【中学生区分】 ◆佳作 北村 優羽(きたむら ゆう)

「眼鏡」を手放して北村 優羽(宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校附属中学校2年 宮崎県)

ショッピングモールで独特な動きをしている発達障がいのある人を見たとき。テレビで視覚障がい、聴覚障がいのある人を見たとき。私はいつも、「かわいそう」と感じていた。でもその考えは間違っていた。それは「障がい=かわいそう」という私が自分で作りあげた「眼鏡」をかけていたことで生まれた、ゆがんだ考えだと気がついたのは、聴覚支援センターの人と出会ってからだった。

私は小学五年生の夏休みに「目の不自由な人の生活」という自由研究で県の視覚支援センターを訪れた。聴覚支援センターはその上の階にあり、私は階を間違って足を踏み入れてしまっただけだった。しかし、職員の人は突然訪れた私に、
「取材が終わったらここにもおいで。」
と声をかけてくださった。初めて訪れたこの施設では、耳の不自由な人が二人働いていて、手話を使ってコミュニケーションをとる場面が多くみられた。パソコンのテレビ通話を使って他の施設の人と連絡をしていることもあった。手話を使う職員の人たちは表情豊かだった。手話は表情も大切だからだ。「嬉しい。」と言うときは、体の前で手を上下に動かして幸せそうに笑う。「嫌い。」というときはあごの下で人差し指と親指を開きながら眉間にしわを寄せる。会話の中で流れるように変化していく表情が素敵だった。きっと手話を使う人は、たくさんの表情であふれているに違いない。そう思うと自然に笑顔になった。

聴覚障がいのある職員の人と、通訳ができる職員の人に手話を教えてもらっていたが、一度仕事の都合で通訳をしてくださっていた職員の人が席を外してしまった。通訳なしだと、会話にとても時間がかかったが、教えてもらった手話と、ジェスチャー、そして表情で必死に会話をした。思いっきり口角を上げた「笑顔」、眉間にしわを寄せた「困り顔」、目尻を下げ口をへの字に曲げた「泣き顔」。自分の中から取り出したさまざまな表情とともに、一つ一つの指の動きを紡いでいった。そうしてつないでいく会話には思いがあり、重みがあり、あたたかさがあった。うまくつながった瞬間は思わず笑顔がこぼれた。私はもう「眼鏡」を手放していた。
「障がい者」。目の不自由な人、耳が不自由な人、体の一部がない人、発達障害のある人。その一人一人を、私たちは「障がい者=かわいそう」という「眼鏡」を通してしか見ていないのではないだろうか。聴覚支援センターで聴覚障害のある職員の人にはじめて会ったときも、私は眼鏡を通してその人を見ていた。その人自身を見ようともせず、勝手に、「かわいそう」だと決めつけていた。しかし「眼鏡」をとった先で私が見たのは、思うようにコミュニケーションがとれず「かわいそう」な人ではなく、手話で会話を楽しみ、いきいきとした表情を浮かべる人だった。

聴覚支援センターで働いていた人たちは誰一人として「障がい者=かわいそう」という考えをもっていなかった。日頃から聴覚障がいのある人と仕事をし、コミュニケーションをとっているからこそ、「口で話せないのなら、手話を使えばいい。」という柔軟な考えがある。障害があることをすべてマイナスに択えていない。「眼鏡」をとるために大切なのはこういう考え方なのかもしれない。

ショッピングモールで独特な動きをしている発達障がいのある人を見たとき。テレビで視覚障がい、聴覚障がいのある人を見たとき。多くの人は「眼鏡」ごしにそれを見て、「かわいそう」としか考えないだろう。でも一度その「眼鏡」を手放してみてほしい。それが間違いだと気がつくはずだ。障がいがあることは決してかわいそうなことではない。「眼鏡」を手放して見たあのあたたかい笑顔が、私にとってなによりの証拠だ。