(東室長よりこれまでの議論の整理)現行基本法は生活上の制限の原因を身体障害、知的障害、精神障害に求めており医学モデルである。これを社会モデルの視点からどう書き換えるかが問題点の出発点だ。社会的不利が何によって生じるかが医学モデルか社会モデルかの分岐になる。基本法の定義が個別関係法の定義を包括する関係にあるべきだ。ただし、差別禁止法における障害には過去の障害や将来発生するかもしれない障害、もしくは周りから障害があると見なされている状態も差別を受けるおそれがあるので含まれる場合もある。次に現行基本法と同じく、「障害」と「障害者」を分ける方法がある。今一つは、障害と障害者を別のものとして規定する方法がある。
次に定義で使う言葉についてだが、定義はそれに該当するものとしないものを峻別する機能があるので、言葉は明確であることが求められる。次に、法律は社会に周知された言葉を使う方がわかりやすい。さらに「継続的」「相当な」といった客観的に一義的に決まらない言葉は避けたほうがよい。
次に定義の仕方と範囲については、まず「障害とは〜である」と単独の言葉で規定するのがパターン1だ。例えば「障害とは心身機能の損傷である」という場合で、分かりやすいがこれだけですべての障害を吸収できるのかが問題になる。
複数の要件で規定するのがパターン2だ。例えば「障害とは心身機能に損傷があり、社会的障壁との相互作用により諸生活上の制限を受ける状態である」と、2つの要件が「かつ」で結ばれる場合、定義は狭くなり機能障害があっても障害にならない。米国ではADA上の障害が「かつ」で狭く規定されていたため、裁判を起こそうとしても機能障害だけでは障害と認定されず、訴えの利益がないとする事例が多く発生した。このため、2008年にADAが改正されている。
最後にパターン3として、2つの要件を「または」で結ぶ場合は「障害とは、機能障害、活動制限、または参加制約の総称」というように、定義の範囲は広くなる。ただ、機能障害がないが参加制約があれば障害者といえるのかという問題がある。参加制約は人種差別や女性差別の分野でもあり、障害分野に限らない。
障害者を定義するのだから人を決める表現になるが、社会モデルの視点でいうと障害はその人の中ではなく外にあるとされる。すると外部の制約が障害者を意味するというように、分かりにくくなる。