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障がい者制度改革推進会議 差別禁止部会(第13回)
議事録

○棟居部会長 定刻になりましたので、これより第13回「障がい者制度改革推進会議差別禁止部会」を開催させていただきます。
差別禁止部会は、傍聴希望の方に所定の手続を経て公開しております。また、会議の模様はインターネットを通じても幅広く情報提供いたします。
なお、御発言に際してのお願いとして、発言を求めるときは、まず挙手いただき、指名を受けた後、御自身のお名前を述べられてから、可能な限りゆっくりと御発言いただくようお願いします。
本日の会議は18時までを予定しております。
それでは、東室長から、委員、オブザーバー及び専門協力員の出席状況と資料説明をお願いします。
○東室長 どうもこんにちは。担当室長の東です。
本日の委員の出欠状況でありますが、本日は伊藤委員、山崎委員、遠藤オブザーバー、松本オブザーバーが御欠席でございます。野沢委員、池原委員、竹下委員が、若干遅れていると思いますが、来られると思います。そのほか川島委員が1時間遅れで御到着の予定でございます。その他の委員、オブザーバー、専門協力委員は御出席です。
本日の議事は、「情報の分野における差別禁止について」というものと、「教育の分野における差別禁止について」、更に「その他」という3つの項目で行います。15分の休憩を2回取ることとして、3つのコーナーでやることになります。
第1のコーナーは90分ほどを予定しております。「情報分野における差別禁止について(その2)」ということになりますが、最初に10分ほど、私の方から説明をさせていただきまして、その後、80分ほどで質疑と議論といった形で行います。
第2のコーナーも90分でありまして、最初に10分ほど、私の方から説明をさせていただきます。その後、80分ほどで質疑と議論を行っていくということになります。
第3のコーナーは、今後の予定ということでありますが、20分ほど取っております。
以上が今日の予定です。
次に資料の確認であります。まず、委員提出資料として、以下の5つを1つのまとめにしてあります。結構分厚いものです。
1つ目が、池原委員、大谷委員、竹下委員、連名で出されている資料があります。
2つ目が、池原委員が出されたもの。
3つ目が、太田委員が出されたもの。
4つ目が、大谷委員が出されたもの。
5つ目が、川島委員が出されたものです。
なお、以上とは別個に、当日配布資料の中に、竹下、池原、大谷委員連名で、「教育における差別禁止条項案」という1枚ものの紙があります。
そのほか、参考資料が3つほどあります。
参考資料1は、「関連条例・法律(抜粋)」。情報と教育に分けて書いてございます。
参考資料2は、「障害者に対する障害を理由とする差別事例等の調査」の中から、情報と教育に関連したものを抜粋したものがあります。
参考資料3は、「教育に関する各国法制度比較表」といった形でつくられたものです。
以上が資料なのですが、それに加えまして、議論の参考にということでありまして、次の3つの資料を別途、議場配付しております。
1つ目は、前回こちらの方で用意しました、「情報とコミュニケーション分野における差別について概念整理のための担当室メモ」というものがあるかと思います。
2つ目は、推進会議の方で出しました資料なのですが、「制度改革推進会議の進め方たたき台 第7回情報へのアクセス」といったものがあります。これは平成22年4月12日第7回推進会議で、「情報アクセス」の議論をした際の論点表です。
3つ目は、第5回目で行いました、教育に関する論点表であります。
以上が資料ですが、お手元にございますでしょうか、御確認ください。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
それでは、議事に入らせていただきます。
第1のコーナーは90分で、「情報の分野における差別禁止について(その2)」でございます。前回、「その1」を行っております。本日は「その2」です。最初に東室長から、論点等について10分程度で説明をいただきます。
○東室長 担当室の東です。具体的な議論に入る前に、情報やコミュニケーションに関連する現行法について、若干御説明をいたしたいと思います。
参考資料1というものがあります。これはおあけになっていただければと思います。
まず順序が、途中からですが、3ページに「障害者基本法」というものが挙げてあります。これは昨年改正された障害者基本法ですが、ここには情報やコミュニケーションに関連する条項として、まず基本原則という形で位置付けられている3条3号に規定があります。また、それ以下、22条、27条は、基本的施策として位置付けられているものがあります。
詳細な説明は省きますけれども、3条の方では、手話が言語として認知された上で、コミュニケーション手段の選択の機会の確保や拡大といったことがうたわれております。
個別施策につきましては、まず22条で、情報の利用におけるバリアフリー化等ということで、細かく書いてあるところがあります。この中では、特に3項などでは、「電気通信及び放送その他の情報の提供に係る役務の提供」などについて、障害者の利用の便宜を図るよう努めなければならないということが書いてありますが、この「電気通信及び放送その他の情報の提供に係る役務」という中には、テレビであったり、ラジオであったり、新聞など、結構広いものが入るという解釈だろうと思っております。
更には、27条には、消費生活する上で必要な情報というものがありますけれども、適切な方法によって情報の提供に努めなければならないといった規定があります。
更に、ここには書いておりませんけれども、司法手続につきましても、個々の障害者の特性に応じた意思疎通の手段の確保等が書かれているところであります。
このように、障害者基本法においても、情報コミュニケーションの問題は、重要な問題として位置付けられているところであります。
次のページをあけていただくと、いろいろな法律の名前が出ております。10個ぐらいの例を挙げておりますけれども、さまざまな法律の中でも、情報に関する規定のあるものがあります。
例えば最初に挙げてあります「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律」、いわゆる「バリアフリー新法」でありますが、これは、例えば8条4項などを見ると、「公共交通事業者等は、高齢者、障害者等に対し、これらの者が公共交通機関を利用して移動するために必要となる情報を適切に提供するよう努めなければならない」と書いてあります。ほかの法律も、このように、「何々について努めなければならない」というふうに書いてある法律と、例えばその下にあります「金融商品の販売等に関する法律」を見てみますと、全部は読みませんけれども、「次に掲げる事項(以下「重要事項」という。)について説明をしなければならない」というふうに、ここでは義務付けの規定になっているわけです。
しかも、その次の2項を見ますと、「前項の説明は、顧客の知識、経験、財産の状況及び当該金融商品の販売に係る契約を締結する目的に照らして、当該顧客に理解されるために必要な方法及び程度によるものでなければならない」といった形で書いてあるわけです。これはかなり個別の状況を前提に、法律の目的に照らして、適切な方法で説明しなければならない。ある意味、合理的配慮と似たような趣旨の規定があるわけです。
このように義務付けしてあるものもあるといったところでの御紹介でした。
条例ではどうなっているかということで、1~2ページを見ていただくと、ここでは千葉県と熊本県とさいたま市のいわゆる差別禁止条例が示されておりますけれども、ここでの書きぶりのパターンは、障害者が情報の提供を受ける場合と、情報を出す場合、その2つのパターンに分けて、それぞれ規定がなされているといったところが特徴かなと思っています。
そこで、まずは前回もお話ししましたように、この情報とコミュニケーションの分野における差別を考察する上で、受信と発信というふうに分けて考えるべきかどうか、その点をまず議論していただきたいと思っています。
委員提出資料の1ページには、「『障がいを理由とする差別を禁止する法律』日弁連法案概要」という形で資料が出ておりますが、ここでの情報の扱い方を見ますと、1ページの一番下に、「3 差別の定義」とありますが、この内容については2ページの上の方に書いてあります。「情報に関する差別とは、次に掲げるものをいうものとする」ということで、「(1)事業として不特定又は多数の者に対して情報の提供又は発信を行う者が、障がいを理由として、情報の提供又は発信について不利益な取扱いを行うこと」。更には合理的配慮のことが書いてありますが、ここでは、障害者が情報を受け取る場合、逆に言えば、相手方が情報を出す場合のことを念頭に置いて書いてあるわけです。だから障害者が情報を受領する場合だけを、ここでは書いてあります。
では、受ける場合とか双方向の場合はどうなるかというと、日弁連の案では、下の「第7 サービス」というところがありますが、その中の2、「(1)サービスを提供するにあたり、障がいのある人がサービスを利用することを容易にするため、適切な情報伝達方法を使用すること」という形で、合理的配慮を提供しなければならないというふうに書いてあるわけです。そこで対応するというようなことになっているのかなといったように読めるわけです。
だから、情報の発信・受信というものを必ずしも分ける必要があるのかどうかわかりませんが、2つのパターンがあるのだということは念頭に置いて考えていただきたいというふうに、思っておりますので、最初はそこを議論していただければと思います。
その上で、差別禁止の対象として、相手方の範囲をどう考えるかということです。今、お話ししました日弁連の案も、ここでは、先ほどの「差別の定義」を見ると、「事業として不特定又は多数の者に対して情報の提供又は発信を行う者」という形で書いてあるのです。ですから、事業として、もしくは業としてやらない場合には、ここに入らないということになるわけです。下の「サービス」のところを見ると、これは「サービスを提供するにあたり」ですから、サービスを提供しないような場合については、ここにも該当しないということが言えます。
そこら辺の、相手方の範囲がやはり重要な事項として議論されなければならないだろうというふうに思っておりますので、その部分については2番目で議論していただきたい。
そこを前提にして、この情報コミュニケーション分野における差別とは一体何なのか、その例外は何か、それと合理的配慮とは何なのか。勿論、例外を含めての議論をしていただければと思っております。
簡単ではございますが、以上、御説明でした。
○棟居部会長 ありがとうございました。
前回、第1回ということで御説明を既にいただいた点も敷衍をしていただきましたが、前回、その前にかなりこってりとヒアリングでやっていますので、私自身は最後の情報の話は余り頭にちゃんと入っていなかったかなということで、本日はそこを、まず第1コーナーでひとつやっておきたいということで、最初にお振りになったテーマ、お出しになった論点は、受信と発信、つまり障害者が受け取るという場合と、障害者が自ら発信していくという場合、この2つを分けて考えていくということの是非といいますか、よしあし。これは勿論、分けるといっても、全く基準を変えて考えるという、そういう立場もあるかもしれませんけれども、単に書き分けていくという、一応概念上の区別をした方がいいだろうというだけかもしれないし、かなりバリエーションがあると思いますけれども、受信と発信ついて、まず分けていくべきか。それとも一体として、例えばコミュニケーションというような格好で一緒に議論をしていくのかという、議論の仕方から、どなたか御発言があれば入りやすいかと思いますけれども、いかがでしょう。
太田さん。
○太田委員 太田修平です。
分けて考えるというのは、つまり多数者である社会が情報を発信する、少数者である障害者が受信する場合と、少数者である障害者が情報を多数者である社会に発信する場合とがある。つまり少数者と多数者の関係で、発信・受信の不利益度合いも変わってくるのではないかという意味だろうとは思いますが、そういう意味では何となくわかるのですが、情報について不利益な状況にあるということについては、発信も受信も、いずれも変わりはないので、分けて考えた方がよろしいのか、あるいは一緒に考えた方がいいのかというのは、どちらも必要であり、ことさらそれが法律的な議論になるわけではなくて、情報から阻害された状況をどう差別禁止の中で解決していくかという大きなスケールを持って考えた方がいいのではないかと思います。
私は意見書と、これまでJDFが条約小委員会の中で、総務省に対して差別禁止を訴えてきた資料をお出ししました。今、私たちのJDFの中で議論されていることは、命に関わる災害関係のものとか公共性のあるものは優先順位を上げて、それは絶対、他の者と同等な情報提供を何が何でもしてほしいということが出されています。JDFがなぜ情報について差別禁止を言っているかといえば、例えば放送についても、国の政策を議論している国会中継などにも字幕や手話が付けられていない状況がある。そういう根本的なところから障害者が疎外されてしまっている状況にあるということで、根本的なことということで言えば、地震等の災害時での情報等が、知的障害者にもわかりやすい、仮名を振った街中の標識等が全くなされていない。世界というのは、言葉や情報によって、私たちは関係を結び、自分の生き方を決定している、そういう根本的な情報を奪われているという状況が差別禁止を訴えたいというふうなことであります。
初めに戻りますが、少数者、多数者という違いによって、何がどう、受信・発信の状況が変わるかということは、きちんと客観的な分析が必要とされているのではないか。私たちは情報が阻害された状況を、差別状況だと考えているということを訴えたいと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
いろいろおっしゃいましたが、要するに、まず情報の阻害、これを改めるべきだと。その意味では、多数が発信をして、少数の障害者がそれを十分に受信できないという、この発信と受信を分けて考えることにも一定の意味があるということはお認めになっているということです。ただ、障害者がコミュニケーションをするという場合には、発信も受信も、両方するわけですけれども、その2つを全く切り離してしまうということには反対だと、こう理解してよろしいですか。
ありがとうございました。
日弁連の御紹介を先ほど東室長がおっしゃいまして、大谷委員、委員提出資料という分厚い冊子の一番最初のページに、「日弁連法案概要」2007年3月というものを収録させていただいておりまして、その最初の情報のところです。「第6 情報」、ここで、「情報を受領し、利用する」という、受け手の側としての障害者。今、太田さんがおっしゃった、情報から疎外されないということとも結びつくとも思うのですけれども、日弁連さんのこの案は、かなり受信と発信を分けておられるようにも見えるのですが、そこはいかがなのですか。
○大谷委員 大谷です。補足させていただこうと思って発言を求めました。その前に、これは総則で、情報伝達方法の定義を我々は設けました。そこで、障害のある人はあらゆる生活の場において、それぞれ固有の情報方法を保障されなければいけないというのがまず第一にあるのです。ですから、障害のある人は、自らが発信できる方法を自ら選択して使うということは固有の権利として保障されることを大前提として提案させていただいています。そして、発信できるということは、それは受け手があるということですから、反射的にというか、受ける方側もそれを保障しなければいけないということが、まずここで第一に保障されているわけですから、具体的に言うと、例えば情報を発信するということは、あらゆる生活の場所ですから、司法の場所、それから契約の場所等々で、障害のある人は、例えば手話を使える、点字が保障される等ということが、あらゆるところで個別に保障されているということになるのです。
ですから、これは全文を出していませんので、司法のところでも、たしか障害のある人は、その障害のある人固有の情報保障によって、司法に参加できなければいけないという条項をたしか入れたのではないかというので私は思っているのですけれども、発信に関しては、固有のところでばらけさせたというか、それぞれ保障し、そしてこの情報のところでは、逆に情報を業として提供する方側にきちんと義務付けをした方がいいということで、別個ここに規定したという、ある種の規定ぶりで分けたというふうに私は認識しているのです。ですから議論するに当たっては、発信と情報受領を分けた方が議論しやすいということであれば、分ける必要があるかと思いますけれども、でも基本は、情報の発信を保障するということは、受け手側にもその義務を負わせているのだということが、1つ筋にあるということは、是非御理解していただいて、議論していただけたらと思います。
以上です。
○棟居部会長 わかりました。書きぶりでこうなっているということで、決して受信だけに限定しようとか、何か発信を切り捨てるとか、そういうことは毛頭ないのだと。当然のことなのですけれども、確認させていただきました。
ついでに質問というか、単に論点を提起したいというだけなのですけれども、今の「第6 情報」のところで「合理的配慮」、これはいろいろ、例えば「テレビジョン放送事業者は」というふうになっておりますね。この発信と受信の書き分けをするというときに、結局は、合理的配慮の在り方というのはかなり変わってくる。つまり障害者が受信をするときには、どうにかしてでも、いろいろな手段を駆使して、とにかく伝えていかなくてはいけない。特に根本的な情報に関しては、これは絶対伝えなくてはいけないということで、合理的配慮もさまざまなものが考えられなくてはいけない。障害者が自ら発信するというときの合理的配慮というのはもうちょっと変わってくるというふうにお考えなのでしょうか。誘導しているというか、多少意地の悪い聞き方かもしれませんが、大谷委員お願いします。
○大谷委員 ここに合理的配慮に「業として」というふうに書いてあるのは、正直申し上げて、あくまでもこういう分類がいいかどうかわかりませんけれども、ある種、類型的合理的配慮だろうというふうに思うのです。合理的配慮というのは個別に保障されなければいけないということを前提にしておりますけれども、業としてする者は既に発信している、毎日発信しているとするならば、一定程度の障害のある人がいるということを前提に、こういうことをちゃんとしておかなければいけないということで、類型的に提示させていただいているということですから、これ以外の場合にあっても、きちんとこういうふうに、なくても保障されなければいけない形が出てくるのだろうと思います。
情報を発信する方側に障害のある人がいるのは、まさに、本当に個別の問題ですから、生活のあらゆる場所において保障されていなければいけない。それは、司法における司法の権利が情報の収集能力によって疎外されてはならないという、場面、場面で出てくるのではないかという形で考えたということです。
○棟居部会長 ありがとうございました。発信と受信で区別をする、今の最初の論点について、ほかに御発言ございませんでしょうか。もしないようでしたら、また後で戻っていただいても結構ですけれども、今、大谷委員もおっしゃいました。そして先ほど、東室長が2番目の論点としてお出しになりました、相手方、つまり発信側、今、日弁連案では、事業者というような言葉が使われていたわけですけれども、相手方として、発信側として、どういう存在をとらえていくのだと、発信者の立場による場合分けという、第12回、前回の、概念整理のための担当室メモという、この第2の2のところでいろいろ書き分けがされておるわけですけれども、こちらの意見交換に移ってよろしいでしょうか。
これについて特に東室長、何か補足をされることはございますか。例えばテレビ、ラジオといった放送については、どういうことを具体的にお考えか。
○東室長 その前に、川島委員が今、着かれました。意見書を出しておられます。先生、情報に関して場合分けすべきかという問題に関して、先生は意見書を出されておりますので、着かれたばかりですけれども、その点についてちょっと説明していただけますか。
○川島委員 川島です。ありがとうございます。
私の理解ですと、情報の発信と受領というのは、一応、概念的には区別できると思うのですけれども、確かに区別して論じて有益な場面もあると思うのですが、よりメインの議論になるべきなのは、コミュニケーション、意思疎通の保障についてだれが義務を負うのか、どのような義務を負うのかです。これを明確にしていくアプローチをとって、それで必要な程度において、情報の受領とか発信というところも考慮に入れてゆくというふうなことを考えておりました。
○棟居部会長 息が弾んでおられるようですから、私が川島さんのかわりに、川島委員御提出資料の、その部分を少し紹介させていただきます。お手持ちの委員提出資料の65ページ、「情報とコミュニケーションについて」という、ここの話で、「受信と発信に場合分けして議論する」という前回、そして先ほども室長がおっしゃった、基本的な論点の整理の仕方、問題の切り口の立て方について、川島委員は、65ページ一番下の3行のところ、「受信と発信に場合分けをして議論するという枠組みをそれほど重視する必要はないように思われます。情報の受信と発信は、コミュニケーションの保障という観点からみれば、多くの場合、両方が同時に必要となります。そのため、受信と発信を場合分けして議論するよりも、むしろ、障害差別禁止法の下で『誰がどのような義務を負うべきか』という枠組みを用いて議論をすべきである」という、区別論といいますか、受信・発信というのを一応でも区別して議論しましょうという立場に対して、かなり根本的な、異なる立場、いわば一元論とでもいいますか、そういうお立場をここでぼんとおとりになっているということです。
更にその前に、熊本県条例の影響というか、同じ考え方が、室長御提示の受信・発信をとりあえず区別してという二元説といいますか、論点の立て方に結びついておるのではないかという、ここはもうヒストリーの話に。
○東室長 そこは先生、ちょっと違って。
○棟居部会長 どうぞ。
○東室長 何も分けることがいいという意味で書いたのでは決してありません。議論に漏れがあるといかんから、例えば日弁連の書きぶりにしても、やはりそこをきちんと意識した上で書かれているかどうかというふうに改めて振り返ってみると、僕は正直言って、抜けている点があると思うのです。そういう意味で、イメージしやすいのはマスメディアとか、そういうことが正面には立ちますけれども、そこだけで議論していたら漏れている部分が出てくるのです。そういう意味で、きちんと場合分けして、漏れがないように考えるべきではないかというのが僕の問題意識なのです。
その上で、最終的な書きぶりとしては、分けて書く、一緒に書くというやり方は当然あるでしょうけれども、分けて考えた場合、どこに問題が出てくるのか。その問題点を置き去りにしないように議論してほしいということの前提として提出しただけで、何が何でも分けて考えろといったことを私の意見として言ったつもりはありません。そこは誤解がないようにしてください。
○棟居部会長 誤解を引きずっておるのかもしれません。済みませんが、そろそろ川島委員も呼吸を整えられたと思いますけれども、ついでに言ってしまうと、川島委員のお出しになっているペーパー、65ページの真ん中よりちょっと下、「熊本県障害者差別禁止条例第8条」の(10)と(11)は、障害者から情報の提供を求められた場合、つまり障害者に対して発信をする、障害者が受信するという、これが(10)。(11)は障害者が意志を表示する。つまり障害者が発信する。この2つの場合に、それぞれ相手方は何を求められるかという、この書きぶりがちょっと異なっていますね。これはなぜなのか。そこは県条例のことをあれこれ言うのは1つの素材にすぎませんけれども、もし御説明いただければ、室長お願いします。
○東室長 それは当然、差別禁止の判断の対象です。何が差別になるのか。その判断対象が、発信する場合の行為と、受信する場合の行為は、類型的に違うわけです。だから当然、書きぶりとして、分けて書くなら違った表現になる。それは当然のことだと思うのです。要するに、発信する行為が差別禁止に当たるかどうかを問題にする場合の差別禁止規定の書き方と、受信する場合が差別禁止の対象として考えなければいかん場合の規定の仕方というのは、当然違ってくるわけです。だからそれは、分けて書くことの必然的な結果だと思うのです。
むしろ、個人的な意見として言わせていただければ、川島委員が言われているように、だれがどのような義務を負うのかというところが一番重要な点だと私も思います。しかし、だれがどのような義務を負うかということを考える上でも、一応その2つのパターンがあるということは当然、前提にした上で考えないと、先ほど言ったように漏れが出てくる。もしくは余りに過度に対象範囲を拡大し過ぎるといった問題が出てくると思います。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
川島委員何か。どうぞ。
○川島委員 ありがとうございます。
具体例としまして、70ページと71ページをごらんいただきたいと思います。
情報保障については、教育機関も情報保障をしなければなりませんし、公務遂行機関も情報保障をしなければなりません。情報というのは分野横断的に保障しなければいけないと思うのですけれども、例えば今日、また後で取り上げると思うのですけれども、2つぐらい例を挙げますと、教育機関がどういう義務を負うかというところで、例えば、70ページの例2というのは、視覚障害のある学生に、MP3 プレーヤーにダウンロードできる電子フォーマットを提供する。例5は、71ページにかけてですけれども、電子ノートテーカーを提供する。例6では点字版を提供する。このようなものというのは、情報の提供であり、もしくは情報をこちらから相手側に提供するための前提にもなったりするわけです。
つまり私が言いたいのは、教育機関の特定の義務を負う主体というものは、こういうような合理的配慮をするということを考えた場合、情報の受領と提供というのは、一応、念頭に置くことは大切だとは思うのですけれども、具体的に考えていった方がいいかと思っております。
○棟居部会長 その点は多分、異論のないところで、それは後の教育のところでも、場合によってまた出てくるかもしれません。
今、室長が、これは川島委員と考え方は一緒なのだというふうにおっしゃった部分、つまり、相手方としてどういう存在をとらえるか。日弁連さんは事業者といった概念をお使いになっている。それを室長の担当室メモ、かなり細かく、第2の2のところで、例えばマスメディアはどうとか、分けてお書きになっていますけれども、これは今、対象を御説明されますか。
○東室長 次の論点として、場合分けするかどうかは別として、そういうことを念頭に置いて、相手方をどう考えるのか。障害者が情報を受信する場合には、多くはマスメディア的な情報が多いと思うのです。その場合の、事業者ということはすぐ念頭にくるわけですけれども、それ以外の、例えば公的な情報を提供する行政部門であったり、ほか、いろいろ書いておりますけれども、個人に至るまでいろいろありますけれども、これを全体的にひっくるめて考えるのかどうか。もしくは、一定の部分だけに限定するような形にするのか。そこら辺をどうお考えなのか。
ある意味、県条例はかなり広く、包括的にとらえているのです。ですからすべて入るような形になっていて、読みようによっては個人も入るといったことになるのです。ですから、相手方の範囲をどこまでにすべきか。これは合理的配慮との関係とか、例外との関係も出てきますけれども、個人の場合には、広く例外を認めるからいいかとかいうような議論も片方であるのかもしれませんけれども、まずはその対象者の範囲を議論していただければと思います。
○棟居部会長 対象者というお言葉でおっしゃっているのは、とりあえず発信と受信を分けて考えて、今、障害者は受信をする側、情報を受け取る側というふうにとらえた場合、そういう場面を想定した場合に、発信をする側というのは、例えばマスメディアであったり、あるいは行政機関であったり、あるいは一般の個人であったりするわけです。発信者の立場、つまりどういう人が発信をしていますかによって、場合を分けて考える必要があるかもしれない。これ自体が大きな論点ですけれども、そして、どういう人が発信者かによって場合を分けるという場合、どういう場合分けをするのが妥当なのか、それのいろいろ類型化をここでお書きになっているということだろうと思います。
ちょっとおもしろいと思ったのは、マスメディアの場合、要するに、一般公衆にも発信しているというのが1つの面。もう一つは、非常に重要な情報を出しているというのがあるでしょう。ここでは一般公衆に発信という、そちらを恐らく重視しているのではないかと思うのです。すると、例えば画像でしか提供しないから視覚障害の人には届かないというときには、一般公衆に発信しているはずなのに、実際には情報を受信できる人とできない人がいる。できない人はもっぱら障害のせいでできないということで、これはもう場合によっては直接差別に当たるのではないかという、直接差別論によって逆にメディアの側に、発信をするのであれば等しく届くようにいろいろな手段を講じなさいということですか。
○東室長 いやいや。
○棟居部会長 どうぞ。
○東室長 差別の類型論は次の問題であって、ここでは要するに、発信形態とか受信形態を分けたにすぎないのです。要するに一般公衆向けに発信するような場合における差別は何なのかということで、次に議論してもらうということになります。その中で、直接的な差別とか、合理的配慮の否定とか、そういう場合があると思うのです。ですからその前の段階の話でしかありません。
○棟居部会長 ちょっと私の誤解があったかもしれません、済みません。私が考えたのは、要するに、一般公衆に発信していながら届かないという場合に、それが果たして正当化できるのだろうか、そちらを考えたので。すると、マスコミとかは、基本的に民間企業ですから、それは居直って、自分たちは、受信できる人にだけ届ようとしているのだという居直りが果たして許されるのだろうか。それは端的に直接差別ではないか、<1>はそういうことをお書きになっているのではないですか。
○東室長 いや、そうではなくて、ここで書いているのは、あくまでも発信・受信で、こういうパターンがあるでしょうということで書いているだけで、今言われたことが直接差別の問題となり得るかという形でちょっとは書いてはいますけれども、これらを直接差別ととらえるか、合理的配慮ととらえるかは、次の問題で議論していただければいいというところです。
○棟居部会長 わかりました。
松井委員お願いします。
○松井委員 発信と受信は分けられないという事例として、これは私が日ごろ疑問に思っているのですけれども、例えば世論調査でもって、電話番号で調べて質問が来ることがありますね。そういう対象に、例えば聴覚障害を持った方が想定されているのかどうか。結局、電話がかかってきて答えないと、当然、回答がなかったという形になってしまうと思います。相手の受け手によっては、別の答え方が想定されるような、そういう配慮を、例えば世論調査をやる場合にはしなくてはいけないというふうな条件になっているのかどうか知らないので、そういう疑問が出るのですけれども、少なくとも、仮にそういう配慮がないと、電話での世論調査については、聴覚障害の人は全く除外されてカウントされないということになるので、そこについては、ちゃんとそういう条件を付けるような規定があるのでしょうか。ちょっとそれは疑問として、日ごろ思っているものですから、教えていただきたいと思います。
○棟居部会長 室長、お答えいただけますか。
○東室長 法律の規定か、何らかの形で存在するかどうかということですか。
○松井委員 マスコミなどが実施する電話による世論調査では、電話番号で3,000人ぐらい選びますね。そういう3,000人の中に当然、障害を持った人が入ると思いますけれども、その場合にその方は、普通だったらば回答がないということで、そのまま無視されてしまっているわけですけれども、ちゃんとその人たちも意見はあるはずなので、そこの意見もちゃんと吸い上げるような、いわゆる担保措置が講じられるようなことになっているのかどうかということです。
○東室長 それは、行政がいろいろな形で現状を調査するようなこともあるでしょうし、民間会社がやる場合もいろいろあると思うのですけれども、それに関して法的な規制があるかどうかというのは全く知りません。そういう担保が制度的になされているかどうかについても、ちょっと知識は持ち合わせていない状況です。
○棟居部会長 太田委員。
○太田委員 太田です。
ちょっと議論がわかりにくくなってきているのですが、室長の御提案は、情報に関して漏れがないようにするための便法として、受信と発信を分けて考える必要があるのではないかというふうに私は承りました。常に法律論としては、漏れがないようにする仕組みをどうするかということが、本質的な議論としてあるのではないかと思います。だから、ここでことさら発信と受信というテーマで分けると議論が変な方向に行って、私たちの頭が違うことに関心が及んでしまうので、こういう本質的な漏れを起こさないというところに戻していきたいと思います。
その上で、JDFとして先だって話し合いましたことは、公的機関やマスメディアについては、それは対象になって当たり前ということでありまして、その上で、職場や小規模なサークルについても、差別禁止の条項に関しては、差別禁止の対象になるべきだというふうな議論をしています。例えは耳の不自由な方があるサークルに入りたいといっても、うちには手話のわかる人がいませんのでとか、聴覚障害のことがわかりませんのでということで、サークルに入ることを拒まれることがないようにすべきである。必要であれば、情報保障をサークル自身が行うのが責任であるが、もし財政力が乏しい場合については、公的補助を今後検討していくことも必要だろうと。少なくとも、耳が不自由でサークルに入れない、拒まれるということはないようにしてほしいということの議論を行いました。
○棟居部会長 お願いします。
○東室長 どちらの場合であっても、要するに対象者として、マスメディアとか、行政なども当然入るけれども、例えばサークルなど、集団の中での情報発信の場合でも、相手方は合理的配慮をすべきだ、それができないのであれば一定の補助をすべきだというようなことをおっしゃったと思うのですけれども、もう少し言えば、全く私人の会話みたいなところもありますね。そういうところまでも対象者として入れるべきだという御意見なのですか。そこも入れた上で、合理的配慮を適用しても、例外的なところで対応する、もしくは公的な補助みたいなところで対応すべきだという御意見なのでしょうか。対象者をどこら辺まで入れるかという議論をちょっと明確にしていただきたいと思います。
○太田委員 私たちJDFの議論では、純粋な個人対個人では、少しそれは対象に含めることは現実的には厳しいだろうということの議論を行っています。しかし、例えば何とか団体の太田と耳が聞こえない人たちの団体の人たちとが対話する際に、それは団体を背負った太田ですから、純粋な個人とは言えない場合もあるので、団体とか組織を背負った場合については、やはり対象に含めるべきだという議論が行われました。
○東室長 済みません、その背負ったとはどういう意味ですか。
○太田委員 例えば障害者団体の打ち合わせがあるとしますね。それは会議ではなくて、非公式な話し合いだったとしますね。そういうときに、太田個人が聴覚障害の方と会います。そのときに、例えば私はJDFの太田ですとか、そういう団体を背負った場合については、純粋な個人対個人とは違うのではないかということです。
○棟居部会長 今おっしゃっているのは、多分、我々が日常用語で言う仕事とか公的な場面とか、そういうときには、純粋な個人とはまた違うということをおっしゃっておるのですね。個人対個人のときには、相手に配慮しないということもしようがないかもしれないけれども、仮にそうだとしても、団体と団体で仕事上の打ち合わせをする、更にその内容が一定の社会的な意味を持っている。そういう場合には、排除するというのは許されないと。
○太田委員 団体と団体というか、団体と個人という場合もありますね。私の団体と情報に障害を持っている方とが話し合うという場合は、私はもしかしたら、その対象に含まれるかもしれないということです。
○棟居部会長 ありがとうございました。
期せずしてというのか、皆さんおわかりになっているとは思いますけれども、担当室メモの順番どおり、話がどんどん後ろに進行しております。それでこの第1コーナーの予定の終了時刻は15時40分あたりを考えております。したがいましてあと30分少々ということで、せっかく、一応流れが皆さんのお助けによりまして徐々にできてきましたので、担当室メモのマスメディアのテレビ・ラジオ・図書館・行政、商品・役務の内容ですか。それから今、純粋な個人がとおっしゃったのは、次のページの上の方のCですね。全く私人の立場でというのは、今おっしゃった例が相当するのだろうと思います。集会とかシンポジウムとかサークルとか、そういう場合はどうなのだと。今、太田さんが出された例なんかは、恐らくこのBですね。1ページの一番下、発信する側が特定の集団の対象へ発信することを予定している。他の受領者との関係で、障害者も平等に受領できるようにすべきということが言えるのではないかという、このBの具体例としては、集会・シンポジウム・講座・授業・職場・サークル・地区の会合・行政の審議会といった、3つですね、ABCとお分けになって、ここのメモでは場合を分けておられる。
Aは、これは当然に受信をきっちりできるようにする。Cの場合については、ここで挙げられている例は、津波警報というような、かなり個人の命にかかってくるという、シリアスな事例が挙がっていますけれども、日常の井戸端会議とかの場合だったら、恐らくそこまで要求できないという前提で、こういう例を挙げておられると思うのです。つまりABCと、徐々に薄くなっていくというか、そういう並べ方をされておると思います。
今、我々は、どこからでもいいと思うのですけれども、BとかC、つまりマスコミとか行政は当たり前だと。でもBの場合、つまり集団の場合、授業の場合、集会の場合といった、一定の社会的なコミュニケーション、一定のある種の公共性があるBの場合。それともっとパーソナルなCの場合。分けて考えるのか、あるいはどういうふうに分けていくのか、そこらを御随意に議論されたらよろしいと思います。
それで、今ごろ何ですけれども、先ほど、3人か4人ぐらい前に西村委員が手をお挙げになったような。そうですか、失礼しました。ちょっと私の見逃しが多いものですから、申し訳ございせん。
では、今の点いかがでしょう。BでもCでも御随意に。ではこちらから御指名で申し訳ないですけれども、例えば山本委員はずっと私的自治ということで、これは選べるのだと。今、あえて悪役と言うと申し訳ないけれども、私的自治、つまりコミュニケーションも、両方の側に選択の自由がある。だからテレビのチャンネルを切るように、目の前の相手とのコミュニケーションも切っても構わないということが仮に私的自治から出てくるとしたら、こういうCのような場合、これは津波警報というかなり極端な例が挙がっていますけれども、そうではない、日常的なシチュエーションでは、どうなのでしょう。これはもう全く、例えばある障害を持っているという理由で、その人にだけ伝えないと直接差別になってしまうとか、あるいは合理的配慮が必要になるとか、そういうことはもう言えないのでしょうか。
○山本委員 山本です。3~4人ぐらい前に手を挙げていた人というのは、実は私です。黙っていまして、大変申し訳ありませんでした。そのときに発言しようと考えていましたのは、今の御質問と関わることだと思いますので、あらためて申し上げたいと思います。
そのときに申し上げたいと考えていましたのは、3~4人ぐらい前に、棟居部会長と東室長の間でやりとりがあったことについてです。その際に、棟居部会長が、マスメディアに当たるものが義務を負うとするならば、2つ理由が考えられるとして、1つは、それは一般公衆へ発信しているからであるという理由、もう1つは、そこで扱われているのが生活をする上で重要な情報だからであるという理由を挙げられました。
1つ目の理由、つまり一般公衆へ発信しているという理由について、棟居部会長は、障害があるために発信したものが届かない者がいるとするならば、一般公衆に発信しているのに受領できない者がいるのだから、端的に直接差別に当たるのではないかということをおっしゃいました。私は、これは差別の類型の問題でもあるとは思うのですが、なぜ義務を負うかという理由に関わるポイントの1つでもあると思いました。一般公衆に対して発信することを引き受けている者が実際に発信する場合には、障害があるために受信できない者も一般公衆に含まれる以上、受信させなければいけない。引き受けた以上、守るべきである。これを直接差別と言うかどうかは別として、このような理由から義務として課すことができるのではないか。それが、1つの可能性として考えられると思います。
もう一つの可能性は、そこで扱われているのが生活をしていく上で重要な情報であるため、障害者も含めて受信できるようにしなければならない客観的な理由がある。このような理由から、マスメディアに対して、障害者も受信できるように発信すべき義務を課すことができる。これが、もう一つの可能性として考えられると思います。
このように、どちらの可能性もあり得ると思いますが、問題は、マスメディア以外の場合に、この一方ないし双方の理由がどうなるのかということです。先ほどのBの例、及びCの例でも、そのような問題として出てきているのではないかと思いました。
お答えにはなっていないかもしれませんが、考えていたところは以上のとおりです。
○棟居部会長 ありがとうございます。
例えば野外コンサートの例がいいか、野外ではなくて屋内の方がいいのかもしれませんが、基本的に、聞きたければどうぞと。しかし、例えば500円とか払いなさいという、かなり大規模なコンサートを考えた場合、これはコンサートですから、基本は音楽ですから、勿論音は聞こえるという前提なのでしょうけれども、そこで何かこう、そばにおれば振動とかで体感ができるとか、例えば耳に、聴覚に障害があるけれども、でもそれなりに、いわば雰囲気を楽しむというか、そういう場に自分たちの場所を設けてほしいというときに、いや、これは音楽のコンサートだから、音が聞こえないのだったら、それは意味がないではないかといって、あえてそういうことはしないというようなこと、これは合理的配慮なのか、直接差別なのか。
今、そこらは全部置いておくとして、要するに私がお聞きしたいのは、Aのマスコミだったら、どうにかしてでも相手に伝えろと。しかし今は、これはBですね。幾ら人がたくさんおっても、何かマスコミのような公共性とか、生活の基本に関わる何かを伝えなくてはいけない、そういう場ではないわけです。Bだけれども、大規模で、障害者はいろいろな障害を持っていて、本来の音楽に接する、それについては障害があるけれども、でもそこで楽しみたい。例えば友達と一緒に行きたいとか、自分たちが前にいたら、存在したら何か体感できたという、こういうのはどうお考えになりますか。すごく変な質問をしていると思うのですけれども。
○山本委員 今の点についても、直接のお答えではなく、もう一つ申し上げたかったことを申し上げるということでお許しいただければと思います。といいますのは、今の例は、考え方もわかりますし、非常に難しいわけですが、なぜ難しいかというと、単なる情報の発信、あるいは、情報の発信及び受信だけが問題になっているのではないからだと思います。つまり、そこで問題になっているのは、コンサートが有料か無料かということとも少し関係するかもしれませんが、コンサートを開き、そこに出席して聞くことができるのは、契約に基づくと考えられます。したがって、ここで問題になっているのは、単なる情報の発信・受信だけではなく、契約をするかどうかの自由も併せて問題になっていると考えられます。
このように、契約をするかどうかの自由が付け加わるとしますと、契約するときの基本的な自由として、相手方を選ぶ自由が問題となります。これは要するに、自分がこの人と契約したくないと思うときには、契約しないという自由があるということです。このような自由が一般的にありますので、例えば今のコンサートの例でも、自分がコンサートで演奏するのをだれに聞かせるかは、私が決めることができると考えることも不可能ではないだろうと思います。このような自由も併せて出てきますので、問題が複雑になるのではないかと思います。
したがって、今回は情報とコミュニケーション分野における差別という問題ですので、可能な限り、契約の自由が問題にならない例をまず考え、そこで明らかになった考え方に基づいて、更に次の契約をするかどうかの自由の問題を考えるという手順が合理的ではないかと思います。
○棟居部会長 わかりました。話を難しくしてはいけない者が難しくしたようで、大変失礼しました。
太田さん。
○太田委員 今の契約の自由についてお伺いしたいのですが、契約というものはそうなんだということで、すごくわかるのですが、例えばこのコンサートは日本国籍を持つ人限定ですよとか、そういうのは契約という観点からどうなのでしょうか。
○棟居部会長 ゴルフクラブというか、ゴルフの会員権で類似の事件があって、それは、ゴルフ会員権といいますか、ゴルフクラブというのは趣味のための集まりだ。サークルだ。そこでどういう要件を設けるかは勝手であると。日本国籍オンリーという要件をそこは掲げておった、非常に名門の、いわゆる歴史のあるゴルフクラブなのですけれども、マーケット、市場で、ゴルフ会員権を相場でお買いになった在日の方が、しかし正会員に登録をしてもらえなかった。そこで争ったケースで、結局その方の主張は認められていないのです。契約という点で同じように考えると、恐らくそれは、どういう人たちでコミュニケーションするかは、勝手に主催者の側が選べる。コンサートもそういう、音楽には関係のない要件で選んでいいということになりそうですね。
大谷委員。
○大谷委員 話が大分大きくなっていますから、ちょっと私は原則的なことを山本委員と確認させていただきたいのですけれども、いわゆる私人間の効力の問題だろうと思うのです。ですから、私的自治という意味では契約は自由ですけれども、しかし民法は、それが公序良俗に反することは違法ということで、一定制約をかけている。ですから具体的に差別となるようなことは、契約においてもしてはいけないというのがやはり基本的な、自治に対する一定の制約を民法は認めていると思うのです。ですから、例えば雇用においても、これは私的自治ですから、だれを雇用するのも自由ということがあったのだけれども、でも差別はしてはいけないということで、そこはもう制約をすることは、我々はスタートにあると。前提として認めた上で、ではどの程度、どういうことであったら、公序良俗に反するのか。いわゆる私的自治を制約してでも利益を守らなければいけないのかということが今、問題になっているということだろうと思うのです。
とすると、先ほど来から出している例が、コンサートという、ある種レクリエーションということで、レクリエーションにおける障害者の権利はどのように保障されるべきかということと、コンサートの主催者側がどのようなコンサートを提供したいのかということの、ある種、音楽表現の自由との絡みを、どのように比較衡量というか、判断するのかという問題なのです。だからこれに関しては、正直申し上げて、音楽表現の自由、表現の自由とか、そういうことも絡むということと、一方こちらの持っている利益がレクリエーションに対する利益、権利ということになると、比較衡量すると多少、コンサート主催者側の自由とか、私的自治の方が勝つようなことが多くなるかもしれません。しかし、例えば雇用とか、教育とか、あらゆる契約の中で、権利性の高いものに関しては、かなりそれを提供する側の自由が制約されるだろうということは、私は前提の問題だろうと思うのです。
ですから、ここで言っている情報提供に関しても、どの場面で情報提供が保障されなければいけないのか。どういう形で私的自治が制約されなければいけないのかというのは、その場面、場面で、私はかなり違うというふうに思っております。ですから、棟居部会長がやはりコンサートの例を出されたので、多少混乱するかというふうに思いますけれども、あらゆる場面において保障されなければいけないけれども、どのような権利をそれが実現するのかということで、その場で比較衡量しながら、公序良俗に反するかどうか、それが差別となる程度の違法性の高いものかどうかという形で判断していくべきことなのではないかというふうに考えています。
ですから具体的に言うと、例えば集会・シンポジウム、講座・授業なども、やはり大きく公表、公開している規模の大きいものというようなときには、一定程度、主催者側は義務づけられるというか、障害のある人に対する情報提供も保障した上で、そのシンポジウム等が開催されなければいけないということになってくるだろうと思いますし、例えば地区の会合なども、町内会等における、だれでもが自由に参加することを前提に、その地区で会合を開くような場合には、これはやはり、その地区の住民である障害者に対しては必ず保障しなければいけないという形になっていくだろうというふうに思いますので、余り私的自治一般の問題として、その切り口だけで考えてしまうと、少し違ってしまうのかなというふうに思います。
以上です。
○棟居部会長 規模にかかわらずというか、大抵、規模が大きいのだろうけれども、一定以上の大きさはあるのだろうけれども、公開をしているではないかと。他方で選別をする、差別をする。こういう矛盾は許されないという、そういう考え方ですね。私が出したよくない例、コンサート。これは公開といっても、最初から趣味なのだという意味では、そんなに全員に対してオープンではないかもしれない。だけれども、例えば講座とかシンポジウム、だれでもどうぞと言っておきながら、伝える努力をしない。そこには矛盾がある。そういう御趣旨でしょうか。
○大谷委員 コンサートというのは表現の自由の絡みもあるから、多少違ってくるのかなと思っただけです。
○棟居部会長 もういいです、コンサートは結構です。
山本委員に、先ほどの公序良俗と契約の話をしていただくと多分、大分授業にというか、難しい話になりますけれども、契約拒否の自由というのは、契約の自由とはまた違う、判例上も、恐らく公序良俗云々以前の段階でピシャッと閉じてしまうというのは適法ですよとなっておって、そこをどうにかこじあけようというのが大谷委員のおっしゃりぶりだろうというふうに、とりあえずそこはくくらせていただいて、先ほど40分までと申しました。あと15分ほどしかありません。
川内委員、お願いします。
○川内委員 今、大谷委員が説明してくださったので大分はっきりしてきたのですが、コンサートの例よりも、私は映画館の例を挙げたいのです。視覚障害のある方もですけれども、聴覚障害のある方々が映画を楽しめないということで、例えば聴覚障害のある方にとっては字幕を入れてほしいというのがあるのです。日本の映画でも日本語の字幕。だけれども映画制作者の方が、画面の雰囲気を壊すからそれはだめだとか、あるいは今、バリアフリー映画祭とかいうことで、そういう人たちだけを集めて特別に上映日をつくったり、映画祭をつくる。だけれども、やはり作者の方が、うちの映画はやってくれるな、扱ってほしくない、画面が壊れるからというようなことが起こり得るのです。今の表現の自由との関係もあるのでしょうけれども、どちらが優先するかというような考え方なんだというふうに大谷委員がおっしゃったので、それで大分クリアになってきました。
もう一つの判断としては、過度な負担になるかどうかです。勿論、表現の自由というのもあるけれども、例えば車いすを使う人間なんかだと、映画館とか野球場とか、そういうところだと、席の選択肢があるかどうかということが、今これから、海外ではもうやっていますけれども、日本ではやられていないので、となると、いろいろな場面に車いすで行ける席をつくらなくてはいけなくて、そうするとアクセスの経路をつくらなくてはいけないとか、費用がかかってくるわけです。それと同様に、今の、例えば棟居部会長がおっしゃった、耳の聞こえない方がコンサートに行きたいとかというふうな場合、では、その方々に席の選択があるようなセッティングをするのかとか、そういういろいろな、事業者側にどれだけの負担があるかということによるのではないかと思います。
私がときどきやっている、本当に小さな集まりでも、聴覚障害のある方が参加すると手話通訳を提供するという約束をしているわけです。だけれどもそれを提供すると、参加者から参加費を集めてもとても賄い切れないぐらい手話通訳費が要るわけです。これは多分、過度な負担になると思いますけれども、やっているわけです。ですから、そのあたりの判断基準で、過度な負担がない限り、受け入れられるものはやはり受け入れてほしいというのが当事者側の考えだろうというふうに思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
西村委員お願いします。
○西村委員 関連しますが、場面、場面とか、過度な負担ということでのお話がありましたが、この事例として挙げられているBとCに関して、私が実際に体験をしてきたことを報告しますので検討に加えていただければと思っています。
集会・シンポジウム、講座・授業等々での事例が書かれていますけれども、ある自治体では、手話通訳、要約筆記につきましては、無料で派遣されています。ですから、経済的な負担をすることなく派遣を受けられます。
ところが、別の市町村になりますと、経費負担を軽減する制度がなく、すべて主催者負担ということになります。この主催者負担につきましては、いわゆる地区の会合だとか、団体の会合だとか、シンポジウム、すべて同じ状況になっています。その結果、相当な負担になっているという現実もあります。ですからこうした経済的な負担に対する配慮は、私は権利条約の理念である、他の者との平等を基礎として、障害を持つ人たちが、不利益、制限、制約を受けないことを原則にするのであれば、これは本来、そうした場面も含めて、すべて確保されるべきだとは思いますが、ただ、そういった状況があるということと、合理的配慮ということを加味した中で、この部分については更に検討しなくてはいけないのではないかと思ってます。
それから、私人の立場で発信する場合ということですが、私どもの住んでいる町でも、震災以降、きちんと震災に関する日ごろからの取組みが重要ではないかという議論が起きてきまして、自分たちが住んでいるマンションを、これは車いすの人たちが中心ですけれども、チェックをしたりしてきました。マンションの自治会によっては、障害者を含めた避難時の対応ということで、訓練もしているのですが、一部、そこに参加をしたいという電動車いすの人の申し出に対しましては、あなたはちょっと御遠慮してほしいということを現実に言われた事例もあります。そうすると、この津波のところでいうと、これは差別であるということはどうなのかなと思いますが、今言ったような場面では最初から排除している。しかも車いすを理由としている。そして、震災という中で起きてきているものを含めて考えたときに、これを私人の立場だとかと考えるのは、やはり場面、場面では、厳しいと思います。
差別禁止部会の中で、こうしたさまざまな場面、これは情報もそうですけれども、それ以外もそうでしょうけれども、マスメディアなどは責務にしなければならないと思いますけれども、状況によっては努力義務になる部分もあるのかなと。あるいは、ものによっては、義務規定。つまり情報保障をしなければならない。そういった色分けもある程度考えなくてはいけないと思います。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
川島委員お願いします。
○川島委員 ありがとうございます。
人種差別とか女性差別とか、これはアメリカでもイギリスでも、ヨーロッパ諸国でも、多くの国々で禁止されている。つまり、性に基づいて特定の条件を課したり、不利益扱いをしたりしてはならない。肌の色に基づいて不利益扱いをしてはならない。それと同じように、障害に基づいて不利益扱いをしてはならない。つまりサービス提供者(役務提供者)、レストランもコンサートの主催者も、すべて役務提供者ですけれども、もし私に両手がなくて、それで映画館に行こうとしたら、あなたは入れません。もしくは、私の顔に大きなやけどの跡があって、レストランに入ろうとしたら、いや、あなたは入れません。そういうのは、そもそも障害差別。つまり役務提供者はそういうことをしてはいけない。つまり合理的配慮以外の、いわゆる直接差別的なものについては、これは人種差別や女性差別と同じように、そもそも何の問題もなく差別扱いなのです。
しかし合理的配慮が関わってくる。つまり、サービスを受領するときに何らかの情報提供の配慮が必要だというときは、それは義務を負う者が過重な負担になってしまう場合は、それはできませんと、相手に抗弁が認められるし、サービスの本質を変えてしまうようなものを合理的配慮として求めたら、それは、相手側はできませんと。つまり、こちらの権利、障害のある人の権利と相手側の義務とのバランス、そこはすごく大切だと思うのです。
○棟居部会長 ありがとうございました。
あと10分ほどの時間です。
先ほど私、こちらの部屋に入る前に、伊東副部会長にアメリカの電子書籍の事情を伺っておったのですけれども、電子書籍に今、ダウンロードして、自分の手元のいろいろなツールで、つまり紙の本ではなくて、電子媒体で本を読むというのが日本でも徐々にはやってきておりますけれども、あれはうまく技術を使えば、視覚障害のある方については、これはデータで来ておるわけですから、音声にすぐ変換できる。日本語の場合、多少技術的にややこしいかもしれません。私そこはわかりませんけれども、伊東副部会長のお話では、アメリカでは、当然、音声も込みで電子データを取ることができると。実際に日本で、ある商品をお使いになってアメリカのそうしたサービスを受けている方は、現に英語で聞けているという、その場におられた別の方も情報提供してくださいました。
せっかくIT技術でそこまで来ていて、しかし日本でなかなか、今の電子データというのは著作権とか、そちらの問題が一生懸命議論されますけれども、そういう技術の力でひとつバリアを取っ払っていこうというところまで、放っておくといきそうにないと。そういうのも少し議論できればと個人的には思っておりました。時間の配分が悪くて、ほとんどこのコーナーの時間は残っていませんけれども、伊東副部会長、場合によっては少し情報提供をお願いできますか。
○伊東副部会長 日本では、例えばこれを読みたい、という場合、そのソフトの音声版をそのためにつくるというのが一般的です。視覚障害のあるアメリカの私の友人は、無料で提供されるソフトを使って、文字情報を音声に自動変換して情報を得ている。ホームページも、個人的なeメール情報も、音声に自動的に変換して、マルチでそれを使っている。
今日の議論はいろいろ広がりました。発信する側と受領する側について分けるかどうかという議論が最初にありましたが、情報伝達・交流というのは、IT技術によって非常に急速に発展、改善されていくことが予想されます。発信する側と受信する側で、ITの技術や方法が共通の場合もあれば違う場合もある。発信側、受領側により、障害の有無や異なる障害同士の場合などによって、方法や対応技術は異なってくるので区別して考えることも有りうると思う。
ここで大事なことは、障害のある人もない人も、格差なく、情報確保の機会を十分保障されなければならない、という理念を高く掲げ、その実現を図ること。それがどこまで実現できるかはIT技術の発展にもよるでしょうが、理念、原則論を高く掲げることであって欲しい。差別禁止法では、この情報とコミュニケーションは大切であります。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
山本委員、お願いします。
○山本委員 今の点ともかかわるのですが、憲法学者といいますと、ここにはお1人しかおられないわけですけれども、棟居先生のお考えというよりは、憲法学でどのように考えられているかということを少しお聞かせいただきたいと思う点があります。といいますのは、情報の発信側に障害者差別等を理由として一定の義務を課していくことにしますと、これは形の上では、発信側の表現の自由、ないしは意見表明の自由等に対する制約になるだろうと思います。御承知のように、憲法学では、表現の自由は非常に重視されていまして、それに対する制約は、極力限定しようという方向性が非常に強いのではないかと思います。そして、それには、もっともな理由があると私も考えています。そのような中で、もし障害者差別禁止法で一定の制約を課すとするならば、そこに憲法上の問題は生じないのか。それは克服可能なのか。これもまた大変難しい問題なのですけれども、お聞かせいただけないものかと思います。
○棟居部会長 ありがとうございます。今のは非常に簡単な問題で、難しくないのです。つまり公式が用意されておりまして、表現の自由は、おっしゃっていただいたように非常に大事であると。これは民主主義の根幹をなすとか、いろいろな理由で、非常に大事なのですけれども、意見表明の自由とおっしゃいました。その、まさに意見の中身については、どういう形で障害者にもちゃんと伝わるようにいろいろな配慮、例えば字幕を付けなさいとか、そういう手段とか方法についての制約であれば、意見の中身そのものに対する制約とは違うだろうということで、要するに意見の中身、表現の中身まで国が何らかの制度によって制約をかけるわけではない。
先ほどの映画表現で言うと、何か映像がどうとかいうような、芸術家からしたら、ちょっとでもいじるのは嫌なのかもしれませんけれども、我々、普通に見ている者からしたら、外国の映画は字幕付きで皆見ているわけですから、あれを、映像が乱れるから字幕なしやと言われたら、私のように語学力がない者は全く、ただ画像を見るしかないというわけで、表現そのものは全然制約されていないのです。ただ、そこに字幕が付くという形で、伝える手段が少し、伝える側がこういう手段で伝えたいと思うのと違う形になっているという、それだけなのです。ですから、そんなに深刻な制約ではないというようにみなされて、憲法上は問題ないということになるのではないかと思います。
どうぞ山本委員。
○山本委員 内容と手段という点に関しては、今の御指摘は非常によくわかるわけなのですが、ただ、手段について一定の制約が課されることによって、発信がしにくくなっていく可能性もあるだろうと思います。特に負担の重さの程度によっては、本来ならば発信できた表現ができなくなってしまうという可能性も出てくる。その意味では、表現の自由の実現に対して負担になってくる場合があり得るとするならば、そう単純でもないように思うのですが、いかがでしょうか。
○棟居部会長 ありがとうございます。
確かに、本当に小規模の予算でやっておって、字幕を付けるときにプロを雇ってだと、これは予算的にも成り立たない、初めから映画をつくること自体を断念しなくてはいかんというような場合には、単なる手段の制約というのを超えて、映画表現そのものをあきらめてしまう。その意味で内容の制約に確かになります。ですから、そうした形で断念しないで済むように、いわば安く字幕を使えるサービスがという、そこをどう国が支援をしていくかとか、そちらの方に、政策論に多分なっていくと思います。
ただ1つ言えるのは、これはすべてきっかけが大事なので、とにかく字幕を付けなさいということにすれば、これは表現をする側の負担であっても、ものすごく大量に、結局、字幕サービスというものの需要が生まれますね。すると、すぐ値段は安くなるわけです。ですから最初の1つのバリアを超えれば、制度を新たに設けるというのは、コスト的に、当初思っていたほど高くない可能性があるということは、ちょっと楽天的かもしれませんが、言えるのではないかと思います。
太田委員、お願いします。
○太田委員 棟居部会長と川内委員に関連すると思いますが、表現の自由で、例えば芸術的建築家が、自分の芸術観に基づいてある建物をつくったと。芸術の表現したいものを建物としてつくった。ところが障害者はそこには入れない、その建築物を利用することができないという場合、表現の自由との関連で、どう整理して考えればいいのかと思いまして。
○棟居部会長 この点は川内委員、お願いします。
○川内委員 それは日本ではあり得ないというか、現状では面積の制約はありますけれども、基本的には公衆に開かれている建物で、一定規模のものは、アクセスを提供しないと建築確認がおりない。だから建てられないということですから、まるっきり芸術でだれも使えないというか、使うことを意図していない建築物というのは、基本的には建てられない。それから、すごく小規模の場合は建てられるのですけれども、建築をやっている人間というのは、芸術家よりはもうちょっと現実的ですから、それをやらねばならないというふうに法的に決められていれば、それはやるということだと思います。
ちょっと私の質問なのですが、今、提供側という話が出たのですが、例えば先ほどの映画もずっと考えていたのですが、提供側は2段階あるのです。映画製作の人と、それから映画館というのがあるのです。コンサートも、演奏する人と、そのコンサートホールを運営する人というのがあって、その中に観客を入れるわけですね。そうするとどちらが受け持つのか。先ほどの字幕を入れるというのは、映画製作者が入れるわけですが、もう一つ、いろいろな技術で、字幕を画面に入れず、クローズドキャプションというやり方があるのですけれども、スクリーンに入れずに、必要な人にだけ字幕を届けるというシステムもあるわけです。その場合の方が、画面に最初から入れておくよりははるかにコストが高い。映画館1館ずつで機器を準備するなどの対応が出てくるので、コストは高くなるのですけれども、芸術性ということでは、損なう率が少ないということになります。ですから、提供側というのが何段階にもある場合に、どう扱うのかというのも1つ考えなくてはいけない問題かなと思いました。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
重要な御指摘で、そろそろ時間も参っております。竹下副部会長、一言お願いします。
○竹下副部会長 先ほどの議論の中で、僕が少し注意していただきたいというのが2点ありまして、例えばコンサートであるとか、娯楽、または一般教養の講座の場面で、制約があっても、それは主催者の発想からやむを得ないかのような発言があったかと思います。それは少し違うのではないかと思うのです。それは情報という面だけ1つ見ておられますけれども、文化を享受する、あるいは文化活動に参加するという面から見たときに、それは差別そのものになりかねないはずなのです。例えばコンサートに入れないとか、入れないというのは。その点からも少し注意しながら、そういう場面での差別問題を考えるべきではないかというのが1点です。
それから今、映画館の問題が出たので、もう一点の方はちょうど重なるので。確かにそうなのです。映画の場合、制作段階から、いわばユニバーサルデザインというか、バリアフリー化したものにする義務があるのか、それとも、今の技術では、その後にバリアフリー化する、字幕を加えることは、どうも技術的に簡単にできるようですから、その段階でバリアフリー化する。そうなってくると、映画館、または上映主催者の義務というのと製作者の義務というものは少し分けて整理しておかないと混乱してくるのかなというふうに思うのです。それが2点目。
もう一つだけ。先ほど伊東さんがおっしゃった電子化された図書等は、音声化できるソフトが最近非常に発達してきていますから、ほぼできます。ただデジタルの形式によって、音声化できないものがあったりするわけですけれども、それこそテキストデータなんかですと100%、英語であろうが、日本語であろうが、音声化全部できます。
ただ、外国の古い裁判例を見ていて気になるのは、例えばアメリカで、音声でインターネットにアクセスできないということで、それは差別であるという裁判が起こりました。その段階では、今から十数年前ですけれども、ADAに基づいて、それは差別だという裁判が起こったのですけれども、連邦裁判所は、ADAはそこまで想定していないということで、視覚障害者が負けたという事例があります。
逆にオーストラリアでは、シドニーオリンピックのときに、インターネットでリアルタイムでの放映をしたのですけれども、それに音声でアクセスできなかったときに、視覚障害者が、それは差別だということを訴えて、それは差別だという審判決定が出て、改善を命じられたという逆の事例も出ているわけです。
だから、そういう意味では、差別問題を考えるときにもそう単純ではないのかなという気はします。
以上です。
○棟居部会長 どうもありがとうございました。
意外というのか、非常にいろいろな論点と横断的に情報というのは関わってきまして、ということで、切りのないテーマでもありますけれども、時間をオーバーしておりますので、とりあえずこのコーナーはここで打ち切らせていただきます。
以上で第1コーナーを終わります。再開は、15分ほど休憩を取るということで、4時5分より少し前に再開させていただきたいと思います。

(休憩)

○棟居部会長 それでは、再開します。
先ほど情報ということで、ところどころで私のリードがやや抽象論に流れまして、聞きづらいところがあったかもしれません。これは率直にお詫びをしたいと思います。と同時に、情報というのは、今日これから取り上げます教育といった個別のテーマまですべて関わってくるのです。ですから、そうした具体例の中で、情報についても、どういう場合に、どういう相手に対して、どういう基本的な情報、どういうふうにアクセス権を保障していくかと。こういうことを議論する場面をこれから、まだ何度もあるというふうに、皆さんにその点はしっかり議論していただくように逆にお願いをして、第2のコーナーを始めたいと思います。
第2のコーナーは90分でございます。教育の分野における差別禁止についてです。
最初に東室長から論点等について、10分程度で御説明をいただきます。
○東室長 担当室の東です。ここでも具体的な議論に入る前に、教育に関連する現行法について若干御説明したいと思います。
参考資料1がありまして、10ページをおあけいただくと、「学校教育法施行令」が記載されております。点字版のページ数がわからないのですが、竹下先生、よろしゅうございますか。
○竹下副部会長 大体わかります。
○東室長 その中で、具体的に言いますと、12ページには学校教育法施行令第22条の3として、特別支援学校での教育の対象となる障害の種類と程度が記載されております。この障害の種類と程度に該当いたしますと、施行令の5条以下の規定に従いまして、原則として、就学先が特別支援学校に決まるという、そういうシステムになっております。ただ、この一覧表に該当する場合でも、市町村の教育委員会が、小中学校で適切な教育を受けることができる特別の事情があると認めた場合、これを認定就学者というふうに言いますが、この場合だけが例外という形で規定されております。ですから日本の場合、少なくとも法令上は、原則的に、障害の種類と程度によって就学先が分けられるという、原則分離の制度となっているわけです。これを差別禁止という観点から見ると、障害そのものを理由とする区別ないしは排除といったことが言えるわけです。この制度は、今から述べる他の国の制度と比較しても、特異な制度となっています。
次に参考資料3に基づいて説明いたします。これは「教育に関する各国法制度比較表」という表題が付いております。これは教育に関する法制度について、イギリス、フランス、イタリア、スウェーデン、ニュージーランド、アメリカ、韓国の法制度を記載しておりますが、6つの項目にわたって内容を比較しております。
6つの項目というのは、
第1にインクルーシブ教育に関する規定はどうなっているのか。
第2に障害児の就学先の規定はどうなっているのか。
第3に就学先の決定主体に関する規定はどうなっているのか。
第4に決定に際して紛争があった場合の規定はどうなっているのか。
第5に個別支援計画及び支援内容についての規定はどうなっているのか。
第6に差別禁止法における教育に関する規定はどうなっているのか。
といった形で項目を分けて、それぞれ各国の規定を記載しております。
詳細を説明する時間はありませんが、概略を申し上げますと、各国の就学先の決定につきましては、さまざまな規定ぶりがありますが、日本のように障害の種類と程度そのもので振り分けするといった制度はないように思われます。見てもらうとわかると思いますが、多くの国で、原則として地域の通常学校に入学することを前提に、特別の学校に就学する場合は、障害の程度や内容だけでなく、一定の要件がそろうことを条件として挙げております。その要件としては、保護者の意向や、保護者等の承諾等を挙げている国もありますし、援助やサービスを追加しても、障害の性質や程度によって、教育目標を達し得ない場合などを挙げている国もあります。
ただ、この中でスウェーデンの場合は少し書きぶりが異なっております。スウェーデンの法律では、「知的障害のため、基礎学校の知識目標に到達することができないと判定された児童生徒は、養護学校への入学を許可されなければならない」。または「ろうあるいは難聴のため、基礎学校および養護学校に入学することができない児童生徒は、特殊学校への入学を許可されなければならない」となっております。ですので文言の規定の仕方からすると、まずろうあるいは難聴以外の身体障害の場合は、通常の学校へ入学するといったことになります。では知的障害とろうまたは難聴の児童は、当然に特別の学校に入学することになるかというふうにも思われますけれども、規定ぶりから見ると、そうでもないと思われます。なぜなら、「許可されなければならない」と書いてあるわけです。これは特別の学校に入学を希望する場合を前提に、一定の要件を付加した上で、入学を拒否できないというふうに読むことができるわけです。ですので、スウェーデンの場合も、知的障害、ろうまたは難聴の子どもだけを、本人や保護者の意志に無関係に分離するといった仕組みであるとは言えないというふうに思われます。
また、差別禁止法の規定においても、イギリス、スウェーデン、ニュージーランド、韓国などにおいては、障害児の教育に関する差別が禁止されております。ここでは、フランスに関しては記載がありませんけれども、いわゆる2008年法で、障害を理由にした差別も、その範疇に入って禁止されることになっております。
そして差別禁止の内容であります。例えばニュージーランドでは、入学の拒否であるとか、入学に際して、他よりも不都合な条件を付けることなどが差別として禁止されておりますし、韓国では、障害者の入学支援や入学の拒否、または修学旅行等の学習を含むすべての校内の活動への参加を制限、排除、拒否するといったことなども差別禁止の1つの中に挙げられております。
更には合理的配慮に関しましても、韓国の障害者差別禁止及び権利救済に関する法律には詳細な規定が挙げてあります。
以上、全体的に見ますと、各国の法制度は、それぞれ書きぶりについて濃淡はあるにしても、インクルーシブな教育制度に関する規定が、教育に関係する法律に設けられているとともに、これとは別に、差別禁止法があって、この2つの仕組みが備わる形で、インクルーシブ教育が保障されるものとなっているというふうに思われます。
今日はこういったことを踏まえて、まずは対象とする教育の範囲、学校の範囲をどのように考えるかというのを最初に議論していただきたいと思っています。それを前提に、教育における差別の中で、直接的な差別の類型として、どのような行為を差別と考えるべきかを議論していただきたいと思います。そしてその後に、合理的配慮の問題ですけれども、特に教育分野における合意的配慮としては、どのようなものを想定すべきかといったことなどを柱に議論していただければと思っております。勿論、それぞれの例外についても、そのときどきに議論していただければということです。
この議論に関しましては、今日、持ち込みで配付されております竹下・池原・大谷委員の3名連名の条項案といったものもありますので、そこら辺も参考にして御議論してください。以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。今、最後におっしゃいました、竹下副部会長、池原委員、大谷委員の御三方によります、本日付というか、昨日付ですか、1枚紙の「教育における差別禁止条項案」という、こちらをごらんいただきますと、今、東室長が3点議論いただきたいとして論点を提示されました、その第1点、教育や学校の範囲という、この対象。これについてはあれでしょうか、対応関係をあえて、御三方による差別禁止条項案と無理やりにでも対応させるとすれば、今の第1点というのは、「学校の設置者その他教育にかかわる団体または個人」という、これを、お三人の条項案では対象とおとらえになっている。その点を踏まえた上での是非の議論、あるいはもっと拡大するとか、書きぶりを詳しくするとか、そういうのが一応とっかかりということになりましょうか。
それから第2点。どのような行為を差別ととらえるのかということですけれども、これにつきましても、このお三方のものをごらんいただくと、2のところで、授業だけではなくて、修学旅行のほか、学校等その教育に関して行うすべての活動というふうに場面を広く設定されて、障害のある人、子どもの参加を、障害を理由に区別、制限、排除または拒否、もしくは保護者の付き添いを条件とするなどの不利益な取り扱いということが、差別として挙がっておるわけですが、こういうとらえ方でいいのかと。
お三方のものを今、俎上に乗せさせていただいて、これは決して、いわば攻撃対象をこれだけに絞ろうなどということでは決してございません。ただ、私はどうも、頭の中で論点整理というのができないというか、見ないとわからんという、そういう学校教育の詰め込み教育の弊害が残っておるのか、つまり何か論点表というか、アンチョコというか、参考書がないのかなというときに、ちょうどこのお三方のものが多分、参考書になっておりまして、第2点が、今、言わせていただいた、ちょうどこの2番のところの是非というふうに置き換えて議論したらいいのかなと。
東室長がおっしゃいました第3点。教育における合理的配慮。これはどういうものかということにつきましても、まさにお三方の禁止条項案の3番、「学校の設置者および学校等は、障害のある人(子ども)もしくは保護者が、以下に規定する合理的配慮を求めたときは、これを提供することが当該学校の設置者および学校等にとって過度の負担とならない限り、これを提供しなければならない」として、(1)は、話題といたしました「適切な情報伝達方法の提供」。(2)は「利用可能な物理的環境の提供」。(3)は「必要な人員の配置」。(4)は「その他当該障害のある人(子ども)が当該学校等における教育に完全に参加するために必要な教育環境、方法及び内容の変更と調整」。これを3の2行目では、合理的配慮という言葉で一くくりでおっしゃっている。ですから、まさにこの合理的配慮の中身を、この4点に書き分けをされているということだと思います。
この案を参考にさせていただきながら、教育における合理的配慮は、このようなとらえ方でよろしいかというふうに議論を進めれば、余り拡散しないで済むのではないかと思うのですが、その点はよろしいですか。
では、恐れ入ります。今の順番で。つまり竹下、池原、大谷先生の差別禁止条項案の、まず1番につきまして。これは是非を問うということをすれば、これはこういう広いとらえ方でよろしいということに割と簡単に多分なるのだろうと思うんのですけれども、どういうふうにここで悩まれたかを、竹下副部会長、あるいは大谷委員にちょっと補足を願えるとわかりやすいかと思います。
○竹下副部会長 大谷先生。
○大谷委員 大谷です。あらゆる教育に携わる者たちという表現を考えてみました。団体または個人ということで、個人まで入れたのは、例えば塾とか、そういうことも含めて、教育に関わる個人というものはあるだろうというふうに思いましたので入れました。ですから学校はすべて、それから教育に関わる団体、学校以外の団体というものが何かあるかどうか、学校法人、法人化されていないもの、学校設置法に関わっていないものもあるだろうということで、例えば予備校とか、それから個人とすれば、先ほど言ったように私塾、個人が経営している塾なども含めて、対象となるだろうということで、網羅して、教育に関わる人々もすべてというふうに表現したつもりです。
それからちょっと補足だけ。1項は続けて、入学を求めたときは拒否してはならないということで、差別類型とすると、この入学と、学校行事と、ほかのすべてのあらゆる教育ということで、1項、2項は一応書き分けてみましたということです。
○棟居部会長 ありがとうございます。
ちなみに今、書き分けたというのは、まず入る、入らないのところでは、これは先ほども議論がありましたが、だれを入れる、入れないというのは、団体の側の、いわば団体の自治の問題だと。私立学校で言えば、建学の精神といったものを優先させていいではないかという、こういう入り口のハードルは、基本的に高いということを念頭に、特に入学を求めたときは、障害を理由にこれを拒否してはならないということを掲げられたということですね。
そうすると、2の中で、入った後で、授業、修学旅行等々、さまざまな場面で、いろいろな不利益な扱いをしてはいけないという、これはもう自然に出てくるということで、つまり、まずインクルーシブしなければいけないというのを入学時点で押さえて、しかし入学はさせるけれども中で放ったらかしである。実際には、教育を受けれていないという、こういう事態を防いでいくというのが2だというふうに、1と2を書き分けておられる。
せっかく起案をされた、あるいはよく制定プロセスを御存じの大谷委員、竹下副部会長がおられますので、まず御質問というような格好がありましたら。
川島委員。
○川島委員 質問というよりは、最初にちょっと関連して意見を申し上げたいのですけれども、私も72ページに、十分の一ぐらいしか埋めていないものがありまして。
○棟居部会長 委員提出資料という分厚い冊子。
○川島委員 冊子の最後のページに書いたのですけれども、まず、対象者で学校、学校設置者というのは問題ないと思うのですけれども、私塾とか、そういうのを教育に入れるのか、役務分野に入れるのか。つまり教育サービス(役務提供者)の方に入れるのかというのは、一応どっちに入れるかというのは議論があると思うのですけれども、一応、差別禁止法の対象にしてもいいのではないかと思っています。
それと、先ほどの大谷委員のお話と関連するのは、私は総論部分で、差別は不均等待遇と合理的配慮の否定と、2つ分けてあるわけですけれども、その2つを合わせて差別なのですけれども、学校と設置者は、次に掲げる事項について、何人に対しても障害を理由とする差別をしてはならないということで、具体的に、ある程度列記していくと明確なのかと。大谷委員がおっしゃられるような内容も、恐らくこの1~5に全部入っていると思うのですけれども、書きぶりについては、より一般の人がわかりやすいような感じにしてゆけばよいと思っています。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
大谷委員お願いします。
○大谷委員 確かに転校というのは、今でも現に問題になっていますので、入学・転学・それから卒業資格、これに関しても、今、現に差別ではないかということが問題になっていますから、やはり明記したほうが確かにいいだろうというふうに思います。私もここに加えた方が。入学・転学・卒業等々の資格に関わるところとした方がよかったかなというふうに思いました。
○棟居部会長 ありがとうございます。
卒業と入学を合わせると、外にいる人が入るときのハードルの問題と、中からまた社会に出ていくときのハードル、何か同じ条文でいいのかなという気はしますが、これはほんの技術論で、竹下副部会長何か。
○竹下副部会長 特にございません。
○棟居部会長 そうですか。
東室長どうぞ。
○東室長 まず川島委員に聞きたいのですが、教育の提供という項目がありますね。これと例えば入学というのは、どう違うのか。この教育の提供の中身をどういうふうに考えられているのか。そこで何かちょっとお考えがあれば教えてください。
○川島委員 ごく簡単に言いますと授業です。
○東室長 この授業はと。
○川島委員 学校が提供する授業を想定しています。次の3の、あらゆる役務の設備、利益というのは、それは大谷委員がおっしゃられた修学旅行とか、そういう学校に付随する利益とか、あとは設備というのは学校の建物とか、そういったもの。あと役務というのは、学校が提供する何らかのサービスですけれども、なるべく網羅的にと、まだちょっと抽象的なのですけれども、思っています。
○東室長 ありがとうございます。
○棟居部会長 3点、先ほど室長が提示されて、その対象となる教育とか、学校の範囲とは何ぞやということを、竹下副部会長、池原委員、大谷委員、お三方の条項案をベースに議論するという、そこから始めておりますけれども、少しやり方が狭過ぎるかもしれません。この大きな冊子で各委員が提出されているものの中で、教育に関わる内容を含むのは、一番最初のこのお三方のもの、これは今の禁止条項案とは別の日弁連案が収録されております。それから2番目の、今日は残念ながら御欠席のようですが、池原委員単独でお出しになっているもの。これも教育に関わっておるわけでございます。それから太田委員が提出された12ページ以下、これも教育にもかかわっておりますね。情報と教育、両方だということで、太田委員に、この部分をちょっと。骨子を、もし今よろしければ。もっと後のほうがいいということでしたらパスしていただいて。御発言になりますでしょうか。
○太田委員 はい。
○棟居部会長 お願いします。
○太田委員 太田です。大体、大谷委員、池原委員、竹下弁護士や川島委員の考え方に基本的に同意をします。JDFは現実に、室長がおっしゃったように、教育施行令によって、異別取り扱いされていて、就学問題が起きていると。重度の障害がある者は、特別支援学校にということを言っていることに対して、問題意識を持ち、これまで条約に関連して、文科省と話し合いを持ち、会議をしてまいりました。そういう重度の障害者は違う取り扱いで就学決定をするということが、基本的におかしいという考え方に立っています。ここは差別禁止部会であるから、教育論よりも、差別禁止という観点で、きちんと議論をしていただきたい。えてして、教育学的な立場と差別禁止、障害者の権利、人権というものがごちゃまぜ、ないまぜにされてしまっていることに、日本の問題点があるというふうに思います。どの学校に入るかということについては、みんな障害のある子もない子も、地域関係なく、平等に自分で決める権利がある。あるいは保護者が方向性を定める権利があるというふうに思います。それが法律によって、施行令によって、はじめから除外されているということに、まず日本の差別禁止法制ができた暁には、解決しないとならない問題があるというふうに思います。
それで対象範囲ですが、義務教育はもとより、末は高校、大学、それ以上のものを、あるいは専門学校、塾をどう位置付けるかということもありますが、あらゆる教育に関係するところは、障害を理由に排除してはいけないということは原則であろうというふうに思います。私のような重度の障害のある人間が、大学に行きたいといった場合は、合理的配慮として、ノートテークとか介助とか、設備とか、そういう改善が求められるし、あるいは人によっては、教科書がわかりやすい、あるいは教科書の点字版とか、違うツールで教科書が提示されるということも、大学あるいは学校側の責任としてある。あるいは通学についても、特に基本的には、義務教育段階では、学校側の責任であろうというふうに考えています。また、どうしても障害が重いため、外に出られないという人に対しては、インターネットや放送設備によって、あるいは教員などが訪問して、在宅で学ぶという方法もあるだろうと。常にその人に合った、自分がいいと思う教育法を選択できることが必要だということで、初めに戻りますが、今の就学先決定の在り方については、問題点があり過ぎるということを申し上げたいと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
前回、文部科学省の方に来ていただいて、いろいろヒアリングというか、相当、こちらもいろいろお尋ねをしたのですけれども、やはり今までの学校教育、何十年も戦後ずっとかけて、つくり上げてきたものの基本的なコンセプトが、結局、職業教育というか、その人なりに食べていけるようにするといった、そちらばかりが日本全体が経済中心ということが影響しておるかどうかわかりませんけれども、特別支援学校も、そういう点ではエキスパートを育てる教育をされてきておるのだろうけれども、社会全体がともに生きていく、インクルーシブな、そういう形に変わっていって、お互いに多様な人同士が刺激を受け合うのだという、日本の発想が、いわばグローバルな、そういう共生社会の考えから、少しずれてきておるというか、従来からのが少し置いていかれている感もあって、教育というのは、どうもその1つの表れで、一生懸命やっておられる現場の方と、権利条約から入っている我々との感覚でずれが出てくる。勿論、太田委員がおっしゃっているように、現場にまさに問題があるというところなのでしょうけれども、私はそういう感想を持っております。ちょっとそれは、全く余計だったかもしれません。
ということで、先ほど3点の柱と申しましたけれども、第1の、何を対象にというときには、これはもう広く取るというのは、基本的に、この場ではなかなか異論は出てこないのだろうなと思いますが。
どうぞ、室長お願いします。
○東室長 すべての範囲だという御意見ですが、権利条約の24条5項では、「締約国は、障害のある人が差別なしに、かつ、他の者と平等に高等教育一般、職業訓練、成人教育及び生涯学習の機会を与えられることを確保する」。これは、政府の公定訳の方ですが、川島さんたちが訳した方は、「一般の高等教育、職業訓練、成人教育及び生涯学習にアクセスすることができることを確保する」というふうに書いてあるのです。
ここでの教育というのは、1つ確認したいのは、一般の職業訓練も含む意味で言われているのかどうかという点をちょっと、どうお考えなのか。この点も問題にすると、障害者の職業訓練というのは、いわゆる福祉的就労の場が念頭にあって、一般の、いわゆる職業訓練学校ですね。ああいうところに、なかなか障害者が行けないという現実もあるわけです。そういった点にも大きな影響を及ぼすことになりますので、その点、どうお考えになるのか、御意見があれば聞かせていただきたいのですが。
○棟居部会長 太田委員お願いします。
○太田委員 私は一般の職業訓練にも行けるようにすべきであるというふうに思います。それは、その障害者が、これをやりたいという希望を持って、例えば自動車整備工になりたいという希望を持っていたら、障害者訓練校という選択肢だってあるかもしれないですが、一般の訓練校で学んでも、一向に問題はないし、学校は差別せず、能力があれば、可能性があれば、あるいは学校に余力があって、合理的配慮をすることができるならば、入校させることが筋だと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
松井委員、今の論点について、職業、教育、訓練といった論点について、特に東室長が御意見を伺えということですので、是非お願いします。
○松井委員 松井です。ありがとうございます。もともと教育訓練というような、セットで海外では考えられてきていると思うのです。先ほど東室長がおっしゃったように、訓練というのは必ずしも技能訓練だけではなく、いわゆる職業教育も当然広い意味では入るわけで、ですからそういう意味では、教育訓練、広い意味で、そこから障害を持った人たちが排除されないような配慮は当然あるべきだというふうに思います。
前回、労働サイドからのヒアリングをしたときに、とりあえず労働サイドでは、雇用促進法を中心に考えているわけですけれども、しかし労働法規全体を考えれば、それは今の職業能力開発促進法という法律も当然入るわけで、そういう意味では、職業訓練を広い意味で、そこまで範囲を広げた形で対応すべきだというふうに思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
今、雇用の話が出ておるので、ちょっと今日は御発言の少ない浅倉委員、もし今、御発言がありましたら。後で、別のところでもよろしいですけれども。そうですか。済みません、御自由に発言をお願いできたらいいのですけれども、では、私から松井委員に確認の意味でお聞きしますけれども、職業訓練というのを教育の主目的にするという考えは、これは取るべきではないと。それはそれで別のところで、例えばインクルーシブに普通学校に障害者の子どもたちが入って、そこではともに学んでいくと。しかし、例えば保護者や本人が、別途、職業訓練を受けたいという場合には、それは学校の外にそういう施設をつくる。それは教育でもあるけれども、職業訓練という、雇用の方にも結び付いてくるという、こういう御理解でしょうか。
○松井委員 松井です。先ほど東室長からも発言がありましたけれども、今はやはり、障害者の訓練となると、いわゆる障害者職業訓練校というふうな、極めて狭い領域での訓練が中心になっているわけです。そうではなくて、通常の職業訓練、あるいは通常の職業教育という中にも、きちんと障害を持った人たちが入れるような、そういう配慮を当然やるべきだと。だからそういう意味では、教育的なインクルージョンというのと、職業的なインクルージョンというのは、まさにこれはセットの考え方だと思うのです。
○棟居部会長 すると工業高校などを具体的に念頭に置くと、そういうところで、障害者がしかし、例えば旋盤なんかを使って、実際に工場で働けるような、そういう実習的な教育ができるような、いろいろな設備とか、そういうものが求められるということになりますでしょうか。
○松井委員 松井です。基本的に、これまでは一定の障害があれば、特別支援学校が当然だというふうな形になってきていますけれども、訓練だって、障害を持った人たちは、別に特別の訓練があるわけではなくて、さまざまな対応はできるはずなのです。そういう意味では、どこでも、だから障害を持った人たちも、基本的には、本人が希望し、適切であれば、通常のプログラムの中で、訓練、あるいは生涯教育を受けられるような、そういう仕組みにすべきだということだと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
それでは、2番目の話に行きたいと思います。どのような行為を差別とみなすのかという、そういう観点からでございまして、竹下副部会長、池原委員、大谷委員がお出しになっている差別禁止条項案では2番。「授業、修学旅行のほか学校等がその教育に関して行うすべての活動について、障害のある人(子ども)の参加を、障害を理由に、区別、制限、排除または拒否し、もしくは、保護者の付き添いを条件とするなどの不利益な取り扱いをしてはならない」。こうされておるところですけれども、このような行為を差別とみなすという、この考え方については、この例示の挙げ方を含めて、御意見いかがでしょう。
川島委員お願いします。
○川島委員 ありがとうございます。3名の委員の案の第2項につきまして、私は「障害を理由に」というところの言葉、これを、「障害を理由とすると同時に障害に関連する事柄を理由に」という言葉も入ったほうがいいと思いまして、それについて私が提出した委員提出資料の69ページをごらんいただければ幸いです。ここに具体例を書いてきました。
69ページの「2-2不利益処遇」です。私は、ここを広くとっておりまして、合理的配慮以外のものを含めているのですけれども、「障害差別禁止法では、障害者の被っている構造的不利等の現実を出発点として、障害者の権利と相手側の義務とのバランスを適切にとる必要があります。相手側が、『正当な目的の達成に相応な手段』を証明すれば、違法な差別にはなりません。また相手側が、障害を認知不可能であった場合にも、違法な差別にはなりません」と私は思っています。
以上の考えについて、英国平等法の行為準則を参照しながら、いくつか例を挙げます。まず第1は、がんがある学生さんです。彼が社会科見学中に教師の指示に従わなかった。それで処分を受けてしまった。そのときその生徒は、実は治療の投薬のせいで、疲れやすくいらいらしていたので教師の指示に従えなかった。この場合、その生徒は、障害に起因する事柄を理由に、処分という実質的不利を被った。教師が、その生徒に障害があることを知らなかった場合とか、または懲戒処分を正当化し得た場合を除いて、その処分は違法な差別となると私は思います。
例の2は、母親が、ヒルシュスプリング病を持つ息子を入学させようとして、学校から断られるケースが考えられます。学校側は、他の子どもはトイレのトレーニングがちゃんとできている。他方で、息子さんはトイレが適切に行えない。だから入学拒否をしたと。障害それ自体を理由とするのではなく、障害に起因する事柄、トイレの問題を理由として、その息子さんは入学拒否という実質的不利を受けた。学校側が、この入学拒否を正当化し得ない限り、その入学拒否は違法な差別となる。
例の3は、学校が年間の高い出席率を残した生徒のみを対象にして、学芸会のメンバーを決定するような場合、臨床的うつ病のある学生が、出席率が低くて、その高い基準を満たせず、メンバーに選ばれないケースが考えられます。その生徒の欠席の理由の大半が、障害に関係していた。そうであれば、その生徒は障害を起因とする事柄、つまり欠席に基づいてメンバーになる資格を失うという、実質的不利を被った。学校側が、高い出席率の基準を用いることを正当化し得ない場合は、これは違法な差別になると思います。
最後に、例の4は自閉症のある生徒です。彼が、繰り返し給食時に列に並ぶことを拒否した。それで教師が給食の提供を断った。更にその教師は、お弁当を持参して、友達と離れて昼食を取るようにと彼に言った。その列に並ばなかったのは、彼の自閉症に関連する行為なのです。その生徒は、給食の提供を断られたので、障害に起因する行為、列に並ぶことを拒否することを理由に、実質的不利を受けた。学校側がそれを正当化し得ない場合には、違法な差別となる。
これは英国平等法の行為準則に書いてある例を簡単にまとめたものなのですけれども、注意しなくてはいけないのは、英国平等法の立法過程で、一番根本的な指針としたのは、障害のある人の権利と、相手側の義務とのバランスをとるというところで、これは法律が予測可能で、透明性があって、公平なものであることを確保するために重視されたものだと私は思っているのですけれども、一応このような例を挙げさせていただきました。
○棟居部会長 どうぞ、東室長。
○東室長 ありがとうございます。東です。こういう具体例を基に、一番最後の72ページ、定義化されているということでいいですか。そういう理解で。今の事例はどこかに当たるという形になるわけですか。
あと1つ質問させていただきたいのは、川島先生の定義にも入学とあります。それと竹下先生たち3人のものも、入学を求めたときにはという形で書いてありますので、あくまでも自分が聾学校に行きたい、盲学校に行きたい、養護学校に行きたいと望む場合については、これは差別には当然該当しないという前提での定義ということで理解していいでしょうか。
○大谷委員 全くそのとおりです。これは個別の差別禁止法をどうするかということで、いわゆる制度意見的なものを、この法令にどう盛り込むかということは全く予定していないわけですから、本人が求めたときに与えられなかったときは差別だということを前提にするべきだろうと。この規定ぶりとしてもそうするべきではなかろうかと私は考えています。
それから川島さんがおっしゃったような形で、本当に全くそのとおりだと思うのですけれども、この一つひとつのところに、そのことを意識したことを入れるのか。例えばやはり、本法において差別とはという形で、総則の議論で我々が議論したところ、これも個別の教育において意識されるべきだと。適用されるべきだという意味においては、私は絶対そのとおりだろうというふうに思っています。
以上です。
○棟居部会長 川内委員お願いします。
○川内委員 ちょっともとに戻るようで大変申し訳ないのですけれども、私が全然わかっていないので教えていただきたいのですが、この竹下先生以下3名の方が出された差別禁止条項の1項で、「入学を求めたときは、障害を理由に、これを拒否してはならない」というのがありますが、知的障害のある子が求めたときに、それが例えば、入試のある学校なんかで合格点に届かない。例えば知的障害があると認められていない子が40点取れて、60点未満だったらば落とされる。知的障害のある子は30点しか取れなくても、これは障害を理由に拒否してはならない。ただし4項で、その教育の目的を達せられないので、そちらの方で落とされるという理解でよろしいのでしょうか。
○棟居部会長 今の点につきまして、大谷委員お答えになりますか、竹下副部会長。大谷委員お願いします。
○大谷委員 基本的には、障害を理由にということになって、この1項というのはすべての教育機関に関わることだというふうに思っているのです。ただし、第5項に、義務教育、もしくは義務教育に準じると言われている高校・幼稚園等に関しては、また別途、保護者の意向を最大限に尊重しつつというようなことで、ちょっと条項を提示させていただいています。ですから、ここでは障害、もしくは障害に関連したことを理由にということになりますから、例えばその学校、もしくは義務教育以外の例を出すと、やはり大学などは、入学の点数に達しなかったということを理由に落ちましたということに関しては、これは差別に該当しない可能性がある。
ただし、そのときにも合理的配慮をしなければいけない。例えば点数が満たなかったというのは、障害を理由とするとの、その障害を克服するための合理的配慮さえすれば点数に達し得る可能性があるとしたら、それは合理的配慮をしなければいけない。合理的配慮を尽くした上でも、なおかつそこに達しない場合には、そのことは差別にはならないという形になろうかと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
どうぞ川内委員。
○川内委員 川内です。知的障害というのは、点数が取れないことがまさに障害を起因にして起きているわけですよね。ということは、点数に届かないからということで落とすというのは、それはまさに障害を起因にした理由で落としているということにならないのかということ。
それから合理的配慮を尽くしてもということですが、これは入学試験の段階では、その大学が、合理的配慮を尽くして、この子の教育成果が上がるかどうかというのは判断できないわけですよね。もしそれが可能であれば、そこに来るまでに、その子を教育してきた機関が、何らかの成果を上げているはずなわけですね。ですから、合理的配慮ということは、ちょっとその場では言えないのではないかという気がするのですが、いかがでしょうか。
○棟居部会長 非常に難しい問いで、大谷委員もお考えになっている、あるいは川島委員もかわりに答えてやろうかと手をお挙げになっている。私から逆に川内委員に質問なのですけれども、点数というのは、勿論、入学試験の、ある意味で公平な1つの物差しなのですけれども、その場合、知的障害がある方に対して、別の形で、その子はどういう教育をしていけば一定の理解ができる。あるいは、どういう能力を伸ばしていけば、教育効果が上がるという、つまり同じ試験を受けて点数が足らないときに、ではどういうふうに実質的な平等を実現していくべきか。具体的に、例えば試験の時間を延ばすとか、あるいは点数自体について一定の配慮をするとか、従来の学習時間がその人にとっては限られていた学習環境がよくなかったのだろうという、そういう配慮の下に、点数そのものについて、何か1つの変換をしていくのか。それとも、その個別の子どもに合わせた特別の試験を実施するというのと、どういうイメージをお持ちなのでしょうか。
ちょっとこれは川内委員の御質問とは違う、またはぐらかしになっているのかもしれないのですけれども、イメージをもしお伝えいただければわかりやすいと思います。
○川内委員 川内です。はぐらかしとは言いませんが、私の質問の論点と違うかなというふうに思っていて、それは私は、具体的にどうしろということを思っているのではなくて、この3先生が書かれたことはどう理解すればいいかということをお聞きしているわけです。先ほど申しましたように、知的障害があるというのは、例えばIQを基準にして判断していますね。ぎりぎりで知的障害があるとは認められなかった子が40点取っていると。知的障害があると認められた子が30点取っているというときに、今の部会長がおっしゃったように、例えば知的障害のある子には、別の試験方法を適用するとしたらば、ぎりぎりで知的障害があるとは認めれらていなかった子は、そういう別な試験方法も提供されずに落ちていくわけですね。だから、そのあたりの、障害があるからこういうやり方でというような、やり方そのものがいいのかどうかも、私はよくわからないのです。その辺をちょっと教えていただければと思います。
○棟居部会長 大谷委員お願いします。
○大谷委員 今は一般論、一般的なすべての教育機関を前提にしていますから、知的障害のある子が大学に入学したいというふうに希望したときに、どのように配慮され、どのような判断がされるべきかという形で論点を絞らせていただいていいですか、ということですよね。そうすると、大学入学に当たって、知的障害のある子、発達障害のある子でもいいのですけれども、入学試験において配慮するべき事項をする。それから入学試験だけではなくて、例えば教科における判断。例えば到達度の判断方法に関しても、変更及び調整が必要であれば、それはするというようなことで、あらゆる形での合理的な配慮が想定されるところを本人も要求し、そしてそれが可能であればするということがまず尽くされるべきだというふうには私は思います。
そうしても、なおかつ、やはりこの子にとってみたら、合理的配慮を尽くしても、この大学での入学、もしくはそこでの学習、就学が保障し得ない、提供し得ないというときには、やはりそれは、そこでの学習に関しては拒否し得ると。それは差別に当たらないということになろうかというふうに私は考えています。
今、例を出されたのは、知的障害のある子の大学での問題。高等教育での問題ということであって、それが義務教育、幼稚園、小中学校、高校までに関しては、私はまた別途の判断があるのではないかというふうに考えていますけれども、そういうふうに分けて考えるべきだというふうに思っています。
○川内委員 では端的に言えば、今の質問は、高校はどうかという質問に対して答えなければいけないでしょう。
○大谷委員 高校に関しては、私は準義務教育だというふうに考えていますから、それは例えば、それらのすべてのことを配慮した上で、教育が尽くされないということは、非常に、限りなく小さくなってくるのではないかというふうに思っています。入学試験の配慮と、それから学習内容、学習方法、学習成果における判断方法を、合理的配慮さえすれば、高校に関しては、知的障害のある子も就学可能な状態に既になっているのではなかろうかというふうに思っています。
○棟居部会長 ありがとうございます。
これは日本国憲法26条自身が、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する」と第1項で述べておって、これは全国一律の機会均等。つまり、到達度をそろえていくというような観点からの教育ということに理解されやすいというか、そうされてきたと思います。入学試験などというのは、非常に公平性を確保するということで、何らこの規定との矛盾はないのだという理解できとるはずなのです。
しかし、「その能力に応じて」という、「その」というのは、まさにパーソナルな個人、個人だというふうに考えると、そして「等しく教育を受ける」というのは、決して到達度ではなくて、教育の機会を等しく実質的に与えられたというふうに考えると、別に学力がそんなに均一ではない集団でも、その子どもなりに教育効果が上がれば、これはこの26条の教育を受ける権利は十分満たされているということになるはずだし、少なくとも従来、いわば横一列の教育こそが、日本国憲法の保障する教育だと理解され、運用されてきたとすれば、この権利条約の考え方は、まさに個別の、1人ずつを見てケアをして、そしてインクルーシブに取り込んでいくということですから、少し考えを変えていくといいますか、そしてこれは憲法の読み方としても、その能力に応じてというのを、点数の高い順番にという従来の考えではなくて、むしろいろいろな点数の、いろいろな特徴の、いろいろな個性の子が、それぞれが学べればいい。同じ場所で学ぶのだという、こういうとらえ直しというのは、私はあり得るのではないかと。
あなたは憲法の授業でそんなことを教えとるのかと言われると、いや、それはほかの教科書を見て、相場を勿論語ります。しかし、今の教育を受ける権利や、教育制度の理解が、硬直的にあるところで止まっておるとすると、一番素朴で、大事な方法というのは、原点に戻ると。その能力に応じてというのは、実はパーソナルなケアを含んでおるのではないかというと、まず入試の在り方自体から、その子どもの特徴に応じて変えていくという考えも、これはあるかもしれません。
ただ、これは公平論とか、別の議論は当然に出てくるわけであります。教育基本法の第4条も、その障害の状態に応じ、十分な教育をという、これはそれぞれの障害、それぞれの子どもという、やはりパーソナルな観点が入っておると読めるのではないでしょうか。また、座長でありながら余計なことを申しました。
どうぞ副部会長。
○竹下副部会長 今の調子で全部聞いてから、その議論をちょっと深めませんか。
○棟居部会長 私はちょっと言っただけで、もし深めるに値するのであれば戻りたい。
○竹下副部会長 川島さんが手を挙げておられたと思ったので。
○棟居部会長 では川島委員お願いします。
○川島委員 ありがとうございます。私も特に異論はないのですけれども、一応、適正基準という考え方がありまして、これは物事の本質に関わること、その部分については変更しないでいいということです。それ以外のことがらについては、過重な負担がない範囲で合理的配慮をする。例えば知的障害があってもなくても、特定の点数で入学を合格するかどうか決めるというときには、その特定の点数が適性基準になるわけなので、それに障害があってもなくても、到達すれば、それは合格だと。それは高等教育で私は言えると思うのですけれども、義務教育においては、適正基準の内容が変わってくると思うのですけれども、基本的には、物事の本質に関わることを、相手側に変更を求めることはできないと私は思います。
○棟居部会長 相手方というのは障害者の側ということ、どちら側。学校側ですか。
○川島委員 はい、学校側です。学校側は、物事の本質を変えるようなところを変更する必要はないと思っています。
○棟居部会長 わかりました。何が本質かという話に戻るということですね。それは大きい問題なので後に取っておこうというのが、先ほどの竹下副部会長の御提案で、ということで、室長が先ほど出された第3点は、合理的配慮は教育の場では一体どういうものであるべきかということでしたが、既に合理的配慮については、大谷委員のお話の中などでずっと入ってきています。ということで、合理的配慮の話を続けていけばよろしいかと。
川島委員、ではお願いします。
○川島委員 ありがとうございます。私の配付資料の70ページ、「2-3合理的配慮」と書いてあるところです。第1パラグラフは飛ばしまして、第2パラグラフに合理的配慮のエッセンスを書きました。
障害差別禁止法に含まれるべきである、教育分野の合理的配慮の特徴(の一部)を、以下に列挙します。
<1>合理的配慮は一応3つに概念的に区別できます。
(あ)決め方・やり方の変更
(い)物理的形状の変更
(う)補助手段の提供、に関する合理的措置を講ずることを意味します。
<2>過重な負担を伴う場合に、学校側は合理的配慮を提供する必要はありません。
<3>学校関係活動とは異なる活動(私的な活動)について、学校側は合理的配慮を提供する必要はありません。
<4>学校側は、合理的配慮として、試験の内容等の適性基準を変更する必要はありませんが、試験時間の延長など試験の仕方を変更する必要はあります。ただし、試験時間がその試験の本質的部分を構成する場合は、試験時間を延長する必要はありません。
<5>学校は、障害のある生徒のための特定の合理的配慮の提供が、他の生徒に甚大な問題を与える場合には、それを提供する必要はありません。その場合、学校は、別の合理的配慮を提供する必要があります。
<6>学校は、合理的配慮の費用を負担し、その費用を生徒・親に請求できません。
<7>障害のある生徒と親は、その生徒の障害の存在・性格を内密に扱うことを学校側に要求する権利を有します。
以下、英国平等法の行為準則を参照しながら、いくつか例を挙げます。
(例1)学校は、制服として、あるメーカーのポリエステル製ズボンを着用しなければならないという方針をとっている場合があります。そのズボンが、ある生徒の湿疹を悪化させてしまうので、学校はその方針を変更して、見た目が同じ綿製ズボンの着用をその生徒に認めました。これは合理的配慮です。
(例2)学校は、視覚障害のある生徒に、MP3プレーヤーにダウンロードできる電子フォーマットを提供しました。これは合理的配慮です。
(例3)学校は、校内で車いすを押す支援者を、障害のある学生に提供しました。これは合理的配慮です。
(例4)学校は、低身長症の生徒が、校内の実験室の机を利用できるように、特別な椅子を提供しました。これは合理的配慮です。
(例5)学校は、手先を動かすのが難しい障害のある生徒に、授業中にノートをとるために電子ノートテーカーを提供しました。そして学校は、それが数時間ごとにバッテリーの充電を必要とするので、その充電をできるようにしました。これは合理的配慮です。
(例6)視覚障害のある生徒が、教科書類の点字版を要求し、学校はこれを行いました。これは合理的配慮です。
(例7)生徒が、学校内の活動とは関係のない私的目的のために車いすが必要な場合に、学校は車いすをその生徒に提供する必要はありません。
(例8)法学専攻の学生に対し、学位取得の条件として特定の法分野に関する知識の証明を求めることは「適性基準」です。この「適性基準」を変更する必要はありません。
(例9)高い室温によって湿疹が悪化する障害のある生徒の親が,教室を低温にするように依頼する場合があります。しかしその温度が、他の生徒にとっては低すぎる温度となってしまう場合には、学校はその温度にする必要はありません。その代わりに学校側は、他の学生にとって許容できる程度にまで室温を下げた上で、更に障害のある学生をなるべく室温の低い場所(窓の近くなど)に移し、制服着用義務をゆるめて、より涼しい服装を許容する必要があります。
(例10)16ポイントのフォントサイズであれば文字を読める視覚障害のある学生が、学校に視覚障害があることを内密にしてほしいと依頼する場合があります。教師は、通常は、視覚障害のある学生に対する合理的配慮として、拡大文字のレジメ・資料を授業時に用意しています。しかし教師は、その学生の依頼に応えて、授業時ではなく授業前に拡大文字のレジメ・資料を学生に渡す必要があります。これは秘密保持を確保した合理的配慮です
以上です。
○東室長 棟居先生がちょっと出られておりますので、代わりに司会をします。
川島先生の今のお話では、例えば大谷先生たちが出されている中で、適切な情報伝達の方法の適用というのは、1つのまとまった項目としては入っているかわりに、逆に言えば、物事の決め方、やり方の変更という、そういう部分は3人の先生の委員の方にはちょっとないのですけれども、必ずしもこれに限定するという御主旨ではないのでしょう。こういうものがあるという例示の話であるだけですか。
○川島委員 3名の委員の御提案の「3-1 適切な情報伝達方法の提供」のところなのですけれども、基本的に、やり方、決め方の変更と、補助手段の提供というものが、情報に関わる場合は、それを提供する義務を負うという理解です。
○東室長 わかりました。別に内容的にそごしているとかいうことではないのですね。
○棟居部会長  どうも失礼しました。
特に川島委員の70ページ、71ページ、今はその話でよろしいですね。いろいろ例が挙がっておる中に、先ほどの情報に戻る話がありますけれども、これは一般社会での障害者の情報アクセス権というか、情報を受領できる、それについて一定の合理的配慮がなされるべきであるというのと、教育現場ではやはり変わってくるというふうにお考えでしょうか。
○川島委員 先ほど東室長と重なる御質問なのですけれども、イギリスの構造をお話しすると、私の説明が理解しやすくなると思うのですけれども、イギリスでは、合理的調整義務は3つの構造を持つ。物事のやり方、決め方の変更。物理的形状の変更。補助手段、補助サービスの提供。そのうち、イギリスではわざわざ、情報に関しては、物事、決め方の変更と補助手段の提供について、情報に関することが問題になる場合は、アクセシブルな様式で提供しなくてはいけないという明示の文があるのです。それは教育機関に対してもすべて義務を課しますし、公務遂行者にも課しますし、使用者にも課しますし、英国平等法が義務主体として特定するものに対して、情報に関して義務を課しております。
○棟居部会長 御紹介ということで、イギリスの話をおっしゃいましたが、日本で取り入れるべき施策としては、どのようなイメージでおられるか。同じ考え方ということでしょうか。
○川島委員 私は基本的には同じ考えを持っております。
○棟居部会長 ありがとうございました。
大谷委員お願いします。
○大谷委員 私は川島さんの意見に全く賛成ですし、ああいう形で細かくというか、具体的に例示されると非常にイメージしやすいのですけれども、やはり個別ですから、例示にする形ですから、その他条項みたいな形で、あらゆる変更調整という形にするしかないかなというふうに思っているのです。
我々、合理的な配慮に関しては、正直、余りなじみがないのですけれども、ただし、今日、私が提出させていただいた、「原則共学保障と」というのは42ページに、我が国の裁判例を紹介させてもらいました。勿論、イギリスと比較すると、まだこの程度のものだといえば、その限りなのですけれども、既に我が国においても、この合理的な配慮に対する考え方が、裁判で現実化しているということは是非知っていただきたいということで、紹介しましたので、ざっと紹介させてもらいたいのですけれども、よろしいでしょうか。
○棟居部会長 お願いします。
○大谷委員 幼稚園のケースなのですけれども、2005年、まだ障害者権利条約が採択される前だということが、私は非常に特徴的だと思います。合理的配慮という言葉は使っていませんけれども、幼稚園の入園拒否に対して、仮の義務付けで入った初めてのケースなのです。このときに、どういうふうに裁判所が判断したか、言ったかというと、とりあえず障害のある子の保護者が幼稚園への入園を申し込んだ。それに対して、これは町立だったものですから、公的な機関だったものですから、それを拒否したと。拒否したことに関してどういうふうに判断するかというと、それは拒否することに合理的理由があったのかどうか。
43ページです。「地方公共団体としては、幼児の保護者から公立幼稚園への入園の申請があった場合には、これを拒否する合理的な理由がない限り、同申請を許可すべきであり、合理的な理由がなく不許可としたような場合には、その裁量権を逸脱又は濫用したものとして、その不許可処分は違法になると解するのが相当である」と、まず前提を押さえている。
その次に、ではどういう理由だったのかというと、これは障害があった。障害があるということは、人的、物的に十分な配慮をする必要があったということに関して、下線を引かせていただきましたけれども、「障害を有する幼児に対し、一定の人的、物的な配慮をすることは、社会全体の責務であり、公立幼稚園を設置する地方公共団体においてもこのような配慮をすることが期待されるものというべきである」というふうに述べて、では、具体的にどのような方法があったのかということを、保護者側が、加配さえしてくれればできた、幼稚園教諭を1人つけてくれれば、この子の障害は十分克服できたということを主張しました。それに対して幼稚園側は、いや、そんなお金はないということを言って、まさに過度の負担の抗弁を出しているのです。
それに対する判断が44ページ以降、ざっとされていて、加配を付けてくれという加配措置要求に対して、幼稚園は、お金がない、公共団体、我が町は財政ひっ迫でお金がないという主張に対して、裁判所がどのように判断したかというと、下線のところ、<1><2><3>とありますけれども、特に、「幼児にとって、幼稚園教育の重要性や、行政機関において障害を有する幼児に対してできる限りの配慮をすることが期待されていることなどにかんがみれば、地方公共団体が、財政上の理由により、安易に障害を有する幼児の就園を不許可にすることは許されない」ということで、今、この時期、町にお金がないというふうに言ったら、幼稚園は障害のある子は入れなくなってしまうではないかということまで認定して、それで仮の義務付けで幼稚園に入っているのです。
まさにこの判断の過程というのは、私は今この障害のある子の就学、入園等に関しても、一般的に採用できる過程だというふうに思っているのです。この過程こそが、保護者が求めたときに、相手方がどのようなことを証明し、そしてそれができないときには、では、これがあればできるということを主張したときに、それもできないということを、また相手方が主張立証し、それで初めて異別取扱い、異なった取扱いが許されるのだということを、ある種、1つのリーディングケースとして持っているのだということを是非紹介したいと思って、今日は提供させていただきました。その後、続いて東大和市保育園、奈良県下市町で3件、義務付け訴訟があり、3件とも、障害のある子どもが勝っているのですけれども、おおむねこのような判断経由をたどっています。おおむねですけれども。
ということで、私は教育における共学保障、原則として、とにかく求めがあったら、そこに入園、入学を保障するということの前提に立ち、そして合理的配慮も提供するということをし尽くした上で、なおかつそれでもだめですかというような過程をたどっていくということを、幼稚園から高校までの間は、特に保障されるべきだというふうに私は考えておりますから、そういうようなことは、我が国においても実例が既にあるのだということで、法制定下においても、私は十分、今度「差別禁止法」の中に盛り込むべき1つの形として、参考にすべきではないかと思いました。
以上です。
○棟居部会長 大変重要な情報提供、ありがとうございました。なお、これは大谷委員に、弁護士、法律家としてお聞きしますけれども、公立ですけれども、幼稚園でこういう考え方が示されているということは、これは非常に一般化できる考えだというふうにお考えでしょうか。
○大谷委員 やはり就学前教育に関しても、高い評価をしていると。位置付けが高いということで、私は我が国においては、就学前、それから高校に関しては、もう準義務教育化しているということを非常に前提的にとられているというふうに思っています。これがもっと、義務教育であれば無条件に憲法の趣旨からして、すべての国民に義務教育を保障しなければいけない、公の義務であるということを前提に、そこはもう無条件の問題になるかなと考えました。
○棟居部会長 社会の一員とか、心身の成長、それから自主的、自立的な精神を育む。こういうフレーズが43ページ、上3分の1から真ん中ぐらいにかけて並んでおるのですけれども、こういうのはもう、幼稚園だけに勿論限定された話ではないということかと思います。特に、障害のある子どもが自立をしていくという上で、子どものうちから社会の一員として、こういう場に身を置くべきなのだという、こういうことを述べておりますね。ありがとうございました。
太田委員お願いします。
○太田委員 確認をしたいのですが、先ほど東室長と部会長の間で、本人の求めに応じて、場合によってはろう学校、盲学校、特別支援学校という確認がされていたように解釈をしますが、私の聞き落としだったら申し訳ないのですが、本人の求めは求めで、それでいいのですが、学校教育法の施行令で、違う取り扱いをされていることを、私たちは問題視しているということをきちんと押さえていただきたいと思います。
○棟居部会長 室長お願いします。
○東室長 推進会議の議論の中でも、そのことは議論されたことだろうと思うのです。制度自体が、要するに意に反する場合であっても、原則としては、分離するという形になっているわけです。そこを推進会議でも議論して、これは変えるべきだという意見が出たのだろうと思います。それがどうなるかということは、文部科学省の方で検討して、結論を出されるということになろうと思います。
それとは別個に、差別禁止として、教育分野でどう書くかといったことが、ここでのメーンのお仕事ですので、今、皆さんが議論された方向でやっていくということになろうと思うのですが。
○棟居部会長 太田委員、よろしいでしょうか。求めに応じてと、私と東室長が先ほど言っておったけれども、問題になっておるのは、そういうことではなくて、学校教育法施行令、これはもう有無を言わせない話で要件が並べられているではないかという、その認識を問われたと思うのですが、勿論承知しております。そして、更に求めに応じてということについて、ついでに一言だけ言わせていただくと、現状のかなりエクスクルーシブな条件の中で、わざわざ普通学校に行っても仲間に入れてもらえないというふうに考えて、自分の判断で特別支援学校に行ってしまうという不幸なケースがあるかもしれませんが、勿論、そういう現状自体が問われるべきかもしれないということになります。
ただ、いずれにせよ、教育というといろいろな観点から幾らでも話は出てきますけれども、あえてこのコーナーは、最初に室長が立てられた3つの点に即して、今、ですから3つ目の合理的配慮とは何ぞやと。どうあるべきかという、そこを議論してまいったと。川島委員は先ほどイギリスの例を挙げられた。ほぼこのコーナーの時間は一応尽きつつあるのですが、ではどうしましょうか。お手が挙がっているのはお3方ですね。川島委員、山本委員、松井委員で、恐らく山本委員にまず御発声いただいて、それから手短に川島委員、時間の順番で、恐れ入りますが、松井委員に最後ということで、そういう順番でお願いします。どうぞ。
○山本委員 山本です。川島委員にお答えいただきたいと思っていた点ですので、今の順序でお願いできればと思います。
竹下委員、池原委員、大谷委員からお出しいただいている条項案、1枚物ですが、これの第4項を見ますと、「学校の設置者および学校等は、前項の合理的配慮を提供することが過度の負担であることを証明した時、もしくは合理的配慮を尽くしてもなお本人の教育目的を達成しえないことを証明した時は、1項、2項に規定する責務を免れる」と提案されています。1項ですので、入学を拒否するというのも、この2つのいずれかの理由があるときには拒否できる。まさに先ほど御紹介された幼稚園の例というのは、このうちの合理的配慮を提供することが過度の負担であることが証明できるかどうかが問題になっていた。その意味で、御主張されている考え方に沿うものであったという御指摘だったと思います。
川島委員の方は、先ほど御紹介ありましたが69ページの不利益処遇のところで、幾つか例を挙げておられて、先ほども御紹介いただきました。そこでは常に、最後に、「不利益処分に当たるものを正当化できた場合を除いて」という言い方で例外をおっしゃっておられました。私がお聞きしたいのは、この竹下委員等が提案されている4項で言われている中身と、この正当化できた場合というのが、その考量事由が同じなのかどうかというのをお聞かせいただければと思います。まずは川島委員に御確認いただいたほうがよろしいのではないかと思います。
○棟居部会長 では川島委員にまず簡単にお答えいただき、そして竹下副部会長にも。
○竹下副部会長 いやいい。
○棟居部会長 では川島委員お願いします。
○川島委員 御質問ありがとうございます。私の立場では、差別類型は2類型です。不均等待遇と、あとは合理的配慮です。不均等待遇に対しては正当化の抗弁を認め、合理的配慮はそれと別個に、全く違う次元で、合理的配慮は合理的配慮の論理で過重な負担とか、過度の困難という抗弁を認めるという、そこは切り分けております。
○棟居部会長 ありがとうございました。
○山本委員 山本です。そうしますと、中身は、例えばどういうものが正当化できる理由として挙げられるということでしょうか。例えば先ほどの幼稚園のような例では、このような判断はしないということなのでしょうか。
○棟居部会長 川島委員お願いします。
○川島委員 私の方で説明させていただければと思うのですけれども、申し訳ございません。69ページのほうでは、不均等待遇については、相手方が正当な目的と、その達成手段の比例性とを証明すれば、違法な差別は発生しないというところで、合理的配慮については、相手方が、過重な負担であることを証明すれば、もしくは物事の事柄の本質を変更するようなものであるとか、そういったものを証明すれば、違法な差別は発生しないというぐらいの理解で今はおります。お答えになっていますでしょうか。
○棟居部会長 副部会長お願いします。
○竹下副部会長 川島さん、単刀直入に言えば、川島さんの言う正当理由と、それから我々がちょっと提案している4項とは、乖離ないしは内容が違うということですか。ちょっと聞いていてよくわからんのです。そうではないのですか、どちらですか。具体的に考えていった場合。
○川島委員 違うと思います。
○竹下副部会長 違うのですか。だから山本委員の御質問は、どういう場面で違いが出てくるかということをお聞きになりたいと思うし、僕も、できれば今の時点で、具体例で言うとこういう違いが出てくるというものを川島委員に指摘していただくと、理解が全体に広がるのかなと思った次第です。
○棟居部会長 いかがですか、川島委員。
○川島委員 私の力不足ゆえにお詫び申し上げます。宿題にさせてください。
○棟居部会長 ごめんなさい、このイギリスの例で挙げられているのは、正当な目的の達成というのは、例えば教師の懲戒権といいますか、とりあえずそこで教育をすると。その教育に対して、生徒の方がそれを受けとめなければいけない。そのバックには教師の懲戒権があるという、こういう現場での規律とか、教育とか、それが正当な目的で、そのための相応な手段だということの証明に成功するか、そうでないかということだろうと思うのです。つまり、行列に並べないという子が1人いて、授業自体が、いわば学級崩壊になってしまう。すると教師の教育というものが成立しなくなるのではないかというのが、ここで言う正当な目的で、先ほどの幼稚園の例は、恐らく裁判所の感覚は、これは数字も出ていますから、お金の話ではないかと。だからそれは確かに大変なのはわかるけれども、それぐらい我慢せいというか、どうにかせいという、そういう意味で教育に対して、直接の影響があるとかないとかいうのは、まだ入学前ですから、勿論、何か影響があるというので、いろいろ町の側は言ったのでしょうけれども、しかし直接には財政上の理由ですから、少しケースが違うかもしれないなと思いました。いかがですか。
○川島委員 いまだにちょっと頭が整理できておりませんで。お許しください。
○棟居部会長 わかりました。済みません。なお、今日の進行は、本来は第1コーナーが少し伸びたのでずれてくるのですが、17時25分、ずれをカウントしますと、ちょうどこの時間ぐらいで、更にちょっと中途半端な時間帯ではありますけれども、第2コーナー終了を宣言いたしまして、15分の休憩を取り、再開後の第3コーナーは、時間は大して残っておらんわけですけれども、今後の予定について室長から御報告をいただくと。こういう段取りなのですが、これはフレキシブルに我々は考えております。
どうぞ。ごめんなさい、松井委員、先ほど御発言が残っていました。大変申し訳ありません。
○松井委員 実は池原さんが今日は来ていらっしゃらないので、池原委員が提起された問題というのは、極めて重要な問題だと思うのです。これについては、今回これでおしまいなのか、あるいは池原委員からの提案、問題提起されていることについては、継続して議論するということなのかどうか、そこを確認させていただきたいと思います。
○棟居部会長 この点については是非、機会があれば池原委員御自身にと思いますが、大谷委員どうぞ。
○大谷委員 池原さんの意見に関しては、事前に話をして、私が本来言うべきだったと思うのですけれども、最後に来ると言っていたから。一言言わせていただければ、本当に基本的な考え方なのです。先回の厚労省と文科省のヒアリングと、我々のすれ違いが一体どこに来るのかということの、基本的な認識の違いなのです。合理的配慮の位置付けに関しても、最終決定権者は一体誰なのかということに関して、どうやら大きなすれ違いがある。このまあ、すれ違いを放置したまま行っていいのかという、非常に重大な提起なので、ぜひこの点に関して、どこか1回まとめて議論させていただきたいということを提案させてください。
○棟居部会長 先ほどの松井委員の御質問の前に、余計なことを言ってしまいましたが、本来ここで休憩時間を、このプログラム上予定しておりますけれども、進行でもし御異議がなければ、今の点について、残りの時間で御意見をちょうだいできれば、今後何について議論していくべきかというのも、ある程度見えてくるのではないかというふうに思います。よろしいでしょうか。
川島委員お願いします。
○川島委員 済みません、私も一言だけ。今のお話と関連すると思うのですけれども、前回のヒアリングのときに、基礎的環境整備と合理的配慮との混同的な話があったと思うのですけれども、でもそこの整理というのも、今後重要になってくると思いますし、前半の情報のお話の中でも、ちょっと合理的配慮の概念があいまいだったと思いますので、そこをちょっと確認したいと思っていまして、1分ほど今からいただきたいと思うのですが、委員配付資料の67ページをごらんいただければと思います。67ページの上から4行目です。
「聴覚障がい者が手話によるコミュニケーションを求めた場合に、手話を理解できない者が筆談などその他の方法を求めても不利益取扱いには当たらない」とする熊本県解説書案の考え方は、合理的配慮という文脈では、認められると思います。
これは私の理解です。
コミュニケーションの手段として、相手側が手話を使えない以上、障害者と相手側がともに理解できる手話以外の手段(筆談など)を、相手側は合理的配慮として提供するほかないと思われます。
勿論、ろう者が手話を求めているのであれば、合理的配慮には手話の提供が望ましいです。しかし、合理的配慮として突然手話の提供を求められても、相手側が即座に手話を提供することは、現実には難しいと思われます。その結果、合理的配慮の内容は、障害者自身の要求が反映されないケースが多々生じると思われます。
このような問題を考えますと、障害差別禁止法は、この法律の下で義務を負う主体に対して、手話を含め、障害種別に対応した「事前的改善措置」を講ずることを義務づける必要があると思います。
ということで、つまり合理的配慮というのは、障害のある方が個別的に要求して、それに対して相手側が過重な負担のない範囲で配慮を提供するというのですけれども、相手側にしてみたら、突然言われても、それはちょっと、今すぐはできませんということはやはりあると思いますので、事前にそういうことを、ある程度義務付けるような考え方というのもあると思うのですけれども、そこは合理的配慮とは概念的に区別しなくてはいけないというのが私のここでのポイントです。
○棟居部会長 今のは前回の文部科学省でおっしゃっていた基礎的な条件整備というか、基盤整備ですか、それと個別のケアとを分けて考えていくという、そういう考え方ともつながるような印象がありますが、それでよろしいですか。ありがとうございました。
竹下副部会長に、今の、つまり前回おられなかったと思うのですが、当然御承知の、池原委員が強調されている権利性、これについて文部科学省、厚生労働省、一生懸命ヒアリングいただいたのだけれども、どうもかみ合ってこない。権利性というのが、十分意識されていないのではないかという、この危機感について、竹下副部会長、コメントいただけますでしょうか。
○竹下副部会長 私はコメントする立場ではないのだけれども、ちょっと気づいているというか、考えたいことを2点だけ発言させていただきます。確かに厚労省において、雇用の場面での合理的配慮の問題は、独自の調査研究と論議をされている。それから文科省においては、特々委員会やワーキングチームなどで、合理的配慮、または基本的基盤整備の問題を議論されている。それ自身が、我々の論議していることと、全く別のことを議論しているというふうに思わないのです。すなわち、違う部分がある出発点というのは、差別禁止を徹底するときに、法制上どうするかという出発点と、片方では、現状の学校制度、または現状の雇用促進を中心とした、日本における労働契約、あるいは障害者雇用政策を、どう権利条約に近づけていくかという、そういう発想の出発点が違うとは思うのですけれども、ただ、共通しているところをお互いに確認する作業というものがまだできていないのではないかというのが1点目なのです。
それは何かといえば、権利条約に基づいて、教育の場面であろうと、雇用の場面であろうと、その他の省庁の関係も全部一緒ですけれども、権利条約に基づく差別をなくしていく社会づくり、あるいは障害のある人の差別を排除するための、いわば請求権といいますか、そういう積極的な位置づけ、それを権利と呼ぶならば、権利性というものについて、どういう位置づけ、あるいはどういう規定の仕方をするかという議論がまだできてないだけであってその部分で対立するものではないというふうに思うので、そういう整理を、あるいはすり合わせというのか、日本語はよくわかりませんが、必要ではないかというのが1点目です。
もう一つは、僕は前回、欠席で申し訳なかったのですけれども、今日の我々が教育の分野で議論したこと、または弁護士3人委員が、ちょっと議論した内容を、少したたき台として、今日、提出させてもらったわけですけれども、そういうものについて、では特々委員会の人たちは、どうそれを受けとめていただけるのか。あるいはそれに対しては、どこが発想の違いがあるのかという、そういう発展的な議論をしていただく場面を是非内閣府の方で準備していただきたいというふうに思うのですが、いかがでしょうか。
○棟居部会長 今の点については、特に第2点は、非常に重要な御指摘というふうに思います。非常に近いことをやっていながら、だからこそもぞもぞと、前回ですね、非常に何と言いますか、すぐそこまで来ている。実は紙1枚の向こうとこちらで、しかし向こうは施策として、こちらは権利という観点から、非常に同じようなことをやっているという思いを私なども強くしたところです。ですから前回、竹下副部会長がおられたら、一声そこを言っていただいて、これは、これから議論しやすかったのかもしれないのですけれども、今からでも、特におっしゃった第2点については、求めていきたいなというふうに個人的には思っております。
第1点についてもそれとの関連で、権利、権利と、こちらも言っているけれども、要は何を求めて、どういう位置付けなのだと。ことさらに対立的な図式でとらえていないかという、これはまた我々に対して、ある意味非常に厳しい御指摘をいただいたというふうに思いました。
先ほどお手が挙がっていませんでしたしょうか。あるいは、今日まだ御発言のない浅倉委員いかがでしょう。
○浅倉委員 たまたま私も前回休んでしまったので、池原先生のこれを拝見しながら考えていたのですけれども、厚労省の考え方の中では、事業主の義務という言葉も出てきていますし、それから義務付けるということは、きちんと明記されていますね。ただ、刑罰法規とか、準司法的手続のような、判定的な形で行わないというところが、考え方としてちょっと違う。ただ、これに司法的効力というのを、当然持つような差別禁止法になれば、司法的効力を持つことは当然ですので、これは準司法的な、判定的な形で行うのではなくというのは、ちょっと意味がよくわからない。これを使って司法手続を求めることは当然できるわけなので、このあたりだけが少し私がよくわからない部分です。
それから、労使の間で、できれば合理的配慮の中身について、話し合いをすべきであるというのは、私はこれは、悪いことではないというふうに思いまして、つまり、だれかがどこかえ、やはり納得ずくで合理的な配慮は何かを話し合うということは、決して悪いことではないのだと思います。それが2点目です。
それからもう一つは、川島先生が先ほど出していただいた合理的配慮の中身、イギリスの中身ですけれども、厚生労働省の考え方を見ても、施設設備の整備とか、人的支援とか、マネジメントとか、まさに3つの類型というのを考慮している枠組みなので、何かほとんど、同じような内容を議論しているのではないかというふうに思いますので、十分、調整可能ではないかというふうに個人的には思っておりました。
○棟居部会長 ありがとうございました。
そのまま連続ということで、特に第3コーナーについてはテーマ設定がございませんので、後で室長から、今後については少し御紹介いただくとして、非常に大きな話にある意味、なってきましたが、御発声いかがでしょう。
太田委員お願いします。
○太田委員 川島委員に質問なのですが、合理的配慮と事前的改善措置の違いは、合理的配慮は個別に対応して、事前的改善措置は、子どもたちの将来性を前提とした措置であるというふうに理解して大丈夫でしょうか。
○棟居部会長 川島委員お願いします。
○川島委員 御質問ありがとうございます。合理的配慮は、おっしゃられますように個別的、それで当事者の要求があった後に、相手側に義務が発生するという意味では事後的。それに対して、事前的改善措置は、例えばサービス提供者や教育機関が、特定の個人が要求する前に、あらかじめ障害種別をちゃんと考慮に入れて、合理的配慮をあらかじめ整備しておくという違いになります。ただ、一言だけ、すべての障害差別を考慮した配慮をあらかじめすることは当然無理ですので、それは合理的な範囲ということになります。これはイギリスの考え方です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
あとお一方、もし御発言があれば。では引馬さん、どうぞ。情報提供ということですね。あるいは御質問ですか。
○引馬専門協力員 引馬です。今日すべてお答えいただかなくてもいいのですが、今の事前的改善措置のことでご質問があります。このあたりのことは、ヨーロッパでも議論になっているようです。川島さんのおっしゃっている事前的改善措置と、67ページに書かれている英国での予測型合理的調整、これはAnticipatory Reasonable Adjustment、別の表現としてはAnticipatory Reasonable Accommodation あるいは予測型合理的配慮のことではないかと思うのですが、川島さんの書かれた事前的改善措置という考えとAnticipatory Reasonable Accommodation の両者に違いが何かあるのかお教えください。
というのは、今日の伊東副部会長や川内委員からのお話にあった、例えばアクセシビリティーの基準や、いろいろな障害に関わる障壁を減らす標準化の取組みのラインと、この事前的改善措置の内容や義務について、どこがどう違ってくるのだろうかということです。例えば、事前的改善措置では多様な当事者の個別なニーズに対して、ある程度予測して応えなければならない、さらに68ページを参照すると不利益に対して訴訟を提起できる資格が生じるということになります。しかし、個々人の障害にかかわるニーズを、事前に把握し理解することは簡単ではない場合もある。としますと、アクセシビリティー基準やスタンダードあるいは標準化の基準を満たしているだけではだめなのだとなったときには、予測型とはいっても最後は個人あるいは特定集団が言わない限りは分かりにくい部分があると思うのです。事前的改善措置の範疇やアクセシビリティー基準などとの整合性はどうなるのかについて、是非またご意見を教えていただきたいと思います。
○棟居部会長 一言だけ川島委員お願いします。これは大きな意味で宿題ということで、今一言お願いします。
○川島委員 一言で言いますと、イギリスの平等法で言いますアンティシパトリー・リーズナブル・アジャストメント(Anticipatory Reasonable Adjustment )と、私が言う事前的改善措置は、ほぼ同じものをイメージしております。もう一つ、事前的改善措置は、障害者一般のニーズを事前に満たすように、教育機関とか、サービス提供者が環境を整備しておくということなのですけれども、それを怠ることで、障害者一般に実質的不利が及んでいる状況があって、なおかつ、たまたまそのサービスを受けようとした特定の個人も、実質的不利を被ってしまった場合は、もうそれは違法の差別が発生し得るという、つまり個人の権利にも結び付くという、事前にいちいち合理的配慮を要求していなくても、差別が発生したと提起し得るという、ところが1つ特徴だと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
では伊東副部会長お願いします。
○伊東副部会長 今日、大谷委員の町立の幼稚園の実例は非常に興味深い。と思うのです。その例が、もし民間立の幼稚園であれば、過重な負担ということでネガティブな決定になったでしょうか?御意見をお聞きしたいです。
もう一点は、教育の最初のところのテーマで、対象とする教育の範囲について室長の方からいろいろと説明がありました。お話は、広く包含するということですが、現実の事例で申し上げます。家庭の主婦の受講参加も多いホームヘルパーの教育があります。通信教育もあり、通学もあり、いろいろなところでおこなわれています。これは厚生労働省の職業教育の支援制度も入っていて、実際に8~10万円位かかる費用のかなりの部分について行政から受講生に補助金が出ています。この制度により、受講生の自己負担は軽くなります。そこで学校も繁盛しています。ところが、学校の中には、知的障害の人の受講を拒否しているところがある。もちろん受け入れているところもあります。
公的な金が流れ、それを利用して教育している場合には、受講生についての制限や差別は許されないといった規制、条件もあるべきと思います。
○棟居部会長 今の2点について、大谷委員に向けられていると思いますので、一言ずつお願いして、それで今日は終了とさせていただきます。
○大谷委員 あれはたまたま町立ですけれども、私立でも、私は基本的に一緒だと思うのです。それこそまさに私学助成がついていますから、要するに公的な補助があるという意味においては、同じように扱われているはずです。その辺は村木統括官が詳しいと思いますけれども、私立でも同じ扱いです。
○棟居部会長 2点目についてはよろしいですか。
○大谷委員 ですから2点目も、私学助成金がおりているとか、公的な補助があるという意味においては、職業教育も同じように考えるべきではないかと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
時間が尽きております。室長お願いします。
○東室長 どうも御苦労さまでございました。次回の話に移る前に、今日の提起された問題について、少し述べたいと思います。
池原さんが出された資料につきましては、前回の差別禁止部会で、池原さん自身が質問された点と、私も最後に、要するにだれに対する義務なのかといった形で、質問した点でもあります。やはり差別禁止というのは、いわば司法的なアプローチの中で考えられているもので、やはり私人間の権利関係という形に落としていく必要があると思います。だからこれは、単なる行政に対する事業者の義務ではなくて、障害者個人に対する相手方の義務となるわけです。したがってそこから請求権が発生していくということが導かれます。そういったことについて、日本の法律における考え方として、差別禁止ということについてきちんとした理解がまだ広がっていないということであれば、そこら辺は明確に、総則規定あたりで触れていくことが必要ではないかといったような感じを受けています。
それとあと1つ、特に川島委員から出ています事前的改善措置の話ですけれども、これは引馬さんがおっしゃったように、バリアフリー新法とかありますね。ああいうところで用いられている基準と、どこがどう違うのかという関係が一番大きな話だろうと思うのです。これが必要だという話は、だれしも否定はしないと思うのです。しかし差別禁止法という中に、これをしなくても差別にならないような部分まで盛り込んでやるのかどうかという、この差別禁止法の守備範囲に関する大きな論点であると思います。これを仮に入れるとすれば、各省庁がやっている、もしくはやるべきことを、全部これ1本でやるということになると、相当大変なことになるわけです。ですから例えば情報に関しても、教育に関しても、さまざまな面でこれが義務付けられるとなると、ある意味、これこそ行政との関係で義務を負うという場面が出てくることになります。障害者個人とは直接的な関係は負わないけれども、そういう場面まで持ち込むという意味では、差別禁止法という構造の枠の中から少し外れる形にもなりかねないというような大きな問題点を抱え込むことになると思います。
それと竹下委員が言われましたように、文科省、厚労省との関係で、こちらの話を向こうにどういうふうな形でつなぐかといった点の問題がありましたけれども、文科省につきましては、ここでの議論の議事録を、向こうに提供して、紹介していただくという形で、まずはこちらの意見を反映していただくということでやっております。障対課との関係で言えば、まだ向こうの議論も余り進んでいない状況もありますので、もう少し進んだ段階でどうするかといったことが考えられるのかなというようなことを思っております。
次回は2月24日、14時から18時までの予定であります。議題としては、商品、役務、不動産の分野についての議論をするところであります。それ以降の予定ですが、15回が3月9日です。日常生活(医療)の分野と中間的な議論の整理に向けた議論を行う予定です。16回目が3月16日で、中間的な議論の整理ということでやる予定でございます。
まだまだ各論の議論でも、今日の議論でもそうですけれども、まだ煮詰められていない部分はいろいろあると思うのです。ただ、御存じのように政策委員会が発足すると、閣議決定に基づくこの部会の位置付けもまた変わってきますので、一旦は議論の整理をして、それで引き継ぐといった形にしたいと思います。残った議論についてはそれ以降、時間を充ててやるといったことを考えているところです。
以上でございます。どうもありがとうございました。
○棟居部会長 どうもありがとうございます。本日の差別禁止部会の概要につきまして、この後、記者会見において私と伊東副部会長、竹下副部会長、東室長から説明させていただきます。
本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございました。以上です。

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