平成27年度「心の輪を広げる体験作文」作品集 中学生部門優秀賞

「ごめんなさい」と「ありがとう」

筑波大学附属聴覚特別支援学校中学部三年 伊東 碧海(千葉県)

 小学生のとき、私は習い事が終わったあと、習い事で知り合った健聴の友達とよく遊んでいた。私がろう者ということもあって、皆、最初は戸惑っていたが、ゆっくり話したり、身ぶりをつけてくれたりと工夫して話してくれて、会話が弾んだ。それがとても嬉しくて、私は心一つという気持ちで遊んでいた。

 しかし、ある日のこと、いつものように皆で遊んでいるときに、友達の一人が勢いよく話しかけてきた。興奮していたのか、早口で口形も小さく、何を言っているのかが分からなかった。「もう一回言って」と私が聞き返すと、その友達は急にはっとなって「ごめんなさい」と謝ったのち、もう一回ゆっくりと話してくれた。今度は理解できた。とてもおもしろい話だったのに、私は笑えなかった。その友達が言った「ごめんなさい」という言葉が心に引っかかったままで、ずっと忘れられなかったのだ。

 私への気遣いを忘れてしまったことに対して友達は謝ったのだろう。そう分かっていても、そのときの私は無性に悲しかった。私は「かわいそう」と同情されているのだろうかと、どこか疑心暗鬼になってしまい、健聴の人との関わりを避けるようになった。

 中学生になって習い事を辞めてしまい、健聴の人と話す機会は少なくなってしまった。

 しかし、今年の夏にこんなことがあった。外出先でバス停に並んでいるときに、おばあさんに道を聞かれた。マスクをつけていたので、何を言っているのか分からない。聞き返して、また「ごめんなさい」と言われるのかと思うとおばあさんと向き合うのが怖かった。

「私は耳が聞こえません。すみません。他の人に……」と言い、そっぽを向こうとしたとき。おばあさんは「待って」という身ぶりをして私を引きとめた。マスクをとり、口を大きく開けて、もう一回話してくれたのだ。おかげで今度は話の内容を理解することができた。私もおばあさんの気持ちに応えようと一生懸命に道を教えた。おばあさんに「ありがとう」とお礼の言葉を言われたとき、とても温かく、優しい気持ちになった。

 バスに乗り、おばあさんのことを案じていたとき、ふいに友達から「ごめんなさい」と言われたことを思いだした。私はろう者であるということを言い訳にして、傷つくことを怖れて、健聴の友達から逃げようとしていたのではないか。障害のせいで差別されているかもしれない、同情されているのかもしれない。そんな気持ちで、私は自分から壁を作っていたのではないか。

 しかし、おばあさんは障害など関係ないと言わんばかりに、私を一人の人として普通に接してくれた。思えば、あの友達もそうだった。いつもゆっくりと分かりやすく話してくれた。それは差別や同情などではない。それなのに、たった一度のことで私は卑屈になりその友達の気持ちを自分から拒んでしまった。相手が私を思ってしてくれていることを私は当たり前のことのように思っていた。障害を持っているからといって、受動的であっていいはずがない。少しの違和感で「差別されている、同情されている」と一方的に思っていたら、どんな法律ができても、何も変わらない。

 自分から心を開いていこう。これからは障害を抜きにして、おばあさんがしてくれたように一人の人として沢山の人に関わっていきたい。思ったこともちゃんと話そう。

「ごめんなさいなんて、ちょっと寂しいよ。

そんなこと気にしなくていいって。」

そう言えばいい。ちゃんと向き合おう。

「ありがとう。」

様々な人とコミュニケーションをとって、そう言ってもらえるような人になっていきたい。