(PDF形式:371KB)別ウインドウで開きます

共生社会地域フォーラム 広島
議事録

(司会) ご来場の皆様にご案内を申し上げます。本日は受付におきまして、プログラム、講演資料、アンケートの3点を配布させていただいております。お手元に足りない資料がございましたら、係の者にお申し付けくださいませ。本日は、皆様にアンケートにご協力いただきたく存じます。皆様の貴重なご意見を承りたく存じますので、アンケートはご記入の上、お帰りの際に受付スタッフにお渡しください。皆様のご協力をお願いいたします。

ただいまより、共生社会地域フォーラムを開会いたします。本日はご参加いただきまして、まことにありがとうございます。本フォーラムは障害を理由とする差別の禁止に関する法制の制定に向けて、障害者政策委員会、差別禁止部会でまとめられた意見に基づき、幅広い国民の意見を聞き、当該法制の制定に生かすことを目的としています。

このフォーラムの模様は後ほど、ホームページに議事概要のような形で掲載させていただく予定ですので、あらかじめご了承ください。

なお、その際にはご発言者の方のお名前などを出したりするようなことはいたしませんので、あらかじめご案内をさせていただきます。

それではここで、本日の共生社会地域フォーラムのプログラムをご案内させていただきます。

初めに、本フォーラムの主催であります、内閣府の障害者制度改革担当室長、東俊裕よりご挨拶をさせていただき、その後、障害を理由とする差別の禁止に関する法制についての差別禁止部会の意見について、と題して、1時間の基調講演を行い、20分間の休憩を挟みまして、14時30分より、指定発言、フロアからの質疑応答を予定しております。

フォーラムの終了時間は16時を予定しております。どうぞ最後までお付き合いいただきますよう、よろしくお願いいたします。

それでは、まず初めに、本フォーラム主催、内閣府障害者制度改革担当室長東俊裕よりご挨拶を申し上げます。

(東) こんにちは。今日は集まっていただきまして、本当にありがとうございます。

皆さん、権利条約ができてから6年近くです。障害者権利条約は、差別の禁止という考え方をそのベース置いておりますので、この権利条約を契機に差別禁止に関する法律をつくろうとしている外国も多いのではないかなと思います。

ところが、日本では差別禁止に関する本格的な法律がありません。外国の主だったところと日本とを比べると何が一番違うのか。もちろん福祉サービスの程度はいろいろ違いあるかしれません。障害者の就労のあり方も随分違うのかもしれません。

でも、特に先進国のなかで一番違うのは何かというと、差別というものが起きた場合に、これをなくす法律、禁止する法律、そういうものがあるのか、ないのか、といったあたりじゃないのかなと思っています。

もちろん、差別の実態がなければ、こんな法律をつくる必要は全くないわけです。しかし、皆さん、障害者が自分の人生の中で、差別受けたこと1度もないという人は、僕はないと思います。やはり障害があれば、これまでそれが差別だと意識されていたかどうかは別として、本当に理不尽な扱いを受けた、そういう経験を皆さん持ってらっしゃると思うのですね。

そういう実態がある限り、これをなくしていくということは、人権侵害の問題ですから、最低限、国はこれをなくすためのいろんな仕組みをつくらなきゃならないわけですが、本格的な差別禁止に関する法律についての取り組みが始まったのは、この推進会議が始まってからでした。具体的には、2010年11月、障がい者制度改革推進会議のもとで、差別禁止部会が開かれ、そこで議論がなされることになりました。

以来、途中で政策委員会に変わりましたので、政策委員会のもとでの差別禁止部会も含めて、合計25回、議論しました。今日はその部会の部会長をしていただいた、大阪大学の憲法の先生であります、棟居先生に、どういった形で、どういう内容のものが部会の意見としてまとまったのか、これからお話をいただきたいと思います。

その上で、今日は、皆さん方のいろんな意見を拝聴して、法制度に結び付けていくことができればなと、そんなふうに思っているところです。

そういうことですので、私の挨拶はこれくらいにして、早速、棟居先生のお話をいただければと思っています。よろしくお願いします。ありがとうございます。

(司会) 内閣府障害者制度改革担当室長東俊裕よりご挨拶申し上げました。

では、続きまして、基調講演、「障害を理由とする差別の禁止に関する法制についての差別禁止部会の意見について」と題し、障害者政策委員会差別禁止部会部会長棟居快行様よりご講演をいただきます。それでは、よろしくお願いいたします。

(棟居) どうも、こんにちは。棟居といいます。本日はお集まりいただきまして、まことにありがとうございます。

お手元に概要という、何ページですかね、34ページまでうってありますけれども、これは項目ごとにページ数がうってあるので、実際にはもっと短い、こういうのをお手元に配布させていただいています。

これは内閣府で、先ほどもご紹介いただきましたように、この差別禁止部会の意見という意見書、これを9月にまとめまして、これは内閣府のホームページから障害者政策委員会に入っていただければダウンロードできます。本日お配りをしておる資料の2ページ目にも書いておるのですが、できれば紙でお手元で見ていただければ、もっとよかったと個人的には反省しておるのですが、お手元にこの意見書そのものがないという前提で、しかし、私はこういうカンニングペーパー持っておりますので、これは、今、カンニングペーパーというような、委員の皆さんにちょっと失礼な言い方をしましたが、100時間かけて議論をして、そのエッセンスを、全員一致の結論ということでまとめた、我々の汗と涙の力作であります。

これをさらに煮詰めたというか、要点を短く拾ったのが、今、お手元にお配りをした、この横に長い冊子であります。

さらに、私はこれを今日1時間、これから、使ってですが、100時間分の議論を1時間というわけですから、いかに、鍋でいうと底のこびりついた、焦げたみたいなところの話になるかもしれない、コーヒーでいうと苦くて飲めないという、そういう話になるかもしれません。

そこで、要点だけというか、肝心なところ、お話する、あとは質問の時間がたっぷり設けてあるようですので、そこでこういう点についてはどうなっているんだと、どういう議論をしたんだということはどうぞご遠慮なく聞いてください

私は非常に物覚えが悪いですが、全部会議の模様は、先ほどの東室長のスーパーコンピューターのような頭脳の中に記憶されていますので。すらすらっと答えが出てくると思います。

ということで、これから1時間弱ですかね、使いまして、話をさせていただきます。

今、お手元で見ていただいている横長の紙をずっと読んで説明していくだけでも、もちろん時間は全然足りませんので、先ほどから申しているように、本当に煮詰めた要点だけということなのですが。

とりわけ、この総則という第1章、お手元のですと1枚めくっていただいて、下に2、それから4とありますね。右下に4とあります。そのすぐ上、見ていただくと、第1章、総則とこうなっている一般的な話の部分でありまして。

それからもう1ページめくっていただくと、真ん中の下に10とあります。そこまでがこの第1章総則という話になります。

そして、そこからあと、この右下の12というところからあとは、第2章の各則という話でありまして、これは障害者が直面する社会的な障壁、壁にはさまざまなものがあるけれども、例えば公共的な施設、交通機関といったものがまずありますよねと。それから、情報コミュニケーションといった問題がありますよねと。さらに商品とかサービスを受ける、あるいは不動産を借りるといった問題がありますよね。あるいは学校の問題、医療の問題、いろいろあります。

ずっとページをめくっていただくと、そういう言葉が並んでおりますけれども。これはいずれも社会生活のいろんな分野ごとの各論ごとの考え方を示したものであります。

皆さん、それぞれいろんな日常生活、社会生活をされている中で、自分が学校でいろんな差別を体験していると。例えば、普通学級に行きたいのに、その個人の意志が無視されているといった、そういう差別を感じる場面ですよね。

あるいは、車いすで自由に移動したいのに、いろんなバリアがあって自由に移動できない、しかもそれが公共的施設でもそういうバリアがある、といった形で障壁を感じる、差別を感じる。

皆様方の過ごされている日常生活、そしてここに障害当事者の方が大勢みえていると思いますけれども、そうした方々の抱えておられるというか、障害の多種多様さですね、それぞれに応じて社会の側から立ちはだかってくる壁も、またさまざまだということになります。

あるいは、むしろ自分はいろいろな支援活動をしているといった方々も社会の側と障害者の側の間に入って、どこまでを、これは差別なんだ、というふうにして問題提起をしていったらいいのか、それが通るのか、いろいろ悩んでいるという方もおいでいただいているかもわかりません。

ということで、この各則の部分が非常に大事だということは痛いほどわかっておるつもりであります。

ただ、この各則、各論の部分というのは、そもそも差別とは何なのか、あるいは障害とは何なのか、障害者とは何なのか、そして差別に対して、単に差別をしないという、何もしないということで、解決されるのかというと、そうじゃないだろう。合理的配慮という言葉を後で何度も使いますけれども、むしろ、その障害のさまざまな特性、特徴に応じて、相手方、例えば事業者であったり学校であったり、あるいは公共施設を行っておる行政の側であったり、そうした強い側ですね、相手方が単に差別しませんといって、何もしないで済むかというと、それでは何にも解決しないのです。

ですから、合理的配慮という形で、一肌脱ぐというか、何か積極的なアクションを強いほうがしなければ、この障害を持っている方が障害を乗り越える、そして社会に参加する、これができないわけです。

そういうちょっとの、いわば段差ですね、そこを乗り越えさせるために、自力で乗り越えられないという障害を持っている側が、障害を持っていない事業者や、あるいは施設の管理者などに対して、ちょっとここの段差をなくしてくださいとか、ちょっとここで自分の車いすを押してくださいと、ほんのちょっとの相手方に何かしらアクションを求める、そういう権利を障害者の側が持つ、あるいは強い側はそういう配慮を義務づけられる、こういう比ゆ的に言うと、段差を乗り越えるために、何かアクションを起こす、起こさせる、これが今回の差別禁止法制についての我々の100時間の議論の大きなテーマになってきました。

そもそも今まで、何もしなければ相手を害しない、相手の権利を侵害しないという、基本的にはそういう考えできております。例えば、ある人が宗教を持っていると。自分はそれが気に入らん。しかし、だからといって邪魔をすると、これは積極的な侵害、例えば人権侵害になるかもしれません。

しかし、心の中ではけしからんとか、腹が立つと思っていても、何もしなければ、その人に嫌われる宗教を持っている人も一生懸命自分の信仰を深めていればいいというわけで、特に人権侵害ということにはなりません。これは表現の自由にしてもそうであります。

つまり、自分の気に入らない意見をそこら辺でビラを配ったり講演会をしたり本を出したりインターネットで発表したりする人がいても、気に入らないやつがいてもしようがないなということで無視していればいい。

これはもちろん、政府も自分たちを激しく批判する言論に対しても何もしなければ、表現の自由の侵害ということにはなりません。一般に自由というのは放っておかれれば、それだけで、あとは勝手にどうにかなるものであります。保障されていると言えるものであります。

しかし、この障害者が置かれているこの状態、差別的な取扱いというのは、単に何かしなければ、何もしなければ、そういう差別が起きない、あるいは差別が解決するという、そういうことかというと、全然違うんですよね。ここが、いきなり理屈から入って、1時間、短いとか言っとるけれども、この調子でやられたら頭痛くなるぞ、と思っている人がいるかもしれませんが。今が一番難しい話ですから、ほんの2~3分だけ、つばでも飲み込んで、私は水を飲みますけれども、皆さん、しのいでください。

要するに、ちょっかいを出さなければ他人の人権は守られるというのが普通。積極的に差別をしなければ、人は平等に扱われたことになる。これが差別とか平等についても、今言った信教の自由とか表現の自由と同じことで、要はいらんことをしなければ、それで差別はこの世にない、と言えるわけです。心の中では腹立っても、あいつは嫌いだ、ああいう人は嫌なんだと思っても、知らん顔して、そこをやり過ごせば、それで済む話であります。

ところが障害者との関係で言うと、障害者が来たなと、段差があるなと、でも、うちの店は何もしませんよと、何もしないから、あなたたちを差別したことにならないでしょ、人権を侵害したことにならないでしょ、と言えるのかというと、何もしないことがまさに差別、何もしないことで、その店の中に入って食事をするという、サービスを受けることができません。

ほかの客はとりあえず中に入って、テーブルが空いていればそこに座り込んで、少々マナーの悪い客でも何でも、これは商売でありますから、どうぞどうぞ、ということになります。

しかしながら、例えば車いすでその店に入ろうとして、そこが、この建物なんかも原爆記念公園のほうから入ってくると、すごい階段で地下2階ですかね、下におりるようになっていますけれども。ああいう入口しかなかったら、これはもう、その手前ですくんでしまうというか、そこでとまってしまうしかないですよね、車いすの、その店に入りたいなと思っている人たちは。

それに対して店の側が何もしないことによって、まさに差別をしているわけです。何もしないことで人権侵害がない、差別がないという、そういう、いわば憲法とか法律の世界での常識を覆すというか、何か覆すというと新発見を、あんたノーベル賞じゃないか、みたいに言われるかもしれませんが、そんなんじゃなくて。

今までだれもそれを何とも思わなかったというと、もちろん語弊がある。世界的には権利条約とか、それよりはるか以前から差別禁止法制というのをつくっている国はあります。

しかし、少なくとも日本の我々は、そうした何もしないことが、まさに権利侵害、人権侵害、差別そのものだという、これに気が付かないできたわけですよ。

いわば、お月様が空に出ているのに、それを見てこなかった。あそこにあるのに、顔を上げれば見えるのに、見てこなかったという。これが今、我々がまだ解決できていない問題なのです。

つまり、そもそも自由とはという、ここで憲法の教師としては、戦前はどうだったか。信教の自由とかもなかったじゃないか、表現の自由とかもなかったじゃないか、政府がみんないらんことして、あれだめ、これだめと言ってきたじゃないか。そういう余計な侵害をしなさんなというので、戦後、日本国憲法ができました。そこで立派な人権の保障の規定が入りました。そのことによって政府は余計な干渉ができなくなりました。おかげで我々は自由に物が言えます。好きな宗教を信じることができます、よかったよかったと。

日本のその戦前からの長い自由と人権の苦しい歴史を考えると、確かに政府が何もしない、他人に干渉しない、それが自由の源です。自由というのは基本的には人から干渉されないことです。

しかし、この障害者が置かれた差別的な状態というのはまさに逆なんですよ。合理的な配慮という美しい言葉ですけれども、要するに他人に何かアクションを起こさせないと、単に何もしないよと、干渉しないよ、と言ってもらっているだけでは、一番救いがないです。

だけど、その他人の努力、他人のアクションというのは、逆にその他人にとってそんなにすごいことなのかというと、そうでもないんです。ちょっと背中を押すとか、あるいは車いすの人が入れるように、例えば、今日もさっき、設営のときにお願いしましたけれども、何かそこにいすをわざと置けるスペースをこさえていただいています。そうしたところにスッと入っていただく。

こういうふうにちょっとのことでアクションといっても強い側というか、施設を運営している側、事業をしている側等がちょっと行動を起こせば、無理なくサービスを享受できるということになるんですね、みんながです。障害者の方も含めてみんなが等しくサービスを享受できるようになります。

こういう合理的配慮という概念が非常に大きなテーマ、これを日本の法の世界でどういうふうに位置づけていくんだと、そのために差別禁止法というような法律をつくって、いわば何もしないことが、イコール、正しいんだという、そういういわば法の世界の伝説に対して穴をあけていくというか、ブレークスルーしていくと、これが100時間頑張った、この我々の差別禁止部会の基本的な課題だったと私は思っています。

その差別禁止部会というのは非常に当事者参加というか、いろんな方がメンバーになっておられました。いろんな方というのは、もちろん、障害の中でもいろんな障害をお持ちの方が、ちょっと今すぐに比率は言えませんが、約半分、何らかの障害をお持ちの方がおられたと思います。

あと、弁護士さん、ある意味、過剰に法的に物を考えてしまうという、こういう方々も何割かを占めると。それから、経済界の方も何人か参加され、経済界としての気になる点というか、懸念されている点、これを遠慮なく発言をされました。

それからいわゆる学者。それも障害分野固有の学者さんというよりは、法律の分野の一般的な他の分野の、私もそうですけれども、学者といったものが何人か。

要するにいろんな人がそこにおったなということです。そういう方々との角を突き合わせた話し合いの中で、そもそも差別は何かと。先ほど言いました、何もしないことが正しいのではなくて、何かをすることが求められるのだという、こういう180度の方向転換を法の世界でするために、どういうふうに差別禁止法といったものの考え方、原則を組んでいくかと。

それから特に、これは多少生臭い話ですけれども、各省庁です。先ほど各論、各則、これが皆さんにとって非常に大事だろうと言いました。医療とか学校とか公共施設とか、あるいはその商業施設ですよね、そういったいろんな場面ごと、これは皆、各省庁が権限を持って監督官庁という形で控えておられる。控えるなんていう生やさしいものではなくて、縄張りというような格好で立ちはだかっておられると言ったほうが、多分、実際に近い。

あるいは、障害者について、特に簡易迅速な救済の手続きをつくろうと、この手続き的な面から、我々、その特殊性、随分議論しました。しかし、これについても法務省、そしてもちろん直接に物を言われる立場にはないけれども、裁判所といったところから、今のままの制度でも十分間に合うのではないかという、多分そういうリアクション、これははっきり伝わるわけじゃないですが、そういうリアクションが実際にはひしひしと伝わってくる。

ということで、それぞれの分野ごと、それぞれの監督官庁が、自分のところではうまくやっていると、よそはともかくうちには問題ありませんという、いわゆる「立法事実」がないという、皆さんこれ、初めて聞かれる言葉じゃないですか、立法事実。恐らくこの先も聞かずに済む言葉です。霞が関とかに行って陳情したりしない限りは、です。

その立法事実というのは何かというと、法律をつくる、どうしてもつくらなければいけない、そういう何か具体的な社会的事実、何かあるんですか、例えば、最近すごく子どもの虐待が多いと、だから虐待防止法をつくらなければいけないとか、そういう事実がまずあって、それに対して法律が後から追いかけていきますよね。

こういう立法事実というものが障害者の差別の問題について、本当に新しい法律をつくらなければいけないような立法事実があるんですか、とにかくそれを聞かれるんです。これは結局、相手のお役人が何を言っているかというと、例えば本当に障害者の権利を侵害しているのだったら、例えばこれは民法の不法行為と、例えば公害を垂れ流す企業に対して、垂れ流しをやめなさい、という操業の差し止めとか、あるいは被害が出ているというので損害賠償を請求する。

それと同じような不法行為に対して救済を求める裁判手続きが今ありますよね、あれと同じ裁判を起こされたらどうですか、勝てるのではないですか、という、つまり制度は間に合っている。あとは皆さんが頑張る番だと、こういうふうにして、新しい立法はいらんでしょうという、こういうふうに突き放されてしまう。それが、立法事実がありません、という言葉です。

家に帰られて、中学生ぐらいの生意気盛りのお子さんがおられるようなご家庭だったら、「小遣いくれ」などと子どもが言ってきたときに、「あんた立法事実ないやろ」と言ってやったら、多分キョトンとしますよね。「立法事実って何?」と聞いてくるでしょう。「それは、おまえは別に勉強しているわけではないということ」と言ってやれば、ますますキョトンとするのではないでしょうか。

要はそういうことなんですよ。つまり、「高校で進学校に頑張って行くので、参考書を買わないといけない」と、実際には漫画本になっているかもしれないけれども、新しい決意を表明して、「がんばるから、小遣いくれ」という新しい事態があって、それに新しい制度が必要ですよという、そういうときに立法事実があるというわけです。

だけど先ほどの役人の例は、「そんな立法事実はない。今までやっている小遣いで間に合う。新しい事態なんかない。どうせ勉強しない。」と言っているような、突き放した答えですね。

もう既存の法律で間に合いますとか、特に必要ありませんとかいう、何を言っても馬耳東風という、そういうところが今まで各省庁にないわけではなかった。

ということで、この各論を、何度もそこの話で行ったり来たりしているんだけれども、その各論を我々、この差別禁止部会で一生懸命やっても、どうもこれは壁が厚いなということで、それこそ巨大なバリアがあるな、というふうに感じまして、それでこの100時間のうちの最初の10時間、20時間は外国ではこうなっているというのをやっていたんですが、で、日本も同じことだから法律を変えなきゃいかんぞと、役所に話をしに行っても、あるいは役所の人に来てもらっても、いや、日本ではうまくいってますよ、と言ってかわされてしまう。

ということで、最初の10時間、20時間の各論重視の、外国でこうです、という話をして役所の壁を崩すというのを方向転換しました。要するに、野球でいうと直球勝負ですね。つまり、差別とは何か。なぜ、合理的配慮が必要なのか。なぜそういう強いもののアクションを求めることが権利になるのかという、例えば女性差別の場合だったら、何もしなければ差別は解消です。「あなたは女だからこうだ」というと、差別になる。「こういう仕事できる人雇います」「そういう仕事したい人にはこれだけ給料出します」と言って男も女もカウントしなければ、つまり余計なことをしなければ差別は起きない。

ところが障害者はその逆です。強い者がある種のアクションを起こさないと、障害者は実質的に平等に同じサービスを享受する、同じチャンスを享受するということがそもそもできません。同じ土俵に乗れないのです。

そういう総論の部分の大きな壁を崩すほうが結局この差別禁止部会としてはふさわしい。これぞ我々の仕事だというので、初心に返りまして、ガチンコで非常に厚い壁だけれども、そこに当たっていくと。各論のほうから個別に崩していくということよりも、総論でいわば理屈、概念、一番抽象的な話にはなるのですけれども、そこでもう、がっぷり当たっていくと、がっぷり四つに組むというスタンスで残りの時間の大半を頑張った。

もちろん、この意見書も、お手元のこのレジメをご覧いただければ書いていますように、2枚めくってもらって、さっきも紹介しました12というところから後は全部各論ですよ、各則です。だけれども、ここらは議論としてはある意味、楽です。もちろん分野ごとにいろいろ考える必要はある。だけど、そもそも差別というのは何か、障害者差別というのは何か、あるいは合理的配慮というのは何かという、こういう一般的な議論をちゃんとつくりあげておけば、あとは楽だったわけです。

あとのご質問にも、「自分は例えば飲食店をやっているんだが」「どこか飲食店に行ったらこういう目に遭ったんだが、どうしたらいいだろうか」「どういう場合、差別になり、どういう場合、そうでないのか」などいろいろなご質問が多分あると思います。

つまり、各論的なご質問だろうと思います、問題とされるのは。しかし、我々の側としては各論に各論で答えるということではなくて、各論に総論で答える。つまり、「合理的配慮というのはこういうことです。それをあなたのおっしゃっている場面に当てはめたら、多分こうなるはずだ」、ということです。あるいはそこまでクリアに言えなくても、ガイドラインを具体的には各論のそれぞれの場面ごとにつくるときには、例えば、労働、雇用の場面ですと公労使と言いますよね、公益の公、労働者の労、使用者の使、公労使という3者、つまり労使という対立的な2者だけでは問題はなかなか解決しませんので、そこに第三者的に公益代表が話し合いの場に加わると。

これに対して、障害者への合理的配慮として事業所はどういう場合に何をすべきかといったことについては、公労使に加えて障、つまり障害者という当事者を加えた4者で話し合いをしてガイドラインを作成する。ですから、一般の経営者や、あるいはサービスの提供者といった方々は、あるいは不動産の経営者といった方々は、個別に何が合理的配慮かというのをいちいち頭をそんなに使わなくても、こういう場合はこういうふうにすれば合理的配慮をしたことになる。先ほどから言っている背中を押すというか、アクションを求められるわけですけれども。どういうアクションなのだということが、このガイドラインを見れば大体わかると。

もちろん、障害は目が見えないとか、車いすだというだけではなく、さらにもっと細かく分かれてきます。ですから、本当のその人、その障害者本人との関係での合理的配慮は、最後の最後は、やはり丁寧な話し合い、これは必要です。それも含めて合理的配慮ということになると思います。

しかし、これだけの複雑な世の中で、常に話し合いでゼロから何が合理的配慮かということを積み上げていくというわけにはいきません。そこで、先ほど言いましたように障害者も加えた4者でガイドラインをあらかじめ作成しておくと。ですから、まずそれが相場になるわけです。

「そのガイドラインでこうなるけど、あなたはそれで大丈夫ですか」、という形の話し合いをして、「いや、自分は車いすといってもこういう特徴があるので、ここはもう少し広げてほしい」などといろいろな個別の修正を加えていくということになるのだろうと思います。

いずれにしましても、私の話が、なんかあっち行ったりこっち行ったりというか、苦労しとるなとご心配かもわかりませんので、特に一番前の室長とかが、またあいつ話がなんかうろうろしているなと、落ちつきがないなとか、心配しているでしょうから、さっきからの30分ほどの話をまとめておきますと。

100時間、我々は汗をかいた。非常に正直、しんどかったです。私もあれで終わったと思ったんです。9月に、大臣に手渡し式というのを、遅刻しそうになりましたけど、こうやってお願いしますと渡して、自分の役はとりあえずそこで終わりじゃないですか。

やれやれ、と思っておったら、皆さん方に申し訳ない、単なる愚痴なのですが。今日、まずこの広島を皮切りに、あっちもこっちも、おまえ、話せないのかと言われております。

それから、これは私にとっては大変なプレッシャーなのですが。明後日ですかね、アメリカまで行って国連の担当者に話聞くとかですね。要するに、会議を単に司会をすればいいという話が、えらいことになっておって、私の人生の中でも冷や汗をこれだけまとめてかいたのは初めて、というぐらいなのですが。

この大変しんどい作業で、とりあえず意見書をまとめました。

そのしんどかった最大の理由は何なのかというと、個別の領域ごとに役所に物を言っても歯が立たないという、先ほどの「立法事実がない、顔洗って出直せ」のような話になるんですよ、端的に言うと。

そこで、総論を、これはもう練り直し。つまり、そもそも障害者の差別とは何なのか。普通の差別とどこが違うのか。そこで、特に言われる合理的配慮。これは一体どこまでのものなのか、どうあるべきものなのかという、こういう原点に帰った議論を、先ほど言いましたような多様なメンバーとともにガチンコでやったと、だからそれはしんどいのは当たり前という感じなんですけれども。

しんどかった、しんどかったといくら言ってみても、出来がいいかどうかというのは、これはまた別な話ということですので、ここでようやく、大変、進行が悪くて恐縮だけれども、お手元の最初のページの右下、総則というところ。ここをご覧ください。

完全参加、平等、理念というところですね。右下の数字4とありますね。その辺を見ていただくと、理念は完全参加と平等だと。ここらは文学的表現ですけれども、私なりの言葉で言い直せば、実質的平等の確保ということであります。形だけはどなたでもどうぞ、と言っている。しかし、行ってみたら、段差があって、そこに入れない。そのような場合、これは完全参加と平等になりません。形式的な平等だけではだめなのです。実質、障害者も含めてサービスを享受できるとか、自分がそこで何かにトライする、そういう場に立てるという、そういう意味での実質的な平等が必要ということであります。

と同時に、差別禁止というときに、言葉としても差別禁止法というのはちょっと重いな、というようなことがよく言われるのですね。確かに差別禁止法という、そういうネーミングにこだわることは、全くこちらは考えていないし、また、そういうネーミングは少し重いのかもしれません。

この4ページの理念というところの真ん中に入っておりますけれども、「あなた方、こういう階段や段差のある入口の喫茶店は差別ですよ」というふうに喫茶店の経営者を非難して制裁をする、刑罰で処罰するとか、そういう何かペナルティを課していくようなものでは全くない。

あくまで目的は共生です。ともに生きるです。今日のこのタイトルにもある共生社会地域フォーラムというわけで、それを真っ二つに分けるようなことをしたらだめなんですよ、この広島市で、そこの目の前に、ここの上に記念公園がありますよね。記念公園よりも向こう側とこっち側で市を分けるみたいな、そんなことをしてはいかんということです。

ともに生きるなんですから、ペナルティという形で拳骨振りかざしてどうにかしようという発想をとったら、最初からともに生きるになりません。

障害者が今、家の中で外に出られずに引きこもっているというケースが非常に多い。そして、家族とか周りの方だけに介護負担が結果的に集中している。これをどんどん社会に、とにかく出てきてもらって、社会にどんどん参加をして発言する。そのことで、もちろん、ご本人は完全参加ということになり、実質的な平等の享受ということになります。

それだけではなくて社会の側も、「我々の周りにもいろんな人が実はいたのだな」「あなたは一体どこにいたんですかといったら、家の中にいたよ」ということなんですけど、出てきてもらえる環境をつくることです。そういういろんな人が我々の周りにいることによって、内なる国際化というと変な言い方だけど、身の回りで多様な社会というのが現にあるのです。そういう周りの対応の中で自分自身が今まで常識と思っていたものが実に狭い了見だったというのに気が付いていく、これはやっぱり違う人と会うというのは大事ですよ。

幕末、明治維新のころ偉い人がいっぱい出てきた。今の日本と比べてなんでこんなにあのころはすごい人が多いのかと、素朴な実感として、私ももちろん思いますけれども。

「では、おまえはどうだ」と言われるので、そこで黙ってしまうけれども。1つの仮説としては、幕末に外国の存在を知ったわけですよ、初めて、突然。それで、異人というような外国人を見たわけですよ、しかも高度な文明を持った。まさに究極の多様性ですよね。今まで普通の身分制社会で、みんなちょんまげをしているとか、お百姓だとか、そういう徳川300年で平和をむさぶっておったら、突然、世の中はこんなんと違うんだという、何かパッと出てきた。

すごい刺激になるわけですね。若い人にとっては、これはぼんやりしておれないぞ、ということで、手当り次第に勉強するとか、外国にどうにかして行ってみようとか、そういうふうに考える。

やはり刺激というのが人間を伸ばすわけです。今の若い人は留学も余りしたがらなくなっているそうだけれども、とにかく自分たちばかりじゃないんだと、いろんな人がいるんだという、その狭い意味での自分たちの仲間ばかりじゃなくて、この世の中にいろんな人たちがいるという、これも大いなる刺激になる。

共生社会というのはそういう多様性の中で、いわば自分の固定観念を打ち破っていくという部分も含んでおると思います。

そうした障害がないとは、もちろん人間はいつ、どこで、どういう怪我とか病気が待っているか、わかりませんけど。今、障害がないのだという、いわゆる多数派の側にとっても、多様性があり活気ある社会、これはもちろん大いなるメリットということで、決してペナルティを課すものではないし、全体にメリットのある話をしているということをこの理念の最初に掲げておるわけであります。

国等の責務という、この次をめくってもらって、下に5と書いています。1枚、裏返してもらって、左の真ん中に5という、国等の責務という。こういうのは、大体、先ほど室長も言われましたが、障害者権利条約という国際的なお約束、日本は国内で効力を持たせる批准という、その条約を仕上げる手続きまでは、まだいっていません。その前にこういう差別禁止法のようなものをつくらなければならないというので、条約を完全に国内で実施する、一歩手前のところまで来て、そこで止まっています。

しかし、国際的にはもう、サインは済んでいます。署名はして、国際的には日本もこの権利条約に署名しますということで、国際的に、国際公約というと何かちょっと軽く聞こえるかもしれませんが、うちもこれをやるぞ、という宣言はしちゃっているんですよね。

国が、ですから、国内に向いて、法律を新しくつくってでも、せっせとこの権利条約の考え方、これを日本国内で広めていくというのは当たり前のことであります。

なお、権利条約はどういうことを言っているか、もちろんいろんなことを言っておるけれども、先ほどの、単に何もしなければ差別になりません、という話ではなくて、その180度逆の、合理的配慮をしないと差別になると言い切っているのが、この権利条約の大きな特徴です。

そうした、いわば日本にとっての黒船ですね。この権利条約というやつは。それにどう対応させていくかというので、あたふたやっていますよという。そのあたふたの中で我々も100時間、何回も、しつこいなと思われるかもしれませんが、あの暑い中での100時間というのは、非常にこたえたので、しかもきりがいいですからね、100だ、100だと言っておけば、大抵の人は「おお、すごいなあ」と言ってくれますので、今日も5回も6回も言っております。

国の責務は、元が条約から出た話ですから、国が約束する以上は自分自身が差別禁止という考え、特に合理的配慮をしなければいけないという考えを率先して行うことは当たり前のことであります。

特に障害女性と5ページの5の最初の枠の下のほうに書いています。なんでここにこういう言葉が出ているかというと、これは授業みたいで恐縮だけれども、複合差別と言います。女性であるということで、いろんな女性差別を受ける。他方で、障害者だということで差別を受ける。ダブルで複合的に差別が来るということです。

もちろん逆に言うと、障害者差別として説明もできるし、女性差別として説明もできるということですけれども、障害者差別というだけで合理的配慮をすればいいでしょうと問題を解決しようとすると、そこに女性の障害者に特有の問題を見落とすということになりがちです。

例えば、自分で入浴できない身体障害の人をお風呂に入れる場合に、相手が女性で介助者が男性だったら、そこでその女性は「いや、もうお風呂は結構だ」と断る。結局、介助を必要とする人の中で男性の障害者だけが介助という合理的配慮を受けて入浴サービスの恩恵に預かり、女性の人たちは「いや、私は汗をかいていないから結構だ」というように、目の前で入浴サービスが行われていても、そのサービスを受けることができない。女性の介助者がたまたまそこにいないから、女性の障害者は我慢を強いられている。

もちろん「体がかゆくてたまらない」という人は、ものすごい屈辱感を感じながら、男性の介助者によって入浴サービスを受けるという我慢を強いられています。

こういうのはいずれも障害と女性という2つの差別をされやすいテーマが重なる、同じ人において重なるという、いわゆる複合差別という現象で起きているものなのです。特にこういうデリケートな問題についても国は重大な関心を寄せるべきだということも書いております。

それから、障害とは何ぞやという点について。もう時間がどんどん限られてきておりますので、論点だけ、重要論点だけということになりますが。

基本は障害とは機能障害、英語でインペアメントなどと言いますが、つまり足が動かないとか、目が見えないとか、いわゆる医学モデルという医療的な観点からの考え方に余りこだわるというのは世界的にはよくないとされているのですが、機能障害であるという、あくまで本人の障害特性に着目した考えをとっています。

こういうふうに説明をすると「世界の趨勢から相当遅れているね」と言われそうです。権利条約では社会的障壁という考え方、つまり本人の身体障害とか機能障害というよりはむしろ、社会が「あなた足動かないんでしょ、だったら家にいなさいよ」というふうにして壁を作っている、そっちが実は障害の本体なんだと。障害者に障害があるのではない、社会に障害があるというのが、今びっくりしている人がいるかもしれませんけれども、世界的には当たり前の考えになっています。社会的障壁という考えです。

日本の我々の議論でそこを無視したのかというと、全然そんなことはない。ただ、障害者基本法という法律で身体障害、知的障害等々、まさに障害の特性に着目した書き方をしておるので、障害の定義そのものはあくまで機能障害。

しかし、障害者という概念。障害と障害者というのは別概念で、障害者という概念になりますと、障害者基本法においても実はこの社会的障壁、今言いましたように障害というのは本人の問題よりもむしろ社会の問題だという考えがとられています。

社会的障壁という言葉が障害者基本法の中で出てくるわけでありまして、この社会的障壁というのを我々も踏まえるということは当然にしております。

それから障害に基づく差別とは何か。この下、6ですけれども、「不均等待遇及び合理的配慮の不提供を言う」と書いていますが。

これ、さんざん議論した挙句に、こういう短い形でまとめたということで、この意見書の段階でも相当これはまとめ上げて、骨と皮にしてしまっているのですけれども、皆さん、お手元のこの横長のではさらに、我々の苦しい議論の痕跡がほとんど見えない格好になっています。

この6ページの一番下、直接差別、間接差別、関連差別と3つ並んでいます。これは本来、皆、区別すべきもので、区別していました。直接差別というのは文字通り、障害者お断りの類。例えば、求人募集のときに障害者を除くとかですね。こういうのは障害という概念、障害者という要件、これで不利益な取り扱いをするのですから直接差別であります。

これに対して、会社などもそこまで露骨なことはしない、特に一流とされる企業ほどもっとある意味でスマートというか、水面下で実は差別する、それがいわゆる間接差別。

つまり、採用条件を公共交通機関で通勤できる方として、実際にはマイカー通勤、しかも特殊な仕様のマイカー通勤で会社の駐車場を使えないと通勤ができないような障害者を排除しているわけです。一言も障害者を除くとは書かずに、公共交通機関で通勤できることという、一見何気ない、当たり前みたいな要件によって、実は障害者を排除している。こういうのが間接差別であります。

それから関連差別。これは本人でなくても家族に重度の身障者の息子がいて、日中は介護施設に預けているけれども、5時までに迎えに行かなければいけないなどの、障害に関連して勤務時間を短くせざるを得ないという事情があるわけですね。しかし、そういう人はだめですという。これは本人の障害そのものを理由にするわけではないけれども、1日8時間働けない人はだめですと言えば、身内の障害が原因となって、それに関連する差別を受けるということになります。

このように、差別といっても実は露骨な障害者を除くといった差別である直接差別以外に間接差別や関連差別といったものも含めて差別というものをとらえるべきです。その点を我々も認識したわけです。

ただ、逆にそれぞれ分けて書くのではなくて、一括して不均等待遇という言葉、今の6というところで「不均等待遇とは」と書いていますね。

不均等待遇。もっと別のわかりやすい言葉で言うと、差別ということです。ただ、差別というと、もうひとつ、合理的配慮を提供しないということによっても法的な意味で、この差別禁止法的な意味で差別ということになります。

ですから、この不均等待遇というのは、それ自体が差別なのですが、放っておくと、つまり合理的配慮をしないと、差別ということになりますよという、その一歩手前のいわゆる差別的な事態、差別的な状態を含むのが、これがこの不均等待遇という概念だと私個人は考えてきました。

ダメ押しが合理的配慮の不提供。つまり、この合理的配慮をしないと、これはもう、文字通り差別ということになってしまいますよということで、この合理的配慮を提供するかしないかという、そこが結局一番大きな分かれ道ということになってくるわけです(入り口の階段は間接差別と考えれば不均等待遇で、それ自体が差別ですが、臨時にスロープを店が用意すれば合理的配慮をしたことになって、差別は解消されるわけです)。

この不均等待遇というのは直接差別、間接差別、関連差別という3つの類型を当初分けて議論しておりましたが、1類型ということでそれを包括いたしまして、不均等待遇という1つのくくりといたしました。

この不均等待遇というのはもちろんそれ自体が差別なのですけれども、この世の中には100%ということはないというのか、何でもかんでも答えがいわば機械的に出るというものではありません。

つまり、正当化事由というのが場合によってはあり得るわけですね。不均等待遇をしておっても、しかし正当化されるという例外的な場合があるわけで、そこらは見にくいと思いますけれども、この6と書いているところ、不均等待遇となっているところの2つ目のポツです。

ただし、当該取り扱いが客観的に見て正当な目的のもとに行われたものであり、かつ、その目的に照らして当該取り扱いがやむを得ないと言える場合は例外となる。これは非常にくどい文章です。客観的に見てとか、正当な目的のもとに、やむを得ないという、非常にハードルを高くしようとしているということにご注目ください。

つまり、不均等待遇が、先ほどの直接差別はもちろんですが、間接差別、関連差別といったものを含めて、差別ですと一たんは言うわけです。しかしながら、そこに正当な理由があれば、法的な差別という評価にはなりませんと。

ではその正当な理由といったら何でもかんでもだったら、なし崩しになりますよね。そこで、そうならないように、今言いましたハードルを高くして、客観的、正当な目的、やむを得ない、そういうふうに高いハードルで、それでも正当な理由があるというときには、不均等な待遇、異なる取り扱いをしていると、一見差別的に見える取り扱いをしていても、これは差別ではありませんということになるわけであります。

この合理的配慮というのは必要かつ適切な現状の変更や調整という、時間がどんどんなくなっておるので、先ほどの繰り返しの面もありますので、合理的配慮というところをさっと片づけますけれども、右上の7というところ。

合理的配慮というのは何ですかというところに障害者の求めに応じて、障害者が障害のない者と同様に人権を行使し、または機会や待遇を享受するために必要かつ適切な現状の変更や調整を行う、というふうに、これを一読しただけでなかなかおわかりいただきにくい文章だろうと思いますけれども。

結局、調整という言葉に着目をしてください。これは強い側、施設を運営しておる側、サービスを提供する側といった立場の側が積極的にアクションを起こすという、それを調整と呼んでいる。つまり、ギャップを超えるために、車いすの人の背中を押すという、車いすを押すという、これを調整と呼んでいるわけです。

今までの考えですと、何もしないことで差別にならない。何もしなければ人権を侵害したことには絶対ならない、それがお決まりでした。

そうではないのだ、合理的配慮というのは何かしなければいけないのだという、それをここで調整という言葉であらわしているわけです。

合理的配慮の不提供、その次のところですね。これがまさに差別だということになるわけであります。

合理的配慮をすれば差別に当たらない。しかし、しなければ差別になる。つまり、積極的なアクションを事業者の側、サービス提供者の側はしなければいけない。もししないとどうなりますかというと、これは差別だよということになって、不法行為になって損害賠償を請求されるといった法的な不利益が伴ってくる。

そして、先ほども言いましたように刑罰でペナルティを課して、ゲンコツで「おまえダメだぞ」と言って叩くというわけではありません。しかしながら、今までだったら「いや、うちはこういうお店だから、階段使えない人はしょうがないけど、店に入れないけど、それはうちはこういう店だから我慢してください、申し訳ありません」と言えば済んだかもしれません。

しかし、この法律ができたら「この階段の横にスロープをつけなさいよ」とか「ちょっと階段に何か板を一時的につけて、車いすの人がそこをゆっくりおりられるように手伝いなさいよ」とか、あるいは店の裏側に回ったら、業者さんが納品するときに、例えばビールを酒屋さんが持ってくるときに使う臨時の渡し板があるじゃないですか、それを障害者が店に入るときにも使わせなさいよ、とかですね。

中には大したことはない合理的配慮もたくさんあり得ます。

しかし、そういうちょっとのことをしないと、障害者は結局サービスを享受できません。したがいまして、その不利益な状態のままに置かれるということになりますよね。それをもって差別だというふうに考えると、ここが何度も言うように180度の転換ということになるわけであります。

それで、この8ページと書いてある、右下8とついているところ、現状の変更調整についての3つの視点とありますが、これは合理的配慮というのは具体的にはどんなものですか、というようなことです。例えば、2というところ、物理的形状の変更。建物の入口に存在する段差を解消するようにスロープを設置。まさに今、私が挙げたような例をここで言っております。

それから、上に戻って(1)の基準、手順の変更点、ここですけれども。パニック障害がある労働者については、満員電車に乗ると症状が出てしまう。パニックに陥ってしまうということで、時差通勤を認めてラッシュに遭わないように配慮する。

それから、これは現になされていると思いますけれども、視覚障害者である客に対しては大きな文字で印刷された利用案内を提供する。待たされているところ、結構あるとは思いますが、そうでないところも含めて、このようにすべきだ。今でも既に配慮を、共生社会を念頭に置いて、あるいは企業イメージを念頭に置いて、放っておいてもやるところはやっているような話も含めて、合理的配慮というのが法的なルールになってくるという話であります。

この次、10ページ、下が9とか10とか書いてあるところであります。なぜ、アクションを今までは何もしなくてよかった側がアクションを求められるのかという、これをここで熱心に書いています。ただ、この会場におられる多くの方には、あえてもうこれ以上の説明はいらないと思います。

ただ、ここに書いてある比喩とはちょっと違う比喩ですが、こういう例を私は自分のところの学生にはよく言っています。つまり、例えば道の真ん中に大きな穴が開いているとしますよ。台風で大雨が降って、それで、今日は晴れている。だけど、昨日の大雨で道路が陥没した。

そのときに普段は元気よく携帯電話を持ってメールをいじながら自転車を運転している高校生のお兄ちゃんだって、道の真ん中に穴が開いていたら、危なくて、そもそも通れませんよ。でも、段差のある路肩とか、あるいは階段とかで車いす障害者の人はいつも同じ目に遭っているわけです。いわゆる障害のない人が、元気のいいお兄ちゃんが普通に道を走っているのは、そこに穴がないからなのです。

もし、そこに穴があったら、その穴をふさげと、自分の安全で自由な通行を妨害している、積極的に邪魔してるではないか、だから邪魔をしているこの穴をふさげと、広島市とかに対して抗議をする。そこでこけたら賠償責任だとかいう、そういう法的な問題も出てくる。

これを例えば車いす障害者に置きかえると、穴ではなくて、段差が穴と同じなんです。ということは、例えば広島市がこの穴をふさげと言われて、いや、我々は積極的なアクションは起こしません、我々は自由の味方です、自由というのは何もしないことなのでしょうと言ってすっとぼけたらどうなりますか。普通に道を歩けないじゃないですか。

だから、自由のためには何もしないのが一番だといっても、それは自由を我々が享受できる、安全に道を歩ける条件を整えて、それ以上に余計なことはしないというだけのことですよ。条件整備というのは最初から国とか市とか、あるいは商業施設の運営をしている業者さんとかは当然にやっているし、やらなければいけないわけです。

しかし、それが車いす障害者との関係では、最低限の条件整備がない。これはほかの障害者においては、さらにそうです。

というふうに、少し発想を変えると、何かアクションを求めるというのが180度の転換という、先ほど来言ってきた話も常識的な説明だけど、実はそうでもないということになるはずなんですね。ですから、これは背中を押すと言ってもむしろ、本当はギャップがあるほうがおかしいんです。ギャップなしに自力で車いすの人が移動できるようにしておくべきだったんです。

でも、それはお金がかかったり、手間を食ったりで後回しになっている。だったら、今、かわりに押しましょうという話で、本来あるべき状態を実現しているだけなんですから、特に大げさに何かしてやったとか、させられた、新しい義務が生まれて窮屈で大変だとか、騒ぐようなことではないなというのが私の実感。

ちょうどお時間になったというお知らせが、合理的配慮があったようですので、ちょうど一般的なお話を終えたところで、あとは質問にゆだねたいと思います。

どうもご清聴ありがとうございました。

(司会) 棟居快行様、ありがとうございました。

それでは、これより20分間の休憩とさせていただきます。プログラムの再開は14時30分を予定しております。お時間までにお席にお戻りくださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

[休憩]

(司会) それでは、共生社会地域フォーラムのプログラムを再開いたします。

登壇者をご紹介いたします。障害者政策委員会差別禁止部会部会長、棟居快行様。障害者政策委員会差別禁止部会委員、植木淳様。内閣府障害者制度改革担当室長、東俊裕でございます。

今回、限られた時間の中でさまざまな方面からご意見を頂戴する趣旨から、あらかじめご発言をいただく方を指定発言という形でお願いしております。どうぞ、今回の差別禁止部会の意見について、忌憚のないご意見を賜りたいと存じます。

(指定発言者A)さん、お願いいたします。

(指定発言者A) 障害者生活支援センター・Tの事務局長のAと申します。

私は、4歳のときにリハビリという目的で療育施設に入園させられ、その後、17年間を地域社会から隔離された寄宿舎や施設で過ごしました。

そんな私が、初めて自分が障害者であることを思い知らされたのは、小学校5年生の夏休みの一時帰省中、近所の公園で装具をつけて歩行訓練をしていた際に、同世代の小学生に取り囲まれ、歩き方がおかしいと笑われたときです。私は、泣きながら家に帰りましたが、その私に、祖母は「一生懸命訓練をして、ちゃんと歩けるようにならんと、笑われるんよ」と、追い打ちをかけたのでした。しかし、当時の私は、祖母の言葉を受け入れるしかありませんでした。

今も、あのころの私と同じように、差別されていても、だれにも訴えられず、泣き寝入りしている障害者や、地域社会から隔離された環境で生活してきたために、自分が差別されていることにも気づかないままでいる障害者が、たくさん存在します。

そんな現実を踏まえると、差別禁止法制定の必要性を痛感するのですが、私が特に訴えたいのは、教育における差別禁止です。

「障害のある人とない人がともに生きる社会を目指すべきだ」ということがほぼ社会常識になっている中で、文部科学省は、何度国連から勧告を受けても、「分ける教育」をやめようとしていません。今年7月にまとめられた中教審の報告も「インクルーシブ教育システム構築のために特別支援教育を推薦していく」としていますが、特別支援教育の実施によって特別支援学校・学級という分けられた場で学ぶ子どもがどんどん増えている現実があるのに、それがなぜ「インクルーシブ教育システム」につながるのか、私には全く理解できません。

その点、今回の差別禁止部会の意見では、日本の現行教育制度が、障害者権利条約24条に違反しており、障害を理由とした入学拒否や「親の付き添い」などの条件づけを初め、教育に関するあらゆる場面での不均等待遇や、合理的配慮を提供しないことが、差別に当たることを、はっきりと指摘しています。

広島県内でも、就学指導委員会の意見が最終決定であるかのように学校や教育委員会に言われ、地域の学校への入学を拒否されたり、入学後に親の付き添いを求められたりする事例が後を絶ちません。

また、一昨日、北陸地方のある市で、地域の小学校に通っている障害児のご両親が、教育長から「インクルーシブ教育は、コミュニケーションがとれ、授業内容が理解できる子どもが対象であり、お宅の子どもは対象外」などという、とんでもない言葉を浴びせかけられ、「これが最終決定です」と、公印を押した文書まで渡され、地域の中学校への進学を拒否されたという事件が起こったということも知りました。

このような実態は、明確な差別であり、一刻も早く解消されなければなりません。

「ともに生きる社会」は「ともに学ぶ教育」なくして絶対に成り立ちません。ぜひとも、この意見にのっとった差別禁止法が制定され、障害児を分けない教育を原則とする制度が確立されるよう、強く強く望みます。

以上です。

(司会) ありがとうございます。これに関して、登壇者の方よりコメントをいただけますでしょうか。

(東) どうもありがとうございました。担当室の東です。

インクルーシブ教育についてのご意見をいただきました。インクルーシブ教育という言葉は、恐らく、Aさんがおっしゃっているように、違った意味で解釈される余地があるのだろうと思います。

しかしながら、当部会のインクルーシブ教育の考え方は、権利条約に従った解釈が前提になっていると思います。

もともとの考え方は、ユネスコのサラマンカ宣言あたりに源を発しております。

したがいまして、ここでAさんがおっしゃっているような事態は、やはり部会の見解から見ても早急に解消されていくべき事態だろうと思っております。

ただ、問題は現実との乖離がひどい、そういった分野の1つであるわけですね、教育は。ですので、この部会どおりの形で今後進んでいくかどうか、これは現実問題としてはおおきなハードルがあるところだという認識も持っておいてほしいなと思っているところです。

ありがとうございます。

(棟居) 以上、室長のほうから部会としての議論を踏まえた優等生らしい答弁をいただいたのですが。以下、私の個人の思いをAさんのご質問をいわば利用させていただくというか、それに便乗して、ちょっとだけ、個人の発言をお許しいただきたいと思います。

この障害のある子どもたちにとってインクルーシブ教育が大事だというだけじゃなくて、障害のない子どもにとってもインクルーシブ教育は非常に大事だと私は思っています。もちろんこの場合のインクルーシブ教育というのは原則として同じ場で学ぶということです。これはなぜかというと、これ、先ほどの一番最初の室長の話にもありましたが、この世界のいわゆる先進諸国では差別禁止法的な法律、制度を設けているわけです。そして、例えばフランスでは、地元の普通の学校にまず在籍をして、場合によっては特別の教育を、支援学級的な教育を受ける。つまり、原則と例外が日本とは全く逆。

こういう国際社会の中で日本の子どもたちは、みんな将来働いていく。そのときに、大人になって初めて外国に行って、たくさんいろんな障害のある人も一緒に働いている。しかし、うまくコミュニケーションがとれない。日本人の側がですよ。戸惑ってしまう。こういうことになるんじゃないのかと。

つまり、日本の障害のない子どもと言われる子どもたちだけを集めた教育を今やっていますよね。いわゆる普通学校といって。でも、それは決して世界の中では普通じゃない。特殊な環境です。

自分たちと似たような子どもばっかりの狭い環境です。ひょっとしたらいじめとかもそういう中の小さな違いで起きているのかもしれない。もっと世の中にはいろんな人がいるということを子どものうちから知る必要があるわけです。そうでないと、大人になって、そもそも国際的に活躍をしていこうというときに、ちゃんと訓練を受けていないということですから、いわゆる障害のない子どもたちにとっても、私は損していると、不利益だと思うんですよね。障害のある子どもと一緒に学んで、一緒に暮らしていくという、それも含めて、障害のない子にとっても教育なんです。

もちろん障害のある子どもにとって、自分は何ができるんだといういろんな発見、これは今の支援学校よりも普通の学校の中でもっと大きなチャンスに会える機会が多いと私個人は思います。

だけど、障害のない子を基準に考えてもやっぱり、インクルーシブのほうが好ましいというか、それしかないんだ、それが現実なんですから、世の中にはいろんな人がいて、いろんな人と暮らしていくというのは学校教育の基本じゃないですかね。大人になってどう暮らしていくかを子どものうちに教えていくということで、私個人の感想を述べました。済みません、どうも。

(植木) 植木です。ありがとうございました。

じゃ1点だけ、私の知る範囲での話を指摘しておきますが。例えば、最近、裁判の場では、裁判所が障害を理由にした入学拒否などに厳しい判断をする例がかなりあります。

例えば、中学校で特別支援中学校へ行きなさいという指定をした処分が違法とされたり、あるいは、保育園や幼稚園に入園を拒否されたという事例で、その入園拒否が違法とされたという裁判例がかなり相次いでいます。

そのような中では、例えば、教室を再配置すれば就学可能であるとか、移動経路を再検討すれば就学可能であるとか、あるいは場合によっては教員を1人増やすことができるはずだと、専門の教員を1人増やせば就学することができるはずだ、ということまで裁判所が認めてくれて、入学・入園拒否を取り消すという判決が出されているというケースが、続出しています。

ただ、一方では、そういう裁判例があるにもかかわらず、今、Aさんが指摘されたような問題が続いているということも現実にはあるわけで、その意味では、法律が変わり、裁判で勝つ、そのことによって社会が全部変わっていくわけでは必ずしもなくて、当事者も含めたみんなの頑張りで、そういった法律や裁判などを利用しながら社会を変えていくということが必要なんじゃないかと思いました。

以上です。

(司会) ありがとうございました。

それでは、続きまして、(指定発言者B)さん、よろしくお願いします。

(指定発言者B) Bです。

昨年、M市の入所施設で虐待事件がありました。職員が利用者の金銭を使いこんだり、性的な虐待がありました。私たちは被害者が本当に自分の気持ちやあったことをちゃんと言えるだろうかという心配と、悪いことをした職員は首にもならずに済まされたことにびっくりしました。被害者は泣き寝入り、加害者は何もない、これほどの不公平はないと思いました。

県庁に3回と施設に2回、抗議に行って話し合いをしてきました。

県の職員は被害者のことをプライバシーだからといって何も教えてくれませんでした。被害者を安全な場所に置いてあげてほしいと言いましたが、県の人は「本人にその気がない」と平気な顔で言いました。

県の職員や施設の人が聞き取りに行っても本当のことはかんたんに言ってくれないと思います。同じような目にあったら親にも心配をかけたくないので言えない、と私たちは思います。

「弁護士に会っても弁護士がどんな人かもわからないので、よう話さんかった」という仲間もいました。

性的な虐待を受けた人が傷ついた気持ちを話せるには、それなりの付き合いがあったり、人の痛みがわかる人だという信頼がないと話せないと思います。

そんな当たり前のことを県の人や施設の職員はわかってくれません。ちょっと行って「さあ、話してください」と言われてすぐ言えるはずはないです。そのように言葉のうわっ面しか受け止めてくれていないのです。残念で悔しいです。被害者はだれに言っていいか、本当に話をしていい人かどうかわからないので、話すことができないと思うとやり切れないです。

話し合いが続くと最後には「こうした事件は親告罪だから……」と言って「被害者のその気がないのだからどうにもできません」と開き直ってしまいます。被害者に「親告罪」ってわかると思いますか。わかるように教えてくれたと思いますか。普段生活していて親告罪なんて知る機会も必要もないのが普通です。法律の建前を言われてもどうにもなりません。そんなことより、つらい気持ちのまま生活するのでなく、加害者が悪いということをみんなで納得し合えるようにしていくことが大事だと思います。

そして、広島県の障害者虐待防止ネットワーク検討会議で被害者の親が「余り大げさになるとうちの子が行くところがなくなると心配だ」という悲しい実態の報告がありました。親は孤立しています。自分の子どもが虐待を受けても言えないでいるのです。悲しいはずです。悔しいはずです。でも言えないのです。

今を安心して暮らせないのに安心して暮らせる将来なんかあるはずありません。それなのに我慢しなくてはならないのです。でも、被害者から見れば、この親も加害者の側に立っているとしか見えないと思います。被害者が胸張って暮らせるように一緒に頑張ってほしいです。

私たちは県や施設の職員は「どうせよう言わんだろう」とあきらめていると思います。初めから裁判になっても証言できんだろう、とあきらめていると思います。そのあきらめが知的障害者の気持ちを軽く見てしまっているということに気づいてほしいです。

障害者である前に人間だ、とピープルファーストは訴えています。人としての価値に差をつけないでほしいです。今回の事件がなかったことにならないようにこれからも行動していきたいと思います。

また、H市の職員採用についても触れておきたいと思います。

2011年のH市の職員のうち身体障害者は107名、それに対して知的障害者は3名だそうです。その前年は、知的障害者は0でした。どうして知的障害者の数はこんなに少ないのでしょうか。事務ができないからですか。数字に弱いからですか。合理的配慮が言われますが、就職のときに知的障害者に対する合理的配慮はあるんでしょうか。

刑事事件で被告になった知的障害者に対する警察官の配慮は「拡大コピーで文字を大きくした」「難しい漢字にルビをうった」「何度も同じことを説明した」ということだけでした。私たちがかかわった裁判で、警察官が証言したことですから間違いありません。でもこれでは何の配慮にもならないということは皆さんにはよくわかると思います。でも、これを笑えますか。実際この程度のことでしかないのが現実です。

H市の募集要項では身体障害者枠でも「介助者なしに事務ができる」とか「印刷文に対応できる」と条件が細かく決められています。身体障害者枠でもせめてこれだけはできるようにと、普通に仕事ができることに限られると、いつまでたっても知的障害者は就職することはできません。読むことに、話すことに、理解することに抵抗がある知的障害者はできるようにならないといけないのでしょうか。

障害者の法定雇用率では障害者としてひとくくりに計算しているようですが、どうしても不公平を感じます。特に民間の企業に法定雇用率を守らせなくてはならない立場にあるH市がこうしたことに疑問すら感じていない現実に腹が立ちます。

ここでもH市の人たちに、やっぱり「どうせ無理」「仕事はできないだろう」というあきらめを感じます。これがある限り、私たちに平等はないように思います。

最後に、差別禁止法への希望を言いたいと思います。

大切な不均等待遇について「正当な目的」とか「やむを得ない場合は例外」とあったり、合理的配慮の不提供でも、「過度な負担」が生じる場合は例外となるように例外を設けています。これではあらかじめ批判を受けないようにかなりの自己規制をしているように思います。

差別があるのに例外や中立という言葉が出てくると、単に信じられません。これではいつまでもM市の施設のような事件や、その後の不十分な取り組みが生まれてしまうと思います。それがしようがないこととして許されてしまうことを心配します。

踏まれ続け、自分の気持ちはないかのように扱われ、周りの都合に合わせて生活させられてきた者として、この法律ではまだ私たちの味方にはならないと感じています。

でも、障害者を差別してはいけないことを真正面に取り上げた法律ができることはうれしいです。この法律をつくって終わりにするのではなくて、みんなが「生き生き、のびのび、ゆうゆうと」生きていける社会を目指して進む出発点にできればいいと思います。

そのためにも、これからも踏まれた者が痛いと声を上げていきます。仲間の力で声上げていきます。

ありがとうございました。

(司会) ありがとうございます。このご発言に対しまして登壇者の方のコメントをお願いいたします。

(東) 担当室の東です。どうもありがとうございます。

最初、虐待のことで、現実の話をおっしゃっていただきました。虐待の問題はこれまで法律もなかった状況の中で、いろいろ相談しに行っても、ちゃんとした対応や障害者の立場に立ったような相談とかいうのがなされてこなかっただろうと思います。

親自体も孤立して、結局は障害者にとって親も加害者の側に回ってしまう、そういった状況も、私が弁護士をやっているときの体験の中でありました。

こういう中で、虐待防止に関しましては、今年の10月1日から法律が施行されました。現場でその法律がどのように機能するのか、まだ始まったばかりですので見えてこない部分もあるかと思いますが、動き出すことになります。

差別禁止においても、特に、解決の仕組みの中で、障害者の立場に立った支援というものが必要となります。そこで、相談及び調整というところでは、障害者の立場に立った人たちの支援というものを念頭においているところであります。

次に、特に雇用の問題について、雇用促進法は障害者全体として雇用率を定めてありますけれども、例えば身体が何%、知的が何%、精神が何%という障害種別に基づいて義務づけはなされていません。その結果として実情は多くの部分が身体障害者に限られてしまっているという指摘もあります。

こういった指摘は推進会議でもございました。したがって、障害種別ごとに目標を定めるべきだという議論もありました。そして、現実にはそういう仕組みにはなっていないので、不公平だと感じる部分が出てくると思っているところです。

ただ、差別禁止の議論だけで、雇用促進法の枠組みを変えられるかというと、極めて難しいところがあるわけです。雇用促進法は一定枠として、何%雇いなさいという形で、雇用を促進する制度が作られていますが、差別禁止はあくまでも制度じゃなくて、個別の取り扱いにおける違いというものを問題にするわけですね。ですから、差別禁止法で個別救済はなされるけれども、そういう制度的な枠組みまで変える力があるのかどうかというのは、まだ今後検討されなければならないところだと思っております。

しかし、いずれにせよ、差別的な実態があるということは、現実問題として否定できないところでありますので、今回の差別禁止にかかる法律がこういう状態に対してもきちっと機能できるようなものであることが求められると思っております。

最後に、例外の問題についてですが、これは非常に難しいところだと思っています。どんな権利でも、憲法上の表現の自由でさえ、例外がないというわけではないわけですね。

だから、一般論ですけれども、権利ということを語る場合に、例外を全く想定しない形ではなかなか議論できないという問題が前提にあるということは理解していただければなと思っています。

ただ、その上で、原則と例外が運用上ひっくり返るのではないかという点が問題視されております。恐らく、Bさんのご指摘も、現実的には例外と言いながら、ほとんど差別が認められるような事態になってしまうのではなかろうかという、そういう点についてのご心配だろうと思うのですね。

部会意見としては、その点はひっくり返らないように、目的の正当性であるとか、やむを得ない場合という限定をつけております。

最終的には、いろんな事情を見ながら、本当にやむを得ないと言えるかどうかというのは裁判所で判断されていくということになります。

それは過度の負担についても同じことです。そういう意味で、例外が例外ではなくなる危険性も当然、問題としては内包しているわけですけれども、だからと言って全く書かないという形にはできないという、ちょっと苦しいところだというところでご理解を願えればなと思っております。

簡単ですが以上です。

(棟居) では、これも先ほどと同じように、私個人の感想ということが中心になります。Bさん、どうもありがとうございました。

このまず、虐待という問題について、法律論は今、室長がおっしゃったようなことなのですが、もちろん、閉鎖的な施設ですから、虐待というのは、絶対ゼロにはならない。むしろ起きるはずだというふうにして、そうならないような仕組みを、つまり常に第三者、外部の人の目が行き届くような、そういう仕組みを設けて防止していくしかない。

しかし、根本的には施設で働いている人の一部に仕事にプライドを持っていない人がいるということだと思います。自分自身の仕事にプライドを持っていれば、その仕事で性的な虐待とかできるわけがないです。だって、それは一番自分にとって大事な仕事であれば、恐らくその人にとって、自分が生きているということのあかしの1つは、このM市の施設で自分が頑張って働いているという、そのこと自体がその人の生きているあかしですよ。そういう自分の一番大事なものを、性的虐待のチャンスとして利用するというふうにして汚せるかというと、普通ならそれはできない。

だから、そんな事件を起こす職員さんは、自分の仕事に何にも誇りを持ってないです。

でも、もちろんその人の問題もあるけど、精神的に非常に追い込まれる職場の雰囲気というか、管理をする側、所長さんとか県の偉い人たちの問題もあるかもしれない。もちろん、一番、悪いのはやっている本人ですよ。だけど、本来大事な自分の職場で性犯罪をするっていうのは、例えば小学校の先生が、女子トイレにビデオを置いてとか、漫画みたいな話じゃないですか。自分を否定している自殺行為じゃないですか、一種の。そういうことをする職員がいるというのは、私は何か個人の問題だけじゃなくて、職場のいろんな人事の問題とか、県の中で、いわば仕事の中で軽く扱われているとか、職場の雰囲気とかにも問題があると。

だからこそまた、ほかの職員がなかなか気付かない、そういう事件が起きていても真剣に取り上げないということになったりするのかなと思います。非常に残念です。

それから、2番目のH市の職員採用についての合理的配慮。この合理的配慮というのは採用試験という採用のときだけではありません。雇った後ずっと、例えば、職場に通勤するときに車が必要な人には、マイカーで通勤できるような駐車場提供、あるいは職場の中でも、例えば、いすの高さとか、その人に合った補助的な器具とか、そういういろいろな物の提供が必要になってくる場合がある、合理的配慮として。

もちろん、世界で何台かしかない、ものすごい高い機械とかそういうのは無理ですけれども、一定の合理的配慮をH市の側がして、知的障害者が働けるような工夫を彼らがしなきゃいけない。

そのときに、その障害者の障害の特性に応じて、この人はこういう仕事ならできるというふうに分けていくべきですよ。例えば、書類を扱う仕事といったら、ワープロで字を入力したり、コピーしたりいろいろあるけれども、その中のある部分だけをその人に全部任せるというふうに仕事を分けていって、障害を持っている人が続けられる仕事、それを提供するというふうにH市の側が仕事の細分化、つまり細かくその人に向いた仕事、例えば市立の図書館なら本を並べていくのは力はいるけど、1日やるのは根気が必要で、この人にはできるなら、それをずっと頑張ってもらう。

でも、ワープロの入力は苦手だったら、それは私がやりますよ、というふうに、いろんな人がそれぞれ自分の得意なことをやれるように、仕事を細かく分けて合理化するという考えはあり得ると思います。

もちろん、H市だけがどうしてやり玉にあがるんだと思われるかもしれないけれども、たまたま問題提起をされたのがH市なので、決して市が遅れているという意味で言っているのではないです。

正当な目的というのが、せっかく不均等が差別だと言っていながら、先ほど、私も話のところで、言いよどんだというか、そこら辺の説明は汗かきながらやっておったんですが。

正当な目的があると差別が差別でなくなるみたいな、ある種のマジックじゃないか、またごまかしているんじゃないかというふうにBさんは警戒されたんですよね。これは当然です。

今、室長は、「いや、これはあくまで例外なんだから、そんなに拡大解釈はしません」というふうに内閣府を代表して宣言されました。

しかし、私個人の感想でつけ加えさせてもらうと、この客観的に正当な目的かといっても、まだ抽象的ですよね。だから、結局大事なのは、その仕事の業務内容に照らして、客観的に正当な目的かということです。例えば、首にものすごく圧力がかかる航空自衛隊のパイロットとかいう特殊な職業がありますよね。そういう特殊な職業のところに、首の頸椎に障害がある人がそもそもつけるかというと、これは多分、地上で遠隔操作をするアメリカで持っている、そういう特殊な飛行機だったら何の問題もないかもしれないけど、自分が乗るとなると、宇宙飛行士並みに、すごい横から圧力かかったりするわけで、仕事の内容からして、だれにでもできる仕事ではない、つまり障害がない人でも、もう、首が折れてしまうようなことがあるわけです。

それを障害のある人の特性によっては、もちろん、無理な場合がありますよね、というふうに、客観的な中でもさらに客観性を追求すべきだろうと私個人は思っています

どうもありがとうございました。

(司会) よろしいでしょうか。

それでは、続きまして、M高等学校1年C君、お願いいたします。

(指定発言者C) 僕も教育についての話なんですけれども。このレジメを読んだら、学校側の体制とか、教育委員会が障害があることを理由にして、普通学校に入れないことは差別だからやめようとか、教育委員会とか学校側の話が中心となっているんですけれども。

僕はこのレジメに書いてあることだけでは、差別はなくならないと思っています。

なぜかというと、いくら学校側が障害のある子どもを受け入れる体制をつくったとしても、結果的に一緒に生活していくのは子どもであって、僕たち子ども自身の意識を変えないと、やっぱりこれは差別がなくなったことにならないと思います。

今の状況だったら、例えば、英語がほとんど話せない状況で、外国に行くチケットだけもらって、留学に行ってこいみたいな感じで、行ったとしても、向こうの現地の人にも、それを受け入れる体制がなくて、結局、1人寂しい状況になってしまうみたいな感じになるような状況になっていると思います。

なので、例えば、僕が小中学校で障害のある友達と一緒にいて思ったりしたこともあるんですけど、やっぱり障害ということに対しての僕たちの知識とか不足しているので、そこを道徳とかそういう教科の中で教えてもらったり、あとは、基本的なことで差別は、差別というか、自分と人が違うからといって、それをいじめの材料に使ったりしてはいけないということを、もっと知識を深めるようなことをしていかないといけないと思います。

なので、本当に差別をなくすのが目的なんだったら、そのように障害のない子どもへの教育とか、気持ちをつくるための材料となるような言葉も、この提言の中に入れるべきではないかと思います。

以上です。

(司会) ありがとうございます。これに関して、登壇者の方よりコメントをいただけますでしょうか。

(東) 担当室の東です。どうもありがとうございました。

率直なご意見いただいたと思っています。部会の意見では、もっぱら教育を提供する側の差別に視点を置いた形で書いてあるのですけれども、教育は、学校の先生だけじゃなくて、生徒同士のまじりあいというのが不可欠な要素になるわけですから、子どもさん同士の中で起こる差別というのをどうなくすかという視点がとても大事なんだというご指摘だろうと思います。

そういう意味ではいじめと同じで、様々な個性を有する子ども同士が、相手のことを理解して、違いは違いとして認めながら、等しくつき合っていくことが重要で、そのための教育、啓発、そういったものが必要であるというご意見だと、理解しています。

それで、そこはそのとおりだと思っています。部会においてもCさんがおっしゃられていることと、特段、違う意見ではないと思います。

ただ、なぜその部分を部会意見には書いてないかというと、差別禁止に該当するということになると、差別を受けた者が差別をした者に対し一定きちっと物申すことができる、法的にもちゃんと言えることができるという仕組みになっていくわけです。

しかし、子どもと子どもの中で起こる問題を、差別禁止という形で取り上げて法的に処理するということが妥当かという点が一番のポイントだったと思うのです。それは子どもの中で起きるいじめも、似たような問題なんですね。いじめも子どもの中で起こる差別も、いずれにしても本当に大変な問題ではあるのですけれども、こういった形で法的にダイレクトに対応するということは適切ではないという判断が部会のメンバーにあったんだろうと思っています。

しかし、何も書いてないので、「どうするんだ、そこを放置していいのか」とおっしゃられると、今、Cさんが言われたとおりで、その点はやはり考えなきゃいかんだろうと強く思った次第です。

どうもありがとうございました。

(棟居) 専門家と称する者や、百戦錬磨で法律論もバリバリの障害当事者など、そういうある意味偏ったメンバーで作った意見書ということで、本当にこれで実現するのかという、最後の最後まであなたたちは考えたのかという、非常に重い、今、問いを発せられたと思います。

それに対する、私の個人の、これも感想で、無責任なことを言うと、まず、とにかく早い段階、例えば、先ほど、Cさんは留学の例を出された、非常にいい例です。実はですね、私、東室長と、あともう1人、政府のお役人と3人で、明後日から4、5日、アメリカに現地調査、それも司法省とか国連とか、いろんな偉い人ばっかりに会って、びっちり1時間ずつのスケジュールで、全部英語で、何を聞いてこいとか言われてます。

正直、もうどうしようかと、もっと中学のときにちゃんと英語勉強しときゃよかったと、本当にもう真っ青です。何が待ってるやら、わからん。この広島でのフォーラムだって、私にとっては大冒険なんですけど、これが明後日にはもう太平洋渡ってこいというような、それだけ障害者の法律を前へ進めるためにはものすごく努力もいるし、でも、私ごときがちょっと頑張ったぐらいでどうこうなる話じゃない。

今、何を言っているかというと、留学を私が今、例えば、留学に目覚めてですよ、もう明後日行ったきり、1年ぐらい帰ってこないと、それで必死に勉強したって、それこそ周りもだれも構ってくれないし、だれかが構ってくれても、覚えも悪いですよ。

しかし、例えば若者が1年留学して、周りも最初は、あいつ、なんだ、変なやついるなと思うかもしれない。だけど、私の甥っ子がヨーヨーの達人で、関東地区ベストエイトまでいったのがおるんですわ。この男が自分のホームページでヨーヨーのうまいところをアップしておったら、世界中からアクセスがある。

たまたま、その彼が、アメリカに行った、イギリスに行った、短期の留学を何べんかさせてもらっているんだけれども、どこに行ってもヨーヨーつながりですぐ友達ができる。それどころか、君はひょっとしてあの彼か、というふうに向こうがもう知っていたりするわけですね。

もちろん、そんな何か世界チャンピオンみたいなすごい技はみんながみんな持っているわけじゃない。でも特に若者の場合には、何かのきっかけで結びついていくというふうになるわけで、これは障害者、障害のある子どもがいわゆる普通学級に入って、最初は孤立感や戸惑いがあるでしょう、周りもそうでしょう。

だけど、共通のものがあるんです。若者だから、必ず。その中で必ず人の輪はできるし、またそれは普通の学級に今までおった障害のない子どもらにとって、実はこれはいわば教室内留学で、自分らがこういう経験を今することは意味があるんだなというふうに、賢い子なら思うはずです。

ただ、実際にはそんなに賢くない子がいっぱいいるのと、何より、先生が、うっとおしいなと思っていると、子どもはみんな見抜いちゃいますね。だからやっぱり先生が上手に多様な子どもたちをまとめていくということができるかどうか。

指揮者でも、それは普通のオーケストラでも、いろんな楽器をうまくまとめなきゃいい音出ませんよね。でも、中にゲストで三味線のソリストなんかを呼んで、それをクラシックのオーケストラでもうまい指揮者だったら上手に演奏ができるんですよ。

そういうなかなか交わりにくいものでも、うまく混ぜる、やっぱり教育力が先生に必要。先生が、だから、内心めんどくさいな、なんて思ったら、これは論外ですわ。先生が、これはおもしろくなったぞ、ぐらい思ってくれないと、統合教育、インクルーシブ教育、それはうまくいきません。

心の問題というのはまさに教育の課題ですよ。この意見書とかの話じゃない。突き放して言うと。これは先生らが、今こそ、自分たちの人間力、教育の技術力も全部フル総動員して、なぜ教師になったのかと、この日のためになってるんだと思ってもらいたいと個人的には思います。

どうも個人の感想ばっかりで申し訳ないが、以上です。

(東) 先ほどは部会の意見だったんですが、僕は施設にもいたし、普通学校にもいた経験があるんですね。

小学校のとき思い出すのは、やはりいじめとか差別を受けた体験なんですね。でも、だからといって、じゃあいじめをした、差別をした、近所の友達と縁が全くないかというと、逆に、ケンカした障害のない友達は、かえって今でも友だち関係が続いているわけです。

表面的に、あの子は障害があるから、大事にしてあげなきゃいかんね、みたいな形で、それなりにしかつき合ってくれなかった子どもたちは、今、関係が少ないんですけど、本音で正直につき合ってケンカしてくれた友達のほうは、今でもつき合いが続いております。どうしてなんだろうなと思うんですが。そういった矛盾というのを子どもは抱え込むんだろうと思うんですね。

大事なのはやはり、先ほどの部会意見に戻りますけれども、そういう違う者を分けない。矛盾を抱えているそういう子ども集団っていうのは、大人になってもそういう矛盾を抱えているわけで、その中でどうお互いに人間関係をつくっていくんだということを、子どもにぶつけて、その上で、先生がどうコンダクトをするかという、先ほどの棟居先生のご意見につながるのかなと思います。

もちろん、子どもだから、ギャングエイジだから、好きなほうにやらせればいいっていう話じゃないんでしょうけど。生身の子ども、違いがある子どもを違いがあるものとして、まずきちっと正直にお互い認識させた上で、しかしながら、それが人格的な意味での差異ではないことについて、どう相互理解していくかという、そういうものが、インクルーシブ教育として問われているんだろうなという感じがしました。

以上です。

(司会) ありがとうございました。

それでは、続きまして、障害団体KのDさん、お願いいたします。

(指定発言者Dさん) 障害団体KのDといいます。障害団体Hの事務局長も務めさせていただいております。今日はせっかくネクタイなどしめてきましたので、少し立って、皆さんに見えるように発表させていただきます。

一応、事業者からの立場ということでの発言になります。

まずは、先ほど、棟居先生、100時間というふうにおっしゃっていただきましたが、本当に長い時間、本当にご努力を重ねていただいた作業に感謝をいたしたいと思います。とりわけ、差別という非常に主観的な問題になってしまいがちな問題ですけれども、これは不均等待遇ですとか、あるいは合理的配慮の不提供、こういった形で分類していただいたと、そういう客観的な判断基準を示していただく、こういう作業に取り組んでいただいたということに対して、本当にお礼申し上げたいと思っております。ありがとうございました。

事業者、私たち、通所の事業ですとか、あるいは相談事業ですとか、さまざまな事業に取り組んでいますが、こういった事業を展開する上でも、こういった指針というのは非常にためになる、役に立つと考えているところです。

さらに、各論は大変だったという、なかなか難しいというお話を、先ほど、先生からしていただきましたけれども。それをやっぱり総論に基づいて1節の公共施設から交通機関、10節の司法手続きまで、こういった各分野で詳細に分析していただいた、提示いただいたということについて、本当にこの辺がきちんと法制化されていく必要性と言いますか、この辺非常に大きな意味を持つんだろうなと思っておりますので、ぜひ、先生方のご努力も合わせて、私たちも努力を進めていきたいと思っているところです。

ただ、ちょっと、そういった意見書の大枠を支持させていただいて、合わせて、ぜひ法制化をと考えているところなのですが、最後の、とりわけ、紛争解決の手段のところなのですが、ここはどうしても、もう少し、ご明確にしていただきたい。あるいはもう少し強化をしていただきたいなと思っているところがございます。

これは当然、先生方のご議論の中であったところだろうと思うのですけれども、差別を解消するということは、ひとつは障害者の皆さんの幸福追求権ですとか、あるいは平等権ですとか、こういったものを障害のない他の者と平等に保障していく、こういう行為になってまいります。当然、これを進めていくとすれば、相手方の経済活動の自由ですとか、あるいは言論行動の自由ですとか、こういったところに一定の縛りをかけていくと、こういういわゆる権利相対と言いますか、相対する権利の間での調整がどうしても必要になってくる、この辺が紛争を解決するということになってくるんだろうなと思っているところです。

私どもも相談支援事業に取り組ませていただいているのですけれども、その中で解決する手段として相談支援事業の重要性というところが強調されているわけですけれども。障害者に寄り添って、あるいは複雑な生活問題を解きほぐして、あるいは制度や取り組みにつなげていく、こういったところが相談支援の事業の非常に大きな特徴かなと思っていますし、基本的には障害者の皆さん方の権利を生活の中で実現していく、そのためのサポート、あるいはソーシャルワークというのが相談支援の中身かなと思っているところです。

その中で、行為を制限するですとか、あるいは禁止をするですとか、こういった権限を相談支援事業所というのは持っていない。実は、身近な話をしちゃいかんのですけれども、S市でも、指定の取り消しになったケアホームの入居者の方々の行き先と言いますか、この辺を相談支援事業所のほうで調整しろと、こういった市からの命令と言いますか、委託のお願いがあったわけですけれども。

本人さんはそのまま住みたい。その指定の取り消しになった事業者の方も住まわせたい、こういうふうにおっしゃっている中で、相談支援事業が何ができるかということになってくると、本当に寄り添ってお話を聞くというところぐらいしかできなくなってくる。

その中で実際、どういう人権状況が確保されているかというところも非常に難しいと、いうところもあって、やっぱり、なかなかその権限とか措置とか、そういった部分を持たないところに、相対する権利の調整というのは難しいんだろうなと思います。

その意味では、調停ですとか斡旋ですとか、こういったいわゆる第三者機関の、2の項目で書かれていらっしゃる部分の機能というのが大きいのだろうなと思うのですが。

この委員会なり審議会なりというものが一応例示されているのですけれども、この機能自体も今果たしてどうなのかなと。とりわけ、行政の施策の運営の中で、差別的な事象がかなり生じてくる。また、これもS市の事例を申し上げて申し訳ないのですけれども。例えば、知的障害の皆さん方の移動支援という事業。これを例えばコンサートに行っている時間帯ですとか、あるいは会議や学習会に行っている時間帯ですとか、この時間帯についてはヘルパーさんの報酬から外すというような施策が、今、S市でとられようとしてきています。

明確に知的な障害の皆さん方の権利と言いますか、そういった社会参加の権利と言いますか、こういった部分を差別してきている、合理的配慮が全く欠けている、まさに不合理的配慮という施策かな、施策運営かなと思うのですが。

これをじゃあ、紛争解決の方法としてどこに持っていくのかということになってくると、明確な第三者機関といいますか、こういった機能がないと、なかなか解決していかないところかなという気もしています。

その辺、ぜひ、これから以降の、私たちもいろんな形で意見述べさせていただきたいとは思うのですけれども、この紛争解決の手段の部分については、もう少しきちんとした議論なり、あるいは評価なり、この辺をぜひお願いできればなと思っているところです。

大きな差別はだんだん見にくくなってきているかなとは思いますが、小さな差別はまさに積み重ねられて、それが大きな差別になってきている、特に行政の仕組みの中でそういったものがたくさん生まれてきているというところが、これがHDFの中で議論をしてきたところでもあります。

その辺をぜひ、小さな差別を見逃さないという形での紛争解決の手段のところ、きちんとご議論いただきたいなと思っているところです。

骨格提言の轍を踏むこともなく、差別禁止法が今回の意見書を反映したものになるということが非常に大切なことだと思っていますし、その辺の運動を私たちも、ぜひ地方からつくっていきたいと思っておりますので、先生方の力もぜひ、お借りしたいと思います。よろしくお願いします。

(司会) ありがとうございます。それでは、これに関しまして、登壇者の方よりコメントをいただけますでしょうか。

(東) ではまず、担当室の東からです。

おっしゃっていることはそのとおりだと思っています。

そもそも、差別が起きたときに、相談する機関が現行法上、ほとんどないんですね。一般相談みたいな形で相談を受けるところはあるでしょうけれども、差別というものはこういうものであって、そういうものがあった場合、どうするかということをきちっと正面から受け止めた相談機関とか調停機関というのは現状としては少ない。もちろん、人権擁護委員会等で相談を受けられますけれども、定義なんかがきちっとしているわけでは必ずしもありません。

差別禁止条例の制定過程の中で出てきた話として、これまで差別を受けてもだれに相談しようもなかったんだ、だから結局は自分の心の中にしまいこんであきらめるしかない、我慢するしかなかったということがあります。

そういう事実を踏まえて、部会では、紛争が起きた場合に、どういった紛争解決の機能が求められるかという議論がありました。その部会では2つのことが言われました。1つは最初に相談と調整という機能が求められるということです。自分が受けた待遇が差別であるのかどうなのか、相談の中で判断してもらい、差別と思われる場合には、より簡単に解決できるような方法があるのかどうかという観点から、まず最初に、簡易な仕組みが提案されています。どちらかというと第三者機関というよりも、障害者を支援する側の人間がそういう相談を受けて、支援する立場として相手方との調整に入るという、そういった仕組みが最初の仕組みとして提案されています。

しかし、それだけではすべてを解決できないのは目に見えているわけです。相手方にこういう問題があるから何とか理解して解決してくれと言って、解決する場合もあるでしょうけど、もっと利害対立が鮮明にあったりする場合は、なかなかそういうお話だけでは難しい。

それで、どうするかということですけれども、調停、斡旋等の第三者機関による合意的な解決を目指す仕組みというものが2番目の仕組みとして提案されております。

この調停等でちゃんと解決するためには、当然、調停等ができる権限、機能を持った機関というものが求められるわけです。それで、具体的には、例えば差別禁止条例があれば、調整する権限を持ったところがあるのかもしれません。だから、そういう場合にはそういうところで調停、斡旋等を考えてみてくれませんかと部会意見は提案しています。

条例がないところでは、例えば、障害者基本法に基づく地域の組織がありますので、それをベースに、そこに調整できる権能を今後与えていくという方向ではどうなのかということを言っております。

ですから、部会の意見では、そういう機能を十分に持っているという組織が既に存在するという前提で書いてあるわけではないのです。ですから、ご指摘の部分は、必ずしも部会意見で触れられておりません。

さらに、部会の意見としては、最終的にはそこでもだめな場合は裁判所の司法判断で解決していくという仕組みを提案しております。ですから、部会意見としては、一番基礎的なものとしては、身近なところで相談に乗ってもらって、こちらの言い分をもとに相手方に調整に入っていただくという仕組みをベースにして、その上で解決できない部分を第三者機関、公平な中立な機関による調停とか斡旋という仕組みで解決していく。さらに、それがだめな場合は裁判所という、こういう3つの構造で成り立っているということです。

なんですが、今おっしゃったように、初めての提言になっておりますので、不十分な点は確かにあるんだろうと思っています。大変いいご意見をいただきました。ありがとうございます。

(棟居) 私からも補足というか、今の室長以上のことは個人の意見ということにすべてなりますけれども。

もちろん委員の中では、今、Dさんがご指摘になったような強力な権限を持った第三者機関をつくらないと、結局、権利救済が、特に相手がある話なのでうまくいかないということも最後まで熱心におっしゃった方ももちろんおられる。

我々も、人権救済法というような、もっと包括的なものの動きがある中で、そういうのを気にしながら議論をしておったというのは事実です。

ただ、他方では、最終的には、つまり我々は何が権利侵害、何が差別なんだということの中身の話はさっきも申しあげたようにきっちりしていくので、そしてガイドラインという形で当事者も参加した中で、不意打ちを食わないように、一般の事業者の方、特にメディアの方、あるいは商売をされている方々が不意打ちを食わないように、あらかじめガイドラインを作成して示していくということで、極力、紛争を未然に予防していくと。

他方でどうにもうまくいかんときは、やっぱり最後はこれは裁判なんだということで、これ以上のいわば、強い第三者的な機関は、およそございませんので。

あとはスピードの問題と、それから特に障害者が個別というか、個々の障害特性に応じて、あるいは障害者1人ずつの置かれた環境に応じて、いろんな人間関係とか社会関係とか、あるいはその施設の中、そういう中に置かれていて、そこでの、まず関係を修復する、決してこれは、先ほど、M市のケースでBさんが指摘されたような、もう泣き寝入りだということではなくて、つまり、その施設の中での関係をよくして、健全化して、2度とそういうことが起きないようにしていくのが、一番手っ取り早い解決なんじゃないかというふうに、我々は一方で考えたわけです。

つまり、Dさんがご指摘になった、お使いになった言葉で、小さな差別を見逃さないとおっしゃった、まさにそのとおりです。

その小さな差別を解決するために、強力な機関を持ったいわば大きな第三者機関というもので、戦艦大和でいくのか、それとも小さな差別に対して小回りのきくような簡易迅速な手続き相談とか調停斡旋とか、ある意味、権利の実現という点でいうと、くつの上からかくみたいな、まどろっこしさはあるけれども、しかし、それで解決できれば一番いいじゃないかと、関係が修復できるんですから、そういう考えで、一方では議論するというようなことで、ずっと強力な武器がいると考えながら、現実にはいわばそこ、自然治癒力というか、いろんな今までの関係を総動員しながら、うまく治していくという方法もあるんじゃないか。

そして最後にはガツンと裁判で、そのときにはガイドラインもあるし、また、何が差別なんだと、合理的配慮してないじゃないかと、こういう法規範は提供できるんじゃないかという、我々なりに硬と軟を取り混ぜた、つまり両面作戦でいってはおるんですよ。

ただ、ご指摘のように、というか、やっぱり関係者の熱心な目はごまかせんものだなと思うのは、結構いろいろ手続きについて書いておるけれども、実際のところ、腰砕けなんじゃないかと言われると、確かにもっと強力な立場をとれという議論はあった。そういう一番強力な議論になっていないというのは、ご指摘のとおり。

ただ、我々はとにかく、これは障害当事者の方が、特にその中でも一番最初に熱心に、そして非常に考え抜かれた発言をされていた太田さんという委員の方が、脳性まひだと思うんですけれども、彼がいつも言っていたのは「とにかく現実的な法律を早くつくってほしい。理想を追うのはもういいんだ」ということでした。

私なんかは、とにかく、現実化というか、もうそれこそ、あれですわ、地べたを這ってでもとにかくこの差別禁止法をつくりたい。あとは運用で、あるいは裁判によって内容が少しずつでも膨らんでいくという、そういうふうに100時間のうちの90時間ぐらいから後は考えておったというのが、多分、私の主観としては実際のところです。

どうも失礼しました。

(植木) ほとんど、話されてしまって、残りがないんですが。ちょっと補います。若干これは引いた立場での話になるので、当事者の方は本当に歯がゆい話かもしれませんが。

そもそも、例えば法律ができて、それがすごく社会に影響するような法律で、その法律が施行されたら、翌日から社会がまるきり変わっちゃうということは実際にはないわけです。

ですから、例えば差別禁止法ができて、それが効力を持ったら、翌日から世の中から差別がなくなるなんていうことはきっとないわけですね。それが恐らくは、例えば、公的機関が調停、斡旋することによって、この程度のことをやったら差別だとして違法だと判断されるんだとか、最低この程度の合理的配慮を提供しないと違法なんだというふうな公的な判断が示され、さらには裁判で、そのことが明らかにされていくことの中で、だんだん社会的な相場ができていくということなんだと思います。

ここまでやったら差別になる、そして、これ以上のことはやらないと差別になるというふうな相場がだんだんできてきて、それで差別禁止法が社会に浸透していくというプロセスになるのではないかと思います。

ですから、先ほどの話にちょっと戻っちゃいますが、最終的には法律ができた後も、当事者を含むみんなの努力が必要になってくるのだということなのだと思います。

(東) どうもありがとうございます。これで指定させていただいた方々のご意見を伺ったのですが、もう少し時間があると思います。

(司会) はい。

(東) それで、できれば、会場からご発言いただきたいのですが、どなたかいらっしゃいませんでしょうか。それでは、今、一番前の方からにしましょう。時間があまりありませんので、できれば1分半ぐらいでお願いできますか。

(フロアよりEさん) 済みません。視覚障害者です。障害団体SのEといいます。

1分半というのは非常に厳しいです。以降、抗議申し上げます。この情報があるのは10月5日でした。あることもほとんど知らなかったということで、今後、各地でやるので、もっと広く周知していただきたいと思います。これ、意見とは違いますので、お願いします。

これから話します。私はこの話をどこに行ってもするのですけれども、国が金融機関に違法送金であるとか、マネーロンダリングを防ぐということで、本人確認を銀行に求めたことがあります。私、口座開設に行きまして、サインをしようとしたら、ここに書けって、その枠の中に書かないと口座新規開設はできないということがありました。

これは問題提起して、金融庁から方針を変えていただいて、今はサービスとして、銀行員が代筆をするという形になっておりますけれども、視覚障害者、あるいは上肢の障害者、幾人も同じ相談を受けました。

銀行取引ができないと、私どもは命にかかわります。こういうふうに契約で自分が意思表示をしようとする方式を向こうに決められるということになりますと、私たちは命にかかわることになる、ということで、ぜひ、法律では、契約について、契約の自由をうたうような条文が欲しいなと考えております。

ここから質問です。1点、法律ができないと、どのような具体的な形になるか、法律がですね、わかりませんけれども、これは権利の法律なのか、禁止の法律なのかということです。具体的に言いますと、これは差別だと私が思う、どこに行っても解決できない、裁判すると、これは差別だというのは私が証明するのか、相手がそれは差別でないというふうに主張するのか、これがはっきりしません。

そこは多分、法律をつくるときの、条文をつくる過程に任されているのだと思いますけれども、これは差別だと私たちは言うだけで、相手のほうでこれは差別でない、先ほど正当化事由のお話がありましたので、なんとなく相手方がそれは言わなきゃいけないというふうに仕組みをつくるべきだというふうにお考えだというのはわかるんですけれども、なかなかそこがちゃんとわからない、ということで、総論と各論というのをもう1度、どこかで整理いただいて、ぜひ、私たちが権利として、自分の、例えば契約の自由の権利を行使できるような、そういう裁判の仕組みを考えていただきたいと思います。

以上です。

(東) ありがとうございました。では、次の方、お名前とご所属をお願いします。

(フロアよりFさん) 障害団体Mの代表のFです。私も視覚障害者です。1分半ということなので手短かに。

まず、資料の中に視覚障害者用の点字資料はあるんですけれども、アンケート用紙が入っていないのですけれども、これは資格障害者というのはどのようにアンケートを回答したらいいのかというのが1つ、これは運営上のものですけれども、お願いします。

教育の話、Aさんの発言に尽きると思います。私も付け加えることは、私も視覚障害当事者で、盲学校と普通学校の両方を経験してきて、統合教育のよさ、もちろん楽しいことばかりではありませんでしたけれども、地域の普通学校に通ってよかったと感じています。

ただ、今、一番問題にされがちなのは、いじめの問題が社会的にクローズアップされてて、この間も視覚障害者団体の大会で統合教育に関する議題を提出したのですけれども、これは障害当事者であり、障害児の親であるという方の発言で、私の子どもは今は普通の幼稚園に行っているけれども、小学校は普通の学校に入れたくないと。入れたら私の子どもは確実にいじめられて、殺されるんじゃないかと、そういう発言があって、そういう考えで特別支援学校に入れたい、インクルーシブ教育などもってのほかだと言われるような方もおられると思うんですけれども。

いじめの問題というのは特別支援学校にはないかというと、全くそうではなくて、私はどっちかというと特別支援学校のほうでいじめられた経験を持っています。物を隠されたりとか、上靴がごみ箱の中にあったりとか、そういう経験は普通学校よりも特別支援学校のほうで経験しました。

先ほどの高校生の方の発言にもありましたが、周りの子どもたちの意識というのも変わらないといけないんじゃないかというのは全くそのとおりだと思います。

それを変えていくためには、やっぱり、まず、ともに学ぶというスタートラインに立つ必要があると思います。どんな障害があっても、その地元で学んでいく、ともに学ぶ上で、お互いに障害児の側も、健常児の側も、意識を変えていく、それは自然にやっていかなきゃいけないことじゃないかなと感じています。

まだまだ障害児は特別支援学校に行きなさいと、特別支援学校の入学を強要されている場面は多いと思いますが、ぜひ、何としてもこの部分だけ、ともに学ぶという視点に立って希望するすべての障害児が普通の学校で学べるようにしていただきたいと考えています。

以上です。

(東) どうもありがとうございます。視覚障害者の方のご発言が続きましたので、ほかにも視覚障害の方、いらっしゃいませんか?いらっしゃらないですね。では、次の方に移らさせていただきたいと思います。

(フロアよりGさん) 小学校の教員をしていますGといいます。

2年間ほど特別支援学級を持ったんですけれど。その立場になったときにすごく感じたのが、いろんなことを遠慮したり、お願いしたりしてしまう自分に、すごく嫌だったんです。

自分のクラスの子が通常の学級に交流として入っていくときに、なんで、自分は遠慮してしまうんだろうとか、お願いしてしまうんだろうというのをすごく思いました。

親御さんたちはこんな思いをずっとされてきたんだと思いました。

どちらが原則で、どちらが原点になるかで絶対違ってくるんです。そういう意味では、今回、一緒に学ぶということがまず、原則、原点になるということが私にとってはすごく大きいなというふうに思います。

障害のある子がみんなと一緒に、いろんな子がいるのが当たり前なのに、そこで必要な配慮があれば、合理的な配慮としてやっていくことが当たり前なのに、でも、今の学校現場というのはどうかなということを考えたときに、当たり前のことをすることが、合理的配慮をしなくてもいいというか、過度な負担とされるときには、合理的配慮の不提供、ただし相手にとって過度な負担が生じる場合は例外になるということで、学校にとって負担であるとか、教職員にとって負担であるとか、周りの子どもにとって負担であるとかということで、排除されていくということがないようにしたいということをすごく思います。

私は私で、内側から学校というものを変えていきたいと思うので、それを外側から皆さんにもサポートしていただきたいと思います。

今の学校でメインになることというと、どうしても数値とか、比較とか、規範とか、そういうものが学校の価値観の大きなところを占めていて、本当に私たちが大切にしたい子ども同士がいろんな違いがある中で育っていくとか、つながっていくということがなかなか語られずに、教職員が本当に、ここまでいろんなものが詰まって、アップアップしているんです。アップアップしている中で「え、そんなことは負担よ」というふうに、障害がある子が入ってきたときに「そこまで自分たちが配慮ができんわ」ということにならないように、本当に変えていきたいと思いますし、私は本当に、先ほど矛盾を抱えた集団という言い方をされましたけれども、そういうスルーッと通らない、いろんなことがある集団というものは絶対に人間の形成については必要なものだと思っています。

以上です。

(東) ありがとうございます。部会意見を支持していただくと言いますか、もう少し頑張れという方向で意見をいただいたような気がいたします。その中で質問が2つほど出ていましたので、それについて、植木先生のほうで、証明の関係でご説明していただけませんか。

(植木) 最初の方の質問にお答えします。まず、権利の法律か、禁止の法律かと言われれば、明らかにこれは権利の法律だということになると思います。つまり、相手方に対して差別を禁止し、それを罰するということがメインの法律というよりも、当事者に権利があることを認める。つまり、当事者が差別された場合に、例えば何らかの形で救済を受ける、つまり、例えば何らかの合理的配慮を実際にもらったりとか、それに代わる損害賠償をもらったりとかいう形での救済を認める法律なので、権利の法律か、禁止の法律かという問題をたてられれば、それは明らかに権利の法律なんだということになると思います。

ただ、2番目におっしゃった、差別を立証する責任がどちらにあるのかという話で、ここはある意味で伝統的な法律学の壁があって、最初は差別されたと思われる側が、差別があったことの立証をしなければいけないという壁が立ちはだかります。

なんでそんな壁があるのかというと、これはいきなり「差別しなかったことを証明しろ」と求めることは、やっぱり困難ですから、最初にこんな出来事があって、その中で私はこういう差別を受けました、という、最初の証明段階での責任はやっぱり差別された側にあるということです。

ただ、そこでの証明の程度をどう考えるかということについては、この後の裁判の中で工夫していくということになるんだと思います。つまり、実際に、例えば知的障害だとか、あるいは精神障害、さまざまな要因で立証力の弱い人の、その立証をどういうふうに援助していくかということが実際の裁判の中で課題になってくるということなんだと理解しています。

(東) ありがとうございました。

棟居先生、特に義務教育課程での過度な負担についての部会意見があったと思うのですが、その点ご説明を願いできますでしょうか。

(棟居) いろんな議論があって、ちょっと私個人の意見ということだろうと思うんだけれども。

教育というときに、先ほど、フロアで小学校の先生がご発言になりましたが、今でもアップアップだと、これは私も大学教員なのでよくわかる。それで全部数字ですよね。数値目標とか、中期計画とか、相手は人間なのに、牛の乳がなんぼ出たか、みたいな話をしとるわけです、学校は。その延長で、多分、学力テストの点がいい、悪いみたいなのがある。

しかし、私は政策評価はしません。政治的な評価は、今はその場じゃないと思う。だけど、個人の教師として、常々感じておるのは、これだけ塾に行ったり学校できちっと先生が必死にプリントを配って教えている、今、障害のない子の話、してますよ。その割に、大学に来て、全然賢くなってないんですよ。一生懸命お金を送っておられる親御さんには大変申し訳ないけれども、それは単に子どもが減っているから、実質のいわゆる偏差値がおまえのところ、下がっとるだけと違うんかというクールな意見もあるかもしれません。

しかし、いろんなところで話を聞いても、特別にできるとか賢いとか、すごい子というのは減っている、明らかに。同じ子ばっかりです。それは、教育の成果かもしれません、これだけお金と手間かけているんですから。

でも、何をやってるのかなと思いますよね。だって、個人は皆違うし、一番この得意なところで輝くのが自己実現ということでしょ、結局。

だけど、例えば野球とかでいったら、まっすぐ真ん中に投げるという、その練習ばかりさせているんです、全員に。だけど、プロ野球で実際に、ここでおられる方でも知らない人がいっぱいいるかもしらんけど、昔、村田兆治というピッチャーがいたんだけど、あの人なんかもめちゃめちゃですよ、投げ方から何から。そういうふうに自然に変化して、すごい癖があって、だけど、だから、だれも打てないという、社会で生きていくというのはそういうことなんですよ。その人の一番得意なことが1個でも2個でもあれば、それで十分やれるんですよ、ほかが全然できない、あえて言えば変な人でもですね。

ほかの人のお手本にならなくても、1個2個、職人的な技があれば十分成り立つんです。

だけど、学校教育というのは正反対なんですよね。1個だけ何かすごくできます、ではだめで、全部がちょっとずつできなきゃだめだという、そういう、だから、少年野球がその教え方をしているとしたら、プロ野球で投手になる人をわざとだめにしているかもしれない、子どものときに。

教育が全部そういうふうな方向で動いているとしたら、これは単に障害を持っている子ども云々じゃなくて、教育全体の問題ですよね。普通学校にあらわれている規格品的な教育に個別の障害特性を持った障害のある子を混ぜると、要するに普通学校全体の規格品的教育が成り立たなくなるもんだから、反対、反対とか言っている人がいるかもしれない。

これはすごい矛盾だなと思いますよね。だから、解決法は簡単で、先生増やして、1人ずつに対応する、それは障害のある子どもであろうが、障害がないとされる子どもであろうが、教育というのは1人ずつ見るしかない、その子ごとに違うんだから。そんな手間かけてられるか、それは親の仕事だと教師は言いたくなるだろうけど、要するに昔、学校がないときは親ができる人に頼んで字を教えてもらったり、寺子屋ですよね、あるいは家でしつけると。

でも、それを国家が公教育という仕組みを立ち上げて、日本でも明治から後ずっと、世界に冠たる学校制度をつくったわけですよ。そうやって、いえば親の手から離して学校教育を受けさせておるんだから、学校が1人ずつ、その子らしい才能を引き出す責任を負ったということじゃないんですかな。

そうでないとやっぱり、大人になってから、自分探しとかいって、今、フラフラしている人がいっぱいいますよ。でもはっきり言って遅いんです。僕は自分のゼミ生の親に1回褒められたことがあって、それはそのゼミ生が大学3年生、4年生で、まだ自分はミュージシャンになると言うて、頑張っとったんですよ。

そのとき、僕は「けど、21とか22で、そんな才能があったら、もう世の中に出てるんちゃうか」とポッと言ってしまったんです。そしたら、その彼はものすごい落ち込んで、1週間ほど学校に来なかったです。

だけど、その後、頭をきれいに刈り上げて、就職面接の格好をして、それで親父さんから御礼の電話がかかりまして、息子が目が覚めたと。全く余計なことを僕は言ったんだろうと思うけれども、やっぱり、大人になってもフラフラしているというのは、子どものころに自分は何ができて何ができないというのをわからんからですよ。結局それは、そういう教育をしていないんじゃないかなと。

だから、どんどん年齢だけはとっていきますからね。もっと早い段階でいろんなことができる教育が、これはだれにも好ましくって、その中には障害のある子もない子も関係ないし、それこそ障害のある子とうまくコミュニケーションできる障害のない子が自分は将来、障害者の施設で働きたいとか、そういう人の権利の実現のために頑張ろうとか、いろんなチャンスが見えてくるかもしれません。

ということで、決して部会でこういう議論をしました、という話ではないですけど、教育については全員がそれぞれ自分の意見を持っていて譲らないので、一応、報告ではまとめた格好にしていますけど、それはさまざまな意見が噴出しましたが、私の個人の意見というのは今申し上げた、かなり教師としての目線が入っています。

以上です。

(東) ありがとうございました。

ちなみに、小学校など、義務教育の段階における合理的配慮の件につきましては、そもそも条件整備はこれを提供する行政側の責務であるといった前提があること、しかも、合理的配慮がなければだれでも保障される義務教育の機会が十分に保障されないということにかんがみると、その例外というのは極めて限定的であるべきだといった形で意見はまとまっております。

以上です。

それで、ほかにまだ、手が挙がってましたよね。お2人ですかね。僕から見て左の方のほうからご意見いただけますか。

(フロアよりHさん) 障害団体H代表のHと申します。

私たちの立場から申し上げますと、お3方、先生おられますけれども、もちろんお3方の先生にもお願いしたいんですけれども、とにかくこの会場の皆さんにお願いしたい。

まず、たちまちですね、たちまちというのは広島弁で、とりあえず、まず法律をつくらないけん。つくるためには皆さんが協力し合って、みんなが国会につくってくれと言わないけない。

それが私たちの権利と立場、たちまちやるべきことなんです。私は今年60になりました。ずっと長年の夢なんですけど、障害者の権利法ができるということは、この日本にできるということは長年の夢でした。

みんな協力して来年の初めには国会で通るように、ご協力お願いします。というわけで。

(東) どうもありがとうございます。この法律はこれまでなかった法律ですので、ハードルが高いと思いますが、力強いお言葉、勇気が出てきます。Hさんみたいなお気持ちで支えていただければ幸いです。

今後ともよろしくお願いしたいと思っております。

では、本当に時間がありませんので、お1人の方ですかね、帽子かぶられた男性の方、いらっしゃいますけど、よろしくお願いします。

(フロアよりIさん) 高知から6時間半かけて来ました、発達障害の当事者のIと申します。現在就職活動中です。

済みません、ちょっと緊張してますので。差別禁止法ができるということで、実際、そういったことが実現できればいいとは思うのですけれども、それが、そのことで、具体的な、例外的な対応ということで、都市と地方との差があるということが非常に心配なんです。

私が住んでいる所は、人口2万人なんですけど、その中でも私が住んでいる地域は、その中心地から車で40キロぐらい離れた3000人ぐらいの地域なんです。で、中心地まで行くのに、公共交通を使ったら740円、また、いろいろな県の出向機関とか、そういった、ハローワークとかに行くにしても車で1時間半、往復3000円ぐらい使わないと入れないというような所で、その上、私、発達障害ということで、なかなか自分が障害者ということに気付かなかったまま、ずっと就職活動をしていて、コミュニケーション能力がないとか、そういうことで、就職に苦労してきましたんで。

それで結局、ひきこもりのような状態になることも一時期あったんですけど。

そういった人たちは全国、山間地とか過疎地なんかにも多数いると思うんですけれども、そういった所にも、本当に権利として、差別がされないとか、ちゃんと就労ができるようになるとか、そういう就労先が確保されるとか、そういうことができるかなということを非常に心配しているんです。

実際、雇用促進法でも、56人以上が50人以上になったとしても、そんなにたくさんの事業者が県内にあるわけでもないですし、健常者でさえ、ほとんどの若者が都会へ流出している現在において、田舎に残ってひきこもらざるを得ない障害を持っている者が社会に本当に出ていけるかどうかと。

確かに都会で自立するという方法もあると思うんですけど、地方で暮らしたいという思いもあると思って、その権利はフィフティフィフティ……その選択をする条件は、フィフティフィフティでないといけないと思うんですよ、権利も、そのリスクも。

それが今の状態ではとてもじゃないがなっていないので、その状況を改善する、現実的に改善するような状況にしてほしい。また、それをしていかなければならないということが、していくことが現実に障害がある者もない者もともに暮らせる社会ということを、本当に地域、国内全体に広がらせることだと思っているのですが。

その点について意見を言いたいと思いまして。

(東) どうもありがとうございます。Iさんがおっしゃったのは、この同じ日本の中に住んでいて、地域間格差というのがいろんなところにあらわれていて、同じ障害者といっても、実質的にはどこに住むかによって差別を受けたような状態があるというご指摘だろうと思います。

これは例えば、バリアフリーに関する法制度を例にとりますと、適用対象を、駅の場合でいえば、乗降客が何人以上という形で設定すると、それに満たない、特に地方の駅などは、バリアフリーの対象外になってしまいます。

ですから、都会ではほとんどの駅が対象になるけれども、地域、田舎ではほとんど何も変化が起きないという、この結果、やはり地域に住む障害者にとっては依然として利用できない。ほかの一般の人は利用できるけれども、障害者は利用できないという状況があるわけですね。

差別禁止法は、一定規模以上の施設などを対象にして、バリアフリーの基準などを設定する仕組みをつくるわけではないので、地域であろうが都会であろうが、一律に適用されます。特に合理的配慮は、バリアフリー法の網がかかっていない場面であっても、個別的な対応として、合理的配慮を提供するということになりますので、その点でいえば、地域間格差をより縮める役割を果たす法律だと考えております。

しかし、だからといって、制度全般を大きく変える力があるかというと、そこまではなかなかいかない。あくまでも、差別という個別の事態を改善していくことが一番の目的であって、制度をどう改善するというのは、その制度自体の問題であるわけですから、差別禁止法を作れば、他の制度までが良くなるかというと、そこでは限界があると言わざるを得ません。

ただ繰り返しになりますが、乗降客数の問題にしても、売り場面積の問題にしても、一定の規模以上という限界がありますよね。しかし、小規模の場合でも、一定の配慮がなければ差別だという場面は多々あるわけですから。そういった場面で、この法律が機能していくと思っています。

ですので、Iさんが言われたことについて、100%期待できる法律ではありませんが、そこに到達しようという方向性を持ったものがこの差別禁止法だとご理解していただければなと思います。

ということで、時間を既に20分ほどオーバーしております。本当に皆さま方の多様な意見を伺わせていただきまして、勉強になりました。

最後に、Hさんが言われたように、皆さんも地域の中でこういった法制について、どうあるべきか、今後とも議論していただいて、いろんなところに働きかけをしていただければ、ありがたいと思っております。これで終わりではなくて、地域でもいろいろこれからやっていただければなというふうにお願いを申し上げて終わりたいと思います。

今日は本当にありがとうございました。どうもご苦労さんでございました。

(司会) ありがとうございました。本日は皆様の貴重なお時間をいただきました。以上をもちまして本日のすべてのプログラムを終了とさせていただきます。ご発言をいただきました方々、貴重なご意見を本当にありがとうございました。

まだまだたくさんのご意見おありと思いますけれども、ご意見、ご感想は本日のアンケート、そして、内閣府で現在実施されておりますパブリックコメントでも受け付けておりますので、そちらのほうへ、どうぞ、よろしくお願いいたします。

長時間にわたりまして最後までお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。

事務局ではアンケートのご協力をお願いしております。ご記入いただきましたアンケート用紙はお帰りの際に出口、または受付におりますスタッフにお渡しくださいますよう、お願いいたします。

本日はお忙しい中、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。お忘れ物のございませんよう、くれぐれもどうぞ、ご確認くださいませ。どうぞ、お気を付けてお帰りください。ご来場、まことにありがとうございました。

[了]

▲ このページの上へ