基調講演「高齢社会フォーラム・イン東京」

「シニアの社会参加で世代をつなぐ」

樋口 恵子
高齢社会NGO連携協議会共同代表
高齢社会をよくする女性の会理事長

樋口 恵子 高齢社会NGO連携協議会共同代表 高齢社会をよくする女性の会理事長の写真

「人生100年社会」に向けて変化する地域

暑さも一服の今日この頃ですが、全く一服していないのは超高齢社会への道程です。超高齢社会への道というのは酷暑よりも残酷ですね。こうやっている間も世界一の超高齢化、超少子化社会への対応を目に見えるかたちで築いていかなければならない。これが今の私どもの置かれた立場です。

これからのキーワードは地域

そして、おそらくこれからのキーワードの重要な一つは、地域ということになる。もちろん、世界中どこで活動なさってもいいのですけれど、社会の全体の流れは、地域ということになると思います。

私などは根っからの東京育ちでございまして、地域という言葉に若い頃から郷愁と一種の憧れを抱きながら、地域、地域と言ってまいりました。大分前から、私は、地域を日本語英語でローカル・コミュニティと言っておりました。英語ならコミュニティだけでもいいのでしょうが、念には念を入れて、重箱を重ねます。カタカナで書いた上に、漢字で書こうということで、ローカルのローは老人の老を書く。カは優良可の可を書く。ルは留まるという字を書く。つまり、「老人そこに留まるべし」で、英語で言うと、今や誰でも知っているエージング・イン・プレース(Aging in Place)になります。そして、コミュニティのほうはミュという発音が入るものですから、いささかこれは出来が悪いのです。

人間が生まれ育ち、そして働き、志を果たしつつ、この世を安心して去っていく。この一生のサイクルは、もちろん働き盛りには縦横無尽に駆け回り、時には宇宙まで行って、さまざまな活動をするのでしょうけれど、子どもはなかなか遠くには行けません。同時に、高齢者について言えば、「これからも働きたい。だけど、1時間40分あの満員電車に揺られての通勤はもうごめんだ」と定年退職者の方はおっしゃいます。高齢者も子どももあまり遠くへ行くことはなかなかできないのであります。

できれば、高齢者は地域社会で働きたい。ローカル・コミュニティのコは子どもの子です。ミュとは難しいから、ミにしてください。これは、子どもを「みる」ということで、「みる」という字を看護の看を書こうと、普通の見るでもよろしいのです。「みる」、眼差しを注ぐ、関心を注ぐ。関心を注いで、そこにあること、いることを発見することから地域のつながりは生まれます。「子どもをみる」ことこそ、今まで私たちが連綿として受け継いできた、長い、長い歴史を持つ地域をタテにつなぎます。超高齢社会を皆で支え合って、老いを全うし、生まれた子どもたちを健やかに育てるために、もう一工夫が求められているのです。人生50年時代に機能していた地域と、人生100年社会に機能する地域は、何か仕かけの方法も意識もきっと変わるものがあるだろうと思います。

あえて言えば、今日も新しい地域の創造へのグッドプラクティス(好事例)についての知恵の寄せ合いであり、また、新しい創造への志を増幅し合う日であろうと思っております。この社会の、地球が動いている鼓動に合わせて、人生90年であろうと、100年であろうと、人々とともに生かし生かされている以上は、時代が要求する変化、この時代の新しい精神を、お年を召した方も、若い方もご一緒に共有し、変わるべきところは変わらなければならないと私は思っております。

新しい意味で高まる地域の重要性

ラインホルド・ニーバー(1892~1971年)という20世紀のアメリカの牧師さんの3つの祈りという言葉が有名であります。「私に力を与えたまえ。変えるべきものを変える勇気という力と、私の力で変えることができないものについては、受け入れる冷静さと、そして前の二つ、変えるべきものと受け入れるべきものを峻別できる知恵を与えたまえ」。今、私たちは、多種多様な変化の時代を、特に人生100年社会へという人類の歴史の中で、初めての長寿を普遍的に獲得した社会を生きています。そして、生きる主人公は人間であります。その人間の幸せのために、私たちは初代として、今日も一歩、一歩努力をしているのだと思うと、なかなかいい時に生まれてきたではないかと私は喜ばしく思っております。こうした長寿も平和と一定の豊かさの所産であり、少し上の世代の人がどんなに生きることを渇仰しつつ、若い命を散らしたかと思いますと、それに続く私たちの世代は、人が人生100年生きても安心し、長生きしてよかったと言える、長寿を祝福できる社会をつくるために、微力を尽さなくてはならないと思っています。というところで、ローカル・コミュニティについて最後まで述べなくてはいけません。

地域で「子どもをみる」ということは新しいことなのです。これまでは親の責任ばかり強調されてきました。もちろん親の責任は大きいですが、「地域の子」という視点も大切です。新しいという字は、「にい」(コミュニティの「ニ」)と読みます。そして、「ティ」は地域の地で、大地は土地の広がり、地域の広がりです。ですから、コミュニティは、「子どもをみる、新しい地域、新しい土地」と書きます。つまりローカル・コミュニティ=老可留子見新地(ローカルコミュニティ)で、「老人はそこに留まる(とまる)可(べ)し、子どもを、皆して見(・)守る新(・)しい地(・)域」というほどの意味になります。

大雑把に言えば、子どもは地域で育ち、そして年寄りは、エージング・イン・プレース、そこで老いていきます。とすると、人生100年において、地域の重要性は人生の入り口と出口を支える新しい意味で、ますます高まっていくのではないかと思います。

2012・「女性の変」

2012年の2つの「変」

さて、地域の好事例はこの会議の目玉で、皆様これからご参加になると思いますけれど、私からは時代を映す2つのことを申し上げたいと思います。

ニーバーは「変えるべきものを変える勇気」と言いましたけれど、その変えるべきもののなかには、もちろん高齢者の生き方自身、私たち自身のあり方を変えることも含まれています。

本日も参議院選挙の真っ只中ですけれど、昨2012年は、12月に政権交代がございまして、あたふたとした年でございましたが、政府関係の重要な文書が、2つ出たと私は注目しております。そういう意味では、2012年は記念すべき年だと思います。

超高齢社会を拓くには、どちらも重要な関係がある2頭立てコンビです。1つは「女性の変」、もう1つは「高齢者の変」と私は言っております。「変」というのは本来民衆が起こすものでありまして、為政者がなすべきことではないかもしれませんけれど、長年の当事者たち、女性たち、高齢者たちが思い続け、願い続け、そして、地を這うように活動し続けてきたことがようやく政権に届いて、政府文書として出されたという意味では、私は、これは女性たちがつくり、高齢者たちがつくったものだと思っております。

国際的な非難に晒されている日本の女性の地位

まず、女性のほうからいきます。女性のほうは昨年の6月22日に、「女性の活躍による経済活性化を推進する関係閣僚会議」が開催され、『「女性の活躍促進による経済活性化」行動計画~働く「なでしこ」大作戦~』が決定され、発表されました。

ご承知のとおり、ここ数年日本の女性の地位についてありとあらゆる国際機関から問題点を指摘され、あえて言えば非難されてまいりました。国連の女子差別撤廃員会であったり、OECD(Organization for Economic Cooperation and Development、経済協力開発機構)であったり、世界銀行であったり、世界経済フォーラム(WEF、World Economic Forum、毎年世界中の大企業約1000社が参加するダボス会議を開く非営利財団)であったりと、もうありとあらゆるそうした国際的な私的・公的機関から「何で日本の女性は世界的に見ても高学歴なのに社会進出が遅れているのか」ととがめられているのです。

男女の学歴差は今もあります。高校までは女子が凌ぐぐらいなのですけれど、四大となりますとまだ差があるし、大学院となるともっと差が開きます。しかし、日本の女性の教育水準は世界に誇るべきものです。世界の中で各国のあり方をいろいろ評価する機関がございますけれど、国連開発計画(UNDP、United Nations Development Program)の人間開発指数(HDI、Human Development Index、その国の、人々の生活の質や発展度合を示す指標)では、「人間開発報告書2013」によると、日本は187か国中10位です。この指数は、教育水準と成人識字率、平均寿命、1人あたり国民所得から算出されます。

そこまではよろしいのですが、社会に参加している割合はと申しますと、日本は、国連開発計画のジェンダー・エンパワーメント指数(GEM、gender empowerment measure、女性が積極的に経済活動や政治活動に参加し、意思決定に参加しているかを測るもの)では、「人間開発報告書2009」によると109か国中57位で、世界経済フォーラムの男女平等(ジェンダー・ギャップ)指数(経済活動の参加と機会、教育、健康と生存、政治への関与の4分野の男女格差を測定した指標)では、「グローバル・ジェンダー・ギャップ・レポート(The Global Gender Report)2012」によれば、135か国中101位で、前年の98位からランクダウンしています。

女性の国会議員比率、同じく地方議員比率、それから働いている女性の比率、その女性がどれだけ管理職になっているか、働いている女性の男性に対する給料の比率、こうした雇用者としての立場については、OECDなど、あるいは国連専門機関のILO(International Labor Organization、国際労働機関)などでたくさん調査をいたしておりますけれど、これまた、日本は、OECD34か国の中で下から何番目というところにあります。

日本において女性の進出が遅れる理由とは

日本女性はきちんと教育も受けているにもかかわらず、何故北欧諸国などが男子の賃金100に対して女性の賃金が80~90にまできているのに、70以下と低迷しているのか。そして、何で他の国は仕事と子育てが両立していて、子どもを産む期間も就労率が下がらないのか。これは、実際は1年間の育児休業をとって、家庭にいたりするのですけれど、育児休業ということは労働者の資格を失っていませんから、統計上は働いていることに入るからです。ところが、日本では、先日の発表でも、妊娠して働く女性は、子どもを産む以前に6~7割が退職しています。日本名物M字型カーブです。つまり、若い頃働きに出て、妊娠、出産、育児期に就労率がぐっと下がって、後はパートに出るけれど、賃金、待遇はずっと低い非正規雇用者として働くことになる。パート労働については、多くの方々は、あれは女のものだと思って、非正規雇用の不公平さにあまり目を向けないでいました。女性に対して行われたことは、対策を立てないと、すぐに男の人に普及します。今、非正規雇用は、女性と若い男性とが共有し合う大問題となりました。女性たちに非正規雇用がひろがっていく時、もっと雇用のあり方に歯止めをかけていたら、今の若い人たちの、あの不安定な雇用ぶりもなかったでありましょう。あえて言えば、もうちょっと出生率も上がったのではないかと思います。今の出生率の低さは、何といっても、若い世代の雇用の劣化が一番大きな原因であろうと思います。その証拠に、一定の雇用の安定が得られ、つまり、子どもを産んだからといって、職場から絶対に追い出されない制度ができている北欧諸国のみならず、最近ではフランス、イギリス、そうした国々では合計(特殊)出生率は、「WHO(World Health Organization、世界保健機関、国連の専門機関の1つ)世界保健統計2012版」によれば2010年では、1.9~2.0となっています。北欧諸国(ここでは、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、デンマークの4か国)は、全員共働き社会ですが、合計(特殊)出生率は1.9です。静止人口と言って、人口が横ばいになる合計出生率は先進国で大体2.0強だそうですから、ほぼそのへんを一つの目標に、男たちも女たちも皆が働き、男たちも女たちもそう長時間労働をせず、ようやく日本で育児をする男にイクメン、介護をする男にケアメンという名前を与え、企業でも育児休業制度、介護休業制度を大きく取り上げようという気分が湧いてまいりました。我が高連協としてもそのような風潮を是非後押ししていただきたいと思います。

そのようにして、女性が出産でほとんど職を失わずにすむ、介護を抱えた男女はそれでほとんど仕事を失わずにすむ、そういった国々で出生率が高く、世界で一番専業主婦が多い日本と韓国において出生率はそれぞれ2010年で1.4、1.3と未だに回復し難い水準であります。

先進国の中で、フランスは、出生率が1965年以降趨勢的にはずっと下がり、1994年には1.7にまで下がったのですけれど、女性の労働対策、子ども手当の創設、出生率回復のための年金の工夫などによって、2010年には2.0にまで回復しており、先進国の中でも出生率の高い米国(2.1)に近づくまでになりました。フランスとアメリカは、これからも2.00を超える出生率で推移していくことが想定されます。

グローバルな競争環境にある企業で進む「ダイバーシティの推進」

こうした中で、むしろ、女性の社会進出について日本が世界的に奇異な目で見られていることにまず気づいていったのは、経営者たちです。女性の活躍を何とか進めなければいけない。初めは女性の「活用」と言ったのですが、「活用」ではまるで利用するみたいだと言うので、「活躍」と言い換えました。「活躍」でも女性だけの問題だけではない、外国人、障がい者を含めて、「ダイバーシティ(diversity、多様性)の推進」という言葉を使っております。

まず、銀行とか、証券とか、損保とか、生保とか、それらを含めた金融関係で変化が見えました。グローバルな戦いが大きな業界です。これら業界の企業の経営者たちは、世界との競争を通して本当に大きく女性を活用しなければ、会社が持たないと考えたのでしょう。一般職と総合職の区分をやめて、高卒で採用した女子社員も含めて、差をつけるとすれば地域限定社員と、海外にも飛ばすことのできる全国型、全世界型社員の2類型だけに変えて、男子・女子の研修の差別もなくしてしまった。

そのような女性の活躍促進は、かなり前から女性が多いデパートとか、化粧品会社で進んでいましたが、今、エンドユーザーに女性の姿が見える業界では、全体にかなり本気で、女性の活躍に取り組んでいます。

安倍総理が4月19日に、日本経団連等経済三団体幹部に会って、女性の登用について、指導的地位を占める女性の割合を2020年までに30%程度とする政府目標の達成に向けて、全上場企業において積極的に役員、管理職に女性の登用を進め、まず執行役員、取締役などの役員のうち一人は女性を登用して欲しいと要請したことが話題になりました。今、執行役員には女性を登用していないところが多いのですけれど、上場企業はお互いにスクラムを組んで、5年計画、10年計画を立てて、執行役員に女性を登用していただきたいと思います。

「女性の進出・活躍」を促進するものは何か

かにかくに、グローバルな競争場裏に晒されている人から変わっていきます。ですから、日本は、男女共同参画に関しては、むしろ経営者層、それも大企業の経営者層から変わっていきました。

7月6日(現地時間)にサンフランシスコ国際空港で発生した韓国アシアナ航空214便の着陸失敗事故を調査している米国の国家運輸安全委員会(NTSB、National Transportation Safety Board)の委員長はデボラ・ハースマンさんという女性です。日本のイメージで、そこに女が就くことなんか考えられますか。アメリカの事故調査の委員長は女ですよ。

アメリカと日本とでは、戦争に向こうが勝った。こっちが負けたというだけで、終戦当時の女性の進出という点は似たようなものだったのです。たとえば、敗戦直後の、1940年代後半の全米における女医の数と、全日本における女医の数を比べると、日本のほうが多かった。つまり、アメリカにもいろいろなタブーがありました。ベティ・フリーダンが登場し、「女は家庭に帰れ、主婦になれというのか。これでは女性も社会も救われない」ということで、1963年に「The Feminine Mystique(女らしさの神話)」という本を書いて、全米の女性の胸に火をつけるまで、20年近い時間を要しました。世界にひろがる第二波フェミニズムの台頭です。この動きはやがて国連に定着し、女子差別撤廃条約につながります。それからの変化は、どうしてこのように速い国と遅い国があるのでしょうね。日本で、原発の事故調査委員長に女が座り、飛行機事故があったら、事故調のトップに女が座るという状況は、まだ先のようです。だけど、他の国の先進例を見て、多様性、つまり、年齢、人種、国籍、障がいの有無、そして一番大きな柱である男女という性別、それを越えていかないと、新しくていい考えは出てこないと気づくのです。

大企業がどこまで女性の活躍を推進しているかという調査機関J=Winというのがありまして、これは内永ゆか子さんという日本IBMの取締役専務執行役員、ベネッセホールディングス取締役副社長を歴任した女性が創ったNPO法人です。毎年ダイバーシティの推進という意味で優秀な企業を選ぶ審査委員会の委員長を私は4年連続務めさせていただいております。

最初、本当に目から鱗でした。私は、寿退職を散々見てきましたから、世の中が変わっても、政府が変わっても、女の意識が変わっても、最後に変わるのが企業だと思っておりました。国際的な競争場裡に晒される企業の一部はもう変わっております。つい最近、日立、東芝、トヨタ自動車といったメーカーがやはり女性の管理職活用を行なう計画をたてており、これはテレビでも大きく取り上げられていました。

だから、一番変わり難いのが国際的競争のない人たちだということにこの頃気がつきました。政治家です。そして、官僚です。官僚にも、国際的競争があると言えばあるのですけれど、企業ほど生き残りをかけてというところはありません。政治家は競争が激しいと言っても、選挙区の中での日本人相手の競争に勝てばいいのです。だから、意外に国際場裡の競争というものは、企業の経営者たちのほうが直面しているのだと思います。

力こぶの入った経済2団体の「女性の活躍」にも触れた宣言書

とかなんとか申しましても、日本経団連は、なかなか変わり難い団体です。でも、そのシンクタンクである21世紀政策研究所が昨年4月に「グローバルJAPAN~2050年シミュレーションと総合戦略」という報告書を出しました。大分前に読んだのですが、今のまま行きますと、2050年までにアメリカと中国はそれなりに世界のトップレベルの国になっているに違いないけれど、日本は、20位か、30位に落ちてしまって、かつて日本と言う経済大国があったということになると警告しております。その理由は、要するに、女性がどれだけ活躍しているかであって、アメリカはアメリカで女性が活躍しています。中国は、民主主義国ではないと私は思っています。ただ、男女の関係だけ言いますと、革命の評価はいろいろあるでしょうが、毛沢東が言った中で、一つ絶対いい言葉があります。「女性は天の半分である」と言って、女性の活躍を促し、家庭においても、夫の家事参加、育児参加を促しました。社会主義国だからと言って、女性が必ずしも進出しないのですが、この「女性は天の半分」というのは、毛沢東語録の中でも最大の言葉だと私は思います。

中国は、少なくとも日本よりも女性の社会的活躍が大きい。革命からもう二世代を経て定着しています。

アメリカはまた、変化を恐れぬ国ですから、変わるとなったら変わるわよ、ということで、あらゆる分野で女性の登用が珍しくなくなっています。全般的に女性の登用が進んでいるアメリカですが、上院議員の比率はまだ2割にいっておりません。

何はともあれ、日本経団連の21世紀政策研究所はそのような研究報告書を書いて、話題になりました。

それから、経済同友会は、個人参加でありますから、日本経団連よりもずっと小回りが利いて、発言が自由な団体です。その経済同友会が、去年5月に、会員が集まりまして、「『意思決定ボード』のダイバーシティに向けた経営者の行動宣言~競争力としての女性管理職・役員の登用・活用~」というかなり激しい報告書をつくりました。「このままだったら日本はつぶれる」、「これほど女性が参画していない国はない」、「工程表をつくって、女性を採用し、女性をこのポジティブ・アクションでも何でもいいから使って、登用せよ」、「何時いつまでにどうしろ」というように、メンバーには女性経営者もいるとはいえ、よくぞ男性経営者が圧倒的多数を占める同友会がここまで言ってくれたと思うような意見書を関係各省に退出いたしました。

脆弱性を強靱性に変えるべきチャンスにある今の日本

それを受けて、6月22日に、今度は当時の野田内閣の中に、担当大臣をつくりまして、1冊の文書をつくりました。これが、私が「女性の変」と呼んでいる去年の動きであります。そこにやはり、工程表をつくってどうするとか、女性の進学率を高めるとか、いろいろなことがたくさん書いてあります。

この行動計画は、工程表をつくるというから、私はとても期待していました。6月22日ですから、その後民主党を中心とする内閣は退陣するまで、若干の時間がございました。私の見る限り、野田総理が総理として国会で演説する機会は、それから2度あったと思います。2度あったにもかかわらず、この問題に工程表をつくって最重要課題とすると言いながら、この課題に全く触れませんでした。しかも、草案の段階では、人権の問題としてではなく、男女平等の問題としてではなく、経済活性化のためにこれを行うと但し書きされていたのには、唖然としました。

男女平等。男女だけでなくて、障がいの有無等を含めて、多様な人たちが限界を持ってそこここに置かれているのではなくて、同じように、能力を生かす道がないと社会は発展しません。そして、社会の一人ひとりがいろいろな人がいることに気づきます。どんなに威張っている、強そうな女の人だって、妊娠9か月においては身も不自由になります。私は本当に妊娠9か月目の1か月は、ダルマになったかと思った。手も足も出ない。本当に、人にはそういう時期がいろいろございます。そういう時期に皆が気づき、皆が助け合い、そして、支え合っていく。たまたまそこには大きなお腹を抱えて、身動きできない妊婦がいるかもしれない。いま病気している人がいるかもしれない。関心を持たなければそれまでです。皆が関心を持って、支え合い、力を発揮し合うことによって、この世の中に存在する脆弱性は、無関心な社会よりも遥かに強靱なものへと、本当にポンとその変換キーを叩けばたくさんの脆弱性が、しなやかな強靱性に転換することができます。今、私たちはそのような危機と、引っくり返せば、そのような大きなチャンスのはざまにいるのだと思っております。ということに経済社会のほうが気づいてやり出したのに、何を恐れていたのでしょうか。私は、民主党政権が2度でも、3度でもこのことを大きな声で述べてくれることを望んでおりました。それなのに、むしろこのことを戦略的にということでありましょうか、日本経済再生の証と言って取りあげたのが、今の安倍総理でした。

真の意味でワーク・ライフ・ケア・バランスのとれた社会づくりを

安倍総理は、演説で、何度も言っております。何度も言っておりますが、ただ、ちらっちらっと、衣の下から鎧が覗く。

別に、総理がやったことではないでしょうけれど、年齢的に早く出産しないと危険があると言って、政府が配布を検討していた「女性手帳」ですが、これには皆怒りましたね。「子供は、女一人でつくるのか」と。これは、何か頭掻いて引っ込めました。

それから、3歳まで3年間は、育児休業とれるようにと主張している。これには私も、全面的に反対ではありません。やっぱり、お子さんもいろいろな方が生まれます。障がいがあったり、特に弱かったりした時に、3年間濃厚な医療を必要としたり、そういう方に3年間職を確保できることは、選択肢の一つとしては、悪くないと思います。でも例外的でなく、これを標準化するとなると、3年間も、保険料を払ってくれる企業はどれぐらいいるでしょうね。それから、女性側からも3年間仕事から離れていると浦島太郎になってしまう、それよりも育休は1年でいいから、短時間勤務、多様な勤務体制の中で徐々に仕事に復していく、勤務方法の多様性こそが望まれています。これは、逆に働くお父さんが育児に関わることにも影響が及びます。今、女の人だって、浦島太郎になる心配で、心もそぞろなのですから、まして「男は仕事」と育てられたお父さんが「育休とれ」、「何か月も休んでいろ」なんて言われたら、本当に気もそぞろだと思いますよ。だけど、ある期間、4時間長く家にいて子育てをして、また職場へ行くというような多様性のあるシフトが考え直されていいのではないかと思っております。

私に言わせれば、女が3年間抱っこし放題の育児休業を取ると、夫は仕事し放題の3年間になってしまいます。これでは従来の日本労働者とくに男性の長時間労働の連続でしかありません。夫は職場から疲れ果てて深夜帰り、育児をたった一人で任された母親は、また育児でげっそりと疲れ、夜になって第二子をつくる元気を失うことになります。そのため、少子化はもっと進むでありましょう。抱っこし放題の相手が違ったのではありますまいか。もう少し短時間で、家へ早く帰れて、若い盛りの、命の盛りの、愛し合いたい盛りのカップルが抱っこし放題のひとときを過ごせるような勤務のあり方を、ワーク・ライフ・ケア・バランスのとれた社会にすることへの提言として聞きたいと思っています。これからの社会はワーク・ライフ・バランスだけでなく、命を育て、命を支えるケアを三位一体の1つに入れるべきと存じます。

「高齢者の変」

11年ぶりに新しくなった「高齢社会対策大綱」

さて、もう1つが、まさに「高齢者の変」でございます。ここにはご存じの方が多くいらっしゃると思いますが、我が高齢社会NGO連携協議会はしっかりと参画いたしました。11年ぶりに「高齢社会対策大綱」が改定されることになりまして、慶應義塾大学塾長である清家篤先生を座長に「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」がつくられまして、「高齢社会対策大綱」が改定されました。これは法律ではありません。大綱というのは、法律に準ずる政府の規則であり、決定でありまして、閣議決定しないと大綱にはなりません。9月7日に閣議決定されました。

「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」の委員には、高齢者と言われる方がいなかったものですから、やっぱり高齢者が声をあげなくてはということで、私たち高連協は、堀田先生、吉田専務理事、役員や関係者の方々で、高齢社会対策大綱決定に向けての提言書をつくりました。これは、たとえば、「高齢者であっても、その能力を可能な限り社会に生かすことは、その権利であると同時に社会的義務である、という思考を醸成する」とか、「社会的活動特に就労の場における非合理的な年齢差別を廃し、積極的な高齢者の能力を活用するため、『年齢差別禁止法』を制定する」などを含む、いくつもの具体的提言であり、昨年の初めにそれを当時の野田総理や「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」に提出いたしました。

できました大綱は、かなり私たちの主張が受け入れられていると存じます。新聞は、「高齢者のイメージ激変」、「支えられる側から支える側へ」というような言葉で報じました。今までは、公的な立場では「人生80年社会」しか言っていなかったのが、「人生90年社会」と、この大綱から言うようになりました。もちろん、「老後の安心を確保するための社会保障制度の確立」とか他にも大切なことがありますが、我々が提言したような、「高齢者の意欲と能力の活用」、「地域力の強化と安定的な地域社会の実現」、「安心・安全な生活環境の実現」という言葉や内容が強調されております。実は今日のテーマの「次世代につなぐ」ということはたいへん大事なこれからのテーマだと思いますけれど、私どもも「世代間の連帯」、「世代間の継承」ということを要望書の中に入れました。「若年時からの人生90年時代への備えと世代循環の実現」という言葉で、この世代をつなぐ言葉が新しい大綱の中に入っております。

これは、高齢者が支えられる側から支える側へという、基本的にはまことに立派な大綱だと思っていますけれど、6月が「女性の変」、9月が「高齢者の変」と私は名づけたのですが、残念ながら、女性への動きよりも高齢者への動きのほうが今のところ鈍いですね。そう思いませんか。もちろん、これからやるとは思いますけれど、これだけ団塊の世代を含めて高齢者が激増する社会において、何か具体的な政策を講じなければ絶対にまずいと思うのです。残念ながら、折角いい大綱ができているのですけれど、その後の動きが今までのところ、はかばかしくありません。まだ1年も経っておりませんし、参院選が終わってから、政権もいろいろ取り組むのだろうと期待しています。どうぞ我が高連協も、時代はますます65歳以上の人々が「人生65年社会」から「人生90年社会」への変化をよく認識し、自主性を生かした社会参加活動に入っていき、的確な声をあげて行動するように、提言を繰り返し、社会に働きかけていただきたいと思います。

全人口の4分の1を占めるに至った65歳以上の人たちが、きちんと声をあげて行動しないと、折角いい大綱が出ても、それはなかなか実現しません。

地域活動は「一端接着主義」が原則

それでは、どうすればいいか。今日のようなよい経験を交流し合っていくのもその1つでございます。そして、私は、選挙中だからこそ申し上げます。もうちょっと政治的発言が高齢者からあってよいと思います。しかしそれは、政党的発言ではありません。市民的結合は、党派的思想・信条はあえて問わないことです。それも多少ないと集まれないという人もいますけれど……。私は、これを「一端接着主義」と呼んでおります。自分という長い紐がある。その紐とあなたという紐がどこかで接着すれば、たった1枚のぺらぺらの紐は大きな房となって、そのようにいくつかの紐がどこかでつなぎ合わさって大きな輪となり、房となるのであります。

地域活動もそれです。地域活動では、過去を問うてはいけません。「過去は問わないリアルタイム主義」です。何か活動をしようと思った時、「何だ、お前はこの前の選挙で俺と違った人を入れたじゃないか」、「お前は何党びいきだ」。そのようなことを言ったら地域活動は進みませんよ。堀田先生もおっしゃいましたように、地域というのは、全て雑多な人の寄り集まりであります。「一端接着主義」でいくよりしょうがない。過去は問わない。そうすると、結構楽しい活動もできるところです。

年齢制限について考える

今、高齢者が優遇されているという声をよく聞くではありませんか。年金の仕組みから言えば、そうかもしれません。私たちの子どもたちは、我々世代がもらっていたような年金はもらえません。その次の世代となったら、年金制度は、ピラミッド型の人口構成をもとにしてつくったものでしたから、社会保障制度改革国民会議がこの8月にどう結論を出すか分かりませんが、人口構造の上から、将来壊滅する危険さえあります。しかし、そういうことを決定していくのに、やはり高齢者がどこかで参画し、発言していく必要があると思っております。

確かに、私たち高齢者は、今度の参院選でも投票率は高いではないですか。若い世代の投票率の低さは、ご存じのとおりです。それで、マスコミは口を揃えて、日本の政策は長年、年寄りにばかりに目を向けて、子どもをおろそかにしてきたと非難します。ある意味で当たっております。子育て支援に関しては、堀田先生はじめ、この会の多くの皆様にご協力いただいて、「日本子育て応援団」がありますが、もっともっと私は、地域の中で、地域こぞって子育てを進めていかなくてはいけないと思いますし、その中に男性・女性を問わず、高齢者のご参加が望ましいと思っております。

しかしですよ、そんなに高齢者は政策を動かしているでしょうか。投票行動こそするものの、政策にほとんど参画してはいないのではありませんか。今回は、参議院ですので、ちらほらと70代の候補者のお名前が見えます。

しかし、衆議院に関しては、自民、公明、民主の3大政党は、何らかの年齢的立候補制限をつけております。どのような長老であろうとこの例外ではありません。たとえば、中曽根康弘さんとか、宮澤喜一さんがある時立候補を断念したのは、時の小泉総理に言い渡された年齢制限によってでありました。私は決して中曽根さんにくみする者ではないけれど、ああいうかたちで、年齢を理由に立候補辞退を迫るのは、いかがなものであろうかと思っておりました。

というわけで、今、3大政党は、任期が終わった時70歳までとか、政党によってさまざまですが、年齢制限を設けております。小選挙区で戦って勝つ限りでは年齢制限はないけれど、比例代表制には年齢制限を適用するとかね……。その結果、日本の国会議員の年齢は、かつてある時期はそれこそ長老が頑張って、長老政治の老害だと言われたけれど、今は若いですよ。年々むしろ、候補者の顔写真なども、女優さんかタレントさんみたいになってきて、日本の国会議員の年齢は、決して高齢化しておりません。むしろ、65歳以上の人が全人口の24%いるのに、高齢者はその年齢の代表制を失っております。また、審議会の定年というのがございまして、何も国会議員だけではなく、審議会での発言も政治決定への1つの機会でございますが、これはもう10数年前から、かなり厳しく、70歳以上は審議会委員に任命しないことになっております。国の法律によって定められた国会や審議会では、実は審議会は70歳、国会はある意味もっと厳しいやり方で、高齢者が締め出されているのが現実です。

高齢者に求められている自分たちの声を届けることのできる新しい仕組みづくり

これに関して言えば、少し前までどこの国でも、女性は政治システム等に参加することがむずかしかったのです。それで、つくったのがクオータ制(Quota System)で、これは、政策決定の場の男女不均衡を解消するために男性と女性がある一定の割合で存在するように定める制度です。たとえば、フランスなどは憲法を改正し、「当選者の数が同数になるようにせよ」という条項を入れ、「公選職への女性と男性の平等なアクセスを促進する法律」(パリテ〔男女同数〕法)も制定し、候補者を男女半々とするよう政党に義務づけています。韓国も2000年に導入し、2005年まで3回改訂し、それに似た法律を整備済みです。スウェーデンは、比例代表名簿は男女交互となっています。その結果、フランスのいまの内閣は男女同数で構成されています。スウェーデンは、女性の国会議員が45.3%を占め、内閣の男女比は6:5です。韓国は日本よりも女性の政治参加が遅れていましたけれど、クオータ制採用後は日本を追い抜いております(女性の国会議員比率は、現在韓国が13.4%、日本が9.4%)。

私は、高齢者が支配する社会はよくないと思っています。国会議員の多くを中年以下が占めるのもよい。未来の長い人たちが政策決定すべきだと思っています。しかし、現にこの社会にいる、それも部厚くいる年齢層の声を届ける場所がなかったり、常に政策の受け手であるのはおかしいというか、公正ではありません。今の日本の政治から女性の代表性が欠落している以上に高齢者の代表性が消去されています。少なくとも高齢者に関係する法律制度に関して当事者である高齢者の意見を届けるシステムが必要です。政治的意味における高齢者の見える化です。

参議院のある部分にクオータ制のようなシステムをつくって、各年齢の代表を送り込むとか、あるいは、スウェーデンのやっているような高齢者評議会をつくって、各界の高齢者が集まって意見を言うとか、あるいはアメリカのいくつかの州がやっているように、州議会をある時期解放して、その時期その州で選ばれた高齢者が集まって、州の1年間の法律を高齢者の目から発言するとかをすべきではないでしょうか。

少し日本の高齢者はおとなし過ぎませんか。と申し上げて、終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。