子ども・若者育成支援推進点検・評価会議(第15回)議事要旨

議事次第

  1. 日時:平成27年10月2日(金)15:00~17:00
  2. 場所:中央合同庁舎4号館共用1202会議室
  3. 出席者:
    (構成員(五十音順、敬称略))
    相原佳子、明石伸子、植山起佐子、奥山眞紀子、川邉譲、古賀正義、定本ゆきこ、高塚雄介、谷口仁史、花井圭子、原田謙介、宮本みち子
    (内閣府)
    安田貴彦大臣官房審議官(共生社会政策担当)、石田徹参事官(青少年企画担当/青少年支援担当)、村田達哉参事官(青少年環境整備担当)、藤澤美穂参事官(子どもの貧困対策担当)、小山浩紀調査官、小泉智明参事官補佐
  4. 概要:
    (1)子供の未来応援国民運動の展開について
     最近の動きとして、資料1に基づき、藤澤参事官(子どもの貧困対策担当)より、子供の未来応援国民運動の展開について説明した。説明の主なポイントは以下のとおり。


    ・子供の貧困対策に関して、10月1日から国民運動が始動。
     (これまでの経緯:平成25年6月 法律成立、平成26年8月 大綱策定、平成27年4月子供の未来応援国民運動発起人集会にて趣意書を採択。)
    ・国民運動始動に際して、国民運動を企画立案・推進していく推進事務局が設置され、またシンボルマーク、キャッチフレーズが決定。国民運動の展開としては、
     1子供の未来応援国民運動ホームページの開設
     2子供の未来応援基金の創設
     がなされ、今後、さらなる充実を図って取組を進めていく。

    上記の説明に対する構成員からの質問及び指摘事項とそれに対する藤澤参事官からの回答は以下のとおり。
    • 募金の目標金額や事業プラン(予算など)について。  
      ⇐現時点で、募金額の目標金額を設けてはいない。また、子供の貧困関係施策としては内閣府も広報・啓発を中心に取り組んでいるが、厚生労働省や文部科学省といった他省庁でも生活支援や学習支援などに取り組んでおり、来年度に向けてさらなる施策の充実を図るべく概算要求しているところ。
    • URLが「kodomohinkon.go.jp」では後ろ向きな感じなので、例えば「子供未来」で検索するとこのホームページがトップに出てくるなど、前向きなイメージで広報できるように工夫を。
    • ホームページが狙いに則したものになっているのか、一定期間をみて検証、分析もしつつ、もっと魅力的なページにしていくと良いのでは。  
      ⇐閲覧状況やいろいろな意見も踏まえ、今後ホームページの必要な見直しはやっていきたい。
    (2)新たな大綱の理念等について
     まず、事務局より、資料2について、前回の議論で出された意見等を赤字で追記している旨説明。
     資料3については、新たな大綱の理念や重点課題について、各構成員より提出のあった意見をまとめたものであり、それを踏まえて、今次の会議では、まず(1)理念について議論を進める旨、宮本座長より確認。
     資料3に係る議論の内容は以下のとおり。

【「1.子ども・若者の最善の利益を尊重」についての議論】
  • 定本構成員
     子ども・若者の最善の利益を考慮する、発達段階に応じた最善の利益、とありますが、いろいろな個々の発達段階や問題に応じて、その人にとっての最善の利益とは何だというところを正しく見ないといけないと思うのです。
     なので、私は、まず子供の発達段階における状態像とか、その時期の課題とか、そういったものを大人や社会が正しく知る、正しく理解するということが、必要なのではないかと思うのです。その時期の子供にはどんなことが大切で、どんなことが害になるのかということを大人や社会がちゃんと知っている。そうすれば、おのずと正しい方向に進むと思いますし、その時期の子供の発達をしっかり守るにはどういうことが大事かということが、おのずと出てくると思うのです。
     よく言われるメディアの害の話とか、生活リズムの話とか、そういうことも、この時期の子供にはこういうことが大事だということを社会が正しく知っていなければいけない。つまり、個人、親も知らなくてはいけないし、企業も知らなくてはいけないし、政治も知らなくてはいけない。正しく知ることがまず一番だと思うのです。子供自身の発達段階に応じた意見というのも大事なのですけれども、やはり弱い子供というのは自分を大人以上に知っていないので、子供の意見というのも発達段階を考えて、大人がそれを翻訳しないといけない場合も多いと思うのです。
  • 奥山構成員
     ここの「発達段階に応じた意見の尊重」というのが、いろんな捉え方をされてしまうのかなと思います。発達段階に応じた意見を出せ、みたいな感じにとられてしまうので、多分、小さいお子さんであれば、今おっしゃったように、ある程度ニーズを大人が捉えて、擁護しなければいけないという部分もあるでしょうし、だんだん発達してくれば、子供としての意見というのが言葉として出せるようになってくるのかもしれません。その辺を両方含めて、発達段階に応じたニーズや意見というものを大人がいかに捉え、尊重していくかというところが重要なのかなと思いました。
     このように、ニーズをしっかり捉えるという意味では、やはり発達段階をよく知ることも重要なのだろうと思いました。
  • 植山構成員
     つけ加えまして、最善の利益という言葉がいろいろな意味にとられていて、実は要対協の現場などでも意見が食い違うということがありますので、この最善の利益がどういうものであるのかという共通理解ができるような何らかの文言も盛り込めたらなと考えます。
  • 宮本座長
     最善の利益の解釈が現場では結構対立するということですけれども、どんな形で対立するか、お話しいただけますか。
  • 植山構成員
     例えば、家庭に保護義務者が同居していない児童生徒を近隣に住む保護義務代理者が見ているという形は、私たちは正常ではない、健全ではないと思っているのですが、その状態を本人たちも望み、その親族というか代理者も望んでいるのであるから、それがその子たちにとって最善の状態であるというような判断をされる場合があって、一例ではそんな感じなのですけれども、子供が主張するからとか、関係者、親族が主張するからという理由では、実は保護義務の適切性を判断できないと思うのです。これは一体誰がどの基準で判断するのかというところで、かなり現場でもめていますので、そこを少し明確にできたらなと思っているわけです。
  • 相原構成員
     今の御意見ともしかしたら少しずれてしまうかもしれませんが、離婚などの事件のときに、お父さんのところか、お母さんのところのどちらを選択すべきか、子供の意思を尊重すると、それが子供の本当の利益にはならないのではないかというようなことがあります。家庭裁判所、調査官、代理人たちも悩んだりするときがあるわけです。結構そういうときになって、最善の利益を考えたときに、子供の気持ちはこちらにあるかもしれないのだけれども、どう考えてもそちら側が養育することは適切ではないだろうというようなこともあるわけです。
     ただ、それであったとしても、とりあえず本人の意思はきちんと聞くし、尊重する。けれども、こうこうこういう理由でというようなことを説明し、手続を経る必要があります。そのときは納得しないかもしれませんけれども、きちんと聞くことは聞くのだと。もちろん幼児はちょっと違うかもしれませんけれども、それこそ年齢に応じて、無視するのではなくて、聞く。
     そういう意味で、ここでの尊厳というのは何なのかといったら、やはり自律と自立。自分で律するというのと、自分で立つという意味の見方があるかと思います。子供の場合、自分で決めるということの内容について、情報をちゃんと得られ、それに対して検討し、自分で判断するとかといういくつかの要素があるうちの、ちゃんと情報を集められているかどうかとか、本当にそれを冷静に考えられるかというところに関しては、先ほどの擁護ではないですけれども、まだまだ十分ではないところがあります。その上で、子供の意見を聞くというのは、本人が本能的に思っていることを100%聞けという話では全然ないというところをわかりつつ、ただ、最初から、おまえにはこれがいいのだとだけ頭ごなしに言うのではなくて、丁寧にくみして、そして、いや、それは違うのだよということを徐々にやっていくという姿勢が必要なのかなと思います。
     私が今やっている離婚とかそういう場面における子供への対応で、子供の手続代理人とかが家事事件手続法で割と明確に定められたりしていることは、その方向性を示していると思っております。
     したがいまして、話がもとに戻りますけれども、最善の利益というときには、子供の意思とか子供の気持ちは尊重するのだけれども、そこで丁寧にいろいろな条件等を考えて、例えば父親が覚醒剤をしているとかいろいろな問題があったときは、どう考えてもそちらの保護環境はよくないと。だけれども、それをどのようにきちんと、年齢にもよりますけれども、説明していくかというところをきちんとやるべきです。これがずれてしまうと、後々ものすごく悪影響を残してしまうと思っています。
     したがいまして、尊厳と言うときの子供の何をもって最善の利益と言うかというところに関しては、そこの発達とか年齢というところに関してもう一度、お仕着せがましくやるのではなく、かといって子供の意思だけを尊重して、それがひとり歩きするのではないというところを、微妙なところなのですけれども、丁寧に対応していただければと思います。
  • 奥山構成員
     おっしゃるとおりだと思います。今までの社会の中で子供たちがきちんと説明を受けてこなかったということがあるので、やはり年齢に応じた情報が与えられるということが非常に重要なのではないかと思うのです。医療の世界でも、医療手技に関して、どんな小さい子供でもきちんと説明をしてから医療手技をするということがだんだんなされるようになってきて、そこの重要性というのがやっと理解されてきた段階にあると思うのですけれども、子供に応じてしっかりとした情報が提供されることというのが重要なところになるのではないかと思いました。
  • 谷口構成員
     実際に現場の中で起こっている問題は、まさに今御指摘いただいたところなのですね。要対協だけではなくて、さまざまな協議会が出てきて、支援の方針というのは非常に大きくずれてくる。それは専門性だけではなく、同じ専門家でも経験によって随分変わってくるものです。特に虐待とか、そういった養育問題に絡む問題でみると、そのときは不適切な養育環境と認められたとしても、実はそれが貧困から脱却する、あるプロセスの段階で、一時期は離れて暮らすしかないという状況の御家庭だってあるでしょうし、多面的に見れば、実際にそれを保護する保護者だけではなくて、おじいちゃん、おばあちゃんが手伝ったり、あるいはもっとさまざまな人たちが関与できる、アクセスできるような状態で子供を支えているという状況であれば、その判断が変わってきたりと、こういったところは非常に難しい価値基準が出てくるのだろうと思うのです。
     そういう意味でいくと、この最善の利益というところの観点は、生涯にわたってという長期的な視点が非常に必要になってきます。そうしないと場当たり的にその場の感情であるとか状況に周りが振り回されてしまって、結果、子供の将来、成人した段階で大きな後悔をしてしまう。あるいは保護者、虐待で引き離されてしまった親御さんが相当に恨みつらみを重ねてしまって、社会に背を向けてしまって、より孤立が深まってしまう。こういった御家庭もあるものですから、そういった点は慎重に判断しなければいけない。そういう意味でいくと、いくつかの条件を付す、ある意味最善の利益というところになるのだろうと思います。
  • 宮本座長
     今、ほぼ重要なキーワードが出てきているかと思います。最善の利益というのは何となくわかったような形でひとり歩きしますけれども、最善の利益を構成する重要なキーワードがいくつかあって、今お話に出た十分な説明とか十分な情報提供、かつ、生涯にわたる子供の利益を長期的に見た上での正しい判断とか、そのあたりの組み合わせの中での最善の利益だということで、それは一般的には年齢段階によっても大分違うというようなあたり、ここをうまく組み合わせて、つくっていくことになるかと思います。

    【「2.子ども・若者は、大人と共に生きるパートナー」についての議論】
  • 古賀構成員
     私個人として思っているのは、参加・参画というか、やはり子供たちが実際に大人と同じような、ある種の役割を担いながら、共同で作業する場面というのがもう少しあってもいいのではないかと思っています。お互いがともに活動する方法論を具体的に学んでいくという作業がないと、絵に描いたような話だけのパートナーになってしまわないかなと思っています。
  • 宮本座長
     この話はややもすると何となく道徳教育みたいなものがあって、頭から教義が降ってくるみたいな、それで何一つ身につかないというところがあるわけですけれども、多分、今の古賀構成員のお話は、そうではなく、実際にできるだけ現実の社会の中で何かを一緒にやることを通して学んでいくというような、そのあたりだと思います。
     
  • 明石構成員
     私が一番ひっかかったのが、実はここのパートナーという言葉だったのです。子供と若者は、それぞれ年齢も、そのときの状況も環境も違うはずだと思うのです。一般に子供というのは未成年で、保護され育まれる存在であって、若者というのは、もう少し社会参画をするために自立をするというところをサポートし、支援していかなくてはいけない対象だと思います。つまり、子ども・若者というのはなかなか一括りにできないところもあるのではないかと思うのです。もちろん、子供と若者を一括りに考えなくてはいけないこともあるでしょうし、次の大綱として、より実効性のあるものを求めるのであれば、それぞれ個別に、もう少し細やかに、子供に対してはどうすべきか、若者に対してはどうすべきかというようなところまで少し踏み込んで考える必要があるのではないかと思ったのです。
     そのきっかけが実はこのパートナーという言葉で、本当に子供は大人のパートナーなのか、と思ったわけです。若者はパートナーになり得る存在かもしれないけれども、子供というのは、まだ大人がしっかり見守り育まなくてはいけない存在であるとすると、それぞれの対応の仕方というのは違うのではないかと思ったのです。
     ですから、次の大綱に向けて理念というところを考えるのであれば、以前のものから進化させるという点では、そのあたり、もう少し踏み込んだものが記載されてもよいのではないかと感じています。
  • 宮本座長
     パートナーという言葉について、これが妥当かどうかということですね。子ども・若者というと、年齢幅がかなり広い対象を指してパートナーという言葉であらわしているわけですけれども、本当にそうなのかという話ですね。
  • 定本構成員
     私もそのことで、少し気になったのですけれども、私は臨床で、子供が子供らしく生活できないというか、機能が非常に不全状態になった家庭の中で、子供があたかも親のように、大人のように、むしろちょっと病的な親の親がわりをしたり、それから、父親のDVのことで悩んでいる母親のパートナーのように振る舞うことで、余計ゆがんでいくというか、健康が損なわれる例をよく見ます。やはり子供はその年齢相応の子供らしい生活を送ってもらうということを踏まえていただいた上で、理念にも記載していただきたいなという感じがします。パートナーという言葉だけが走ってしまうのはどうかなと思いました。
  • 奥山構成員
     そういう意味でも、パートナーという言葉を残すかどうかはともかくとして、ここで谷口構成員や古賀構成員が上のほうでおっしゃっているように、インクルーシブだというところは非常に重要なのではないかと思うのです。排除をしない。全てのどんな子供でも居場所があり、生きがいがある、そういう参画ができているのだというような社会ということが非常に重要なところになってくるかと思いました。
  • 谷口構成員
     先生方のお話にございましたように、やはり子供というのは非常に不利な条件がさまざまあるわけです。自己実現しようとしても、その手段自体がまだ備わっていない、こういう条件で大人と対等というところでは、やはり難しい。これはあくまでも、それだけに大切に尊重しましょうという意味でのパートナーだと思いますので、そういう意味でいくと、子供たちにちゃんとそれなりに、不遇な環境にあってもそれを脱却するための手段であるとか方法をしっかりと社会が整えていくことを前提としたパートナーということであれば、それは一定機能するのだろうと思います。
     今回の大綱に向けた先生方のこれまでの数十回にわたる議論の中で、共通する思いというのは、やはり理想だけではなくて現実をどう変えていくのだというところに非常に集約される意見が多かったのだろうと思うのです。そういう意味でいくと、理想として掲げつつも、現実とのギャップをどう埋めるのか。社会問題として指摘されているものがあれば、それをしっかりと解決するといったところに資するような大綱の方向性を、しっかりと責任を持って示していく必要があるのだろうと思うところです。
     そういった意味で、この意見の中にも書かせていただきましたけれども、まず、どんな境遇であっても見捨てない。それをしっかりと明確に打ち出す中で、それを実現するためには手段が必要ですから、その手段というのを、専門性であるとか、政策であるとか、そういった体制、仕組みといったところでしっかりと担保していく。こういったところの姿勢がこの中で打ち出していければいいのだろうと思ったところです。
  • 川邉座長代理
     皆さんのお話を聞いて、もっともだと思っているところでございます。
     理念の部分なので、やはり言葉の問題はとても重要で、言葉遣いは慎重に検討しなければいけないと思っております。
     そこで、もう一つ、ポツの一つ目で「子ども・若者と大人が相互に尊重」と書いてございます。この「相互に尊重」というのは、格好いいというか、建前としてはとてもいいのですけれども、相互に尊重するためには、実は大人のほうが先に子供を尊重しなければ、相互の尊重は生じません。それは1番のほうも同じなのですけれども、先ほど明石構成員がおっしゃったように、子供は見守り育む対象なのであるという基本スタンスを大人がきちんと持って、大人のほうから先に手を差し出す、気を使うのだという理念がやはり最初にどんと置かれなければいけないのではないかと考えます。
  • 相原構成員
     現大綱の理念において、パートナーという言葉が用いられたのは、多分、子供が大人からすると未熟な存在で、上から下にいるものを見ているような存在ではないのだよという趣旨だと思います。つまり、先ほどの尊厳に戻るのですけれども、あくまで尊重すべき同等の価値ある人なのだよという意味でパートナーというのを言葉として選ばれたのだろうなと思うのです。ですから、先ほど谷口構成員も言われたように、パートナーという言葉自体がそういう意味で使われるのであればおそらく良いのだろうと思います。ただ、それがそうではなくて、子供に対して、本来十分な手当てをしなければいけないのに、いきなり同等に置いて、ちゃんと責任を果たせよみたいな、そういう認識であるとすれば、こちらの大人の手抜きではないか、となるわけです。変なところで持ち上げて、対等だみたいな形で責任を押しつけるというのは、ちょっと適切ではないのだろうというのは全く同感です。
     そこら辺は非常に微妙なのですが、親がいて、親権者がいて、親権者が居所指定等も含め上から下にいろいろなことが決定できるのだという存在ではなく、個人として尊重すべき人なのだという意味もきちんと残しつつ、先ほどの育むという姿勢もうまく書き込んでいただけるといいのかなと思いました。
  • 宮本座長
     大体整理していただいた、その微妙なところをどう表現するかの問題ですね。
     尊重に関しては、EUなどの文面で見ると、例えば尊重というときには、子供や若者の持っている創造性とか批判的思考力を社会は社会の資源として尊重しなければならないとか、そういう文言がついていたりして、単なる一般的尊重であるとか、単なるパートナーであるというような曖昧な言い方をしていないのですけれども、ちょっとそのあたりは工夫をする必要があるだろうと思います。
  • 安田大臣官房審議官
     私ども事務方の議論としても、パートナーという言葉は果たして本当に適切かどうか、ちょっとざっくりし過ぎているのではないかと考えております。相原構成員の言われるように、おそらくこの言葉を使われた最初の意味合いとしてはそういうことだったのだろうと思うのですけれども、今になって見てみると、これで本当に正確に、例えば大人と子供、大人と若者という、その関係性を適切に表現しているかどうかという点で、ちょっと疑問を感じている部分もございますので、何かもっと適切な表現があれば、改めるように検討してまいりたいと思いますし、またお知恵をいただければと思います。
  • 宮本座長
     大体御意見は出ているかと思いますので、次回までにまた表現を工夫するということにしたいと思います。

    【「3.自己を確立し社会の能動的形成者となるための支援」についての議論】
  • 古賀構成員
     非常に気にしているのは、自己肯定感というと、何かすごくポジティブシンキングみたいにとられかねないのかなという点です。ここはそういうことではないのではないかなと思いますので、やはり社会に参加できるという自分の像を持てる、あるいは役割を担えるという意味だと思います。そこをきちんと言っていただけると、まず前提としていいのではないかなと思います。
     それから、すごくたくさんのことができる人のイメージばかりではなくて、自分のやれることが小さくても、それは社会にとって一つのパーツを構成することなのだという感覚はすごく重要になるのではないかと思います。つまり、排除されずにいられる状態というか、そういうものへ着地できるような具体的な言葉を出していくということが必要ではないかと思いました。でないと、能動的形成者というのはすごくいいのですけれども、能動的ではなさそうだという人は非常に悩んでしまいそうなので、その辺の緩やかな表現が何かできないかなと思いました。
     
  • 定本構成員
     この表現も、私については、あまりにも反対の人ばかり見ているので、例えば自尊感情や自己肯定感を育み、自立した個人としての自己を確立できていないしということとか、自分の力で未来の社会をよりよいものに変える力は全然変えられないと思っているし、自分はだめな存在だ、自分はいいところがない、といった無力感というか、そういう感じの若者が多くて、これは漠然とした書き方をすると、すごく現実味を感じないのですね。
     それよりもうちょっと現実的なことを言うと、もう少し自分のよさとか、あとは全体的な何でもできる人ではなくていいので、だめな自分とかできない自分ばかりの経験ではなくて、ちょっとでも自分のよさを知って、自分なりでいいから、自分なりの進路や自分なりの社会の立ち位置を見出していけるくらいに、もう少しハードルを下げていただきたいというか、そんな気がするのです。社会をよりよいものに変えるとかはちょっと高過ぎる感じがして、いかがでしょうか。
  • 宮本座長
     能動的形成者といったときには、強者の論理が働いてしまうといけないというところがあって、でも、それ自体も重要なことではありますので、いくつかの多様な参加・参画、役割というあたりのところが出ればよろしいのではないでしょうか。

    【「4.子ども・若者一人一人の状況に応じた総合的な支援を、社会全体で重層的に実施」についての議論】
  • 谷口構成員
     ここにも書いておりますけれども、実際、これまでの施策は公の側からの発信というところで情報提供する、その中でアクセスしてもらうということだったのですが、これではやはり弱いなというのが、この5年間で社会問題として随分出てきたのです。例えばいじめによる自殺であるとか、虐待の死亡事件もそうですが、やはり積極的に働きかけていくという段階、まず公の立場としてはそれを打ち出していく必要があるのだろうと思います。つまり、待ちの姿勢で来ることを前提としているわけではなくて、ちゃんと積極的にアプローチをしていくということ、これを姿勢として打ち出す、これは随分浸透してきていると思います。だから、そこはまず明確に打ち出すということ。
     もう一つは、子供たちが抵抗感なくそういったさまざまな窓口や制度にアクセスをしていくという体験を学校にいる間にやっておかないと、おそらく、いざそうした状況に陥ったときに、そういった窓口などを頼るということが非常にしづらいのだろうと思うのです。
     そういう意味でいくと、小学校のころから必ず月1回は誰かに相談をするとか、そういったところを授業とか体験活動の中で取り組んでいくとか、カウンセラーとの距離を縮めるような活動もやっていかないと、せっかくいい施策が打ち出されていたとしても、利用率が低かったり、といったことも出てくると思いますので、資料にありますような意見を、書かせていただいたところでございます。
  • 宮本座長
     ここに書かれていることは理念の部分ですので、理念として言ってみると、ここは社会的包摂にかかわる理念ですね。その理念を5年前よりもより一層強化した形で社会が包摂型の社会になるのだというようなことは理念として掲げ、具体的にどうするか。教育の強化とか、その他、社会的な諸機関をどうつくるかとかいうのは、おそらく個別施策のほうに入ってくる可能性がありますね。そこはちょっと整理する必要があると思いますけれども、とにかくこの4.のところで理念として、社会の中から落ちこぼれていく子ども・若者たちをつくらない、そういう取組をこの社会としてやらねばならないということをここでうたうということかと思います。
  • 奥山構成員
     「総点検の総論における関連する記述」というところにあるのですけれども、重層的なというのはいいのですが、年齢的に縦につながるということも重要ではないかと思うので、そこをぜひ入れていただければなと思います。
  • 宮本座長
     生まれてから成長するまでのプロセスがきちんと包摂型の仕組みになっていることとか、そのようなことでしょうかね。

    【「5.大人社会の在り方の見直し」についての議論】
  • 定本構成員
     これに関しても、大人がその責任を自覚して、子供のモデルとなるように努めるという一文が現代には強過ぎるというか、私が接する親たちというのは本当に不安が大きくて、子育て不安とか子育て迷いというものが責任を感じている人ほど不安が大きい。だから、この辺が、大人社会の見直しということであれば、母親たちの孤立とか不安を改善して、抱え込まない、孤立しないような支援ということをもう少し強めて、責任を持っている人、物を考える人ほど不安が大きくなって、不安が大きくなり過ぎて責任を放棄するという感じになるので、もう少し、書きぶりを変えられたらなという感じがするのです。
  • 相原構成員
     この部分の書きぶり、これを否定することは誰もできないと思うのです。全員がこのとおりだとうなずくと思います。
     では、これが具体的にどういう場面で生きてくるのかというと、イメージとして出てこない。今、定本構成員がおっしゃったように、理念として書くのだからどうしても抽象的になるというのであれば、こういう言葉になるのでしょうけれども、どうしても実務家的な発想をしてしまうので、では、これを見て誰が何をするのだろうと考えてしまいます。理念だからきちんとうたっておきたいという発想であるならば、このように置かれるのかなと思いますが。
  • 石田参事官
     実は私どものほうでも、理念として、現行の大綱でもそうですし、その前の大綱にも含まれる大人社会という言葉、これは何を意味しているのだろうという議論になりました。表題としては挙がっているのですが、各論の施策になりますとあまり中身が出てこないというところもありますので、まさに御指摘いただいたとおりでございまして、そもそも理念に大きく掲げる必要があるのかなという話も含めて、また次回御議論いただくことも可能なのかと思っております。
  • 奥山構成員
     今、お2人がおっしゃったこととほとんど重なるかもしれないのですけれども、例えば児童福祉法も「児童」福祉法なのですね。本来は子ども家庭福祉法ぐらいの位置付けなのだろうと思います。そうでないと、例えば母子生活支援施設というものがあるのですけれども、あれは児童の施設なのです。母親の支援ということがもともと含まれてはいない。やはり子供を取り巻く家庭とか親をいかに支援して、そういう子供を支えられる状況にするのか、あるいはもっと言えば、支援者支援といいますか、学校の先生たちの支援とかを含めて、こういう状態に大人が子供をうまく支えられる社会にするような支援をどうしていくのかというところも考えたほうがいいと思います。
  • 谷口構成員
     資料に書いておりますように、一億総批評家からの脱却を図ると書いておりますが、やはり我々大人社会というところ、これは抽象的ではありますが、我々が自覚をしなければいけないというのは姿勢としては必要だと思うのです。相互作用で社会は成り立っているわけですから、虐待の問題だって延々とたどっていけば、我々一人一人の生活の問題だったり、社会の構成の仕方の問題だったりするわけで、そういう意味でいくと、一人一人が責任を自覚して行動するということが大事だと思うのですが、この大綱で理念を示しつつ現実を変えていくというところに着眼するのであれば、そこの中でモデルを示すということができない人たちもいるのであれば、少なくともできることを、身近な人に手を差し伸べるとか、補い合えるであるとか、助け合えるとか、本当にシンプルなところを示していく必要があるのだろうと思います。それを積み重ねることによって、社会としてはすごい力になっていくわけですから、まずは身近で誰かを支える、そういったイメージの理念もここに組み込んでおくと、そのギャップを埋める一つの手だてになるのかなと思っております。
  • 宮本座長
     そうですね。ここはややもすると、必ず親が責任を果たしていない、もっと自覚せよという空理空論があっちでもこっちでも出てくるようなテーマなのですけれども、今、御意見いただいたように、大人がみずからの責任を果たせるような支援の体制とか社会環境整備というようなことをもっと入れていかないと、全くの空理空論の道徳論になってしまって何の意味もないことになりますね。ちょっとこのあたり、これから工夫する必要があるかと思います。
  • 明石構成員
     私はここもすごくひっかかったのですけれども、現状、大人社会のいろいろなひずみが子供の社会に影響して、今の子供たち、若者たちがいろいろな部分でドロップアウトしたり問題を抱えているというようなことではないかと思うのです。大人社会を健全化するというのは必須のことではないかと思うのです。それは、今の状況を全く否定するわけではないけれども、現状がよくないというところから始まって、なので社会の改善に取り組む必要があるという一文を入れるか入れないかによって、理想論だけの文言なのか、それとも現状に根づいた理念というような印象を受けるのかというのは変わってくる気がするのです。
     ですから、やはり大人社会の見直しというのは絶対不可欠なことであって、これを今後の大綱の中ではもっと強化してもいいのではないかという気が私は個人的にしております。

     資料3に関して、議論の続きを次回行う。

    (3)構成員からのご発表
    【高塚構成員ご発表】資料4
  • 高塚構成員
     私は、臨床心理士として仕事をしております。過去40年ほどずっとやってきましたが、臨床心理士というと、いわゆるカウンセリングをやっている人間というふうに理解されていますが、必ずしもそれは正しくないのです。カウンセリングはもちろんやりますけれども、それ以上に、その背景に何が起こっているのか、特に心理的な変化というものを追求し、さらに、そうならないための予防策として何が考えられるか。そういうことを検討していくのが臨床心理士でございます。今度、国家資格として公認心理師ができましたので、そちらのほうに業務が引き継がれていくわけですが、決してカウンセリングだけを専門にしているわけではないということです。
    (スライド2)
     私は、そういう中で、いわゆる精神衛生学という観点から、今の問題行動であるとか、悩みの背景に何が起こっているのかということをずっと追求してまいりました。精神衛生学というのは、実は精神保健とかメンタルヘルスとは少し違う視点になるのですね。これは私と一緒に精神衛生学会を立ち上げました土居健郎が常々強調していたのですが、人間の心のあり方というのは、その社会の持っている文化であるとか価値観によって大きく左右される。そこを無視してしまってはいけないということであって、特に精神衛生の問題というのは、時代の流れの変化が激しいときに、その時代の流れに乗り急ぐ人と乗りおくれる人のほうにひずみがあらわれやすい、そういう認識でいるわけです。そう考えてみると、現在、日本の社会の中に起こっているさまざまな問題行動や心理的変化の背景に、日本の社会が文化や価値観において大きな変動を遂げている、その影響というものを無視できないわけです。
     大多数の人間というのは、時代が変わって文化が変わっても、その文化に乗っていくことができます。おそらく8割方はそうだと思います。しかし、1割から2割の人間というのは、いつの時代でも、その変化の流れに乗りおくれるか、あるいは乗り急ぎ過ぎていろいろな問題を起こしやすい、そういう認識でおります。
    (スライド3)
     では、日本の文化はどのように変わってきているかというと、まず一つは、日本の「甘え」文化というものが急速に失われているという、つまり「甘え」否定の文化がどんどん進行していることですね。その結果、いわゆる互助とか共助という、日本人がもともと美徳として持っていた感覚が急速に失われています。かわって強くなっているのは、いわゆる自助・自立という感覚です。これは決して間違ってはいないと思います。それは時代の流れとして、当然そうなるべきだろうと思います。しかし、そのことがどういうひずみをもたらしていくかというと、自分の弱みを他人に見せることにものすごく抵抗がある。そして、基本的に人を信頼しない、人に頼れない心性というものが徐々に強くなってきて、私がずっと見ているひきこもりの若者の大半はそうです。
     つまり、甘えることができない。それは裏を返せば、小さいころから甘えさせてもらえていない。そのことが大きく影響している。だから、ある意味では自助感覚が強いです。しかし、それがまた問題行動にもつながって、そのことを我々は見落としてはいけないと思っています。
     ちょっと話がずれますけれども、最近、若者の自殺がふえています。私は、自分のところの学生たちとよくその自殺についてのディスカッションをすることがあります。そうすると、最近、学生たちの中からこういう意見が出てきます。自殺は自己決定権の一つである。大事な自己決定なのだから、自殺をすることを悪いとは言えないのではないか。だから、それをあえてとめるということはいかがなものか、そういうことを言う学生が出てきているのですね。これはえらい世の中になってきたなと私は思いました。つまり、自殺も自己決定権の一つであると。
     そう考えてみると、例えば数日前に三重県である事件が起こりました。高校生の女の子を同じ高校生の男子が殺したと。しかも、それは、マスコミで伝えられている限り、その女の子がそれを望んだからという。それは、意識としては自殺の心理ですね。それもまた今の若者が自己決定権の一つだという考え方とどこかでつながっているかもしれない。あえてそれにすぐ応じてしまう若者の心理というものも、またこれは問題なのですが、今の若者はそういう変化を起こし始めている。
    (スライド4)
     次の文化の変化で大きい問題は、今の社会というのは「抑圧」否定の文化です。つまり、抑圧するのはよくない。だから、「自分のやりたいことをやればいい。」あるいは「嫌なことを無理してやらないでいい。」これはむしろ、親が子供に対してそういうことをしきりに教えます。下手をすると学校の先生もそれを教えている。その結果、今の若者は、自己実現とか自己肯定というものにこだわりやすいです。ただ、その裏返しとして自己否定感というものが強くなっている。最近いろいろな調査をやると、今の若者には自己肯定感がないとか、そういう結果が報告されている。しかし、それを裏返せば、本当は自己肯定をしたい気持ちが強いのだけれども、そうなっていない自分にいらだっている意識ではないかと思います。
     課題としては、抑圧というのは無意識のうちに起こることですけれども、それにかわるものとして抑制、つまり、意識的に自分をコントロールする感覚というものを育てることが必要だと思うのです。しかし、残念ながら、今の教育はその抑制の力を育てることにはなっていない。
     その結果、どういう事象が起こっているかというと、少しほかの要因も絡みますけれども、最近、ストーカー事件というものを起こす若者がふえている。あれなどを見ると、抑圧も抑制も全く育てられていない。そういうところから起こっている問題として認識することができるのではないかと思っています。
    (スライド5)
     三つ目の課題を考えると、今の社会というのは言語化することを大事にしています。これも決して間違ってはいない。今までどちらかというと日本人はあまり言葉にしなかった。その結果、誤解も生まれるし、特に世界的に見ると、いろいろな問題が起こりやすい。ですから、いわゆるグローバリズムに対応できる能力として言語化というものを促している。これは教育の大事な柱になっています。あるいは企業が採用するときの条件にもなっている。これも先ほど申し上げたように、8割方の人間は対応しています。しかし、1割から2割の者には、これが苦痛でしようがない。特に発達障害の人などは、それを要求されれば要求されるほど難しいですね。
     しかし、必ずしも発達障害だけがそうではない。普通の人間であっても言語化をすることが苦手な人間とか、そういう人間はいます。でも、下手をすると、そういう人間は学校での先生の評価も低くなってしまう。あるいは周りの人間からのいじめの対象にすらなりかねないところがあります。特に日本の教育の一つの問題点は、教育はみんなを同質化するというある種の幻想にとらわれている。つまり、同じことを教えればみんなが同質化すると簡単に思っていますけれども、果たしてそうなのだろうか。個性化ということを本当に考えて教育がなされているのだろうかと、私は疑問に思うところがあります。
     この中でも特に課題となるのが非言語的な世界を読み取る力で、今の若者はこの力が弱くなってきている。日本は昔から「察し」の文化と言われています。つまり、言語化されない心の世界というものを読み取る力が強かったのですね。ですから、日本では、あえてカウンセラーなどを必要としない社会だったのです。みんながカウンセラーになっていた。日本人の感受性の高さというものもそこから育まれていたのです。
     私は、アメリカでなぜカウンセリングがこんなに発達したのだろうと思ってアメリカのカウンセラーと意見交換をしたことがあります。そうすると、アメリカはやはりもともと言語化優位の社会であって、自分の思いをちゃんと表現できないと周りからは無視されてしまう。つまり、置いてけぼりを食っていく社会になる。そういう心の世界をきちんと受けとめる役割としてカウンセラーが必要だったのだと、そういうことを言われました。したがって、アメリカのカウンセラー訓練の第一歩は感受性訓練なのですね。つまり、人の言葉にならない思いの世界をどうやってキャッチできるかという、それをキャッチできた人間をカウンセラーと呼んだわけです。
    (スライド6)
     日本人の感受性が失われてきたことから内情のことを言えば、他人の心を思いやる気持ちが、やはり減衰しているということを残念ながら言わざるを得ません。今まで申し上げてきた視点というのは、時代の流れからいえば当然だし、それが間違っているとは言えません。ただ、やはりその背景にあるのはアメリカ型の文化といいますか、アメリカ型の価値観が根強いことを私は感じざるを得ません。例えて言えば、若者の問題行動に対して、精神医学界で一つの基準として用いられているものが二つあります。一つは、ICDと言われる世界保健機構が定めた基準です。ドイツやイギリスなどでは今でもこちらのほうをどちらかというと重視されています。それでは若者の問題行動に対して非社会的行為という定義をしています。つまり、社会化されていないがゆえに起こす問題行動であるから、これは教育的に矯正をしなければ治らない。
     一方、もう一つ最近重視されている基準は、アメリカによるDSMという診断基準があります。その中には、同じ行動を指して、反社会的行動障害という指摘をしています。アンチソーシャリティーというのですね。アンチととるか、それともディスソーシャルと捉えるかによって対応は全然違ってきます。日本の現状を見ますと、例えば少年法の改正などを見ても明らかにこの反社会的、懲罰的矯正というほうに日本の流れは傾いています。本当にそれでいいのだろうかというのを私は常々感じています。
     特にパーソナリティー障害ということが最近は非常に重視されています。もちろん、パーソナリティー障害というものがあることは私も重々承知はしていますけれども、あまりにもこれが拡大解釈され過ぎているところがあるのではないか。何でも病気扱いにしてしまう、障害扱いをしてしまう、そこに一つの大きな課題がある。
     つまり、多くの若者、全体像として言えば、やはり時代の流れに乗っている。その時代が要求する文化に忠実であるといってもいい。でも、それに乗れない若者が現実に存在している。その典型が私はひきこもりであると見ています。
    (スライド7)
     今の若者に要求されている教育課題というのは、今お話し申し上げたように、コミュニケーション能力を高めること、対人関係構築能力を高めること、課題達成能力を高めることとなっています。これはいろいろな教育課題として行われています。特に最近、キャリア教育で重視されているのも、この三つの課題ですね。ところが、皮肉なことに、キャリア教育をやればやるほど、ひきこもる若者がふえていくという現実も存在しているのです。つまり、キャリア教育に乗れない若者が現実に存在している。
     では、そういう若者を誰がどういう形でフォローするかということも、もっと考えなければいけないのではないか。つまり、これをやることはいいことなのだと。例えば言語化にしたって、決して悪いことではないですね。間違っているとは言えない。自分で嫌なことは嫌、だめなものはだめと言えるにこしたことはない。でも、いくらそれを要求されても、それができない若者が現実に存在しているというのは、もう少し別なアプローチを考えるべきではないかと思うのです。
    (スライド8)
     教育の包括的課題というのも、これは昔から、知育・徳育・体育という三つの課題が言われています。知育というのは、生きるための知識や技能の習得。徳育というのは、道徳・倫理・規範・生命の尊重。体育というのは、健康な心身の育成。かつての読み書きそろばんを重点的に行う義務教育の時代とは違って、今、この教育課題を全て学校が担おうとすることには、そろそろ限界が来ているのではないかと思うのです。
     必ずしも学校というところでやらなくてもいい課題というものはいっぱいある。それをむしろ学校外教育として拡充していくことが必要ではないか。例えて言うなら、ドイツにおけるフォルクスホッホシューレというものがあります。これもちょっと下手をすると、ヒトラーユーゲントといって昔の問題につながりやすいですから、うかつには取り入れられないのですが、しかし、やはり学校外教育の充実、これはもう既に20年ぐらい前の生涯学習審議会でちゃんと定義しているのですね。ところが、それがゆとり教育の裏返しとして論じられたものですから、例のゆとり教育廃止の流れとともに、学校外教育に対する関心というのは急速に薄らいでいってしまった。
     しかし、私は、やはり学校教育に全ての教育を集中させるのではなくて、学校外教育、もっと言えば社会教育というものを充実させることによって、今起こっている問題のかなりの予防策は講じることができるだろうと思っています。
    (スライド9)
     福祉の課題としては、これはもう皆さん御存じのとおり、そこに書かれているような問題があるわけです。
    (スライド10)
     両者に求められるのは、それぞれの分野が課題としているものが支障なく実現されているのかどうかの把握であって、例えば個別要因としては、成育史とか、性格とか、心理とか、あるいは病理ということになるとカウンセリング的な対応が求められる。それに対して環境要因を把握するのはケースワーク的対応ということになります。
     以下、いくつかの図面を描いておきましたから、それはまた御覧になってください。
    (スライド14)
     「なぜ連携が求められるのか」というところを御説明します。
     ケースワーカーとしての対応と、カウンセラーとしての対応の違いと接点は何かを明確にすることが必要です。例えて言えば、今、学校社会では、スクール・カウンセラーとスクール・ソーシャル・ワーカーとが置かれるようになっていて、ところが、専門的な、あるいは我々のように関心を持っている人間はその両者の違いがわかるけれども、一般市民から見ると、スクール・カウンセラーとスクール・ソーシャル・ワーカーと何が違うのかよくわからないというのが真相です。その結果、いろいろなトラブルも現実に起き始めています。学校の中でスクール・カウンセラーの見解とスクール・ソーシャル・ワーカーの違いが表面化したり、あるいは同じ生徒をめぐって取り合いすら起こっているようなところもあるのですね。やはりこれは、スクール・カウンセラーというのはどういうことをするのであって、スクール・ソーシャル・ワーカーとは何であるのか、そういうことをきちんと意見交換しておく必要があると考えます。
    (スライド16)
     子ども・若者育成支援ということについて、行政の責務としては、時代の変化に適応できない者にどう対応していくかが重要であって、俗に言う弱者への対応施策が重要である。それからもう一つ、先ほどから申し上げているように、学校教育に集中しがちな教育、これは同時に育成の課題と見ていくわけですが、もっと分散することが必要ではないか。
     私は、いくつかの事例を非常に重視しています。例えば、つい数年前に実は閉鎖されてしまったのですが、伊藤忠記念財団というところが東京に東京小中学生センターというものを開設していました。これは経済界が率先してお金を出して、運営していたのですね。それから、今は川崎市の子ども夢パークがあります。これは川崎市が設置し、運営は民間が行っています。そこで学校外教育というものを非常に重視しているわけですね。その中にフリースペースえんという民間団体が、例えばフリースクールみたいなことをやっているわけです。
    (スライド17)
     教育と育成の連携を可能にする組織運営をするためには、やはりこの辺で新しい行政部局を設置することが必要ではないかと私は考えています。
     それから、先ほどちょっと言い漏らしましたけれども、日本の社会というのは一般に行政の縦割り組織というのがネックになっていると言われています。しかし、私は、それ以上に問題なのは、専門家同士がきちんと連携できていない。みんなある意味では自分の専門性にこだわって、その中で自己完結的に動こうとする。そういうところに一つの大きな課題があると思っています。
     例えば、私は東京都の児童福祉審議会にいて、児童虐待死の検証委員というものをずっとやっていました。その検証をやっていくと、各地に子ども家庭支援センターを中心とする連絡協議会というものがつくられてはいるのですが、組織はできているけれども、そこにかかわっている人たちによって、みんな意見がばらばらであって、それをうまく統合させることができない。なぜ統合させることができないかというと、みんな自説にこだわってしまうのですね。それから、ほかの人の仕事をあまり評価していない。だから、どうしても、ではあの人がそこまで言うなら、あの人に任せておけばいいよということに結論が落ちついてしまう。これではいくら連携組織をつくっても意味がないと思っています。だから、もっと専門家同士がお互いに意思疎通をよくして連携するようなことが必要です。
     その結果、例えばロンドンでも、日本で言う精神保健福祉センターに相当する組織の長は、実は臨床心理士なのですね。医者ではない。同じように心の問題にかかわるのだったら、誰が長になってもいいではないか、そういう考え方がむしろ行き渡って、日本にもやはり早くそういう時代が来るようにしていくことが非常に大事だと思っています。

    【古賀構成員ご発表】資料5
  • 古賀構成員
     お手元に追加で三つ資料をお配りしました。一つ、白表紙になっていますが、これは東京都での中退者の調査の結果のまとめたものを教育社会学会というところで出した紀要でございまして、お時間のあるときに見ていただければと思います。
     二つ目、こちらは、東京都が子供・若者計画というものをつくりました。これの取りまとめを私はちょっと手伝わせていただいていまして、「社会に参加し、社会を形成する若い力を育む」という副題、これは私がつくりまして、認めていただいたりしたのですが、このような形で、後で章立て等も見ていただいて、中身はホームページから見ていただければと思います。
     それから、きょうお話ししたいと思っていることの資料として一番直接的に関係するのは、東京の地域教育というパンフレットで、1ページめくっていただきますと、ここに進路を支援する地域ネットワークという図が出ております。福祉領域、教育相談領域、就労領域、若者支援領域を全部この進路支援というところへ特化させて、くっつけていくという一つの事例になっています。都立高校でこのようなものを導入してみようということに今なってきているということで、一人一人の状況に応じた総合的な支援の事例として、高校での進路指導とか進路選択というところがちょうど一つの標的としてはいいのかなという形になっております。
     こういう図を描く背景の問題として、先ほども理念の議論であったのですが、一人一人の状況に応じた総合的支援という問題が非常にクローズアップされてきている。一人一人の状況が実はかなり違う。きょう、パワーポイントでお示ししているものも「困難な若者の特性に見合った支援を学校を起点としたネットワーク組織から考える」。学校を使うのですが、学校でやるのではない。学校は単に窓口だというやり方をしようということです。
    (スライド3)
     きょう、先に事例として御紹介しようと思っているのは、進路未決定卒業者と言われる人たちの層に関する調査の結果です。実は中退についてはいろいろなところで取り上げられているのですが、隠れた大きな問題群として、この進路未決定卒業者という層がございます。
     ここからはパワーポイントも少し見ながらやっていきますが、よく言われるように、浪人とか家事手伝いとかを除いて進路が決まらなかった、もちろん進路が決まれば何でもいいというものではないのですけれども、そういう層がありまして、この層を、ここ10年来ぐらいで東京都も数字として明示的に出すということになっています。文科省の場合は、進学も就職もしていない者という形になりますので、あるいは一時的な仕事についた者ということで、浪人とか家事手伝いが入ってしまいますが、こういったくくり出しというのがだんだん細かく行われるようになってきているわけです。
     何でこれを問題にするかということなのですが、実は、もう皆さん御存じかと思うのですが、高校を卒業してから就職する人はほんの一握りになろうとしているのです。十数%全国でいるかなと。東京の場合ですと、大学・短大に進む人が何ともう7割になろうという、もう7割の前ぐらいまで来ているわけなのですね。非常に進学者層が多くなってしまいまして、あと、専門学校も非常に拡大しているものですから、実は就職という人たちの層は非常に小さくなってしまっているわけです。
    (スライド8)
     もっと言い方を変えますと、就職が難しくなる方向になってしまっているのです。つまり、今の進路未決定者という人の話は、今までみたいに、ちゃんと考えないし意思が弱いから未決定になってしまったのだというような、いわば高校にはレベルがあって、レベルの低いところでちゃんと学校にかかわろうとしないから、不適応だからそうなってしまったのだという議論とちょっと違って、今日では、パワーポイントにも出しましたけれども、いわゆる高等教育段階がマス選抜と言われるように非常に拡大していってしまっているものですから、こういう中での高卒就労の非常な困難という問題がこういう人たちを襲っていると考えなければならなくなってきてしまっているのではないかと思っているわけです。
     実は、就職しようと思った人の層が、この未決定になるという流れになってしまっていて、いわゆる専門学校進学とかで進学のほうへ転向することで進路の選択を少し先延ばしするという形にしかなれない現状が、特に高校の場合はランキングみたいなものがあるものですから、いわゆる低い層の学校には見られるようになってしまっているわけです。
    (スライド9)
     ちょっと今そんなことで、実は高校を中退した人と一緒に、この進路未決定だった人も調査をしたのです。
    (スライド10)
     卒業後の進路を見ていただきます。上の欄が進路未決定者の卒業後2年以内の進路で、下が中退者ということですが、就職口や進路先を持たない人たちという未決定の人たちと中退者とは、あまり進路構成が変わらないのですね。つまり、未決定ゾーンの人たちも、学校とか職場というものを持たないという点では実は宙づり状態で、そういう意味では支援を非常に受けられない状態の人たちと考えられるのかなと思えるわけです。ですから、もちろん中退の人たちもあれなのですが、こういう層の人たちもいる。
     これは、ちょっと今、飛ばしてしまいましたけれども、文部科学省のデータなどで言えば、10%ぐらいの層に当たってしまうのですね。そういうことで、こういう層の人たちがなぜ生まれるのかを、調査を通して見てみようというのをやってみたわけです。
    (スライド12)
     いくつかポイントがあるのですが、大きなポイントは12ページの結果かなと。いろいろなものがもちろんあるのですが、ちょっと簡単にしています。
     進路未決定の人と中途退学の人、インタビューも重ねて両方ともやったのですけれども、進路未決定の人たちは、中退をした人に比べると、友人の支援に恵まれているという条件が非常に見られるのです。つまり、学校の中で友達とのかかわりとか対人関係についてはあまり困らなかったと言っていて、これが卒業できた大きな原因になっているみたいだということがわかるのです。つまり、変な言い方ですけれども、友達関係を大事にしていくということができていたので、卒業に至れるような学校の居場所感が生まれていたらしいということです。もっと言い方を変えますと、小さな友達関係を重視していると、学校は卒業できるという、ちょっと極端な言い方なのですが、そのような感じになってしまったのかなということです。
     これは逆に、中途退学の人たちがむしろそういうものを失ってしまってやめる分、非常に自分に責任があった、自分が悪かったという言い方をするのとちょっと違う質の理由づけになっているのです。
    (スライド13)
     その未決定者の人のインタビューを次のページに出しておいたのですけれども、彼らが言うのは、中退の人たちが、自分が選択する進路というものがどうもうまくいかなかったとか、学校が自分に合わなかったとかという言い方とはちょっと違って、こういう言い方が多いのです。「3年生になっても、その延長で、やらないままどんどんどんどん来て、それで、ああ、はい。いや、ずっと何もやっていませんでした」という、タイミンがつかめないままに進路決定の時期が通り過ぎていった、タイミングが見えないということを訴えるのです。つまり、いつ、何の段階で意思決定がなされるべきなのかがわからなかったと言っているのですね。
    (スライド14)
     つまり、こういう人たちの多くが、対人関係の資源があったから卒業できているのだけれども、進路を決めるための条件、あるいは友達同士との内側の関係に重きを置くことによって外に向かう力を見失いがちだという傾向があるらしいということがわかります。
     実は、この進路未決定者がたくさん出る高校と中途退学者が出る高校というのは非常に一致していまして、東京都のデータでもこれがほぼ相関してしまうのですね。ですから、全く違う層の人たちではありながら、似たような課題の中に入っていく人たちが2層いるらしいということが見えてくるわけです。ですから、中退者と未決定者というのを分けて考える必要がありそうだと。
    (スライド15)
     未決定者について、なぜ未決定者が生まれるか、追跡調査をするということをやりました。15ページからです。
    (スライド16)
     簡単に言いますが、未決定者が生まれやすい学校というのは、中退が生まれやすい学校のタイプと非常に相関していまして、進路多様校と言われるようないわゆる普通科の全日制の学校で、ちょっと低いと言われる学校群に非常に生まれやすいことや、あるいはエンカレッジとかチャレンジというものが東京にあるわけですけれども、入試をしないのですが、特色を持って指導している非常に丁寧な指導の学校群、こういうところに生まれやすいということがありまして、こういう層の人たちがターゲットということになります。
    (スライド22)
     いくつかあるのですけれども、データは飛ばしてしまいまして、結論のところだけ先に。
     今、お話ししました未決定者が生まれやすい学校に行って調べてみると、就職をするという人たちは、まず一つ、家かその近隣に職場を希望して、非常に周りの条件の仕事場、家に近いところを探す。それから、進学をしたいという人たちは、実は学校であまりもう教科学習を3年次にはしておりませんで、面接の練習とかソーシャルスキルのトレーニングというかコミュニケーションの問題にウエートをかけていて、専門学校に進学した理由としては、勉強したい現場の専門的知識が習えるからというような言い方になっています。
    (スライド23)
     ここにありますけれども、進路未決定の人たちは、非常に最初は就職指向で、その後、挫折して専門指向にするのだけれども、試験の時期、あるいはその実施されるタイミングに一つ一つ乗りおくれていくということになりまして、実に進路未決定者の約6割は、進学の受験も就職の試験も全く受けていないという現象が見て取れるわけです。つまり、選択行動をしないで進路未決定になってしまっているようだということで、友達関係に支えられてはいるのだけれども、こういう進路決定のいろいろなタイミング、あるいは進路決定のいろいろな活動に全く参加できていないらしい。しかも、それはタイミングがずれて一つ一つおくれてしまっているらしい。最初は就職したいと思っているけれども、それがなかなか形にならない人たちだと見られるということがわかります。
    (スライド33)
     そこで、こういう人たちのいろいろな社会特性を見てみたわけですけれども、実は、進路未決定の人たちというのは、階層的な面でほかの大学生に比べてネガティブだということはあまり見られませんで、学校が行ういろいろな実践に積極的に参加しない、あるいはその価値が見出せないと言っている人がすごく多くて、いろいろな課題や問題を助けようと思っている活動にうまく入れないままの人たちが非常に多い。
     さらに、友人関係とかアルバイトとかは意外に自負があるのだけれども、自分らしさとかというところの自信は非常に低いし、社会マナーが守れるなどというものは非常に低いしということで、外の社会に対して自分を訴えることが非常に苦手な人たちらしいということがわかります。
    (スライド36)
     そういうことで、こういう人たちに援助者が介入していろいろな活動をやっていく、特に外の世界を見てもらう、仲間関係の内側世界を離れる世界を見てもらうということがないと、どうもなかなかこういう人たちが進路決定の中に入っていってくれないのではないかと思われます。
     そこで、狭い若者の世界から社会参加の方法の理解をできるようにということで、先ほど最初に御覧いただきました都立高校の進路支援ネットワークというようなものを立ち上げて、こういう人たちに働きかけをしてみようということをやり始めています。
    (スライド38)
     特にどんなポイントにいわゆる乗りおくれ現象を解消するポイントを置いているかということですが、一つは、学校をプラットホーム化して、いろいろな人たちに入ってきてもらって、今までのいわゆる進路支援のイメージよりも広い範囲のいろいろな活動にかかわってもらおうと。福祉、相談、就労、いろいろなものを、いろいろな場、例えば職業能力開発センターとかにも入ってもらって、見てもらおうというような活動をしているということです。
    (スライド39)
     ここでは、できるだけこういうネットワークを形成するのに3層を大事にしようということで、実務者間のケース的な、いろいろな課題を持った子供のケースに応じた会議をすることと、中間者レベルでお互いの役割を調整するところ、それから、もっと管理者のレベルで制度的な、縦割り的ないろいろな要素があるものを調整するところと、3層のことをやってみようということを試みています。
    (スライド41)
     特に非常に重視しているのは、まず、高校1年生で入ってきたときに、インテークと言われる作業を丁寧にして、どんな問題を抱えやすい人かというのを、先ほどのようなパネル調査を1年から3年までやったわけですが、ああいうパネル調査の傾向から見出しながら、インテーク作業をして、ここでいろいろな相談の窓口を置いて学習してもらおうという作業をしています。ここに入ってくる高校の人たちの状況に応じて、いろいろな支援の比重を変えてみようという、インテークとワンストップという支援の形をつくり出そうとしております。
    (スライド45)
     ちょっともう飛ばしてしまいますけれども、もう一つ重要なことですが、先ほど見ていたような人たちは、中退する人たちとはちょっと違う条件を持っているのですけれども、中退をしているような人たちの場合、特に家族の問題が強く出てくるのですが、しかし、こういう進路未決定の人たちについても、アウトリーチをできるだけかけてみようと。家族とともに進路選択について考えてもらうような時間を用意しようということで、こういうプログラムを出していく。これは今、谷口さんのを使わせてもらって張っていますけれども、そのようなアイデアを出しております。
    (スライド49)
     ちょっと結論的なことですけれども、海外のことについて触れたスライドなどもありますが、後ろに言っていただいて、どうも今まで中途退学者のような問題はすごく鮮鋭に見えていて、未決定者のような問題は見えにくかったのではないかなと。問題の性格が大分違うぞと。つまり、今もお話ししましたように、非常に狭い仲間関係とかに比重を置いて暮らしているうちに、進路というものが見えなくなってしまう、あるいは社会生活のいろいろなパターンが見えなくなってしまうという形の人たちなので、こういう問題の性質を持つ人について、先にくくり出して、彼らに必要な支援を選んでみようということを考えています。
     そして、できるだけこういう人たちに、もっと外の人に依存的にというか、いろいろな話を相談に乗ってもらうような機会を用意して、外の世界を広げて見てみようということで、よく私も言っているわけですが、能動的な依存をできるような体制を高校で準備して、高校を起点にしてこういうネットワーク理解を深めてみようということを考えているわけです。
     以上のように、ちょっと簡単なのですが、ずっと中退者の問題ばかり言われがちなのですが、その背後にいるこういう人たちについても網かけをした形でのネットワーク支援というものを考えてみることで、進路について、もちろん進路が決まれば全ていいとは言わないですけれども、状況の違う人についての相談のあり方をまた別に展開できるのではないかということを考えているということです。

以上