青少年問題審議会第一部会議事録

青少年問題審議会第一部会(第5回)議事録

平成11年2月26日(金)
10:30〜13:00
中央合同庁舎4号館共用第3特別会議室

 ただいまから青少年問題審議会の第一部会を開催します。本日は前回に引き続き、家庭、学校、時間づくりに関して具体的な提言を整理していくための検討を行いたいと思います。
 なお、今後の当面の日程について、3月30日の審議会で部会検討状況を中間報告したいと考えていますので、今日は議論を深め、できるだけまとめる方向でお願いいたします。
 議論のたたき台として、事務局で委員の皆様からいただいた御提案等を取りまとめましたので、説明をお願いします。
(事務局から配布資料について説明)
 今の説明に関して、補足されること等がございましたら、後ほど関連箇所で御発言いただきたいと思います。
 それでは、各分野ごとに見ていきますが、御提案を踏まえ、部会としてどのような項目を特に重要視するか、強調するかという点に絞っていきたいと思いますので、その方向で御意見をいただきたいと思います。
 なお、本日の整理は現時点での一応の整理ですので、今後の検討の進展によっては、新たな項目の追加や変更もあり得えます。
(『開かれた』家庭に向けた支援に関連するもの)
 まず、『開かれた』家庭に向けた支援に関して検討したいと思います。特に重要視して強調すべき事項はどのようなものかを考えて御発言をお願いします。
 家庭に限らず、既にやっていることがかなり挙がっています。例えば、親に対する教育、意識啓発、提言や、マスコミの力を借りた親の啓発は40年前からやっていますが、全然効果がない。乳幼児健診における、精神発達面やしつけに対するチェックと指導もやっています。やっていることを書いてもしようがないのだと思います。
 過去にやっていることがとても多くありますが、なぜそれが機能しないのか。
 マスコミの力をかりた啓発活動がなぜ効果がないかというと、こういった講習会や家庭教育学級に出て来たり、マスコミを読む親は余り問題はない。読まないし、出てこない親が問題なのです。どうしたら出てくるようになるか。
 出てほしい人が出ないのは学校の保護者会も同じです。
 今おっしゃった問題は参加の問題だと思います。そういった場に参加させる具体的な方策を新たに考えることができるかだと思います。文部省の家庭教育手帳がありますが、これをもらってもなかなか実効性がないのではないか。1%でもヒントを得たということがあれば幸いだと思います。
 そこで、参加させるにはどうしたらいいか。利害誘導をするなり、逆にペナルティーを科すなりといったことを考えないとうまくいかないのではないか。ただ、今の風潮ですと非常に嫌がられるかもしれませんが、事態がそこまで来ているならば、義務付けるのが難しければ利害誘導をしていくといったものがあればいいのではないか。
 だめな親を引っ張り出すのは、幾らペナルティーを科しても難しいと思います。もっと前の義務教育の段階なら多少効果があるのではないかという意味で、体験学習とか、生殖学などを必修科目にするということを考えています。
 来ないのでどうやって来てもらうかという人と、声を掛ければ来るが、考え方が相当違っていたり情報が不足している人がいると思います。もちろん、来ない人にどうやって来てもらうかというアプローチも必要ですが、後者の人は声を掛ければ集まるので、啓蒙的な活動は可能だという意味で、今までやってきたことが再度挙がっていると受けとめています。
 親は、子どもが今どういう心理状態にあるのか、精神状態はどのように動いていくのかを余り考えずに、自分の都合で子どもを扱うと思います。会合に出てこないような親は特に考えないと思います。心理学や社会心理、精神医学、子どもの専門家は知っているが、普通は子どもの心の中を全然知らないと思います。
 また、手帳に関連して、子どもが0歳から成人になるまでの間に重要なことというのは幾つか必ずあると思います。そこで、生まれてすぐのときや学齢期前などに、何が一番大切なのかを、具体的に、しかし多くは連ねない。例えば小学校低学年から高学年になる間に、人と自分を比べると、自分はなぜこんなに寂しいのかと、非常に深く感じる子どもはサインを出し始めます。そういったポイントを幾つか絞って社会常識的にしていく。これは、マスコミ、企業すべてにわたって参加してもらわないと困りますが、そういうアプローチがとても大事だと思います。
 今まで出ている項目にそれを含めるのか、項目としてどう生かしていくかという形で御提言いただきたいと思います。
 しつけの重要性について、国民の約7割がしつけが大事と言っているので、何らかの形で提言するべきだと思います。こういう啓蒙をしているボランティアがあると新聞に載ったりした後の反応が大変多いように、テレビや新聞を上手に使えば効果が必ずあるという意味では、マスメディアを使うことはいいと思います。
 また、規律の乱れが国民の責任感を薄れさせている中で、国として、家族の絆の大切さや家族の機能の重要性などの伝統的な価値について改めて提言するとよいと思います。
 具体的な提言をする場合、住み分けをしながら一つずつ考えていくとよいと思います。例えば、教育する場合に何を教育するのかという命題があると同時に、どこから始めるのかという命題がある。また、教育をする側の教師をどうサポートしたらいいのか、教育を受ける側として親子はどうあるべきかというように、場を考えながら議論を深めていった方がいいのではないか。今まで、それぞれ目的意識を持って考えていますが、まだ住み分けができていないという気がしました。いろいろな考え方をアトランダムに言うのも非常に大事ですが、まとめるならばそういう形も考えなければいけないと思います。
 小学校の1学区に最低1か所の母子交流センターをつくるという提案がありますが、学校側はどう考えているのでしょうか。
 つくるのはいいと思います。しつけの問題や規範精神、善悪の判断を、幼児教育から小学校の低学年ぐらいまでの間にきちんと植え付けることが大事だと思います。そういう視点から言えば、母子交流センターなどが小学校単位ぐらいでつくられるのはとても大事で、中学に来てからでは間に合わない。基本的に持っていなければいけないことが欠けている子が多いのです。中学校に入ってからは、実際に子どもに体験させることで、感じさせて訴えていくことはしなければいけない、つまり、親ではなく子どもに対してすることが中学校の段階では必要だと思います。親に対しては、子どもの年齢がもっと小さい方が、親の子どもに対する影響力がずっと大きく、とても大事なので、小学校単位ぐらいでするのはよいと思います。そういった場があれば本当に親が来てくれるかということになると少し心配ですが、小学校や幼稚園の段階であれば、親と子どもとのかかわりの中で大事なことを教えられるのではないかと思います。
 先ほどの参加の問題に関して、私は利害誘導には反対です。問題がある人、啓発を受けるべき人が啓発に参加しないという問題は昔からあり、これはしようがないと思います。自分の心を開こうという気持ちのない人に、無理やり連れてきて教えても決して心に響かないと思います。どんな世の中にも犯罪者はいるし、普通の人間も一生のうちに何度かは道を踏み外したり悪いことをするので、そういうことはあるという前提に立たないといけないと思います。それを一切なくすのはどんな社会でも不可能です。
 したがって、問題は何かというと、そういう人がいるという前提で、その周りの人たちがいかに健全にそれを抑制できるかということだと思います。間違った考えを持っている人がいるという前提で、それを取り囲んでいる大多数の人が正しい考えを持っていれば、社会全体としてはそんなに狂った方向に行かないという考えです。単純に言えば、健全な人たちを健全にしておけば社会全体として健全になる。どうしても外れる人、特に大人の考えを変えさせるというのは非常に難しいと思います。ですから、今の子どもをどうやってきちんと育て、大人になったときに今よりいい社会にするにはどうしたらいいかという考え方を取るのではないかと思います。
 もう一つ、いろいろなところで、いろいろなポストの人たちがそれぞれ努力している。それをもっと一生懸命やりなさいと言うのは確かにいいことですが、言われた方は今だって一生懸命やっていると思うに違いない。そうではなく、中間まとめにあったように、戦後50年の間に間違った方向に行っていないかと反省を促すところに焦点を絞った方がよいと思います。
 戦後3世代、経済優先になり親のしつけが抜けため、現場がしつけの方法が分からなくて困っているのが現実だと思います。それをどうするかというと、子どもが10歳になるまでに、生きていく中で迷惑を掛けない最低限のことを親にしつけてもらう。それについては今、企業、学校などすべて協力しないとできない状況にあり、大人社会が一丸となって、21世紀を支える子どもたちのために何か残していくということを提言できればと思います。
 非行の過程を見ると、親が成長していないのに親になってしまい、それは親が悪いと言い切れないほど親がいろいろな問題を抱えているということがあり、それでは親が教育的な場に出ていくのはとても考えられず、引っ張り出すのはまず無理と思います。
 問題は、親がだめだから子どもにアプローチして、子どもをよりよく育てる方向を考えると言っても、生まれて数年の間に、本当に安心して成長できる力を育む場がなく、成長する段階で、深い愛情を経験していない子どもは、幾ら口で説明されても分かりません。理屈は教えられるが肌の触れ合いといったものは教えられないのが、非行の非常に辛いところだと思います。
 ですから、非行の子を救うことは今は考えず、その周りの子に対してならば、やりようはあると思います。ところが、一般的な母親が、子どもが生まれても仕事を続け、保育園に乳幼児を預け、夜になって、泣きながら寝入った子どもを抱えて帰っていく、その親子がその後どんな時間を過ごすのかと思うと非常に絶望的な気持ちになります。このように、母親がすべてを背負って乳幼児期の子育てをすると、子どもが本当に安心して母親の腕に抱かれていることをたっぷり感じて、成長する力を伸ばしたり、自分自身の力を発揮するようになれるのか。その辺りが一番重要な問題だと思います。それをどうするのかというと、会社が父親を帰してもお酒を飲んで帰ってしまうというお話がありましたが、そうではなく、父親が母親の代わりに保育園に迎えにくるような社会教育が必要で、世の中全体がそこを支えていく。これからは、女性も多く働いていくわけですから、その準備を今から覚悟してやっていかなければいけない時代だと啓蒙しなければいけないと思います。
 今のお話ですと、ほとんどすべての母子の接触がないように聞こえますが、現実には、ある市で0〜2 歳の子ほとんど全員が親子一緒にいます。少数例を持ち出して、恐怖心を与えのはいかがなものでしょうか。
 少し強調し過ぎましたが、全部がそうということではなく、非行の子の周辺をどうしていくかという問題を提起しただけです。そういう人が増えつつあり、提言ではその辺りが重要になってくるのではないかと思います。
 例えば、10年前と比べるとそういう現状が増えてきたというデータはありますか。
 データは分かりません。
 データがあれば納得しますが。
 メディアの情報からの判断ですが、ただ、子どもを産みたくない女性が多いのは、その辺りも問題になっていると思います。本当の非行を救うことはできない、その周辺の問題をどうするかが大事ではないかと思います。
 先ほどの利害誘導について誤解がある気がします。つまり、問題児についての利害誘導ではなく、健全な親でも出て来ないのをどうやって参加させるかという意味で、インセンティブなりペナルティーを考えるかということです。利害誘導としては、例えば、健全な社会常識のある一般の親でもスピード違反や駐車違反をするので、交通違反の切符などについて点数を減らしてあげるといったことはだれでも受け入れられる問題です。これ以外にも、企業が、親子の触れ合いのために、休暇ではなくて休日を与えるとか、あるいは、参加することに対して何らかの利益を与える。要するに幅広い意味で言っています。出て来てみれば非常に役に立つことは分かっていて、一生懸命やっている先生もいるのになぜ足を運ばないのか。何とか運ばせる方法を考えるとよいのではないかという意味で、非常に幅広く、参加しようという気を起こさせるものを考えられないだろうかという提案です。
 もう一つ、幼児からの親子の触れ合いが大事だと言われており、義務教育の年限を、例えばもう2歳ぐらい引き下げ、しかも父親や母親なりが必ず出てくるものを与える。これも一つの参加の利益誘導です。資力のある人は高価な幼稚園に通わせるし、共働きの家庭ならば託児所に預けたりするでしょうが、義務教育がなぜ今の年齢でなければいけないのかという点について踏み込んでみてもよいという気がします。
 交通違反の点数が減るというモチべーションで出て来ても、勉強しようという意欲がなければ意味がないです。それから義務教育の低年齢化ですが、現在都会では4歳、つまり学齢に達する2年前に約90%の子どもが幼稚園もしくは保育園に行っています。そういう現実があるのに、なぜ義務教育を引き下げなければいけないか。
 私が言いたいのは、そこに父親を参加させたいということです。
 結構参加しています。運動会などすごいです。
 ならば、今のような父親と子どもの乖離という問題は起こらないはずです。
 大多数の親は問題ないのです。
 すると、問題のある者をどうするかという問題を考えなければいけない。
 ですから、問題がある人は出て来ないのです。
 問題がある人をどうやって出すかという問題があるわけです。問題がないところは出てこないからオミットしていい、あと大多数は問題ないならば何もやらなくてもいい。けれども、今のままではおかしいというのがもともとの発想で、では何がおかしいかというと、まさに問題のある人が出てこないのをどうするかという問題になるのではないでしょうか。
 家庭教育学級などは参加者が少ないというお話がありましたが、専門の方は、学校教育に対して家庭教育という言葉をごく普通に使っていますが、親にとって家庭教育は少し堅苦しいイメージがあります。専門家と一般の親の家庭教育のイメージが懸け離れているのではないかと思います。家庭教育懇談会なども内容はいいのですが、家庭教育という言葉を変えたり外したりすると参加者がだいぶ増えると思います。開催のお知らせもプリントが多いですが、もっと目を引く、親に行こうかと思わせるような工夫が足りないのではないか。広告の手法を取り入れ、自治体の広報紙などにお知らせを載せるのも、小さな広告ではなく、イラストを入れたり人目を引くような工夫をして、多くの方に行ってみようと考えさせる工夫は幾らでもできると思います。
 今の参加の問題については、行政としてできることは、機会、場を増やし、知らせるまでが限界だと思います。公共施設などを使ってそういう機会を大いにつくろうという話が出ていますが、例えば、ウィークデーの昼間では働いている母親や父親は参加できない。企画する人が本当に参加しやすいように考えて、大いに機会を増やし、恵まれない条件にある人でも参加しやすいやり方をし、しかもアピールするやり方で知らせていく以外ないのではないかという気がします。
 いろいろな活動をしても、問題のある人は参加しないというのは昔から議論されてきました。確かにそういう問題はありますが、無理やり連れてこようとしても効果は上がらない。どう動機づけるかだと思います。そうすると、例えば、いい話だったとか、とても参考になったというように参加した人の持った思いが、その周りの人たちにどう広がるかということだと思います。自分だけではなく、例えば母親同士で、家庭教育学級はとてもよかったという話が気軽にできる雰囲気をどうつくるか。そのことが『開かれた』家庭のポイントだと思います。母子交流や親子交流ではなく、地域社会における家族同士がお互いどのように交流し合うかという点を考え、そのための気軽に家族同士が集まって話し合える場づくりや機会づくりが非常に大事だと思います。
 もう一つは、父親をどうするかが新たに考えなければならない問題点です。すると、母子交流や母親教室ではなく、まさに親子教室、家庭交流、家族交流であるということをきちんと意識しないと、言葉では父親が必要と言いながら、実際の具体的な議論になると母親の話になってしまう。そこをきちんと整理し、例えば、母子交流という言葉を使わず、むしろ親子や家族という言葉を使うということから徹底しないと、意識改革はなかなかできないと思います。
 さらに、確かに親をもう一度教育し直すのは非常に難しい問題ですが、では子どもをどうするか。その子どもを育てるのはやはり親なのです。すると、親にどうするかと言うよりも、あなたの子どもをどう育てるかという視点で考えることで親の意識、やり方を変えていく。親に、こうしなさいではなく、あなたの子どもをどうするのかという観点でアプローチしていくことが必要ではないかと思います。
(『開かれた』学校教育に向けた改革に関連するもの)
 次に、『開かれた』学校教育に向けた改革について御意見をお願いします。
 教師の問題をどう『開かれた』という形で出していくか。
 例えば、任期の設定や、5年置きに教員としての適性に関する審査を実施するという問題は大きいのではないか。つまり、本当に教員として適性かどうかという教員の資質の問題は、現場から見てとても大きな問題で、それをどうクリアしていくかが論点としてあるのではないか。今は、不適格でも採用されてしまえばずっと雇用された状態で、それに対し手を入れつつある自治体もありますが、それでもきちんとした形ですることの難しさがあるので、5年ごとの研修の問題や、ふるいにかけるといったものを入れていかないといけないと思います。
 教育改革の内容を実際に実施していくのは教員ですが、教員の管理システムが上に校長と教頭がいるという制度であることからすると、改革の波をどううまく現場に入れていくかは難しいです。そういう意味で、資質を変えていく、向上させる、新しい教育の在り方を浸透させる手立ては、現場にはとても大変な問題点としてあるのではないか。
 同時に、例えば、中学校における幼児との触れ合い体験や生殖学などとありますが、学校によってはこういうものを取り入れ、命の大切さや、親になる大変さ、幼児教育の重要性などについて現実に触れており、今度の学習指導要領の改訂についても、教員の意識があり、または経営上の課題として挙げれば実効性が上がると思います。問題は、教育によって、どれだけ子どもの意識を変えられるかが大事ではないか。変えられなくても、何人かでも教育によって心を揺り動かされて変わっていく子はいますから、是非行う方向で考えていかなければいけないと思います。
 さらに、ある程度の価値観が身に付いているものを、たかが3年ぐらいの教育指導でどれだけ変えられるかという課題もある気がします。
 不適格な先生に教師の世界から出ていってもらうことは、『開かれた』学校への対策の一つだと思います。今は閉じられた中で、一度教員として採用したらその世界の中だけで何とかするという考え方が強いが、そうではなく、教員の世界から出すべき者は出すのが『開かれた』学校だと考えています。教員全体の質を上げるということも大事ですけれども、今、問題なのは本当にだめな先生を辞めさせることだと思います。この先生が行くと学級崩壊になるとか、不登校児を必ず出すという先生はいると思います。ある県で、学級崩壊があったのは小中学校合わせて1万8,000 クラスのうちの14学級、その一つが中学校で13が小学校で、そのうち11は学校自身が先生の指導に問題があると認めています。マスコミなどを見ていると、学級崩壊はいかにも子どもたちが悪い、子どもたちが変わったと言いますが、日本中にある学級の2、3割も学級崩壊が起こっているかというとそんなことはなく、実際に学級崩壊が起こるのはほんの1000分の1といった確率で、それは先生に責任があると思います。その先生は先生としての能力がないと思います。学級をまとめて授業を行えない先生は辞めるべきだと思います。会社や役所なら、適材適所ということで、向かない人はほかのポストに回すとか、能力のない人を組織でカバーできますが、学校の先生は一人で生徒に向かっているからそれはできない。ですから、不適格な人には辞めてもらうしかない。これまでは、一般の公務員もそうですが、はっきりした犯罪でも起こさない限り辞めさせるのは非常に難しい。そこで、裁判官のように、最初の任期が過ぎたときに、再任するかどうか改めて考えるという制度をつくるしかないのではないか。そうすれば、先生として不適格だと認められる人間は即再任しないという形で排除できると考えました。
 学校関係者が一生懸命努力していることをあえて言うのもどうか、では何があるのかと考えまして、その一つは、先ほどの先生を辞めさせるにはどうしたらいいかということ。
 もう一つは、公的資格試験の受験資格から学歴や年齢を外したり、学歴によって一次試験を免除する制度をなくす。受験戦争と言いますが、問題は一生懸命勉強している子ではなく勉強しない子だと思います。勉強するのはいいことで、しかし高校卒業をしても半数以上は中学3年程度の学力もなく、それがなぜみんな高校に行くかというと、戦後50年間、学力はどうでもいいがとにかく学歴さえあればよかったからです。それをなくすために先ほどのようなことをすれば、問題は学歴ではなく学力となる。これまで当然と考えられてきたことを、世の中で抜本的に反省してもらうための一つの手段です。
 さらに、学校給食の話で、給食をやめると言うと父兄は全部反対しますが、それは間違っているのではないか。自分の子どもの食事はもともと親が面倒を見るもので、本来ならば学校給食は全部やめるべきだと思いますが、せめて週に1、2回は給食をなくし、子どものお弁当をつくるのは親の仕事だとよく考えてもらうという提案で、恐らく母親はみんな反対すると思いますが、反対するのがおかしいとはっきり言うべきだと思います。期待される効果としては、親の自覚を促すこと以外に、中学生の場合は家事手伝いのきっかけになる。家庭の中で子どもに役割を与えるべきというのは抽象論としてはありますが、ではどうするのかという話がない。中学生に、給食のない日は自分でお弁当をつくって持っていきなさいと言えば、台所に入って家事を手伝わざるを得なくなります。もう一つは、これまで男の子は料理しなくよかったですが、自分でお弁当をつくることで、男の子が厨房に入って将来の男女共同参画社会への推進に寄与するので、一石三鳥のいい提案ではないかと思います。
 高校生のみならず、中学校の義務教育でも、本当に就学している子と学校に来ない子との区別をきちんとすべきだと思います。ですから、中学卒業程度の学力を持っているという認定を文部省などですべきです。現状は、勉強しようがしまいが、3年経てば卒業証書を出さざるを得ない。今までの登校拒否は心身症絡みの子が結構多かったですが、最近は怠学が多いのです。要するに、朝起きるのが面倒だから学校に行くのをやめ、教員が朝電話を入れてもまだ寝ているということを繰り返し、親も義務を怠っていることを考えますと、その者を本当に卒業をさせなければいけないかをもっとフリーに考えた方がよいのではないか。
 高校進学も学歴にかかわることではなく、本当に何がやれるようになるか子どもに努力をさせないといけない。7〜8年前の中学生の数よりも3分の2に減っている状況の中で高校に進学するので、ほとんどフリーパスで、勉強しなくても高校に行けます。それでいいのかもっと現実的に見ていかないといけない。中学校で、学問や知識を身に付けさせ、いい資質を育てるということをしなくても、子どもは楽に卒業し、高校にもほとんど行ける。この辺りから抜本的な対策を考えていく必要があるのではないか。
 中学を卒業するとき、来なくても証書を与えるのではなく、本当にきちんと通って努力した子とそうでない子を区別すべきです。そして高校は全入でいいと思います。でも、どれだけ学習したかを見て卒業させるといった何らかの方法を採らないと、だらしなく、いいかげんな子どもをますますつくるような気がします。
 非行の子どもは、家庭のことなどで心が満たされないまま非行に走りますが、次の大きな問題は、勉強する気もないから学校で落ちこぼれてしまい、そうした場合の行き場所がないことです。今、非行については、小学校高学年で既に悪いことを相当している状況で、そういったことを大人が把握することが必要と思います。大人が随分緩やかな目で見るため、子どもは自分のいる場所が見えない。頭のよい子はしっかり勉強してよい方向へ歩いていきたいが、頭がよいことを見せられず、逆に成績なんてそんなによくないと自分を隠さなければならないのは、いじめられるからです。子どもは機会は均等ですが努力によって結果は差があると認識できていないと思います。ですから、できる子には勉強なんてしていないという顔をさせず、一生懸命やったからこれだけできているというクラスをつくるべきだと思います。一般クラスがもちろんあって、どちらのクラスにも動く可能性がある。
 学校が受け入れていると言いながら、学校では何もできないような、自分の居場所がない子どもをどうするかが一番大事ではないかと思います。つまり、今のように高校中退が12万人以上となると、その子たちをどこへ追いやるのかということになる。
 そして、職業も視野に入れないといけないと思います。その子たちは大学に行ってサラリーマンになるのではなく、いろいろな分野で働いていくので、その職業を視野に入れた教育です。例えば、地域のいろいろな職業の方に教育に携わってもらい、教室で教えたり話をしたりする。子どもは作文を書き、言葉にして先生に理解してもらう。先生がそれを感じたときは点数が加算されるが、いいかげんなことを言っていたら加算されない。自分の努力次第だと子どもに分からせ、このまま逃げていたらだめになる、努力しようという気にさせる。そういった教育が具体的に考えられれば、子どもたちが世の中の中心から外側にはじかれていくことが防げるのではないかと思います。
 先ほどの資格試験の話は、勉強できない子を排除するのではありません。学歴ではなく学力が問題となれば、小学校のときから能力別、達成度別の学級編制を考えざるを得ないと思います。勉強についていけないのが非行の始まりなので、まず学校の中で居場所をつくる。そのために、学校が楽しく、勉強が分かる状態にすべきで、今の、分かる子も分からない子も同じように教えるという平等主義への反省につながると思い提案しました。勉強ができない子を排除するのではなく、勉強できない子も学校の中で親切に教えてもらい、必要であれば落第するとすべきではないかという考えです。
(青少年のための「時間づくり」に関連するもの)
(その他)
 次に『開かれた』人間関係、社会関係を実現するための時間を確保という時間づくりその他のことについて御意見をいただきたいと思います。
 現実に子どもたちの時間づくりは非常に難しいし、できないと思います。今の子どもは猛烈に忙しい。学校から帰ってきて、塾や稽古事に行かなければいけない。週刊の漫画を読まなければいけない。テレビも見なければならないしテレビゲームの時間もつくらないといけない。テレビゲームより友達と遊ぶ楽しさの体験など現実離れしている発想です。子どもの現実の生活を把握した上で言わないと意味がないと思います。
 戦後、我が国の教育が変わってきた中に叱らない教育があります。子どもが悪いことをしても叱ってはいけない。それに対し、賀川豊彦が、子どもには叱られる権利があると言っています。これは叱り飛ばすとか殴り倒すという意味ではなく、子どもには悪いことをしたら叱ってもらえる権利がある。戦後、叱ってはならないという風潮が非常に強かったですが、必要に応じて、叱り飛ばしたり、殴ったりではなく、本当に子どものためを思って叱らなければいけないという視点が、今後あるとよいと思います。
 平等主義、安全主義を採り過ぎず、子どもにきちんと教える、叱る、場合によっては体罰を加えてもいいのではないか。学校で運動して怪我をすると父兄が文句を言うので、先生が余り過酷な運動をさせないというように、余り安全過ぎるとしつけが悪くなるので、昔に戻るのは難しいかもしれませんが、ある程度の体罰も認めてもいいのではないか。極端な場合には、それぞれの学校の委員会などでチェックはできると思います。余りに先生や学校が臆病になり過ぎているのではないかと思います。
 私は学齢期に入った子どもの体罰は反対です。幼い時期に、例えば危険な道路に出たときに母親がぶって、これは命にかかわることだと教えるのは重要な体罰として必要だと思います。しかし、学齢期に入ってからは、言葉で分かり合って物事を解決していくことを学ばなければならず、ぶつことでは解決できないし、心の傷をつくると思います。
 叱られる権利ということは、子どもがよくなるように叱るという意味で、叱り飛ばすとか、体罰を与えることは考えていません。
 先日の第二部会で、酒・たばこのテレビコマーシャルや自販機の問題など、有害環境・行為の規制に関する法律をつくり統一的にしたらどうかという御意見がありました。また、以前、青少年立法があってしかるべきではないかという御意見もありました。私も現在の有害環境規制ではうまくいかないので、青少年立法を考えてもいいではないかと思います。戦後50年、各省庁が青少年の健全育成や、教育その他の施策に関して努力してきましたが、それらを包括的にまとめたらどうか。青少年育成の基本的理念とは何なのか、あるいは社会の責任や、総合的な青少年対策はどうやるか、また青少年育成国民会議などの外部の民間団体はどういう位置づけになるかといった事柄をまとめた青少年立法もあってよいだろう。今回の審議会でそれをどうするということはないのですが、戦後50年経った今、各省庁が各分野で努力してきた部分を包括的に捉えるという方向性を打ち出すべきではないか。そういう事柄が今度の答申の重要なポイントになってもいいと考えています。これは大変大きな問題ですから、これから皆さんの御意見を伺うと同時に、企画委員会、総会で御検討いただき、方向付けができればと思います。御意見がございましたらお願いします。
 社会環境の改善というのは現実離れし過ぎていると思います。例えば、酒とたばこのコマーシャルの禁止と言っても、社会通念として大学生になったら飲んでいます。大学生はよくて大学に入らない者はだめなのか。それから、性行為の描写なども、ある調査では、男子高校生のほとんどはアダルトビデオを見ています。それから、アメリカでジョンソン大統領の頃に、ポルノグラフィーに関する委員会でポルノが有害か検討され、ポルノは有害でないという答申が出ています。
 青少年や子どもが、酒やたばこをいたずら半分に飲んだり吸ったりすることは構わないと思いますが、それを社会が容認していると思わせるのがよくない。社会は容認していないと示すにはどうしたらいいか。例えば、大人が子どもに注意できるような雰囲気にするためにはどういう手段があるか。世の中はそういうことはよくないと思っていると示すには、コマーシャルもなくし、自販機でポルノ雑誌も買えないようにするべきです。
 今、パソコンで無料でポルノが入手できます。
 自分で努力してやるのはいいです。自販機は、社会的な制約を感じずに、お金さえ入れれば出てくる、そこが問題です。買うときに何らかの心理的な抵抗があるべきです。
 たばこを吸うことはいけないと周りが教えることは必要だと思います。また、家で吸ってもいいが外に行ったらだめだと言う親もいます。本当にいけないということが大人自身の感覚から麻痺してきているのではないかと思います。
 さらに、自販機の問題もありますが、今はコンビニにある少女漫画がひどいです。コンビニも確かに店員から買いますが、何も話さなくても本を出してお金を払えば済みます。ですから、具体的にこの本はだめだと、きちんと指摘しなければいけないと思います。例えばPTAに近くのスーパーなどでどんな本が並んでいるのか見てもらい、これはいけないというものを具体的に挙げてアピールするという行動を起こしていかないといけない。親が認識するだけでも違う。どんなものが出ているか大人は知らないと思います。
 コンビニでバイトしている学生に調べさせたら、レディース・コミックなどは大人がかなり買っているようです。
 大人が買ってもいいですが、その大人も子どもにはやはり見せたくないと思うでしょう。ならば、子どもに見にくいようにすべきだと思います。
 援助交際をする子たちの性に対する感覚は、別に減るものではない、お互いにプラスになっていいではないかという感覚が蔓延していると思います。やる、やらないは別として、大人が規制しないといけない。
 確かに、大人が、子どもたちに見せたくないものをどうするか考えなければならない。
 一方で、商売にしている人はそれを売らなければならないので、なくなることはないと思います。子どもは無菌状態では育てることはできない。とすると、菌の中で、子どもが強く、それを乗り越えて、自分でどんな生き方をしていくか選択しなければなりませんが、ただ放っておいても子どもの選ぶ力は育ちません。これは本当ならば親が教え、話し合うべきと思いますが、親が頼りにならないので、やはり教育でしょう。
 今、日本だけではなく世界的に、暴力と薬物、性的なものについて人間はどうあるべきか、先を見越して子どもに伝えていく役割を私たちは持っている。今までは大人の背中を見れば子どもは分かったかもしれませんが、これだけ情報があふれたときにはきちっと向き合って、 決意を持って子どもたちに伝えていく教育が必要ではないか。例えば、暴力はいけないというのではなく、命がどれだけ大事か、そして人とかかわり、言葉で話し合って分かり合うことがどれだけ大事かという教育を、なるべく早い段階で行い、子どもと向き合っていく必要があると思います。
 我々の仕事は提言をすることで、修身の教科書をつくることではないのではないか。
 例えば、たばこを吸ってはいけないという決まりがあるのにこの程度ならいいとか、人の傘や自転車くらいは盗んでもいいというように、境界線が曖昧になっている。ですから、規範意識をきちんとするにはどうしたらいいかという原点で出発しました。とすると、ここで提案されている酒・たばこのコマーシャル禁止などは、もう一度、身近なところから決まりをきちんと守ろうという警鐘としての意味合いはあると思います。道徳のみならず、法律さえ曖昧になっているものがある。それを大人たちが、寛容と言うか許してしまっている。それはいけないと言うことを説教以外のアプローチとして政策や教育という形で出せるかということだと思います。こういった形でまとめさせていただいてよろしいでしょうか。
 最後に、今日の審議全般、今後の進め方等で御意見ございますでしょうか。
 先ほどの教員の資質の問題で知りたいのは、アメリカ・カリフォルニア州でこの1年、教員保証制度というものをしたことです。教員保証制度とは、学校から送り出した教師がよくなければもう一回学校に戻し、間違いなくいい教師を再度送り直すというもので、1 %だけ教師が戻っているそうです。
 もう一つは、社会の容認の中に、例えばヘアヌードの本を場所をわきまえて見ることなど、グローバルな発想で改めて言わなくてはいけない時に来ているのではないかと思います。
 全般的な問題として、従来日本の青少年に対する対応は、こうしましょうという進め方が多かったと思いますが、いけないことはいけないと言う。それが先ほどの青少年立法にかかわるかもしれないと思います。若い18〜30歳くらいの女性で、おかしいと思うような人に話をするときでも、よく話すと分かってくれます。だめなことはだめと余り言ってもらえなかったという経験を打ち明けられるので、いけないことはいけないと、筋を立てていくことも大切で、その中で規範意識などを青少年が分かってくるのではないかと思います。
 先ほどの教員の問題で、総体的に日本の教員がとても優秀であるのは事実で、しかし、学校全体の面から考えると、水がこぼれてくるというくらいの状況だと思います。
 本日の検討はこれまでにいたします。3月30日火曜日15時から、審議会総会を開催することになっていますのでよろしくお願いいたします。その際、検討状況の報告は私が行いますが、その内容に関しては、本日の議論を整理し、企画委員会等で検討した上で報告させていただきます。



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