第4章2
4.2 英国におけるワーク・ライフ・バランスへの取組
4.2.1 はじめに
ブレア政権は、2000年に「ワーク・ライフ・バランス・キャンペーン」を開始した。その特徴は、ワーク・ライフ・バランスの推進は、企業で働く従業員の生活の質を高めるだけでなく、企業にとっても競争力を高めて業績向上につながるという見方がされている点である。
もっとも、それまで英国は、ワーク・ライフ・バランスという点では欧州の中で遅れた国とみられてきた。これは、ワーク・ライフ・バランスは労使間で解決すべき私的領域の問題であり、国家は介入すべきではないといった考え方がとられていたためだ。この結果、母親の就業を公的に支援する体制が大幅に遅れてきた。また、英国のフルタイム労働者の労働時間は、欧州連合(EU)諸国の中でも長時間労働となっている。
ところが、近年、官民を挙げてワーク・ライフ・バランスに力を入れ始めている。大企業は1990年代半ば頃から、働く時間や場所に縛られない「柔軟な働き方」を導入し、ワーク・ライフ・バランス環境を整え始めた。他方、政府は2000年に「ワーク・ライフ・バランス・キャンペーン」を始めて、ワーク・ライフ・バランスが企業にとっても有益であることを企業経営者に示して、企業の自主的な取組を促している。また、政府は、フルタイム労働とパートタイム労働との間での同一労働・同一賃金の義務付けを法制化するなど、ワーク・ライフ・バランス推進の前提となる条件整備も行ってきた。
以下では、英国における柔軟な就業形態の実態と導入の背景、ワーク・ライフ・バランス施策が企業業績に与えた影響、政府の取組といった点を考察していく。
4.2.2 英国のワーク・ライフ・バランスの実態
(1)柔軟な就業形態の種類
先述の通り、英国では主に柔軟な働き方の導入によって、ワーク・ライフ・バランスを実現しようとしている。「柔軟な働き方」は、労働時間を短縮する「時短型」就業形態や、労働時間は変わらないものの勤務時間や働く場所(勤務地)について従業員に裁量を与える「裁量型」就業形態に分けられる。パートタイムやフレックスタイムのほかに、学校の学期期間中のみ働く「学期期間労働」や、年間の総労働時間を事業主と契約して勤務時間は従業員自身が調整する「年間労働時間契約制」など、わが国ではなじみの薄い形態もある(図表4‐3)。
図表4‐3 英国でみられる柔軟な就業形態の例
名称 | 内容 | ||
---|---|---|---|
時短型 | 労働時間の短縮化 | パートタイム(part-time) | 週30時間未満の労働 |
学期期間労働 (term-time working) |
学校の学期期間中のみ労働する就業形態 | ||
期間限定時短制度 (reduced hours for a limited period of time) |
一定期間のみ労働時間を短縮して、その後通常の労働時間に回復していく就業形態 | ||
ジョブ・シェアリング (job sharing) |
フルタイム労働を複数人で分けて労働時間を分割する就業形態 | ||
裁量型 | 勤務時間の柔軟化 | フレックスタイム(flexitime) | 週あたりの総労働時間は定められているが、始業時間と終業時間を従業員が自由に設定できる就業形態 |
集中労働日制 (compressed working week) |
週あたりの総労働時間を減少させずに1日あたりの労働時間を増加させて出勤日数を減らす就業形態 | ||
年間労働時間契約制(annualized hours) | 年間の総労働時間を予め使用者と契約して、従業員は好きな時間に仕事ができる就業形態 | ||
勤務地の柔軟化 | 在宅勤務 (homeworking) |
従業員が労働時間の全部または一部を自宅で行う就業形態 |
(2)柔軟な就業形態を提供する企業
では企業は、柔軟な就業形態をどの程度提供しているのだろうか。英国貿易産業省から委託を受けた社会調査全国センター(National Centre for Social Research:NatCen)の事業主調査によれば、「パートタイム」を提供する事業主の割合は7割強と高いものの、それ以外の就業形態を提供する事業主の割合は1~2割程度である(図表4‐4)。パートタイムを除けば、各就業形態を提供している事業主の割合はそれほど高くはない。
しかし、事業所の従業員規模別にみると、大きな事業所ほど柔軟な就業形態を導入している。特に、従業員数500名以上の事業所では、「年間労働時間契約制」を除いて、5割以上の事業所が各就業形態を提供している。柔軟な就業形態は、大企業を中心に導入されていることが窺える。
図表4‐4 従業員規模別にみた柔軟な就業形態を提供する事業所の割合
(単位:%)
全体 | 従業員規模(人) | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
5-9 | 10-24 | 25-49 | 50-99 | 100-249 | 250-499 | 500~ | |||
時短型 | パートタイム | 74 | 66 | 75 | 83 | 76 | 85 | 95 | 98 |
学期期間労働 | 16 | 8 | 14 | 29 | 19 | 27 | 25 | 55 | |
期間限定時短制度 | 15 | 8 | 14 | 19 | 23 | 29 | 41 | 66 | |
ジョブ・シェアリング | 14 | 7 | 11 | 21 | 17 | 25 | 58 | 78 | |
裁量型 | フレックスタイム | 24 | 18 | 24 | 28 | 26 | 33 | 53 | 72 |
集中労働日制 | 7 | 2 | 7 | 10 | 14 | 12 | 21 | 56 | |
年間労働時間契約制 | 8 | 5 | 8 | 10 | 12 | 16 | 13 | 24 | |
在宅勤務 | 15 | 9 | 16 | 18 | 14 | 32 | 39 | 50 |
(3)従業員の利用状況
他方で、従業員は企業が提供する柔軟な就業形態を、どの程度利用しているのだろうか。
フルタイム労働者、パートタイム労働者に分けて、柔軟な就業形態の利用割合をみると、フルタイム労働者であっても、2割程度の従業員が柔軟な就業形態を利用している(図表4‐5)。また、性別をみると、フルタイムで働く女性の27%、同男性の18%が、柔軟な就業形態を活用している。
図表4‐5 柔軟な就業形態を利用する従業員の割合 (2003年)
(単位:%)
<フルタイム> | 男性 | 女性 | 全体 | <パートタイム> | 男性 | 女性 | 全体 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
柔軟な就業形態の利用者 (1999年) |
18 (15.5) |
26.7 (23.5) |
21.1 (18.3) |
柔軟な就業形態の利用者 (1999年) |
16.9 (15.1) |
26.7 (24.2) |
24.8 (22.6) |
||
フレックスタイム | 9.7 | 14.9 | 11.6 | フレックスタイム | 6.6 | 8.4 | 8 | ||
年間労働時間契約制 | 4.9 | 5.1 | 5 | 年間労働時間契約制 | 3.4 | 4.2 | 4 | ||
週4日半労働 | 1.8 | 1.1 | 1.5 | 学期期間労働 | 3.9 | 11.2 | 9.8 | ||
学期期間労働 | 1.2 | 5.8 | 2.9 | ジョブ・シェアリング | 1.2 | 3.5 | 3.1 | ||
2週間内9日勤務労働 | 0.4 | 0.3 | 0.3 |
次に、事業所において「柔軟な就業形態を利用できる」と回答した従業員を対象に、子どもの有無、職種に分けて実際の利用率をみると、子どもをもつ従業員は全体の平均よりも利用率が高い(図表4‐6)。また、管理職・専門職であっても「裁量型」を中心に一定程度利用している。
図表4‐6 属性別にみた柔軟な就業形態を利用する従業員の割合
‐ 下記の就業形態を利用可能と回答した従業員を対象にした調査 ‐
(単位:%)
全体 | 子どもの有無 | 職種 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
子ども有り | 子ども無し | 管理職専門職 | 事務職/熟練 | サービス/販売 | その他/未熟練 | |||
時短型 | パートタイム(注4) | 11 | 12 | 10 | 8 | 12 | 19 | 13 |
学期期間労働(注5) | 46 | 46 | 0 | 49 | 39 | 57 | 29 | |
期間限定時短制度 | 20 | 19 | 21 | 15 | 19 | 30 | 28 | |
ジョブ・シェアリング | 15 | 16 | 14 | 10 | 15 | 22 | 27 | |
裁量型 | フレックスタイム | 55 | 57 | 53 | 60 | 53 | 52 | 38 |
集中労働日制 | 36 | 38 | 34 | 38 | 29 | 34 | 38 | |
年間労働時間契約制 | 32 | 33 | 31 | 33 | 22 | 36 | 33 | |
在宅勤務 | 54 | 60 | 49 | 57 | 45 | 32 | 24 |
さらに、企業の柔軟な就業形態の提供状況と従業員の利用状況を比較してみると、その間にミスマッチがみられる。図表4‐7は、従業員に対して各々の就業形態について「事業所での利用可能性」を尋ね(縦軸)、さらに利用可能と答えた従業員に「過去1年間で利用したか」(横軸)を質問したアンケート調査の結果である。パートタイム、期間限定時短制度、ジョブ・シェアリングといった「時短型」の就業形態は多くの事業所が提供しているものの、実際の従業員の利用率はそれほど高くない(注釈11)。他方、フレックスタイムや在宅勤務といった「裁量型」では、提供企業の割合は「時短型」よりも低いが、利用率は高い。
人々が「時短型」をあまり利用しない背景としては、労働時間短縮によって収入が減少することを懸念したためと考えられる。また、「時短型」の就業形態は雇用保障やキャリア形成に悪影響になるとして、従業員が敬遠したことも考えられる。例えば、「労働時間短縮は雇用保障に悪影響を及ぼすか」という質問に対して、従業員の43%が肯定し、否定は38%にとどまる。同様に「労働時間短縮がキャリア形成に悪影響を与えると思うか」という問いに対して、51%が肯定し、38%が否定した。これに対して、「裁量型の就業形態がキャリア形成に悪影響を与えるか」という問いに対しては、肯定が30%、否定が46%となっている(注釈12)。
図表4‐7 各就業形態の利用可能性と実際の利用状況
4.2.3 英国企業がワーク・ライフ・バランスを導入する背景
以上のように、英国では大企業を中心に柔軟な就業形態の導入が進められてきたが、なぜ大企業はこのような施策を講じてきたのだろうか。
第一に、1990年代中頃から長期にわたって景気が拡大して労働需給が逼迫し、企業は優秀な労働者の採用や従業員の定着を目的に柔軟な就業形態を導入したことが挙げられる(注釈13)。
他方、労働者の側でも、共働き世帯の増加によって育児・家事といった責任を担う労働者が増え、柔軟な就業形態へのニーズが高まってきた。例えば、6歳未満の子どもを有する夫婦の就業状況をみると、1984年から99年にかけて「片働き世帯」の割合が激減する一方で、「共働き世帯」の割合は倍増している(図表4‐8)。さらに、離婚の増加によってひとり親として働く労働者も増えている。6歳未満の子どもをもつひとり親の就業率をみると、1984年の19%から99年には34%に増加している(注釈14)。
図表4‐8 6歳未満の子どもを有する夫婦の就業状況柔軟
第二に、消費者ニーズの変化から、土・日曜日営業や24時間サービス提供など、企業も通常の勤務時間帯以外にサービス提供を求められている。また、サービス・小売業にみられるように、業務量の繁閑が大きい業種も多い。このような企業側のニーズも、柔軟な就業形態を導入する要因となったと考えられる(注釈15) 。
なお英国では、少子化対策という側面からワーク・ライフ・バランスの必要性が語られることはあまりない。これは、英国の合計特殊出生率が1.71(2003年)と先進諸国の中で比較的高いことや、EU圏の拡大などによって今後移民労働者の増加が予想されるためと考えられる。
4.2.4 ワーク・ライフ・バランス施策の導入が企業に与える影響
(1)企業からみたワーク・ライフ・バランス施策の導入
このように英国では大企業を中心にワーク・ライフ・バランス施策が導入されている。それでは、ワーク・ライフ・バランス施策の導入は企業にどのような影響を与えたのであろうか(注釈16)。
ワーク・ライフ・バランス施策の導入が業績に与える影響を事業主に尋ねると、労使関係、従業員の労働意欲、従業員の定着、生産性といった項目で良い影響をもたらすと考える事業主が5割以上に上る(注釈17)(図表4‐9)。
また、各事業主が導入したワーク・ライフ・バランス施策の個数別にその影響度をみると、導入した支援策数の多い事業主ほど、「支援策は良い影響を与える」と答える傾向が強い(注釈18)。さらに業績との関係をみると、支援策数の多い事業主ほど「平均よりも業績がよい」と回答している。
他方、ワーク・ライフ・バランス施策から生じるコストをみると、柔軟な就業形態や休暇制度については、それほど大きな費用はかからないと考えられている。例えば、過去3年以内にこれら施策を導入した事業主の76%は「導入に際してコストはかかっていない」と回答し、運営コストについても71%の事業主は「コストはかからない」としている(注釈19)。但し、企業内の保育施設や、子どもをもつ従業員への経済的支援などは費用のかかるワーク・ライフ・バランス施策と捉えられている(注釈20)。
なお、ワーク・ライフ・バランス施策の費用対効果を全体的に捉えて「施策は費用対効果に優れている」と評価する事業主は66%に上る(注釈21)。例えば、労働市場が逼迫する中、1人あたり採用コストは平均3,462ポンド(約66万円程度)もかかると指摘されており、支援策によって従業員の定着率が高まれば、こうしたコストを削減できる(注釈22)。
図表4‐9 ワーク・ライフ・バランスの影響(2003年)
(2)ワーク・ライフ・バランスを導入した企業の事例
上記結果のみから「ワーク・ライフ・バランス施策が企業業績を高める」と判断することは難しい。なぜなら、業績の良い企業だからワーク・ライフ・バランス施策を導入できるという「逆の因果関係」を否定できないためである。以下では、ワーク・ライフ・バランスが企業にも好影響を与えた事例をみることで、ワーク・ライフ・バランスが企業にもたらす影響をみていく(注釈23)。
◆大手電信電話会社の事例
英国の大手電信電話会社は、従業員数87,000名のうち、女性従業員の比率が22%となっている(2005年3月現在)。同社では、技術力だけでは競争上の優位を保つことが難しくなってきたので、従業員の質を向上させること ‐ 顧客への対応や従業員のモティベーションの向上 ‐ が市場で差別化を図る唯一の方法と考えた。
そこで、IT化によって、従業員が業務上必要な情報を、オフィスにいなくともオンラインで入手できるシステムを構築した。そして管理職には、従業員からの柔軟な働き方の要望に応じることが促され、従業員に対する評価も成果に基づくものに変わっていった。
この結果、現在、全従業員の1割にあたる約9,000名が在宅勤務となった。また、500名がジョブ・シェアリングを利用し、5,000名がパートタイム労働者となっている。
企業にとっての柔軟な就業形態のメリットとして、求職者側でワーク・ライフ・バランスを重視するようになってきたために、幅広い層から優秀な人材を採用できるようになったことが指摘されている。また、柔軟な働き方によって1,000人の従業員の就業継続を支援でき、離職率が3%まで低下し(注釈24)、出産休暇後に職場復帰する女性の割合が98%となったという。この結果、募集採用コストが500万ポンド(約10億円)節約できたという。
さらに、24時間対応や土日営業などにも対応でき、昨年、顧客の不満が22%も低下した。
そして、在宅勤務利用者の生産性は15~31%向上したという。在宅でコールセンター業務を行っている者は、オフィスで同じ業務を行っている者より、20%以上も取り扱い件数が多い。
育児をしながら同社で就業継続する従業員の事例も紹介されている。15年間顧客サービスエンジニアとして勤務した女性従業員が3歳と1歳の子どもをもつに至り、フルタイム勤務からパートタイム勤務に変更した。当初は、木曜日と金曜日が勤務日となっていたが、保育費用を軽減するために木曜日勤務を夫が休日となる土曜日に変更した。末子が小学校に上がるようになれば、再びフルタイムとして勤務する計画である。
◆大手金融機関の事例
英国の大手金融機関で、全世界で76,000名の従業員をもち、そのうち64%は女性従業員となっている。労働市場が逼迫する中で優秀な人材を獲得し定着させていくことや、24時間バンキングへの対応といった課題を抱えていた。
そこで、全従業員に対して、就業形態の変更を申請できる権利を付与した。具体的には、パートタイム労働、集中労働日制、学期期間労働、在宅勤務などの就業形態を選んで申請することができる。
従業員から申請がなされると、現場の上司などが就業形態の変更によってもたらされるビジネスへの影響を検討する。悪影響がなければ承認されていく。
現在、社内で柔軟な就業形態を利用する者は、同社従業員(英国内)の32%に上る。応募者の16%は男性であり、18%は部長クラスであった。申請件数に占める承認件数の割合は86%である。
この結果、残業時間の減少、仕事の繁閑に合わせた従業員の調整、定着率の向上が行われ、コスト削減につながったという。また、同制度の利用者の8割は、柔軟な就業形態によって生産性が上がり、会社への帰属意識も向上したと感じている。
但し、(1)中間管理職の支援がないと承認が難しい部署もあり、部署によって利用度にばらつきがあること、(2)交代要員がみつからないためにジョブ・シェアリングはほとんど利用されていないこと ‐ などの課題が指摘されている。
具体的な利用例として、ビジネスシステム部の部長が、情報システムの修士号の取得と家族との共有時間の質を高めることを目的に、2年半「集中労働日制」の利用を続けている。全体の労働時間を変更せずに、1日あたりの労働時間を延長することで、2週間に一度金曜日を休日としている。
◆大手生活用品メーカーの事例
12,000名の従業員を抱える大手生活用品メーカーでは、全従業員に、パートタイム労働、在宅勤務、ジョブ・シェアリング、フレックス制など、柔軟な就業形態を申請する権利を与えている。また、法の基準を超えて、40週以上の勤務実績がある女性に対して、出産時に40週間の給与の全額が支給される有給休暇が付与されている(注釈25)。また、配偶者が出産した男性も2週間の有給休暇を取得できるようになった。
このような取組によって、出産後の女性の職場復帰率が90%以上になった。また、パートタイム労働を選んだ部長クラスの60%は「柔軟な就業形態を利用できなければ退職しただろう」と回答している。
同社では、さらに「母親の履歴書(Mom's CV)計画」を打ち出し、出産後の女性の復職を促している。生活用品メーカーとして、子育てをする母親の体験を自社製品に活かそうという狙いだが、「母親業ほど時間の有効利用を学べる機会はない」と育児を肯定的に捉え、仕事に活かすことができる点を強調している。
(3)企業事例から指摘されていること
こうした事例研究から指摘されているのは、企業にも良い影響を与えるワーク・ライフ・バランス施策の導入には、従業員からの要望と企業からの要望を一つひとつ丁寧に組み合わせる作業が重要になるという点である。従業員と企業のニーズを調和させる過程を重視することによって、従業員と企業の双方にメリットのあるワーク・ライフ・バランス施策を導入することができる(注釈26)。また、英国の労働組合会議(Trade Union Congress :TUC)の報告書には、企業が最適なワーク・ライフ・バランス施策を見出していく過程は「ジグソーパズルを行うのと同様である」との指摘があった(注釈27)。
4.2.5 ワーク・ライフ・バランスに向けた英国政府の取組
以上のように、英国では大企業が中心になって、柔軟な就業形態を導入してきた。そして近年、英国政府もワーク・ライフ・バランスに力を入れ始めている。以下では、英国政府がワーク・ライフ・バランス施策に積極的に取組始めた背景と、具体的な政策の内容について考察する。
(1)ブレア政権がワーク・ライフ・バランスに力を入れる背景
ブレア政権は2000年より「ワーク・ライフ・バランス・キャンペーン」を推進している。しかし、それ以前の英国政府は、ワーク・ライフ・バランスにあまり力を入れてこなかった。
これまで英国政府の取組が弱かったのは、ワーク・ライフ・バランスは、労使間の自主的な決定に委ねるべき私的領域の事柄であって、政府が介入すべきではないという伝統的な考え方が根強かったことが挙げられる。また、優秀な人材の獲得や従業員の定着からメリットを受けるのは企業なのだから、ワーク・ライフ・バランスについて対策を打ち出し、その費用を捻出するのも企業であるべきだという受益者負担の考え方も採られてきた。
しかしブレア政権では、ワーク・ライフ・バランスは、(1)ひとり親の就業が可能になるなど「福祉から就業へ」(welfare to work)という政府の基本方針に合致すること、(2)親が就業することで子どもの貧困問題の解決にもつながること、(3)柔軟な就業形態は生産性向上にも資すること ‐ といった効果を期待できるとして積極的に関与を始めている(注釈28)。
また、後述するように、労働時間規制やパートタイム労働規制などは、EU指令によって国内法の整備を要請されたものである。EUとの関係からワーク・ライフ・バランスが要請されたという側面もある。
ブレア政権の取組としては、企業に自発的な取組を促すことを目的にした「ワーク・ライフ・バランス・キャンペーン」と、ワーク・ライフ・バランスを下支えするための条件整備といった2点に整理することができる。以下、各々について考察していく。
(2)ワーク・ライフ・バランス・キャンペーン
2000年3月に始まった「ワーク・ライフ・バランス・キャンペーン」の目的は、従業員にも企業にもメリットのあるワーク・ライフ・バランス施策を広めることにある。ワーク・ライフ・バランスには、長時間労働などの「英国の労働文化」(working culture)の変更が必要と考えており、経営者の意識変革を求めている(注釈29)。そこで、具体的な企業の取組からワーク・ライフ・バランス施策がビジネスにも有益であることを示そうとしている。ワーク・ライフ・バランス施策は企業にも有益であるという認識が広がれば、企業は自主的に取り組むようになる。この好循環が働き方を変えていくと考えている。
同キャンペーンの中核にあたるのは、「チャレンジ基金(The Challenge Fund)プログラム」である。これは、ワーク・ライフ・バランス施策の導入を検討する事業主に対して、無料コンサルティングの機会を与える制度である。企業は、専門家の力を借りることによって、個別企業の実情に合った最適なワーク・ライフ・バランス施策の導入を期待できる。
無料コンサルティングを希望する事業主は、申請書を貿易産業省に提出して審査を受ける。企業規模に関係なく、公的機関、ボランティアセクターであっても申請できる。
貿易産業省では、申請書をみて支援対象企業を決定する。選定基準としては、(1)業績向上させようとしている業務領域、(2)コンサルタントからの便益を受ける方法、(3)企業がプロジェクトに充てられる人材や時間とそこから把握できる事業主の意欲、(4)プロジェクトから得られる測定可能な効果 ‐ などが挙げられている(注釈30)。このような基準が設けられたのは、政府が支援企業から情報収集を行って、成功要因などを他企業などに伝えていくためである。このため、対象企業の業種、企業規模、プロジェクトの内容などが多様であることが要請されている。
選ばれた企業は、無料でコンサルティング機関から支援を受けられるが、その替わりにコンサルタントに全面協力をして、進展状況を確認する時間を毎週確保することなどが求められる。また、一度開始されたプロジェクトの継続に責任をもたなくてはならない。なお、コンサルティング機関は、政府によって2002年までに24機関が選定された(注釈31)。
「チャレンジ基金」には、2000年から2003年にかけて1,150万ポンド(約22億円)が投入された。同期間内に448企業が支援を受け、120万人の従業員が影響を受けた(注釈32)。
(3)ワーク・ライフ・バランスを支える条件整備
ワーク・ライフ・バランスを下支えするための条件整備も行われた。具体的には、(1)労働規制の制定、(2)出産・育児休暇などの法改正、(3)経済的支援の引き上げ、(4)保育所整備 ‐ といった点があげられる(図表4‐10)。労働規制から保育所整備まで、総合的な対策が導入されてきた点が特徴である。以下では、労働規制を採り上げて、その内容を概観していく。
◆労働時間規制
「EU労働時間指令」を受けて、1998年に国内で初めて労働時間規制が整備された。具体的には、週48時間労働時間制限、労働時間6時間あたりの休憩時間の設定、最低4週間の年次有給休暇付与、夜間労働時間8時間制限などが制定された。但し例外規定として、従業員は個別に同意すれば週48時間を超えて働くことができる。
図表4‐10 ブレア政権で導入されたワーク・ライフ・バランスに関連する施策
内容 | ||
---|---|---|
労働規制 | 労働時間規制(1998年) | 週48時間労働規制など 但し例外規定あり |
パートタイム労働規制 (2000年) |
パートタイムは比較可能なフルタイム労働者よりも不利な扱いを受けない(「時間比例」という観点から均衡処遇) | |
柔軟な働き方への申請権 (2002年雇用法) |
6歳以下の子どもか、あるいは18歳以下の障害者をもつ親は、柔軟な雇用形態で働くことを申請する権利をもつ 但し、事業主が申請拒否できる理由を広範に容認 |
|
出産・育児に伴う休暇 | 出産休暇手当の引き上げ (2002年雇用法) |
出産を理由に就労継続できない女性に対して、事業主は「法定出産給付」を支給する。法定出産給付は、2003年4月から週75ポンドから同100ポンドに引き上げられた。 |
追加的出産休暇(無給)(2002年雇用法) | 26週間の「有給出産休暇」に加えて、「無給出産休暇」を26週間とする。これにより、母親の法定出産休暇は最長1年間となる。 | |
父親休暇の創設 (2002年雇用法) |
2003年4月より、子ども誕生にあたり、父親にも2週間の「法定父親休暇」を定め、法定出産給付と同額の給与が支払われる。但し父親が同休暇を取得できるのは、子どもの誕生から8週間以内に限る。 | |
男女を対象にした育児休暇の創設 (1999年雇用法) |
1年以上勤続する男女労働者は、子どもが5歳になるまでに合計で13週間の育児休暇(無給)を取得できる。 障害児をもつ親の場合、子どもが18歳になるまでに18週間(無給)取得できる。 |
|
経済的支援 | 「児童給付」の引き上げ | 16歳未満の子どものいる全ての家族が対象。所得制限はない。 <2005年度の支給額> 第一子:週17.00ポンド(約3,300円程度)、 第二子以降:1人当たり週11.40ポンド(約2,200円程度)。 |
「児童税控除」の新設 | 2003年4月より「児童税控除」を設定。 16歳未満の子どもがいる世帯が対象。所得制限あり。 |
|
「チャイルド・トラスト・ファンド」(CFT)の導入(2005年) | 子どもの経済的自立を支援するために、2002年9月以降に生まれた全ての子どもを対象に、子ども名義の口座に250ポンド(低所得世帯の子どもは500ポンド)を支給。家族が運用。 利子などの非課税枠あり。子どもは18歳になれば引き出し可。 |
|
保育所整備 | 2005年度までに保育予算を15億ポンドまで増加させる。 2004年4月までにイングランドで160万人分の保育所を創出。 4歳以下の児童を抱える低所得家庭を援助するための「シュア・スタート」プログラムの実施。 |
なお、英国は欧州で長時間労働の国であるが、1998年以降、労働時間の減少がみられる。例えば、週48時間以上働く人の割合は、1998年にはフルタイム労働者の23%であったが、2003年には20%に減少している(注釈33)。
◆パートタイム労働規制
1997年の「EUパートタイム労働指令」では、「パートタイム労働であることを唯一の理由として、客観的な根拠によって正当化されない限り、比較可能なフルタイムの労働者よりも不利な扱いを受けない」と定めている。
これを受けて英国では「2000年パートタイム労働規制」が定められ、パートタイム労働者であっても比較可能なフルタイム労働者と均衡処遇を受けられることとなった。すなわち、(1)時間当たり賃金、(2)企業年金へのアクセス、(3)職業訓練やキャリア形成、(4)年次有給休暇、(5)キャリアブレイク・病気休暇・出産育児休暇及びその手当、(6)昇格・異動・リストラを行う場合の選抜基準、について、時間比例という観点からフルタイム労働者と均衡処遇を義務付けている。
なお、パートタイム労働者が不平等な扱いを受けた場合、労働裁判所に不服申し立てを起こすことができる。その際、パートタイム労働者側が「同一の雇用主の下でほぼ同一業務を行っているフルタイム労働者と比較して、パートタイム労働者が劣位な扱いを受けていること」を証明しなくてはならない(注釈34)。
◆柔軟な働き方への申請権の付与
「2002年雇用法」では、一定の労働者に柔軟な雇用形態で働くことを事業主に申請する権利を与えている。すなわち、「6歳以下の子どもをもつか、あるいは18歳以下の障害者をもつ親は、柔軟な雇用形態で働くことを申請する権利をもつ」として、労働時間の変更、勤務時間帯の変更、在宅勤務への変更を申請できるようにした。
申請を受けた事業主は「申請に対して真剣に考慮する義務」を負う。もし事業主が申請に対して適正な手続きをとらず、または誤った事実に基づいて拒否した場合、従業員は労働裁判所に訴えることができる。
但し、事業主には、申請を拒否できる理由が広範に認められている。例えば、追加的な費用負担が必要になること、顧客対応能力への悪影響、既存の従業員間での仕事の調整ができないこと、増員ができないこと、品質を維持できないこと、業績への悪影響 ‐ などである(注釈35)。このような広範な拒否理由が認められていては「申請権の意味がない」と批判されてきた。しかし2003年4月以降に労働者が行った申請のうち86%は、事業主によってその全部または一部が受け容れられている(注釈36)。
4.2.6 わが国への示唆
以上のように、英国では1990年代中頃から大企業が中心になってワーク・ライフ・バランス施策を導入してきた。この背景には、長期に続く好景気によって労働需給が逼迫したことと、共働き世帯やひとり親世帯が増加して、柔軟な働き方を求める労働者が増加してきたことなどが挙げられる。
翻ってわが国をみると、今後労働力人口が減少していくので、労働需給が逼迫する可能性がある。また、既に共働き世帯数は専業主婦世帯数を上回っている。したがって、英国と同様の状況が起こりつつある。
しかし、わが国には英国と同列に論じられない点もある。それは、日本的雇用慣行である。これまでわが国の企業は、景気循環に対して、主として残業時間の調整や配置転換などによって生産量を調整してきた。不況期に余剰人員を解雇して生産量を調整する英米流のやり方とは異なる。つまりわが国の正規従業員は、長期雇用や安定的な賃金などを保障される代わりに、残業、配置転換、転勤などについては企業による強いコントロールを受けてきた。
ワーク・ライフ・バランスには、労働時間などを従業員の事情に応じて調整することが求められる。しかし、「企業による強いコントロール」と「長期雇用などの保障」がセットで提供されてきたことを考えると、こうした調整は保障の低下を招く恐れがある。
しかも、企業によるコントロールは強いが雇用保障のある「正規従業員」と、企業のコントロールは弱いものの雇用が不安定な「非正規従業員」といった対極にある二つの働き方が一般的になっている。働き方の選択肢が乏しい現状では、従業員と企業の間で労働時間などの調整は難しく、ワーク・ライフ・バランスを妨げる要因になる。
しかし、近年、日本的雇用慣行も変わりつつある。また、労働時間ではなく仕事の成果で処遇する「成果主義」も普及してきた。さらに、ある程度処遇面を低下させてもよいから柔軟に働きたいという労働者も増えている。
こうした中で求められるのは、英国でみられた「ワーク・ライフ・バランスは、企業業績にもプラスになる」という視点と、具体的な成功事例の積み重ねであろう。ビジネスに良い影響をもたらす事例が増えれば、企業の取組は積極化する。この好循環が働き方を多様にしていくと思われる。
(注釈11)例外は、学校の学期中にのみ就業する「学期期間労働」である。しかし、学期期間労働の調査は、19歳以下の子どもをもつ親を対象に利用状況を尋ねたため利用者の割合が高くなったものと推察される。
(注釈12)MORI(2004)「The Second Work-Life Balance Study: Result from the Employees’Survey」, pp. 172-173。
(注釈13)例えば好景気が続く2003年においても、就職希望者に提示する雇用条件の中に、新たに「柔軟な労働時間の導入」を取り入れた企業が18.1%、既に導入してその内容を向上させた企業は36.1%ある。また、従業員の定着を目的に、既存の従業員に対して労働時間の柔軟化を推進する企業は34.6%に上った(CIPD 2003: 26,31)。
(注釈14)OECD (2001) Employment Outlook, p. 135。
(注釈15)Kodz, Harper and Dench (2002) Work-Life Balance: Beyond the Rhetoric, p. 11。
(注釈16)なお、英国企業の提供する「ワーク・ライフ・バランス」は柔軟な就業形態にとどまらない。例えば、法定以上の出産休暇(全企業に対する提供企業の割合:27%)、法定以上の出産休暇手当(22%)、父親休暇(35%)、保育施設の提供(8%)などとなっている(NatCen 2003)。
(注釈17)同調査では、就業形態の多様化のみならず、法定を上回る出産・育児休暇の提供、保育施設の整備なども含めて、ワーク・ライフ・バランス全般が企業業績に与える影響を尋ねている。
(注釈18)NatCen (2003)「The Second Work-Life Balance Study: Result from the Employer Survey - Main Report」, p. 263。
(注釈19)他方で、「コストがかかる」と回答した事業主が指摘するコストの内容をみると(複数回答可)、導入時には、事務コスト(54%)、管理/人事の時間的コスト(33%)、追加的人件費(23%)、リーガルコスト(17%)が挙げられている。また、運営コストとしては、追加的人件費(42%)、事務コスト(28%)、残業代(28%)、採用コスト(27%)、訓練コスト(24%)が指摘されている(NatCen 2003: 250-251)
(注釈20)Dex and Smith (2002) The Nature and Pattern of Family-Friendly Employment Policy in Britain, pp. 33-34。
(注釈21)実際にワーク・ライフ・バランス施策を導入した事業主を対象にした調査(NatCen 2003: 251)。
(注釈22)HM Treasury & DTI (2003) Balancing work and family life, p. 10。
(注釈23)Employers and work-life balance HPなどを参考にした。
(注釈24)英国産業連盟(Confederation of British Industry: CBI)の調査によれば、2002年の英国企業における平均離職率は16%となっている(CBI 2003: 23)。
(注釈25)英国の法定母親出産休暇(有給)は26週間となっている(2005年6月現在)。この間支給される法定出産給付は、通常事業主が支給し、最初の6週間は週給の90%、その後の20週間は週給100ポンドか、週給90%の少ない方となっている。また、子どもの誕生に伴う法定父親休暇(有給)は2週間認められており、給付水準は母親出産給付と同様である(DTI HP:http://www2.dti.gov.uk/er/individual/matrights-pl958.pdf)。
(注釈26)Jones (2004) The Labour Hours, p. 7。
(注釈27)Trade Union Congress (2001) Changing Times-A TUC guide to work-life balance, p. 3。
(注釈28)HM Treasury & DTI (2003) Balancing work and family life, pp. 21-22。ブレア政権の基本方針については、藤森(2002)『構造改革ブレア流』を参照
(注釈29)HM Treasury & DTI (2003) Balancing work and family life, p. 37。
(注釈30)DTI (2002) Challenge Fund-2002, p.8
(注釈31)DTI (2002) p.5
(注釈32)DTI HP なお、同ファンドへの受付は2003年7月に終了し、現在は「貿易産業省ビジネス・サポート・ソリューション」に引き継がれている(DTI 2004a: 5)。
(注釈33)DTI (2004b) Working Time-Widening the debate, p. 14。
(注釈34)しかしながら、パートタイム労働者の場合、比較可能なフルタイム労働者が社内に存在しない場合も多く、均等処遇に違反していることの証明が難しい、という批判がある。労働組合会議は、このような場合に備えて、仮想の比較対象者の設定を求めている(Trade Union Congress HP)。
(注釈35)DTI (2003) Flexible Working- The right to request and duty to consider, p. 24。
(注釈36)Palmer (2004)「Requests of the first flexible working employee survey」, p. 9。