国際的取決め

カイロ宣言(1943年11月)

左から蒋介石総統、ルーズヴェルト大統領、チャーチル首相

1943年のカイロ宣言では、日本について、第1次世界大戦により得た太平洋の諸島、満州、台湾及び澎湖島、朝鮮、それに「暴力および貪欲により日本国が略取した」他のすべての地域から追い出さなければならないと宣言しました。
南樺太、千島列島についてははっきり述べていませんが、千島列島は、樺太千島交換条約によって平和裏に我が国が譲り受けたものであり、暴力および貪欲により略取された地域ではありません。
ましてや、日本固有の領土である歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島が、カイロ宣言に述べられた「日本国の略取したる地域」にあたらないことは言うまでもないことです。

ポツダム宣言(1945年)

左からチャーチル首相、トルーマン大統領、スターリン首相

1945年7月のポツダム宣言では、カイロ宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びにわれらの決定する諸小島に限らなければならない(第八項)と述べています。
戦争の結果としての領土の最終的処理は平和条約によって初めて行われるものであるためその意味では、ポツダム宣言のこの規定は、平和条約と別に、それだけでは領土処理について法的効果を持ちうるものではありません。
しかも、「われらの決定する諸小島」と述べているにすぎず、この内容を具体的にはっきりさせたものではなく、したがって北方四島が連合国の決定によって日本から分離された事実はありません。

サンフランシスコ平和条約(1951年)

サンフランシスコ平和条約の調印

1951年、サンフランシスコ平和条約が署名され、日本は、千島列島と北緯50度以南の南樺太を放棄しました。しかし、放棄したこれらの地域が最終的にどこに帰属するかについては、何も定めておらず、ソ連(ロシア)は今日まで事実上これらの地域に施政を及ぼしてきましたが、国際法上これらの地域がどこに帰属するかは今なお未定です。
同条約にいう千島列島には固有の領土である北方四島は含まれておらず、このことについて米国政府も1956年9月7日の国務省覚書で「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものである」という公式見解を明らかにしています。

〔参考〕ヤルタ協定(1945年2月)

左からチャーチル首相、ルーズヴェルト大統領、スターリン首相

1945年2月に署名されたヤルタ協定では、樺太の南部及びこれに隣接するすべての島はソ連(ロシア)に「返還する」こと、及び千島列島はソ連に「引き渡す」ことが書かれています。
ソ連は従来から、北方領土問題についてヤルタ協定を引き合いに出していました。
しかし、ヤルタ協定は、当時の連合国の首脳者の間で戦後の処理方針を述べたに過ぎず、日本はヤルタ協定に参加していないため、この協定に拘束されることはありません。
また、そもそも同協定の内容はカイロ宣言に反しており、また米国政府も1956年9月7日のこの問題に関する同政府の公式見解において、この協定に関する法的効果を否定しています。