栄典制度の在り方に関する懇談会第4回議事録

日時

平成13年3月19日(月) 10:00~12:00

場所

内閣総理大臣官邸大客間

議事次第

  1. 開会
  2. 意見交換
  3. 閉会

議事内容

吉川座長  それでは、定刻になりましたので、ただいまから第4回の「栄典制度の在り方に関する懇談会」を開催いたします。大変御多忙のところお集まりいただきまして、ありがとうございます。
今日の出席ですけれども、工藤座長代理と柳谷委員が所用のため欠席ということでございます。それから、副大臣も御欠席ということです。
それから、今日の会議ですけれども、これまでの主な議論を項目ごとに整理した資料があります。これを基に議論を深めていただくということと、整理する過程で、まだ議論されていないということも幾つか出てまいりましたので、それを御議論いただきたいということでございますので、よろしくお願いしたいと思います。
ここでプレスの方、御退場願うのですが、短時間で恐縮でございます。

(報道関係者退室)

吉川座長  それでは議事に入りますが、その前に一点お諮りしたい点があります。それは、この中のスケジュールなのですけれども、当初の予定では次回の5月の懇談会で中間報告というのを行うことにしておりましたが、若干まだ議論を深めることが必要な項目もございます。また、今申し上げましたようにまだ触れていない点も幾つか出てきたというようなことがありますので、更に広く国民から意見を聴取するということも必要だろうということが考えられますので、次回の5月の会議ではまだ結論的な中間報告という形ではなくて、本日までの議論を踏まえ論点を整理することとして、「論点の整理」というような形で公表するという内容の方が好ましいのではないかと考えているのですが、いかがでございますでしょうか。よろしいですか。

(「はい」と声あり)

吉川座長  それでは、そういうことにいたします。したがいまして、5月の段階で「論点の整理」というものを出して公表するということにいたします。
それでは、今日の議論の参考ですけれども、先ほど申し上げたように主な議論を項目ごとに整理したものというのが配付してありますので、これを賞勲局長から説明していただくことにいたします。
また、第1回の会合で事務局から栄典制度の概要について説明があった際に、時間の都合で説明を省略いたしました褒章制度についても、続けて説明をお願いしたいと思います。では、局長お願いします。

内閣府賞勲局長  それでは、御説明申し上げます。
まず、資料の1でございますが「懇談会における主な議論の整理」ということで、横書きにまとめてございますが、これは1回から3回までの懇談会におきまして、委員の先生方から出た意見、それから前回のヒアリングの際に参考人の方々から出た意見を項目別に整理をしたものでございます。従来出ました意見の整理ということでございますので、ちょっと読み上げ等は省略させていただきますが、中を見ていただきますと、特に5ページのところを見ていただきますと、空白になっている項目が何項目か残っております。
例えば、褒章の関係、まだ余り十分な御議論をいただいていないこともありますが、受章の年齢とか時期、それから文化勲章の関係でございますとか、勲章、褒章と関連する制度ということで、位階、その他の問題がございますが、この辺りがちょっとまだ触れられていないところがかなり残っております。ここら辺も含めまして、今回御議論いただければと思っております。
資料の1につきましては、以上にさせていただきまして、資料の2でございますが、勲章の非常に密接に関係する制度といたしまして、褒章の制度がございます。従来説明を省略しておりましたので、簡単に御紹介をしたいと思っております。
褒章の制度につきましては、明治14年12月に太政官布告として「褒章条例」というものが制定をされております。このときに、3つの褒章「紅綬褒章」「緑綬褒章」「藍綬褒章」と、この3つが制定をされております。
「紅綬褒章」につきましては、自己の危難を顧みず他人の生命を救助したる者ということ。
「緑綬褒章」につきましては、徳行卓絶なる者ということでございます。
「藍綬褒章」につきましては、公衆の利益を興し、成績著明なるものということで書かれております。後ほど現行の方のものにつきまして、細かい説明をさせていただきます。この後、大正の7年でございますが「紺綬褒章」、公益のために私財を寄付した者に授与というものが、新たに制定をされております。
昭和30年でございますが、政令の7号で、褒章条例の改正をいたしまして、2つの褒章を増設いたしております。
一つは「黄綬褒章」でございまして、業務に精励し衆民の模範たるべき者、もう一つが「紫綬褒章」、学術芸術上の発明改良創作に関し事績著明なる者、というものを追加いたしております。
これによりまして、褒章の種類が6種類、そこに表が出ておりますが「紅綬褒章」「緑綬褒章」「黄綬褒章」「紫綬褒章」「藍綬褒章」「紺綬褒章」こういうものが整理をされたところでございます。
このうち「黄綬褒章」「紫綬褒章」「藍綬褒章」この3つにつきましては、毎年春と秋の2回、勲章と併せまして発令をいたしておりまして、春おおむね900件、秋おおむね800件、これは春だけ推薦する役所とか、秋だけ推薦する役所があるために、若干の数字のずれがございますが、おおむね年間の1,700件から1,800件という数字が出ております。
「紅綬褒章」人命救助と、徳行卓絶なる者に対する「緑綬褒章」、それから「紺綬褒章」寄付の関係でございますが、これは事績の生じた都度出すということで、発令日は決まっておりません。
次のページを見ていただきますと、春秋の褒章のことでございますが、昭和53年の春から従前まちまちであった発令日を統一したということになっております。これは、役所ごとに、例えば各役所の創立記念日その他に発令をするようなことがございましたので、ばらばらでございましたが、やはり注目を集めて、マスコミに大きく報道されて人々に広く知っていただくということからいきましても、年2回に集約してやった方が良いだろうということで、春と秋に統一をいたしております。
手続につきましては、各省大臣の推薦を受けまして審査を行いまして、勲章と同じような審査手順を経ますが、それによりまして実施しているということでございます。
参考といたしまして、12年秋の褒章の受章者数を書いてございますが、黄綬、紫綬、藍綬、それぞれ307名、29名、440名 ということで、776名が出ております。女性の数は、勲章に比べますと若干こちらの方が比率としては高くなってございます。
年齢階層別が出ておりますが、褒章につきましては、特に年齢の制限ございませんが、一生の功績をある程度評価するということで、大体紫綬褒章でいきますと50歳以上、ほかの褒章につきましては55歳以上というようなことで出てきておりまして、この分布を見ていただきますと、50歳から54歳でも1名出ているというようなことがございます。
「その他の褒章」のところに書いてございますが、紅綬と紺綬は、いずれも表彰されるべき事績が生じた都度やるということでございます。
「紺綬褒章」につきましては、12年におきまして473名が出ておるということでございます。
「紅綬褒章」でございますが、これは平成元年以降の授与の実績が出ておりません。以前は、電車のホームから落ちた人を助け上げたというような人の例がございまして、実は、先日の新大久保のときもこれを適用するかどうかということを議論いたしましたが、その後もいろいろまたホームから落ちた人が出ておるわけで、また適当な人があったら推薦するようにと言っているのですけれども、今のところまだ出てきておりません。
「緑綬褒章」につきましては、「孝子、節婦、順孫、義僕の類」というようなことで書かれているせいもございますが、昭和27年5月以後新たな推薦がございません。
表彰されるべき方が亡くなった場合には、遺族の方に対しまして、こういうことで表彰がされましたということで杯をお送りして、遺族追賞という形で行っていることになっております。
具体的にどんな分野が対象かと言いますと、その次のページにございます。
「黄綬褒章」につきましては、その道一筋に努力をされて、一般の方の模範になるというような形を扱うということで、例えば身体障害者でありまして自立更生でこつこつと仕事をされている方とか、ホームヘルパーさんでありますとか、特別養護老人ホームの指導員でありますとか、ヘルパーさん等々、こういう方々を広く対象といたしております。
「紫綬褒章」につきましては、学術研究に係る功労、芸術・文化に係る功労、技術開発に係る功労者というような方々を対象としております。
「藍綬褒章」につきましては、これは2種類ございまして、1つは「公同の事務」、公に同じと書きますが、行政がやるべきであるようなものをボランティアで分担していただいているような方々、行政相談委員でありますとか国勢調査員、あるいは保護司でございますとか、調停委員の方々とか、こういう方々を対象とする分野。もう一つは「公衆の利益を興し」という分野でございまして、褒章条例によりますと、学校を建てたとか、橋を架けたとか、道路をつくったとか、そういうふうな具体的なことが書いてございますが、現在の基準でいきますと、業界のために努力されたとか、あるいは大きな企業を興されたというふうな方々を対象としたりをいたしております。これが、例えば関係団体役員でありますとか例示が挙がっておりますけれども、こういう方々を対象といたしておるというところでございます。
その次のページに「人目につきにくい分野等について」特にこういうところ積極的に取り上げようということでやっておりますが、特に褒章におきましては、勲章よりもこういう方々の比率が高いところでございまして、受章者の約70%が特に人目につきにくい分野の方々ということになります。
「叙勲と褒章の比較」というのが掲げてございます。叙勲は国家または公共に対する功労を総合評価するということでございますが、褒章につきましては、特定の分野において功績を挙げた方を対象といたします。
褒章につきましては、例えば一生に1回ということではなく、功績が上がったらその都度出せるというようなことになっておりまして、例えば同種の功績でありますと一定の年数をあけることを条件といたしておりますが、何回でも出せるという形になります。
対象者でございますが、叙勲につきましては、国家または公共に対する功労ということでございます。
褒章の方につきましては、褒章条例に掲げた事績を挙げた者ということで、こちらの方は主として民間人を対象といたしております。公務に従事したことによって出すということは、原則としてございません。紫綬褒章につきましては、国立大学の先生でも対象にはなりますけれども、ほかの分野につきましては、公務員でも例えば兼業というようなことで民間の団体の役員をしたというような方が、たまに出ることがありますが、原則として公務員を対象といたしておりません。
対象年齢といたしましては、叙勲につきましては原則70歳以上でございます。人目につきにくい分野が55歳以上でございます。褒章につきましては、おおむね55歳以上が原則でございまして、紫綬とか社会福祉分野につきましては、50歳以上というようなことで運用いたしております。この年齢につきましては、ある程度ゆとりは持たせてあるつもりでございます。こういうところが褒章の概要でございます。
それから、前回までに議論のありました民間の分野をどういう形で評価をしているかということについてご説明させていただきます。分野を例にとって申し上げますと、「新聞社」ですと、発行部数でありますとか、一般紙であるか業界紙であるか、一般紙であっても全国紙かブロック紙か県内紙か、というようなカテゴリーを考慮して評価をいたします。それと同時に、当該分野のその他の評価要素といたしまして、例えば日本新聞協会の役員をしている、あるいは専門新聞協会の役員をしているというような、役員歴等を加味するということでございます。
企業経営者、一般の企業についての評価でございますが、企業の規模、生産高、販売高、従業員数、それからその推移、大きくなっているか小さくなっているか横ばいかなどや、業界の中での動向、業界内の位置づけ、業界自体も大きくなっていく業界かどうかというようなことも入ります。また、当該分野のその他の評価要素といたしましては、全国団体、都道府県団体、一般の経済団体の役員をされているかどうか、というようなことも加味をするところでございます。
これを具体的に、産業分野を例として挙げてみますと、叙勲基準(昭和39年閣議決定)において、特に著しい功労のある方は勲二等以上、著しい功労のある方は勲四等以上、それから功労のある方は勲六等以上というような大雑把な区分がございましたが、これを活動範囲で見ますと、例えば全国規模の活動をされている方につきましては二等以上か、全国規模でもある程度規模の小さい方々については四等以上、地域単位あるいは県単位の方については六等、五等かというところから始まってまいります。
基本といたしましては、産業、特に自分の会社だけを見ているということからいきますと、国家、公共に対する功績が薄いという形になりますし、業界団体全体の面倒を見ておられるという方の方が、同じ企業であるとすれば、そちらの方が、功績が大きいというような形になろうかと思います。
また、業界全体の動向についても、どんどん拡大していく業界であるか、それともだんだん日本においては衰退していく業界であるのか、それから業界内におきまして、この企業をどのぐらいに位置づけられるのか、それから技術力とか、あるいはそういう技術の性格なども見ますが、あとは個人がどのような功績を出されているか、そこら辺を加味して功績評価を今まではしてきているということであります。以上でございます。

吉川座長  ありがとうございました。それでは、資料1の「懇談会における主な議論の整理」ですが、これはごらんいただきますとわかりますように「I」が「栄典の意義」で、「II」が2ページの始めから「叙勲制度の基本」、3ページ目にまいりまして「III 叙勲制度の運用」です。そして、あと5ページにいきまして「褒章」「その他」こういうふうに7項目に分かれて書かれているのですが、主としてI、II、IIIが重いのかなと思いますが、それについて順番に御意見をいただくと。何かコメントがあったり、あるいはこういうのを補足したりしたらどうかというような御意見、何でも結構でございます。御意見がありましたらいただきたいと思います。
最初に、それでは「I」の「栄典の意義」ということ、こういう整理でよろしいのかどうか、あるいは付け加えることがあるかどうか、御意見ございましたら御自由にどうぞ。
これをざっと見てみますと「現代における栄典の意義」ということで、これは最初にたくさん議論したことが書かれておりますが、歴史、伝統、文化、その他ですね。1から7まで括弧で書かれております。ここは割合と、問題のないというか、合意も得られているようなこともあります。何かありましたら、また後で戻ることにしまして、むしろ次のIIとIIIの方がいろんな御議論があると思いますので、2ページ目にいきまして「叙勲制度の基本」ということです。これは大きく分けて1、2、3、4、5という5つの項目ですが、最初が(1)等級の必要性(2)等級の数、表示方法。それから、大きな2が官民の在り方ということです。(1)では官と民というものの功績の比較をしているわけで(2)が政治家、公務員の扱い。3は、特別の警察官、自衛官等に対する叙勲の在り方。4が女性。5が新たな勲章の創設。こういう御意見が今まで出てきたということで、それを列挙していただいているわけです。何かございますでしょうか。
ここに書かれていることでも、更に意見を深めた方が良いというような意見でも結構でございます。

 これは、むしろ1ページの意義の(2)の「国家・社会への功労に対する国の評価・報い・栄誉」との関連なのですが、最近のものの言い方からすると、パブリックな面についての功労なのですが、それで実は2ページの大きな2の官の叙勲と民の叙勲の在り方というところなのですけれども、むしろ最近というか、私も個人的にもそう思っていますけれども、従来はパブリックという部分というのは、主として官の役割だというふうに思われてきているわけですけれども、そうではないという見方の方がむしろ主流だと思いますし、私はそれが正しいと思っています。
そういう点から言うと、官と民が本来違うのではないかという考え方は、これは実際どうするかというのは難しいところなのですけれども、ただ私は、ここはやはり違わないという見方で通していかないと、見直しをする、この辺はやはり非常に大きな点だと思います。特にこの大きな2の1と2というか、特に1についてやはり官と民では功績の質が違うのではないかと。質が違うというのは、テクニカルには違うけれども、本質的にはパブリックということについて評価をする場合には、やはり同じ物差しで同じ視点でやるというふうにしていくということが、非常に重要なことなのではないかという気がするので、では具体的にそれをどうするかというところは、これはちょっといろいろ考えなければいけないと思いますけれども、基本的な考え方としては非常に重要な部分だと思います。

 確かに官と民の功績が違うという言い方は、ちょっと違和感がありますね。

 特にパブリックな対象の1つであって。

 しかし、功績というものをどのように評価するかによって違うのではないでしょうか。例えば、要するに企業の経営者みたいな人、この人たちが企業を経営するということは、基本的には営利のためにやるわけでございますから、しかし、その反面例えば雇用の創出だとか、国民生活の向上に資する、とかいうことはあるけれども、そういうのと官との功績というものには、やはり差があるのではないでしょうか。それを物差しでどのように評価するということにはいろいろ問題があると思いますけれども、それを同じとはちょっと言えないのではないかと思うのだけれども。というのは、叙勲は国家・社会・公共に対する功績の大きさを評価するものであると、それであれば、ちょっと議論が混乱してもいけませんが、例えば褒章というのはこの資料に書いてあるように、善行の表彰でございますね。善行の表彰というものは国家・公共に対する功績というものとは違う角度ではないでしょうか。だから、そこのところは褒章と勲章の違いというものを理解した上で判断しないと、私は整理ができなくなってしまうのではないかと思います。

 今のお話わかるのですが、褒章の話は別にして、今は叙勲の方の話を申し上げているわけなのですが、むしろ企業経営というのは利益のためではないかという、ちょっとそれも異論がありますが、あえて言うと利益を出すことが社会のためなのです。やはり利益を出さない企業というのは、社会のためにならないという、これは非常に極端な言い方をしますけれども、私は利益を出すことだけが企業の目的とはちっとも思っていませんけれども、やはりそういう点から言うと、別に利益率の高い企業が褒章の対象になるわけでもないし、叙勲の対象になるわけでもないし、ちょっと企業の方はまた企業の方で、ああいう順序でやることは私異論がありますが、ただ端的に官と民を区別するということについては、よく考えなければいけないと思います。

吉川座長  今の意見をサポートするようなことを申し上げますが、本当の意味で社会の富、社会が富んでいるということは良いことなので、ある意味で社会の大きな目的なのだけれども、その社会の富をつくり出す最大の装置というのは企業なのです。我々が幾ら研究したって、豊かにならないのであって、ですからそれはやはり、別に企業は利益で、例えば研究者は利益を出してないとか、あるいは公務員は利益を求めてないということではなくて、やはり社会全体である種の利益というものを生み出そうとしているわけです。それが最終的な、本当の具体的に生み出すところが企業なのであって、ほかもみんなある意味では豊かになるためにやっているという意味では、同じのような気もしないではない。ですから、大きな目的があって、その中の役割分担として社会的な仕組みをつくっているのが公務員であり、それから何か新しい知恵を出すのが研究者であり、具体的にその富というものをつくる場面にいるのが企業と考えますと、そうすると利益のためというのを、自己の収入のためというふうに考えるのはおかしいわけで、やはり社会のためだというように考えも変わってきているような気がするのです。

 その点は、私もよく理解しておって、別に民に対する評価というものの範囲を拡大するとか、これを高めるとか、その点について私は何の異論もないのです。ただ、褒章はおいてという今お話でございましたけれども、栄典制度というのは褒章と勲章と2つ合わさったものと考えての議論だと私は思いますので、そうしますと褒章というものの考え方をどのように整理するか、つまり褒章は原則として官には適用がないもので、民のためのものでございます。そして、その中を見ますと、例えば藍綬褒章のようなものを見れば、商工業の振興に尽くしたというふうなことがあって、それが専ら民のための褒章制度として運用されているということ。
それから、もう一つはさっき言いましたようなことで、国家・公共に対する功績、これに報いるという考え方と、奇特な善行を表彰するという制度的な目的の違い、こういうものを重ね合わせてみますと、私は両方ともさっき言いましたように、民に対する叙勲の在り方というのを議論することは勿論結構です。それは大いにそうすべきものだと思いますが、そこの整理がなされてないと、私はちょっと混乱してくるのではないかと思うのです。結論をノーと言っているわけではないので、観念を整理してからやってもらいたいということです。

 今の御指摘をもう少し突っ込んで言うと、むしろ褒章の方が民に限られていることにもまた問題があるという見方もあるわけですね。

 そこのところは、創設の当初から運用上はそうですが。ただ、紫綬褒章みたいなものは、これは官にも今もあるわけです。そういう点が、褒章と勲章とのカバーし合うところ、グレーゾーンがあるわけです。それは当然あると思います。しかし、制度を立てた基本理念と言えば、国家・公共に、国家・公共とは何かということがありますが、そういうものへの功績への報いといいますか、それから、片や善行を表彰するという考え方でやっているわけですから、その考え方はやはり整理した上で勲章を議論するというのなら、両方のゾーンをはっきりさせた上で勲章をどうするかというところに入らないと、どこまでも混乱を付きまとってしまうのではないかと私は思うのです。

 私も、ここにたびたび出てきていますように、国家・社会・公共と並べられたときに、やはり公共というふうなものがどういう位置づけになるのか、ここをはっきりさせなければいけない。これは、皆様方のおっしゃっているとおりだと思います。非常に身近なことで考えてみますと、やはり今これだけ高齢者が増えてきて、介護保険制度ができました。世の中みんな小さい政府と申しまして、これだけ高齢者が増えてきて、以前でしたらまさに官が全部その自立できなかった方たちの、いろいろな仕組みをつくるだけではなくて、サービスも提供していかなければならなかったと思いますけれども、まさに介護保険は仕組みとして保険制度を律し、そしてそれに民間も関与するようになりましたので、かつて公がやったこと、自治体かもしれませんけれどもやったことを、今は民間の企業が実際に担うようになったわけでございます。やっているサービスは同じなのでございます。ですから、私はやはり今後、利益を追及しているから企業がやった場合はその対象にならないというのは、やはりちょっと違うのかなというふうに思います。これからは、NPOもそれに参入しておりますから、その人たちから見ればまさに利益を上げるということが目的でない民間というふうなものも、これはやはりまさにパブリックとして評価していく必要が今後あるのではないと思います。

 今ちょっと誤解があると思いますので申し上げますが、私は国家・公共への貢献ということに変化があることは当然だと思っているのです。例えば、今、公というものから民の方へ仕事が委譲されるというと変ですけれども、かつていただいた資料では、三公社というのは公の中に分類されているのです。しかし、今はそれは公じゃないのです。みんな民間の、国有鉄道というのはJRになってしまいましたし、たばこ会社もそうです。電電はまた公社でもなくなっています。つまりそれはかつて公がやっていたものが今は民に行っている。民に行ったから評価しないというのではなくて、民のやっていることが評価される内容が増えていると思うのです。
それから、今の高齢化の問題でも、今や民の分野が負担している公共的な意味というのは大変大きいと思うのです。それは大いに評価するべきではないかと思います。だから、そういう面に目を付けて、いわゆる民というものに対する評価を高めると、当然だと私は思うのです。だから、民だからだめだとかではなくて、公共というものをどう考えるか、それが勲章というものの制度を考える上に外してはならぬところではないかと私は思うのです。

 それは私も全く異論ございません。

 官か民かというときに、例えば産業分野の功績評価では、それぞれ企業が大中小、あるいは地域でも良いですけれども、そういう中で大きいものが勲一等、二等の方になっていますね。ですから、企業を云々ではなくて、規模ですね。非常に影響力のある母体を元に、例えば審議会へ出るとか、あるいは業界の長になるとか、これはもう本当にボランティアですね。純粋に企業の利益というより、全体の利益ですね。私企業の利益でなく、全体を見ていろいろ労を取っているということに対する評価です。
ところが、褒章を見ますと、これはもう全く個人ですね。どこに、大きいところに属しているというのではなく、個人の行為、研究を評価というと、それがちょっと違うのではないでしょうか。組織の中の代表で、個人的に表彰というのではなく、大きいところにいて影響力の大きい、またそういうものを純粋に使って公共に奉仕するという、これを長として代表して評価されるという、これがパブリックという精神につながるということではないでしょうか。

 産業分野の功績評価の場合に、これは、私はある意味で公だと思うのです。公というかパブリックだと思うのです。その面の功績というのは非常に評価されているということであって、そういう点に目を付けて、着目していわゆる民というところにおける功績の評価というものを、もっと重く見ても良いのではないかという感じです。

 今、伺っておりまして、多分それほど絶対的な意見の違いがあるのではなくて、ちょっと議論のレベルが異なっているのではないかという感じがするのです。今おっしゃったのは、いわゆる公共の精神とか、そういうやや理念的な方のお話で、理念から言えば当然官と民とでは功績の質というかどうかは別として、成り立ちは違うだろうと思います。
これは、官の場合は一つの組織、民の場合も一つの組織というものがあって、その制度設計というのは当然違うわけですから、そこでの代表ないしそこでの組織のトップがもらう勲章の質と言いますか、その考え方というのは違ってきて当然だと思います。
ただ、それともう一つは出す側の、つまり勲章を出す側のそういう意識と、多分もらう方の意識との間に少しずれがあるのではないかと。もらう方は、組織の長としてもらっているかどうかというと、やはり自分に頂いたと思うでしょうし、ですから褒章の場合は明らかに個人に出しておりますけれども、叙勲の場合もある代表というよりは、頂く方は個人のレベルでもらっているという意識が強いし、そうではなければまた叙勲のありがたみというのは実はないのではないか、という気がしますものですから、そこでアピールの仕方ですね。つまり勲章というのは一体どうあるべきかということを、従来そこら辺を言わばあいまいにしてきた、そのあいまいにしてきたことが悪いのではなくて、それが割合勲章というものを支える根っこにあったという感じがするのです。
だから、ここで議論をする場合は、そこをあえてはっきり分けるのか分けないのかという、そういう話ではないかという気がするのです。それが1点です。
前回、いろいろな団体の方やいろいろな分野の方からのヒアリングを受けたときの印象で申しますと、警察なんかも特にそうでしたけれども、想像以上に各分野での固定化と言いますか、その中での、つまり叙勲制度全体を見てこうというのではなくて、ある分野の中での特定化がすごく進んでいますから、そうすると進んでいる特定化の部分の議論と、我々がその全体の議論をするときに、どういうふうにそれを合わせたら良いのかというのは、なかなか難しいのかなという気がするのです。
固定的に各分野の中で運用されている運用の仕方を見ますと、これなかなか変えろと言いにくいのです。とにかくそれ自身自己主張ですから、しかも基本的にあるのは数をやはり増やしてほしいとか、等級は少しでも上が欲しいという議論に、各分野の中でいうとなりますから、そうすると改革をするというか、ある程度それを修正するという場合にはそこを越えた議論でくくっていかないといけないのかなという。そんな印象を持ちましたけれども、その2点申し上げます。

 先ほど、企業の長から、あるいは団体の長に推薦される。これは、個人ではないと言いますが、これは人望がなかったら、あるいは業績がなかったら、企業の長にもなれませんし、全体の団体の長にもなれないわけです。人望、見識、先見性、その他、そこへ上り詰めるということは大変な評価を経ていますから、それで長に差し上げても団体の長即個人という解釈で、いただく方は個人でもらったって、それはダブっていると思うのです。
そういう点で、地域の規模によって、地方であるとか新聞で言うと県紙、ブロック紙、あるいは全国紙という、そういう規模でどのぐらい影響力があるかというものを脱するには、個人の力ですね。組織でない、本当の表彰で、大学の教授でも個人的研究で特筆する方もあるということで、一般論としてこういう扱いをしないと、なかなか評価が難しいですから、長年の知恵でこういうふうに組織、評価ができ上がってきたのではないかと思います。

 そうですね。ですから、ここで整理しておかなければいけないのだけれども、やはり勲章というのは個人ですね。あくまで個人。これは、褒章も個人なのだけれども、勲章も個人だと思います。それは選ぶプロセスでこうなっているということはあっても、それはやはり個人を選び出すための選出の仕組みですね。ですから、やはりもらうのは個人でしかないですね。あいさつでは、企業が立派にやったので私がもらいましたなんてあいさつするのだけれども、それはあいさつであって、本当はやはり個人ですね。

 官でもそうですね。そこへ行くということが随分淘汰されて、みんなが同じ地位に行くのではなく、だんだん経緯を経ていきますから。

 今の官と民の違い、それは最初からずっと議論されてきたところだと思います。私は、やはり今まで数の方ではもう以前もここでも申し上げましたように、私は官民の格差というのは、警察官とか自衛隊とか、ああいう方々を除けば大体バランスが取れていると思いますが、中身になるとやはり私はやや官というか公優先の傾向は否めないのかなという感じがしております。
今、民の方々がいろいろな分野で活躍してらっしゃる。特に、さっきもちょっと御意見出ましたけれども、高齢者問題、これは今、介護保険その他で21世紀の非常に大きな問題の一つになると思うのですが、そういう分野には民の方々がかなり進出してきた。そして、お年寄りのそういう介護にも携わり、不安感を除去することに一所懸命になっていらっしゃった方がたくさんいらっしゃいます。ただ単に施設を造るだけでなくて、今からの施設はかくあるべしと、私たちが言っているのもそうなのですが、在宅、我が家とつながる施設を造っていこうと、こういうのを官の方では、今まで公の立場で、私たち個々の分野ではもう本当に昔から20年以上も前からやってきました。最近は、民の方々も同じ発想でいろいろやってくださっている方、もう本当に公だ民だではなくて、地域の住民の方々が喜んでいらっしゃるケースというのは、たくさん見たり聞いたりいたします。そういう点を、どういう評価していくのか、そういう公民、官民の共通点というのは、かなり以前よりは出てきたのかなと思います。
ただ、中身と言いますか、質その他になると、官の方は行政との連携を取りやすいし、いろいろやりやすい面があるのですが、民はなかなかという面もあります。そういう違いは確かにあるのですが、いずれにしろ民の方々が担っている役割はだんだん大きくなってきているのではないかなと。そういう中身を少し評価する方法が、この際少しお考えいただければありがたいなと思います。
それから褒章は、原則民だと、さっき局長の説明にもありました。そうしますと、褒章、叙勲というもの、これがやはり勲章と褒章と、2つの栄典制度の中で官民のバランスをどう取っていくのか、一方の褒章が民とすれば、一方の勲章の方はどうなのかという問題も併せて考えておく必要あるのかなと思います。
褒章と勲章は、本来本質的には違うと言っても、やはり栄典と言いますか、こういう叙勲という意味では、やはり功績を認められて、そしてそれが評価されるという点では、私は共通しているのかなと思います。
次に運用の面なのですが、先ほどの官と民の違いにもつながりますが、例えば、医師の分野で、病院長については、病床数が評価要素となっているのです。そうすると、その人の功績、確かに個人を顕彰するのに病床数で今まで来ていたのですが、今からそれで良いのかどうか、私はやはりかなりベッド数を持っていらっしゃる病院で、空床、患者さんが入っていないベッドがたくさんあります。それも全部含めて病床数って評価項目の中に入るというのは、いかがなものかなという感じもしますし、ただ単に患者さんを入院させておくだけが医療ではない。今からの医療というのは、高度先進医療も勿論そうですが、もっともっと変わっていると、高齢社会を迎えると介護との連携も必要になりますし、そういう場合の病院機能というものを、私はやはり是非評価していただきたい。これは病院長がトップですから、病院長がやる気を出せば、いろいろな病院機能が出てまいります。そういう点をひとつ、今後運用の面では是非評価していただきたいなと思っております。

西川内閣府大臣政務官  この間政務官会議でも栄典制度を取り上げまして、局長から紹介をしてもらって、意見をもらいました。その中に、その時、またその後にも貴重な意見がありましたので、私は貴重だと思いますので、幾つか申し上げたいと思います。
一つは、官の皆さんは在職当時の金銭とか報酬とか、非常に評価が低いということでありますので、栄典制度の中では高い取り扱いを受けたらどうかという意見が一つありました。
公務員をやめて、別な職場に行った人は、別な職場に行ったときの評価はすべきでなくて、公務員に在職当時の地位と言いますか、役職で勲章は考えてほしいと、もうその後のものはだめだという意見がありました。
もう一つは、例えば教員の場合、大学、高校、中学、小学、これは並べたら、大学が高くて小中学校が低いというのは逆だと。小学校教育は、最も動物に近いような状態から人間らしく育てるための苦労の度合いが違う。だから一芸に秀でた人たちは、むしろ、大学の教授よりも小学校の教員の方が高い評価をしてほしいという話がありました。
その中で、自衛隊、警察官が苦労しているので、これらも高く評価してくれというのは、関係政務官からもありました。
しかし、社会で自分の評価が高ければ不満そうでないのでしょうけれども、自分のところが低いと思ったら不満で出るわけでありまして、不満が出る部分はそれは社会的な変化が起きているわけでありますので、私は変化に対応して基準を変えていくべきだと思っています。
そういう意味からしますと、幾つか申し上げたのもそうでありますが、民も大幅に取り上げていただければと思っています。以上です。

 繰り返しになりますけれども、今、非常に重要なところは、先ほどの「資料2」の4ページのところで、叙勲と褒章の特徴というのはちゃんと書いてありまして、叙勲は国家または公共に対する功労の総合評価。褒章は、特定の分野についての、これは善行であるか功績であるか、これは表彰でありますけれども、やはり公共ということをもう一遍ここできちんと定義、考え方をきちんとしなければいけない。
私がちょっと申し上げたように、かつては公というのはおおむね官の分野であるというふうに見られていたのが、そうではなくなってきているということだし、これからますます、それはむしろおかしいことではなくて、公のこと、パブリックのことというのは、役所だとか政府だとか政治家に任せれば良いのだということではなくて、やはり、国民一人ひとりがパブリックの分野に関与していくのだというふうにしていかなければいけないことは、もうはっきりしているわけですから、そういう意味での公共をきちんとしていくということがひとつ。
それから、産業分野の評価で、これはもうしようがないのですけれども、今までは主として組織形態が全く典型的、大きい方がえらいとか、これは従来しようがないのです。それはやはり変わってきていると、ですからやはり全国区が地方区よりも高いとか、学校でいうと大学が小学校より高いとか、これはやはりちょっと考え方を変えていかないと、もう世の中のマジョリティに合わなくなってきていると思うのです。
ですから、公共も別に全国の公共と地方の公共というのはあって当然しかるべきであって、今の考え方でいきますと、もう地方に徹してやる方というのは勲一等なんてもらうチャンスが一生ないと、そんなばかなことはないのではないか。それは褒章でカバーすればと、褒章は特定の分野ですから、総合評価のところにもそういうことをきちんと入れていかないといけないので、もともとはまさに公というところを、もう一遍きちんと現在の時代的な枠組みの中でどう規定するかというところは、やはり非常に中心の問題になってくると思います。

 私も規制緩和とかいろいろな点からもありまして、さっきの三公社というようなものが既に民ということになっているのと同様に、今の社会福祉あるいは医療保険、そういう面でも、例えば、病院だって官がやっているばっかりではなく、むしろ民の方が多い面がございます。それから、福祉だって民のやることはうんと多い。それは、官だ民だではなくて、仕事自身の公共性というものをどう判断するかということではないかと思うのです。
そういう中で、病床数でものを判断するということ、これはある程度やむを得ないことかもしれませんが、これは仕事の公共性という判断をする上で官も民もない、両方に共通の問題であろうかと思いますので、基準を考えるときには今のように官も民もやっている。したがって、仕事そのものはもう公共的なものであると、その公共的なものを判断するときに、今の判断の基準として規模の問題とかいうのは、それは共通の問題になっているのではないか。
それから、今の問題で、これは昔からあったもので、教育問題が今ございましたけれども、例えば大学の先生なんかの場合に、私学と国立との差というものも、今のようにして考えれば両方とも教育という公共の仕事に携わるとすれば、その差はやはり考えていかなければならない。それは賞勲局でいろいろ考えて、この前も説明がありましたように、非常に両方の深さは縮小しつつあると、この方向は、私は正しいと思うのです。
ですから、官民というものは、仕事の面、実態の面から言って既に融合されつつある。だから、その仕事の公共性というものを見て判断したらどうかという考え方でございます。

 私もお話はみんなよくわかるのだけれども、仕事そのものというのがあって、それが昔は公共的なるものは官、私的利益を追及するものが私と、こういうので割合と調和的だったのです。今のお話にもありますように、しかしそうではないと、民の中にどんどんいろいろな、言わば私的利益を追及しないものが入ってくるし、それはもう世界的な傾向で、例えば会計検査はオランダではもう民がやっているのです。あんな我々にとっては一番公がやるべきものだと思っているのは、会社に委託してやっているわけですから、それは、みんなできるようになってくる。そうすると、恐らくどんどん民になりますね。ということは、社会が成熟してくれば、別に私的利益、公共的なものでも一つの企業というような形態の中でできるようになっているというわけですから、そういうふうに成熟度が我が国も上がってきていると、そうすると一体、官とは何なのだということになるのだけれども、どうも伺っていると官と民の違いというのは、仕事の内容の差ではなくて、やり方の差というのでしょうか。やはり、官の方は国民的な合意に基づいて一つの枠組みをかっちり当てはめられた行政機関であったり、法律であったり、そういったものの中でしか仕事はできない、言わば自分の自由意思で良いことやろうと思っても、それはできないような構造の中で仕事をしている。そういうものがどんな社会にも必ず必要だということだと思うのです。
民の方は、さっき言ったように成熟してくれば、どんどん公共的なものは民の方向に流れてくるわけですから、しかし民に入った人は、いつでもそれをやめても良いし、別の仕事にすぐ就くことができるという意味では、非常に自分の判断というもので行動できるということですね。
そういう意味で、やはり人間の社会というのはある意味では全体、その社会の構成員のコンセンサスの中できっちり義務感が仕事をしなければならない、言葉は良くないのだけれども、義務感で仕事をしなければならない人と、ある意味では自分の行動原理で行動する人と分かれている。むしろ官と民と、そういうふうになっているとすれば、やはり官に対して高い位が与えられるというのは、やはり国民の要請というもの非常に強く掛かっている一つの機関での仕事だということになるだと思うのです。
そうなると、やはり官と民という仕組みが変わったというよりは、何を官でやるか、何を民でやるかということが、むしろ変わってきたということです。これは、もしここで一歩踏み進んで言えば、だから変えなくて良いのだというふうになってしまうかもしれないのだけれども、それではいけないのです。そこで、だから官は無理しているから高くてもしようがないという言い方が出てくるのか、そうではなくて、従来非常に社会に功績があるというものが民に増えてきたので、民を上げるべきだというのか。後者でしょうね。

 官が無理しているからというのも、ちょっとそこは。

 官と民で非常に悩む議論の1つで、大会社の社長、大会社叙勲の評価としては、例えば資本金とか、従業員とか、売上高で業界のトップ会社だったとして、そういう会社の社長を10年やったとして、これが1つの叙勲の1つのベースになっている。それは、恐らく売上高とか、いろいろな社会的な寄与としての貢献、そこをリードしたという議論です。ところが、その方が団体活動をされると、団体活動に、やはり大きく分けると2つございまして、1つはその業界団体の会長とかいうものを10年やって引っ張っていただくという活動。それからもう一つは、その業界団体と関係ない文化活動とか、いわゆるもっと違った経済活動とか、そういったことをやられる。その人の人格とか、見識においてですね。そういうふうなもののミックスされたものが、その方の例えば、財界の方の叙勲をやるときに1つの判断になるわけなのです。その場合に問題は、今、官と民の議論ですが、資本金が、あるいは従業員が多い、売上高が多い、会社としての社長をリードしてきた部分と、それから業界団体をリードしてきた部分と、それから業界団体以外の自分の見識とか、いろいろなものでリードした部分と、それをどう評価するかと、それは民も官も要素としては入っているかもしれませんし、具体的な議論をすると、恐らく賞勲局長なんかが非常に悩むのは、そういったことだと思うのです。

 ちょっと、これは提案なのですが、今日のこの御議論は非常に大事なことが出てきたわけですけれども、これは西川大臣政務官からのお話によると、社会の変化に応じて、いろいろなことが変わってきたと、制度そのものは良いにしても、しかし社会の側が変わってきたので、いろいろな評価の尺度を変えなければいけないのではないかというお話で言えると思うのですが、1つは今の官と民の問題で、ですから変わりつつあるというときに、やはりこれをどういうふうにまとめるか、制度は変わらないで良いのだ、それは民がやるものが増えたにすぎないのだからというのもあるのだけれども、しかし、民の中でつい先ごろまで官の中で行われたような仕事が、今、民に行われていると、ここにやはりちょっと注目すべきだということがあります。いずれは、それは本当の普通の民になっちゃって、だれも普通の人がみんな民間だと思ってやるというふうになるのだけれども、それはやはり過渡期で努力しているような人がいて、これは三公社を廃止するときも非常な苦労をされて、社会のある意味では、そういう功績というのは、そのときにしかないわけですけれども、常時はないのだけれども、そういうのがある。
あるいは、最近のNPONGOといったような人たちもある意味では、社会の認知が非常に低いにもかかわらず努力しているとか、それはやはり民という世界に新しい仕事を、昔の官から移しているという功績だという、そういう従来にないような1つの視点をやはり入れるというのは、どうも官民問題の1つの解決策のような気がします。結果的には民が増えているという、こういうことだと思います。そこを1つ。
もう一つは、これも西川大臣政務官がおっしゃった分野別の違いです。学校教育が逆転するべきだと、大変面白い、良い発想の気もしますし、それから警察官はどうしても、勲一等もらえないのかということですよね。これは、むしろ解決策としては、これは私の個人的な考えで、これから議論していくのですけれども、どんな分野でも必ず立派ならば勲一等までいっているという構造にしませんと、その警察官は例えば、五、六等系が多いにしても、10年に一遍でも良いから、非常に奇特な人が出てくれば、勲一等までいけるなという仕組みにしておかないと、やはりその分野を、言わば職業の規制など、初めからこれを決めてしまうのはよくないという話につながるわけです。

 官民の問題ですけれども、非常に安定した、あるいは変化が余りない時代なら決まり切った法制度の下で官が主流になって、何でも処理できるのですけれども、今のようなグローバルな非常に激動の期になると、官がすぐ即決しろという言う場合、予算のことなどあらゆることについて手続が要りますから、それではどこがそういうのをカバーするのだと言ったら、そういう意味で民のカバーというのが即応性があります。
例えば文化財のことでも、我々やっているのですけれども、最初から国がやりなさいという、どこが所管するのか、どこの責任においてやるのか、なかなか即応できないわけです。そういうときに、動きやすい組織があって、瞬時にして反応して、これはもう民だけでもできないし、官でもできないわけです。これは官民が一緒になってやって、世論をつくるのでも民が世論をつくる。そして官へ結ぶというように、これが機能としてうまく連動していく社会というので、上手に関係づけられているところは、ちょうど私は交番や、あるいは医療で説明するのですけれども、官の場合は警察組織で言えば、警察署という大規模で、民の方は交番です。何か通報があったら自転車ですぐ駆け付けるという、これぐらいは簡単にできるのですけれども、大事な大きなことをすぐ解決できるかというのは、診療所でもそうです。診て判断して、これもうとてもだめだと総合病院へ引っ張って行く、専門のところへ紹介するという、こういう組織が上手にできていると、役割分担でうまくいって、そっちが責任だとか、こっちが責任だとかという縄張りがなくなると思うのです。それが、今、医療問題や福祉の問題や、いろいろなので入り乱れてきているという時代の変化です。これが今までの処理できる叙勲の問題とはみ出した問題が共存しているものですから、時々出てくるのではないでしょうか、これをどうするかという。

吉川座長  今のお話でよろしいかと思うのです。やはりいろいろ変動期において混乱してくると、これはいつの時代にもあるわけで、特に今あるという気がするのですが、今出てきているいろいろな不満というのは、やはり変化に対応して出てきたのだとすれば、それはその変化そのものを認知しているということを、この運用の中で表現していかなければならないということになると思うのです。
したがって、大変運用的な話を今、話しているわけですが、実はもう運用の話まで入っているわけで、そういった意味で少し次のところへ、そのほかにいろいろ議論しなければならないところもあるのですけれども、基本のところは今ほとんど官民の話で、さまざまなことが議論されましたけれども、いかがでしょうか。
女性の問題について、これはちょっと、まだはっきりとした結論はないです。

 宝冠章を継続するか、しないかと、そういうことですか。

吉川座長  そうですね。ちょっと、これはまた後にしまして、次に叙勲制度の運用の方で、これも今もいろいろ出てきていますが、いかがでしょうか。叙勲の対象はほとんど今の議論だと思うのです。それから受章者数と年齢の問題がちょっとあります。

 年齢が70歳というのは、やはりこんなものなのでしょうかね。かつてに比べれば70歳まで達する方が非常に多くなる。

 この間のヒアリングと言いますか、お話をお伺いしていて警察官の方々が非常にハードルがあって云々というような話をしておられました。私は、やはり今、警察もいろいろ新聞紙上をにぎわしておりますが、しかし、多くの警察官の方々は、やはり大変な仕事を、一生自分の天職としてやっていらっしゃると思うのです。交番も本当に辺鄙な中山間地域、離島の交番にまで行かれてがんばっていらっしゃる方々、こういう方々がやはり何らかの形で報われる、そういう仕組みがあるわけですが、この年齢、時期というものを少し早目に差し上げるというのは無理なのか。そのためにはやはり条件が必要でありましょうし、そういう点をひとつ考えるというのはどうだろう。一般的に私は現在、70歳以上そういう危険な方々55歳以上というのは、原則論はそれで適当ではないかなと思いますけれども、特にその中でもというような方々に対して、何らかの特例的な配慮がなされる運用面に今度もなるのかもしれませんが、基準をこの際ちょっとつくっていただいたらどうなのかなという感じがするのですが。

内閣府賞勲局長  警察の方々、生命の危険になるような分野につきましては、55歳以上ということになっているのですが、春秋叙勲の枠の中に入れるために数がたくさん出せない。そのために段々高齢化していると、こういう実情でございまして、それが数の問題と、それから春秋叙勲の中に全部入れてしまうかどうか、というところに掛かってくるということになろうかと思っております。

 この栄誉の問題は、叙位叙勲をした場合に、上がりですよということなのか、もうこれで何もやらなくても良いという本当の上がりというものなのか、ますますこれをバネにしてがんばってくださいというのか、この評価のどこの置き方、例えば文化勲章の場合は八十幾つ過ぎの方が多いわけです。それでいただいたら、ぽっくりというのではないですけれども、もう余り活躍できないときにいただくというので、これが早いと、それをバネにもう一つがんばるという、そういう顕彰なのか、仕上りなのかというなかなか難しいところですけれども、その勲章の質があると思うのです。良いときに何回でも今差し上げますよというのもあれば、年齢でこれから皆さんの規範になるように、更にがんばるということなのか、どういうところにねらいがあるか、基準があるかという、これはまた非常に大事な問題だと思います。

 これは、叙勲を受けた人の心掛けではないですかね。もらったからがんばろうというので、これで良いとは思うのです。

内閣府賞勲局長  発足の経緯からいきますと、春秋叙勲を始めるときには、人に序列をつけるのはどうかというのは1つありまして、70歳以上の方であれば原則はもう上がっておられるという前提だったろうと思うのです。その後、確かに皆さんお年でも元気で活躍というのがひとつありまして、それで再叙勲みたいな制度も一応つくってはおるわけですけれども、確かに受ける方の意識もかなり大きいと思います。国会の先生の中ですと、もらうと上がりと思われるので、引退するまではもらわないというような分野もありますし、確かにもらわれて再度元気にがんばろうと思う方もいらっしゃいますし。

 意識の問題もございますから、70歳のカッティングポイントは難しいと思いますけれども、実際に見ていますと、やはり60歳を過ぎていくと、いろいろと個人差も出てきます。昔に私はこんな話を聞いたことがあって、70歳になるともう悪さをしないから叙勲をという形で、ということもあったということですけれども、今はもう全く皆さんお元気ですから、そういう悪さの方でカットはできないと思いますけれども、さっきちょっと言い掛けたように、60歳以上を過ぎると大変個人差があるので、やはり70歳以上というふうなことが1つの妥当な線かなと思います。これが75歳以上という小刻みにするのもおかしいし、ましてや65歳というのも、その決め方が、これはお医者様もいらっしゃいますから伺いたいのですけれども。
もう一つは、この間のヒアリングのときにも出ましたけれども、70歳に達するときに、例えば商工会議所の方が30年間という役員歴があって、30年というと40歳のときに役職に就かなくてはならないと。そのころはもう個人的に大変忙しくって、なかなかそこにはできないという話でございました。
私も調べてみましたが、私もちょっと関係しておりますけれども、更生保護という保護司というのがございます。この保護司さんが、やはり30年なのです。それで70歳ということになりますと、やはり40歳で保護司にならなくてはいけないのですが、そういう方になっていただきたいと担当の方も言っていらっしゃいますけれども、ちょっと40歳で自分の仕事をなげうって保護司の仕事に専念できるという人は、なかなかいないということなので、実際には定年近くになってから保護司を受けるというのが、やはり妥当なので、個人営業の方はちょっと別かもしれませんけれどもというような話もあります。ちょっと商工会議所の例と併せてみて、この70歳ということと、その70歳に至る経験のカウントの方をどれぐらいに考えるかというところを、やはり少し今回考えていただきたいと思いました。

 1つだけ。私はどっちかというと、少し下げた方が良いのではないかと思う方なのですが、それはなぜかと言いますと、幾つか理由がありますが、今さっき上がったことなのですけれども、私は基本的に気持ちだけではなくて、実際にも実態的にまだ元気なうちに受けられる方にした方が良い。それは1つには、海外の叙勲は別にいただいたって上がったなんて全然思わないわけです。随分若いときにいただくことが、海外の人だって言えば別ですが、それなりに賞をいただく。ですから、例えば比率は別にしても、60歳ぐらいからスタートしたとしても差し支えないのではないかということが1つ。それから、経済同友会にしろ、経団連にしろ、日経連にしろ、全国ベースの団体なわけです。別にそういうものの方が高いということ自体に私は個人的には余り賛成はしませんが、実はこれからの新しい業界なんかから言うと、むしろ若い方なんかの方が、そういうパブリックのポジションに就くチャンスが出てくるのです。70歳まで待ったら、もうとにかく、これは本当に文字通り上がりで、どうにもならないような高齢者ですから、むしろこれからの日本の社会を支えていくような新しい経済とか技術とか、そういう分野、しかもそのパブリックがまさにさっきから問題になっているポジションに座る人たちというのは、正直言って70になったらもう使いものにならないと、そういう分野は。ということも実際にあるわけで、そういう点から言うと、だからと言ってめちゃくちゃに若くすることはどうかと思いますが、頭出しは60歳ぐらいからとかということがあっても、ちっとも逆に言えば、早過ぎることもないという気がします。ですから、その辺は、今は一応、こっちの方の叙勲は70歳ということになっていますが、警察官の方は別にして、この辺を少し考えていただいたって良いのではないかと思うのです。これからのどうも新しい分野、一般論として若くなっていますけれども、特に新しい分野は若い人が多くなっていますから。

吉川座長  そうですね、これもやはり時代の変化ということで移行して、少しダイナミックに考えた方が良いですね。
それでは、その年齢問題も大体御議論いただきましたけれども、その次の3ページの目の下に書いてある4ですか、この選考の手続問題というのがあるのですが、これはまた非常に大きな問題なのですが、何かもう少し御意見がございますか。
これは基本的に推薦というのは、全部ボトムアップなのですよね。ここで言われている選考や審査の過程で、民間や第三者が入るというのは、これは最後の段階のことを言っているのでしょうか。

内閣府賞勲局長  例えば、自民党なんかでいろいろ話が出ましたときには、その審査の中身にも関与するというような話も出ておるわけなのですが、過去に栄典法を提案したりしたときに、とにかく民間の意見が反映されるようにというときには、制度全体を考える上での審議会によるものが適用されております。

 むしろ、制度を考えるものと、その審査の中にもう少し幅広い人を入れるべきなのかということと、2つあるわけですね。

 私は、制度全体の問題がありますから、したがって、審議会と有識者の会議とか、そういうような場面においては、民間の方の意見を大いに取り入れたらどうかと思います。全体の枠組みのようにね。しかし、その実際の審査等につきましては、これはまさに中立なパブリックなサービスとしてやらなければ、これは収拾がつかないというふうに思うのです。したがいまして、基本的にはこういう考え方で良いのではないかなというふうに思いますけれども。
それから、最終審査をより適正、公平なものにするためには推薦機関と言いますか、そこの機能というものを、もう少し考えてみなければいけないと思います。最終的にはとにかく先ほどからのお話しがあったように、いろいろな功績の総合評価ということになりますから、その総合評価を適正をならしめるためには、よほど推薦のところが、自分のところしか見ないで推薦してきたら、それは非常に欠落が出ますから、十分に見ていただくように、私は推薦のプロセスを十分整理してもらいたい、こういうふうに思います。

 今の御意見なのですが、私も全く同感です。現行のこのシステム、これはやはり基本的には、私はやはりこういう感じで組織から推薦して、主務官庁がそれをきちんと評価して、そうして賞勲局経由で上げていくという、今の流れというのは、基本的には私はやはり良いのだろうと思います。先ほど局長がおっしゃったように、どうそれを評価、審査をしていくかと、その仕組みはひとつ、やはり今一度考え直す点があるのかもしれません。
もう一つは、主務官庁と言いますけれども、その個人が幾つかの仕事をいろいろやっていらして、総合的にいろいろなことをやっていらっしゃる場合には、同じ厚生労働省の中でも、局が幾つかにまたがっている場合があります、そういう場合に主務官庁が何々局となれば、そこの局の範囲内での功績と言いますか、それしか目に入らなくなって、他の局の功績というものを過少評価するきらいが、出てこなければ幸いだなと思いますが、それを正しく功績評価をひとつ是非やっていただいくように、主務官庁の方でも、それぞれの部局でいろいろ連携プレーが取られるような、そんな方法論がひとつ是非欲しい。
今、例えば医療でも福祉でも、決して医療にしましても、今の医政局だけの問題ではありませんし、これは国保の問題等もあり保険局との連携も必要になりますし、更に老人問題だったら老健局との連携も必要なり、福祉も全く同じでありまして、社会・援護局や老健局との連携が不可欠、こんなことになります。主務官庁がどこということは、1つの局がやはり担当するにしても、その連携プレーがうまい具合行われるような、功績評価がこぼれてしまわないような、そんな仕組みをひとつ是非お考えいただければありがたいなと。

 非常にケースが少ないかと思うのですが、例の1つを申し上げると、各主務官庁から推薦していきます、その主務官庁はまた県に依頼を出す、それを県がまた下ろしますね。そうすると、結局最終的には団体になるわけなのです。例えば、幾つかの例の中の1つで、教育界で申し上げると、ものすごくみんなから評価されている人が、例えば語弊があるかもしれませんが、旧師範学校という1つのグループがございます。そこの人たちが挙がってくるのです。しかし、そこに入っていない方々で、恐らく立派な先生だ、立派な校長だと言われている人が、数が絞られるものですから、そうするとそこからアウトサイダーみたいな形の人は、どんなに地域社会で評価されていても、だから、役所が挙がってくれば非常に民主的なように見えるのです、各地域から全部挙がってくるから、我々は対外的には民主的にと言うのですけれども、現実には例は少ないでしょうけれども、立派な人でアウトサイダー的な立場の方が漏れてくるという、そこをどうするか、これは非常に難しい問題。多分医療界でもどこでもあるのではないでしょうか。

 あると思いますよ、それは。

 ただ、これは非常に難しいのだけれども、本当にこれが何とかできると本当に公平な公正な推薦制度になるのだなと、いつも気にしているのですけれども。

西川内閣府大臣政務官  4月1日から情報公開が始まります。そこで、この賞勲制度はどこまで、情報公開を迫られるのか、どこまで触れるか、そこは少し明らかにして議論した方が良いと思うのですが。

 私もこれを見まして、やはり情報公開が落ちていると思いました。

 今の情報公開に絡んで、これは実際に栄典制度になじむかどうかということがあるのですけれども、それは今おっしゃった、どういう基準で、どういう人たちが選ぶのかということについて、なるべくオープンにしていった方が良いという話と、それから、それはそれとして、結果として大体多くの人たちが当然だなと、例外はあったにしても、大部分がそういうふうに思ってもらうことが必要だと、それは今までのところは官民の問題や何かも、これもかなり誤解もあるとは私は思いますけれども、どうしてあんな人がとか、そういうような話が出てきていて、せっかくある栄典制度がやや歪められて伝わったり何かしている。
そのときにちょっと、私はなじまないと申し上げたのは、全部ではありませんけれども、日本でもそうですし、海外なんかに行きますと、いろいろなクラブだとか、メンバーシップ、単純にこういう人たちが入会を希望しておられますと、ある程度一応OKしているのですけれども、御異義ある方はありませんかと言われるのです。それでもともとこれは、ぎりぎりまで発表しないので多分その趣旨でしょうから、余り事前に名前が出てしまうということは、どうかなという気がしますが、すべてを対象にしなくても、やはりそれに類似のやり方というか、そのプロセスだけをそういうふうにさらすのか、最終的に候補者として、こうした人から出ていますけれども、異議ありませんかという形にするのか。
ここは、確かに非常に情報公開ということから結果論として多くの人たちによかったと思ってもらうようにしていくための工夫というのは、非常に重要な部分だと思います。
勲一等も、これは本当に民間の方の、かなり誤解だと思いますが、私なんか率直にこう見ていますと、かつては勲一等をもらった民間はほとんどないのではないかと思っていましたら、何か最近やたらとたくさん出て、やたらと言ったら語弊がありますけれども、変わってきたという印象は勿論あるわけです。これはどなたがどうだということはありませんが、しかし、民間の人たちに地方から全部みんなある程度主な人たちに意見を聴取したら、なんであの人が勲一等なのだ。本当にふさわしいかどうかということになると、大きいから良いことだという基準ではその通りですけれども、本当にそうかと思っている方たちは実際には随分あるわけです。

内閣府賞勲局長  この叙勲の関係の情報公開の絡みなのですが、個人の審査に関する資料自体はすべてプライバシーに関するものということで、非公開ということになっております。

 審査基準とか、そういうものをしっかりと公開するのは当然でございますけれどもね。

 そうですか、ベールに包んだ方が良いという意見もあるのですが。

 それは、やはり一番知りたいところだと思うのですけれども、しかし、今日御議論が出ていますように、それがやはりなかなか難しいだろうと私は思っています。審査基準とは何かと言いますと、結局何が公共に対する功労だというまで、この解釈というか価値観の違いもありますので、これが公開になればそれだけでもまた議論が非常に巻き起こるということも予想されますから、これも難しいのですが、しかし少なくともどういう基準で選んでいるのかということについては、少し抽象的になるかもしれないけれども、それも公開しないというわけにはいかないだろうと私は思っているのですが。

吉川座長  努力して公開しないといけない。それで議論が起これば、それは良いことですよね。ただ選考において、さあこの人は勲一等で良いか、確かにヨーロッパの方でありますよね、結婚式というのはいつも必ず新聞に出て、反対がなければ結婚してしまうという。あれも非常に大きな情報公開ですね。日本では後で通知が来ますけれども、その前に公開するという、そういうような社会的習慣がこの制度の中で乗るかどうかですね。それは、いずれにしても現実的な可能性の問題とも関わりがありますが、とにかく公開の方向を強めてということです。
そういう意味で、これはちょっと抽象的な話ですが、具体的な選考の基準については一つひとつやっていくと非常に大変なので、またもう少し、その次の尺度ということになりますか。

 女性の問題をあえて外されたのかもしれませんけれども、これはどういうふうに御議論いただくのでしょうか。私は先日ヒアリングのときにもありましたように、栄典制度は性に中立であって欲しいというふうに思います。

 そうですね。

 それで、宝冠章が何か大変美しいものであって、女性にとってそれは大変服装とマッチするという、ちょっと1回どこかで御説明があったのですけれども、これは理由にならないと思います。

 栄典制度は性に中立にあるべきというお話もあったのですが、いろいろな御意見があったような気がしたのですが、私としては当然本当に中立にするのが一番良いと思っているのですが、何か別の御意見はありますか。要するに区別しなくなるという方向に対して、区別するべきであるという御意見があれば、それは議論しなければいけないと思います。これはよろしいでしょうね。性に中立というのは議論すべきことでもないという気がするのですけれども。

 ただ皇族のみに限ると、私は皇族の関係はわかりませんので、ここは、ちょっと意見は保留にいたしますけれども。

 この辺の問題はむしろ別のところで議論すべきであって、男女別の勲章の問題ではないと思うのです、この話は。

 この懇談会は国民の叙位、叙勲の問題だと私は思っていますので、ちょっと皇室のことまでは及びませんので。

 ですから、宝冠章などが仮に皇室にあるとしても、今議論しているところについては性に中立にするというように解釈するべきなのでしょうね。よろしいですか、そういうような解釈で。

 性差なくするという見地から言えば、まさしくそういうことだと思います。前回のヒアリングの際の御意見にありましたけれども、皇室の場合の実績は残してということがありますが、それは良いか悪いかは別として、それはまさに皇室についてだけ性差を残すという意味合いになりますか、それは、私は不適当だと思います。廃止するのなら廃止するべきだと思います。ただ、そうなってくると女性の高位の勲章ですね、そういうときに当面どうするか、こういう問題が残ると思いますけれども、しかし、性差の点から止めるべしということになったら、制度そのものを止めなければいけないと思います。

吉川座長  ここでは当然皇室問題を議論するまではないと思いますので。

 参考までに男性の皇族は叙勲の対象になるのですか。

 それはあの人がもらったのに私がもらえないというような意味で、自分も欲しいということは率直にございます。そこまで言うべきどうかはわかりませんけれども、一緒に仕事をした私どもから見ますと、その人たちにもあげたいな。あげたらどんなに喜ぶだろうという感じでございます。

 わかりました。

内閣府賞勲局長  男性の皇族は、成年に達したときに大勲位菊花大綬章を受けております。

 もう自動的に一応あるわけですね。

 先ほどちょっと私が言い掛けた話なのですが、これは尺度の問題にも関わるのですけれども、どんな分野でも、例えば勲一等まで取れるというようなことにするという考え方はラジカル過ぎるのでしょうか。それは現実的には可能なのですか。要するに警察官、例えば警察官という例を取って良いかわからないのですが、警察官の場合にも、今の制度の中で勲一等をもらえるようにはなっているのでしょうか。

内閣府賞勲局長  例えば、警察官という官名の付いているところは、最高は警視総監までいらっしゃるわけですから、そういう組織の中で上がっていって、功績のある方で一等をもらう方はいらっしゃいます。

 そういう形ではあるのですね。

内閣府賞勲局長  ただ、要するに巡査の方たちに一等を取れるかというと、今の制度では無理だと。

 ですから、そこをどうするかということです。要するに、何て言うか、目に見えるような位というものと独立に叙勲をする面があり得るかですね。また、そういうことをするのが良いかどうかという問題が多いです。

 企業経営の面から言いますと、やはり地方で幾つかの点で、例えば、老舗なんていう言葉がありますね。これは本当に、やはり地方主体の全国区ではないところが多いのです。そういう点とか。
それから、現実に本当に地方のパブリックに県単位であるか、あるいは県を超えてとか、何々地方とかについて何代にもわたって、しかし、それは決して全国区でやっているわけではない。極論を言えば、国際化も特にやっていないということからすれば、パブリックに対してすばらしい貢献している経営者、そういう人たちから勲一等をもらう方が出てきたって一向におかしくないのだけれども、やはり今の対象から除かれるわけです。自動的に除かれてしまうと、それはちょっとどうかなと思います。ですから、勿論今の経済団体の長が、勿論いろいろあって、決して任期だけのことではない。その通りですけれども、同じような意味で、やはり地方とか、今の考え方からはちょっとはみ出てしまう方々も、やはり勲一等のチャンスがあるのだというふうにしておくことは必要だと思います。

 私も突き抜け方式は、一応制度として考えてみてはいかがかと思います。

 私は、この受章者数というのがありますね。さっき賞勲局長の御説明でも警察官なんかが、だんだん受章年齢が上がってきている。もう本当にもらうときには、何か定年間際になってしまうというケースがないわけではないと思うのです。学校の先生方も私は同じだろうと思うのです。そういう方々の場合には何か特例として、この数と言いますか、そういう枠を設けるというのは不可能なのでしょうか。全部の中で、やはりやらないといけないのか、こういう特殊な方々の場合には、何か枠を別途設けて、そこで救済するという言い方は悪いのですが、そういう方々が余り遅くならないように、せっかく55歳という目安があるのに、55歳のときにはたくさんいらっしゃって漏れていくという方々がいらっしゃると思うのです。そういう方々のための何か特別な枠というのが設けられるのか、設けられないのか、やはり全体の枠の中でないとだめなのか、いかがなものでしょうか。

 総数の問題ですよね。

内閣府賞勲局長  基本的には総数の問題なのです。それと同時に官民の数の問題に帰着するのですけれども、あの方々を官と分類している限りにおいては官が増えるわけです。ですから、そこを別枠として、こういうのを取って良いというような話があれば、そこではある程度処理できるかと思います。

 以前も申し上げたかと思うのですが、警察官とか、自衛官とかというのは、当然官ですよね、官以外の方がいらっしゃるわけがない。そうするとそれは官と民のバランスを考えるときに数からは、30%ぐらいいらっしゃるというのを別途の枠で考えるべきだと思うのです。全体の中で考えるから、官が民の2倍なんて声が出てきかねない。それは全然別の枠で考えますと、そのほかに民の職種の方はいらっしゃらないわけですから、そういうのを考えたら、そういう方々に対しては、何か別途考えても良いような感じがしないでもないのですが、いかがなものでしょうかね。

内閣府賞勲局長  春秋叙勲の枠の中で、こういう特別枠をつくって、あるいは春秋叙勲と近いですけれども違うものとして、そういう方々に出すものをつくるかということが1つあろうと思っています。

 春秋叙勲にこだわらなくても良いのではないですか。私は55歳、特に危険の多い業務について55歳と言っているけれども、さっきのお話とか実例を聞いてみれば、それは70歳になったり80歳になったりするということは、55歳と決めている意味がないと私は思うのです。だから制度的に意味のないようなことを55歳以上だと言って建前だけを強調するのも問題だと。だから春秋叙勲にこだわれば、その枠は困るということならば、むしろこだわらなくても良いのではないでしょうか。

 確かに55歳というのは非常に意味があるわけですね。ですから、これが別の理由で上に上がってきてしまうというのは、それ自体やはり良くないですね。

 若いうちにどうしたか、その意義をもう一回考え直す必要があるのかもしれません。

吉川座長  そうですね、これはやや技術的な問題が含まれていますけれども、55歳ということを非常に重視するならば、何らかの形でそれを解決するというようなことになりましょうかね。
さて、ほかに何か。もう、いろいろ御議論していただいているわけですが。

 小学校の先生、大学の先生、先生であることは変わりないのですけれども、組織の単位の秩序というのが今まであったわけです。それを情緒的に外して勲一等まで全部オープンにしろというのは根本的に解釈が違います。どれが偉いとか、低いとかではなく、今の警察官の問題にしても、これはもし質の問題の違いでうまくかみ合わない、等級がおかしいと言うのなら、別の枠を設けるとか、警察官なんか早くやった方が良いとかというのを、制度を考えませんと、このままの状態で無差別にやれとなると、こういう栄典制度そのものが崩壊するのではないでしょうか。

 一番初めに議論で出た、それはやはりパブリックというものをきちんと定義をし直すということでは。今まではパブリックが全国区の方が地方区よりも大きいとか、そういうコンセプトになり得るから、そこを変えることによって、今の筋がきちんと通ると思うのです。

 ですから、それだけはきちっとして、もし特別に立派な人があれば、また別な、個人的に漏れたり、個人的な教育者としてのそういう表彰の在り方というのはどこかにあるのではないでしょうか。

 私もそれは賛成で、栄典制度というのは、やはり余り特殊な分野をたくさんつくり過ぎない方が基本的には良いと思うのです。基本的には同じ価値観を共有するというところからスタートしませんと、多分制度として残っておいても、ますます形骸化していきますから、そこでそのパブリック、最初から出ている方向性とは何かというところの議論をきちんと詰めて、その上でさはさりながらその叙勲制度だけで吸い上げられないものというのは、褒章もあればそのほかの制度もあるわけで、その補完的な制度との関連性、ここをもう少しきちんと位置づけるということではないでしょうか。やはり今までは褒章制度と叙勲というのは、何となく、こうやって説明をされるとそうかと思いますけれども、一般的には何となく制度として、はっきり分けられているという感じもしませんので、そこのところの、まず叙勲があって、そのほかの制度がどういうふうに関わっているのかということを、やはりきちんと今回少し整理をした方が良いのではないか。そうすると他の制度の運用にも弾力的に響いていくと思うのです。そんな感じがしています。

 そうすると理論武装が必要なところのような気がするのですね。御指摘がありましたように、突き抜け方式というのは理念的に良いのか、情緒的に良いのか。これはあるのだけれども、やはりそのことだけを取り上げると非常に賞の秩序という問題が非常に大きく抵触するようなことがあって、したがってこれは本当に公共性なり、官民の差とか、そういったことが非常に理念的にきちっと整理でき、理論的にも定量的にも整理できたときに、結果として突き抜けるというなら良いのだけれども、突き抜けだけをやるというのは、やや情緒的なのかもしれません。

 制度そのものを変えることにつながります。

 私は突き抜け方式を検討したらどうですかと申し上げたのであって、私はまだ良いというのにはちょっと早いと思う。それからさっきから出ますように、どんなに、整理しても、必ず特例をつくらないと、何かこうはみ出るものがあるということなので、だから、そこは特例でということに、これは余り特例をつくり出したら、限りなく特例をつくらなくてはならないのではないかということだけはちょっと。

 それはおっしゃるとおりだと思いますね。私はさっき特例で言いましたけれども、みんなが特例になったら、これは基準も何にもないのと同じになりますから、そこはやはり歯止めが必要だろうと思います。

内閣府賞勲局長  勲章、褒章、これは単独で存在しているわけではございませんで、いろいろな民間の表彰制度、その他全体を一応見ながらというのが1つあります。そして、いろいろな分野で表彰された方々が吸い上げられてきているだろうという前提に我々は立っているものですが、例えば各省の大臣の表彰がある、それから知事の表彰とか、市町村長の表彰があるわけです。それから民間の賞も当然ございますけれども、そういうものを見た上で、どの辺に位置するのかという見方をしている。
したがって、先ほどおっしゃられたように、とび抜けというのがあってもおかしくはないのですが、そのときに何で客観性を見るのかなと、この人の方が圧倒的に高くて、この人が一等で良いというときに何を見たら、それが本当に我々も安心して出せるかというのが1つあるのです。
ですから、例えば学問の面でいきますと、いきなりノーベル賞をもらった方がいらっしゃると、そういうところは世界で認められた人だと、こういうことになりますから、出しても問題はないと、こう思うのですけれども、そこら辺の表彰の体系みたいのが立って、ちょっとこの分野だと、これはもらっても間違いない人だとか、そういうのがある程度はっきりしていると、我々としてもやりやすいのだと、こういうふうに思うのでございます。

 これは一方、今日はそこのところは議論していませんが、一とか二とかというのは廃止しようではないかと話がありますね。ですけれども、今は、1つには正しい言い方か否かは別にして、栄典制度の中のそれぞれなのだけれども、何となく、やはり叙勲のほうが褒章よりはレベルが上なのではないかという一般的な、それは誤っているかもしれないですけれども、そういう社会通念があって、しかもなおかつ一、二、三、四と書いてあって、ある仕事は五とか六しかもらえないと決まっていると、これはだれが考えたっておかしいのではないか、というのが私は普通だと思うのです。ですから、もう数値は止めますと、だからだれが考えたって上か下かわからないようにしましょうと。そうすればこれはまた別の話で、これはそうすると考え方が褒章と似てきますね。

 そうすると叙勲の制度が、このままだと崩壊ということになる。

 だから上下ないのだと決めるのは1つの考えですけれども、上下あるのだけれども、わかりにくいようにするというのか、この辺も決めておかないと。
ただ、一緒でしょ。やはり仕事というのは、やはりここに限られてしまうという、そういう考え方、くどいようですけれども、そのパブリックのやはり理念をきちんとやる。

 こういうことではないですか、感覚的に言うと何か、やはり突き抜ける方が良いような気がしますよね、これは職業に貴賎なしというのが社会的に定着して、それは事実なので、これは良いことだ。しかし何かここへきて、この職業、小学校は絶対に一等にはいかないというふうになっているのは、何か違和感があるという、それは非常に観念的なレベルで感じるということです。ですから等級をなくしてしまえという議論にも発展している。私は、やはり等級をなくすということと突き抜けるということは何か相互関係があって、どっちかを選択していく道があるような気がするのです。何とかくある違和感というのがね。そういうことをうまくどちらに行くとしても、整理するやはり理論づけ、これは今日御議論をいただいたような官民の整理が非常に大きな問題になるわけですが、それはひとつのケースですね。官民だけではなくて、この職業の位置づけという問題もまた別にあるわけですから、官と民という大きな区分けと、それから警察官、自衛官、それから民間と、そういったいろいろな違い、いろいろな区別というのが出てきます。ですから、ある意味ではそういう職の構造が社会全体に対してどう貢献しているのかというのを、もう一回見直す形で、このことをもう一回再整理することがどうしても必要になるという気がします。

 一つだけ、この褒章の方で、紅綬と緑綬というのはほとんど意見が出ていない。これはいずれにしても残すのですか、これから。

内閣府賞勲局長  緑綬褒章を活用しろという御意見が自民党でも出ていますが、現在その徳行というのを何かと考えた場合に、例えばボランティアみたいなものが入ってくるかなと思いますので、そこら辺の対象を今の表現は余りにもあいまいですから、ちょっと変えた上で使うものは使っていくべきだろう。

 今は、ボランティアなんかは、黄綬にも紫綬にも藍綬には入らないのですか。

内閣府賞勲局長  入っている部分もあるわけなのですが、それを特別、別立てにするかということです。それから、人命救助なんかはもっと頻繁に出しても良いだろうと思うのですけれども。

 紺綬というのはあるのですか今。

 紺綬は寄付をした場合です。

 これは今、あるのですね。

内閣府賞勲局長  はい。

 あと高額納税者という話がどっかに出ていますね。

 よろしいでしょうか。それでは、どうもありがとうございました。残り時間が少なくなりましたが、事務局から何かありましたらお願いします。

内閣府賞勲局長  紺綬褒章の対象に高額納税者を入れるべきだという御議論が出ておりました。納税は義務だから、それで払った者に対して褒章を出すのが良いのかという議論が一つと。もう一つは、最近の高額納税者を見ますと、本当に栄典の対象として良いのかどうかというのは、ちょっと考えなければいけないと思っています。

吉川座長  それは難しいですね。さて、それでまだ何かたくさん議論するべきことがあるような気がしますが、今日は大変前向きの御提案も含めた議論が出たような気がしますけれども、ちょっと整理してみますと、まず叙勲対象として官民問題が非常に議論されましたけれども、これは要するに官民というものの現代的な定義というのをする必要がある。これは褒章とかその他の賞との関連においてもそれを定義する必要があると。これは一番大きな問題です。
もう一つ議論されたのが、時代によって、これは非常に現実的な話ですけれども、官の仕事が民へどんどん移っているという過渡期的な中で、この叙勲をどういうふうに考えるかということで、その一つとしては官から民へ移ってきた部分というのに対して、光を当てないと、その分がある意味では狭間みたになっている面があるので、それは逆に新しい民というようなものを、推薦も含めた一つの対象として意識的にやる必要があるのではないかというような御提案もあったけれども、これは是非そういう形で可能かどうかわかりませんけれども具体化していく必要があると思います。
もう一つ、同じような意味ですけれども、この官民以外のいろいろな分野の軽重、重い軽いというものが、これは社会的に変わってきているということがあって、これもやはりもう一回見直すことが必要だろうということになろうかと思います。
それに関連して、先ほどの話ですね。突き抜けるかどうかというような話。あるいは、職業に貴賎がないのであれば等級をなくしてしまえというような話が出ていて、多分それは今の話と関係があるので、職業によって級が何かリンクしているように見える、等級がリンクしているように見えるということは、やはりきちっと一度議論しておかないと、何を議論したのかわからないという批判を多分受けてしまうことになろうかと思います。

年齢についても、ただ何となく上がってきたことに対して下げようというのではなくて、もうちょっと質的な議論があったような気がします。これは、一つは新しい分野は、若い人がやっているのだから、そういう人がやはりある程度早い時期にそういう人を表彰しなければ、あるいは叙勲しなければ、社会的にそういう若い仕事というのは認知されないということになりますので、そういった意味でも当然結果的に若い人が選ばれてくる可能性があるというような問題とか。

警察官のように非常に危険だという人は、55歳はやはりしっかり守った方が良いだろうということで、これはほかの原因で55歳が上がっているのだとすれば、それはむしろ、ほかの原因の方を除去して55歳にしても良いのかというような御議論があったと思います。

もう一つは、業績を総合的に見るというお話が随分出ましたけれども、これも時代の変化ということで、いわゆる縦割りの構造の中で功績、貢献をするという時代は終わっていて、ある意味ではその縦割りを壊して、領域を越えて貢献する方がむしろ社会のために良いのだ。これは、やはり行革なんかだって同じことだと思います。縦割りというものの弊害が出ているわけですから、そうやって縦割り中だけでこういう叙勲をしているということは、ある意味では時代に対応していないということで、その部分はやはり何とかして変えていこうということです。
あとやや別の話でございますが、公開問題はどこまで公開するかは別ですが、少なくとも制度についてはもう公開せざるを得ないという方向だと思いますので、電話のやり取りまで公開するかどうかは、これはまた別問題ですが、要するに制度としては公開するという方向で、その可能性を探るということでしょうか。これは、今でも随分公開されているわけですか。尺度の中身まではどうですか。

内閣府賞勲局長  具体的な基準はどちらかというとない。先例等の比較で評価しているということです。

吉川座長  それはちょっと収まらないかもしれませんね。それはある種の覚悟をしなければいけないわけですね。
そんなことで、大変今日はいろんな御提案も含めて幾つか出てまいりましたが、あとはどうするのですか。

 今日は女性の問題は出ないのですか。

 女性の問題は、これは前回結論が出ていませんが、女性の問題は全く中立ということにしてよろしいのではないでしょうか。

吉川座長  私もうまく整理できなかったのだけれども、この順序なのだけれども、女性問題というのはある意味では最初に出していただいても良いと思うのです。順番から言えば、最後の方に出てくるのではなくて。非常に大きな問題だと思いますので。

 宝冠章を残すべしという議論はあるのですか。

内閣府賞勲局長  そうですね。公式の場でお伺いした中では、前回のヒアリングの際には、皇族、外国人には残したらどうかという意見が一つございましたが、あと自民党の中でもやはり女性に非常にふさわしいものなので、そのまま残したらどうかという御意見があります。

吉川座長  これは、この懇談会としてはない方が良いという結論だということのようですね。それは、またいずれ議論が出てくる可能性は十分ありますけれども、ここではそういうことです。
さて、それでよろしいですか。もう時間も来ましたけれども、次回の会合は先ほど来、出ているように、5月22日、今度は午後2時から4時までということになっております。それで、その次の会合というのが更に予定されておりまして、それが7月16日午前10時から12時までということになっております。
5月で論点の整理について了承すれば、若干の修正はあるかもしれませんが、パブリック・コメントに出されて1か月間意見を募集いたします。それについて更にどうするか、というのを7月に議論するというプロセスになります。よろしいでしょうか。

 政党の方から申合せなどが出ておりますね。この懇談会との関係ではどんな調整をするのですか。

内閣府賞勲局長  与党3党は、こちらの方がどういう意見をまとめるかを今、見守っているというところでございまして、与党3党でまとまったのはこの間御紹介いたしました5項目だけで、勲等の数字はやめる、大幅に簡素化する等々でございます。

吉川座長 それでは、そういうことで、次回は更にまとめていくような議論を期待いたしますが、今日はこれで終わります。どうもありがとうございました。

(以上)