【一般区分】 ◆佳作 野原 基世美(のはら きよみ)

フィルターの先に見えるもの野原 基世美(岐阜県)

「Sちゃんは神様の子なんだよ。だから、みんな、仲良くしようね」と、小学生の時に先生から言われた。Sちゃんは重度の知的障害があり、つばを吐きかけたり引っ掻いたりするので苦手だった。でも、神様の子だから何をしても許してあげなければならないと子どもながらに思ったものだ。

大人になり、支援学校の保健室で勤務していた時に、「Sちゃんは神様の子」という表現に違和感を抱いた。生徒達は、障害はあっても、健常児と何ら変わらなく思えたからだ。問題行動のある生徒もいたが、その多くに理由があり、それに応じた配慮をすることで落ち着くことが多かった。情感豊かに喜怒哀楽を表現し、厳しい先生の前では大人しく、優しい先生には我儘を言うところなど、人間らしさ満載だ。十六年の時を経て、Sちゃんは神様の子ではなく、私達と何も変わらない人間の子なんだなぁとしみじみ思った。

支援学校では、学校外で学ぶ機会がたくさんあり、海やプール、スケート場など、様々なところに出掛けた。多くの校外学習に養護教諭は引率したが、私も生徒達からたくさんのことを学ばせてもらった。

校外学習に行くバスの中での出来事を、今でも鮮明に思い出す。私の隣の席は、重度の知的障害があるAちゃんだった。Aちゃんは会話ができないが、
「あーあー」
と喃語のような言葉で感情を伝えてくれた。その日、私はバスに酔ってしまい、念の為持ってきていた瓶入りの酔い止め薬を飲もうとした。すると、Aちゃんが私も飲みたいと言わんばかりに、横から瓶を掴んできたのだ。
「ごめんね。Aちゃん、コレ、ジュースじゃなくてお薬なの。先生、気持ちが悪くて、お薬を飲まないと吐きそうなの」
と必死に説明した。でも内心では、Aちゃんが分かってくれるとは思えず、吐き気を堪えながらどうしたものかと困り果てていた。そんな私の様子を、Aちゃんはきょとんとした表情で見ていたが、少しして瓶から手を離したので、その隙に慌てて薬を飲み干した。すると、驚いたことにAちゃんは、
「あーあー」
と言いながら、私の頭を何度も何度も、撫でてくれたのだ。その後もずっと、私の頭を撫で続けてくれたAちゃん。大丈夫?早く良くなるといいねというAちゃんの心の声が聞こえてくるようだった。

私は、私の言葉が伝わったことや、Aちゃんが優しい反応を返してくれたことに驚き、喜びに胸が熱くなった。しかし同時に、重度の知的障害のあるAちゃんには伝わらないと思い込んでいた自分に気付き、愕然とした。それまで、重い障害がある生徒に対し、何も分からない赤ちゃんに接するように対応していたように思う。無意識に「障害児」というフィルター越しに彼らを見て接していたことについて、猛省した。もっともっと、濁りのない目で見なければと強く思った。

軽度の知的障害の生徒は、障害を受容できず苦しんでいた子が何人もいた。
「なんで私ばっかりこんな病気になるの?私もみんなみたいに普通になりたかった」
と泣きながら叫んだNさんの声は、今も胸に残っている。泣き続けるNさんに、私はかける言葉が見つからなかった。何故なら当時、私自身に筋疾患の症状が出現し始め、落ち込む日々だったからだ。Nさんの言葉が、まるで私自身の心の声のように感じた。

病気で退職した後、出産を機に病状が進行し、今は私も障害者の仲間入りをした。無理をすると悪化するため、ヘルパーさんに家事を手伝ってもらいながら生活している。外出時は杖を使い無理をしないようにしているが、調子が悪くなると呼吸や嚥下が難しくなる。特に、自分の身体が思うように動かない時は、健康だった頃に戻りたいと無性に思う。発病後、一番辛かったのは、我が子が望むことをしてやれなかったことだ。抱っこ、たかいたかい、追いかけっこ、運動会の親子競技など筋力を使い続ける動作が出来ず、子どもには数え切れないほど我慢をさせてきた。
「病気のママは嫌や。元気なママが良かった」
という娘の言葉は、未だに忘れられない。

中学生になった娘に、母親が障害者であることをどう思うか聞いてみた。すると、
「お母さんが障害者だと思ったことがない」
と言う。おそらくこの世で一番、障害者らしい私を見ているのは娘だ。対外的には心配をかけないように、持てる筋力全てを使って元気そうに振る舞うが、家で家族だけになると、グッタリ寝込むのが私の日常だ。頭が疑問でいっぱいになった私に娘は言う。
「動けない姿のお母さんもお母さんだから。障害者じゃなく、お母さんとしか思えない」私が「障害者」のフィルターを通して生徒を見ていたのとは違い、娘は私自身を見てくれていた。障害は私の一部でしかなく、娘にとってはどんな私も「お母さん」なのだ。

この先、病状が悪化したらと無性に不安になる。でも、不安を口にすると、娘が、
「もし寝たきりになっても、お母さんは存在してくれているだけでいいんだよ」
と言ってくれる。身体の辛さは変わらないし、先の不安はなくならない。でも、動ける私も動けない私も、私として認めてくれている家族の存在が、私の生を後押ししてくれている。

健常者として障害児と関わっていた時も、障害者になってからも、私は周りの方々から多くのことを学んだ。人は、同じ境遇の人とは共感を、違う境遇の人からは気付きを得るのではないだろうか。健常者、障害者と線引きをすることなく、どんな人に対しても一人の人間として誠実に向き合うことで、人生がより豊かになるのだと思う。障害者であり母や妻でもある私の人生が少しでも豊かになるように、これからも精一杯生きていきたい。