優秀賞 【中学生部門】 北原 匠

希望になりたい〜金さんがくれた人の輪〜

 

学校法人盈進学園 盈進中学高等学校 二年
きたはら たくみ
北原  匠 (広島県)

金泰九(キムテグ)さん。90才。瀬戸内海の小島に60年以上暮らしている。そこは岡山県の長島愛生園という国立(ハンセン病)療養所。私は、幼い頃から金さんが大好きだ。

ハンセン病は、かつて“らい”と呼ばれて、厳しい差別と偏見にさらされた。慢性の感染症で、主に末梢神経が冒され、知覚マヒなどを引き起こす。手足や顔に障がいが見えることなどから、人びとから嫌われてきた過去がある。現在の日本では、完全に克服されている。だから、現在の愛生園には、ハンセン病患者は一人もいない。かつてこの病を患った人は回復者と呼ばれ、金さんもその一人だ。

日本には、1996年まで、「らい予防法」という、ハンセン病にかかった人たちを愛生園などの人里離れた療養所に隔離する法律があった。金さんは1952年に、大阪に妻を残して長島愛生園に強制収容された。「回春寮という名の収容所で、裸にされ、身体検査をされたときに、『ああ、これで、妻のもとへは帰られないなぁ』と思った」と金さんは私に語った。

かつて、園内では、比較的病気の軽い人が病気の重い人の看病をしたり、手足の不自由な仲間のトイレの世話をしたり、畑仕事をしたり・・・療養所は病院。にもかかわらず、強制労働があったので、知覚マヒを起こした手足を痛め、そこに傷口をつくって病状が悪化した。「痛い」という感覚を奪われた手足の傷は、知らぬ間にさらに悪化し、指が曲がり、切断しなくてはならなくなった人も多かった。入所者のなかに、そんな人が多いのは、病気そのものによるものではなく、そのような理由からであり、後遺障がいに過ぎない。金さんは、差別に耐えてきたからこそ、私にも誰にでもやさしく、いつも笑顔だ。そんな金さんも手足に障がいがある。左手の五指はすべて曲がっている。右手の親指と人差し指と中指は切断、薬指と小指は曲がっている。でも、私は、そんな金さんの手が大好きで、会えば、いつもその手をずっと握っている。苦労したその手は、強く生きてきた証に思える。幼い頃、その手で、高々と抱き上げてもらったことがあるが、とてもうれしかったので、いまでもはっきり覚えている。

私には障がいがある。生まれつき骨の成長が極端に遅い骨幹端軟骨無形成症。現在、身長90㎝、体重18㎏。2万人に1人の割合で発症する厚生労働省の指定難病だ。私は脊椎の側弯を伴う。毎日3種類の投薬は欠かせない。

通っている中学校には感謝している。先生方と全校生徒1200人が私を受け入れてくれた。トイレには手すり、公衆電話には踏み台、勉強机は小さいサイズにしてもらった。

ただ1つ、不安なことがある。他の生徒が校舎内を走ることだ。ちょうど彼らのひざが私の頭にあたるので、何度か怖い思いをした。教室を出た途端、ぶつかった。私は突き飛ばされて頭を打った。大事に至らなかったが怖かった。先生も生徒も急ぐ場合もあるだろう。でも少しだけ周りを気にしてほしい。

7月下旬、相模原市の知的障害者施設で起きた殺人事件。怒り心頭。言語道断。人の命と生きる権利は、誰も奪うことはできない。

先日、学校の仲間や先輩たちと一泊二日で金さんに会いに行った。金さんは耳も目も衰えている。動きも遅くなり、言葉も少なくなった。少し悲しかったが、笑顔は衰えていなかった。私のことも覚えていてくれて、「(会えて)うれしいよ」と言ってくださった。金さんの手を握った。本当に勇気がわいてきた。

合宿だったので、男子5人で大きなお風呂に行った。背中を流し合って、湯船で語り合った。その嬉しさは最上級だった。なぜなら、気がついたら、みんなと同じように、私は普通に生活しているからだ。仲間こそ宝だ。

金さんがくれた人の輪。そして、人と人がつながるかけがえのない時間。金さんが私の希望であるように、私は、障がいのある人の希望になりたい。みんなが他者を思いやれば差別や偏見はきっとなくすことができる。