基調講演「高齢社会フォーラム・イン東京」

「震災を超えて生きる 高齢者と支援」

樋口 恵子
高齢社会NGO連絡協議会共同代表
高齢社会をよくする女性の会理事長

樋口氏

― はじめに

被災地の亡くなられた方々のご冥福を祈り、今日もこの暑さの中で汗みどろで悪戦苦闘していらっしゃる皆様方に心からの応援を送りたいと思っています。

さて、このテーマは、震災に遭ってもどっこい生きているということです。私は今日、2つのことをお話ししたいと思っています。この震災は否応なく新しい時代が拓かれていく1つのきっかけになるであろうし、それがよりよい時代にならなかったら、死者・行方不明2万人近い方々、特にその大半を占める高齢者の方々の御霊に対して申しわけないことだと思っています。1000年に一度か二度の震災か分かりませんが、そういう災害に出遭った私たちは、折しも人類史上はじまって以来の長寿にいま巡り合わせています。

1000年に一度の災害、未曽有の災害に遭った私たちは、未曽有の長寿を手にしたはじめの世代として、未曽有の努力をして新たな地平を切り拓きたい。高齢者は若い方に比べれば残る余命は短いのです。それだけに、残る人生を心からそのことに捧げていきたいと私もあらためて決意したわけですが、実は私、がらにもなく、3週間ぐらい震災鬱(うつ)になってしまったのです。いつも躁(そう)みたいな状況の樋口だから「鬱になったよ」と言っても誰も信じてくれないのですが、3週間ぐらいそんな状態でした。

いろいろ考えるところがありました。前半は、命を見直す、命からの出発ということでお話ししたいと思います。

― 命への感謝と命からの出発

災害に遭った地域の平均的な高齢者比率は30%そこそこです。にもかかわらず、亡くなった人の5割は65歳以上でした。高齢者は決して弱者ではないという話をこれからしますが、しかし、その数だけ見るならば高齢者は明らかに災害弱者です。

そのことに心をいためると同時に、特に初期の頃たくさんあった報道の中で、高齢者施設が流されて、流される高齢者を必死に守ろうとして20代、30代、ときには10代の若い介護職員が一緒に流されて、先行きの長い命を失った。そんなニュースに私は胸がつぶれてしまいました。

1人1人の命は誰と掛け替えてよいというものではないけれども、しかし、人生100年のかなりのところまで生きてきた人と、これから長い長い60年、70年の春秋(しゅんじゅう)を残す立場の人。その人が高齢者を助けるために命を失ったということを、私たち高齢者として心から感謝するし、申しわけないと思うし、では高齢者の命そのものをどう受け止めたらいいのか。しばしそんなことで憂鬱になってしまったのです。

濡れしぼれたような形でそのまま避難所に運ばれてきた、高齢の女性がいました。阪神淡路大震災のときは報道もわりと無神経だったので私はよく覚えているのですが、瓦礫の中から1人の老女が救い出されてきた。十分、息はある。そこへまた同じ瓦礫の中からもう1人2人が運び出されてきた。若い家族で、1人は幼い孫である。その息はなかったというときに、周りにいた近所の人でしょう、「代わってやればよかったのにね」と言ったのだそうです。

言いそうなセリフでなんとはしたないセリフかと思うけれども、実は1人1人の心の中に、周りで見ている人の心の中に、90近い人が助かって10ぐらいの孫がつぶれて出てきたといったら「代わってやればよかったのに」と言いたくなる気持ちも分かる。と同時に、何よりも老いたる祖母か曾祖母の側に意識があったら、自分自身がいちばん心からそう願っていたのではないか。あるいは彼女はおそらくそれからの人生を、「代わってやればよかったのに」という、耳元に鳴り響く言葉と自分の胸のうちから反響しあう言葉と、この2つに苛(さいな)まれながら生きるのではないかと思ったのです。

それとは場面が違いますが、近頃の人はみんな慎ましくなって、言っていいことと悪いことを知っているから、今回、助け出された老女に向かって「お孫さんと代わってやればよかったのに」なんてはしたないことは言いません。言わないけれども、本人がいちばん思っているのではないかと思ったら、では私が現場に行ってその人を同世代として慰め励ます言葉はどういう言葉がありうるだろうか。

人は行為によってもその人の思いを伝えます。しかし、何よりも言葉というものを持って、言葉によって大部分の歴史を伝え大部分のコミュニケーションを図っている人間として、やはり私はそこにいる、生きる望みも失ったかのような同世代を励ます言葉を持たねばならないと思いました。

私は口が達者だから、挨拶も上手ということになっているのです。しかし、この場合、どういう挨拶をしていいか思いあぐねました。一般的には「助かってよかったですね」なのかもしれないけれども、そんなことを言った途端に、その人に言える能力があれば、「よくなんかございませんでしたよ。嫁も流されました。孫も流されました。せめてその1人と代わってやれば。私も88でございますから」と言われてしまったら、どう答えたらいいのか。

私は今回ほど、高齢者の命というものを考えたことはありません。これは一方で、災害に弱く、死んだ命の過半数が高齢者であったことを世の中全体としてどう考えたらいいのだろうかということもあったし、流された幼い若い命に対して助けられた私たちの仲間にどういう言葉があるのかということもありました。「基本的にはその命への感謝かな」。でも、私はやっぱり理屈っぽいのです。「命への感謝と、その後の命への平安への祈りかな」。こんなことまで考えていたのです。

そうしたある日、1つの非常に具体的な挨拶言葉が、かすかな細いお声で私の耳に飛び込んできました。天皇・皇后両陛下の被災地お見舞いでの皇后のお言葉です。ほんとうに細い言葉ですが、私は聞き取ることができたし、その後の新聞報道でも載せて活字化したところもあるので、お気づきの方もあったかと思います。

よれよれの年老いた女性に向かって、家族は助かっているのかどうかは分かりませんが、皇后が言われたお言葉は「助かってくださってありがとうございました」。これでした。「いやあ、これっきゃないな」「やっぱりあのお方は偉い」と思って尊敬し直しました。

私が「祈りと感謝かな」という言葉しか考えつかないとき、その人に呼びかけるなまの言葉は「助かってよかったですね」ではないのです。「助かってくださってありがとうございました」。90であろうと100であろうと7歳であろうと、いまここに助かってある命そのものへのまったき受容と心からの感謝。命そのものへの感謝と、あえていうならばその残りの命の平安への祈りとともに私たちはその命を支えていく、サポートする活動への誓い。それしかないなと思って、あのお方の「助かってくださってありがとうございました」はなんという素晴らしい言葉だろうと思いました。

私どもの会の会員の中にも被災した人がいらっしゃいます。親戚が避難所で暮らしている人もいらっしゃいます。もし機会があれば、私たちは心から「助かってくださってありがとうございました」。いくつになろうと命の価値には変わりはない。そして、残り少ない人生であればあるほど、残る人生の平安を私たちは高齢者同士であるからこそ支えていかなければと思っているしだいです。

震災孤児に対しては、いち早く救いの手が伸べられました。こういう活動ができるかどうか私は分からないし、よけいなお世話になるかもしれないから変な手出しにならないように注意しながら始めていきたいと思っていますが、震災孤児がいるからには震災・津波孤老(ころう)は実はもっといるはずなのです。高齢化の進んだ地域です。

頼りにする嫁も流されてという方の言葉はテレビでも聞きました。嫁を流され、息子を流され、ときには孫まで流され、あの地域は親戚が多いので天涯孤独ということはないでしょうが、残り少ない人生を頼りの子や孫に死なれてという方もあるだろうと思います。そんなとき、子どものほうにはすぐ目がいくのですが、津波孤老に対して何らかの励ましをする。人が生きる支えを持つのは何だろうと思うと、「あなたを見守っていますよ」というまなざしと言葉。それによって私たちは生きる。まさに動けなくなっても生きがいを感じることができ、そのようなことに対してまた「ありがとうよ」と言葉を向けることで、人とのつながりを実感していくのではないかと思います。

ある意味で大津波は戦争にも似ています。逆に、人を恨むことがあまりできないぶんだけ津波のほうがつらいのです。いま私たちが介護保険という名前で手にしているさまざまなサービスの中で、ホームヘルプサービス――その人がその家でずっと暮らせるように家庭のさまざま家事、生活、身体の介護を行なうことの出発点は、実は津波以上に大勢の若者を奪っていった第二次世界大戦がきっかけで始まったということを思い起こします。

あれは昭和31年、長野県においてです。長野県はなかなか先進的なことをやっています。もちろん国と相談していたのでしょうが、長野県でモデル事業として家庭奉仕員制度が始まりました。これが日本の場合のホームヘルパーの先駆けです。ホームヘルパーという言葉はありませんでした。家庭奉仕員という言葉で県の予算化がされました。

何のためにかというと、昭和31年という年を思ってください。戦争で大勢の息子を取られた。嫁も実家に帰ってしまった。戦争で息子たちが亡くなった人たちの年ごろが60前後だったとすると、敗戦後10年を経て、当時、70ともなれば足腰が不自由になっていてもあまり不思議はない。特に激しい激しい農作業で、農機具もなく腰を曲げて力づくで大地に働きかける。そのような労働に従事した方々が70ともなれば足腰が立たなくなってくる。その人たちの家庭生活を自宅で支えるためにできたのが無償の家庭奉仕員制度です。そして「まあまあいいや」ということになって、翌年、昭和32年には国の制度として家庭奉仕員制度が出発しました。それから転機を迎えたのは1989年のゴールドプランです。そのときはホームヘルパーがしっかり行政用語になっていました。

日本の家庭奉仕員制度の歴史をひもとくとき、人為的な大災害というべき、大勢の若い人々を奪っていった戦争で残された高齢者に対してあの時代の日本の政府は配慮を失わなかったということは、私は当時、大学生でそんなことは何も知りませんでしたが、日本人のいいところだったなとつくづく思います。

津波の災害孤児を絶対助けよう。これは当たり前のことです。彼らは日本の未来です。と同時に、日本の現在なり過去を築いてきた人々を津波によって孤独な思いをさせないように支えていく。戦争のあとでさえそれだけのことをしたのだから、介護保険制度に基づき、あるいはそれだけではできない部分を共助として、地域の中で災害孤老といわれるような方々があったら地域で支えていく。命から出発する。いまある命への感謝と生涯にわたる平安の祈りと支えをわれわれの活動の1つとしたい。少なくとも高連協(高齢社会NGO連絡協議会)ネットワークの1つである高齢社会をよくする女性の会は、お邪魔にならない程度にそのような目配りをしていこうと話し合っているところです。

私はテレビで見て同年輩の皇后陛下にすっかり勇気づけられて、震災鬱も3週間で治りました。そしてまたこうしてだんだん元気になってまいりました。

ただ、まだやはり命に対しての疑問は残っています。皆さん、どう答えますか。ではどうして死者が高齢者に多かったのかということがあります。

つい最近、私は釜石の被災状況を調査するグループに組み込まれて行ってきました。現地に行かなければ分からない、いろいろなことがあります。岩手県全体だったら被害者はいたのでしょうが、私たちが行った人口3万ほどの釜石市では、小中学校の児童・生徒の死亡者が1人もいなかった。これはすごいです。

釜石はラグビーの新日鉄で有名ですが、工場があるのは海っぺりです。たいして高くもない5、6メートルの防潮堤があり、防潮堤に沿って道があり、道のこちら方が小学校の校舎でした。そこを中心に見ていったのですが、体育館は骨だけです。そのようなところで1人の死者も出ていないのです。

あの町は群馬県の防災の先生と提携して、ずっと防災教育をしていました。1カ月ぐらい前にもすごい地震があって、裏山にみんなで逃げたそうです。そのときは津波は来なかったそうですが、ある意味でその"予行演習"がよかったと言っていました。そのとき低学年にわんわん泣く子どもがいて、声が大きくて有名な先生が「泣くな。地震は泣くものじゃない。逃げるものだ」と言ったのだそうです。

そうしたら今度の地震のとき、わんわん泣いた低学年の女の子は1人として泣かず、隣の子どもの手を握りしめて目をしっかりと前方に向けて全速力で走っていった。むしろ高学年の5、6年生の女の子が声もたてず涙を流し続ける。高学年になると恐怖で泣くよりは残された弟妹や父母を思って泣いていたのではないかというのですが、声もたてずに涙を流し続けながら、しかし、前方に向かって必死で走って行った。そして1人も被害者はいないのです。

そこで語られたことがテレビや新聞にも出ていますが、「てんでんこ」という言葉です。てんでんことは、地震や津波に遭ったら人のことを構うな。人を構っていて死んでしまった人がいっぱいいます。私は犬と猫が大好きだからいちばん気の毒だったのは、50代ぐらいのおやじさんが、みんなで車で逃げたのに「あっ、犬を忘れてきた」と取りに行って犬と一緒に流されてしまった。ほんとうに何と言ったらいいでしょう。てんでんこなのです。てんでんこだから釜石市において1人の児童・生徒も犠牲にならなかった。そのとおりなのです。

でも、そのあとで、一緒に行った研究所の若いスタッフの1人が言ったのです。地元の人にはてんでんこの歴史は言いません。一生懸命にしてくださっている先生にわるいじゃないですか。「てんでんこというのは、障がい者や足腰立たない年寄りを見捨てていく言葉だという批判が一方であるんですよね」とつぶやくように言ったのです。私はそれに答える言葉がなくて、でも、何か答えなければいけない。あちらはスタッフ、こちらは研究グループの側だったからひと言ぐらい言わなければいけないと思って、「うーん、私もいい考えは浮かばないけれども、要するに高齢者や障がい者や逃げるに不便と思っている人たちの住まいや施設は、安全な場所へつくっておくよりしょうがないのではないかな」

ついでに悪口を言わせてもらうと、東京都大田区には、防潮堤の外側につくった老健施設が1つ、特別養護老人ホームが1つあります。両方合わせてたしか200名か400名だったと思います。防潮堤の向こうです。本来、工場は建てうるけれども、個人の住宅は建ててはいけない指定の地域です。しかし、建ってしまった。

その頃、共同通信が取材して記事にして、私はコメントを述べています。防潮堤は津波避難指示が出ると閉じられてしまうのです。その場合に工場で働いている人々は、それこそてんでんこに自家用車か会社のマイクロバスに乗って安全地域に行くわけです。「施設も4階建てか5階建ての大規模施設の全員を避難させるとおっしゃっているようですが、この機会に日本中の高齢者の集団居住の場がどのようなところへつくられているのかということも、もう一度、見直してほしいと思います」。これもつらいことだし、よく言われることです。その記事が、共同通信ダネだったから東京新聞にはかなり大きく出たのです。にもかかわらず、「そんな危険なところならば」といって引き取りに来る家族は1人もいなかったそうです。

このあたりをどうしたらいいだろう。高齢者の住む安全な場所をどんなふうにつくったらいいだろう。若い人たちが、それでは生活も不便だし、1000年にいっぺんが来たのだからもうしばらく来ないだろうと思って、また元のところに住まいを建てるとか建てないとか言っているでしょう。みんなが高台に来てくれればいちばんいいのですが、高台は限りがあるし、山をつぶすとなったら時間がかかります。そうなったとき、高齢者と若い人は分かれて住むのか。

私が願う地域包括ケアの町づくりは、人生100年、世代間4世代。家族でなくても、その地域の中では、幼い人の産声も100歳の人の声もさまざまな世代の声が聞こえる、4世代交流の町づくりを目指したいと思っています。

そうなったとき、災害に弱い高齢者の命をどう考えたらいいのか。このへんは実はまだ私は結論がついていません。鬱は治ったけれども、まだ頭の中は混乱で渦をまいています。これはしょうがない。人類はじまって以来というものが2つ重なってしまったのだから。

人類はじまって以来、寿命が長いのです。ハーバードの研究者によれば、先進国の私たちがこの5、60年で伸ばした寿命は、その前、人類が5000年かかってちょぼちょぼちょぼちょぼと伸ばしてきた寿命の長さである。5000年といったらピラミッドの先です。戦後、平和で豊かだったから先進国の寿命は伸びたのですが、この5、60年で人生50年から人生80年、90年となり、このごろは人生100年とも言える時代になってしまったのです。

人類初体験の長寿。そこへ、少なくとも日本国にとっては前代未聞と言える大きな災害。古来稀れというか初体験が2つ重なってしまったのだから、はっきり割り切れてしまったらおかしいです。

時代から突きつけられた、そして自然から突きつけられたこのテーマをもとに、平和を保ち豊かさをつくり、人間のなしうる行為の中で最もよい行為の結果として獲得した長寿社会の中で、私たちはそれをどのように解決していくか。時代からの大きな宿題としていろいろな角度からぽつりぽつりとでもやっていくのが、わが高連協。堀田力先生を先頭に私も末尾からくっついて、残る人生を頑張りたいと思っています。

これが、命を見つめ直し、いまある命への感謝から出発するというところです。

― 災害を通して得た新生と創造

もう1つは、サブタイトルをあえてつければ、「創造、新生へのチャンスとして」。ピンチはチャンスと言われます。ただのピンチと言っては申しわけない大災害でしたが、まさに新しく生まれる、創造していく。復興という言葉では物足りない。この21世紀にふさわしい「新しく生まれる」「創造する」「新生」「創造」のための手がかりを、私たちはたくさん得たような気がします。

1つは、最初の内閣府のご挨拶にもありましたし、堀田先生も詳しくご説明なさったことです。半数以上の死者が高齢者なので弱者だということも一面で証明されるのですが、そのように一義的に位置づけてはいけないことがはっきりしたのも今回の災害だったと思います。

私どもは小さな団体ですが、全国いたるところにグループ会員が100近くあり、常時、それこそてんでんこに地域の実情に応じて活動をやっています。震災のその日から有線電話はみんなぶっ壊れてしまって通じませんでしたが、私どもも一生懸命に連絡を取りました。

今日、分科会でお話しいただくわれらが誇る「あかねグループ」は、給食サービスと介護保険におけるデイサービスその他を行なっているグループです。1年365日のうち362日、1日1回、150人ぐらいに配食しています。もちろん対価はもらっているようです。何で362日かというと、3日は三が日だそうです。三が日は餅でも食べていてくれということなのではないかと思うのですが、とにかく362日、1日1食を配食するのは大変なことです。

仙台市のあかねグループは、今度の災害で休んだのはたった1日だけだそうです。夕方、食事を配るわけです。だからあの日の午後2時46分、弁当も仕上がって配送していく準備をして弁当を積み上げたところへ地震が来て、スタッフは崩れて落ちてくる弁当を体でかばったそうです。それでもいくつか駄目になったそうですが、体でかばった弁当をその日のうちにとにかく配り終わったのです。

翌日からはどうしたか。厨房は若林区です。波はかぶらなかったけれども、すごい被害を受けたところです。ライフラインは全部ストップしています。水は井戸水を使ったのでしょうか。これもあとの分科会でよく聞いてみましょう。とにかくガスも電気もストップしているわけですが、このへんが高齢者の知恵なのです。一斗缶をのこぎりで引いて、そこへ燃し木をくべてご飯を炊いてしまった。これこそ70代の出番です。

この会はもちろん若い方もいらっしゃいますが、いま90を過ぎた、私の少し先輩の創立当時からの責任者である福永さんがいます。引退をしていますが、まだまだお元気です。高齢社会をよくする女性の会の創立とあかねグループの創立がほとんど重なっていて、福永さんが主催して、高齢社会をよくする女性の会・みちのく大会を仙台で開きました。仙台は大変思い出の深いところです。

その頃、男性も地域のケア社会づくりに参加しようという声がようやく起こってきて、その声のリーダー役が堀田力先生だったのです。その頃は、ワーッと拍手をする人と、ネクタイをしめた男の人がボランティアで来てくれて何ができるのかという反対の声もありました。渦中の人を連れてくるのが私たちはうまいものだから、堀田先生にいらしていただいて、これからの地域はどういう人たちがどう支えるのか、かなり熱のこもった討論になりました。そのときはNHKの古屋アナウンサーが司会をしてくれて、たしか放送されました。そのとき以来の、あえていえば戦友です。

その会が始めた給食グループが、それから年を経て後継者が続々と現れて、後継者もまた年老い、年老いても元気で次の若い世代を育てながら、震度7の地震と津波で若林区の多くが浸かる中を、たった1日しか休まず、一人暮らしの高齢者などの家への配達食の確保と安全の確保を行なっているわけです。

このような例は全国各地にあります。この前の中越大震災のときにも、私たちのグループの長岡老いを考える会が負けず劣らず活躍しました。そもそも代表は私と同じ年なので70も最後という年齢で、地震に遭ったときも70を優に超えていました。仙台よりももっと地方なので、大抵の人が三世代同居です。息子と娘は学校の先生で共働きだから、小学校の中学年の孫たちを座席に放り込み、そして一人暮らしのご家庭の安否確認に行った。がたがた揺れても余震で揺れたのか運転が下手で揺れたのか分からないという中で長岡市内をくまなく走り回ったのも、祖母という世代の女たちでした。

いま長岡のこの女性たちは、自分たちの経験を生かしてささやかでもそのようなネットワークができたらと、震災を支える女性ネットワークを呼びかけています。私も発起人の1人でしたが、6月11日には学術会議の講堂において入りきれないほどの全国各地からの女性リーダーが集まって、震災を支えていく女性の全国ネットワークの大会が行なわれました。これはテレビなどでご覧になった方もあったかもしれません。

そのようなところで主導的な役割を果たしているのは、若い現役の方々もいらっしゃいますが、大体、私の友人たちがやっています。70代に入っている、言ってみれば高齢者です。女も弱者といわれ、年寄りも弱者といわれ、両方重なった高齢女性が結構働いています。

また、新しい場面も見せてくれました。災害地に行った複数の方から聞いたことです。おむすびなどが送られてくる中で、必ずお年を召した方から「材料を運んでくれたら私たちでつくるのに」という声があった。その声に応えてかどうか分かりませんが、地域の中に半製品の食事が送られてきたそうです。

たまたまあるデイサービスセンターの職員と利用者が、1つのグループを形成して避難所にいました。デイサービスにいるとどうしても「サービスを受けるお年寄り」「お風呂に入れてもらうお年寄り」「ご飯を食べさせてもらうお年寄り」「プログラムを組んでもらうお年寄り」で、職員の側は「そのようなケアをする職員」で、サービスの提供側と受ける側とが截然と切られていたのに、半製品の食料が運ばれてきて「さあ、それでご飯をつくって食べましょう」となったら、その方々がほんとうに生き生きとなって、職員に教えたり教えられたりした。デイサービスに来られる方だから、要介護3・4という重い方はいない。要支援か要介護1ぐらいまでの方でしょうが、それにしても要介護者です。

介護保険制度でサービスを受ける側と提供する側と分かれるのは当たり前であり、責任もあるのでそれはそれでいいのですが、要介護1か2のお年寄りが一緒に食事をつくるのを見て、若い職員が「これがご近所さんというもののごく普通の姿ではないかと思った」という話を聞きました。災害はつらいものであったけれども、しかし、力の衰えているご近所の人たちも含めて、その人たちが持てる力を出し合って支え合っていく、近所・隣・地域社会のノーマライゼーションという、ごく当たり前の姿を気づかせてくれたのではないかと思ったしだいです。

実は高齢者は決して弱者ではない。弱者と決めつけてはいけない。いろいろ役に立ちたいと願っているし、現に役に立っていて、元気な若い世代とともに地域づくりに貢献することができるという姿を目の当たりに見せてくれることを通して、ここから先は政策っぽいというか理屈っぽくなるかもしれませんが、あらためて福祉行政は何というべきだろうと考えました。

福祉というテーマ。私は福祉論の専門家ではなく、ご専門の方は「福祉とは何か」といったらエンサイクロペディア的にうまく説明できると思うのですが、少なくとも福祉というものの定義の前に、地方自治法の第1条があります。憲法にも26条に国の責務、福祉の増進ということがありますが、今度はっきり浮かび出てきたことは、地方自治体、地域をもっと狭く考えてもいい。地域の創造、地域の新生。あえて「復」という字をつけたいならば、地域ルネサンスの時代だと思っています。

地域ルネサンス。地域がつくりあげられていく中で、0歳から100歳代まで1人1人の持っている力がどのように活用でき、弱ったら復元できるか。私は「微力ながら」という言葉がとても好きで、私が何かのときに「微力ながら私も相つとめさせていただきます」と言うときは謙遜しているのではありません。微力ではあるけれども無力ではないと、威張って言っているのです。無力はゼロです。ゼロは何回、掛け合わせてもゼロです。しかし、微力は0.1であろうと何だろうと、足し合わせれば膨大な力になるのです。

私たちは災害を契機に、これから新しい社会を築き上げていく、築き直していく、結び直していく。そのようなときに、政府の悪口を言うのは大変簡単です。いまいちばん楽なのは政治評論家ではないかと思っています。でも、現実にやり遂げていくのは、1人1人の国民が「無力ではなく微力」「微力かもしれないけれど無力ではない」という自覚を持って、まずは高連協で、まずは地域の中で、いろいろな微力を少しずつ増幅し合うことによって0.1だった自分自身の力も0.15になるという増やし方をしていくことが、遠回りなようでも最も近道の作戦ではないか、戦略ではないかと思っています。

そして福祉です。地方自治法第1条には、地方自治体の責務として住民の福祉の増進と書いてあります。国防・外交は国の役目です。もちろん地方自治体も外交はやったらいいと思います。地方都市があちこちと交流しているおかげで、今回ずいぶん助けられました。だから外交はいいけれども、防衛は一自治体の役目ではないし、もっと国家戦略的なものでしょう。地方自治体の責務は、住民の福祉の増進です。

福祉とは何か。いろいろな言い方ができると思いますが、今度の震災を超えて、必ずしも弱者ではなく、どっこい生きている、どっこい働いている、どっこい地域を支えている高齢者の人々の姿を見て思いました。弱者をなるべくつくらない政策が福祉である。ほんとうの弱者、絶対的な弱者をつくらないことが福祉政策である。

にもかかわらず、人間はさまざまな力の強弱があります。例えば病気になったとき、失業したとき。人生100年という社会は、何よりもリスクが多い社会です。今回、70ぐらいで被災した人が「10年前に死んでいればな」とおっしゃっていて、そうか、60で死んでいれば70の人は被災しなかったのだ。長生きすれば、私たちはいろいろなつらい目も見るでしょう。生きているのは面白い、楽しい、喜びにもあふれていると言いながら、いま自殺者が大変増えているようです。それにしても早く死にたいと思う人は多数派ではないのですが、長く生きれば生きるほど、生きることのリスクは多くなります。

弱者という言葉は嫌いなのですが、ほかにないので使わせてもらうと、弱者になったとき、どのような支えがあるか。そして弱者の状況に長いこといないで、弱者から普通の状況に早く戻れるようにするのが福祉の政策だと思っています。

つまり弱者を弱者にとどめない。これは病気の場合は医療であるし、失業した人にとっては再チャレンジのチャンスをつくっていく。本人の持てる能力をまた再現しさらに付け加え、1人1人が人生100年において何らかのお役に立つ存在として人から認められ、そしてそのことを通してまた自分自身も生きがいを感じていく。年齢によって少し強弱があるのはやむをえないことですが、人生100年を通してそれが支えられる。福祉というのは、できるだけ弱者を出さず、出しても弱者に固定せず、おのおのが持てる力を持って社会に参画できるようにすることです。

だいぶ前になります。1999年、国際高齢者年がありました。私はその頃は代表ではありませんでしたが、高連協も応分の活動と世界への貢献をなさったはずです。

私は、これが早く国際的な高齢者権利条約になればいいなと思っています。世界の歴史は愚かなことも繰り返してきていますが、何のかんのと言いながら、少なくとも戦争については変わっています。昔は戦争は善であり名誉だったのです。そんな時代に比べれば、原爆を落としたほうの国の大統領が核廃止を唱えてノーベル賞をもらう世の中になったのだから、戦争は悪いことである、できるだけ避けるべきであるということが、いまや世界全体のコンセンサスになりました。

そして思えば昔は、弱者である、足手まといであるということは、そのまま闇に葬られても仕方がない時代がありました。人類の社会といえども、実は他の生物の適者生存、自然淘汰に近いあり方が長い間、続いてきたのです。19世紀の終わりから20世紀にかけての世界は、弱者といわれた人たちの人権を保障する活動を、主として国際連盟、国際連合の名において何度も失敗を重ねながらやってきたではありませんか。いまは障がい者の権利条約もあれば、子どもの権利条約もあれば、もちろん人種差別を撤廃する憲章もあれば、何よりも女子差別撤廃条約があります。そのようにしてかつて差別されていた人々が、人種も性別も年齢も病気も障がいも人類の持つ多様性の1つとして尊重し合いながら一緒に社会をつくっていく。いまや時代の国際的なキーワードは、ダイバーシティインクルージョン。多様性を認め合いながら共通の土台をつくっていこうというところへやって来たしだいです。いろいろなことがありますが、やっぱり人類の進歩を信じないわけにはいかないと、私は能天気だから思っています。

これは国際的なことですが、例えば日本においてはどうか。堀田先生はじめ皆様のお力があったと思いますが、いま認知症と呼ばれている方々に対する20年前の認識はどうだったか。あるシンポジウムで、その地の医師会の会長が「年寄りは面倒をよくみてやればぼけないのですよ。面倒をみてやらなくてさみしいからぼけるのですよ」と言い放ち、できたばかりの認知症の人と家族の会から出ていた嫁さんが壇上で泣き出してしまったのを私は慰めるのに苦労した覚えがあります。「家族がよくめんどうをみてやればぼけないのだ」。この次は「本人の心がけがよければぼけないのだ」。それから「ぼけは遺伝する」「こういう人にかぎってぼける」「大学教授はよくぼける」。私は青くなってしまいました。

しかし、20年ほどの間に、もちろんグローバリゼーションということもありますが、日本社会の中で、一時は公的用語も痴呆症とさえ呼んだ病状に対して、それはならないに越したことはないけれども、「いやだ」「いやだ」と逃げ回るのではなくて、「家族をみんなで支えようではないか」「認知症になっても安心して生きられる地域をつくろうではないか」となりました。これはたった10年か15年の変化です。なんと人間は進歩することができるのでしょうか。

そう思うと、さまざま災害に見舞われて壊滅的な打撃を受けたこの状況においても、1人1人が冷静さを失わない。いらだち、また絶望して自殺していく人が多いということは何とかしなければと思いつつ、この何とかしなければという思いが弱者を弱者に固定せず、一旦なってもまた復元していく社会をつくっていくものと信じています。

国際高齢者年のときに「高齢者の五原則」ができました。自立、自己実現、社会参加、ケア、尊厳。この5つです。これ以上に付け加えることはありますか。私はこれで立派だと思います。あえてコメントを付け加えると、ただ何となくサロンに行って話し合うというだけではなくて、そこで高齢者も応分の仕事をし、応分の収入をあげ、うんと稼ぐ人があったら税金をまけてくれなくてもいい。そういう形で高齢者も社会の担い手となれるような状況をつくっていく。自己実現と社会参加のところにもう少し積極的なコメントを付け加えれば、私はこれで十分ではないだろうかと思っているしだいです。

堀田先生のお話は、地域包括ケアセンターの日本全体の町づくりでした。最後に申し上げれば、いま私たちはこの災害を通して地域の重要性を思い、地域の中に1人1人が参画して声をあげ行動することの大切さを知りました。21世紀半ばの社会のキーワードは地域である。そしてそこにケアが入ります。

地域包括ケアの町づくりということも含めて、今度は国全体のビジョンを「ワークライフケアバランス」社会の創造と申し上げたいと思っています。ワークライフバランスというのは、働きすぎて生活を忘れた男たちへの反省も含め、そして男に稼ぐことを任せる一方で、あえて悪口をいえば、女は家事・育児という中で安逸を楽しんでいた面もありました。このことが日本国全体においても社会においても、どれだけ日本を無力化してきているか。

いま日本の経済発展がひどく遅れてしまっています。女性の能力を職場において発揮させる政策がようやく取られていますが、他の社会に比べて60年、遅れています。アメリカのシンクタンクの決して中国に好意的ではない女性が、中国が何のかんの言っても落ち込まないのは、男女平等という強みがあるからだと言っていました。その人は中国には自由がないと決めつけているのですが、一方、毛沢東は「女は天の半分を支える」と言い、革命以来2世代にわたって女性の社会参加と教育、理工系などにおいても男女平等にした。これは毛沢東が取った唯一の美点である。そのように言っています。

基調講演の様子

たしかに、2世代にわたって男女平等が続いてさまざまな能力を発揮するのに国民の100%がほぼ参加できる国と、女の人は大学を出ても「奥さんになるのだから」と言われていた国。均等等法のあともまだしばらく言われて、いまようやく変わってきています。そう思うと、例えば第3号被保険者をつくって、専業主婦は保険料を払わなくてもいいことにして30年やってきたわけです。私はこの間、計算してみました。ほんとうは政府がこういうことを計算してみせなければいけないのですが、やってくれないので、ごく簡単な計算式だからやってみました。毎年の保険料×その年の第3号被保険者数。それを毎年積み重ねていくらになったと思いますか。40兆円です。この40兆円があったら、震災復興にどれだけ役に立ったことか。

そしてその結果、男性は7割が被保険者の加入者であるのに、女性は7割が国民基礎年金、国民年金にしか入っていない。こうしているとサラリーマンの方々だから貧しさがあまり目立ちませんが、国民基礎年金の部分年金3万、4万で暮らしていかなければならない"貧乏ばあさん"が日本全国に満ちあふれているのです。

これを変えていくには、どうぞもうこのへんで覚悟を決めて男女平等を受け入れていただきたいと思います。男性が料理をする自立能力を持てば日本の介護費用はぐっと低くなると最後に憎まれ口を申し上げて、ワークライフケアバランス社会をつくろうと申し上げて、終わりたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。