【一般区分】 ◆佳作 井熊 大輔(いくま だいすけ)

見た目で他者を判断する愚かさ井熊 大輔(鳥取県)

皆さんは精神の障がいや病気のことについて知っていますか?私は体調を崩して心の病気になり、現在に至るまで治療を続けています。精神の障がい者手帳も持っています。

何度も体調を崩して精神科に入退院を繰り返しました。十年もかけて体調の良い時と悪い時の波を繰り返し、少しずつ回復してきましたが、体調が悪い時もあります。その時は気分が重く、体もやっと動けるくらいです。

精神の障がいを抱えている人は、心身がとても苦しいと感じていても、他者から見ればそんな風には見えないことが多くあります。そのためか、他者からの誤解に傷ついたり、偏見や差別を受けたりすることがあります。

私にもそのような体験がありました。それは四年前のことです。私はその時、障がい基礎年金二級を受給するための申請をしていました。ある日、年金機構の方が家に来られて、
「国民年金が未納です。学生免除でしたがすぐに支払いをして下さい。」
と言われました。私は「今、障がい基礎年金二級を申請しています。結果が出るまで待って頂けませんか?」と返すと、「でもあなたは見た感じ三級ですよね。」と言われました。これは申請しても年金支給にはならない、だから国民年金を早く払ってください、という意味でした。

主治医や家族とも話し合い、自分の今後も含めて考えた結果での年金申請だったのに、無駄だといわれた気がして、その時の傷ついた気持ちは今でも覚えています。

その後、障がい基礎年金二級の受給が決定し、手帳も交付されましたが、私の頭の中は常に障がいについての問いがありました。

「見た感じ三級ですよね」。その言葉がよく脳裏をよぎります。自分の病気や障がいの状態を、他者に見た目で判断された私の心は傷ついていました。当時から「生きづらさ」を感じていたので、そこから私は「障がいを抱えながら生きること」の模索を始めます。

ところが自分が無意識のうちに他者に偏見や差別をする立場になることもあります。

それは私の障がい基礎年金二級の受給が決まったほぼ同時期のことです。私は精神科のデイケアに通所していました。そこで色々な利用者の方と活動をして一日を過ごします。

ある時、ふと私は「自分の障がいや病気を他者と比べていた」ことに気付きます。他者と自分の症状を比べては「自分はまだまだ大丈夫」と安心してしまっていたのです。

しかしあの時の年金機構の方と、その時私は同じ立場に立っていました。他者の障がいや病気を見た目で判断してしまい、無意識のうちに偏見や差別の心で接していたのです。

誰もが自分を他者と比べたり、見た目で判断したりすることがあると思います。それによって人は比べたり比べられたりする、真逆の立場に立ちます。ところが自分が他者に比べられると、自分の優位性を保つために立場が下の人を見つけて比べ、心の安定を図る傾向にあるのではないでしょうか。そこから差別や偏見の心が生まれるのだと思います。

よく人権啓発運動などで、「差別をなくそう!」といったキャッチフレーズを耳にします。確かにそれはそれで良いとは思うのですが、差別や偏見というものはどこか遠くの場所で起こっている出来事で、自分達とはあまり関係性が無いという感覚になります。

「見た感じ三級ですよね。」と私は他者から見た目で判断される立場にも、デイケアで無意識のうちに他者の症状を見た目で自分と比べて判断し、安心してしまう立場にもなりました。無意識のうちに全く真逆の立場になることの恐ろしさをこの時知ったのです。それが差別問題へと変化していくと思います。

よって差別や偏見は決して遠い場所の出来事ではなく私達の身近な所、言い換えれば私達の心の中に常にあると思うのです。

自分の優位性を保つために、無意識に他人を見下してしまう自分の弱さと対峙する勇気と強さを持ちたいと切実に思います。

また私が日々の生活を送る中で、ある疑問が湧いてきました。それは「障がい者手帳」が必要な社会とは一体どのような社会なのだろうかという疑問です。これは私に手帳が交付されてから湧いてきた疑問です。

日々の生活で手帳を表示することで、家賃などの公共料金の減免、お店の料金や交通機関の運賃が割引になることがあります。しかしそれはあくまでも一つの側面です。

手帳を持つことは本人に取って大きなことです。なぜなら自分の障がいを受け入れることだからです。ところが精神障がいの場合は手帳の交付を拒む人もいるそうです。手帳を持っていることを明かさずに一般就労に行く人もいれば、手帳を持っていることを明かして、就労支援事業所での訓練・勤務を経て障がい者雇用での就労を目指す人もいます。

手帳は決して割引クーポン券ではありません。それが無いと周囲に理解してもらえない生きづらさがそこにはあります。

精神障がいは目に見えないものが多いと思います。その人の特性による物理的な生きづらさよりも、社会的な生きづらさが大きいように私は感じます。この社会的な生きづらさを障がいの有無に関係なく、全ての人がしっかりと直視していく必要があると思います。

生きづらさは人それぞれなので難しい問題ですが、手帳が多数派の人達の社会を生きるうえで必要な、ある意味でパスポートの役割を持つことは否めないと思います。

もっと色々な人がいて、多様性に富んだ社会であって欲しいと思います。そこでは意見の違いもあるでしょう。しかしそこから、お互いを包摂することが大切ではないかと思うのです。自分との違いに差別や偏見の心を持つことを認め、そこから違いを受け入れることが良い社会になっていくと思います。

その時に障がい者だけでなく、全ての人にとって生きやすい社会になると思います。多様性を受け入れることは他者も自分も受け入れることです。これからも自分自身をよく見つめ、研鑽を重ねて生きていきたいと思います。