付録 7 平成27年度 心の輪を広げる体験作文 優秀作品
最優秀賞(内閣総理大臣賞)受賞
【小学生部門】 福岡県
退院から一年たって
大野城市立大野東小学校 六年
かとう あかり
加籐 灯
私は小四の時に交通事故にあいました。気がついた時は、自分で動くことも、口から食べることもできませんでした。だから、ベットと車いすの間の移動はだっこをしてもらって、食事はチューブを使っていました。二つの病院に入院してちりょうとリハビリをがんばって、八月一日で退院から一年たちました。一年前とくらべて、いろんなことができるようになったと思います。たとえば、少しだけど歩けるようになりました。忘れたことが多くて、最初の病院でのことは、リハビリの先生のことしか覚えてないけど、その先生に会いに行ったら
「すごいね。びっくりした。」
とおどろかれました。また、手のふるえも止まってきて、おはしやハサミも一人でつかえるようになったし、小さなマスにもだいぶん字が書けるようになってきました。大好きな剣道のすぶりも車いすにすわっていたら一人でできるし、お母さんについてもらったら、切返しもなんとかできるようになりました。学校も、最初は四、五時間目と給食時間だけ行っていたけど少しずついられる時間が長くなってきました。他にもいろいろあるけど、多くの人に助けてもらっていると思います。特にリハビリの先生方と学校の先生方には感謝しています。
忘れてしまったこともたくさんあるし、新しいことも覚えにくくなったけど、ゆっくり教えてくれてありがとうございます。またみんなと一緒に学校生活が送れるように剣道をできるようにこれからも一生けん命がんばっていくのでおうえんよろしくおねがいします。
最優秀賞(内閣総理大臣賞)受賞
【中学生部門】 岐阜県
心のつながり
大垣市立赤坂中学校 三年
すが まなみ
菅 麻菜美
私の母さんは障害者です。母さんが私の知っている母さんではなくなったあの日から、私は大切な人を失い、大切なことを学びました。
母さんはいつも笑顔が素敵で気前のいいお喋りな人でした。いつも家族のことを第一に考えてくれて本当に私達のことを愛してくれました。私が小学校低学年の頃、人見知りで友達のつくりかたも知る由もなく一人ぼっちでした。それがすごく辛くて「どうして私には友達がいないのっ…」「どうして一言『遊ぼう』が言えないのっ…」と辛かった時、母さんは「無理して友達なんかつくらなくていい。無理してつくる友達は友達じゃないの。一人を楽しんでみるのもいいんじゃない?」
と、笑顔で私を抱きしめてくれたのを今でも思いだします。いつだって母さんに抱きしめられると体だけでなく心までも抱きしめられる感じがしました。どんなに辛くても、苦しくても、母さんがいたから頑張ることができました。母さんの笑顔は周りを和やかにし、いつだって輝いていました。
幸せだった私達家族の運命をかえることになった夏休みの日の夜、私は忘れたくても忘れることが許されない、一生後悔することになる日になりました。突然母さんが立ち上がれなくなり、喋ることもままにならない状態になりました。明らかに母さんの様子がおかしいと思い、インターネットを使って調べてみたところ脳梗塞でした。あの時急いで救急車を呼んでいれば…と、今でも胸が苦しくなります。私は救急車を呼ばず、明日の朝でも様子がおかしかったら救急車を呼ぼうと思い明日を待ちました。母さんの様子を確かめに行ったら、そこには、私の知っている母さんはいませんでした。目の焦点も合わず言葉も話すことができずまるで人形のようで私がしでかした事の大きさに言葉がでませんでした。母さんに下された診断結果はやはり脳梗塞で、その後遺症は右半身不随、失語症などで一人で生きていくことができなくなりました。母さんと再び会ったのは一ヶ月後のことでした。その時の母さんは、いっぺんに話しかけても理解することができなかったので、ずっと「今日は四十度越えて暑かったんだ。」「ここは涼しい?」「困ったことはない?」と聞くと母さんは、首を使ったりしたりして反応してくれました。少し不安があったのですが、母さんに「母さん、私達のこと…覚えてる?」の問いに母さんは、私達の顔を見て、「うん」とともに首を縦に振ってくれました。その瞬間、私は耐えきれず母さんの手を握りながら泣き崩れました。その間母さんは、力強く私の手をずっと握り返してくれました。母さんが私の知っている母さんではなくなっても、その様は昔、いつも私を抱きしめてくれ、心も体も母さんに守られている気持ちになりました。…言葉のつながりを断ち切られても、母さんと私達家族の心のつながりは強く、太くつながっていることを学びました。
あれから、もうすぐ一年が経とうとしています。母さんは半年間のリハビリをし、杖は必要ですが歩けるようになりました。会話はまだ上手く話すことは出来ませんが、少しずつ少しずつ話せれるようになっています。たった十四年間しか母さんとの想い出がつくれず幾度も「…たら」「…れば」と思うことはありますが、これからは今まで母さんに守られていたので、今度は私が母さんを守ります。母さんから学んだ「心のつながり」を私の夢である「先生」で未来のある子供達に伝え、心と心のふれあいをしていくのだと母さんと手を握りあったあの日、心の中で誓いました。
最優秀賞(内閣総理大臣賞)受賞
【高校生・一般部門】 鳥取県
「ゆかちゃんとチィ」
川村 恵子
私の妹は、療育手帳を持つ知的障がい者である。一歳半に高熱を出し、髄膜炎に罹った脳への後遺症であるらしい。妹の障がいを簡単に言えば、知能は二歳、身体は三十八歳で介助が必要な大人である。このアンバランスさが妹にとっての障害であり、社会における生きづらさなのだろうと思う。
私は決して優しい、いい姉ではない。お互いに幼かった頃は一緒に遊んだり、出かけたりしたが、私が周囲の視線を気にして、妹と一緒に歩くことを避けた時期もある。妹の事は隠したわけでもないが、誰かにわざわざに話さなくてもよいことであった。いちばん近くにいる向き合いたい家族なのに、距離を置いていた自分がいる。いつも真っ直ぐに一生懸命に生きている。そんな妹「ゆかちゃん」を母は「天使みたいな子だよ」と言う。
やがて私は結婚して、妹と離れて暮らすようになった。新しい家族もできた。もうすぐ四歳になる息子は、自分のことを「チィ」と言うので私もそう呼んでいる。息子が産まれる時、妹は母と一緒に病院の分娩室に来た。母が居るところには必ず妹がいる。痛がり苦しむ私のそばで、妹はわけのわからないことを言っていたが、それが彼女なりの私への応援だったのかもしれない。我が子が生まれ、ふと思ったことがある。私は妹の障がいをこの子に何と伝えればよいのだろうか。息子にとって叔母にあたるゆかちゃんを息子は『何かちょっと普通と違う、ヘンな人だ。』と思う時が来るのだろうか。その時、私は息子に何と言うのだろうか。これまで妹と知らずしらずのうちに距離があった私は、妹ともっと近くで関わりたいと思った。息子の誕生と同時に、妹がいる家の隣に住み、物理的な距離はもちろん、心の距離を縮めたかった。関わると言っても、妹と一歳にもならない息子と私が、ただ毎日を一緒に暮らすだけ。手のかかる子どもが二人いるみたいだった。息子をベビーカーに乗せ、ゆかちゃんはその横でベビーカーにつかまってボチボチとゆっくり歩く。妹と並んで歩くのも久しぶりだった。息子が六か月を過ぎた頃から、自分にひとつも声をかけない妹を息子は不思議そうに見ていた。妹が近付くと怖がり、私の後ろに隠れたこともあった。人見知りにしては長い。妹を見ると「怖い」と言うようにもなった。私は「怖くないよ。ゆかちゃんは優しいよ。」と繰り返し息子に言った。それからもずっと妹と息子と私は一緒に過ごした。妹の新たな一面も見られるようになった。息子が泣けば、妹はおむつを持ってきて、換えようとしていた。上手く換えられない。息子は泣く。ずいぶん手間はかかったが、こうした二人のやりとりを何度も重ね、大切に見守り続けた。いつも息子は、ゆかちゃんをじーっと見ていた。妹がお風呂で介助される姿も『大人なのに、なぜ一人で出来ないのだろう?』と言っているかのように、じーっと、じっと見ていた。息子が三歳になり、言葉を話し始めた頃のある日、「新幹線に乗りたいね。」と話をしていたら、「チィは誰と行くの?」と尋ねると、「チィはね、トントンとタンタンとばあばんと、ゆかちゃん。」
「ゆかちゃん」息子が初めて妹の名前を口にした瞬間だった。息子は「ゆかちゃん」の存在を避けずに受け容れている!彼の発達段階でゆっくりと時間をかけて「ゆかちゃん」の存在を受け容れたことが私は嬉しかった。
「ゆかちゃんはね、ゆっくり歩くからね、チィもゆっくり歩くの。」と息子は続けて言った。
これは、障がいに対する同情ではない。三歳の息子が障がいを理解し、障がいのある妹に寄り添う言葉が自然に発せられたのだと思った。息子に人への優しさが育っていることもまた、嬉しかった。四歳を前にした今では、息子が言う。「ゆかちゃん、お茶はちょっとずつ飲んでよ。(水筒のお茶を)ぜーんぶ飲んだらいけんで。」と。いつも自分が言われているのに、妹のことを気にかけ、接する姿はお兄さんみたいだ。そうか。ゆかちゃんの内側は二歳のままならば、チィはもうゆかちゃんより年上のお兄さんになったんだね。
「障がいのある人とのふれあい」それは特別に何かをしなくても、日常の中にあった。褒めると、にこっと笑う。怒ると「もうやめて。」と言うかのように見つめられた。ぎゅっと抱きつかれたときは、『怖い思いをしたのだろう。』とハッとして気付く。日常の暮らしにはそうした一瞬がある。そうした瞬間的な心の重なりを「ふれあい」と呼ぶのかもしれない。些細なしぐさや視線、表情を見過ごさずに受け止められる自分でいたい。一瞬の「ふれあい」は弱いかもしれないが、積み重ねていけば、もっと強い絆になるだろう。
鳥取県が取り組む「あいサポート運動」は、障がいの特性を理解することから始まり、障がいのある人とない人が共に生きる社会をつくるための取り組みである。決して「してあげる」という押し付けではない。私は、息子の姿から障がい、そして障がいのある人をありのままに受け容れる姿勢とその過程を学んだ。障がいを理解させるために、言葉の説明なんて要らなかった。まだ言葉も発しない幼い息子が障がいを理解できたのに、人はなぜ心にバリアを張るのだろう。障がい者の姉である私は、いつからなぜ妹と距離を置くようになっていたのだろう。私の心の中で絡まっていた糸がすぅっと解けていく気がした。
これから先に息子が成長していく途中で、妹への見方が変わったり、妹と接する距離が変わることがあるかもしれない。その時が来れば、息子はもう覚えていないかもしれないが、ゆかちゃんとチィが互いに優しく接していた日々のこと、息子が初めて「ゆかちゃん」と言った時のやりとりをしっかりと息子に伝えようと思う。そして、母が私に言ったように、私も「ゆかちゃんは、天使みたいな大人だよ。」と言うのかもしれない。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【小学生部門】 宮崎県
楽しいぼうけん
西都市立妻北小学校 三年
あまん にこはる
阿萬 和春
今年の夏、ぼくたちは、ぼうけんをした。まず、じしょで調べたら、ぼうけんは、
「あぶないことをすすんでちょうせんすること。」
と書いてあった。ぼくたちは、海に行くことにした。
ぼくたちは、海を地図で調べた。ぼくたちがすんでいるさいとには、海がない。高なべ町まで行くことにした。ぼうけんだから、自てん車で行きたかった。でも車で行くことにした。お母さんが、口を出さないと言ってたのに、
「自てん車じゃ日がくれる。」
と言ったのでガマンした。
そして車で行った。30分くらいかかったのでやはり自てん車にしなくてよかった。ぼくたちは車の中で話しながら、ドキドキしていた。友だちと海で遊ぶなんて楽しみすぎる。
でも、ぼくには心ぱいなことがあった。三人でけんかをしてしまうことだ。海についたら、ぼくは、ほちょうきをはずさないといけない。ほちょうきがないとぼくには声がきこえない。何を話しているか分からない。ぼくは、イライラしてしまう。手話で話してほしいけど、あんまり上手につたえられない。ぼくは、二人の顔をしっかり見ようと思った。心ぱいよりもワクワクの方がずーっと大きかった。
車のまどから海が見えて来た。ぼくたちの気持ちは、
「早く海に入りたい。」
それだけだった。
ぼくはほちょうきをはずした。もう心ぱいなんてなかった。三人で走って、入った。なみは、大きくて強かった。三人で高くジャンプした。三人でなんどもなんどもジャンプをした。いっぱいこけていっぱいわらった。なみはしょっぱくて目に入ったらいたかった。ぼくたちは楽しくてたまらなかった。二人の顔を見たら、あったかい顔をしていた。大きな目をあけて、大きな口をあけてわらっていた。ぼくたちは心が通じていた。
つぎに、すなはまで遊んだ。バケツにすなを入れてしろを作った。スコップがないから、われた竹をひろって来た。そして、三人で色々な形の石や貝がらをあつめた。大きな貝がらやおにぎりみたいな石もあった。くずれた時は、けんかじゃなくみんなで大わらいした。
ぼくはイライラしなかった。あぶない時は、手でバツをしてくれた。しろがかんせいした。
さいごにまつぼっくりをのせて、三人で
「ヤッター。」
とさけんだ。
ぼくたちのぼうけんは大せいこうした。今年の夏休みで一番の思い出になった。ぼくたちは、ずーっと友だちだ。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【小学生部門】 岐阜県
伝える力と心
海津市立高須小学校 四年
いとう だいご
伊藤 大悟
ぼくには、遠くに住んでいるおばあちゃんがいる。おばあちゃんにはしゅ味がたくさんある。あみものにクロスワード、童よう、そして手話。ぼくの家族にも親せきにも耳に不自由な人はいないのにどうしておばあちゃんは手話を勉強しているのだろう。夏休みに遊びに行った時に聞いてみた。
手話を習ったきっかけは、昔おばあちゃんが働いていたお店で、お客様が帰る時にたったひとつ「ありがとう」と手話で話したら、その方がとてもすてきな笑顔を見せて喜んでくれたそうです。たったひとつの手話での笑顔が忘れられなかったこと。病院の受け付けで困っていたこと。駅のホームで電車がおくれているアナウンスが聞こえず待ち続けている方を見たこと。そこで、今必要な情報をすぐに伝えてあげれたらなあ。と思ったそうです。
ぼくたちが一年生の時に「あいうえお」を習ったように手話にも「あいうえお」がある。ぼくはまず「いとうだいご」をどうやってやるのかを教えてもらった。ふ段使ったことのない指の形や向きや動きがあって、頭で思っていても指が思うように動かずに首や体をくねらせなくてはできないくらいすごくむずかしかった。一文字ずつだととても大変で時間がかかる。けれど、もっと早くスムーズに伝えるように例えばおばあちゃんがお客様へやった「ありがとう」と言う言葉をひとつの動作で表現する方法もある。左手を曲げ胸の前に持って来て右手で左手の甲を軽くチョップする。これが「ありがとう」となる。
おばあちゃんが手話の勉強を始めてもう9年目らしい。今では手話ができる人が働いているお店として耳の不自由な方がおばあちゃんを訪ねて来店されるらしい。みんなにこにこして楽しく明るく元気に帰って行かれる時におばあちゃんは「もっともっと勉強しよう」と思うらしい。今年六十九さいのおばあちゃんだけど手話検定を受けるために勉強している。きっかけは人の役に立てたらいいな。と思ったことだけどすっかり自分の楽しみになっている。
今年もおばあちゃんは手話をしながら童ようを歌ってくれた。ぼくが聞いてもすぐに手話で教えてくれる。だけどむずかしくて困っていると、
「大丈夫。ちゃんと上手くできんでも伝えようとすれば伝わるんよ。それにわかってあげようと心を開けば伝わってくるんよ。」
と教えてくれた。おばあちゃんの手話は、いつ出会うかわからない方々への心の準備だ。
困っている人にすぐに手を貸せるようにぼくも心に準備をしよう。
今年も駅での別れは扉が閉まってからの「ありがとう」と「大好き」ぼくが覚えた最初の手話だ。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【小学生部門】 名古屋市
「ぼくの親友、T君」
名古屋市立高蔵小学校 六年
すぎむら としき
杉村 俊樹
T君とは、小学一年生の時に虫採りを通して知り合った。友だちになってから、今年で六年目だ。ぼくたちは同じ学年だけれど、一度も同じクラスになったことがない。なぜなら、T君は特別支援学級に通っているからだ。T君は障害をもっている。障害名はくわしく分からないけれど、大勢の人と一緒に活動したり、人と話したりすることが苦手だ。そして、人が大勢いる前では笑わない。出会ったころは、はずかしがり屋の子なのかと思っていたが仲良くするにつれて、T君に障害があることが分かった。でも、ぼくは、そんなことは全然気にならなかった。
ぼくがなぜT君のことが好きなのかというと、まず、名前が似ているということ。名前の漢字が同じなのだ。しゅ味が同じことも、仲が良い理由だ。ぼくとT君は、昆虫と魚でつながっている。ぼくが、T君に魚のことを教える。T君は、ぼくの話を真剣に聞いてくれる。そしてT君はぼくに昆虫のことを教えてくれるのだ。T君はまるで昆虫博士みたいだ。それから、性格もちょっと似ているところがある。大勢の前で話をするのが苦手なところは、二人とも似ている。T君は絶対にいやなことをしない。ぼくが友達にイジメられていた時も、T君は一緒にいてくれた。だから、T君が友達に嫌がることをされたり、困っていたりしたら、ぼくはT君を助けるようにしている。クラスは違うけれど、休み時間はT君と一緒に遊んでいる。似た者同士なのでとても楽しい。休み時間があっという間に終わってしまう。
T君は、授業中に眠ってしまうことがある。特別支援学級の担任の先生がT君を起こそうとしても起きない時は、休み時間にぼくが呼ばれる。ぼくが、
「T君、起きてー!」
と言うと、すぐに起きてくれる。ぼくの言葉に、すぐに反応してくれるT君。そんな時ぼくは、すごく嬉しくなる。
昨年ぼくとT君は、野外学習に一緒に行った。自由時間には、やっぱり二人で昆虫探しをした。二人でトカゲを捕まえた時は、とても盛り上がった。夜も一緒に寝ることができ、T君との楽しい思い出がたくさんできた。
家で、ことわざを勉強している時、ぼくは、「気が置けない」という言葉をなかなか覚えられなかった。お母さんに、
「あなたの気が置けない友だちは、T君だよね。」
と言われて、この言葉を覚えることができた。「気が置けない」とは、気をつかったり、遠りょがいらないという意味だ。
この作文を書いている間も、T君のことを考えたり、思ったりするだけで、ワクワクする。ぼくの自慢の友だち、T君、これからもずっと、ずっと、ずっと友だちでいて欲しい。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【中学生部門】 千葉県
「ごめんなさい」と「ありがとう」
筑波大学附属聴覚特別支援学校中学部 三年
いとう あおい
伊東 碧海
小学生のとき、私は習い事が終わったあと、習い事で知り合った健聴の友達とよく遊んでいた。私がろう者ということもあって、皆、最初は戸惑っていたが、ゆっくり話したり、身ぶりをつけてくれたりと工夫して話してくれて、会話が弾んだ。それがとても嬉しくて、私は心一つという気持ちで遊んでいた。
しかし、ある日のこと、いつものように皆で遊んでいるときに、友達の一人が勢いよく話しかけてきた。興奮していたのか、早口で口形も小さく、何を言っているのかが分からなかった。「もう一回言って」と私が聞き返すと、その友達は急にはっとなって「ごめんなさい」と謝ったのち、もう一回ゆっくりと話してくれた。今度は理解できた。とてもおもしろい話だったのに、私は笑えなかった。その友達が言った「ごめんなさい」という言葉が心に引っかかったままで、ずっと忘れられなかったのだ。
私への気遣いを忘れてしまったことに対して友達は謝ったのだろう。そう分かっていても、そのときの私は無性に悲しかった。私は「かわいそう」と同情されているのだろうかと、どこか疑心暗鬼になってしまい、健聴の人との関わりを避けるようになった。
中学生になって習い事を辞めてしまい、健聴の人と話す機会は少なくなってしまった。
しかし、今年の夏にこんなことがあった。外出先でバス停に並んでいるときに、おばあさんに道を聞かれた。マスクをつけていたので、何を言っているのか分からない。聞き返して、また「ごめんなさい」と言われるのかと思うとおばあさんと向き合うのが怖かった。
「私は耳が聞こえません。すみません。他の人に……」と言い、そっぽを向こうとしたとき。おばあさんは「待って」という身ぶりをして私を引きとめた。マスクをとり、口を大きく開けて、もう一回話してくれたのだ。おかげで今度は話の内容を理解することができた。私もおばあさんの気持ちに応えようと一生懸命に道を教えた。おばあさんに「ありがとう」とお礼の言葉を言われたとき、とても温かく、優しい気持ちになった。
バスに乗り、おばあさんのことを案じていたとき、ふいに友達から「ごめんなさい」と言われたことを思いだした。私はろう者であるということを言い訳にして、傷つくことを怖れて、健聴の友達から逃げようとしていたのではないか。障害のせいで差別されているかもしれない、同情されているのかもしれない。そんな気持ちで、私は自分から壁を作っていたのではないか。
しかし、おばあさんは障害など関係ないと言わんばかりに、私を一人の人として普通に接してくれた。思えば、あの友達もそうだった。いつもゆっくりと分かりやすく話してくれた。それは差別や同情などではない。それなのに、たった一度のことで私は卑屈になりその友達の気持ちを自分から拒んでしまった。相手が私を思ってしてくれていることを私は当たり前のことのように思っていた。障害を持っているからといって、受動的であっていいはずがない。少しの違和感で「差別されている、同情されている」と一方的に思っていたら、どんな法律ができても、何も変わらない。
自分から心を開いていこう。これからは障害を抜きにして、おばあさんがしてくれたように一人の人として沢山の人に関わっていきたい。思ったこともちゃんと話そう。
「ごめんなさいなんて、ちょっと寂しいよ。 そんなこと気にしなくていいって。」
そう言えばいい。ちゃんと向き合おう。
「ありがとう。」
様々な人とコミュニケーションをとって、そう言ってもらえるような人になっていきたい。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【中学生部門】 福井県
差別
鯖江市立中央中学校 二年
かとう なたく
加藤 那琢
私には、七才年下の従弟がいる。隣に住んでいる父方の伯父の子供だ。結婚して五年、なかなか子供ができなかった伯父さんに子供ができたと聞いた時、私自身もちょっとうれしかった。産まれた日にはすぐ病院まで見に行って喜んでいたのを覚えている。しかし、産まれて二、三日して伯父さんから聞いた時ショックをうけた。
「産まれてきた子供が障害者かもしれない。ダウン症かも。」
と言われた。私の同級生にも同じダウン症の子がいて、その子と同じかと思うとどの様に接していいのか私自身分からなくなった。検査の結果やはりダウン症だと言う事が分かった。小さい時はダウン症がどういう障害かが分からなかったが、調べてみると、先天性の障害で染色体の異常からうまれると言うことが分かった。けど、自分の従弟だけはそうであったとしても普通の生活ができるに違いないと思っていたが、やっぱり健常児と比べたらとんでもなく違っていた。首がすわるのが遅い、歩くのが遅い、しゃべりはじめるのが遅い。やはり、何もかもが遅かった。けど、どんなに遅くても確実に成長していった。三才になる頃には歩ける様になり、六才ぐらいになるとしゃべれる様になってきた。けど、何かをしゃべっているのは分かるのだが、何と言っているのかは最初の自分の名前しか分からない。だから、「こう言ってるんか」と聞いても「ちがう」と首をふって腹をたててどこかへ行ってしまう。「ちがう」はちゃんと聞けるのに、私も訳わからんし聞かないでおいてしまった。そんなある日いつも通りまた自分の名前の後、訳の分からないことを言いだした。訳分からんと思いつつ、隣にいたその従弟の妹に
「何て言ってるの。」
と聞いてみた。きっと何か分からんけど言ってるって言うんだろうなと思っていたのに
「早くご飯食べねっておばあちゃんが言ってるやって。」
と言われた。私は、一瞬びっくりして、従弟に
「そうなんか。」
と聞いたらうなずいてきた。私にはとてもしょうげきが走った。こんな小さい子には理解できて、理解できないとはどう言う事なのか。不思議に思っていた時、私ははっとした。私は従弟の言っている事を理解しようと思って聞いてなかったと。私は自分自身をすごく恥いた。それから理解して聞こうと従弟の言っている言葉に耳を傾けた。そうすると何を言っているのかが段々とわかる様になり、それに対してうけ答えをすると従弟もにっこり笑ってくれる様になっていった。今では生意気な事も多少いえる様になっていて時々腹がたってケンカっぽくなる事があるまでになった。逆におもしろい事も沢山言って来てくれる。
私自身今までは障害者イコール何もできないと言うがいねんにとらわれていて、接する事もまともにしていなかった。それが障害者の従弟ができ、自分自身が障害者に対して理解できる様になり、接し方も変わってきた。障害者と言う言葉よりは個性のある人と思える様になった。そう思える様になったのもダウン症の従弟ができたおかげだと今では感謝をしている。まだまだ世の中では障害者に対する態度はひややかなものだと思う。完全に理解してほしいとは言わないが少しでも理解してもらえば、もっと障害者が住みやすい世の中になっていくと思う。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【中学生部門】 福岡市
「十人十色」
福岡市立照葉中学校 三年
やまぐち しおん
山口 詩温
「十人十色」という言葉を知っているだろうか。一人一人がそれぞれ違う個性を持っているという意味だ。僕はこの言葉こそ今、一番学ぶべき言葉ではないかと思う。
そう思い始めたのは、一人の友達との出会いがきっかけだった。彼はいつも明るくて力強く、しかもいつも会うたびにあいさつしてくれる心優しい一つ年上の少年だ。そして彼は生まれつきの病気で車いすに乗っていた。
僕が彼と出会ったのは小学二年の時だった。初めて彼を見た時、僕は正直「うわっ」と思った。当時僕は車いすを本の中でしか見たことがなかったので「本当に乗っている人がいるんだ。」とびっくりしてしまった。そして、ついかわいそうだとも思ってしまった。そんな僕の表情を察したのか、彼は自分から自分の足について語り始めた。そこで僕は彼の強さを知った。もし自分が彼の立場ならば、自分の障がいは自分の弱点だと思い、それを嫌うだろうと思った。しかし彼は自分の足についていきいきと話し出したのだった。
「僕の足はちょっと不自由だけど全く気にしていないよ。車いすは楽だし、足が使えなくても出来ることはたくさんあるんだ。」
彼はそう言い切った。僕は彼の言葉に心を大きく揺さぶられた。実は自分も障がいとよべるほどのものではないが、アレルギーを持っていた。当時は、人が食べられるものを自分が食べられないということが嫌で、自分は人と違うと思い、それを弱点だと感じていた。しかし、彼の、自分の持っている弱点と向き合う姿から「弱点なんかじゃない。むしろ、それも個性の一つなんだ。」と思った。当時はまだ小学二年生だった僕ではあったが、悩みを振りはらってくれた彼とその言葉との出会いは大きな衝撃だった。
それから彼とのつきあいが始まったが事実、彼は本当に強かった。運動面では、車いすバスケットをして日々汗を流し、それ以外でもピアノを習うなど様々なことに挑戦し、個性にあふれてかっこよかった。そんな彼を僕は大好きだった。
ある日のこと、僕は彼に会いに行こうと一学年上の教室に向かった。そして、その教室の近くで彼の同級生の言葉を偶然耳にした。
「ねえ、一組の○○(彼)って知ってる。」
「知っとうよ。車いすの子やろ。」
「そうそう車いす。あの子ちょっと話しづらいやん。」
「そうそう、分かる。ちょっと車いすってだけでも抵抗あるよね。」
僕は何気なく話していた彼女たちのその会話にすごい怒りを覚えた。何でそこしか見ようとしないのか。彼にはもっと優れたところがたくさんあるのに、たくさん個性があるのに何でそっちに目を向けないんだ。と本気で怒った。その時、僕は彼と初めて会った日のことを思い出した。自分も初めて会った時「うわっ」と思ってしまったのだ。自分を彼女たちのどこが違うんだと思った。しかし、すぐに違うと思い直した。僕は彼のこともちゃんと知ろうとした。知ってその個性を認めようとした。個性を認めようとする努力もせず、遠くでこそこそ話す彼女らとは違うと自信を持って思うことができた。そして、それと同時に一人一人の個性を認めることの大切さを知るきっかけとなった彼に本当に感謝した。
中学生になってすっかり彼とは疎遠になってしまったが、今の世の中の雰囲気を感じるたびに、彼との出会いを思い出す。今の世の中は人とちょっと違うところを「キモイ」のひと言ですませ、すぐに差別の対象とする。少し違うところも個性として見れるのにと思う。一人でも多くの人々が個性の良さに気付き始めたら差別やいじめは減っていくのではないだろうか。「十人十色」の真の意味をみんなが知り、それぞれの個性が輝き、互いが認め合えるようでありたいと僕は思う。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【高校生・一般部門】 石川県
花火
石川県立翠星高等学校 二年
さわべ こはる
沢辺 小晴
「名前、なんていうの?」他の子ども達が花火の登場に興奮している中、その子は私に問いかけました。しかし、この子が聞いているのは私ではなく、私の隣で車椅子に座っている兄の名前です。
この日は、町内の納涼会がありました。夕暮れ時に町内の人が集まり、皆でお弁当を食べたり、すいか割りをしたり、じゃんけん大会やビンゴゲーム等をして楽しみました。そして辺りが暗くなり、灯り無しでは誰が誰なのかも分からないくらいになりました。けれど、子ども達は少しも怖がらず、むしろウキウキとしていました。なぜなら、これから今日の目玉、花火が始まるからです。
困ったことにその日はとても暑く、辺りが闇に包まれた頃、やっと涼しくなりました。すると、母は今まで家に居た兄を車椅子に乗せて連れてきました。私は町内の子どもの中では一番年上なので、花火は遠慮しておこうかなと思い、兄の隣にあった椅子に腰かけました。
ここまで読んで下さったみなさんは分かるように、私の兄は障害者です。一人で歩くことも食事をすることも出来ませんし、会話が成り立つこともない。一般の人が「障害者」と聞いて、真っ先に思い浮かぶタイプじゃないかと思います。けれど、言葉は通じなくても、感情はありますし、性格もあります。私の兄は人が大好きで、この日のように人が集まっている所だと喜びます。
私は兄に、皆が居て嬉しいねぇと声をかけました。すると「嬉しいの?」と意外な人から返事が返ってきました。声の主は、同じ町会の小さな男の子でした。先ほどのビンゴ大会でも積極的に私に話しかけてくれた、とてもフレンドリーな子です。男の子はもう一度「嬉しがってるの?」と聞きました。私は「うん。人がいっぱい居るのが好きなんだよ。」と答えました。男の子は「へぇ」と呟き、兄を不思議そうに見つめました。
兄に興味を持つ子どもはよくいます。ですが、そのほとんどは遠くから見ているだけで、その目には「得体の知れない者への恐れ」が含まれています。ですから、この男の子も、もう花火の方に行ってしまうのだろうなと、そう思っていました。ですが、男の子は「名前、なんていうの?」と聞いてきました。その後も「何歳?」「どうしてこうなったん?」
「足、変になってない?」「どうして喜んでるって分かるの?」と様々な質問をしてきました。
ひとしきり質問をすると、男の子は最後に「一緒に居たほうがいい?」と聞いてきました。私は一瞬意味が分からなかったのですが、最初に私が言った事を思い出しました。皆が居て嬉しいねぇ。私が兄に向けて言った言葉を、男の子は覚えていたのです。聞いて、知って、理解しようとする、大人でさえ見ないフリをする所を、男の子はきちんと見つめて向き合ってくれました。それが本当に嬉しかったです。ですが、男の子の花火の時間を奪うわけにもいかないので、大丈夫だよと伝えました。
男の子が他の子達の元へ向かった後も、私は兄に話しかけました。もちろん返事はありません。ですが、兄が楽しんでいることは表情から分かります。
以前、偶然SNSで障害者の事について批判的な意見を述べている人を見つけたことがあります。もはやただの悪口とか思えない文に、怒りで涙が止まりませんでした。花火を好きな人も、嫌いな人もいるように、好き嫌いがあるのは当たり前だと思います。でも、一つ悪口を言えば、それで傷つく人も必ず一人はいるのだということを、その人に知ってほしかったです。
私は花火が好きです。あの男の子も、花火への着火を急かしている所を見ると、花火が大好きなようです。そんなあの子が、花火の準備より兄の方へ来てくれた。花火ほど様々な色に変えられなくても、綺麗な光で沢山の人を惹きつけられなくても、誰かをほぉっとさせる淡い温かな灯を、男の子と兄は持っているのだと感じました。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【高校生・一般部門】 富山県
自分への挑戦
明 正隆
平成二十七年八月、大学卒業後二年半勤めた勤務先を退職した。今回退職を決断した大きな要因は体力の問題だった。
私は全身の筋力が徐々に衰えていく、デュシェンヌ型筋ジストロフィー症という難病で、十歳頃までは自分の力で歩いていたが、だんだん歩行困難になり、現在は体幹コルセットを付けた状態で起床から就寝まで車いすでの生活を送っている。仕事は朝八時半から夕方五時までのフルタイム、通勤時間なども含めると十時間以上を外で過ごしていた。病気は徐々に進行していくので、今日出来たことが明日突然できなくなるということはない。就職した当初は健常者がそうするように、私自身もずっと仕事を続けていけるものだと考えていた。しかし、二十五歳になった今、以前に比べるとかなり体力が落ちてきたと感じるようになった。通勤も揺れる車に車いすのまま乗り込み、体を支えていることがかなり負担になってきた。勤務先の理事長や上司は熱心に慰留してくれたが退職を決断した。なぜ片道四十分もの通勤時間の職場を選ぶことになったのか。それには、大学時代の就職活動が大きく影響していた。
私は、十歳から十五歳まで肢体不自由児の特別支援学校で過ごし、環境面では十分に手厚い支援を受けた。しかし高校、大学は普通校に通った。もちろん、階段など施設設備の面ではハンデを抱えて一筋縄ではいかない学校生活だったが、障害をも忘れさせてくれる充実した学生生活が送れたと思っている。なぜなら高校では放送部に所属し、校内放送や行事での司会進行、学校紹介ビデオの作成など、全校生徒に向けた多くの活動が出来た。いつも手伝ってもらうことが多い私にとって、誰かのために何かができることは日常生活の励みにもなった。
大学は工学部に入り、福祉機器の研究を行った。研究を進める中で、手元での作業はできるものの、機械を操作したり、組み立てたりすることは難しかった。しかしそれを打ち消すほど、充実した学生生活を送っていた私は「障害をもっていても健常者と変わらないことができるのだ。」という気持ちが大きくなっていた。
大学三年生になり、周囲からは大学院進学の道もあるし、無理をして働かなくてもいいと言われていたが、私の中ではもっと色々なことを経験したい、という気持ちが強かった。
進行性の病気のため、いつまで元気でいられるかわからない私は、自分がどこまで社会で通用するのか試してみたいという気持ちもあった。しかし、いざ就職活動が始まると思いの外辛い日々が続いた。原因は進行性の病気にあった。車いすのため車の運転もできない、上半身や心肺機能にも問題がある私を雇ってくれる会社はなかった。これまで高校、大学では障害をもっていることを意識することは少なかったが、改めて現実を突きつけられた。大学のキャリアセンターの方も私の思いを形にしたいと支援してくださった。しかし、四年生の秋になるとハローワークでの相談を勧められたが、私の病気や状態からでは、外で仕事をすることは難しく、在宅の仕事しか無いとはっきり言われた。
そんな時、偶然新聞に掲載された求人情報が目に入った。それが二年半働いた総合病院の事務職だった。それまで病院の事務職は考えたこともなかったが、ある意味では自分に合った職場なのかと思えた。当然病院内はバリアフリーが整っており、万が一の体調変化にも対応しやすい。仕事内容は深く考えず選考に応募することにした。常時車いすのうえに病気をもっているということを伝えたところ、一度は返事を保留されたものの、快く面接に応じてくれた。その結果、初めて内定を得ることが出来た。
仕事内容に関しては入職日まで伝えられなく、出来ることなら何でもやるつもりでいた。
配属された部署は、医療システム係、病院内のパソコンの管理や電子カルテシステムの保守などが主な仕事だった。高校や大学では情報系の勉強をしてきたので、パソコンなどの知識は他より持っているとアピールしていた。それを生かすための仕事を与えてくれたのだと考え、一生懸命働きたいと思った。また、病院では私がデスクにアクセスしやすいよう、事務所内の配置を変えたり、これまであった車椅子トイレを私が一人で使えるように更に改良工事をしていただいたり、仕事をする上で物理的なバリアはほとんど取り除いてくれた。それだけではなく、長時間車いすに座っていることで生じる痛みを軽減するため、リハビリの先生を通して、事務職員の方に体を持ち上げてもらう事も定期的にしていただいた。病院側の様々な配慮により、心地よい職場環境で仕事ができ、社会の中で生きていくことの喜びや辛さも経験することができた。
働き始めてから二年が過ぎた頃から体力的な衰えを感じるようになった。就職当時は、とにかく仕事をしたいという思いが強く、長時間の通勤などが体に負担がかかることまで考えていなかった。
そして退職を決断した今、私と同じ筋ジストロフィー症の方や障害者が集い、情報交換や様々なケアを行う場を作りたいという新たな目標ができた。その理由は、同じ病気の人や家族の方が、色々な悩みや困難さを抱えている現状を知り、私自身の学生時代の経験や就職活動、仕事の事など、より多くの人に伝え、サポートできたら良いのではと考えたからである。
また、富山県では今年開業した北陸新幹線の効果を最大限に取り込もうと様々な努力をしている。しかし、現状では観光のバリアフリーという点までは及んでいない。実際、富山の玄関口富山駅の中には、車いすでは乗れないエレベーターが設置されているなど、目を疑いたくなるバリアーが存在している。そのような問題を少しでも減らし、真のバリアフリー県を目指す活動もしたいと考える。
夢や希望を持つことは容易いが、それを現実にするためには計り知れない困難もあるだろう。その上病気の進行を止めることは難しく、私に残された時間は限られている。
しかし今ならまだできる、そして自分にしかできないことをやるため、夢の実現への第一歩を踏み出したい。
優秀賞(内閣府特命担当大臣賞)受賞
【高校生・一般部門】 堺市
「出会い・巡り会い」
花谷 静
障害を持つ人との初めての出会いは、私が小学一年生の時でした。同じクラスにいたYちゃんです。Yちゃんは、言葉が話せなくて時々よだれが出ていました。そして授業時間は、今で言う支援学級に通級していました。
小学生の私は、おっとりしていて、クラスメイトからは、意地悪を言われたり、よくからかわれる、そんな子供でした。
休み時間に、Yちゃんとおしゃべりをしたりして遊んでいると「Yちゃんにばい菌がうつるからしゃべらんといて」と言われたこともありました。
そんなある日、クラスメイト数人でYちゃんの家に遊びに行く事がありました。団地の狭い家でしたが、小学生が数人、Yちゃんの家に集まり、私もその中の一人でした。
その時の事で印象に残っているのは、Yちゃんのお母さんが「Yちゃん良かったね。沢山お友達が遊びに来てくれて良かったね。」とYちゃんに話かけていた事です。
その学級は、一年生から二年生まで持ち上がりでしたが、担任だけT先生にかわりました。
ある日、相変わらず鈍臭い私に対して、いつもの意地悪を言う女の子達が言いました。
「Yちゃんですらできるのに、そんなこともできないのか?」と。
側でその様子を見ていたT先生は、すかさず「“Yちゃんですら”とはどういうこと。」と、少し強い口調で言いました。「Yちゃんですら」という言葉が、同級生であるYちゃんを見下している表現であることを、先生は注意したのでした。私は、その言葉が頭から離れず、ずっと心に残っていました。
三年生になってYちゃんとはクラスが離れ、四年生になると同時に私は転校し、その後一度もYちゃんに会うことはありませんでした。
年月が経ち、大人になった私は、結婚をし、出産をしました。普通の妊娠生活を送り、安産で長男を産みました。
しかし、長男は二才を過ぎても言葉が通じにくく、ちっともじっとできなくて、少しでも目を離すと、どこかへ行ってしまいました。
仕事の都合で預けた託児所では、手に追えないとのことで、保健センターを通じて、公立の保育園へと転園することになりました。
その時に、初めて我が子が他の二才児と違うことに気づきました。保育園では、加配の保育士がつきました。それでも私の中に、自分の子供に障害があるという認識はありませんでした。
しかし年令が上がるにつれ、更に他の子供との違いはあきらかになり、四才の時に初めて病院を受診し、知的障害を伴う自閉症と診断されました。
その時の気持ちは、言葉では表せない程のショックでした。初めての子育てで戸惑いながらも一生懸命に育児をし、何より最大限の愛情を持って接してきました。「どうして私の子供が」そんな想いと同時に涙が溢れてきました。
そんな気持ちから立ち直ることができたのは、長男の笑顔でした。障害があると診断された日からも、それ以前と何も変わらない長男の笑顔。どんな将来が待っているのかはわからないけれど、今、ここにいる私の子供は、昨日も今日も明日も、変わらず私の側にいて、可愛い笑顔を見せてくれる。障害があってもなくても、その笑顔と同じだけ、私も変わらず長男を愛していることにに気づき、障害も一緒に長男の全てを受け入れる決心をしたのでした。
やがて、長男も就学の時期を迎えました。
悩みましたが、地域の小学校に入学することに決めました。
入学式の時は、体育館に長男の泣き声が響きました。そして、式の後、先生に手を繋がれて退場してきた長男を見て、Yちゃんの事を思い出しました。あの頃、Yちゃんは、今の長男のように、不安な気持ちの中で、入学式を迎えたんだろうな。
長男が小学二年生の時に、人権教育の一つとして、長男の障害について、学年全員の前で話をする機会を与えていただきました。
皆、しっかり話を聴いてくれて、その後に一人一人からお手紙をもらいました。
長男を通じ、初めて知った自閉症のこと、長男の、皆と少し違う行動の理由の理解、そして思いやりの言葉が綴られていました。
私は、この機会を、小学二年生の時に与えていただけた事を、とても良かったと思っています。それから卒業するまで、沢山の友達に支えられながら、楽しく通学することができたからです。
長男を、健常児と交ざる地域の小学校に入学させた時から、私が小学二年の時に、T先生が教えて下さったあの出来事が、常に頭の片隅にありました。
自分の子供が、あの頃のYちゃんと同じように支援学級に通い、沢山の友達に囲まれて学校生活を送っている。その関わりの中に、あの日のYちゃんのお母さんの気持ちが見えた時もありました。
長男の二年生の終業式の朝、初めてわかった事がありました。いつも温かく見守ってくれた長男の担任の先生は、私の担任だったT先生本人だったのです。あり得ない話ではありませんが、この巡り合わせに、お互いとても驚き、私は、全ての出会いに意味がある事を感じずにはいられませんでした。
長男は、この春、支援学校の高等部を卒業し、企業への就職を目指して支援センターで訓練を受けてがんばっています。
沢山の出会いと、支援をして頂く方々にはいつも感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、健常と言われる人と、障害者と言われる人の間に、常に優しい風が流れることを願ってやみません。
※このほかの入賞作品(佳作)は、内閣府ホームページでご覧いただけます。