【高校生・一般部門】 ◆最優秀賞 駒場 恒雄(こまば つねお)
人生を支えた出会い駒場 恒雄(岩手県)
手足が不自由になる病気を発症し、障がい者に厳しい社会に生きる意欲を失ったこともある。街や施設の構造よりも辛かったのは、身体障害に対する偏見と差別だった。
病気の理解が得られないという苦しみは、家庭崩壊も引き起こした。この苦しみや悩みは自己責任として誰もが耐えていた。不便な社会で暮らす体験を、思い切って地元新聞に投稿した。同じ悩みを抱える知らない人から、感謝と励ましの電話を貰い驚いた。
この行動で「ひとりぼっち」の不安が解消され自信もできた。患者会など障がい者団体活動やイベントに参加し、色々な障害を抱える人やその家族と出会うことが出来た。更に、一歩踏み出すことで福祉関係者や医療関係者などたくさんの人との交流で人脈も出来た。
人との出会いは悩みを抱える仲間にも役立つことが出来たのは大きな成果としている。
三十歳になったある日、床の少しの段差につまずいて転んだ。手足の異常は疲れが原因だと思っていた。体の異変は回復すること無く階段を上る足の力もなくなった。
未だ治療法も無い筋ジストロフィーによる障害と暮らすことになったのである。手足の運動機能から、心臓や呼吸の筋力まで侵されやがては寝たきりから死に至る重篤な病気だと知った。医学研究や医療技術が進歩している時代に、治療法の無い病気があることが信じられなかった。
手足の筋力は日毎に衰え、段差に躓いて転び、和式トイレから立ち上がることが出来ず助けを呼んだ。職場の階段には手すりが無かった。階段を四つん這いになって上ったこともある。「無理するな、休め。治ってからまた働けば良いのに」と、その姿に同僚らは心配してくれたが私には辛い言葉だった。背中におんぶしてもらい二階に移動することもあった。病気は徐々に進行し寝たきりになると言われていたので、できるところまで頑張ろうと心に決めていた。
挫けそうな時には石川啄木の詩、「こころよく/我にはたらく仕事あれ/それを仕遂げて死なむと思ふ」を心の支えとした。
職場の上司や同僚に励まされながら、車いすの生活になっても働いていたが、限界となり52歳で退職した。病気を発症して以来、身体障害が徐々に悪化する姿を見守ってくれた、職場と上司の優しさに感謝している。
病気理解を深めるため患者会に入会し、研修会や講演会に参加することで病気の理解が深まった。この研修会には家族も一緒に同行してくれた。仲間の症状を見ることで、これから自分の体に現れる状態を予測し覚悟ができた。家族に病気の理解があったお蔭で、闘病生活に大きな支えとなった。
筋力が低下する原因は、人間の体を作っている遺伝子DNAの変異と言われ、よく理解ができなかった。生物の宿命である突然変異は遺伝子DNAの写し間違いや重複や、祖先や親から引き継がれてきたものだった。この生物が抱える神秘的な宿命に誰も羨むことができない事実だった。
特異な病気に対する偏見に苦しみ、徐々に進行する身体障害の不安。誰かに聞いてほしい悩みを抱える患者と家族と出会い、傾聴は生きる勇気を支える大切なものだった。
仲間との会話から、病気や障害の体験者として役立つことを知った。福祉制度の適用を受けるには、申請や届け出が必要であり無ければ自己責任としている。個人情報保護という法律のため仲間への情報提供が難しい状況がある。
相談者に正確な情報やアドバイスのため、福祉制度や医療などの知識が必要だった。スキルアップのため福祉住環境コーディネーター二級の試験に挑戦し合格することもできた。
お金を伴うものは聞くことが難しかった。障害年金申請の手続きをしていなかった人にアドバイスし五年間も遡って年金を貰った。病気を理由に解雇された人に傷病手当金の請求と、障害年金申請の手続きを助言。時効の直前に手続きが間に合い、満額貰える幸運もあり感謝された。
経済的な問題と身体障害の精神的な不安など、二重の負担に苦しんでいる人が多くあった。医療や年金問題、身体障害者手帳の申請、車いすなどの補そう具の相談では専門的な知識も必要とした。福祉専門家や障害者団体など、人との交流から出来たネットワークの人脈が皆のためになった。
ベッドに横たわり、燃え尽きる命と必死に闘っている仲間も少なくない。病気診断の時、医師から最悪なケースで宣告され、人それぞれがどう生きたいのか問われている。生き方まで医師のカルテ(診療記録)には無い。闘病記など生きた証を残している人の記録や話が参考に役立った。様々な葛藤と闘い、人生を明るく生きるため何が支えであったかと問われれば、同じ宿命と共に生きている仲間と出会い、その人を支える人たちとの交流と温かい姿であった。
障害に悩み苦しんだ体験が役立つ人生は予想もしていなかった。地元の市役所から身体障害者相談員として委嘱を受け活動を続けることが出来ている。
「誰かが言ってくれるだろう、やってくれるだろう」と、無責任ではいけない。自分に出来る工夫は無いのだろうかと、考えるゆとりと「自分のため、人のため、後に続く人のため」の心構えが大切だった。
振返れば辛いことや悔しいことが思い出されるが、病気と障害のためたくさんの人と出会い、楽しい人生を暮らすことが出来たと思っている。失った機能は戻らないが、人の優しさや出会いの思いでは言い尽くせないほどあり感謝している。残された機能と命は燃え尽きるまで、負い目を感じること無く一生の仕事として続いている。