第5章

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5 ワーク・ライフ・バランス施策のすすめ

民間企業がワーク・ライフ・バランス施策の主体となるには、それが企業経営にとって利益となるものであることが必要である。ワーク・ライフ・バランス施策に取り組んでいることが、市場競争において足枷ではなく、アドバンテージにならなければならない。

では、ワーク・ライフ・バランス施策は企業に利益をもたらすのだろうか。

◆ワーク・ライフ・バランス施策に企業経営上の効果・利益は認められる

3.3でみたように、わが国の企業がワーク・ライフ・バランス施策に何らかの効果を認めていることは確かである。それらの効果は概ね定性的なものであったが、欧米諸国では、4でみたように、また次に示すカナダの事例のように、定量的な効果(あるいはワーク・ライフ・バランスを欠いた場合の損失)を調査から導いている。

事例

●「ワーク・ライフ・コンフリクト」に関する調査(カナダ)

カナダでは1990年代に、「ワーク・ライフ・コンフリクト」(仕事と生活の衝突)が急増していることが問題として捉えられるようになった。ワーク・ライフ・コンフリクトは、多すぎる役割を負うこと(role overload)、家庭に仕事を持ち込むこと(work to family interference)、仕事に家庭を持ち込むこと(family to work interference)の3側面からなるものである。

このようなコンフリクトの負の効果を論証するため、労働者を対象としたアンケートや、ワーク・ライフ・バランスの欠落がもたらすコストの試算が行われた。

アンケートの結果としては、女性の方が男性よりも、子どものいる女性の方が子どものいない女性よりも、より強くワーク・ライフ・コンフリクトを感じているという傾向が見られた。また、仕事のストレスが多い労働者は、欠勤が多かったり、従業員援助プログラム(EAP)を頻繁に利用したり、辞職したりするため、ワーク・ライフ・コンフリクトは組織的なパフォーマンスや雇用主にとって負の影響を与えるという結果も出ている。さらに、ワーク・ライフ・コンフリクトの高い者は、医療への依存度も高くなっていた(注釈1)。

コスト試算では、カナダの企業は欠勤により年30億ドルのコストがかかっているとしている。また、ワーク・ライフ・バランスが崩れることにより医療にかかる費用が年間4億2,500万ドルに上るとしている(注釈2)。

ただ、利益とは効果から費用を引いた残差であり、ワーク・ライフ・バランス施策に何らかの効果があるとしても、それが投入費用を上回るものでなければ、ビジネス的には意味がない。わが国では施策効果の計量化も未だなので利益に関する検討は行われていないが、4.3.2で見たようにドイツでは、架空のモデル企業によるシミュレーションにおいて、施策を実施することよって得られるコスト削減効果は施策導入費用を上回り、利益率は25%程度になるとの試算が出されている。また、4.2.4で見たように英国では、企業経営者に対するアンケート調査結果として、「ワーク・ライフ・バランス施策は費用対効果に優れている」と考える者は3分の2に上ることが示されている。

◆社会構造・経済構造の変化に照らしてもワーク・ライフ・バランス施策推進は必要

このようにミクロ的にもワーク・ライフ・バランス施策の効果・利益は認められるが、加えて、社会構造や経済構造のマクロ的変化という視点からもワーク・ライフ・バランス施策の推進は必要と考えられる。

第一のマクロ的変化は、わが国が2005(平成17)年より人口減少段階に入ったということである。これは、国立社会保障・人口問題研究所が2002(平成14)年1月に発表した推計(中位推計)より2年早い。同推計に拠れば、2000(平成12)年から2050(平成62)年にかけて、わが国の総人口は20.7%、生産年齢(15~64歳)人口は37.6%減少する。労働力の供給が減っていく中で優秀な人材を確保していくには、ワーク・ライフ・バランス施策によって柔軟・多様な働き方を受け容れ、特に労働力率が相対的に低い女性の雇用を推進することが、鍵の一つになっていくと考えられる。

第二のマクロ的変化は、経済構造が「産業資本主義」から「ポスト産業資本主義」へと本格的に移行したことである。4.1.4で述べたように、ポスト産業資本主義とは、新しい商品やマーケットを絶えず開発・開拓することにより、他社との差異を意図的に創出して利潤を生み出していかなければならなくなった経済構造である(注釈3)。

このような開発・開拓を可能とするのは、機械制工場ではなく、優秀な人材が持つ知識や能力(人的な知識資産)に他ならない。そして、新しい商品やマーケットも模倣されてしまえば差異性をすぐに失うことを考えれば、ポスト産業資本主義的企業に重要なのは、ある特定のアイディアや技術を持った人材ではなく、新たな開発・開拓を次々と行い得る創造力を持った、その企業に特有な人的資産のネットワーク組織なのである。こうした組織は、構成員が次から次へと替わっては築くことはできない。優秀な人材が長く働き続けてくれることで初めてつくり上げることができる。

そして、こうしたポスト産業資本主義に適した企業組織を構築するのに有効と思われるのが、ワーク・ライフ・バランス施策なのである。従業員にインセンティブを与えるものはまず金銭であるが、人の頭脳の中にある知恵を引き出し、やる気と創意工夫を活性化するには、金銭と同等あるいはそれ以上に、自由で独立性の高い労働環境ないし企業文化が重要と考えられる。また、金銭は誰が出しても同じであるから高給の提示による人材引き抜きに対抗することは容易でないが、独自の企業文化で惹き付けておけば人材の流出も防ぎやすくなろう。こうした企業文化を、ワーク・ライフ・バランス施策を通じて創造できるのである。

わが国は例外的に、1980年代という遅い時期まで産業資本主義的な繁栄を続けられたが(注釈4)、その後長きにわたって経済を低迷させたのは、ポスト産業資本主義への適応がうまくいかなかったからだということもできよう。21世紀を迎えて5年目には、ポスト産業資本主義経済に加え、人口減少社会という未曾有の状況も到来した。こうした構造変化に、企業経営において対処する有効な一策が、ワーク・ライフ・バランス施策の推進だと考えられるのである。


(注釈1)Duxbury and Higgins (2001).Work-Life Balance in the New Millennium: Where Are We? Where Do We Need to Go?

(注釈2)Duxbury, Higgins and Johnson (1999).An Examination of the Implications and Costs of Work-Life Conflict in Canada

(注釈3)ポスト産業資本主義に関する以下の考察は、岩井(2003)『会社はこれからどうなるのか』による。岩井に拠れば、差異性から利潤を生み出していくということが資本主義の基本原理である。

(注釈4)その理由については、岩井(2003)『会社はこれからどうなるのか』220-221頁参照。


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