平成27年度「心の輪を広げる体験作文」作品集 中学生部門佳作

みな

香川大学教育部附属高松中学校三年 木口 瑞穂(香川県)

 養護学校に近い私の学校に通う途中、車に乗っているAさんを見かけるたびに私はあたたかい気持ちになります。

 私は小学六年生の時、サッカーの試合で骨折をし、松葉杖状態になりました。二月くらいのことで、卒業まであと間近という時期でした。私は手術をすることになって、二週間ほど学校に行けず、受験を経て皆と学校が離れることになっていた私にとって、大ダメージでした。

 退院して初めて学校に行った時、最初に立ちはだかったのは階段という壁です。両松葉に自分の全体重を預けるというのはとても怖かったです。何人かの友達は横について歩いてくれたり、片松葉を持ってもらったりして、手すりともう片松葉で上りました。段々と、気を遣わせていることに申し訳なくなってきて、自己嫌悪になる気持ちがありました。一方で、はなから素通りしていく人や、最初は声をかけてくれていた人もほんとに声をかけるだけになればなったで、逆の立場なら自分もそうなるかもと分かっていながらも、まあ人間って結局は一番自分がかわいいもんなあ…と、孤独感と、人間の冷たさを感じました。

 そんな中で、Aさんが、「大丈夫、がんばれ」と片松葉をひょいと持ってくれた時、じわーっと波が押し寄せてきて、他の人には感じない複雑な気持ちになりました。嬉しすぎる気持ちと、今までの自分への怒りです。Aさんはダウン症でした。幼い私はAさんのことをよく理解できず、変わったお友達という認識でした。きっと他の友達もそういう認識だったと思います。ダウン症の、顔や行動が特徴的であったり、コミュニケーションをとるのが苦手だったりに、そういう印象を持ったのだと思います。でもAさんはたまにわがままだけどとても明るい人でした。

 小学校低学年の頃、Aさんの机を触った誰かがその手を誰かになすりつけて、その誰かはほかのひとになすりつけて…ということをしていました。私が一番最初になることはなかったけれど、誰かになすりつけられると私も誰かを追っかけまわしていました。幼い私達にとってはそれがいいことではないという雰囲気を察しながらも、Aさんは笑いながらやめてよっていうだけだし、特別悪いことでもなさそう、そんな気持ちだったと思います。高学年になっていくと、ひどいことだと分かりました。一部の輩はまだ面白がっていたけれど、自分が一番かわいい私は止めることもできませんでした。五年六年と同じクラスになったけれどあまり傍に行くことはありませんでした。

 でもAさんは、私を誰よりも誰よりも暖かく助けてくれました。

 私はほんの数カ月すれば怪我する前とは変わらない生活に戻ります。でもそのほんの数カ月が苦痛でした。お店に行けばエレベーターが近くに無いことに不便さを感じたり、ちょっとした段差にうんざりしたり。普段の私なら気づけないことをたくさん感じました。当たり前が当たり前じゃない、みなと同じことが出来ないことが本当につらかったです。人間は所詮他人だ、そうも思いました。物理的にも精神的にもつらいことだらけでした。

 そんな怪我も一瞬の私に比べてAさんはたくさんのつらい経験を、誰よりも深い孤独を感じていたと思います。いや、私たちがさせてきていました。それなのにAさんは私を助けてくれました。それなのにとても明るくて、真の優しさをもっている一番暖かい人でした。なぜもっと早くAさんを理解することが、知ることが出来なかったのか、なぜもっとお話が出来なかったのかもっと仲良くなれなかったのか、そう思った時はもう卒業が迫っていました。

 祖母が障害者の方のドキュメンタリーを見て、「あんたはほんとに幸せやねぇ何も不自由なく生まれて。」と言いました。それは何か違うと思いました。障害をもつ方が不幸みたいな言い方です。でも障害を持っていなければと思う人はたくさんいるはずです。けれどそれは、私が、私たちが手を差し伸べていないから、歩み寄らないから、そう思わせているんだということに気づきました。

 もっとみんなが笑う、みんなが手を繋ぐ社会をつくらなければなりません。そのためにはまずお互いを知らなければなりません。自分と違うならいっそうのことです。誰かが転びそうでも誰かが手を取れば転びません。もっともっと皆が自分だけでなくひとに優しくならなければいけません。