【高校生区分】 ◆優秀賞 八巻 花音(やまき かのん)

共生社会のススメのために八巻 花音(北海道釧路江南高等学校3年 北海道)

「楽しかったね。」
そう言って彼は、私にハイタッチを求めた。彼の目の高さに両手を差し出すと、私の手と彼の手は、ぱちんと軽快な音で響いた。

彼はADHDという発達障害を抱えている。その苦しみは私には分からない事で、私はただ彼の近くで見守る事しかできなかった。彼は小学生で、私はただこの体験授業のボランティアをしている高校生で、それなのに私は彼から多くのことを学び得た。彼は私から何を感じ取っただろうか。

この体験授業は一日泊まり込みの大がかりなもので、参加者の小学生は多く、それに反比例してボランティアが少なかった。彼はたまたま、私の担当の班に所属している参加者で私は事前に彼についての情報を書類で確認していた。しかし実際は書類なんかほとんど役に立たない程に大変だった。まず私は、人の話を聞く間じゅう、彼の手を握っていなければならなかった。彼はじっとしている事が苦手で、一度私の手を離れたら、連れ戻すのに恐ろしい時間を要した。そして他の子たちの冗談やからかいを真に受けて傷ついたり、暴力的になる彼を慰めたり宥めたりしなければならなかった。私は彼がするりと私から逃げるのを見るたびに冷や汗をかき、彼が仲間の言葉に過度に応酬するたびにかかる、周りの子たちからの心ない言葉に困惑した。私は何度も仲間の子たちを集め、彼の特性について説明したが、小学生の頭で理解をさせる事は難しい様子だった。

障害は目に見えない。特に発達や精神に関わった障害なら、なお目に見えない。それを抱えて生きる苦しさも、きっと想像を絶する。他人の立場で考える力を身につけないと私たちは彼らの力になれない。彼から学び得たものの中で一番誰かに伝えたいことはこれだ。それを学んだのは、夕食後の自由時間の事だった。この時間は子どもたちが唯一、広びろとした体育館の中で、走り回って遊ぶことが許されている時間で、子どもたちが一番楽しみにしている時間だった。鬼ごっこも、ボール遊びも、輪投げもできる。子どもたちはわくわくを隠しきれない、という表情で私の
「遊んでいいよ」の言葉を待っていた。
「じゃあ、みんな遊んできていいよ。」
全員の夕食が済んだ事を確認し、私は子どもたちを解放した。子どもたちは奇声を発しながら四方八方に散り散りになる。そんな中彼だけが、手持ち無沙汰という顔をして私のことを見つめた。
「遊んでおいで。」
私は彼の背中を押した。ここでできる遊びを提案し、他の子と混ざっておいでと提案した。しかし彼は一向に動きださない。私の手を握ったままでじっと他の子たちの姿を見ている。
「じゃあ、私と遊ぼう。」
私は他の子と彼を一緒にさせることを半ば諦めそう言った。きっと彼は今日たくさんの刺激を浴びすぎたのだ。今からまた他の子と遊ぶのは、彼にとっては苦痛かもしれない。私はそう判断した。私は彼の目の前でボールを転がした。「キャッチボールをしよう。」と言って彼にボールを渡す。小学生というのは、体力の塊で、いくら疲れていてもキャッチボールはできるのだ。それは彼も例外ではなかったようで、彼はすぐにボールを受け取り、私に投げ返した。私は彼の不安定なボールを両手で受け取り、ふわりと投げる。何度も続けると、彼の口から笑い声がもれた。ああ、よかった、彼にもこの時間の楽しみ方があるのだと私が安堵した時に、背後から声がした。
「どうしてあの子とばかり遊ぶの。」
その子は彼と同じ班の女の子だ。まゆと口元をゆがませて、私に言う。
「わたしと遊んでくれないじゃん。」
どきり、とした。そうかもしれないと思ったからだ。その子はずっと私と遊びたかったようだ。しかし私が彼に気を取られるあまり、私は彼女から「遊ぼう」と言う勇気も、私にボールを渡す元気も奪ってしまっていた。私は彼女に謝った。そして彼の事を説明した。けれども彼女は「分からない。」と言った。彼女には私が彼を特別扱いしているようにしか見えないし、彼が抱えるものの苦しさも分からない。

小学生を相手に、障がい者との共生社会を築くための教育を施すことは、やはり難しいのだろうか。客観的に相手を見る力は、どうやって育まれるのだろうか。私は彼に、そして彼女に何をできるだろうか。障がい者との共生社会を目指すには、やはり小学生という純粋無垢な時期からの教育が必要に思う。彼の気持ちを彼女や他の子たちに分かりやすく代弁する事が、共生社会の第一歩になるのだ。それを実現させるのは、きっと今若者である私達なのだ。私は将来、共生社会を目指した教育の先駆者になりたい。もっと、彼の見ている世界の、それを支える教育者の、それを見ている彼女の、生きやすい世界のために。