沖縄偉人伝 東恩納寛量

近代空手の産みの親

 東恩納寛量(ひがおんな かんりょう)は那覇手中興の祖といわれ、明治期を代表する唐手の大家です。また、一子相伝・門外不出という厚いベールに包まれた唐手の指導体制を変革し、時代の要請をいち早く取り入れて、1905年に那覇市立商業補習学校(後の那覇市立商業学校)で学校教育の一環として生徒に初めて那覇手の武術を指導した近代空手の産みの親です。



唐手との出会い

 東恩納寛量は1853年4月17日に那覇西村の薪売り商人東恩納寛用の四男として生まれました。生家は、山原船という小舟を所有し、本島北部や周辺の離島を往復して薪を仕入れて那覇で販売することを生業としていたようです。

 東恩納は幼少の頃から弟の五男寛修、六男寛栄と共に父親の手助けをし、生まれつき運動神経がよく、厳しい山原船での労働のおかげで抜群の体力と足腰の強さを身につけたといわれています。

 当時の那覇は、中国や南蛮、日本本土との貿易港として賑わっていました。とくに久米村は、久米三十六姓といわれる福建省出身の職能集団の居住地があり、彼らが中国から伝えた中国拳法が後に、那覇手に多大な影響を与えたといわれています。

 東恩納は17歳頃に(20歳とも)、那覇手の大家新垣世璋(あらかき せいしょう)に唐手を師事したとされています。新垣が門外不出である那覇手を東恩納に伝授したのは、薪を売りに新垣家に出入りする東恩納を見て、並々ならぬ素質を感じたからというエピソードもあります。東恩納は新垣のもとで3年間ほど那覇手を師事し、若くして那覇四町において東恩納の名を知らない者はいない程の武術家に成長しました。

 しかし東恩納はそれだけでは飽き足らず、若いうちに一度は中国に渡り、中国武術を学びたいと心に決め、ひそかに準備を進めました。

中国福建省での修行

 東恩納寛量は、1874年、20歳過ぎにようやく念願の中国(清)への渡航を果たします。渡航した年齢についても22歳、24歳など様々な説があり、また一人密航船で渡航、頑固党(親中派)の琉球王族義村按司朝明から琉球館あての紹介状を貰って福州に渡った説、琉球王家の二男尚志礼からの紹介状を携えていた説など諸説があります。

 14歳の頃、父寛用がケンカで殺され仇討ちのために武術を習得しようと、15歳の頃中国福建省福州へ渡ったという説もあるようです。

 福州に到着した東恩納は、当地の武術家ルールーコウ(謝崇祥など諸説あり)に弟子入りしましたが、言葉が不自由だったこともあり、なかなか本格的な武術の教授をしてもらえませんでした。しかし、大洪水のおり、命がけで師匠の家族を救ったことでルールーコウの信頼を得、師から本格的な武術教授を受けることになり、師範代になるほど、その技量を認められるようになったと伝わっています。

 3年後の1877年、漂流難民船で那覇に帰ってきました。東恩納が中国に滞在していた期間についても複数説があり、15年説、3年説、さらには往復の渡航期間を除くと1年4ヶ月が実質の滞在期間だったとする研究者もいます。そのため、東恩納寛量が帰国した歳も、20代から40代まで様々な説があります。

琉球帰国後

 帰国後は生活の立て直しで家業に従事し、福州での拳法の修行については一切口にしませんでしたが、福州を往来する商人たちの間で「唐手東恩納」の名が広まり、「ぜひご指導を仰ぎたい」と切望する若者が多くなったため、帰国後数年してから、東恩納は西村の自宅で武術を教え始めたのでした。

 1905年、東恩納の武術が那覇市立商業補習学校(後の那覇市立商業学校)に認められ、学校教育の一環として学生(生徒)に初めて那覇手の武術を指導するようになります。当時の商業学校の教育方針は徳育・知育・体育であったため、東恩納の武術指導は心身の鍛練として学校教育に最適と認められたのです。

 東恩納に自宅で指導を受けた門弟や商業学校で教えを受けた門弟のなかからは多くの素晴らしい人材が育ち、東恩納の唐手は那覇手と呼称され黄金時代を築きました。

 1915年、東恩納は持病の気管支喘息が悪化して、弟子達が見守る中、死去しました。

 東恩納寛量の武術は高度な巧緻性をもち、その傑出した唐手は那覇手と呼ばれ、高弟の宮城長順に継承されて沖縄の武術として発展し、剛柔流となり、現在世界中に普及しています。