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付録8 令和2年度「障害者週間」心の輪を広げる体験作文 入賞作品(最優秀賞・優秀賞)

最優秀賞受賞

【小学生区分】◆富山県

知(し)ること、それが第一歩(だいいっぽ)

富山(とやま)市立堀川(ほりかわ)小学校 六年
吉越(よしこし) 帆高(ほたか)


「ごめんねはいらないよ。ありがとうだけでいいよ。」

これは、宿泊学習で急な坂道を登る時、後ろから押してくれた友達がかけてくれた言葉です。ぼくは生まれつき足にまひがあって歩行器や車椅子を使って生活しています。友達に助けてもらうことも多く、ぼくはいつも、「ごめんね。」と言っていました。でも、このときの言葉で、仲間として認めてもらえていることを実感して、この仲間と出会えて良かったと思ったことを今でも覚えています。

小学校に入学した時、それまでは療育センターに通っていて障害のある子としか過ごしたことがありませんでした。ぼくは支援級なのですが、交流級にも行くことになり、初めて行く時はみんなの迷惑にならないかとか、一緒に過ごしていけるかなど、とても心配で不安でした。けれど、すぐにみんな話しかけてくれ、とてもほっとしました。しかし、いやなこともありました。それは、周りのみんなに「どうして歩行器を使っているの。」と、ひんぱんに聞かれたことです。当時はどうやって答えればいいのか分からず、泣いてしまったり黙ってしまったりしました。でも、勇気を出して答えているうちに、聞いてくれた子が周りの子に教えてくれていたり、「街中で車いすとか使っている人を見てもおかしく思わないようになったよ。」と言ってくれたりして、みんな、ぼくを理解してくれようとしていた証だったのだと分かって、いやな気持ちもなくなり、自分から笑顔で説明できるようになりました。

みんなの気持ちがわかって、学校でもいろんな行事に積極的に参加できるようになりました。運動会も、ぼくが団にいたら徒競走などのポイントを落としてしまうのに、誰もいやな顔をせず走り終わるまで「がんばれー。」と一生けん命応援してくれて、全力で走り抜けることができました。宿泊学習にも参加して、みんなの助けもあって、できる範囲でみんなと一緒に活動することができています。

ぼくは今六年生です。中学生からの自立ということもあり交流級に行く機会が増えました。それに伴ってみんなに助けてもらう事がますます増えています。だからぼくは「ごめんね。」ではなく、「ありがとう。」を精一杯言うようにしています。そして、ぼくもみんなのために、誰かが困っていたら声をかけてあげたりなど、自分に出来ることを積極的にがんばっています。

時々、ニュースで障害者を差別するような事件を聞くことがあり、ぼくはとても悲しい気持ちになります。ぼくは障害という言葉があまり好きではありません。障害の壁をなくそうと言っているのに言葉で区別ばかりしていてはいつまでもその壁はなくならないと思います。ぼくが小学校で学んだことは、自分のことを知ってもらうことが大切だということです。みんながぼくのことを知ってくれたから、今とても楽しく学校に通っています。だから、障害のある人は、積極的に自分のことを知ってもらうようにした方がいいし、そうじゃない人は周りの障害のある人のことを積極的に知るようにして欲しいです。もし周りにいなくても本や新聞記事などを読んだりして関心や興味を持ってもらえれば、先入観や偏見などではなく本当のことがわかると思います。そうすれば、ぼくと学校のみんなのように、仲間になれると思います。これは障害のことだけではなく、肌の色や性別なども同じだと思います。そういうことに関係なくその人自身をお互い知るようにすれば、みんなが世界の一員として幸せになれると思います。だからぼくも、これからも積極的に自分のことを知ってもらい、また自分も周りの人のことを知るようにしていきたいです。それが、第一歩になるからです。

【中学生区分】◆仙台市

友達(ともだち)として

仙台(せんだい)市立南中山(みなみなかやま)中学校 三年
飛田(ひだ) 愛音(あいね)


4年程前、私が小学生だった頃に友達ができた。その友達は障害をもった一歳年下の笑顔が素敵な女の子だ。初めは「障害をもった女の子」と思って接していた自分がいた。しかしその考えが間違っていることに気付かせてくれた。

私の通っていた小学校には障害をもった子達のためのクラスがある。そのため校庭で遊んでいる時や学校内で障害をもった子達と会うことがあった。しかし話すことはなく時々目が合うだけだった。そんな日が続いたある日のこと。私が休み時間に校庭で遊んでいると女の子が話しかけてきた。彼女は、
「一緒に遊ぼう。」

と優しい口調で誘ってくれた。話し方や顔立ちから障害をもっていることが分かった。目が合ったことは何度かあったけれど話しかけてくれるのは初めてで驚いた。しかしその気持ちよりも話しかけてくれたことに対する喜びの方が大きかった。私は、
「いいよ、何をして遊ぼうか。」
と言うと
「すべり台が良い、すべり台で遊ぼう。」
と嬉しそうにはしゃいでいた。時間はあっという間に過ぎ休み時間の終わりを告げるチャイムがなる。私達は次の授業に向け各々の教室に戻る。すると別れ際、彼女は言う、
「楽しかったね。また遊ぼうね、私達友達だね。バイバイ。」
と。私は手を振って教室に入っていく彼女を見てはっとする。そうか私達は友達なんだ。障害をもっている人と障害をもっていない人という関係ではない。友達なのだと。私は彼女が見えなくなる前に、
「私も楽しかった。友達になってくれてありがとう。」
と大きな声で伝えた。彼女は最後まで手を振り返してくれた。

この日、私の中で障害に対する考えが大きく変わった。私は勝手に壁を作ってしまっていた。彼女は障害をもっているから私とは違う、私達は友達になれないという心の壁を。しかしこの考えは間違っていると彼女は気付かせてくれた。障害という壁はないのだ。障害をもっている人も障害をもっていない人も支え合わなくてはならない。だからこそ壁を作るのではなく手を差し伸べる、いつだって私達は仲良くなれるなど、障害に対する考えを改めていくべきなのだ。そうすれば障害をもった人達はもっと楽しく生きやすい未来が待っていると思う。

あの日、私に大切な事を教えてくれた彼女にありがとうと伝えたい。彼女はもう「障害をもった女の子」ではない。私の大切な友達だ。

【高校生区分】◆広島県

金(きむ)さんへの誓(ちか)い

盈進(えいしん)高等学校 一年
延(のぶ) 泰世(やすよ)


懐かしい潮の香りがしています。金泰九さん、三年半ぶりですね。永遠に大好きです。私は春に高校生になりました。金さん、制服姿の私が見えますか。私には金さんがはっきり見えます。声もちゃんと聞こえます。

私は、母のお腹にいる時から、ここ瀬戸内海の小島にある(ハンセン病)療養所に来て、金さんにお腹をさすってもらって、この世に生を受けました。父は、子どもをつくることが許されなかった金さんの「泰」の字を私につけてくれました。「おまえが九十才まで生きるとすれば、その間、金泰九が差別に抗い、それに屈せず、国籍や民族に関係なく、多くの人を愛し、多くの人に愛されて生き抜いた証を伝えることができる。」と。

私には金さんの命が宿っています。家族やふるさとに帰ることが許されず、絶望にあえいでこの島で生きた金さんの仲間たちの命も受け継いでいます。金さんたちは、それでも、仲間と共に励まし合い、自ら生きがいを見出して、力強く、この島で生き抜きました。その強さも私の命に宿っているはずです。だからこそ、私が必ず語り継ぐと決心しています。

いま、金さんのこんな話を思い出しています。「大阪に残してきた妻が病に伏したと伝え聞いたが、絶対隔離政策のため療養所が帰省を認めず、妻の死に目に会えなかったことが一番悔しかった。もしあの時、帰ることができていれば、妻は死なずにすんだかもしれない。」金さん、愛するその人に会えましたか。
「ここ(膝の上)においで。いっしょに写真撮ろう。」金さんはいつも私にそう言ってくれました。私はうれしくて、ワクワクしてすぐに、私だけの“特等席”に行きました。手もとにある写真はすべて、金さんも私も笑顔です。そこは、金さんのすべてを全身で感じられる、私のいちばん落ち着く場所でした。そこにいるとちょっぴり、キムチとおじいさんの匂いがしてきて・・・私はそれが大好きでした。金さんの手の指は、医療の不備もあって切断されていましたが、金さんはその指のない手で私を包み込んでくれました。私はその手も大好きで、ずっと握っていましたね。

二〇一六年十一月末、金さんはこの世を去りました。父から知らされた時、頭が真っ白になりました。「嘘であってほしい」と思いながら、すぐに母と療養所に向かいました。

棺に眠る金さんを見ると涙が溢れました。冷たくなった金さんに触れると、金さんとの思い出が蘇ってきて、声を出して泣きました。そして、「ありがとう」と「さようなら」を繰り返していたことだけを覚えています。

金さん。私はまわりに流される性格です。でも、変わります。私も金さんのように誰にでも平等に接する人になります。どんな人をも心から愛する人になります。自分でやると決めたことはやります。人を傷つけ悲しませる社会の偏見や差別に対して、ダメなことはダメだと言える勇気を持って毎日を送ります。

いま、新型コロナウイルス問題で医療従事者やその家族が差別されている現状があります。金さんたちがそうであったように、感染症になった人やその家族が地域社会から排除される現状はいま、再び繰り返されています。私はこの現実を許すことができません。だからいま、私に何ができるのかと考えたとき、金さんの口癖が頭をよぎります。「正しく知って正しく行動する。」私は必ず、このことばを胸に、金さんやこの島で生き抜いた人々のことを伝えながら、社会の不条理に真っ正面から向き合い、まっすぐに生きていきます。

私は六月十九日、緊急事態宣言が解除され、ようやく他県への移動が可能になったその日、療養所にある金泰九が眠る納骨堂の前で、目を閉じ、手を合わせ、静かにそう誓った。

【一般区分】◆新潟県

ワタシノイチブニナリユクソイツ

山﨑(やまざき) 大(まさる)


そいつは静かにやってきた。そいつは、物心つく時ぐらいに、卵が産み落とされたみたいに、私の体の中に入りこんできた。そいつは小学校の時には幼虫に成長していた。その時には、私の心の中に悪いことをしたいという思いがちょっと浮かんでいた。

中学校卒業時、そいつはサナギのようになっていた。私は体の中のそいつを恐れるようになっていった。そいつは少しずつ育っていた。私はそいつから逃げるように自分を鍛えた。だがそいつは消えていくどころか強くなるみたいだった。高校のころ、ついにそいつはサナギから成虫になる段階になった。その頃、私は精神科に通院をするようになった。薬を飲めばそいつは消えるかもしれない。そう思い私は忘れずに薬を飲んだ。だがそいつは消えなかった。

高校卒業後、私は浪人生になった。その頃、そいつは強くなって私の意識をむしばんできていた。だが私は薬が効かないと思い、薬を飲まない期間を作った。

一か月後、私は入院していた。そいつは統合失調症という成虫になり幻聴として私に攻撃するようになっていた。私にはやはり薬が必要だった。

退院後、両親とベテルの家に行ったことがある。その時、その施設の方が「幻聴と闘わないで仲良くやっていこう」と言っていた。私はその意味がなかなか分からなかった。

相手を弱らして自分が強くなれば相手はいつか消えると、思っていた。その考えが変わりはじめたのは二度目の入院後である。私はあるおじさんと出会った。いろいろな話を聞く中で、私はそのおじさんにも悪いことをしてしまう心があることを知った。別のある人が「いい人が大半で悪い人が少しいるのが社会で、それが人なんだよ」と言っていたのを思い出した。私には衝撃的であった。誰しも悪い心があるんだ。そういった自分を認めながら生きているんだ。闘ってはダメなことを知ってから、そいつは少しだけ私にやさしくなった。

大学卒業時、私は大学教員と話をした。その中で、「統合失調症による障がいで離れていってしまった人がいる自分が許せないです。今まで頑張ってきた自分が虚しくて…」と言った。「そうだとしても、これから会う人に良くしていくしかないじゃん」とその方は言った。

私はハッとした。私は自身の障がいを認めていなかったのだ。私は心の中にいるそいつをいつか追い出してみせると自分を追い込んでいた。結局そいつはいなくならず強くなって私に攻撃していた。けれど、多分そいつは障がいなんだ。それに気づいた時、そいつは障がいという私の体の一部分に生まれ変わり始めた。

私は私が信じる道を行く。私には幻聴が顔を出す時間と顔を出さない時間がある。障がいが顔を出す時間が長くなると、私は不安になりさらに幻聴が聞こえることもある。だが“障がいを抱える私”は私自身で、他者とは違う私そのものである。それは障がいがあってもなくても変わらない事実だ。私はかけがえのない一人の人間なんだ。

それに気づいてから私はさらに次のような気づきをした。大切な人たちを失った時、私は多分障がいが顔を出していたんだ。もうその人たちは顔を背けて私の方を向いてくれないけれど、私はこれからの人生を誠実に生き続けよう。そして何年もたっていつかその人たちが私に顔を向けてくれたとしたら「あの時はゴメン。実はあの時障がいがあって…」と勇気を振り絞って言おう。それで私からまた顔をそむけてしまったらそれはそれで仕方がない。私は、私が“障がいを抱える私”を他人に曝け出す勇気を持つことこそが、障がいがある人とない人の心のふれあいにつながると思う。同様に、障がいを理解しようとしない人たちや障がいを理解しようとしてくれる人たちとの心のふれ合いも大切だと思う。それだけでなく、障がい当事者の自分自身の障がいとのふれ合いも大切だと思う。なぜなら、障がい当事者は自身の障がいから逃避した生活を送っている人も多いと思うからだ。

さらけ出す時のために、私はそいつを前向きに迎え入れなければならないと思う。私自身が障がいを持っていることによって後ろ向きになっていたら、その人たちは、障害を抱える私を前向きに受け入れられないと思うから。私の中の障がいが顔を出して誰かに頼りたいときは、手を差し伸べてくれた人の手をしっかり握る。そして例え誰も手を差し伸べてくれなくても、自分から頼らせてほしいと手を差し出す勇気が必要であると思う。そして休むときは休み、疲れた体を癒す時間を作る。

敵が見えなかった恐怖から少し解放され、私は自分に余裕ができ始める。そして共生社会の敵であるそいつはいなくなり、今は社会に受け入れられるだろう障がいとして私の一部分になりつつある。日々障がいとふれ合うことで、私は自身の障がいへの理解を深めている。

障がいを抱える私は、障がいとともに、障がいのない人に分かるよう、うまく自分の特性を伝えたい。そのために、統合失調症当事者である私をできるだけ正確に表現できるよう、努力していけたらと思う。だってそいつが自身の一部になりつつある私は、そいつが敵にみえていた時よりずっと自分のことがわかるはずだから。

優秀賞受賞

【小学生区分】◆青森県

盲導犬(もうどうけん)とともにくらす

中泊(なかどまり)町立薄市(うすいち)小学校 六年
金山(かなやま) 聖渚(せいな)


みなさんは盲導犬を知っていますか。盲導犬は、目の見えない人の歩行のお手伝いをする犬です。本で読んだり、テレビ番組で見たり、最近ではコマーシャルに登場しているので知っている人も多いでしょう。でも、実際に見たことのある人は少ないのではないでしょうか。実は、ぼくの住む北国の小さな町にも盲導犬はいるのです。

おじのもとに盲導犬が来て、すごく変わりました。以前、おじは白杖という杖を使って歩いていましたが、よくものにぶつかっていました。白杖は長いうでのようなもので、ものにふれたときの振動や音でそこに障害物があることが分かります。しかし、全てにふれることはできずぶつかってしまうのです。慣れている場所でも、目をつぶったらどこに何があるのか分からずぶつかってしまうでしょう。慣れていない場所ならもっと大変です。ですから、以前のおじはあまり外出することはありませんでした。ところが、今ではとても行動的になりました。盲導犬のおかげです。

盲導犬ユアラがおじの家に来たのは、昨年の十月です。おじは仙台まで行き、盲導犬との相性を確かめ、合格したのです。初めて会った日から、ユアラはおじの指示を聞き、おじはユアラをとても気に入ったそうです。お互いを信頼できる相手だと認めたのだと思います。

十一月の参観日、五年生のぼくは、道徳の勉強をしていました。朝、母が、
「今日の参観日、見に行くからがんばって。」
といいました。ぼくは、道徳の教科書を読みながら、まだこないのかなと待っていました。すると、ろう下から聞き慣れたカウベルの音が聞こえてきました。まさかと思いましたが、教室に入ってきたのはユアラとおじでした。ぼくは、
(何で来たの。)
と思い、びっくりしたと同時に照れくさくなりました。ぼくの学校は階段などの段差が多く、廊下はせまいので、おじにとっては危険がいっぱいです。もしも、ユアラがいなければ決してくることはなかったでしょう。ぼくは、背中に、母とおじとユアラの視線を感じて、発表するのにきん張してしまいました。授業の後、おじは、
「がんばったね。」
とほめてくれました。

ユアラはとても人なつっこい犬で、仕事以外のときはぼくの遊び相手になっています。すぐおなかを出して、
(なでてちょうだい。もっともっと。)
と甘えてきます。ユアラがきたことで、おじだけではなく、家族みんなが明るくなった気がします。

でも、まだ世の中には盲導犬のことを知らない人がたくさんいます。おじとラーメン屋に行ったとき、入り口で、
「犬はだめです。」
と言われました。
「盲導犬なんです。」
と言いましたが、店員は聞き入れてくれませんでした。盲導犬は法律でどこでも入ることができると決められているのに、拒否されて本当に悲しかったです。腹を立てたり文句を言ったりはしません。ただ、ぼくは、世の中の人に、もっと盲導犬に興味をもって、正しく知ってほしいと思っています。ぼくとおじとユアラが一緒にどこへでも行けたら、どこに行こうかな。行ってみたいところ、してみたいこと、ユアラに見せてあげたいことがたくさんあります。そんな日がくることを願っています。

【小学生区分】◆千葉県

おばあちゃんのヘルプカード

成田(なりた)高等学校付属(ふぞく)小学校 二年
松平(まつひら) とわ


わたしのおばあちゃんは、おもいじんぞうびょうで、じんこうとうせきをうけています。

おばあちゃんは、一しゅう間に三回、びょういんに行っています。びょういんにいくまえは、とても元気でわたしとあそんでくれます。とうせきがおわると、ぐったりとして、あまりうごけません。おばあちゃんは、とってもつらそうです。わたしは、かなしい気もちになります。

この前 おばあちゃんとおかいものに行きました。ながくあるくのがたいへんなので、わたしは、ベンチをさがします。なかなかベンチが見つかりません。
おばあちゃん、すわれるベンチがないよー、どうしよう。
「だいじょうぶだよ、とわちゃん。ゆっくりでいいよ。」と、おばあちゃんは言いました。
わたしがベンチをさがしていると、知らないおばさんが、声をかけてくれました。
「ここのベンチどうぞ。」
「えっ、いいのですか。ありがとうございます。」
わたしは、大きな声でおばあちゃんをよびました。おばあちゃんは、えがおいっぱいに、
「とわちゃん、ありがとね。」と、よろこんでくれました。わたしも、うれしいきもちになりました。
ベンチにすわっておばあちゃんとつめたいジュースをのんでいるとき、おばあちゃんのバックに、いつも赤いカードの上に、ハートとじゅうじのマークのキーホルダーがついています。
わたしは、おばあちゃんに
「これ、なあに。」とききました。
「これは、ヘルプカードというんだよ。」と、おばあちゃんは、ヘルプカードについて、色いろなお話をしてくれました。おばあちゃんが一人でおでかけしているとき、こまったことがあったら、たすけてくださいという、あいずになるんだよ。ヘルプカードにはおばあちゃんのなまえ、びょうきのなまえがかいてあります。もしかしたら、ベンチをゆずってくれたおばさんは、おばあちゃんのヘルプカードに気がついてくれたのかもしれません。

わたしは、いつもおばあちゃんといっしょにいられません。みなさん、おそとでヘルプカードをつけていた人がいて、こまっていたら、たすけてください。もしかしたら、わたしのおばあちゃんかもしれません。おばあちゃんでなくても、みなさんのやさしいきもちが、みんなの心をあたたかくしてくれます。よろしくおねがいします。おばあちゃん、またいっしょに、おかいものにいこうね。いつまでも、元気でいてね。

【小学生区分】◆滋賀県

みんなと同(おな)じ、でもちょっとちがう

湖南(こなん)市立岩根(いわね)小学校 三年
屋宜(やぎ) チファ


わたしは、なぜかはよく知らないけれど、だいぶ前から足がかたくて思っているように動かせません。そうぐのついた重いくつをはいています。手もかたくて力がくうっと入ってしまうので、とてもつかれます。そうぐのくつは重くてとても走りにくいです。みんながかんたんに走っているから、みんないいなと思います。かいだんを登るのもしゃがむのも、みんなかんたんなのに、わたしは時間がかかります。くつをはくのだってわたしはたいへんです。みんなは早く字がかけるけどわたしはきれいにかきにくいし、はさみもみんな上手につかえるけれどわたしはとくべつなはさみじゃないとしっかり切れません。みんなはいいな、みんなみたいになりたいなと思っています。

わたしはふんばれなくて、こけやすいからいつもリハビリに行っています。リハビリではラジオ体そうをしたりストレッチをしたりしゃがむれんしゅうをしたりします。後ろ歩きはかかとをつけて歩かないといけないし、ちょうざはひざを上げないように気をつけて練習しています。わたしは足をひきずって歩いているからみんなよりこけやすくてそうぐをつけています。正しく歩くためです。でもおもくて歩きにくいからそれもれん習しています。リハビリに行くのはあたり前だと思っていたけど、自分だけなんだとわかって、少しいやになってきました。

みんな「ちふぁちゃん、足わるい」といいます。わたしはすごくいやな気もちになります。わたしは自分の足がわるいと思いません。わたしの足はふつうでみんなと同じくらいです。おそいけれどちょっとくらい走れるし、手もちょっとは動かせます。はさみもリコーダーもとくべつな物を使ったらみんなと同じようにできます。わたしの手も足もみんなと同じなのに、なんでわたしのだけ悪いってみんなが言うのかわかりません。

体いくでリレーをしています。わたしはいつもぬかされます。本当は体いくがすきだったのに、どんどんできないことが多くなったり、わたしをぬかした人が「イエーイ」と言ったりするからいやになってきました。わたしが走っているのを見てないしょ話をしたり笑ったりしないかすごく心ぱいです。おにごっこをしてもみんなにねらわれたりすぐにタッチされたりするのもいやだけれど、わたしだけ何もしてもらえないのもいやで、あまりみんなとも遊ばなくなりました。体いくにも行けない日がたくさんありました。

ママに「なんでわたしだけ足がわるいの?」とか「みんなは足がわるくないのに」と言うとママは「ちふぁはみんなができることができないかもしれないけれど、みんなができないことでちふぁができることもある。絵も上手だし歌もきれいよ」と言ってくれました。先生はクラスでわたしの話をしました。自分で話すのは心ぱいだから先生がせつめいしてくれました。その後のリレーは友だちが「はやかったね」「がんばったね」とほめてくれました。ほっとしました。

わたしは、みんなにわたしのことをもっとちゃんと知ってほしいです。たすけてほしい時はあまりなくて、がんばってやっているから、わたしの足もだいじょうぶなことを見て知ってほしいです。「ちふぁちゃん、やめとき」と言ってくれる友だちもいるけれど、かってにできないと決めないでほしいです。道ぐがあったらできることもあるから、おうえんしてほしいです。みんながちゃんとわかってくれるようになってくれたらいいなと思います。

【中学生区分】◆愛媛県

聴覚障(ちょうかくしょう)がい者(しゃ)の私(わたし)の思(おも)い

西条(さいじょう)市立西条東(さいじょうひがし)中学校 二年
岩﨑(いわさき) 心菜(ここな)


私は、聴覚障がい者で人工内耳と補聴器という器具を付けています。

私は、人工内耳を付けていなかったら何も聞こえません。音のない世界に入っているみたいです。逆に、人工内耳や補聴器を付けるとよく聞こえ、いろいろな音があるのに気がついて、おもしろいです。でも、人工内耳や補聴器をつけると目立つので、知らない人からじろじろ見られて辛いこともあります。また、私たち聴覚障がい者が耳に器具を付けると、何でも聞こえると思っている人もいるようです。でも、それは違います。器具を付けていても何でも聞き取れるわけではありません。

例えば、何か言われた時に聞き取れないことがあります。そういう時は、「え?」とか「もう一回言って。」とかと言って聞き返します。もちろん相手の人は、私に口の動きを見せながら話し、私に伝えようとしてくれます。しかし、何度言っても聞き取れない時は「なんでもない。」と言われてしまいます。内容を知りたいから頑張って聞き取ろうとしているので、わからないままになってしまうと困るし、いやな気持ちにもなります。そういう経験を何回かしたら、言われたことがわからなくても、「うんうん」と相槌を打ち、わかったふりをしてしまいます。わからなくても聞き返さなくなります。なぜかというと、「何でもない。」と言われたくないからです。

聴覚障がい者の中には、健聴者と一緒の幼稚園、小学校、中学校、高校に通う人もいれば、聾学校に通う人もいます。普通に話せる人もいれば、話せるけど聞き取りにくい人、手話で話す人もいます。私は今、健聴者と一緒の学校に通っていて、普通に話せるけど聞き取りにくいので、話を聞く時に話す人の顔と口を見ながら聞いていますが、その時に困ることがあります。それは話す人が早口の時です。早口だと言葉が聞き取りにくいし、口の動きも早すぎて何を言っているかわからないのです。

私は健聴者のみんながうらやましいです。友達と普通に話せるところや会話の中に入れるところがうらやましいです。友達は、有名な歌手の歌や流行っている歌を知っているけど、私は全然わかりません。私だって普通に友達と会話したいし、会話の中にも入りたいです。お店に行ってもじろじろ見られないし、顔の見えない相手と電話もできてうらやましいです。

しかし、障がいをもっているからと言って何もできないというわけではありません。何かの障がいをもっているから何もできないと思っている人がいるとしたらそれは間違いです。障がいをもっていてもできることはたくさんあります。私も自分にできることは精一杯頑張ることにしています。勉強も、聞こえにくさに負けたくないので、授業の内容がわかるように予習や復習を頑張っています。部活動も、顧問の先生や審判の人にタッチスクリーンマイクをすることをお願いして、その他でわからないことは仲間の部員に助けてもらいながら活動しています。また、長距離走が得意なので、駅伝の練習にも参加しています。タイムや声掛けの声が聞こえなくて困ることもあるけど、それを伝えると周りの人が支援してくれます。毎朝の練習も大変だけど、どこまでできるか自分の限界に挑戦したいと思っています。

障がいがあっても、できることを見つけて何かをしようとすることはできます。どんな障がいをもっていてもみんな同じ人間です。健常者の人と障がいがある人とがきちんと向き合って話すことで解決できることはたくさんあると思います。お互いのことを知ることで、障がいがあるとかないとか関係なく仲良く生きていけるといいと思います。

【中学生区分】◆熊本市

心(こころ)の成長(せいちょう)

熊本(くまもと)市立出水(いずみ)中学校 二年
清塘(きよとも) 麻央(まお)


私には、知的障害のある兄がいる。兄は、とてもこだわりが強く、思い通りにいかないと大声を出して怒るため、家族はふり回されている。また、話すことができないため意思がよみとりにくい。夜は家中の電気を消して回るし、人の食べ物でも平気で奪い取る。そんな兄の行動に小学生になった頃の私は、強い違和感を感じ、次第に嫌悪感を覚えるようになった。そして、兄の存在をはずかしいと思い、兄とは関わらないようになんとなく避けていた。

私と兄は六歳差で、兄が中学生になる年に私は小学校に入学した。入学してすぐに兄の一学年下の六年生たちから、
「M君の妹でしょう?いいなあ。」
などと声をかけられた。また、兄の担任だった先生は、会うたびに、
「M君元気?」
と声をかけてくれた。私はてっきり、兄は小学校でも嫌がられる存在だったのだろうと思っていたが、とてもかわいがられて人気者だったことを知って驚いた。なぜだろうと考えても当時は全く分からなかった。

私が通った小学校は、隣接する熊本支援学校と創立以来四十年交流を続けている。四年生のときは毎週昼休みに支援学校を訪問し、障害のある子どもたちと遊具で遊んだり、ゲームをしたりして過ごした。支援学校には兄のような知的障害の子や、手足が不自由な子など様々な障害をもつ子がいるので、初めはどう接すればいいのか分からず戸惑っていたが、遊びを通して相手の性格を知ったり、不自由な体で懸命に頑張る姿を見たりするにつれ、交流が楽しみになり、心が通い合うようになった。障害のある子のお世話をする気持ちだったのが、普通の友達に会いに行く気持ちへと変化した。この交流を通して、相手を深く知ることで、障害者に対する違和感がなくなり、相手の健常者と違うところを見るのではなく、違いを受け止め、良い所をたくさん見つけられるようになった。私が一年生だったときの六年生がみんな兄のことを好きでいてくれたのは、支援学校での交流を通して障害者への偏見や差別の意識がなくなっていて、兄の良い面を知ってくれたからかもしれないと思う。そして、兄に偏見をもち、その存在をはずかしいと思っていた自分がはずかしくなった。

兄には、素直で優しいところや一つのことに集中できるなどの良いところがある。相変わらず嫌なこと、大変なことも多いが、兄は障害者になりたくてなったわけではないし、不自由を抱えながら懸命に生きているので、すごいと思う。最近は機嫌がいいときを見計らってこちょこちょをして笑わせたり、簡単なダンスを教えたりして遊べるようになった。兄も嬉しそうに笑ってくれるので、私も嬉しくなる。しゃべれなくても心を通わせることはできる。兄が困っているときは手助けをして、自分で壁を乗り越えようとしているときには、逆にあまり手を貸さず、本人が充実した生活を送れるようにほどよく介助することが自分の役目だと思えるようになった。

兄との生活や支援学校での交流を通して、私は障害者に対する見方を変えることができ、少し心が成長できたのではないかと思う。兄のような障害者が生きやすい社会を実現するためには、健常者と障害者が交流する機会を増やし、お互いを知り、違いを認めることが最も大切なことだと思うが、たとえそのような機会がなかったとしても、全ての人が障害の有無に関係なく、自分とは違う相手のありのままを尊重していくことで、心を成長させられるはずだ。そして、その「心の成長」こそが全ての人が生きやすい、偏見や差別のない社会の実現につながっていくと私は信じている。

【中学生区分】◆相模原市

心(こころ)を守(まも)る、皆(みんな)で支(ささ)える

相模原(さがみはら)市立大沢(おおさわ)中学校 一年
志田(しだ) 識乃(しきの)


曾祖母の名前は、「すみちゃん」。赤ちゃんのような満面の笑みをする、とても可愛い人です。ただ、認知症だから、すみちゃんの娘である祖母のことも、孫である母のことも、わかっていないことが大半です。説明してもすぐに忘れてしまいます。出かける時は、興味を持った方向へふらっと行ってしまうので、手をつながないといけません。でも、手をつなぐと、すみちゃんは嬉しそうです。

すみちゃんは、私がまだ幼い頃、農作業を頑張っていました。ひざをさすってはいましたが、記憶も体も元気でした。少しずつ部屋の片付けが苦手になり、少しずつ思い出せない事が増えてしまいましたが、以前は、とてもしっかりしていたのです。

障害にも色々あります。生まれつきのもの、事故で急になってしまったもの、病気で徐々に症状が強くなってしまうもの……。御本人にとっては、どれも受け入れ難いでしょう。すみちゃんが、いったいどんな気持ちで毎日を過ごしてきたのか、年に数回会うだけの私には、想像しか出来ません。

すみちゃんは、何回も同じ事を質問します。特に多いのは、
「おみゃあ、誰だ。」
正直、悲しい気持ちが生まれます。しかし、これはすみちゃんの責任ではありません。すみちゃんの周りにいる人たちは、何回でも、同じ内容を笑顔で答えます。
「そうかえ、そうかえ。」
と、すみちゃんは笑います。すみちゃんは、手の力が弱い時があるので、お茶をこぼしてしまいます。けれど、誰も怒りません。皆ですみちゃんの心を守っているようです。優しい気持ちで接し続けるのは、凄いと思います。

祖母の兄夫婦と暮らしながら、週二回デイサービスに通うすみちゃん。祖母の兄夫婦は会社経営をしている為、まだ仕事があり、毎日忙しくしています。近くで暮らす、祖母の姉、弟、祖母、それぞれの家族が、すみちゃんの暮らしに関わっています。皆、とても仲良しです。それでも、自分のやりたいこと、やらなければいけないことがある中で、皆ですみちゃんを気にかけている――。本当に素敵なつながりで、これって愛なのかなと、感じます。

去年の夏、すみちゃん、祖父母、母と私の五人で、農業祭に行きました。すみちゃんと手をつないで、ゆっくり歩く駐車場までの百メートル程の道のりが、いつもと違う景色に見えました。
「段差あるから、気をつけてね。」
「信号だから、止まろう。」
声をかける度に、すみちゃんは、笑顔で私を見ました。

今年の春夏は、コロナウイルスの影響を考えて、他県で暮らす私と母は、すみちゃんに会いには行けませんでした。会えても、私を覚えてはいないだろうけど、手紙を書いても何のことかわからないかもしれないけれど、せめてもの思いで絵手紙とお菓子を送りました。描いたのは、すみちゃんと家族の笑顔。選んだお菓子は、すみちゃんの大好きな最中。一瞬でも、すみちゃんの笑顔の時間が増えますように。すみちゃんと暮らす家族に、感謝の気持ちが伝わりますように。
「うみゃあ、うみゃあ。」
最中を頬張るすみちゃんの姿を思い浮かべると、私も笑顔になっていました。

すみちゃんや家族を見ていると、福祉とは特別な事柄ではなく、日常にある心の優しさなのではないかと思います。誰かの優しさを感じた人が、他の人に優しくし、その優しくされた人も別の人に優しくする。もしくは優しく仕返す。そんな風に、優しさに満ちていったら、私たちの暮らしはもっと心豊かになるでしょう。

【高校生区分】◆東京都

社会(しゃかい)の良心(りょうしん)を信(しん)じて

学習院女子(がくしゅういんじょし)高等科 二年
石川(いしかわ) 李津(りづ)


私が電車通学を始めたのは小学生になったときでした。駅のホームに立つと、スピードを保ったままの電車が目の前を通過し、風が衝撃波となって顔を叩き、手を伸ばせば車体に届いてしまうほどの距離の近さに、「これは普通のことなの。みんな何とも思わないのかしら。」と、疑問と恐怖を感じていました。

それからまもなく、JR目白駅のホームから視覚障害者の方が転落して亡くなるという痛ましい事故が起きました。この駅は私の小学校が附属する大学の最寄りで、学校行事の際に利用する身近な駅だったので、事故には衝撃を受けました。やはりこの状態が「普通」ではいけなかったのです。私たちは何をしておかなければならなかったのでしょうか。事故後、ホーム内側を示す内方線付き点状ブロックとホームドアの整備が進みましたが、対策はまだ万全ではなく、視覚障害者が犠牲になる事故は近年も続いて起きています。

今年の五月一日の毎日新聞で、全盲の記者の方の、電車と接触し、生死の境をさまよった体験に関するコラムを読みました。

電車のとてつもない力に引きずられながら、私は「もうだめだ!」と死を覚悟した。(中略)半年近く病院のベッドに横たわりながら、ずっと頭から離れなかった光景がある。ホームの端に向かっていると気づかず歩を進めていた私は、そばをすれ違う何人かの気配を感じた。しかし、呼び止められることはなかった。電車に引きずられながら「自分は社会から見捨てられたんだ」と悲しくなった。

この文章に触れて、私は自分がその場にいるかのような錯覚に陥りました。彼の歩みに気づいていながら、その先に何が起こるか想像できなかったのか。自分が動かなくても誰かが動いてくれると見て見ぬふりをしていたのか。もし私が居合わせていたら、咄嗟に動けたのか。視覚障害者の方に声をかけなかったこと、大けがをさせたこと以上に、社会に見捨てられたという絶望感を抱かせてしまったことに、その場にいた人たちと同様に、自分にも社会の一員として責任があると感じました。この記者の方にお詫びをしたい気持ちでいっぱいになりました。

いつもは新聞を読んで情報を受け取るだけの一方通行ですが、今回は居ても立ってもいられなくなり、初めて新聞社にコラムへの自分の思いをメールで送りました。また、その記者の方は過去に盲導犬を使用されていたとのことだったので、我が家ではずっと保護犬の預かりや里親のボランティアをしていること、今後、引退した盲導犬、あるいは盲導犬になれなかったキャリアチェンジ犬の里親ボランティアをして、まず自分にできる具体的なことから視覚障害者の方を支えたいと思っていることもお伝えしました。

すると思いがけず、コラムの執筆者ご本人の佐木理人記者から私に直接メールが届きました。感想を送ったことへのお礼と、盲導犬のボランティアの面からのサポートは嬉しく、私からのメールを励みに執筆を続けるとのメッセージをいただきました。

視覚障害者の方と直接交流させていただいたのは初めてのことでした。まだ実際には何も行動を起こしていない自分へのお礼の言葉には面映ゆい気持ちもありましたが、今まで私の中で「視覚障害者」という漠然とした概念であったものが、それぞれの方の人生という、形あるものとして見えてきた気がしました。

私は佐木記者の活動について調べてみました。日本で唯一の点字新聞「点字毎日」の記者として、視覚障害者を取り巻く問題を取材し、障害の有無を超えて、「共に暮らす社会とは何か」について考えるきっかけを提供なさっています。点字毎日の創刊は約百年前、その目的として初代編集長の「発刊の言葉」に「これまで盲人に対して眠れる社会の良心を呼び覚まさんとする」とあります。「眠れる社会の良心」という言葉が私の胸に響きました。彼らは、一人の独立した市民として社会で活動する視覚障害者を支援するためだけでなく、晴眼者、つまり視覚に障害のない人びとの意識を変えるためにも活動しているのです。私たちの中には必ず良心があって、まだ眠っているだけなのだ、と信じてくれているのではないでしょうか。

事故後ベッドに横たわる佐木記者に、交通局の人は、
「あなたがどうして立ち入り禁止と書いてあって、通常人の行かないホームの端に進んでいったのか理解しかねます。あなたの事故について、私どもには一切過失はありません。」
と言ったそうです。この発言の方が理解できないではありませんか。悔しさ、悲しさ、むなしさに震えた佐木記者は、この後地下鉄の運営側に過失を認めて改善することを求めるために、法的に戦っていきます。しかしその根底には、こうした取り組みが「だれもが自由且つ安全に移動できる街づくり」の実現につながっていくという、社会の良心、私たちの心を信じてくれている気持ちがあるのでしょう。そして私はその期待に応えたいと心から思います。

佐木記者の事故は二十五年前、目白駅の事故は九年前、その頃から比べると視覚障害者を取り巻く環境は改善したのかもしれません。ところが今、新型コロナウイルスの感染拡大にともない、接触と会話を避けるこの環境は、人の心という点で逆行してしまっていると感じます。ペットが感染したと報じられると盲導犬に無理解な視線が注がれ、社会的距離が見えない視覚障害者が距離を詰めてしまうと、心ない態度を取られるという相談が絶えないそうです。彼らと共に生きる私たちは、今の彼らのより困難な状況を想像、理解し、社会の良心を取り戻さなくてはなりません。彼らは私たちを信じてくれているのですから。

【高校生区分】◆千葉県

ありがとう

筑波大学附属聴覚(つくばだいがくふぞくちょうかく)特別支援学校高等部 一年
木下(きのした) 花乃(かの)


私は重度の難聴者だ。会話をする上で、口形を読み取り、声と合わせて変換することで初めて相手の伝えたいことが分かる。私はこのような理由から、初めて会った健聴者たちには自分から「口を大きくはっきり動かして欲しい、呼ぶときは肩をトントンと叩いて欲しい。」とお願いしている。そうするとみんな「あぁ!ちょっと待っててね。」と言ってすぐに紙とペンを取りに行ってくださる人、マスクを外して声も口も大きくしながら伝えようとしてくれる人、スマホに字を打って見せてくれる人、様々な方法で難聴者である私に伝えようとしてくれた。その度に嬉しいという気持ちの反面申し訳ないという気持ちを覚えた。

私が小学生の頃、よく遊んでいた健聴者の女の子がいる。その女の子は、同じマンションの下の階に住んでいて、毎朝新聞を取りに行くときに会うことが度々あった。その当時健聴者に対して大きな恐怖心と不信感を持っていた私はその子に目も合わせず、通り過ぎていった。ある日学校帰りの途中で、地域の小学校に通っているあの女の子に会った。たくさんの友達に囲まれながら、楽しそうに、「じゃあ三時に○○公園集合ねー。」と遊ぶ約束を取り付けながら私の前を颯爽と通り過ぎた。同じ学校の友達が近くに住んでいなかったその当時の私は「学校が終わっても、友達と遊びに行けるなんて」と純粋に羨ましいなぁと思っていた。家に着いて、母に頼まれた郵便物を取りに行こうとしたら、またあの子に会った。変わらず通り過ぎようとしたら、なんとあの子から初めて話しかけられたのだ。「さっきいたよね?一緒に遊ぼう!私、Sって言うの。あなたは?」比較的聞きやすい声で話してくれたので言っていることが全て把握できた。嬉しかった。話しかけてくれたのが。遊ぼうと誘ってくれたのが。「私は花乃。遊…びたい。」と答えたら、ひまわりのようにさっきの友達にも見せていたあの笑顔が返ってきた。そういえば、さっき遊ぶ約束をしていたあの友達はどうしたんだろう、気になった私は聞いてみた。「さっきの友達は大丈夫…?」そうしたら、あっけらかんと「断ったよー、それよりもずっと前から私は花乃ちゃんと遊びたかったんだ。」と恥ずかしそうに言ってくれた。びっくりした。そして立て続けに無垢な目で「そういえば耳に着けているのなーに?」と人工内耳を指してきた。私は黙り込んでしまった。怖かった。どんな顔をするのか。引かれてこのまま終わってしまうのか。障害のことを自分から話したことも、初めて友達になってみたいと思ったことがなかった。でもそれ以上に話してみたい、友達になりたいという気持ちが強かった。「私、耳が聞こえないんだ、だからこういうのを着けているんだ。」こう言い、恐る恐る顔を上げたら、「そうなんだ!じゃあどんな風に言えば伝わるんだろう。」と次々と提案してくれた。「嫌じゃないの?友達になってくれるの?」と反射的に聞いた自分がいた。「そりゃあ最初はどんな風に話せばいいのか分からなかったけど、嫌じゃないよ。むしろ嬉しい!また明日も一緒に遊ぼう!」と言ってくれた。一刻も早くお母さんに言いたくなるぐらい、飛び上がりたくなるぐらい本当に嬉しかった。こんな私でも受け入れてくれる人がいるんだと。高一になった今でも鮮明に覚えている。それからは、毎日遊んだりと仲良くなるまでに時間はいらなかった。自然とSの姉妹を始め、友達とも遊ぶようになった。そしていつの間にか健聴者に対する恐怖心、壁がなくなっていった。今は引っ越ししてしまって、以前と比べると会える回数は減ってしまったがたまにこっちに遊びに来ると、話が止まらなくなるぐらいずっと話している。その子のおかげで、今私はこうして健聴者の人に自分から障害について説明したり、友達もできた。本当にSには感謝しかない。ありがとう。

その子に出会えてから考えたことがある。それは、私自身も最初は自分とは違うヒトに対して恐怖心や、壁を感じていた。しかし自分とは違うヒト、すなわち健聴者の立場になって考えてみると、おのずと同じような発想になるのではないか。お互いに自分とは違うヒトだと思い、拒絶し、遠ざけ、自分から壁を作っていたのだ。しかし、お互いに理解したい、友達になりたいという気持ちがあれば案外難しくないのかもしれない。これからも自分から積極的に自分の障害について説明していこうと思う。大学など新しい世界も生まれ、きっと上手くいかないこともあるだろう。それでもたくさん傷付いて、成長していきたい。

【高校生区分】◆北海道

共生社会(きょうせいしゃかい)のススメのために

北海道釧路江南(ほっかいどうくしろこうなん)高等学校 三年
八巻(やまき) 花音(かのん)


「楽しかったね。」
そう言って彼は、私にハイタッチを求めた。彼の目の高さに両手を差し出すと、私の手と彼の手は、ぱちんと軽快な音で響いた。

彼はADHDという発達障害を抱えている。その苦しみは私には分からない事で、私はただ彼の近くで見守る事しかできなかった。彼は小学生で、私はただこの体験授業のボランティアをしている高校生で、それなのに私は彼から多くのことを学び得た。彼は私から何を感じ取っただろうか。

この体験授業は一日泊まり込みの大がかりなもので、参加者の小学生は多く、それに反比例してボランティアが少なかった。彼はたまたま、私の担当の班に所属している参加者で私は事前に彼についての情報を書類で確認していた。しかし実際は書類なんかほとんど役に立たない程に大変だった。まず私は、人の話を聞く間じゅう、彼の手を握っていなければならなかった。彼はじっとしている事が苦手で、一度私の手を離れたら、連れ戻すのに恐ろしい時間を要した。そして他の子たちの冗談やからかいを真に受けて傷ついたり、暴力的になる彼を慰めたり宥めたりしなければならなかった。私は彼がするりと私から逃げるのを見るたびに冷や汗をかき、彼が仲間の言葉に過度に応酬するたびにかかる、周りの子たちからの心ない言葉に困惑した。私は何度も仲間の子たちを集め、彼の特性について説明したが、小学生の頭で理解をさせる事は難しい様子だった。

障害は目に見えない。特に発達や精神に関わった障害なら、なお目に見えない。それを抱えて生きる苦しさも、きっと想像を絶する。他人の立場で考える力を身につけないと私たちは彼らの力になれない。彼から学び得たものの中で一番誰かに伝えたいことはこれだ。それを学んだのは、夕食後の自由時間の事だった。この時間は子どもたちが唯一、広びろとした体育館の中で、走り回って遊ぶことが許されている時間で、子どもたちが一番楽しみにしている時間だった。鬼ごっこも、ボール遊びも、輪投げもできる。子どもたちはわくわくを隠しきれない、という表情で私の
「遊んでいいよ」の言葉を待っていた。
「じゃあ、みんな遊んできていいよ。」
全員の夕食が済んだ事を確認し、私は子どもたちを解放した。子どもたちは奇声を発しながら四方八方に散り散りになる。そんな中彼だけが、手持ち無沙汰という顔をして私のことを見つめた。
「遊んでおいで。」
私は彼の背中を押した。ここでできる遊びを提案し、他の子と混ざっておいでと提案した。しかし彼は一向に動きださない。私の手を握ったままでじっと他の子たちの姿を見ている。
「じゃあ、私と遊ぼう。」
私は他の子と彼を一緒にさせることを半ば諦めそう言った。きっと彼は今日たくさんの刺激を浴びすぎたのだ。今からまた他の子と遊ぶのは、彼にとっては苦痛かもしれない。私はそう判断した。私は彼の目の前でボールを転がした。「キャッチボールをしよう。」と言って彼にボールを渡す。小学生というのは、体力の塊で、いくら疲れていてもキャッチボールはできるのだ。それは彼も例外ではなかったようで、彼はすぐにボールを受け取り、私に投げ返した。私は彼の不安定なボールを両手で受け取り、ふわりと投げる。何度も続けると、彼の口から笑い声がもれた。ああ、よかった、彼にもこの時間の楽しみ方があるのだと私が安堵した時に、背後から声がした。
「どうしてあの子とばかり遊ぶの。」
その子は彼と同じ班の女の子だ。まゆと口元をゆがませて、私に言う。
「わたしと遊んでくれないじゃん。」
どきり、とした。そうかもしれないと思ったからだ。その子はずっと私と遊びたかったようだ。しかし私が彼に気を取られるあまり、私は彼女から「遊ぼう」と言う勇気も、私にボールを渡す元気も奪ってしまっていた。私は彼女に謝った。そして彼の事を説明した。けれども彼女は「分からない。」と言った。彼女には私が彼を特別扱いしているようにしか見えないし、彼が抱えるものの苦しさも分からない。

小学生を相手に、障がい者との共生社会を築くための教育を施すことは、やはり難しいのだろうか。客観的に相手を見る力は、どうやって育まれるのだろうか。私は彼に、そして彼女に何をできるだろうか。障がい者との共生社会を目指すには、やはり小学生という純粋無垢な時期からの教育が必要に思う。彼の気持ちを彼女や他の子たちに分かりやすく代弁する事が、共生社会の第一歩になるのだ。それを実現させるのは、きっと今若者である私達なのだ。私は将来、共生社会を目指した教育の先駆者になりたい。もっと、彼の見ている世界の、それを支える教育者の、それを見ている彼女の、生きやすい世界のために。

【一般区分】◆香川県

笑顔(えがお)で頑張(がんば)る

上井(かみい) 梨瑚(りこ)


青空に照りつく太陽。連続猛暑日が続く危険な暑さだが自然と笑みがこぼれた。“勝手にひとりぼっちにならない”そう自分に言い聞かせながら私は再び前を向き、歩き始めた。

「何をしても何か絶対失敗するんだよね、ほら失敗した」心の中でそう呟き自分を否定しているのは小学4年生の頃の私だ。発達障害の診断を受けたのは16歳、高校生の時だったが私の中にある違和感だったその“何か”は随分前から感じていた。頑張っても周りとずれているような不器用さ、勉強も出来ない。その“何か”はどうやら自分だけでなく周りも感じていたのだろう。出来ない事を笑われたりいじめにも遭った。

私は今まで“頑張る”ということを大切にしてきた。結果に繋がらなかったとしても別に良かった。何よりも頑張ることが好きだったから。「頑張る」ということは今の自分より、もっと上を目指し真剣に取り組まないといけない時に使う言葉だと思っている。その思いはもちろん今も変わらない。それは当時と変わらず「頑張る」という言葉を使うのが多いからかも知れないが、やはり何よりも頑張ることが好きだという気持ちが変わらないというのが一番の理由かも知れない。人と比べて焦ったり自分を追い込んでしまう所は気をつけなければいけないと思いつつも、何かに夢中になれる。頑張りたいと強く思える日々を過ごせる事が本当に嬉しくてありがたいことだと気付けた今がある。当時、笑われるという事は私にとって、ただ本当に悲しかった。そして、悔しかった。上手くいっている人が頑張っている人で上手くいかない人は頑張っていない人という方程式は絶対に成り立たない。頑張ってもどうにもならない事や上手くいかない事はある。それは誰にでもあることだと思う。失敗をしない人なんているはずがない。だからこそ人を応援できる人が増えて欲しい、そして私自身も応援したり支える事ができる存在になりたいと思っている。

私は高校生の頃から福祉センターにお世話になり、中学校の部活で始めた卓球をきっかけに沢山の人と出会い、そこからボランティアなど活動の幅が広がっていった。そんな中、ある出会いをきっかけに知的障がいをお持ちの方の支援がしたいと強く思うようになった。私自身を助けて頂いたからだ。支援と格好良く言ってはいるが明るくて笑顔が溢れるその輪にもう一度加わりたかったから。

そして知的障がい者施設で生活支援員として働き始めた。夢が叶い充実した日々ではあったが、仕事の量や早さなど自分が頑張れる以上頑張ってしまったのか、周りと比べて焦ったり自分を追い込みすぎたのか体調を崩し辞めてしまった。“もう頑張れない”退職から数ヶ月が経ち、頑張ることが好きだった私が本当にそう思った。

けれど、“勝手にひとりぼっちにならないで”と感じるほど温かく支えて下さる多くの方々が周りにいる事に気が付いた。そして再び立ち上がり新たな場所で知的障がいをお持ちの方の生活支援員として働き始めることができた事に本当に感謝をしている。今までと違い自分の障がいを伝えたことで「無理しないでね」「今日一日どうだった?困ったことなかった?」と声をかけて頂いたり相談しやすい環境や、しんどくなった時のための部屋を考えて頂けた。今まで自分の問題を一人で抱えながら働いていたが、今は負担が軽減されまっすぐ利用者さんをみることが出来ている。本当に温かい職場や、ここまで辿り着くことを支援して下さった方々のおかげで笑顔で頑張ることが出来ている。今は、笑顔が良いと言って頂ける事が本当に嬉しい。勝手にひとりぼっちになって無理をしていた過去の自分とは違う。

だから「笑顔で頑張る」この言葉を大切にしたいと思う。夢中になれる“何か”、頑張りたいと思える〝何か〟がある日々をまた過ごせるようになり嬉しさを噛みしめ生きている。この気持ちを忘れないでいたい。

私は以前、上手くいかなくて落ち込んでいた時やふとした瞬間、もしもの世界を空想することが多かった。頭の中で広がる“もしもの世界”

“もしも、もっと早く発達障害だと分かっていたら…”自分に適した環境で学ぶことが出来ていたのかな。そうしたら馬鹿にされて笑われたり、いじめられる事はなかったのかな。自分を責めたり、傷付ける事もなかったのかな。

“もしも、障害がなく健常者だったら…”普通に高校生活を楽しんで大学に進学していたのかな。沢山友達と遊んで社会人になってもメールやたまに会ったりして繋がっていたのかな。誰でも空想をする“もしもの世界”私はその世界に自分を受け止めてくれるそういった人の存在を無意識に求めていたのかも知れない。

人と違って出来ないことや上手くいかない事が私にはある。

けれど、人と違った物の見えかた、聞こえかた、感じかたで驚かれる事もある。凸凹で独特な私の世界。職場で小、中学校の同級生と再会し優しく教えてもらいながら一緒に働いている今がある。自分で周りとの間に壁を作っていたのではないかと思う程、勇気を出し一歩を踏み出してみたら、周りには優しさや温かさで溢れていた。だから私は頑張ることができるのだと、笑顔でいられるのだと伝えたい。大好きな仕事、大好きな職場。何一つ無駄な事なんてなかった。今日も明日も笑顔で皆と頑張りたい。

【一般区分】◆東京都

たくさんの「ありがとう」

北構(きたかまえ) 健寿(たけとし)


私は視覚に障害がある。視覚障害者のイメージはどんなものだろうか。見えないなんてかわいそう、何をするにも大変そうなど色々あるだろう。だが、本人のやる気と周囲の協力があれば、視覚障害者も何にでも挑戦できるのだ。

中学二年の春、頭の奥をつねられるような頭痛が突然始まった。目の奥の痛みも激しくなり、夏の終わりには人の顔が認識できないほど視力が低下した。ある日は鉄柱にぶつかる。別の日は階段を踏み外し転げ落ちる。一番酷かった事は、
「お前、白い杖も持っていないし、普通に見えてそうじゃん。」

と同級生にからかわれ、視野外からいきなり殴られたこともあった。

その時の唯一の救いが、母が言ってくれた
「絶対、治るよ。」

という言葉だった。私は、その言葉を信じて、治ることを願っていた。

だが、医師から告げられたのは

「残念ながら、手術をしても直りません。」

という残酷な一言だった。それを聞いた母が、その場で静かに涙を流す姿を今でも鮮明に覚えている。私もその場で眩暈を起こした。

その日以降、家に引きこもるようになり、そんな暮らしが一年半も続いた。体も心も病んでいき、将来の事なんて考える余裕すらなかった。自分が消えれば家族も楽になるのではないか?などと考えた時もあった。

だが、ある映画が私の人生の価値観を変えてくれた。交通事故で失明した主人公が特殊能力を得て、昼間は盲目の弁護士、夜は法では裁けない悪人を裁く物語だ。私もこの主人公のように自分の障害と向き合い努力をしようと思った。引きこもり生活に終止符を打ち、「盲学校」に通い、頑張ってみることに決めた。

盲学校卒業後、化粧品・健康食品の製造販売をしている企業の特例子会社に就職することができた。サンプルを数える業務、名刺印刷業務を任され、やりがいを感じていたが、五年程経つと視力が再び悪化していった。サンプルの表裏の区別ができないほど視力が落ち、名刺印刷業務も他の人に交代することになった。体調不良も増え、会社も休みがちになり、仕事を続けられるのか不安でいっぱいだった。

ある日、親会社から

「一緒にお仕事をしませんか?」

という話を頂いた。親会社は、社会貢献活動の一環として特別支援学校に通う高校三年生へ「身だしなみセミナー」を実施している。スキンケア・整髪など基本の身だしなみを教えるのだ。そのセミナーの講師をやってみないかという話だった。

視覚に障がいがあり、大勢の人の前で話した経験も無い自分に務まるのか不安だった。だが、せっかくきたチャンス。新しい仕事に挑戦したいと思った。

セミナー講師になるには、「見えにくいこと」、「大勢の人の前で、相手に分かりやすく話をする」という大きな壁を乗り越えなければならない。

まずは、台本を丸暗記しようと思った。台本を暗記してそのまま読み上げれば大丈夫だと思っていたが、その考えは甘かった。先輩に練習に付き合ってもらい、いざ声に出してみると、声が小さい、途中全て忘れて無言になるなど、相手に伝えることの難しさを痛感した。

「台本を暗記するのではなく、内容を理解して、自分の言葉で相手に伝えてごらん。」

と先輩から助言をもらった。先輩に毎日毎日練習に付き合ってもらい、血のにじむような特訓の日々が始まった。

実際のセミナーを見学に行くと、講師は台本をただ読むのではなく、笑顔を絶やさず、受講者の障害の程度に合わせてできるだけ簡単な言葉でゆっくり話す、など様々な工夫をしていた。その時、台本をただ読めばいいのではない、相手を思いやり寄り添う気持ちが一番大切なのだと気づかされた。台本を分かりやすい言葉に修正し、自分の体験談を追記するなど、自分なりの工夫をした。帰宅後は自室や風呂場で、大きな声で練習を重ねた。

地道な練習の甲斐もあり、一回、二回と講師をする度に、自信をもって、笑顔で話せるようになっていった。

三回目のセミナーの休憩時間、受講者が私に話しかけてきてくれた。

「さっき使ったこの商品いくらですか?」

私が、値段を伝えると、

「使用感も好きだし、説明もとても分かりやすかったので今日買ってみようと思います!ありがとうございました!」

と明るい声で感謝の言葉を伝えてくれた。

改めて思い返すと、人から「ありがとう」と言われた事がなかった。誰かに助けてもらい、「ありがとう」と言うばかりの私が、人の役に立ち、「ありがとう」と言われた。自分が人の役に立っていると実感できて、心の中がじんわりと温かくなるのを感じた。

この十一年間、視覚に障害があることで、悔し涙を流した日も、眠れぬ夜もあった。だが、周りの人に支えてもらいながら再び立ち上がることができた。

ある人の、

「自立は、一人で全部やることではない。周りの人が助けてくれる、周りとそういう関係を築いていくことが、自立。」

という言葉が心に残っている。私が現在セミナー講師を務められるのは、私一人の力ではない。数えきれない人たちの助けの上で、私は成り立っている。

今はまだ「ありがとう」と伝えることが多いが、人の役に立ち、これからも様々な事に挑戦していき、たくさんの人からたくさんの「ありがとう」をもらえる人間になりたい。

【一般区分】◆千葉市

青(あお)いって、なに?

三浦(みうら) 博子(ひろこ)


世の中にまだ、コロナウイルス感染が無かった時の話です。

岩手から千葉に嫁いで三十年を過ぎた頃、高齢となった実家の両親は、それぞれ別の病院に、入退院を繰り返すようになりました。

七夕も近いある日、I病院の主治医に、
「お父様の余命は、一ヶ月です」との宣告を受けました。頭の中が真っ白になり……
「病気の母に、何と伝えたら良いのだろう」
母の入院するK病院まで、バスに飛び乗った時の出来事です。

乗り慣れないバスには、降車場を聞いたり標識が良く見えるように、運転席近くに乗るのが常で、自然と足が向かっていました。
タクシーではなく、あえて乗るバスのユックリした走行や、見知らぬ人と乗車する緊張は、今にも大泣きしそうな私の心を静めて、母への言葉選びの手助けに、なってくれそうに思えました。

バス停も、五~六ヶ所を過ぎた頃でしょうか、中高生のバス通学仲間と思われる、黒い人影が一列になって一瞬見えました。
最初にトントンと、元気に乗って来た男子学生さんの声、
「おい、みんな!バスに乗る時は、二段だからな、気をつけろよ!」
「うん、わかった」
父の余命宣告で、ボーとしていた私は思わず「えっ!」と、入口から聞こえた声に、耳も気持ちも動かされていました。
皆が乗り込むと、女子学生さんが、
「私は足が上がらないから、タイヤの所には座れない」
「俺もいやだ!」「俺もいやだ!」と、
ガヤガヤし始め、皆が座ったと思われた時、
「ねえ、バスのタイヤの所って、どうなっているの?」と、弱々しい声……
それに答えて、例の元気な男子学生さんが、
「バスの中には、四ヶ所タイヤの所が盛り上がって狭くなっている所があるのさ」
「えっ!そうなんだ」
「なんだお前、何も知らねんだな、よ~し、今から皆でお前に、分からない事を教えてやるから、何でも聞いてくれ」弱々しい声の男子学生は、暫く無言……
女子学生さんが突然、
「あれ~この道、三km行くとS町に行けるんだ……ふ~んこの先は工事で一方通行か」
と、暫く黙っていた弱々しい声の学生さんが、
「なんで、そんなに行先の事が分かるの?」
「やだ!標識で分かるの」
「え~と、標識って何?」
「道端に町の名前とか、そこまで何kmとか書いてある棒が立っているんだよ、ねえ」
「そう、通行禁止の道や、美術館や図書館の名前とかも書いて道に立ってる棒が、標識」
「そうだったんだ、人に聞かなくても分かるんだ……いいな……」
標識の見える所に座っていた私は、思わず、「ゴクリ」と、唾を飲み込みました。
もうすっかり、彼らの話に心を奪われていました。
「なんか暑くなってきたな、今日はいい天気だから窓を開けようぜ」と、
私の背中にも、硬くなっていた心や体を癒すように、やさしい風が吹き込んできました。
「気持ちいいな……晴れて空も青いし、今日は最高だな」
「うん」「うん」「うん気持ちいい……」また、弱々しい男子学生さんの声が、
「ねえ、いい天気は分かるけど、青いって、なに?」
「え~、青いから青いけど……」
「え~、分からない」
「何と言えば青を教えられるのかな?」
ああでもない、こうでもないと、青を語り合い、おそらく弱々しい声の主が一度も見たことが無いであろう青色を、何という言葉で伝えたら良いのか……
いつしか私も、言葉探しをしておりました。やがて「次、止まります」というチャイムで停車、後ろで何かコツコツと音がしたと思うと、松葉杖をついた女子学生さんと、その子の荷物も一緒に持ってやさしく寄り添う、友人らしき女子学生さんでした。
運転手さんも、降車までゆっくり待って、やさしく発車しました。
更に、次も停車のチャイム……
またも、コツコツという音が……でも、さっきとは少し違うような……と思っていると、音は白い杖を持った男子学生さんと、あの元気な声の、男子学生さんたちでした。
「大丈夫か?」と、声を掛け合い、
「運転手さん、ちょっとゆっくりだけど、もう少し待って下さい」
運転手さんも、
「は~い大丈夫、ゆっくりで良いですよ」と、この場に流れる、何とも言えないやさしい空気に、私までもが包まれ、守られたようで、胸が一杯になりました。

気がついたら、K病院の車椅子に乗った、母の前に立っておりました。
この先の不安と恐怖の中、やつれた母の乗った車椅子を「力いっぱい」握りしめて、自分の気持ちを抑えながら、ゆっくり、ゆっくり押しました。そして、明るく元気な学生さんのように、尋ねてみました。
「お母さん、何かして欲しい事無いの?」と。

後日、父もK病院に転院させて頂き、両親は笑顔の再会を果たし、旅立ちました。

あの日のバスの中での出来事は、今でも忘れられない、心の指針になりました。

私は自らに、時折問いかけてみます。
「あなたは、本当に見えていますか?」
「あなたは、本当に聞こえていますか?」
言葉にならない思いもあるけれど、それでも一歩前に進むために…
あなたは、本当の青をどう伝えられますか?

※このほかの入賞作品(佳作)は、内閣府ホームページ(https://www8.cao.go.jp/shougai/kou-kei/r02sakuhinshu/index.html)でご覧いただけます。

※掲載する作文は、作者の体験に基づく作品のオリジナリティを尊重する見地から、明確な誤字等以外は、原文のまま掲載しています。

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