【一般区分】 ◆優秀賞 三浦 博子(みうら ひろこ)

青いって、なに?三浦 博子(千葉市)

世の中にまだ、コロナウイルス感染が無かった時の話です。

岩手から千葉に嫁いで三十年を過ぎた頃、高齢となった実家の両親は、それぞれ別の病院に、入退院を繰り返すようになりました。

七夕も近いある日、I病院の主治医に、
「お父様の余命は、一ヶ月です」との宣告を受けました。頭の中が真っ白になり……
「病気の母に、何と伝えたら良いのだろう」
母の入院するK病院まで、バスに飛び乗った時の出来事です。

乗り慣れないバスには、降車場を聞いたり標識が良く見えるように、運転席近くに乗るのが常で、自然と足が向かっていました。
タクシーではなく、あえて乗るバスのユックリした走行や、見知らぬ人と乗車する緊張は、今にも大泣きしそうな私の心を静めて、母への言葉選びの手助けに、なってくれそうに思えました。

バス停も、五~六ヶ所を過ぎた頃でしょうか、中高生のバス通学仲間と思われる、黒い人影が一列になって一瞬見えました。
最初にトントンと、元気に乗って来た男子学生さんの声、
「おい、みんな!バスに乗る時は、二段だからな、気をつけろよ!」
「うん、わかった」
父の余命宣告で、ボーとしていた私は思わず「えっ!」と、入口から聞こえた声に、耳も気持ちも動かされていました。
皆が乗り込むと、女子学生さんが、
「私は足が上がらないから、タイヤの所には座れない」
「俺もいやだ!」「俺もいやだ!」と、
ガヤガヤし始め、皆が座ったと思われた時、
「ねえ、バスのタイヤの所って、どうなっているの?」と、弱々しい声……
それに答えて、例の元気な男子学生さんが、
「バスの中には、四ヶ所タイヤの所が盛り上がって狭くなっている所があるのさ」
「えっ!そうなんだ」
「なんだお前、何も知らねんだな、よ~し、今から皆でお前に、分からない事を教えてやるから、何でも聞いてくれ」弱々しい声の男子学生は、暫く無言……
女子学生さんが突然、
「あれ~この道、三km行くとS町に行けるんだ……ふ~んこの先は工事で一方通行か」
と、暫く黙っていた弱々しい声の学生さんが、
「なんで、そんなに行先の事が分かるの?」
「やだ!標識で分かるの」
「え~と、標識って何?」
「道端に町の名前とか、そこまで何kmとか書いてある棒が立っているんだよ、ねえ」
「そう、通行禁止の道や、美術館や図書館の名前とかも書いて道に立ってる棒が、標識」
「そうだったんだ、人に聞かなくても分かるんだ……いいな……」
標識の見える所に座っていた私は、思わず、「ゴクリ」と、唾を飲み込みました。
もうすっかり、彼らの話に心を奪われていました。
「なんか暑くなってきたな、今日はいい天気だから窓を開けようぜ」と、
私の背中にも、硬くなっていた心や体を癒すように、やさしい風が吹き込んできました。
「気持ちいいな……晴れて空も青いし、今日は最高だな」
「うん」「うん」「うん気持ちいい……」また、弱々しい男子学生さんの声が、
「ねえ、いい天気は分かるけど、青いって、なに?」
「え~、青いから青いけど……」
「え~、分からない」
「何と言えば青を教えられるのかな?」
ああでもない、こうでもないと、青を語り合い、おそらく弱々しい声の主が一度も見たことが無いであろう青色を、何という言葉で伝えたら良いのか……
いつしか私も、言葉探しをしておりました。やがて「次、止まります」というチャイムで停車、後ろで何かコツコツと音がしたと思うと、松葉杖をついた女子学生さんと、その子の荷物も一緒に持ってやさしく寄り添う、友人らしき女子学生さんでした。
運転手さんも、降車までゆっくり待って、やさしく発車しました。
更に、次も停車のチャイム……
またも、コツコツという音が……でも、さっきとは少し違うような……と思っていると、音は白い杖を持った男子学生さんと、あの元気な声の、男子学生さんたちでした。
「大丈夫か?」と、声を掛け合い、
「運転手さん、ちょっとゆっくりだけど、もう少し待って下さい」
運転手さんも、
「は~い大丈夫、ゆっくりで良いですよ」と、この場に流れる、何とも言えないやさしい空気に、私までもが包まれ、守られたようで、胸が一杯になりました。

気がついたら、K病院の車椅子に乗った、母の前に立っておりました。
この先の不安と恐怖の中、やつれた母の乗った車椅子を「力いっぱい」握りしめて、自分の気持ちを抑えながら、ゆっくり、ゆっくり押しました。そして、明るく元気な学生さんのように、尋ねてみました。
「お母さん、何かして欲しい事無いの?」と。

後日、父もK病院に転院させて頂き、両親は笑顔の再会を果たし、旅立ちました。

あの日のバスの中での出来事は、今でも忘れられない、心の指針になりました。

私は自らに、時折問いかけてみます。
「あなたは、本当に見えていますか?」
「あなたは、本当に聞こえていますか?」
言葉にならない思いもあるけれど、それでも一歩前に進むために…
あなたは、本当の青をどう伝えられますか?