栄典制度の沿革
- 勲章制度の沿革について
- (1) わが国の勲章制度の始まり
- 明治4年9月、政府が左院に対して勲章制度について審議を宣達。
- 明治6年3月、政府は、左院の建議に基づき、「メダイユ取調御用」掛を設置。
- 明治8年4月、政府は、「勲等賞牌及ヒ従軍牌制定の件」(太政官布告54号)を公布。(現在の勲一等旭日大綬章以下勲八等白色桐葉章にいたる旭日章の基となるもの。9年11月、賞牌は勲章に、従軍牌は従軍記章と改称。)
(注)左院:当時の職制では太政官は正院、左院、右院に分けられており、左院は「議員諸立法ノ事ヲ議スル所」であり、議長、一等~三等議員から構成されていた。
- (2) 勲章制度の沿革
- 明治9年、勲一等の上級として大勲位を設け、これに叙せられた者に授与する勲章として菊花大綬章を制定。
- 明治21年、婦人に対する勲章として5等級の宝冠章、旭日大綬章の上級勲章として勲一等旭日桐花大綬章、8等級の瑞宝章、大勲位菊花章頸飾を増設制定。
- 明治23年、金鵄勲章を創設。(武功抜群の者に授与。)
- 明治29年、宝冠章を5等級から8等級に改正。
- 昭和12年2月、「文化ノ発達ニ関シ勲績卓絶ナル者ニ之ヲ賜フ」ものとして、単一級の勲章として、文化勲章を制定(「文化勲章令」(勅令第9号))。
- (3) 戦後の勲章制度の推移
- 日本国憲法施行と同時に、栄典制度のうち、爵位の制度及び金鵄勲章を廃止。
- 昭和21年5月3日、閣議決定(「官吏任用叙級令施行に伴う官吏に対する叙位及び叙勲ならびに貴族院の議長、副議長、議員又は市町村長及び市町村助役に対する叙勲の取扱に関する件」)により、官吏等に対する叙位、叙勲は、新憲法が制定され栄典制度の確立を見るまで、外国人に対する叙勲及び文化勲章を除き、生存者に対するものは一時停止。
- 昭和28年9月、閣議決定をもって、生存者であって緊急に叙勲することを要するものについては、叙勲を一部再開。(同年、西日本を中心として各地に風水害が発生し、これに対し、救難、防災、復旧に挺身した功労者が多数に上り、栄典制度活用の必要が痛感されたことによる。)
- (4) 生存者叙勲の再開
- 昭和38年までの間、歴代内閣により、栄典制度の検討が試みられ、3回にわたり法案が国会に提出されたが、いずれも成立には至らず。
(その後、国家再建に特別の功労のある人々に対する叙勲の必要性、現行勲章に対する内外からの高い評価を踏まえ、歴史と伝統のある従来の勲章を基本とした生存者に対する叙勲の早急な復活に向けた検討が行われる。)
- 昭和38年7月12日、生存者叙勲の閣議決定。
(「生存者叙勲は、昭和21年5月3日および昭和28年9月18日の閣議決定により、緊急を要するものを除いて、一時停止したが、栄典制度に対する国民の期待その他の事情を考慮し、今回現行栄典制度による生存者叙勲を開始するのが適当である。」)
- 昭和39年4月21日、「叙勲基準」の閣議決定。(叙勲の対象となる分野は、国民の各界各層にわたるもの。)
- 昭和39年4月29日、第1回生存者叙勲発令。
- 以来、毎年、春は4月29日、秋は11月3日に、それぞれ発令、今日に至る。
- 褒章制度の沿革について
- 明治13年、賞勲局、意見を上申。「自己ノ危難ヲ顧ミス他人ノ生命ヲ救助セシ者又ハ孝子節婦ノ類又ハ私財ヲす捐テ公益ヲ謀ル者等ヲ賞スルニ従来金円或ハ酒盃ヲ以テスルノ成規ヲ更メ褒章ノ制御新設相成可然」
(人命を救助した者、孝子などの徳行のあった者、公衆の利益を興した者等には、諸外国の記章の制度に倣って、褒章の制を定め、終身その栄誉を保たせようというのが、この褒章制度制定の動機)
- 明治14年12月、太政官布告第63号によって、「褒章条例」を公布。(3褒章)(翌15年1月から施行)
- 紅綬「自己ノ危難ヲ顧ミス他人ノ生命ヲ救助セシ者」
(現行:「自己ノ危難ヲ顧ミス人命ヲ救助シタル者」)
- 緑綬「徳行卓絶ナル者」
(現行:「孝子順孫節婦義僕ノ類ニシテ徳行卓絶ナル者」)
- 藍綬「公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者」
(現行:「教育衛生慈善防疫ノ事業、学校病院ノ建設、道路河渠堤防橋梁ノ修築、田野ノ墾闢、森林ノ栽培、水産ノ繁殖、農商工業ノ発達ニ関シ公衆ノ利益ヲ興シ成績著明ナル者又ハ公同ノ事務ニ勤勉シ労効顕著ナル者」)
- 大正7年、紺綬褒章を制定。
(公益のために私財を寄付した者に授与)
- 昭和30年1月、政令第7号をもって、新たに2種の褒章を増設。
- 黄綬「業務ニ精励シ衆民ノ模範タルヘキ者」
- 紫綬「学業芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル者」
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