、昨年度の「土門拳文化賞」を受賞しました。次は、写真を通して、「ぱれっと」における障害者の生活写真集を出したいと思っています。

感想(伊藤さん):私どもでも、ホスピス病院で、ある患者さんの最期の写真をお取りして、大変喜ばれ、感謝されました。あらためて、「写真の持つ力」というものを再認識させられました。

質問(榎本さん):柿沼さん、多田さん、谷口さんに、それぞれの活動を通して、特に、行政との関係についてお尋ねします。

柿沼:認知症に関しては、いろいろな活動が強い家族のニーズをベースに起こっているという背景がありますので、行政はどちらかというと、後追いで進んできたように思います。しかし、川崎市については、私達の声をしっかり受け止めてくれて、「どの様なことでも、皆さんの抱える課題や声を届けて欲しい」という好意的な姿勢が一貫していて、実態調査、徘徊支援などで具体的なサービスや支援を得てきています。

 それにしても、制度・システムの改変に行政抜きはありえないわけですので、私たちも強い思いと要望だけを行政にぶつけるだけでなく、市民としてやるべきことはやるという努力の姿勢がないといけないと思います。行政とは、協力と協働による信頼関係の基盤をつくることが必要であるということを痛感しています。

多田:今の仕事を始めた当初は、何が何でも自分で頑張らないという思いが強かったのですが、いろいろなことを経験するなかで、行政を始め専門家、諸団体、市民の方たちと一緒に力を合わせながら事業や活動を進めていかないといけないと思うようになりました。

 行政との関係では、三鷹市、杉並区、中野区、新宿区などを訪ね、休眠している公共施設があったらおもちゃ美術館を設けませんか、という案内を積極的に展開してきました。東京おもちゃ美術館は、この活動の延長線上で、運良く、たまたま、新宿区との間で実現に至ったケースです。

 しかし、これだけは守りたいことは、公的支援は50%以下に抑えるということです。つまり、公的支援が50%を超えると市民団体ではないと思うからです。

 最近、NPOの仲間たちのなかには、補助金・助成金の切れ目が縁の切れ目になっているケースが多く発生しています。この悪循環を断ち切るためには、行政とは常に対等な関係を保ちながらも、一方では、自主財源もしっかり確保していかないといけないし、行政の単なる下請け的な立場に甘んじることのないように踏ん張らないといけないと思います。

谷口:私がこの世界に身を投じた当時の福祉は、とにかくお上からお金を貰うことしか考えなかった。しかし、私は納得ができませんでした。制度としての補助金や助成金というお金は貰うけれども、それだけではないんじゃないないのか、たとえ障害があっても、働きたい人は働く自分達も一人の市民として当たり前の自立した生活をするという意識を持たないといけないのではないか。

 障害があるから、お上からお金を貰って護られて生活するという考えよりも、障害者やその家族、共に暮らす市民の自立を促す活動を展開しなければと思いました。発想の転換が必要だと。それで、行政に相談しても埒が明かないときは、必要なことは、とにかくやらなければということで突っ走るしかない。渋谷区には、とにかく私達のやることをよく観察していてください、うまくいったら認めてくださいということを、首尾一貫、主張してきました。

 渋谷区側にも、だんだん理解されるようになってまいりまして、今年4月に開設した「ぱれっとの家 いこっと」のことでは、感動的な対応を受けました。

 報告と紹介がてら渋谷区長にお話をしましたところ、「障害者だけが入居するグループホームではなく、健常者がひとりでも同居するとなると制度の対象外になりますので補助金は出ません」というお話の後、間髪をいれず福祉課長を呼んで「備品の寄付をしたいので手配をするように」と指示されました。早速約200万円余の備品のご寄付をいただきました。そのうえ、区長の発案で「入居者のなかには、家賃が払えないような障害者もいらっしゃるでしょうから、そのような方々に対する家賃補助をしましょう」というご提案をいただき、実施されることになりました。最近では、「ぱれっと」が一連の障害者関係施設・団体活動、事業のモデルケースとして注目され、特に、知的障害者関連団体の活性化につながっているようです。最後に申し上げたいことは、行政に補助金や助成金を出せという前に、自分たち自身が自立のための努力の姿勢と結果を示すことではないでしょうか。企業に対しても同じだと思います。

コーディネーターのコメント:福祉、NPO、ボランティア他、市民活動・事業推進と行政との関係についての議論ですが、本日のメインテーマの感がします。何か社会的課題に対する活動や事業を展開しようとするとき、同じ思いの人たちや地域住民、市民一人一人、いわゆる人のつながり、連帯、団結を訴えますが、社会を構成しているのは「人」だけではありません。行政機関をはじめ、いろいろな団体、施設、学校、企業の存在、そして、自然があります。

 多くの人がつながり、連帯、協同することはもとより、行政や企業との連携というつながりが不可欠です。特に行政との関係を考えるとき、行政に対しては、単に補助金や助成金を要求する対象と割り切った考えではなく、三人の各パネラーのお話から明らかですが、自分たち自身が、一人一人自立を自覚し、自助努力をすることからスタートし、行政とは対等、信頼をベースに協同・協働することで、共に新しい世界を創り上げる、という謙虚な姿勢が必要でしょうね。このスタンスなくして、市民社会や新しい公共はないと思います。非常に内容のある質問とお話でした。

質問(関場さん):私は、毎週、近くの小学校へ行って、放課後、主に、2~4年生の学童ですが、ゲーム中心の遊び相手のボランティア活動をしています。補助者として、20歳代の若者同行する日と80歳代の高齢者が同行する日とあります。そこで、子どもたちとの遊びを通して感じることですが、子ども達は20台の若者のより、お年寄りのところへ寄っていくんですね。交わされる会話のやり取りを聞いていると、「おじいさん 臭い」「鼻毛 のびてる」・・・。

 子どもたちは、いいたいことを勝手に言っている。子どもたちは、お年寄りからいろいろな話を聞いて喜んでいるし、お年よりは子どもたち相手に生き生きしているし、ほほえましく、安心してみてられるし、とってもいい関係ですね。

 最近の家族構成の特徴として、三世代家族が極端に減少しつつあって、日ごろ、おじいちゃん、おばあちゃんといったお年寄りとふれ合う機会のない子どもたち、一方、孫や子どもたちとの交流がない一人暮らしや夫婦二人暮しのお年寄りが増えています。

 そこで、三人のパネラーから、日ごろの活動を通して、子どもとお年寄りのふれ合いについて、話題になるようなことでもあればお聞きかせ下さい。

柿沼:私の母は、92歳で、認知症です。私の3歳になる孫(92歳の母にとってはひ孫になります)が、生後、初めて入浴させたときのことをお話します。

 私も娘も母には入浴のお手伝いをお願いしたわけではなかったのですが、「ハイ ベビーバス、ハイ バスタオル」という具合に、昔取った杵柄でしょうか、それはもう、てきぱきと動き、普段見たことのないような生き生きした表情でした。現在、92歳の母と3歳のひ孫との関係は、お互いにぴったり寄り添う関係が続いています。

 これは、あるスーパーでの出来事です。認知症のお年寄りの方が、2~3歳の可愛いお子さんに出会い「可愛いね」と言いながら頭を撫でようとしたら、そばにいたお母さんから「触らないで下さい」と一喝されました。

 また、認知症キャラバン活動の展開ということで、中学校にもキャラバンを設けることができました。参加した子どもたちの殆んどは、おじいちゃん、おばあちゃんと同居している子供たちでした。核家族の若いお母さん方の意識改革を痛感しています。

多田:以前、小学校で「プールと海のどちらで泳ぎたいか」という設問のアンケート調査を行ったことがありますが、90%はプールでした。理由は、海はべとべとするし、足の裏に粒粒がくっつくし、たわいないことです。最近の子どもたちは、裸の自然とふれ合うことが少ないため、自然に対するアレルギー反応を示す子どもが多いように思います。

 同じようなこととして、乳幼児の頃からお年寄りとのふれあい、交流がない状態で育ってきた子どもは、お年寄りに対するアレルギー反応を示すようになるのではないだろうか。

 私どもでは、乳幼児から児童、生徒、学生までの子どもたちとお年より・高齢者との交流の大切さを主張し、訴えながら活動を展開してきています。その一つに、全国の老人ホームにおもちゃ美術館の姉妹館をつくる活動を、15年前から展開してきています。近所のお母さんたちが子どもを連れて老人ホームへ行きたくなるような、魅力のある「〇〇老人ホームおもちゃ美術館」をいっぱいつくることによって、お年寄りと子どもたちのふれ合う場と機会が増えることは意味があるし、お年寄りと子どもの強い関係性を育むことにつながると確信していました。実際に、お母さんに抱かれた赤ちゃんが老人ホームにできたおもちゃ美術館へ遊びに来るようになると、お年寄りとのふれあいも多くなり確実にお年寄りが変わっていく情景に遭遇しました。特徴的な変わりようには、3つあって、①笑顔と会話が増える、②ベットから起き上がろうとする、③赤ちゃんに何かをしてあげたくなるようです。

谷口:私が、かつて、アメリカのニューハンプシャー州を視察したとき、ある若夫婦の家を訪問しました。就学前のお子さん2人と女性で70歳くらいのご老人、お年寄りの方がご一緒にお住まいでした。

 当時、ニューハンプシャー州は、大型施設に入所していた知的障害者約1,200人が、施設を出て地域に戻り、普通の一市民として生きる誇りを獲得した、いわゆる、施設福祉から地域福祉への幕開けの口火を切った州だったのです。

 実は、ご一緒にお住まいのお年寄りの方は、施設を出てきた、知的に障害をお持ちのご老人だったのです。つまり、若夫婦家族が手を上げて、「どーぞ、我が家へいらっしゃいませんか ご一緒に暮らしましょう」と受け入れたわけですね。それには2つの思いがあったのです。①一戸建ての賃貸住宅でしたので、家賃の3分の1か半分くらいを負担していただく、その代わりお年寄りの世話をする、②子どもにとって、お年寄りとのふれあい関係は大切なので、必要な家族のメンバーとしてお迎えしたい、というものでした。

 その暮らしぶりは、実際の家族のように、とても打ち解けた雰囲気に包まれていました。人間の暮らしのなかでの「お年寄りと子どものいい関係」「ごく、自然な家族の姿」に触れ、爽やかでした。本日のテーマの「障がいも年齢も越えて支えあう・・」にぴったりのケースとして紹介させていただきました。

感想(吉田さん(高連協専務理事)):はじめに、第5分科会の話はフォーラム参加者全員、さらに、多くの市民の方々にも聞いて欲しかったと、つくづく感じました。

第五分科会会場写真2

 わが国における市民活動のリーダー的存在である、3人のパネラーから、社会的なすべての課題とその答えは現場にあるというスタンスで、先駆的、創造的な迫力と魅力に満ちたお話でした。

 第5分科会の内容は、来年度の構想と企画に大変示唆を与えてくれました。つまり、基調講演・報告、分科会形式のシンポジュウム・討論会といったお堅い内容のものばかりではなく、現場の空気を肌で感じられるような、イベント的なものを入れて、2日間くらいの時間をかけて開催してはどうかと考えているところです。たとえば、参加者も完全公開の自由参加にして、ご家族そろってお出かけいただき、時のテーマのお話のほかに、たとえば、このコーナーでは「ぱれっとのクッキーを食べながら、つくっているお姉さんのお話を聞く」、こちらのブースでは「匠がつくった、木のぬくもりを感じるおもちゃで遊ぶ」、こちらの舞台では「認知症は病気なの、みんなで支えていこうよという演劇を観る」といった具合に、会場を出るときにはいろいろなことを肌で感じ、吸収して帰っていただく、というのはいかがでしょうかね。

 来年に向けて、この事業をさらに充実したものにしたいので、皆様の更なるご支援をお願い申し上げます。

コーディネーター:主催者である高連協の吉田専務理事より分科会の締めくくりに相応しい感想と来年につながるような提案をいただきました。これにて、第5分科会を閉会します