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付録

7 平成26年度 心の輪を広げる体験作文 優秀作品

最優秀賞(内閣総理大臣賞)受賞

【小学生部門】 ◆ 名古屋市

心ズキズキ心のこえ

名古屋市立上名古屋小学校四年
宮川 幸音

ぼくがわらうと 家族がわらう。

ぼくがかなしいと 家族がかなしい。

ぼくがズキズキだと 家族もズキズキ。

ぼくがわくわくだと 家族もわくわく

いつもいっしょ。でも一つだけちがう。

ぼくがじしんをなくしても

かぞくはじしんをなくさない。

いっぱいゆう気をくれる。

ぼくは、二才からりょう育センターに通ったり入院したりしています。頭でわかっていても話せなくて、いっぱいことばのれん習をしてきました。朝、近所のおばさんが「おはよう。」といってくれたとき、心でおはようございますと思っても言えない。その人はママに「あいさつもろくにできない子どもにそだててはずかしくないのか。」とどなった。心がズキズキした。心ぞうがバクバクした。

ママがおこられている。いつもぼくのせいでママがおこられている。その時からきんじょの人がむししてきてかなしいです。ママはいつもあやまっています。でもやさしいおばあちゃんが「心のこえをきこえない大人のことは気にしなくていいよ。」といってくれた。うれしかった。「心のこえはいつかつたわるからだいじょうぶ。」とかぞくがぼくにいってくれました。

夏休み入院したしせつには、目がみえなかったり、歩けなかったり、いろんな子がいました。見てすぐにわかる病気の子と目に見えない病気の子がいました。目に見えない病気の子には『私はしょう害をもってます』というワッペンがわたされました。ママには『かいご中』というワッペンがわたされました。これをつけたらみんながりかいしてくれるというワッペンです。心のこえはやっぱりとどかないのかなと少しさみしかったです。

学校の友だちや先生は、ワッペンがなくてもつたわります。だから学校が大すきです。できないこともいっぱいあります。ほけんしつの先生はいつも「気にしなくていいよ」といってくれて、うれしいです。ともだちがたすけてくれたりした日やあそべた日はとても心がポカポカします。

大人になるまでに、大切なことをたくさんできるようになって、大人になったら、目に見えないハンディやしょう害をもっている子がえがおでいられるような、りょう育センターの先生みたいなお仕事がしたいです。

心のこえが伝わるような国になるように、一生けんめいかきました。

ぼくをささえてくれている人、みんなに大きなこえで「ありがとうございます。」と言いたいです。


【中学生部門】 ◆ 香川県

兄弟 ― ぼくと兄の場合 ―

香川大学教育学部附属高松中学校一年
小原 拓登

「お兄ちゃん、出かけるよ。」

これで何回目の声かけだろう。当の兄は、家中の部屋の電気が消えているかを確認し、すべての窓とドアが閉まっているかをチェックしてまわっている。そして、やっと玄関まで来たと思ったら今度はトイレだ。出かける前には、必ずトイレに行くと小さい頃から決まっている。トイレをすませ、丁寧に手を洗い終えてようやく玄関まで来たと思ったら、今度はおもむろに玄関のくつをそろえはじめるのだ。これらを全部すませてはじめて兄は、安心して外出することが出来る。

ぼくの兄は、自閉症という障害を抱えて生まれてきた。外見からは、障害を抱えているということがわからないから、ぼくの両親も兄が二才になるくらいまでは、兄の障害に気がつかなかったようだ。しかし、赤ちゃんの頃から眠りが浅く神経質で、何か気にいらないことあれば泣きわめくし、歩くようになると恐いもの知らずでどこまででも行ってしまう兄にほとほと手を焼いていたようだ。そして、三才違いで弟のぼくが生まれると、すやすやとよく眠り、歩くようになってもどこかへ行ってしまうことなく、ちゃんと後ろからついて来るぼくを見て、この子はなんて育てやすいのかと感動すらしたそうだ。

兄は、言葉を話すようになるのもとても遅かった。ぼくは一才になる頃には、

「マンマ。マンマ。」

と言っていたようだが、兄がはじめて言葉を話したのは五才で、その言葉もパパやママではなく、つぶやくように

「プリン」

だった。驚いた母は、冷蔵庫に猛ダッシュしてプリンをつかむと兄にプリンを渡した。母も兄の唐突なプリンという言葉に驚いたが、プリンとつぶやいた途端、手にプリンを持たされた兄も驚いて目をまん丸にしていた。しかし、このことをきっかけに兄は、少しずつだが言葉を話すようになった。言葉を話すようになるまでの兄は、カードや音の出る「あいうえおボード」を使って意思表示していたのだが、この出来事のおかげで言葉で伝えた方が早くて便利だということに気がついたのかもしれない。

母は、ぼくが赤ちゃんの頃から毎日、寝る前にぼくをひざに乗せて、絵本を読んでくれていた。ぼくは、絵本タイムが大好きでいつも楽しく聞いていたが、兄は最初の頃、絵本にまったく興味を示さず、ベッドの上をひたすらクルクル走りまわっていた。でも、続けるうちに少しずつ絵本が気になるようになってきて、走りながらも時々絵本をのぞきに来るようになり、一年もするとぼくの隣に座ってお話を聞くようになった。そのうち、兄にもぼくにもお気に入りの絵本がたくさん出来て、一人三冊ずつというルールもうまれた。この読み聞かせは、ぼくが小学校に入学するまで続き、そのおかげでぼくは、今でも読書が大好きだし、兄は今でも……絵本が大好きだ。

兄が好きなことは、絵本だけではない。ポケモンやドラえもんやジブリの映画、劇団四季のミュージカル、動物園や水族館に遊園地、温泉に行くことも乗り物に乗って旅行をすることも大好きだ。ただ、外出して困ることもある。例えば、トイレが混雑していると列には並んでいても自分の順番のタイミングが分からず、どんどん抜かされてしまうのだ。そんな時は、

「お兄ちゃん、次。」

と、声をかける。一言、声をかけるだけで理解できるのにこんなささいなことでも兄は、戸惑ってしまうのだ。兄は、公共の場所で他の人に迷惑をかけないため、そして何より兄自身が気持ちよく過ごせるように外出先では、大きな声で話さないことや急に走ったり立ち止まったりしないなどのルールを決めて守っている。時々、小さい声でブツブツ言っていることもあるが、兄なりに周囲に合わせようとがんばっていると思う。

兄は今、特別支援学校の高等部一年生だ。高等部を卒業すると社会人として働きはじめることになるので、学校では作業実習という職業訓練のような時間が多い。兄は、窯業班で土を練ったり、お皿を作ったり、失敗した作品を細かく砕いて土にもどしたりという実習を続けている。暑い部屋で長時間の立ち仕事に文句も言わずがんばる姿はかっこいいし、とても尊敬している。

ぼくと兄の兄弟関係は、少し変わっているのかもしれない。ぼくは、弟でもあり、時には保護者のような役割をすることもある。友達の兄弟の話を聞いてうらやましいと思ったことは、一度や二度ではない。兄とサッカーやキャッチボールをしてみたかったし、兄弟げんかもしてみたかった。そんなことには、まったく興味を示さない兄だが、それでもやはり、ぼくは兄のことが大切だし大好きだ。ぼくには夢がある。ぼくが大学生になったら兄と二人で旅行に行ってみたい。ぼくが運転する車の助手席に兄を乗せて、水族館やサファリパークに行き、温泉にのんびりつかっておいしい料理を食べる。部屋にもどると兄はきっと大人になっても今と同様にDVDを見て、はしゃいで喜んでいるだろう。兄が安心してぼくと旅行に行こうと思えるような強くて優しい大人になること、それが今のぼくの目標だ。


【高校生・一般部門】 ◆ 京都府

生まれて初めての女子会

大東 啓子

母は体調が悪いのに私を命懸けで産んでくれた。結果、私は歩けない、話せない、手も思うように動かないという、体に重い障害を背負うことになってしまった。

母は自分を責め、嘆き悲しみ、何度となく母子心中を考えたという。でも、どちらかが残った場合のことを思うと、決断ができなかった。その頃の母はすごく暗い表情をしていた。それを見て、三才か四才だった幼心にも「母に殺される」という恐怖感を感じたのである。

ある日、私が絵にならない絵を描いて、母に見せたそうだ。それは汽車らしき絵で、それを見た母は「あっ、この子は母親の思いを全て感じてる」と気付いて、すごくショックを受けたと大人になってから話してくれた。

あらゆる病院を受診したが「こんなお子さんは五才までは生きられません」と宣告された私を母は必死で育ててくれた。

母と私は、母と娘であり、親友だったのだ。

私は物心ついた頃から「お父ちゃんがお金を入れてくれんで、うちはお金がないんやで」などなど色々と母は幼い私に言っていた。きっと母は、私の記憶には残らないだろうと思ったのだろう。

兄の父は戦死。だから兄は父親の顔を知らない。その後、母は兄の父親の弟と再婚したのでる。

戦後六十九年が過ぎた現在では、考えられないことだが、当時は当たり前の結婚だったと母から聞いた。そんな状態の中で、母はだれにも言えない苦しさ悲しさなどを、私に言うしかなかったのだろう。

そして大人になってからは本当に何でも言い合える母娘になっていたのである。

そのかけがえのない母が、昨年の一月に、九十二歳で逝ってしまった。

私と六十年間付き合ってくれた母。

言語障害の重い私は、母にしか通じない言葉も多かった。そんな状態の中で、漫才のような会話をする日々だった。例えば、私が五才までも生きられない不治の病と宣告された時のことを、

「私はあんたと死のうと何度も思ったんやで」と母が言うので、

「お母ちゃんと私は死神さんに見放されたんやから生きるしかないなあ」と私は言った。

またある時は、

「あんた、私より先に死にないな」と母が言うので、私はすかさず、

「あんた、私の親やろ? それは、ちょっと無理やで」と言って、大笑いしたこともあった。

そして亡くなる数日前に夫が一人で病院に見舞うと、

「啓子を抱いて逝きたいで、連れて来て」と、はっきりした意識と言葉で言ったと言う。

きっと母は、あの世に行っても私と漫才がしたかったのだろう。

そして、母は逝ってしまった。

私の悲しみは想像をはるかに超えるもので、葬儀が終わると、寝込んでしまったが、その時は多くの方々の励ましもあって「これではいけない。頑張らなければ」と思って立ち直れた。ところが母を失った本当の悲しみは一年後に私を襲った。

お正月が明け、一周忌も済んだ直後から、全身の力が抜けたようになった。手足に力が入らず、トイレへ行く度にこけたり、部屋で車椅子から落ちたり、食欲もなくなった。

何か体が生きることを拒否しているような感じで、自分でもどうすることも出来なかった。

そんな状態が春頃まで続いたが、暖かさと共にだんだん気力も戻ってきた。

「よーし、頑張ろう」と思った間もなく、私が必死で打ち込んだデーターの入ったパソコンがこわれた。私は左手の中指一本でパソコンのキーを打つ。命中率は十回のうち二~三回。

「また最初からか」と思うと、底無し沼に落ち込んだ………。

次は歯痛に襲われ、抜歯。ところが部分義歯を支えていた歯だったので、義歯が入らなくなった。地元の歯科の先生も頑張って下さり、私も頑張ったが、入れられないままだ。すごく恥ずかしくて、どこへも行きたくない。誰にも会いたくない。そんなことで私は「ひきこもり状態」になってしまった。

そんな或る日のこと、別の用事で福祉課の女性の方が訪問して下さり、いろいろと話を聞いてもらっているうち、

「そんなに元気がないのなら、私が計画をしますから、楽しい女子会をしましょう」という話になった。

「女子会って何?」と思っているうちに、その日がやって来た。

会場は家から少し離れたスーパーの和食店。メンバーは福祉課の女性と、いつもお世話になっているヘルパーさん。女性ばかり。

「だから女子会なのか」と思った。私の送迎役の夫は隣のパチンコ屋さんで大好きなパチンコ。

私たちは、美味しいお料理を食べて、ビールを飲んで、思い思いに言いたいことを言った。

私は「世の中にこんなにも楽しいことがあるのか」と思った。

悲しいこと。辛いこと。体の痛みさえ忘れてしまう時間であった。

「よーし、頑張ろう」と思った。

「また、やろうね」と約束をして、解散。

帰りの車で、母のことを思った。

男尊女卑の時代に生きた母も、こんなに楽しい時間があったならと……。

保健課の女性、ヘルパーさんには、本当に感謝感謝

ありがとうございました。


優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞

【小学生部門】 ◆ 佐賀県

まっててね、ひろにいちゃん

佐賀大学文化教育学部附属小学校一年
山口 悠希

げんかんのドアをげんきよくあけて、

「ただいまー。」

というと、

「うきぃー、おわえりー。」

と、きこえたよ。ひろにいちゃんのこえだ。

ひろにいちゃんはダウンしょうでね、とくべつしえんがっこうの五ねん生なの。おはなしするのがとくいじゃないけど、わたしにはひろにいちゃんがなにをはなしているのかわかるよ。ひろにいちゃんはがっこうからかえってくるのがはやくて。いつもわたしがかえってくるのをたのしみにまっているの。

ひろにいちゃんはね、四ねん生まではすぐちかくのがっこうにかよっていたからともだちがたくさんいるよ。四ねん生のおわりのときは、ひろとくんありがとうかいをしてくれてね、ありがとうかいにパパもママもわたしもしょうたいしてくれたの。パパもママもひろにいちゃんがなかよしのともだちとはなれるのがさみしくて、たくさんないていたんだけど、パパとママのよそうは大ハズレ。五ねん生になったいまも、ひろにいちゃんのともだちはたくさんあそびにきてくれるよ。ひろにいちゃんはね、ともだちにわがままをいうよ。こうえんでボールあそびをしていてもボールをひろいにいかないし、いえでゲームをしていてもまけるとすぐやめちゃうの。でもね、ともだちはつぎの日もあそぼうってきてくれるよ。だから、ひろにいちゃんのともだちはやさしいなっておもう。だってひろにいちゃんがわたしにわがままをいうと、わたしはすぐおこってけんかになっちゃうもの。

ひろにいちゃんはとってもこわがりだよ。ママがそうじきをかけると、おとがこわくてにげていくし、あめやかみなりも大きらい。こわいっていってふとんの中にすぐもぐっちゃうの。あめはだれかがかなしいことをして、あかおにさんとあおおにさんが、「えーん、えーん。」ってないているからふるんだって。かみなりはだれかがわるいことをして、かみなりさんが、「こらー。」っておこっているからゴロゴロいうんだって。おもしろいでしょ。

でもね、ひろにいちゃんはとくいなこともたくさんあるよ。えをかくのがとってもじょうずなの。ふでペンをつかってどうぶつのえをかいたり、ともだちのえをかいたり、ジャイアンのえなんかそっくりにかけるよ。虫とりもじょうずだよ。虫とりあみでたくさんちょうちょをとるの。すごいなっておもうよ。それにね、ひろにいちゃんはとってもやさしいの。わたしがママからおこられていたら、ゆびをバツにしてママがおこるのをとめてくれたりもするしね。

わたしはダウンしょうを見つけるのがとくいなんだよ。ひろにいちゃんとふたごみたいなかおをしていて、とってもかわいいんだもの。

ママが、

「ひろにいちゃんにはしょうがいがある。」

と、はなしてくれたよ。でも、わたしはしょうがいがあるとはおもわなかったよ。だって、ひろにいちゃんはとってもたのしそうだもの。だから、しょうがいがある人たちはたいへんかもしれないけど、ともだちがたくさんいてたのしくすごしているとおもう。

「いってきまーす。」

ひろにいちゃんまっててね。かえったらいっぱいあそぼうね。


【小学生部門】 ◆ 富山県

僕の兄ちゃん

氷見市立十二町小学校六年
北口 優斗

どすどすどす。僕が台所で宿題をしていると、重たい足音をひびかせて兄ちゃんがやってきた。

手にはやかんを持っている。兄ちゃんがコップにお茶を注ぎゴクゴクと飲む。1ぱい2はい3ばい…もはやコップからお茶がこぼれている。すぐにやかんは空になって兄ちゃんはどこかに行ってしまった。そのあと母がやってきた。やかんを見て

「ああ~やられた!。」

と叫んだ。こんな事は毎日起きる。

兄ちゃんは変だ。こだわりをたくさんもっている。お茶を空にするのもこだわりの一つだ。2Lのボトルも兄ちゃんにかかれば一瞬で空になる。ぼくたちはおかげで水をのんでくらしている。

兄ちゃんには自閉症という障がいがある。ぼくにはよく分からないけど会話ができなかったり、こだわりがたくさんあったり、変な行動をしたり、落ちつきのないのが兄ちゃんだ。

兄ちゃんは頭が悪い。高校2年生なのに、たし算もひき算もうまくできない。

時計も読めない。ぼくの方が兄みたいだ。なのに、勉強の事でしかられるのはぼくだけで兄ちゃんはほめられる。ぼくは納得できない。ぼくもほめて育ててほしい。

兄ちゃんは、反省しない。ぼくが兄ちゃんにされたことの中で一番腹が立っているのは、校外学習にもっていくおかしを全部食べてしまった事だ。楽しみにしていたおかしを食べられてぼくは本当にキレた。兄ちゃんに

「あやまれ。」

と言ってやった。兄ちゃんは、

「ごめん。」

といった。あまり心がこもっていないけどぼくは許してあげた。それでも野球にもっていくアクエリアスやドリンクゼリーをのんでしまう。母は前日に買うのをあきらめて、当日の朝に買うことにした。

兄ちゃんは、恥ずかしい。母はよく、兄ちゃんには、しゅうち心がないと言う。道で大声を出したり、シャツを出したまま歩いたりする。兄ちゃんといるとぼくまで恥をかきそうな気がする。

兄ちゃんは、時々やさしい。兄ちゃんは、おかしを食べる時ぼくの分も持ってきてくれる。重い荷物を持ってくれと頼むと絶対に持ってくれる。兄ちゃんは、「いや。」という事がほとんどない。出かけるときは

「優斗行くよ。」って声をかけてくれる。

兄ちゃんは、めんどうだ。宿題の日記なんて全然書けない。1字書いたらぼくを見る。ぼくは、仕方なく「8月」「20日」「水曜日」と書く事を全部言ってやる。兄ちゃんはその通りにかく。ぼくが「8月40日」といっても、そのまま書くだろう。これでは誰の宿題か分からない。兄ちゃんは本当めんどうだ。

こんなに、頭がわるくて、反省しなくて、変なことばかりする兄ちゃんが、なんでぼくの兄ちゃんなのか、ぼくは、運が悪いと思うことがある。みんなの様にたよれる兄弟がいたら、いっしょに遊べるのにとも思う。そうだ。ぼくは兄ちゃんと遊んでみたかった。勉強も教えてほしかった。それでもぼくは、やっぱり兄ちゃんが好きだと思う。兄ちゃんの変なダンスが面白いなと思う。いっしょにCDを聞いていると楽しいと思う。生まれた時からいっしょにいる兄ちゃんはやっぱり兄ちゃんなのだ。ぼくは、兄ちゃんの分も、勉強や運動をがんばろうと思う。そして将来は兄ちゃんにうまく教えられる様になりたいと思う。外出する時は走り出さないように、しっかり手をにぎっていっしょに買い物が出きるようになりたいと思う。兄ちゃんのためにできること、兄ちゃんとできることがたくさんあるはずだ。ぼくは、頼れる弟になるようがんばろうと思う。


【小学生部門】 ◆ 群馬県

先生が教えてくれた事

桐生市立北小学校四年
川島 彩愛

私には心ぞうにしっかんがあります。

0才から3才まで私は家族とすごしていました。何度か入院や手じゅつをして来たけれど母は特別あつかいはしていなかったので私は自分にしょうがいがあると思っていませんでした。

私にしょうがいがあると気づいたのはようち園入園の時でした。病院の先生が「体調がよければやってもいいよ。」と言っても運動会はゴールでテープを持つ係、長なわとびも先生と回す係、園外保育の山登は母がいないと行けませんでした。

周りは心ぞう病と聞くと「かわいそう」とか「たいへん」とか「前例がないから」と言う言葉が返って来ます。そのたびに一人とりのこされたような気持ちになります。

だから小学校に入る時も運動は出来ないとあきらめていました。

だけど一年生の時のたんにんの前澤先生は今までの先生たちとちがっていました。先生は母を学校へよんで私の病じょうや学校生活での気をつけてほしい事や運動せいげんについて大丈夫な運動や禁止されている運動を細かく母に聞いて、母は病院の先生にけんしんのたびに前澤先生からのしつ問を相談していました。「運動ができる!!」私はものすごくうれしかった。

入学してしばらくすると新しい友だちに病気の事についていろんな事を聞かれました。私がどう答えていいかこまっていると前澤先生はクラス全員に「差別はするな区別はしろ」と言いました。

「人と人をくらべたりしない、しょうがいがあるなし関係ない。人は人。それぞれ出来る事と出来ない事はある。みんなちがってあたりまえなんだよ。」と。

それ以来、私の病気の事について、クラスのみんなは聞かなくなりました。

前澤先生は色々な事にちょうせんさせてくれました。はじめてのなわとび、うんてい、とび箱、運動会のときょうそう、母なしの校外学習。全部がゆめのようでした。

私はいつのまにかできないとあきらめてしまうようになっていたけど、何でも最しょからあきらめないで自分に出来る事をさがす大切さを気づかせてくれました。

四年生になった今でも先生の言葉で大好きな言葉があります。それは「心の根っこを太らせて」という言葉です。大切なのは目には見えない、言葉に出来ないかんかくや心。根っこを太くしておけばきっときびしいきこうにもたえてぐんぐん空へ向かって伸びて行けるよ。

私のしょう来のゆめは生まれた時からお世話になっている小児医りょうセンターのかんごしになる事です。ゆめに向かって心の〝根っこ〟をたくさん太らせ、人と人としてかんじゃさんと向き合っていきたいです。

あきらめないよ、初志貫徹。


【中学生部門】 ◆ 神戸市

車いすに乗って体験した素晴らしい事

神戸市立有野中学校二年
竹原 諒

ぼくは、中学校で特別支援学級に在籍しています。ぼくが体験して心に残り、これから生きていく上でとても勉強になった事を書こうと思います。ぼくは、身体にも少し障害があり、小学校五年生の時に足の手術をして、一年近く車いす生活になりました。学校の先生や家族に、移動、トイレ、お風呂その他、色んな場所でお世話になりました。車いす生活をしてみると、今まで見えたり感じた事の無かった事を、たくさん経験できました。

外出すると、段差や上り坂などで困っていると必ず誰かが手を差し伸べてくれて、心の底から「ありがとう」が言えました。ありがとうとお礼を言うと相手の方もすごく嬉しそうな笑顔を返してくださいます。ぼくも嬉しくなって笑いました。学校の修学旅行で奈良に行った時は、外国人の方が鹿のえさを鹿にあげるようにぼくに手渡してくれました。

車いすを押してくれている先生と二人で「サンキュー」と言いました。「サンキュー」と言うと外国人の方もすてきな笑顔を返してくれ、とても嬉しくなりました。「ありがとう」と言う言葉には、言った方も、聞いた方も嬉しくなったり、幸せな気持ちになれる事がわかりました。又、デパートの前で格闘家の高田延彦さんが、握手会をされていて車いすで並び握手をして頂いた時に、今まで握手をしても感じた事のない気持ちが伝わってきました。力強く、目を見て無言で握手をしてくれたのですが、手を通して「ガンバレ!へこたれるな!」という気持ちが強く伝わってきて、ぼくも強くにぎり返しました。ぼくも少しでも人の気持ちがわかる努力をして人の役に立ちたい、みんなが喜んでくれる事をしていきたいと思いました。又、ぼくは、視機能にも問題があると言われています。それは赤ちゃんの時に足を治す為に装具を付けなければならず、寝たきりでハイハイなど成長と共に学ばなければいけない動作をぬかしてしまったからではないかと、ママが説明してくれました。眼は見えているけど使い方が悪いそうです。なので、字を上手に書けなかったり、手先が不器用だったり、忘れ物も毎日しています。日本には、まだ眼の使い方で苦労されている人達の事があまり知られておらず、治療する病院もあまりありません。みんなと同じように見えていない事に本人も回りの人も気付かないで苦労されている人達が世界中にたくさんいると思います。ぼくは、少しでもみんなの力になれて、人の気持ちを理解し人の役に立つ人間になりたい。みんなからの「ありがとう」をいっぱい貯めて「ありがとう」と笑顔を世界中の人達に渡していきたいです。


【中学生部門】 ◆ 名古屋市

いもうと

名古屋市立鳴子台中学校一年
久冨木 楓

私の妹は、知的障害を持っています。私は妹のことを大切に思っています。妹の障害は、目に見えません。白杖を持っているわけではないし、車イスに乗っているわけでもありません。普通に歩けば、普通の子です。それに私の小学校の福祉では、四年生は耳のきこえない方、五年生は、目の見えない方、六年生では高齢の方に実際に来ていただき、暮らしなどについて学びました。妹達のことは勉強していません。

ある日の家庭科の授業で、社会生活をしていない人は誰?という質問がされました。すると、一人の子が、「障害者!」と言いました。他にも「お前が障害者みたいだー。」などと騒いでいる子がいて私は傷つきました。

障害者は、不幸なの?障害は持っていちゃいけないの?なんでーなんでー。私は三才のころから妹がいて、五才くらいのときにはもううすうす「妹は自分とちょっと違うのかな」と分かっていました。最初のほうは、私も、妹は不幸だ、かわいそうだ、と思っていました。でも、今は違います。妹はいつもニコニコして、本当に幸せそうです。だから、妹を「かわいそう」と思うことをやめてほしいのです。妹達は、かわいそうではありません。例えば、泳げないけどがんばって泳ごうとしている人が、かわいそうだと思いますか?それと同じです。妹達の笑顔は、私達を幸せにしてくれると思います。

私は時々、妹のことをすごいな、と思うことがあります。私が当たり前にできることのほとんどが妹はできません。それでも妹はいつも笑っています。私がすごく落ち込んでいても私を元気にしてくれます。

小学校のとき、私が失敗をして布団にもぐり込んでいると、妹が目でこう語りかけてきました。 「どうしたの、お姉ちゃん。落ち込むなんて、お姉ちゃんらしくないねぇ。」

妹は言葉がしゃべれないけど、私の心や、私の話、なんと私の性格まで分かっているようです。時々、言葉がわからないと思って、そういう人に「キモい」などと心のない言葉を言う人がいますが、それはいけないと思います。

笑顔の妹がいつも近くにいたから、今の私がいます。私は、妹に恩返しをしたいので、妹が行っている養護学校の先生になりたいです。妹のような重度の障害から軽度の子までいろんな子がいます。私は、そういう子達とともに、学び成長していきたいと考えています。そう母に言った時、母は、

「覚悟はできてるの?大変な仕事だよ。」

と言いました。もちろん、わかっています。でも、やっぱりやりたい。そう思いました。

今、世の中には、妹達のことを理解せずに接している人の方が多いと思います。妹達は不幸ではないし、私達と同じように、元気で一生懸命毎日を生きています。違うのは、障害の有無。それだけです。障害があってもなくても、楽しく毎日を過ごすことができる。そういう世の中になるために、私は努力していきます。昔、祖母が言っていました。

「○○(妹の名前)は、福子だから。」

その通りだと思います。妹がくれたのは、気付かせてくれたのは、とても大きなものだと思います。

毎日を一生懸命生き、本当の幸せを知っている人がいます。そんな人々とふれ合うことによって、私達はもっと変われるはずです。

これから、どんなにつらいことがあっても、私には妹がいます。くじけることはないでしょう。私が将来の夢を話したとき、母はこう言っていました。

「楓はきっといい先生になれるよ。家族の気持ちもわかるもんね。」

そう言われて、とてもうれしかったです。不安もあります。でも心配はいりません。私は夢へとまっすぐに走りだすでしょう。だって私には大切な「いもうと」がいるのですから。


【中学生部門】 ◆ 山口県

車椅子のおじちゃん

山口市立白石中学校一年
大迫 朱里

私には両足を失くした友達がいます。

その友達は現在四十五歳。ときどき車椅子で町を歩いていて、私たちを見かけると、いつも声をかけてくれます。

出会ったきっかけは、小学三年生のころおじちゃんの車椅子の車輪がみぞにはまって動けなくなっていて、おじちゃんが

「ちょっと助けてくれんか」

といって私が助けたのがきっかけです。

おじちゃんはいろんなことをさせてくれました。

スマートフォンでゲームをさせてくれたり、車椅子を押させてくれたり、時には職場でもらったあめ玉をくれることもありました。

でも、小学六年生になったある日、ある事件が起こりました。

いつものように道で話をしていると、五年生くらいの男の子二人が、おじちゃんの足を見て、

「うわっ。この人足がない。おばけや!」

と、大声でさけびました。私はその足のことや、事故についてはおじちゃんの前では口に出さないようにしていました。それでおじちゃんが気を遣うことが嫌だったからです。私はあっと思い、おじちゃんの方を見ました。おじちゃんは何ともいえない悲しそうな顔をしていました。私はそんなおじちゃんの事を見ていられず、なにもいわずに帰ってしまいました。

その何日か後、おじちゃんにお化けとさけんだ男の子二人がやってきました。あの事を謝ってくれるのかと少し期待をしましたが、思わぬ言葉が帰ってきました。

「おまえ、あのおばけとつきあわん方がええぞ。」

私は強いショックを受け、何もいい返すことができませんでした。

それはとてもとても大きな差別になるのではないかと思いました。確かに思えば小学三年生のころ、おじちゃんとはじめてあったあの日、おじちゃんの車椅子の車輪がはまっているのを見た人達は、何事もなかったかのように忙しそうに目の前を横切っていくだけでした。それに私もおじちゃんに「手伝ってくれんか。」と声をかけられなければ、ただの通行人にすぎなかったと思います。私自身もそうだったけど、おじちゃんに障害があるというだけで、さけたり、目をそらしたりするのは、なんだか情けないなと思いました。

でも男の子の言葉や、黙って帰ってしまったということもあり、おじちゃんと話す勇気がもてずだんだんさけるようになり、おじちゃんと全く話さないようになりました。

それから約一年が経ち、私は中学一年生になりました。

制服を着て新しい学校に行くようになり、とても充実した日々を過ごしていた帰り道、おじちゃんが前から車椅子で、歩いてくるのが分かりました。どうしようかと一瞬迷いました。このまま通り過ぎてしまおうかとも思いました。でもこれは、話しかけられるチャンスじゃないか。と思い思い切って声をかけてみました。するとおじちゃんは、

「おぉ。立派になったな。」

と、私が中学校へ入学したことをすごく喜んでくれました。その日を境にまたいろんな事を話すようになりました。

おじちゃんには、たくさんの友達ができたということを聞きよかったなと思いました。

でも、あのとき何も言わずに帰ってしまったこと、さけてしまったことをまだおじちゃんに謝る勇気がありません。ですが、おじちゃんは私が謝る事よりも楽しく話をする方がうれしいんじゃないかと思いました。

この事をきっかけに私は差別について考えました。

差別をするという事は、差別をされた方はもちろん、自分も傷つくということを身をもって知ることができました。

みんな「差別はいけない。」と頭では分かっていても実際に差別を目の当たりにすると、どうしたらいいのか分からなくなってしまうのではないかと思います。

そして、差別を見過ごしてしまったことをきっとこうかいすると思います。「見て見ぬふりをする。」というのは、「差別する。」という事と同じではないのでしょうか。

今の社会はたくさんの「差別」があります。その差別を少しの勇気で止めることが、「差別」をなくす事の第一歩につながるのではないでしょうか。

今の私ならあの男の子たちにこう言います。

「お化けじゃない。友達だよ。」


【高校生・一般部門】 ◆ 奈良県

生きてるだけでOKやで!!

榎田 伸也

<1>発症、さまざまな症状との闘い

ぼくが「統合失調症」を発症したのは、今からもう、十八年も前のことです。

当時は、精神障がいについての情報が、ほとんど得られませんでした。ぼくも家族も、右往左往するばかり。ありとあらゆる医療機関やカウンセリングへ通い続けました。

さまざまな症状と、必死で闘い続けました。

怒りの気持ちが抑えられない興奮状態、何もかも意欲が落ちるうつ状態。

幻聴。ぼくに悪口を言ったり、命令するような声。ほんまに、しんどかったなあ。

被害妄想。人通りの多い商店街を歩いていると、すれちがう人たちが、どんどんぼくに悪口を言ってくるのです。とうとうつらくなって、道ばたにしゃがみこみ、くすりをのんで数分、数時間、「声の嵐」が過ぎ去るのをひたすら待ち続けました。しばらくすると、「声の嵐」はウソのように消えていました。

<2>入院生活、そして退院へ

発症から四年後の二〇〇〇年春、私は外出先でひどく調子を崩し、急きょ医療保護入院することになってしまいました。

単調で、とてつもなく長く退屈な入院生活。それでも、外泊を着々とくり返し、ようやく二〇〇二年春、退院が決まりました。

その直前、優しいケースワーカーさんが奔走されたおかげで、年金や手帳の手続きも、無事に済ませることができました。

<3>退院後の回復過程とさまざまな活動

退院した年の初夏、ある地域生活支援センターへ通い始めました。そこには、ぼくとは症状はちゃうけど、しんどさを抱えとる人たちがたくさんいました。「しんどいんは、ぼくだけちゃうんやな。」そう思い始めると、自然に気持ちがやわらかくなってゆきました。

その次の年には、早くも別の事業所で軽作業ができるほどに。それ以降、退院直後とは見違えるほど、急速に回復していきました。

<4>紙芝居と体験発表

ぼくは「『精神障がい』を、できるだけわかりやすく、目に見える形で伝えたい」という思いから、「紙芝居」を始めました。

原作の文章はぼくが考え、絵の上手な仲間に描いてもらって仕上げました。

「さあ、それでは、物語のはじまり、はじまり……。」

一番前で見てる子は、瞳をまんまるくして見つめています。

そして、物語が終わり、

「はい、おしまい!」

わあっと、拍手が起こりました。

ぼくは、

「子どもさんに、ちゃんと思いが届いたかな?」

そんな気持ちで、いつも後片付けしました。

体験発表は、かれこれ十年ほどになります。

支援センターの職員さんと二人三脚で、大学、専門学校、自治体のイベント、と、いろんなところを巡り、語り続けました。

それが面白いんやな。行く所先々で、聴き手の反応が、全然ちゃうんや。学校関係の人たちは、真剣に、かと思えば、話してる一番前の席で、目を閉じてボンヤリしてたり。

ほんま、いろんな人がおって、おもろかったわ。

ある時、ある人から、

「今まで精神障がいに対して正直偏見を抱いていましたが、話を聴いて、そうではない、ということに気がつきました。どうもありがとうございました。」

と、アンケートで書かれたものを見ると、とてもうれしく、「やってよかった!」と安心したものです。ほんまに、やってよかった!!

<5>障がいの「ある」「ない」って?

ぼくの思いはただひとつ、

「生きてるだけでOKやで!!」

障がいの「ある」とか「ない」とかっていう、せまいせまい区分けするから、よけいに差別が生まれるんちゃうの?

みんな、おんなじ人間どうしやん。違うとすれば、一人一人の「持ち味」。「個性」って言うたらややこしいからやめとこう。

あと、障がい者と「接する」っていう言葉も、ぼくはイヤやな。何だか、おんなじ人間扱いされてないみたいな感じやし。

「障がいのある人とない人との心のふれあい」?

そんなちっちゃい枠なんて、とっぱらってしまいたい。「心のふれあい」って言うほど、別に大げさなことちゃうしな。

「たまたま、となりにおる、どこにでもいそうなふつうの人。」

そんなノリで、活発で楽しくやりとりできたら、それでもう、めちゃラッキー!!

障がいがあろうがなかろうが、男でも女でも、肌の色が違っても、み~んな、同じ地球で、今、生きてる。これってめっちゃ、すごいこと。おんなじ生きてるんやったら、一度っきりの人生やもん、みんなで思いっきり楽しみたいなあ。

やっぱり、ぼくは声を大にして言いたいわ。

「生きてるだけでOKやで!!」


【高校生・一般部門】 ◆ 岩手県

家族の支え

駒場 幸子

夫の体に異変を気付き、診察の結果、筋ジストロフィーと宣告された。三十五年前である。

医師から「治療法は無い」と告げられ、治療が出来ない病気なんてあるものかと、信じることができなかった。

どうすれ良いのか途方に暮れた。病気は手足の筋力が徐々に衰え、やがては寝たきりになると知った。

治療法が無いと、医者に見放されても命ある限り生きなければならない。どう夫を支えて行けばよいのか眠れない日々が続いた。

病気の原因は、両親やその祖先から受け継がれてきた遺伝子の、トラブルだと患者会の研修会で学んだ。命の誕生の際に突然起き、誰を恨むことのできないものだ。

特異な身体障害に、家族からも病気の理解が得られず孤立している人。さらに、病気の子どもを産んだ自分の責任として、強い罪悪感を抱え苦しんでいる女性。病気の幼子を抱え離婚した若い母親。病気の子どもに医療は必要ないと養育放棄の家族を知った時は、頭が真っ白になった。

病気を知った夫は、患者会に入会して生き方を探していたことをしばらくして知った。

体の不自由な夫に付添い、行事に参加する機会が増えた。医療講演会や研修会に二人で参加し、治療研究の話やリハビリ訓練について指導を受けた。

病気について正しい理解が得られるばかりか、参加していた患者さんや家族の生き方や生活の工夫が参考になった。

そこで目にしたのは、子どもから大人まで様々な症状と闘い頑張っている姿だった。やがて夫も、あのような姿になるのかと障がいの進行を予測することが容易だった。その家族にお話を聞き、今後のアドバイスを貰うこともできた。

車イスに呼吸器を着けて参加していた青年。ボランティアや看護師、母親の支えで新幹線に乗って上京していた姿に驚き、声をかけた。すると、車イスでの旅行は当たり前の行動だと言う。

病気を正しく理解し、病気を恐れず今できることに挑戦することが治療法だと気付かせられた。家族の理解が患者さんを支えることの大切さを実感した。

夫は自動車の運転を止める五年前まで患者会のお世話をしていた。自動車は手動運転補助装置付きの改造車で、車いすの積み下ろしや介助のため私も同行する必要があった。

岩手県内には筋ジストロフィーの専門医が居ない。そのため宮城県仙台市から専門病院の先生を招き、岩手県内六ヶ所を巡回する医療相談が三十五年間続いている。

その巡回相談に夫は、患者会の役員をとして二十数年間同行し、患者と家族の相談に対応していた。治療法が無いと言われ、諦め、失望している人達に出会い、何か私にも出来ることは無いかと考えさせられた。

相談に訪れた患者さんと家族は、誰にも知られたくないとして口をつぐみ、生気を失った顔で相談の順番を待っていた。

順番を待っている相談者に、自分も患者の家族で介護の悩みや辛さを話しかけた。不自由になっていく体と治療法の無い病気の宣告に失望していた。

同じ悩みを抱える人と出会い「ひとりぽっちではない」と自分の体験を伝えることが役立つ手ごたえもあった。

誰にも話せない悩み。今まで辿ってきた苦しい思いを話す人も現れた。その悩みを聞いてあげることが出来た。私も夫の介護を続けていることを伝えることで緊張が解けていた。帰るときには笑顔になり、次回も会うことの約束までする人もできた。

夫に「お喋りばかりするな」と叱られた。今日は「お前のお喋りで助かった」と褒められることもあった。

治療法が無ければ、介護が楽にできるようにしようと、電動車イスや福祉機器を色々と使っている。福祉機器のカタログだけでは分からないので、東京の福祉機器展を見学にも行った。

会場にはたくさんの福祉用具があり見ているだけで楽しかった。自分たちの生活で使えそうなそうなものや、珍しいものなど見つけることが出来た。

我家で体験した結果と、見学で得た情報を、巡回相談や患者さんの家族からの問い合わせに役立っている。その工夫や様子を見学に訪れた人も有り、介護する家族同士で話し合いもできて感謝された。

家族に病気の理解がなければ患者さんにも病気の受容が難しいこともあった。お医者さんにも話せない悩みを、雑談として聴いてあげる大切さが病気の受容に役立っていた。

介護する家族を元気にする雑談はいつの間にか得意になり、病気の夫のお蔭で自分にも出来る役割に気付かせてもらった。

各地を巡り、たくさんの患者さんや家族から生きがいと生活の工夫を教えられた。障がい者と健常者が共に理解しあえる心の輪の大切さ、ありのままの姿を認め、諦めない心を支える大切さを伝えていきたいと思っている。


【高校生・一般部門】 ◆ 福島県

見えないシャトルを追って

福島県立盲学校高等部三年
緑川 秀太

私は生まれつき視野が狭く、中学の頃は、クラスの皆に迷惑をかけてしまう事が多かった。ぶつかってしまったり、落としたペンを一緒に探してもらったりしていた。時には、傍にいる女子に気付かず、後ろからぶつかり、この人痴漢ですと訴えられた事もある。

そんな感じで迷惑をかけながらも、楽しい学校生活を送っていたが、どうしても楽しめないものがあった。体育だ。視野が狭いため、ボールの行方を追えず、顔に当たったり、ミスをしてしまったりしていたからだ。

あまり目のせいにはしたくないが、見えないものは見えなかった。

私の中学には、体育祭があった。体育が嫌いな私にとっては、まさに地獄のお祭りだ。

中学二年の時は、バドミントンが競技になっていた。体育の時間に練習することになったのだが、やはりシャトルが見えず、出来なかった。悔しくなって、何か策はないかと考えていた時、ふと、友人がこんな事を言った。

「秀ちゃんってピアノをやってるからか、耳良いよね」

と。なるほど、目は悪くても、耳は良いのか、ならば、シャトルから音が出れば、出来るんじゃないか?と考えた。

そこで、まずはシャトルにつけられて軽くて音が出るものはなんだろうと考え、鈴をつけることにした。シャトルに鈴をつけるのに苦戦していると、クラスの全員が手伝ってくれた。私は鈴をつけることによってバカにされるんじゃないかと思っていたから少し驚いた。そして、鈴をつけたシャトルを打ち上げてもらったのだが……

シャトルは山なりに飛んでくるため、鈴が鳴らず、打つことが出来なかった。折角手伝ってもらったのに申し訳なくて、表には出さなかったが、涙が出そうだった。すると、落胆している私に、

「だったら、ずっと音が鳴っている物をつければいいんじゃない?」

と、友達が言った。諦めかけていた私だが、何か音が出るものはないかと必死で探した。結果、小型の防犯ベルをつけることになった。この時も、クラス全員が手伝ってくれた。音が出る状態で、上げてもらった。すると、音が鳴っているため、位置を把握して、打つことが出来た。

「やった!当たった!」

と、歓声が上がったがすぐに悲鳴に変わった。

「危ない!」

防犯ベルを付けたため、シャトルが重くなり、打った瞬間ホームランだった。これには全員笑っていて、

「秀ちゃん、流石だね、でも危ないからやめよう」

と、断念した。

結局、体育祭には、シャトルに何もつけないで参加した。結果は、完敗だったが、練習の効果もあり、とても盛り上がった。私は、体育祭を楽しむ事が出来て、体育が好きになった。クラスメイトのおかげだと感謝している。体育祭が終わった後別のクラスの先生から、

「秀太、お前のクラスはいいな、男子も女子もお前の事手伝ってる姿見て、感動したよ」

と言われ、私も良いクラスだったなと思い、感謝した事を今でも忘れない。

私はこの出来事を通じて、前に進むことが出来た。障がいを持っている私に、一人一人が、差別などをせず、協力してくれたからだ。私は仲間の大切さを知った。障がいがあるから相手にしてもらえない、何も出来ないでは、いつまで経っても暗いトンネルを抜け出すことは出来ない。自分から発信して、仲間を作っていかなければならない。勝手な意見だが、仲間がいないと言っている人はどこか諦めてはいないだろうか。私は話すことが苦手だからとか、どうせ嫌われるんじゃないかとか、そんな事を思っていたら人は寄ってこない、むしろ自分から逃げているようなものだ。

私は今、スポーツをやる楽しさを感じている。陸上にグランドソフトボール、フロアバレーボール、以前まで嫌いだった体育も積極的に参加している。球技が嫌いだった私が、今や盲人野球では投手になっている。昔では想像出来ないことだ。

空飛ぶ野球、空飛ぶバレーはできないけれど、盲学校ならではのスポーツを満喫し、視覚障がいと共生していく覚悟はできた。

私の夢は、スポーツトレーナーになることだ。世界中のアスリートを育てていけるようになりたいと考えている。スポーツに関わる事で仲間を増やし、夢を叶えたい。

※このほかの入賞作品(佳作)は、内閣府ホームページ 平成26年度「心の輪を広げる体験作文」及び「障害者週間のポスター」作品集でご覧いただけます。


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