鈴木氏 初めまして。東京大学社会科学研究所の鈴木翔と申します。
こういった機会に呼ばれるというのは本当に恐縮なのですけれども、今日は専門の方々もいらっしゃると思いますので、意見交換みたいなこととかができたらいいなと思います。よろしくお願いします。
スクールカーストというのは、私の研究テーマの中で大きくメインになるものなのですけれども、もともと私の専門が教育社会学という学問でして、社会学という学問で教育という現象を見ていく学問になります。
主な研究テーマというのが、中高生の交友関係で、友達関係ですとか、恋愛関係、あとはいじめとか、学校適応に障害が出るような問題というのも研究テーマになります。
その中でもスクールカーストが興味や関心を持っていただくことが多くて、そのスクールカーストについてこれからお話しさせていただこうと思います。
まず、スクールカーストというものを語る前に、この現象はいじめと非常にかかわりが深い部分なので、まずその点について今までどういう議論がされてきたのかとか、何でスクールカーストというものを持ち出してきたのかといったところを御説明させていただこうと思います。
皆さんも、「いじめ」という言葉がすごくネガティブな印象であるというのはもう十分共有していただけるかなと思うのですけれども、いじめが日本で社会問題となってから大体30年ぐらい経ちます。それで、いろいろ解明とか解決方法とか、いろいろな方々がされてきたわけなのですが、解決の兆しはあるのかと言われますと、毎年のようにいじめ、自殺という問題が起こっていて、解決も解明もそこまで進んでいないのではないかなと言うことができると思います。
いじめというのは、1980年代中盤に社会問題化されたと言われています。それまでは「いじめる」という動詞はあったのですが、いじめをしたとか、名詞として「いじめ」というものが確固たるものとして用いられるようになったのは1985年の東京都中野区立富士見中学校のいじめ自殺事件が発端だと言われております。
いじめの典型例でいわゆる葬式ごっこというものがありますけれども、この事件が発祥といいますか、世間に知られるようになりました。
この葬式ごっこというものは、知っていらっしゃる方も多くいらっしゃると思うのですが、いじめられている子の机の上に花を載せて、色紙に「今までありがとう」とか、あたかも死んだふりで、彼が登校してきた後も見えないというか、幽霊みたいな扱いをしてひどく傷つけるというものです。この事件では、教師もその葬式ごっこを助長していたのではないかと報道されて、当時はまだいじめという言葉は確固たるものではありませんでしたが、単なるけんかや悪ふざけとかいじりなどといったものではなく、もっと大きな問題なのではないかというふうに社会問題化されていきました。
また、けんかや悪ふざけといじめの区別がついていなかった時代は、いじめが原因で自殺するという考え方がありませんでした。こういったことは、将来社会でいろいろつらいことがあったときも乗り越えられるようになるための通過儀礼のようなもので、死ぬほどつらいものではない、みたいな考え方が確かにあったのですが、この事件をきっかけにいじめというものは死につながる重大な問題であるというふうに認識されるようになっていきます。
ここで1985年、主に1986年から調査や研究が急ピッチで進められていきます。これはとても大きな問題だということで、文部科学省や逸脱行動を専門とする大学の先生、例えば校内暴力といったものを専門にしていた先生方が次々にいじめ問題に着手していくことになっていきます。
それで、文部科学省がいじめの発生件数というものを中野区の事件があった1985年からとり始めます。件数を見ていくと、年によって増減が激しく、増えたり、減ったりを繰り返しています。特に多いところが1985年と1994年、そして2005年となっています。
何故こんなに不自然な増減を繰り返しているのかというところなのですが、実はいじめの定義に変遷がありまして、何回か定義が変更されるわけですけれども、そのたびに件数が莫大に上がるというのを繰り返しているわけなのです。定義が変わって件数が増えて、しばらくたって、また落ちつくということになっております。もしかすると、いじめというのは定義によっていろいろ揺り動かされますし、意識の傾き方といいますか、強く意識したら増えますし、意識しなければ減っていくという、認識の問題の可能性があるのではないかということも言われたりするのです。
このように研究が進んで、定義をこうしようというのが繰り返されているわけですけれども、その定義の変遷というものをちょっと見ていきたいなと思います。
まず、最初の定義は1985年の定義です。「<1>自分より弱い者に対して一方的に、<2>身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、<3>相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校がその事実を認識しているもの」とあります。
この黄色く塗った部分が特に重要な部分となるのですけれども、ここがいじめと認識されるハードルを上げている部分です。「自分より弱い者」とありますが、何が弱いのかというのがまず曖昧ですね。あと、「一方的に」というのも、一方的ではなかったかもしれないとちょっと躊躇させてしまうところがあります。あと、「継続的に」とか、何がどういうふうにやっていれば継続的なのかとか、「深刻な苦痛」とはどのぐらいまで行ったら深刻な苦痛なのだろうとか、さらに「学校がその事実を認識」しているものということで、被害者が、僕がいじめられていますと先生や親に訴えたところで、学校がそういった事実はないという認識なら、いじめだとは認められないというふうに最初の定義ではなっているのです。
次に、1994年に再びいじめ問題が話題になります。これは山形県で起きたマットぐるぐる巻きという、本当にセンセーショナルな事件があって、そのときにもいじめの定義が変わります。
ここで問題となったのは、「学校が知らない」ということでした。学校側はそうした事実があったのは知らないし、仲がいいと思っていたとか、遊んでいただけだと思っていたということがあって、非常に問題になったのです。これは今の大津の事件でも学校はそうした深刻な認識はなかったというのが定説になっていますけれども、一応、定義の上でも、先ほどと大きく変わっているのは「学校がその事実を認識しているもの」という一文を削除したこと。これによって学校がどう考えていようと、いじめがあると誰かが言った場合には、いじめとしてカウントしましょうという流れになったということです。
そして、3回目の変化が2006年の定義になります。これは大分緩くなっているのですけれども、もう「一方的に」とか、「弱い者が」とか、全部排除されて「<1>一定の人間関係のあるものから」となっていて、一定の人間関係があるというのは、学校の中だけではなく、多少つながりがある人からという意味です。塾でも部活動でも何でもいいのですが「<1>一定の人間関係のあるものから」という、ちょっとわかりづらい言い方をしています。これは例えばスーパーですれ違った人にいきなり殴られたとしても、それはいじめではない、それはただの傷害事件だということで、区別するために使っていると思われます。
また、「<2>心理的・物理的な攻撃を受けたことにより」については、身体的ではなく物理的に、つまり、服を引っ張るとか、そういうものも入ってくるわけです。
あと「<3>精神的な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」ということで、定義が非常に緩くなってきている。誰かが、いじめがありますよと言った時点で、問題を告発する側にとっては問題提起しやすい定義に変遷していっていると考えられます。
いじめのメカニズムの解明というのは、当初、研究者でも現場でも行政でも根強い仮説がありまして、加害者と被害者には特徴があるのではないかという説です。いじめられている子には何か原因があるのではないだろうかとか、加害者も、例えば親からの愛情を受けていなくて、攻撃的になってしまうのではないかとか、貧しい子のほうがそういう攻撃的なことになってしまうのではないかとか、いろいろなことが言われました。とにかく、それを集約すると、加害者と被害者には何か特徴があって、調べてみたら何かわかるだろうと、そういうふうに言われていました。
ただ、よくよく調べていってみると、当たり前なのですけれども、加害者と被害者が逆転するとか、いじめられていた子がクラス替えしたらいじめられなくなったとか、そうしたいろいろなケースがありますし、部活動ではいじめられているけれども、クラスではいじめていないとか、固定的なポジションではないですし、時間が動いていますから、いじめられている子はこういう特徴だ、いじめている子はこういう特徴だという共通の特徴があるわけではないということが明らかになっていきます。
このころから、今もですけれども、根強く支持され、現場でも結構浸透している学術上の理論で、「いじめの4層構造論」という理論があります。これは非常に優れていて、人の特定はできないけれども、いじめの構造というのは確実にこうなっているだろうという理論です。
まず、いじめられている被害者が中心にいます。その周りに、いじめる加害者がいます。それで、はやし立てる観衆がいて、いじめが成り立っている場合には傍観者がその周りにいて、何も手を下さない状態が成り立っていると言われています。人が入れ替わったりすることはあれど、いじめの構造というのは恐らくこの4層の構造で成り立っているだろう。1つが欠けると、いじめとは言えないようなことになっているのではないかということが提唱されます。この傍観者層の一番外側のところに仲裁者がいる場合には、いじめを抑止する力が働いて成り立たなくなるのではないかと言われています。
この理論を使うことによって非常に調査などもしやすくなりましたし、あと、先生が、この理論に基づいて教室の中を見ることによって、いじめの発見は非常に早くなったと言われています。実際、かなりの大規模な調査でも、確かにこういう構造になっているときにいじめを深刻なものだと捉えるということが実証的に明らかにされていて、多分、本当なのだろうといいますか、このような構造になっているというのは大体間違いないと言うことができます。
1990年代ぐらいから、国際比較というものが果敢にされていきます。そのとき、日本のいじめというのは結構特徴的だと言われます。
まず1つめの特徴は、小学校段階よりも中学校段階のほうがいじめが深刻だと言われています。中学校1年生でいじめ件数が一番多いということになるのですけれども、他の国は、いじめる人の割合といじめられる人の割合は、どの学年になってもやはり同じような感じで推移していきます。しかし、日本の場合は学年によって二次関数のように、中学1年生を頂点として放物線を描いていく、そういう構造になっていることが分かります。
この辺も研究が進んでいて、仲裁者というのは小学校のときは結構多くいるということが分かっています。いじめがあったらとめよう、やめなよと言う仲裁者が傍観者層のところにいるのですけれども、その仲裁者が中学校に入学したときに傍観者に変化してしまう。そうしたことがもしかしたら中学1年生で日本のいじめが深刻だという理由の1つなのではないかと考えられています。
次に発生する場所というものがあるのですが、これも結構不思議なのですけれども、日本だけ教室がいじめの発生場所として一番多いことが分かっています。
日本以外の国ですと、多いのは校庭とかです。そもそも、いじめというのは絶対的な力関係といいますか、そういった関係の中で本当は多く起こるはずなのです。中学3年生が中学1年生をいじめるとか、中学2年生が中学1年生をいじめるというのが普通なのです。絶対的優位にあるわけですから、体格差もありますし、学年差もありますから、明らかに力の差があるときに起こる。つまり、多くの学年が交流する場所でいじめが起こるというのが他国で起こっている現象です。
これは真っ当な感じがします。普通に考えればそうなるはずなのですが、日本のいじめというのは教室で起こる。つまり、同学年の生徒が同学年の生徒をいじめるというふうになっているということです。
その理由として、他国に比べても日本の教室というのは非常に固定性が高いと言われています。例えば勉強ができるから飛び級するというシステムもありませんし、座席も決まっていることが多いです。移動教室というものも非常に少ないですし、大体、例えば1年1組だったら1年1組の自分の決まった席にクラス替えや席替えをするまでは、ずっとそこに、理由はよく分からないけれども、座っていなければいけない。そういった非常に固定性が高い場所でいじめが起こるということです。
また、いじめの手法というものも日本では独特でして、暴力ではなくコミュニケーション操作系というものが主流になります。
変な言い方ですが、非常にいじめのレベルが高いのです。コミュニケーション操作系のいじめというものは外から見分けがつきにくく、無視するとか、何か分からないけれども、ちょっと馬鹿にされている気がするとか、線引きが非常に難しいというのが日本の特徴です。先ほどの葬式ごっこというものも、殴る、蹴るだったら確実に先生がとめていると思うのですが、悪ふざけで花を机の上に置くとかというのは、いじめという言葉を知らなかったら、これは問題だということが分からない。みんな笑っているし、被害者も笑っているし、どうなのかなというふうになるのではないかなと思います。
他国では暴力がいじめだという認識が高く、ナイフを突きつけるとか、本当に殴ったり蹴ったりしてお金を要求するとか、日本でもそういうことはあるのですが、多数派ではありません。非常に見分けがつかないのが日本のいじめの特徴だと昨今は言われております。
そこで、コミュニケーション操作系のいじめをどうしようかという話になるのですけれども、まず最初に申しました暴力系のいじめというのは既に解決策といいますか、妥当だろうと思われるような対応策が出ています。
法の徹底をしていきましょうということで、それがいじめかどうかではなく、殴ったら傷害ですし、お金を取ろうとしたら恐喝ですし、本来、学校の中で解決できる問題ではないのだという立場に立つということです。警察を呼んで、学校の中で対処できるものはしてもいいけれども、それ以上の法に触れていると判断した場合は警察と連携を図ったり、積極的に外部と連携して対処しようというふうになっております。
あと、学校では、中で起こった問題は学校内で全て対処しようという体質が潜在化しています。警察に頼むことは、学校に力がないことを認めるようなものだといった意識がある。そういう学校特有の体質さえ改善できれば、恐らく暴力系のいじめは解決にかなり近いところまでいくのではないかなと思っています。
一方で、コミュニケーション操作系のいじめは警察が介入できないことが多いです。「ちょっと最近無視されているような気がするのですけれども、」という言い方では警察は介入してくれませんし、もうちょっと事件性のあるものではないと無理ということになります。
では、一体どうしていこうかということで、1990年代後半~2000年代初頭ぐらいから解決策が提案されていきます。
1個目は、これは研究者からしか言われていませんけれども、教室をなくそうということが言われています。教室をなくすといいますとよく分からないかもしれないのですが、クラスみたいなものを固定化したり、座席を固定して1年間やっていくみたいなやり方をやめようということです。要するに大学の授業みたいな感じにしようということです。普段いる場所が固定されず、自分が動いていく。そのようにカリキュラム選択みたいな形にしてしまえば、人間関係の問題はさほど気にならなくなるのではないか、固定性は弱くなるのではないかと考えられています。
ただ、学校のシステムをここまで大がかりに変えるとなると、まずコストがかかり過ぎるということと、先生の研修とかいろいろなことで、こうした根本的な改革はすごく難しいのではないかなというのが現実的なところです。
また、学校は友達と話に行くだけの場所ではないので、学習の場として考えたときに、教室というものは知識の伝達をする上で非常に効率的な場になります。教育学とかの教科書を見ますと、日本の教室のようなものがずうっと何百年も前からありまして、日本ですと寺子屋とか、システムが昔からあまり変わっていないわけです。ですから、勉強する場として考えたときには、非常に効率がいいので、そこまで敏感にならなければ、このまま教室というシステムはあったほうがいいということは考えられると思います。
もう一つ、これは既にかなりやられていますけれども、カウンセラーを設置するという対処方法です。1990年代中盤、1995~1996年ぐらいに心理学の専門家や臨床心理士などそちら側の方々がこれをすごく提唱されて、今も根強い支持を得ている方法です。実際にこれで解決といいますか、心の傷が癒されたという生徒も多いのではないかなと思います。
ただ、研究者視点ですけれども、傷がついたらケアをしてあげればいいというのは当然なのですが、これでよかったではないか、解決したではないかというふうにはしたくないのです。
なぜなら、傷がついたらケアをしてあげればいいというのは、いじめは起こって当然だから、それが何で起こったのかとか、そういうことを考えることをやめてしまうことにつながると考えられるからです。何か分からないけれども、起こってしまったからケアをして解決した、それでよいというのは、いじめの発生自体を是認していることになります。
それはあまりよくないとは思うのです。そもそも、ケアをしてあげる人は必要ですけれども、いじめが起こりづらい場所・関係性と起こりやすい場所・関係性がそれぞれあるわけで、そのメカニズムの解明をしないと、ただ、学校にカウンセラーの人数が増えていくだけになると思います。
3つ目は、道徳教育の徹底というものが言われております。今、ちょうどそういうことが特に言われていたりしますが、これはいじめを、最近の子どもたちは心が汚いとか、汚れている、何でこんなことになってしまったのだろうという考え方に依拠しているのだと思いますけれども、いろいろな調査結果を見ますと、今の子どもたちは非常にいい子なのです。
いい子というのは何をもっていい子かといいますと、例えば凶悪犯罪とかは減っていますし、人を殴ったというのも非常に減っていますし、校内暴力とかそういうものもないですし、あと、思いやりを持って人に接するみたいなことも一応ちゃんと考えているのです。もちろん社会情勢の変化もあるでしょうけれども、ボランティアに参加する人数なども非常に増えていますし、お互いに助け合って生きていこうという気は絶対にあるはずなのです。
また、いじめが悪いことですか、いいことですかと聞いたら、確実に100%近くは悪いことだと答えるでしょうし、いじめは悪だと知っているのです。悪いことは悪いこと、いいことはいいことというものを知っている。
問題は、先ほど言ったコミュニケーション操作系なのですけれども、ある考え方でいきますといいことかもしれなかったりするわけです。例えば先ほどの葬式ごっこで、多分、当時はクラスの中で面白かったのでしょうけれども、すごく笑いが起こって、被害者も笑っていたので、ノリがよかった。先生も、これはみんなを仲良くするきっかけになるのではないかとか、いろいろ考えたかもしれませんし、そういうふうな空気を読むとか、ノリに同調するとか、みんなで楽しく学校で過ごすとかという考え方でいきますと、もしかしたらいいことになっているかもしれないということです。
ただ、当時はその結果その子が死んでしまうとかそういう考えに至らなかったでしょうから、どれだけつらいかとか、そういうふうに考えるとよくないかもしれないということで、いい子と、悪い子というものの区別が非常に難しいということなのです。
僕はそういった関係性をいじめではなく、いじめチックな関係性と呼んでいますけれども、例えばいじりなどというものも芸人のやりとりなんかを見ていますと、例えばバラエティー番組とか、いじる・いじられる関係というのはいいことだ、笑いの基本だみたいなことを言っていて、そういう観点で見るといいことであって、それも第三者からは非常に判断がつきづらいということになると思います。
ここで考えてみたいのが、「いじめ」という言葉が非常に曖昧だというお話はしたのですけれども、いじめから切り離して考えられないだろうかなと思うのです。
こういう今まで説明したような現状があって、生徒間の何らかの問題になる関係性をいじめかどうか判断するのは非常に難しいという障害があります。いじめは悪いことという認識は十分されていて、明らかにいじめだと言える場合には早急な対処が必要だと思いますが、問題は加害者も被害者も第三者も、誰もいじめかどうか、確実だとは判断できないような関係性で、これがいじめという言葉だけに踊らされると見逃されてしまうということです。
特に、先ほども言いましたように、同学年・同年齢の中で生じる力関係といいますか、先ほども教室で、コミュニケーション操作系で多く起きるということを言いましたけれども、同学年の生徒というのは最大で年齢差が364日になりますので、あらゆる能力やスキルにそれほど差はないはずなのです。その中でも何で力関係が生じてしまうのかというのを明らかにしなければ、日本のいじめの場合は特に解決が難しいということで、その力関係自体を呼ぶ言葉というのは学術的な研究ではこれまでありませんでした。一応、内々ではあったと言われていますが。それは学校カースト、クラスカースト、スクールカーストというふうな名前で呼ばれていました。
もちろん、スクールというのは学校ですけれども、カーストというのはインドの伝統的な身分制度、カースト制度のことです。それを足して学校内の人間関係で認識される生徒間の身分差のことをスクールカーストと呼んだそうです。
この言葉の語源ですが、学級カースト、クラスカーストという言葉が2006年にウェブサイト上に初めて登録されたと言われています。今で言いますとウィキペディアなどというものが有名ですけれども、当時ははてなキーワードみたいなサイトが有名で、このサイトは今もありますけれども、そのサイトに言葉が登録されて、非常にうまいことを言うなということで共感された歴史があるそうです。
実際、普段から言われていたからネットに登録されたのか、ネットに登録されたから普段から言われるようになったのかというのは、実は調べることができないのですけれども、とにかくGoogleの検索とかでも2005年で「学級カースト」とか「スクールカースト」で調べるとほとんど出てきませんが、2006年にはすごく検索ヒット数が増えますので、多分この近辺で普及したのではないかということは言えると思います。
2006年当時の定義では、主に中学・高校で発生する人気のヒエラルキー、俗に「1軍、2軍、3軍」「イケメン、フツメン、キモメン」「A、B、C」などと呼ばれるグループにクラスが分断され、グループ間交流がほとんど行われなくなる現象というふうに言われています。
それで「1軍、2軍、3軍」とか、例えば、今土曜日の夜に放映しているドラマでは確実にすごくきれいに振り分けが決まっていますが、実際はそんなにはっきりしていないのではないかなといいますか、何かそれっぽいなというものがあるのではないかなという感じで登録された言葉だとは思います。
それで、チェックリストを作ったところがありまして、1軍と3軍の特徴みたいな、保護者向きにあなたの子どもは大丈夫かみたいな感じで書いてあるのですけれども、Aランク・1軍の特徴が、「遠足のバスは最高列を仲間内で占拠」とか、「学級委員や生徒会など面倒な仕事はCランクに押しつける」とか、「制服を改造したり、インナーを変えるなど工夫している」などとなっています。
3軍の特徴としては、「修学旅行や体育の時間にグループ分けで余る」とか、「休み時間に居場所がなく、寝たふりをしている」、「異性とコミュニケーションをとれない」みたいな、これらは抜粋ですが、本当はもっとあるのですけれども、そういうことが言われています。ちょっと笑ってしまうような定義だと思うのですが、何となく言おうとしていることは分かると思うのです。クラスの中にそういう子がいて、そうではない子がいてみたいな、そういうグループ分けみたいなところまでは共通の理解が得られると思うのです。
こういうグループがいて、こういうグループがいるというのは別に特段問題はないわけです。しかし、問題なのは、それらのグループが1軍とか2軍とか3軍というふうになっているということだと思います。好きにすればいい話だと思うのですけれども、お互いを見下したり、ここには勝てないと思っていること自体がここでは問題化されているということになります。
ただ、あまり理解が難しいところもありまして、例えばCランクに仕事を押しつけたとして、同学年の生徒に力関係の差がないのだとすると、何で押しつけられて黙って自分でやってしまうのだろうとか、嫌だと言えない関係性というのは何で起こるのだろうとか、いまいち理解ができないようなことも起こってくるわけです。
こういうふうになったとしても、何も問題がなければいいではないか。グループ間交流なんか別になくてもいいではないかと言われていたのですけれども、大きな社会問題といいますか、大きく問題提起されたのは、いじめの前の段階にスクールカーストというものがあるのではないかと提唱した人がいるからなのです。
ここではっきりとは言っていないのですが、理念的にといいますか、理論的にこういうことがあって、そうなっているのではないかというのを教育ジャーナリストの森口朗さんという方がおっしゃっていて、これが2007年の出来事です。
しかし、それ以降は特にないといいますか、定期的にインターネット上で議論が交わされることはありますけれども、特に実証的に明らかにしようことが専門家から提唱されることはありませんでした。
また、いじめとの区別ができていない議論も多く見られます。2007年以降もスクールカーストというものを本の中に登場させ、これはまずいぞと言っている人たちはいっぱいいたのですけれども、これがどういう構造になっているのかというのを考えずに、いじめとスクールカーストは重なっているのか、全く一緒なのか。いじめの中にスクールカーストがあるのか、スクールカーストの中にいじめがあるのか。いじめとスクールカーストは別個なのか。これらが全部ごっちゃになって議論されているわけです。
そうなりますと整合性はとれなくなります。実態を見ていないからこういうふうになるのですけれども、いじめ自体も曖昧でしたし、スクールカーストも何となく理解されているレベルなのに、ただ議論されていて、これはまずいのではないかというところで議論が止まっていたので、それ以上先に進められなかったという現状がありました。
一方で、そんなものはないと主張する人もいっぱいいます。実際、それはそれで構わないのですけれども、存在しないという立場の人は「ただの被害妄想である」とか、「日本社会はみんな平等にできている」とか、「これは日本の誇れるところなのだから、そう思っている人がいるとしたら被害妄想だ」ということを主張しています。
ほかにも、学力差によるランク付けなら理解できるが、そういう成績とか将来の地位達成に結びつきやすいランクではなく、スクールカーストのように将来の地位達成に結びつきづらいランクづけがあるとは現状考えづらいというふうおっしゃる方もいっぱいいます。
被害妄想だとしても、そう感じる生徒が多くいるのだから何とかしなければいけないということは反論できると思いますし、学力差があるのは当然ですけれども、それに伴って力関係ができるなら、それもおかしいと考えることができます。
スクールカーストは存在を肯定する人はいても、これまで実証的にやってこなかったのは、まずは検証が難しいというのがあります。1軍は誰ですかとか、2軍は誰ですかとか、3軍は誰ですかと聞くのはすごく難しいですし、1軍、2軍なんてないかもしれませんし、あったとしても問題がさらに増えるので、問題化せずに放っておいたほうがいいのではないということも言われています。
これはいじめ問題もそうですけれども、いじめという言葉がなかったからといって、その現象を放っておくというのはあまり良いことではありません。ストーカーにしても、ストーカーという言葉がないから同じ行為をしていても放っておけばいいのではないかというのはあまり説得力がないのではないかなと思います。
その他のあるかもしれない派の主張では、スクールカーストは「コミュニケーション能力の差であって、それは仕方がないのだ」というものもあります。コミュニケーション能力というものはすごく多義的な言葉で、いろいろな意味で用いられますけれども、そうしたカーストがあるのはコミュニケーション能力の差なのだろうから、それはコミュニケーション能力を養成することで解決できるとか、そういう解決方法が言われたりします。
しかし、そもそもコミュニケーション能力とは何だろうというところは社会学ではよく議論されるところなのですけれども、そうしたところを十分に検証した上で、現状を考えていくことが不可欠なのではないかなと思います。
このスクールカーストという現象は、主に生徒それぞれの認識によるところが大きいのです。生徒それぞれの胸にバッジがついていて、この子は「1軍、2軍、3軍」みたいに可視化できるものではありません。何となく、この子が1軍かな、自分は2軍だろうみたいな認識があって、それが何となくみんなで同じように共有されているところの現象だと私は思っているのです。
なので、そうした認識というものがどういうふうに生じるかを質問調査、アンケート調査、インタビュー調査というもので明らかにしていきたいと思って2009年からいろいろな方の協力を得て実施しました。
本当は、現役の中高生に聞けばよかったのですが、中々関係する方々のご協力を得ることが難しく、小中高の学校生活を終えた大学1年生に、今までの学校はどうだったかということで話を聞いています。あと、全体的にどうなのだろうというのを検証するために質問紙調査というものを神奈川県の中学2年生に対して行っています。
それらの調査で、分かったことというのをこれからお話ししていこうと思います。
まず、小学校です。小学校のときの力関係というものは、個の力関係、個人の力関係であると言われています。これは共通の認識としてみんなそうだと言っていました。まず立場の弱い子、例えば浮いている子だとか、不潔な子だとか、障害のある子が嫌だったとか、机をちょっと離していたとか、同じ班になったら嫌だったとか、遠足とかで手をつなぐときにみんなが嫌がる子というのは確かにいたなみたいな、そういう子は立場が弱かったといえば弱かったかなということが話の中で出てきます。
一方、立場の強い子というのはどんな子だったのかというと、みんなでする遊びが上手な子で、足が速い子とか、ドッジボールがうまい子とか、遊ぶ中で優位に立てるような子というのがあったといえばあったかもしれないと言っています。しかし、別にそういう子が実際どうだったかというと、だから特にどうっていうようなエピソードもなく、それは特に問題はないと考えられています。
このインタビューを資料に抜き出していますけれども、「だからと言ってその子がどうするってこともなく…。」とか、そういう感じに考えられているということです。
一方、中学校以降、男子だと中1以降、女子だと大体、小学校5年生とか6年生ぐらいから、話がちょっと変わってくるのです。先ほどは足が速い子が人気者だったみたいに個人の話で終わっているのに、今度はグループの話になっていきます。こういう「子」が上だった、下だったみたいな話ではなくて、この「グループ」が上だったみたいな話に変わってくるのです。これはサブグループと呼びますけれども、何がサブかといいますと仲よしグループみたいな意味でサブグループという言葉を使っています。メイングループは学年であったり、クラスであったり、公的に身分のあるものをメイングループと呼ぶので、それと区別するためにサブグループという言葉を使っています。
このサブグループというものが明確に分化していくとみんなは語っていました。名前の呼び方も結構さまざまで、ギャル系が云々とか、キャピ系がいてとか、クラスにこういう残念な人たちがいたとか、清楚系はこういう子たちで、めっちゃ地味な子たちがここの固まりにいてみたいな話をきちんと区別して話しています。
あと、男子だと「イケてるグループ」「イケてないグループ」があってとか、結構線引きが微妙だったりもするのですが、女子のほうがきっちり、そこまで区別しなくていいのではないかというぐらいの、ちょい地味、めっちゃ地味とか、過激派がいて、中心派がいて、穏健派がいて、静か系がいてみたいな、そういうふうに明確にグループを区別しているという現状があるそうです。
先ほども言いましたように、グループが分かれていることというのは特に問題はありません。しかし、このインタビューに見られるように、このグループがこのグループより強くて、このグループがこのグループより弱くてというのがきっちりあって、この不等号であらわされるように、この並びで判断していることが大きな問題となっているわけです。
一応、アンケートも一緒に見ていこうかなと思うのですけれども、自己認識に関するもので、「学校生活がとても楽しい」とか、「学校生活にとても満足している」とか、「クラスの友達にとても満足している」みたいなのは、きっちり上位、中位、下位というふうに差があることがわかると思います。
小さく「p<0.001」と書いてあるのですが、これは有意差と呼びまして、恐らく何回同じ集団で調査をしても同様の差が生じる可能性は0.1%であろうということを意味しています。本当にはもっと複雑で、説明が足りないのですが、そういったような印だと思っていただければよいかと思います。
このグループに所属することに関して、具体的にはどういうふうに思っているのかという点について、まずは上位のグループにいたという生徒です。上位のグループに所属することというのは好まれることですし、何でもいいようにクラスを動かせるので、楽しく望ましいと考えられているということが分かります。ですから、先ほどのアンケート結果の数字の理由はこういうことなのではないかということが言えると思います。
下位のグループにおいても、そこのグループに所属することというのを別にそんなにデメリットを感じているわけではありません。積極的にそのグループに所属すること自体にいいことがあるとは思っていませんが、気の合う友人とともに休み時間とかを過ごしたりすること自体は別に楽しいのだそうです。特に問題はないと考えているとのことです。
しかし、下位のグループにいて嫌だったと語るのは、周りの評価が低いと感じる場面、つまり、他のグループと交ざってクラスで何か一つのことをやらされる場面に限定されるということが分かっています。例えば、文化祭や体育祭の準備などです。学校生活というのは、ずっと同じ仲がいいグループだけで行動していくことは難しい。いろいろとごっちゃになって集められて、一体となって、協調性を持って何かいろいろなことをやっていくことが望まれるわけですが、そのとき無理やり一緒にさせられたときに、何かわからないけれども、低く見られているなと感じる瞬間でいろいろ傷ついたり、居心地の悪さを感じたりしているということです。
それは具体的にはどういうことなのだろうかということなのですが、このインタビュー対象者の、仮名ですけれども、ナナミという子が非常に興味深いことを言っていて、核心をつくようなことを言っています。上位のグループと下位のグループでは、与えられる権利の数が違うのだと。
権利とは何だと思うのですが、下には騒ぐとか楽しくする権利が与えられていないので、下のくせに廊下で笑ったりしてはいけないとか、異議を言う権利も与えられていない。そうしたら治安がなくなってしまうし、治安というのはクラスで、見た目は仲のいいクラスという意味だと思うのですけれども、その治安がなくなってしまうし、そういった異議を言う権利を与えられていないし、所属するランクによって与えられている権利の数が違うと考えられているのです。そこに文句を言える権利というのは、同じランクの人であって、下からは言えないというふうに考えられています。
何でそんなにきっちり明文化されてもいない地位のようなものを非常に気にするかといいますと、一番上の人は人事の権利も持っている。ランクを操作する権利を持っているので、さらに、例えば廊下でちょっと笑ってもいいぐらいのポジションだったのに、ランクを操作されて、ささいな楽しみも奪われてしまうようなことが起こるので、上の人に文句を言うことはできないと考えているということでした。
また、上位に移動した生徒、上位に位置づく生徒というのも安泰ではなくて、ささいなことで落ちたりすることもよくあるわけです。調査の結果によると、上がることというのはほとんどないのですけれども、下に下がるというのは結構容易に起こるようです。どういう理由かはわからないですが、ですから、あまり意識せずに上位に来ているといいますか、人気者の生徒は絶対にいると思いますが、意識して上位にいる人たちがいて、その人たちは非常に悩んで生活しているのです。
権利を持っていると先ほど言いましたけれども、権利を持っているだけでなくて、使わなければいけないらしいのです。そうしないと、クラスがただ静まり返っている状況で、物事が何も進まない。特に行事とか、そういったところは意見を言う権利が上位にしか与えられていないわけですから、その上位の子が何か言わないと、ただ無言の空間が続くわけなのです。そうすると、いろいろな人がストレスを抱えてしまうので、自分が何か言わなければいけないこと自体がストレスになっているということが言えると思います。
それで、下位から上位への変化があった生徒というのがいるのですけれども、これは不思議な結果で、今、友達関係に満足していますかと聞きますと、めちゃくちゃ満足しているのですが、友達関係に疲れていますかと聞くと、めちゃくちゃ疲れていると答える。満足しているが、疲れている。学校生活にも満足しているけれども、学校生活に疲れているみたいな、普通はそこは確実に相関があるはずなのですが、この子たちにとっては、下位から上位に意識していった人たちにとっては、満足と疲労感はイコールではないことが言えます。
例えば、自分の気持ちと違っても人が求めるキャラを演じるみたいなところがあるのですけれども、これは小学校5年生のときと中学校2年生の変化を比べたものになります。
ちょっと数が少ないといいますか、下位から思いっきり上位に行った生徒が少なかったりして、確実なことは言えないのですが、比較的、数の多い中位のところを見ますと、中位にいて、今、上位だという人たちは、「自分の気持ちと違っても、人が求めるキャラを演じる」が非常に強くなっています。押し殺して、そのポジションにいるということがうかがえると思います。
先ほどそのポジションは見えないものだとお話ししたのですが、その見えないところというのが、なぜ、みんなには見えると言っているのか、つまり、この子はこのランクで、みたいなものがどういうふうにして決まっているのかといいますと、一応、法則みたいなものがありまして、「クラスみんなのために」、「みんなの空気を読んで」、「いじめではない」方法で、「いじる」側と「いじられる」側のグループが、「お決まりのパターン」として、関わりが見られる場合に力関係として把握するということが言われています。
インタビューによると「イケてるグループ」がはしゃいでいて「イケてないグループ」に最後ちょっかいを出して笑いをとるみたいなものが定式化されるといったケースがクラスにあるとのことです。そのときに、いじられる側もですけれども、いじっているほうもいじっていいのではないかとか、周りで見ている人も、こっちが上で、こっちが下なのだなというふうにだんだん固定化するといいますか、認識が共有化されるというメカニズムになっているというふうに言えると思います。
いじる・笑いをとれる人がいて、いじられる・笑いをとれない人がいて、こうした一連のやりとりが、スクールカーストの根底にあるのはコミュニケーション能力ではないかと言われる所以だと思うのです。
実際のところ、コミュニケーション能力は計るのがすごく難しいです。コミュニケーションというものは、例えば自己主張力と共感力から成るみたいなことがよく言われるのですが、意見が通るかということと人に合わせることがあるかというので、一応、コミュニケーション能力を定義するとなるとこうした結果になるのです。
差が出てくるのは、友達と話すときです。自分の意見を押し通すというのは上位、中位、下位の間で明確に差が出ます。上位のほうが明らかに押し通す確率が高くなるのですけれども、例えばクラスの友達に意見を合わせるというのは共感力と呼ばれる部分です。そっちのほうはあまり差がありません。みんな大体、合わせたりすることはしますし、スクールカーストの地位によっても変化はほとんど見られない。男子のほうは少しだけありますけれども、有意差で言えば5%くらい確率です。女子のほうは全くないということが分かると思います。
また、その確率を無視しても、数値だけで見ても、スクールカーストの上位よりも下位のほうが人の意見に合わせたり、共感することは多いのが分かると思います。
また、上位グループ不在時のエピソードをインタビューで答えている子たちがいまして、こうした状況はすごくまれなのですけれども、彼は修学旅行で海外に行った経験があるそうなのです。東南アジアの旅行だったらしく「イケてるグループ」の子たちがはしゃいで、屋台で物を食べたということで、全員食中毒になったという事件があったそうなのです。その結果、はしゃいだり、うるさいグループがその瞬間一掃されていなくなりました。
そのときに実際、バスの中とか移動とかで盛り上げる子たちというのは全くいなくなったのかといいますと、その次のランクの子たちが盛り上げることになっていたということが語られています。つまり、彼らが別に盛り上げるのが苦手とか、できないとかということはないわけなのです。上位のグループがいるときは、その子たちがその役割を担っているだけで、そこがいなくなれば別のグループがやるわけですから、絶対的にコミュニケーションが上手だから上位ということではなくて、相対的に決まっているものに乗っかってみんな行動しているというのがこのあたりから分かるかなと思います。
こんなふうに「A、B、C」だとか「1軍、2軍、3軍」といったランク付けはもうやめればいいのではないか。こんなつらい思いをして、どこにいても苦労するようなら、どこのグループに所属しなくていいのではないかと思うのですけれども、クラスの中で孤立しているというのは彼らの中で絶対にあってはいけないことらしいのです。どのグループにも所属しない生徒は一番たちが弱いCグループとか3軍と呼ばれているところよりも下のほうに見られるとのことです。
この子が特に言っているのが、クラスに1人ぐらい、クラスに友達がいない子はいるじゃないですかみたいな、それがつるんで、ほかのクラスにも移動して、そういう子たちとつるんだりとかしている様子があった。それはそれで普通に考えればいいのですけれども、そういう人たちに楽しいのかなとか、生きていることに意味があるのかなと考えている、生きる意味すら見出していないということも語っていました。
また、彼らは、各グループの特徴みたいなことを見出しています。上位のグループに所属する生徒の特徴は、にぎやかであったりとか、気が強いとか、異性からの評価が高いとか、若者文化へのコミットが高いというのは、おしゃれであるとかそういう特徴があるそうです。
一方、下位のグループの特徴は何かあるのかと聞きますと、特にないそうで、強いて言えば地味とか、特徴がないことが特徴みたいなふうに言われていました。
受け皿という表現を使っている子がいて、何か特徴があるからこのグループにまとまっているわけではなくて、どこのグループにも入れなかったから何となく集まって、受け皿的なところになっているグループの特徴なんか言えないと考えている子もいました。
数値上で見ても、自己主張やにぎやかといった特徴は、「自分の意見をはっきり伝えることができる」という指標で見てみると、男女ともにはっきりした差があるだろうということは言えると思います。
あとは、これは恋人の有無についてのデータですが、かなりはっきりと差がありました。上位、中位、下位で恋人ができる確率が、中学2年生ながらこのように違いがはっきり出てきています。また、上位のほうが格好いい人が多かったという話も女子側からは出るのですけれども、クラスメートに容姿を褒められることがよくあるかみたいな質問をしたところ、女子のほうはすごく差がありました。
全文は資料に載せていませんが、男子のスクールカーストの上位、中位、下位の特徴として、運動部への所属といいますか、サッカー部とかバスケ部に所属している子で活躍している子は格好よかったとか、そういう話が出てきて、部活動との関係性というものも一応言われています。
女子の場合は、運動部に所属していようが、文化部に所属していようが、部活動で活躍していようが、活躍していなかろうが、容姿を褒められるというのは別に全く関係ありません。
しかし、男子の場合は運動部で成果を発揮している。大会とかで活躍しているみたいな人が一番容姿がいいとなっていて、2番目にいいと言われているのは運動部に入っていて活躍していない人、3番目は文化部で活躍している人とはっきりした差が出ています。
この辺りがインタビューで女の子から結構語られるのですけれども、「イケメンは必ずしも運動ができた」みたいなことが、その所以なのかな、そういうふうに見える仕組みになっているのかなと思います。
次に、上位の位置する人気者などに対する嫌悪感とかそういうものは表面化しないと言いますか、誰もそのスクールカーストを崩そうとしない理由を少し考えていきます。
彼らが言うには、上位のグループは結束力も物すごく強いですし、しかも気が強いと言うので、気に入らないと悪口を言いますし、人気もある子たちだったので、ちょっと怖くて言い返せないという話をしていました。上位に位置づく生徒が結束力とか影響力を持っているから制裁といいますか、先ほどの人事権みたいなものを使われることを恐れて、力関係を消極的に受け入れているというのがここから分かると思います。
また、ちょっと不思議なのですけれども、上位に位置づく生徒というのは、その全員が人気者ではあるけども、決して好かれているわけではないという、非常に不思議な構造をしているのです。もちろん、本当に純粋に好かれている子も中にはいるのですが。
とりあえず従わないと面倒くさいから従っているふうにするとか、仲はよかったけど、実は好きではなかったとか、友達が多い風だとか、そういう話が聞かれました。クラスの中にもそんなに好きではない子が意外に多いとか、そもそも話しかけても無視されないとかはありますが、つまり、それというのは、嫌われるそぶりを見せられることはないけれども、実際に好きかどうかというのは別問題であるというふうに、表面上は好かれているが、実際にどうかはわからないみたいな不思議な関係性でこれが成り立っているということです。
何でそうしたことが起こるのかといいますと、大人の我々からするとちょっと気にし過ぎではという気もしますが、彼らはクラス替えをしたり、学校が変わっても、この関係性は普遍的なものでずっと変わらないと考えているからなのです。
どうしてそう考えてしまうかといいますと、一旦、下だとみなされてしまうと、恐らく次からはずっと下だろう、基本的には学校生活というものは社会の準備期間などと言われますから、本来は失敗してもいいはずなのですけれども、彼らは人間関係に関してだけは失敗できないと思っているからなのです。
例えば勉強だったら、1回悪い点数をとったとしても、次のテストでちゃんと勉強して挽回できればいいということにもなりますが、このシステムにおいては、1回下に落ちてしまうと二度と這い上がれない構造になっていると。だから、ここだけは失敗できないぞという意識で人間関係を考えているということでした。
普通に考えれば、例えばクラス替えや高校進学とか、そうした機会をきっかけにして人間関係というものは流動化するわけで、そのたびにポジションはリセットされるのではないかなと思うのですけれども、クラス替えでいいますと、自分の立ち位置ができ上がっていて、別のクラスに過去の自分なんかを知っている人が絶対いるから、その状況下でクラス替えなんかをしてもすでに情報が伝わっていて絶対に変わることはないとか、地方都市では、塾とかでも結局同じような地域の子たちが来るわけで、塾が別の空間ではなく、ただ学校のクラス替えが行われたものが夜にあるというだけのような感じで考えてしまう。
東京みたいに私立の学校に行くことがそんなに難しくなければ全く違うこともあるのでしょうけれども、それでも特に今、高校生とか中学生は、LINEとか、そうしたもので過去に友達とどういうふうにやりとりしていたのかというのが新しい友達にも見えるようになっていたりしたりですとか、昔はプロフというものが流行っていましたが、高校入学前に、入学する人たちだけでグループをつくって、チャットのようにメッセージのやりとりとかをして、それを100人、200人単位でしていて、誰と話しているかもわからない状態だったりする。
そうしたやりとりが中学校のうちから、高校に入学する以前から、つまり新しいコミュニティーに入る前から行われていて、この子はどういうキャラだったのだろうとか、容易にプロフィールとか、どういうふうなことを言われている子だったかというのは分かるようになっているのです。これは現代的な特徴かなとも思うのですけれども、とにかくキャラを変えるのが難しいという状態があって、人間関係が継続して行われるというのがあると思います。例えば神戸から東京に行ったとしても、1回グループをつくって、そのプロフィールを見ればわかるので、人がつながっていなくても分かってしまうということになると思います。
また、反対にそういうコミュニケーションツールをやっていなかったということもすごく恥ずかしいことといいますか、友達からの関係を遮断しているノリの悪い人みたいな感じで思われるらしく、そういったところで難しい一面があるのかなと、話を聞くたびに思わされます。
教師というのは、生徒同士の人間関係とは一線を画す関係性で、一応、教室の中の一員ですけれども、何か違う接し方をしていていいはずなのです。しかし、彼らの話によりますと、生徒のランクによって接し方を変えているのではないかと思うところがあるらしいということが分かりました。つまり、教師は上位に位置づく生徒と仲が良くて、下位に位置づく生徒とあまり仲良くしていないのではないかということを言っていました。
といいますのも、女子の話でよく出るのが、スカートの丈を注意するというのは、どの学校でもあると思うのですけれども、短くするな、ちゃんと長くしてこいと注意するわけですが、そのときにちょっと地味目の子が若干短くしていたのと、上位の子が短いのとでは、注意の仕方がちょっと違う。その違いというのが微妙なのですけれども、本当にダメなやつだなみたいな感じで仲良く、おまえ、次はちゃんとしてこいよという感じで上位の子には注意するのに、地味な子にはどこを見ているのかわからないような状態で明日から直してくるようにというので終わる。
注意をするという行為的には一緒なのですが、すごく楽しそうに注意していたといいますか、先生たちははっきりと生徒によって態度を変えているのではないかという言い方で言っていました。
こうしたことからも、上位に位置づくことというのは悪いことではなくていいことなのではないか。先生からしても扱いやすい人たちなのではないかと考えているのが分かると思います。
実際、親密性というスコアをつくったのですけれども、今までの研究とかですと、先生と仲がいいというのは、学力が高い子たちとか真面目な子たちが先生は扱いやすく、仲もよいと言われていましたが、スクールカーストの折れ線のほうが、角度がすごくついていて、学力は比較的平らに近い傾きとなっています。このことから、厳密に言えばどちらも関係しているとは言えますけれども、スクールカーストの方が数値の高い低いによって先生との仲のよさに影響しているのではないかというのが分かるということになります。
それから、日本の学校の先生はすごく多角的に物を見ている傾向がありまして、ヨーロッパとかですと中産階級とか言われますけれども、家柄のランクとかによって明らかに先生との仲のよさが違うみたいなことが言われているのですが、日本では何かに長けている子を非常に評価しようとする傾向がありまして、勉強だけではなくいろいろな能力を量ろうとしてこういうことになっているのかなということは伺えます。
次に、教師のほうの認識に移らせてもらいます。
教師の方はちょっとインタビューが難航してしまって、それほど数は多くないのですが、実際にこういうふうに考えている正規採用の教員がいるということは本当なので一応資料に載せています。教師の方たちは意外とこういう子が上、こういう子が下という認識は判別できるとおっしゃっていました。大体、生徒が話している、大学生が話していたことと同じように教師の方々も教室内の光景を見えているのです。それで上位とか下位とか、そういうものを判断している。
小学校の先生いわく、高学年ぐらいになると女子のほうが力関係が出てくるようになる、男子の方は分からないということで、先ほど話していた大学生の話とも大体一致するような感じになっているということです。
それでは、先生たちが下位と言っている生徒はどういう生徒なのだろうかと認識をかみ砕いて聞いていきますと、100%将来使えないとか、そういうふうに考えているとか、おとなしくて、全然積極性がないとか、逆に、上位だと言われるような生徒たちのことはそんなに心配はないと考えています。たとえ学力が低かったとしても、ごますりとかができる人はコミュニケーション能力みたいなものに長けているから今の時代は何とかなるだろうと考えているということです。
自殺に結びつくような関係性があるのなら自分が注意してやめさせるが、ちょっと人間関係でごたごたがあるみたいなことは生きていく上で必要であるし、どこに行っても力関係というものは存在するわけで、平社員よりも課長が上で、課長よりも部長が上でみたいなことは絶対にあるわけで、業績の違いによってもそういうことが同じ年次でも起きていっても不思議ではありませんし、それがコミュニケーション能力とかそういうもので量られるようならば、そういうことはあり得る。スクールカーストのようなものがあることというのは特に問題なく肯定してもいいのかなと考えていることも理解できます。
また、ぱっと見て、最初の3日間ぐらいで、この子が上なのだな、下なのだろうなというのはちょっとやっていれば何となく分かってくるということなのです。
学級運営するときに上位の子しか発言力がないわけですから、そこにぱっと振って意見をもらってみんなを動かしてもらうとか、そうしたほうが流れがスムーズだというふうには言っている人もいました。積極的に発言しないような子にわざわざ話を振って、ちょっと教室がシーンとしてしまうよりは、話せる子に振って、レスポンスをもらって、話を進めていったほうが授業を進めていく際に、絶対に楽であると言っていました。そうしたほうが、対外的に見てという意味なのか分からないですが、協調性のあるクラス、仲のいいクラスをつくるにはよい、近道なのだと考えているということです。
これらの話を総合しますと、生徒側と教師側ではちょっとルートが違うのですが、生徒も教師も同じように見えている世界があるわけです。何となく上だとか、下だとかという認識を共有しているということが分かります。
生徒から見れば、これはもう変えられない、もう自分には刃向かう権利はないといった消極的な理由といいますか、変えられないから変えない状態だからスクールカーストを維持するという結論に至っているのです。
教師から見れば、この問題は努力で何とかなる問題なのではないか、つまり、スキルの問題、能力の問題なのではないかと考えていることが分かるわけです。コミュニケーション能力、積極性とか、覇気とか、そういう言い方もしていましたけれども、生徒個人の問題だと考えていて、それなら自分の気持ち次第でそのスキルを伸ばしていくことが可能ですから、養成したり、育んでいって、自分のダメなところに気づいていくとか、そういう積極的な理由でスクールカーストの維持にまわっていることがあるようにと思います。
結局、維持しているという意味ではどちらの面から見ても変わらないわけですから、生徒は権力に先生すらも従っていると思っていますし、先生は生徒個人の能力に従ってそうした構造ができていると思うから肯定しているという、どちらの面からも、生徒も教師も勘違いしているといいますか、両者とも向こうもそう思っているだろうという想定で考えると、スクールカーストというのは、結局変えられないという結論に導かれるという構造になっているのではないかと、これまでの調査を総括すると考えられるということです。
これまで語られてきたことから、なぜ、こういうことが起こっているのかということをまとめていきますと、「能力」という言葉が、マジックワード化されているということが1つ考察として挙げられます。
マジックワードとは、何となく分かるけれども、うまく説明できなくなってくるような言葉を指します。
「コミュニケーション能力」という言葉がよく使われますし、「女子力」とか「母親力」とか、「生きる力」という言葉もそうですけれども、「○○力」というものがすごく流行っています。これはすごくきれいな言葉で、何となくそういうものがありそうな感じというのは人間誰しもあると思うのですけれども、それでは、それとは何なのかといいますと、深く問い詰めていくとだんだん説明できなくなってくるのです。そうしたものが1990年代以降台頭してきている現状があります。
特に学校は、「何とか力」が好きなのです。「生きる力」というものがありますけれども、「生きる力」という名前だけを見たときに、何の力か分からない。けれども、恐らく必要だろうというぐらいの、でも深く考えると分からなくなっていくというところに非常にマジックワードに近いということがわかると思います。
教育現場ですと「生きる力」とか「覇気」とかをよく使うのですけれども、この間、入学式でしょうか、新入生が来て、2年生、3年生が校歌を歌うみたいなときに、ちょっと声が低かったからでしょうが、先生が何回も歌い直させている場面があったのですけれども、そこでの注意が「覇気」を出せという話だったのです。恐らく声をもっと出せという意味だと思うのですが、とりあえず「覇気」とかそういう言葉に変換して注意をする。おまえたちは全然覇気がない、だめだ、もう一度みたいな感じで先生が出てきてやめさせる。声を大きくしろとか、ちゃんと歌えとかでいいと思うのですけれども、そういう言葉に変換して話したくなる空気が学校には根強くあるのではないかと思います。
そうした何でも変換できるような言葉が重視され過ぎた結果、何かわからないけれども、上に立っている生徒がいる、仕切っている生徒がいると見たときに「○○力」なのではないかという、後づけで評価しやすくなるのです。そうしたものがあるのではないかというのが、まず一つの答えになると思います。
もう一つは、これも専門概念なのですけれども、「メリトクラシー」という言葉があるのですが、「メリット+クラス」です。メリットの階層となるのですけれども、例えばいい高校に入ると、次はいい大学に行ける、いい就職ができる、幸せな人生を送れるみたいな、単一的な、そこで身につけた能力が次にも生かされて、地位の達成に非常に大きな影響を与えるという単一的なライフコースといいますか、そうした観念が広がっている社会をメリトクラシーと呼ぶのです。「業績主義」というふうに日本語訳でされますけれども、高校で上げた業績が大学に生かされ、大学で上げた業績が就職に生かされ、就職で上げた業績が収入に生かされるという考え方です。
一方、2000年代中盤ごろに私の指導教員の本田由紀先生が「ハイパーメリトクラシー」という概念を提唱しました。
これはメリトクラシーに異を唱える概念で、今の世の中は、単に勉強ができて、それが地位達成に結びついてという単一的な方向に向いていない。今はもっとすごい、いろいろな、よくわからない能力も身につけていかないといけないのであると。勉強だけできてもしようがない。もっと友達関係とか、幅広くうまくやっていく力が求められるということです。
○○力がさらに求められている。学業だけではだめで、プレゼン能力もうまくなければいけませんし、コミュニケーションもとれなければいけませんし、飲み会で一発芸もしなければいけませんし、上に行くにはルートがいっぱいあり過ぎてわからないのだと。
でも、とにかく業績があって上に行くという考え方だけは同じだからメリトクラシーだけれども、もっと洗練化された社会になっているというのがハイパーメリトクラシーの考え方です。
これを踏まえて考えますと、学校の先生の見えている部分は非常に少ないのですけれども、勉強だけで評価してはいけないということになったときに、何となくうまくやっている生徒を評価するというのは結構自然な流れになっているのではないかということが言えると思います。社会に行くまでの準備期間ですから、社会で通用する能力を身につけるのが学校だという考え方だと思いますので、そうしたときに後づけでそうしたことを評価するのにハードルが非常に低いような社会になっているのではないかということです。
あとは、今ほど就学率が高くなかった時代というのは、学校に行くことというのに目的があったと思うのです。将来、こういうふうになりたいから学校に通っているのだとか、読み書きそろばんができるようになりたいから学校に通っているのだということだったと思うのですけれども、今、小中学校の就学率はほぼ100%近いですし、高校への進学率も相当高い水準にあると思います。
しかし、反対に学校に通うことに目的を見いだせない生徒が非常に多くでてくるようになりました。進学校であれば、いい大学に入るとか、スポーツで入った子とかは、甲子園へ行くのだということとかはよくあるのですけれども、大多数の生徒というのは特に目的がなく、何となく行けと言われているから行っているといいますか、行くのが普通だと言っているような状態になっていると思います。調査結果を見ますと、実際、思いやりもある子たちですし、真面目な子なのです。規範的には学校に行かなくてはいけないというのは非常に高い水準で保っていて、でも、学校に行く目的がないわけです。
そうなりますと、特に何をやっているのか分からないけれども、学校にはとりあえず行っているという日常が当たり前のこととして受け入れられ、別にそのサイクルを壊す気はないという状況だけが、今残っているということです。
勉強だけできても仕方がないと言われ、部活だけできてもプロになれるわけではないとか、そうやって片っ端から批判されていって、その中で最終的に残るものは結局、高校時代にしかできないことをやろうという価値観になってくるのです。つまり、「青春の謳歌」みたいな価値観です。それに伴って、青春の謳歌をするためには「友達」が必要なわけです。だから、そうした友達関係をうまく立ち回っていくことというのが最終的な目標・目的だと思ってしまうというのは自然な流れなのかなと思っています。
そうしたことが、このスクールカーストという現象が不思議なこととしてではなく、当たり前のこととして受け入れられていく背景としてあるのではないかなと今の段階では考えています。
御清聴ありがとうございました。(拍手)