基調講演「高齢社会フォーラム・イン東京」

「高齢者(シニア)の社会参加が世の中を変える」

樋口 恵子
高齢社会NGO連携協議会共同代表
高齢社会をよくする女性の会理事長

樋口 恵子 高齢社会NGO連携協議会共同代表 高齢社会をよくする女性の会理事長の写真

○高齢社会“三冠王”の日本

 堀田力先生とご一緒に共同代表をさせていただいております、樋口でございます。

 今年2012年のなすべき課題は、本当に山ほどあります。しかし、幸いに団塊の世代がどんどん“年”をとってくれまして、いままではまだ漠然とした話だった超高齢社会の光景が、わりと鈍感な人にもこの様相がどういうものか、ということが見えてきたのが、つい最近ではなかろうかと思っています。

 堀田先生のお話にございました地域包括ケアの問題をはじめ、新しい発想で地域を土台として常識を変えなければならない。超高齢社会というのは、要するにいままでの定義や常識を変える。シニアが参加すればその常識が変わり、人生100年型に未来の姿が見えてくる。高齢者が引っ込んでいたら常識がちっとも変わらない。私たちが常識を変えて人生100年型にしていくことが、若い人たちの未来をまた明るくする。私はそう思っています。

 (水ボトルのキャップを苦労して開けながら)つい最近まで、こんなものは易々と開いたのです。高齢者のために言わせていただければ、私も近年ときどき開かないことがある。消費者市民という言葉があります。私たちは寝たきりになろうと認知症になろうと、常に「もの」を消費して生きているのです。生涯現役、そして生涯一消費者です。消費者である高齢者にとって使いやすいものを、社会がどう開発していくか。高齢者が積極的に発言していくのも社会参加です。皆さん、「水ボトルのこと」を覚えていたら、皆さんのお仲間に話してください。「樋口恵子が水ボトルのキャップを開けようとしたが、開けられないで壇上で踊りを踊っていた」と。私たち高齢者にとって使いやすい品物を開発していけば、その品物は障がい者にとっても使いやすいものであったり、ときに子どもたちにとっても使いやすいものであったりして、世の中の多様性をほんとうに豊かにしていくと思うのです。

 その姿が見えてきました。先ほど審議官がオリンピックのお話をなさいましたが、オリンピックの種目にもし「高齢化」があったとしたら、直ちに金メダル3個です。何と言ったって平均寿命1位。特に女性は30年ぐらい1位でした。日本の女性の地位は、社会的・経済的にはっきり言って、欧米世界と比べると周回遅れです。私はこの問題がいま政策的に変わりつつあるということを、後ほどお話したいと思います。

 皆さん、オリンピックです。何と言ったって世界一(直近の発表では香港が1位)の平均寿命金メダル。高齢化のスピードも、いまのところ世界1位です。やがて中国や韓国に追い越されますが、いまのところ世界記録保持者です。そして高齢化率。直近のデータによると、65歳以上人口が23.3%ということです。65歳以上人口が2割を超えている国は、あまりありません。外国のデータはちょっと遅れて入ってきますが、2割そこそこなのがドイツ、イタリア、スペインぐらいです。人口動態を下から見ると、そうした国々は出生率が大変低い。

 最近スウェーデンに行ってきました。以前、日本の高齢化率が10%ぐらいだったときに、スウェーデンは15~16%でした。そして、この国は福祉大国でした。2006年以来スウェーデンは政権交代で70年続いた社民党政権が崩れて、現在はやや中道保守寄り。しかし、福祉全体の基盤はほとんど変わってはいません。それにしても財政難で「大変だ」「大変だ」と言っていましたが、女性が生涯に産む子供数を表す「合計特殊出生率」が高いのです。日本が1.39のところを、スウェーデンは1.9です。日本の高齢化率が23.3%というとき、スウェーデンは17%です。日本は2050年代に65歳以上人口が4割になると騒いでいます。その時にスウェーデンの高齢化率は推計で24%。つまりピークになっても、いまの日本ぐらいなのだからスウェーデンは楽なものです。

 日本は推計で今世紀中は40%。これからの韓国や中国の推移がわかりませんが、いまのところ世界トップです。日本を追いかけている韓国や中国は、日本の行方に注目しています。考えようによっては、私たちは大変大きい責任を持っているわけです。2050年になっても、いまの日本程度の高齢化のスウェーデンと、2050年代になると全人口の4割が高齢者になる日本では、高齢者も違う覚悟が必要だし、社会の仕組みもまた変えていかなければなりません。

 日本は、高齢化社会オリンピックでは三冠王です。高齢化のスピード、平均寿命、そして高齢化率。これらの諸問題は、女性が直面する問題と連動して変化していかないと解決しないと思います。つまり出生の問題でもあります。世界の人口は増えすぎても困るのです。戦前みたいに「産めよ増やせよ」ではパンクしますが、他の先進国が二人そこそこの出生を維持している。日本はそれができない現状が、いまの急激な高齢化の要因の一つです。

○支えられる高齢者から支える高齢者へ

 私としては非常に心強い動きが最近の政府に二つありました。その一つは、審議官からもお話がありましたし、後に詳しいご説明が原口参事官からあると思います。堀田先生も触れられましたが、3月に出された「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会報告書 ~尊厳ある自立と支え合いを目指して~」の基本構想が、6月に公表された「高齢社会白書」の基本部分に受け継がれていることです。

 高齢者は特に要介護になったときに、人間らしく介護される、尊厳をもって保護される、そこを中心にいままでは考えてきたわけです。しかしこれからの高齢者(シニア)は、現実の超高齢社会にあって、支えられる高齢者から支える高齢者へと根本的に変わる必要があります。高齢者も健康や他の条件を考えながら働き、社会に参加し、いつまでも生涯現役消費者であることを基本にして、生涯現役一市民、生涯現役一有権者、生涯現役一住民として地域社会を中心に社会に参画し、労働力としてもその能力を発揮して、高齢者としての声をあげていく。これはもちろん近未来の労働力需給の問題もあって、高齢者も働かなければ困るということが根底にあります。私は、その社会の等身大の人口構造のあり方をどこにおいても実現するのが、健全で真っ当なあり方だと思っています。

 例えば60年前のアメリカにおいては、黒人人口がかなりの比率を占めているにもかかわらず、おそらく黒人の国会議員は無きに等しい状況でした。そして1960年代から黒人を中心とする公民権運動が起こり、一緒に女性の参画を求めるフェミニズムの運動が起こり、現状は60年前のアメリカ国会の人種・性別の様相とは全く異(こと)にしています。実はアメリカは多様性の国と言いながら、ある時期までの国会は多様な国民が代表性を持っていませんでした。民主主義の歴史で黒人がほとんど権限を持っていなかったのを、集団的な流血の惨事はほとんどなく、運動と議論によっていまの形をつくっていったのです。不幸にもキング牧師は暗殺されましたが、女性は流血の惨事もなく、運動でいまの状況をつくっていったのです。欧米諸国では、女性の社会進出度は高いのですが、その中で管理職レベルに女性の比率が最も高いのはアメリカ社会です。ある社会に男と女がいる、若い者と年寄りがいる、この人種、あの民族がいる。そうなった場合に、社会と等身大の代表性をもっていくことは、その社会のあり方を示しています。そして少数派に配慮し、その多様性を重んじることは、非常に健全なことだと思っています。

 私は、この1~2か月で、何か社会の潮目(しおめ)が変わってきたと感じています。その一つが繰り返すようですが「高齢者の社会参加」です。
 実は高連協では、政府が「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会報告書」をもとに、「高齢社会対策大綱」の見直しをしているタイミングで、「これからの高齢者は、支えられる存在から社会を支える主体のひとりに」という考え方を組み入れた提言を内閣総理大臣および担当大臣に提出しました。

 私どもの願いがかなり入った「高齢社会対策大綱」になるだろう、ということを国の関係者から聞けるとうれしいと思っていますが、大綱の公表はこれからのことなので、いま国の方からお聞きすることは難しいかもしれません。私から自画自賛すると、我々の社会参画はもうすでに始まっています。国の方針に関して、しっかりとものを言います。私たちの思いと国の思いの完全な一致は、なかなか難しいのですが、にもかかわらず、社会の進む方向性は基本的に同じです。私どもは、我々の意見が取り入れられていることに自信を持っていますので、国としてもこれからの社会づくりの主役であるという自負を持って活動を進めていただきたいと思います。今回の「高齢社会白書」ならびに「高齢社会対策大綱」は、私どもの活動の成功体験として長く刻み込まれてよろしいのではないかと思っています。

 もう一つ申し上げたいことは、高齢化の中身の問題です。当然長寿社会では男性と女性のあり方が問い直されます。中年以降を大量の男女が生きるのは、いまが初めてですから。女性を理解できない男性は長寿社会に生きる資格がない、逆もまたそうです。定年後に自分だけ社会参加できるように変わって、奥さんは家に置いておくとか、女はいままでどおり家に引っ込んでいろという人は、長生きする資格はありません。

 私たち高齢者(シニア)は、変化に対応していく立場です。人生50年から人生100年という変化の只中を生きる中で、いろいろな新しいことが次から次へと起こってくる。それに試行錯誤しながら対応していく。と同時に、私たちは人生100年を生きる初めてのジェネレーションです。この状況の中で、ヨロヨロ、ヘロヘロしながらも、自身の体験のうえに立って「これからの高齢者はこうであるべきだ」「生活はこうであるべきだ」「こういう働き方があってもいいのではないか」と提言し、またそれを実現していくという素晴らしい時代に生まれあわせてしまっているのです。長寿が普遍化する、人が100年近くも生きる、そのことが普通になる中で、特に人生後半の生き方を個人的にも社会的にも、自ら創っていこうというチャンスに恵まれたのは、人類の歴史何十万年のうち、はじめてのことです。何という幸運なときに生まれあわせたのでしょうか。そう思ってあきらめてください。あきらめて、そして頑張ろうではありませんか。

○働くことは学ぶこと

 平成24年6月22日、女性の活躍による経済活性化を推進する関係閣僚会議で、「「女性の活躍促進による経済活性化」行動計画~働く「なでしこ」大作戦~」が出されました。どうもこのネーミングが少し気に入らない。何でも「なでしこ」にすればいいのだという気になっています。働く「さくら」とか、働く「うめぼし」とか。オリンピックの時期にも合わせてということで「なでしこ」も結構ですが、「働くなでしこ大作戦」とまではっきり政府が打ち出したのです。

 高齢者の活躍の方は方向性がはっきり出ていますが、方法論や日程表はまだ漠然としていると私は思っています。高齢者が声をあげて、いくつかの方法論や具体的な事例をどんどん取りあげる。それから働き方ですが、高齢者の場合は若い人と違って多様性があって当然だということです。その多様性のいろいろな形を我々の力でどんどん示していって、そしてふと気がついたら日本中で、若い人と同じ形ではないけれども、年寄りが働いている、あっちでも働いている、こっちでも働いている、これがふつうの風景となるような社会をつくって行きたいのですが、まだ掛け声だけで具体的な工程表が出来ていません。

 女性の方は男性の働き方をモデルにしながら、男性が働きすぎてしまって、日常の暮らしが少し歪(ひず)んでいるところを社会的に分け合う形にして、ワーク・ライフ・ケア・バランスで、女性も男性も同じように能力を発揮させて昇進させていこうというのだから、こちらの方がある意味で楽なのです。どちらも労働年齢で考えているから非常に楽なのです。最初のプランのたたき台に書いてあったのは、「福祉や平等のためでなく」「何よりも経済発展」と読み取ったので、びっくりしましたが、最終版にはそんなことは書いてないので安心しています。「我が国経済社会の再生に向け、日本に秘められている潜在力の最たるものこそ『女性』であり、経済社会で女性の活躍を促進することは、減少する生産年齢人口を補うという効果にとどまらず、新しい発想によるイノベーションを促し」とあります。

 いままでのような働き方では、女性が子どもを産まなくなっている。少子化の大きな要因をなしています。育児休業が取れて、産後には元の職場に復帰する。男性の賃金を100として、女性の賃金も100という国は世界のどこにもありませんが、男性を100とすれば85から90ぐらいの賃金が取れて、そして誰もが1年から1年半の育休が取れて、父親も2、3カ月は必ず育休を取って育児に参加する国のほうが、出生率が高く経済成長率が高い。

 これを私は四半世紀前から言っていたのですが、そのころは誰も聞いてくれませんでした。「樋口さんたちがそんなことを言って女が働きに出るから出生が減ったのだ」「家にいて子どもを産む女が減ったのが悪い」。そうでしょうか。ますます出生は減ってきています。これは仕事と子育てを両立するような社会をつくらなかった報いであり、若い女性たちの無言のストライキです。これに対して、子どもを産みながら仕事もできる、お父さんも育児を支えることができる労働条件にあるスウェーデンでは、合計特殊出生率が1.9です。これで人口はゆるやかに下向きながら概ね維持出来ます。フランスは2.0です。このような女性が仕事と出産を両立しやすい政策を採っている国の方が出生率が上がります。この事実を20年も見せつけられては、日本政府もそこに着目しないわけにはいきません。

 このように高齢者や女性が社会に積極的に参画し仕事をし、そのことを通して働き盛りの男性も家庭に参加することができ、お腹が大きくなったからといって職場を追われる女性が少なくなる。海外で私が「日本ではついこの間までは、働いているお母さんが妊娠してお腹が大きくなると第1子出産前に7割の女性が退職して同じ立場には戻れなかった」と言うと、ため息が起こります。いま7割をきって6割代になったと厚労省は胸をはっていますが、他の先進諸国では1割も退職しないのが普通になってきています。私たちは男女共同参画、女性の労働参加という意味では、非常に不思議な国に住んでいることを知ってください。その不思議な国で、出生率が下がり、経済成長率も落ちてきた。

 しかし、いまそれが変わるきっかけができました。いま仕事の場からみると、高齢者と女性、そして男性もいままでの就労に対する常識を変える。みんなで働いて、もちろん収入が高い人たちはたくさん税金を払う。消費税については賛否両論あるでしょうが、いまもすでに消費税5%は実施されているわけだから、仮に所得税を払うほどの収入はないとしても、収入があれば心が豊かになります。フローのお金がたとえ月3万でも5万でも回ってくれば、年金だけよりは心豊かに財布のひもを緩めます。そうすると消費税が入ってきます。

 いままで日本の税制では、自営業の人に対して所得の捕捉を曖昧にしたままで、その代わり、一大課税対象群としてサラリーマンを最も確実な所得税源としてきました。我々は当たり前に思っていますが、サラリーマンという給与所得者の税を天引きという国は世界でそう沢山あるわけではありません。天引きで税を納めさせる、そこを一番確実な所得税源として、給与所得者側も「面倒くさくなくていいや」程度に受け止めていました。

 その代わりサラリーマンには「奥さんに扶養控除をあげるよ」、扶養控除だけですまなければ、1985年のことでしたが、「配偶者特別控除をあげますよ」、国民基礎年金をつくった昭和60年には「サラリーマンの奥さんはタダ(現在は廃止)にしてあげますよ」。年収130万以下だったら、「基礎年金の保険料を払わないでいいですよ」という仕組みで昭和60年以来やってきたのです。

 その結果、女性は大雑把に言うと、第1号の自営業の人の奥さんや無職の人が3分の1、第2号の働いて税金も保険料も払っている人が3分の1、第3号のサラリーマンの奥さんが3分の1。年収130万の賃金を得ていても、「サラリーマンの奥さんは払わないでいいですよ」とやってきた。つまり担税者(税金を払う人)について、これは経済界と労働組合と政府との話し合いだと思うのですが、その三者の利益の中で女性の担税能力をどんどん低めてきた。労働省の調査ですら女性のパートは4分の1、民間の調査ではパートで働く主婦の半分が、「130万になりそうだから11月で今年は辞める」という形で所得調整を行っています。

 そのような形で、日本政府は、日本の経済界は、女の就労能力を低めさせ、専業主婦を偽装させ、そして日本全体の税収を低めてきたと思っています。
 私はいまかなり厳しく言っていますが、それは特に日本の高度経済成長の時代には大変マッチしていた成功体験でした。言ってみれば、終身雇用で会社が病院から何からなにまで、社会保障・福祉をみんな持っている会社保障時代には、主婦にとってもメリットがあり、また忠誠心もあり、それはそれで良さもあったのだと思います。しかし、時代は大きく変わりました。私は終身雇用とか日本的雇用はそう悪いことではないと思っているので、日本的な良さも大いに生かしてほしいと思いますが、いずれにしても、いま雇用は滅茶苦茶になりました。ご承知のとおり、若い世代の非正規雇用が全体で30%を超えています。男女全労働者を男女別に分けると、女性が58%で男性は18%。男性全体の18%が非正規、働く女性の6割近くが非正規、合わせて30%。男性の場合は非正規が30代中心で、これから世の中をつくり、これから家庭と持とうという世代に多いということは、日本の社会にとって大変な問題です。

 私は「じいさん、ばあさん、働こう」と、これからも先頭に立って戦うつもりです。しかし一方で、日本の未来を思うとき、若い世代の30%が非正規であることを思うと、優先順位を立てるならば、男女を問わず、次の世代の子どもを育てる世代の雇用をきちんとすることが大事だと思います。定年後の私たちは、定年後にふさわしい新しい働き方をする。いますぐはできませんが、もう少ししたら高齢者就労促進法とか高齢者就労支援法といった新しい法律をつくって、労働基準法も考えて、第2の職場での雇用は、65歳以上、場合によっては70歳以上でもいいと思いますが、健康管理なども含めて高齢者の新しい働き方に対する法整備や保護が必要ではないかと思っています。

 皆さん働きましょう。女性も男性も働きましょう。年寄りが変わる社会は、先ほども申し上げましたが、男女の関係も変わってくると思っています。具体的な案はまだ難しいと申し上げました。私はバカなことを言っていますが、長い目でみると8割ぐらいは、私が願ったバカなことが事実になってきます。バカを言っているというのは、夢をビジョンを持つことです。皆さん「労働力」という字を変えましょう。「ろう」の字は老人の「老」を書きましょう。これからは「老働力」が絶対に必要です。しかし、一生懸命働き元気を保とうとしても、人間は加齢による衰退を伴う生き物であり、寿命も限られていますので、いくら生きても100年そこそこです。その間に必ず要介護になり、ケアを必要とする時代がある。そのときこそ、堀田先生のおっしゃる、介護というのはただのお世話ではなく、尊厳ある人間の自立支援である、寝たきりになっても自立支援である、私はあまりこの問題の国際比較していないからわかりませんが、認知症の方を含めて介護というものを単なるお世話ではなくて、尊厳ある人間の自立支援と再定義した国は、そう多くはないのではないでしょうか。これは世界に誇ってよろしいと思っています。

 しかし、そこにたどり着くまでの人生の時間は長いのです。やはり働きましょう。どういう生き方がいいか。定年になってお金のあるうちは、豪華客船にお乗りになって世界一周もよろしいですよ。お金が余っている人は、船に乗るのがいちばんいいです。1,000万円ぐらいはすぐ無くなります。

 今日は詳しくお話しできませんが、もう一つ、働くことに伴って学ぶということが大切です。人生100年、言葉を変えれば生涯学習社会だとも思っています。つまり今日、皆様はここに集まって、学習活動をしています。堀田先生のお話を聞いて、内閣府のお話を聞いて、私のダボラを聞いて、これら多様性のある話を聞いて、そしてまた分科会に集まって良い事例を交換し合って、「じゃあどうやればいいのか」と考える。これはまさに生涯学習の場なのです。実際に働いていると学習せざるを得ないのです。学習活動中心の人もいますが、少なくとも仕事をしていれば派生的にいろいろと学習しなければなりません。パソコンも次から次に新しい技術が出てきます。働いて社会参加していると、学習が派生的に必ず出てくるという意味で、働くという行為は社会参加や自己表現のあり方など、人生の多様な要素が含まれているものはありませんから、「じゃあ働こう」ということになります。

 私は、もちろん若い頃から働くのが大好きです。女性は家庭で子育てをしていろと言われる時代から、「働いて何が悪い」「働くことはこういうメリットがある」と言い続けてきました。それぐらい、働くことが好きな樋口恵子ですが、大学も定年を迎え、お蔭様で現在のような社会活動ができています。でも、私が言う「老働」は社会活動を含めていますが、ちょっとでもお金がもらえたほうがいいけれども、仮にもらえなくても、こちらから出資して起業することもあり得るし、ボランティア活動も「働く」という行為の中に入れて当然のことだと思います。

 ただし願わくば、ある種の社会活動には若干のペイがあったらいいと思います。最近、中国は吉林省長春市に行ってきました。老人ホーム周辺は、ヨーロッパの庭園に紛れ込んだかと思うぐらい、実にきれいに花が植わっていました。誰がやるのですかと聞いたら、「高齢者ボランティアがやります」ということでした。高齢者ボランティアはどうやって探すのかというと、日本でいう「区のお知らせ」で、金額までは聞き出せなかったのですが、若干の手当てを払うからみんな喜んで来てくれるそうです。有償ボランティアが中国でもとても盛んで、実に見事な花を豊かに咲かせているものだと思いました。

 働くということは、特に高齢者にとってごく当たり前な人生です。いままでいろいろな論争があったと思います。第2の人生は、いままでの人生、つまり働いてきた人生にきっぱりと決別を告げて、趣味の豊かな人生、あるいは外国暮らしや田舎暮らしを楽しむ。それもいいのですが、田舎に行って、また働けばいいのです。けれども、隠遁の生活をする、年寄りは声を出したり何かを作ったりするよりは、じっと静かにしているほうがいいと言う年寄り像もまた多かったのです。高齢化社会に1970年に突入して以来、四半世紀、この論争はあったと思います。ようやくこれに決着がついた。政府も決着をつけてきました。そうです、やはり高齢者も支える側、働く側であってほしいと思っております。もちろん多様性と選択を前提としてのことですが。

 働くことでどんないいことがあるか、少し並べてみました。働くぐらい、真っ当な社会参加はありません。社会参加の方法はたくさんあります。例えば退職後の大学入学ということが日本も出てきました。ただ、一般的な社会参加と違って、大学に入るからには、例えば明治学院大学や立教大学など非常にいい活動をしていますが、やはり一定のお金がかかります。イギリスやアメリカなど他の先進国のシニア大学生と日本のシニア大学生と比べてみると、まだ桁が違います。文科省も予算がなさそうだし、大学に直接提案しましょうか。100人シニア学生を募集するとしたら、入学試験と面接で絞り、うち一人でも二人でも奨学金を与えてください。高齢者奨学金があっていいと思うのです。予算さえあれば、文科省所管の日本育英会の中にシニア部門をつくってほしい。ただし、その奨学金は返さない。だから少なくていい。励ましです。奨学金というよりも、生涯学習激励金です。

 これもダボラですから、うまくいくかわかりませんが、大学側もはじめてなのです。一度高校なり大学を出て、ある職場を勤めあげた60歳を過ぎた人間が、それから学習して新しい学問的知見に到達しうるかどうかはやってみていないとわからない。ただ、意外に理論物理とか数学など大きな実験装置を使わずに学習できる分野では、70歳で発見ということがありうると思っています。社会科学的な分野とか人文科学的な分野では、既に老学者が一定の研究成果をあげた例がボチボチと見えています。

 いままで学習というものは20代、30代の命の盛りで行うものと思われてましたが、ノーベル賞受賞者が白髪の老人であっても、業績を積上げたのは実は30年前だったということを私たちは知っています。長寿の普遍社会が本当に普遍化すると、70歳で新しい発見に到達したり、85歳で文学の研究を成し遂げたという人がいてちっとも構わないと思っています。ちっとも構わないどころか、70歳や80歳の人の学習は20歳の人の学習とまたひと味違い、そのことが多様な意味合いと深さを若き研究者にも一つの刺激として提供することができるのではないかと思います。人生100年の多様性とは、そのようなことではないでしょうか。

 どうか学習奨学金を設けていただきたいと思います。特に女性には優先的に奨学金を頂けたらと思います。私の周辺には、小・中・高・大とも優秀な女の子が沢山いました。けれども、加齢を重ねて生き残って仕事をしている人は数えるぐらいです。みんな人生の途中で、学習し労働することを辞めてしまいました。子育てのために辞めていったのが大半ですが、舅姑の介護で辞めていった人もいます。樋口恵子さんが一人で、80歳になって囀(さえず)っていますが、皆さんたまたま条件に恵まれなかっただけです。もちろん男性にもいっぱいいらっしゃると思いますが、女性は産む、育てる、あるいはある時代までは介護するという性別役割のために、己(おの)が才能を発揮できなかった人が多いんです。

○人生100年時代の生き方

 私は70歳で大学を定年になり、お蔭様でいろいろな仕事をさせていただいていますが、定時的な勤めのあった大学にいた時代に比べると、いまは自宅にいる時間が長くなりました。

 私は若い頃、男性に「もっと家庭を大切に」「妻と睦み合え」と言い続けてきました。ワークライフバランスという意味で全く正しい。しかし、定年後を考えてみると、この点は少し反省しています。うちに二人でいてもあまり面白くない。若いときは、私は夫も自分も仕事をしていたからなんとも思わなかったのですが、友人をみると、みんな二人っ子、三人っ子を抱えてきりきり舞い。そのうえ舅姑の世話まで抱えてへとへとなのに、夫は職場という自己実現の場だか遊びの場だか知らないところにパーッと逃亡してしまって、夜中になっても帰ってこないじゃないですか。

 私は本当にそのときは本当に怒って、「男よ、家庭へ帰れ」と叫び続けて、ずいぶん沢山の男性から憎まれました。家庭というものは男と女がともにつくっていくものだ。だから男ももっと育児や介護に参加せよという意味のことはいまも全く変わっていません。けれども、定年後に夫と妻が家にずっといるのがよい夫婦生活かというと、そうは思わなくなりました。男性も女性も社会参加活動をする。男性だけ社会参加で、妻は留守を守るではなく、妻もまた社会参加する。家は空(から)の巣になるから、家に現金は置かないということです。夫も妻もそれぞれたまには一緒に行くところがあることはとても大事だと思います。

 年代とともに、家庭のあり方が変わります。子育ての時期は、うちも食事の時間にテレビをつけたことはありませんでした。たった一人の子どもでしたが、家族でごはんを食べるときにはテレビは消して、小言を言ったり言われたりしながらごはんを食べました。けれども、いま40年間連れ添った夫婦が食事中、テレビをつけていなかったらどうなりますか。そんなに沢山夫婦や家族の話題はありますか。テレビに出てくる政治家たちを話題にして、何とかコミュニケーションをもたせているんじゃないですか。ライフコースの時期によって、家族のあり方もいろいろです。

 まず働くとどういうことがあるか、どういう良いことがあるでしょうか。私は以前、引きこもり問題の座談会に呼ばれて出たことがあります。そのときに引きこもり高校生の指導をなさっている先生から「働くことの意味を一言ずつおっしゃってください」と聞かれたことがありますが、その先生は何と言ったと思いますか。たったの5秒で、「働くこととは、朝、起きることです」。こんな感服したことはありません。

 話が横道にそれますが、高齢社会と経済社会のあり方についてこの頃、私が思うことをしゃべらせてください。高齢社会はケアのみならず、やはり金のかかる社会だということは覚悟しなければいけない。だから我々は可能な限り稼ぐ側に回って貢献しようというのです。

 私はこうやって1時間、2時間、立ってしゃべるのは平気ですが、実は右膝を損(そこ)ねています。この年齢の女性に多い、変形性膝関節炎です。立って話すような振る舞いは別に問題はありませんが、私はいまだに布団に寝ているので、起き上がるのにベッドで寝ておられる方より時間がかかります。手をつかないと立てません。例えば宅配便のピンポンが鳴れば、布団のすぐ脇にインターフォンがあるのですが、かってはどういう体のひねり方をしていたのか、ひょいと手に取れたのです。いまは体のひねりが悪くなったのでしょう。こうやって3歩ぐらい歩いて、やっと取れ、「はーい、何ですか」「宅急便です」「ちょっと待ってください。いま行きますから」と言って、そこから本格的に何かにつかまって立つ。こんな具合の毎日です。先日、外国旅行へ行って歌を詠んだのです。「80歳でお元気ですね」と皆さんに言われて、いい気になっていたのですが、帰ってきて「されど八十路 常の起伏(おきぶ)し ままならず 立てばよろめき 座ればためいき 歩く姿はボケの花」。最近は忘れ物が大変多くなりましたから。

 家の中をよろめきながら何歩か歩きます。実は私の寝室は2階なので、玄関までは階段を降りなければいけない。手すりにすがりながら降りる。広大なお屋敷ではありませんが、ほどほどの広さがあるので、階段をおりてから、また廊下をヨロヨロと歩きます。今度、私のいまの実態を元気な人に、同じようにやってもらって、何倍の時間がかかるか、試してみようと思っています。私の家の近所は、みんな私たち夫婦と同年配で70代から80代。

 宅急便が来ます。ピンポンといってから、配達の方が荷物を渡すまでに要する時間は、高齢者が多い居住地域の方が若者世帯が多い居住地域のおそらく2倍かかっているはずです。経済効率の話をするならば、宅急便は何個配っていくらの世界です。そうすると、私たちが家にいてヨロヨロと出向いていくまでの時間のコストを誰が払うのでしょう。高齢社会はいろいろ考えることがあります。

 私は北欧(スウェーデン、フィンランド)で終末期医療の現場を見に行きました。日本ほど高齢者に「胃ろう」をしている国はありません。一人に2時間から3時間かかる食事介助。「胃ろう」にしている理由はいくつかありますが、手がかかるからという理由で「胃ろう」にされている場合があるのです。私は、口から食べられる間は、お食事介護士という資格をつくって支えたらどうか、と思います。他のことはともかく、お食事の介護ができる。フィンランドの特養ホームでは、みんなが食べ終わってしまっているのに、101歳のお母様に、私ぐらいの娘が一口一口、養っている。ゆっくりした食事介助に家族が通っている。現在、人生100年社会における聖母子像を見る思いでした。

 しかし、家族に恵まれている場合はいいけれども、そのコストを誰が払うのか。そして宅急便の例であげたように、加齢とともにスローになり、さらにスロー、スローになる。しかし、私たち人類は長年かかって福祉という概念、人権という概念をつくりあげました。高齢者であろうと障がい者であろうと、一緒にこの社会をつくっていくのが人間として真っ当な姿である。これは人権宣言であり、障がい者に対する宣言であり、女子差別撤廃条約であり、その他もろもろの多様な人たち、特に弱い立場の人たちの人権を保障することを、やっと20世紀になって残虐な戦争を経てつくりあげたのが、いま私たちのいる社会です。多様性を認め合おう。

 働き方について、私の具体的な提案としては、あらゆる会社はシニア第2会社をつくったらどうですか。障がい者に関しては特殊会社をつくることが法律で認められているのです。障がい者を雇用する会社に関してはたくさんの免税措置があります。会社の中で高齢者になっても働ける、いろいろな職。これは若い人の雇用を絶対妨害しないのが大前提ですが、会社を成立させるのに必要で、かつ、求められる適切な、しかし、そう高い報酬ではなくてやってもらっても若い人の雇用を妨害しない。そういうシニア第2会社をつくったらいいのです。

 私は「会社人間をやめろ」とずっと言っていました。「会社一辺倒」はやはりよくありません。会社人間をやめられる人はやめたらいい。やめられる人はやめて、別な生き方をしたほうがいい。けれども、おそらく3割ぐらいは、長年の生き方の後遺症というべき“会社ぬれ落ち葉”という人がいるのです。そういう人たちのためには第2会社をつくってそこで働いてOBとして生きて、そのうちにみんなで出資し合って会社を設立してもいいではないですか。何々株式会社老人住宅に入って、一人暮らしになってしまって無縁社会で一人になる人もいたら、何々会社の墓に一緒に入ればいい。

 バカを言っているようですが、これからの超高齢社会は、団塊の世代のすぐあとになれば男性の20%は単身で終わるのではないか。つまり結婚しないで終わるのではないかと言われるような、いわゆる無縁社会がやってきます。ここで人間らしくケアをし、そして最期まで自立して働き、規則的な生活をし、働くことと健康保持がいかに有意義な関係があるかということは、多くの医学関係や公衆衛生などの人たちの知見からたくさんのものが得られています。こういう世代にとっては「社像」「企業像」というものも大切なのではないでしょうか。その人の人生の中で一定の位置を占めているものは大切にしよう、ということです。

 働くことで何が得られるかといったら、ますは経済活動であり、人間関係であり、社会参加であり、お互いに認知されたいという欲求がそこで果たされると同時に、健康保持につながるわけです。そうであるから、このような状況をますます進めていただきたい。

 ちょうど時間になったようです。本日はこれで終わらせていただきます。
 ありがとうございました。