【一般区分】 ◆佳作 島田 真紀子(しまだ まきこ)

わたしの宝物
島田 真紀子 (和歌山県)

わたしの娘かりんは1歳6か月でお空へ旅立ちました。かりんが一生懸命生きたお話をきいてください。

かりんはお腹の中にいるときに、『胎児胸水』という胸に水が溜まってしまう病気が見つかりました。「次の妊婦検診の時に赤ちゃんが生きててくれたらいいけど」、先生からそう言われたこともありました。が、胎児治療をがんばってくれて、無事にわたしたちのところに産まれてきてくれました。胸に水が溜まってしまう病気だったので、肺がうまく成長していないかもしれないと言われていましたが、オギャーという産声も聞かせてくれました。

ただ、このオギャーという声がはっきりとかりんの声を聞くことができた最後のチャンスでした。呼吸が上手に出来なくて、生後3か月で気管切開をしたからです。また、生まれてすぐしんどい状況が続いたので、気管切開をするまでずっと眠るお薬で寝て過ごしていました。ミルクはお鼻のチューブ(経管栄養)からもらっていました。そう、かりんは医療的ケア児と呼ばれる赤ちゃんでした。かりんがおうちで過ごせたのは約3週間、それ以外はずっと病院で過ごしました。かりんにとっては看護師さんや先生、病院のスタッフのみなさんが家族以上に家族のような存在でした。

また、かりんは身体障害者手帳1級を取得していました。難病申請も受けて、特別児童扶養手当ももらっていました。言葉にするとたった3行ですが、まさか我が子が。まさか我が子が障害手帳を持つことになったという現実を、正直受け入れられない気持ちしかありませんでした。苦しかった。障害手帳が取得できてからも、早く元気になって返還したい、返還することがかりんの目標とばかりに勝手に目標をたてていました。かりんが心地よく、そして機嫌よく過ごせることが幸せで、それ以上の幸せなんてなかったのに。

なんで障害手帳を取得する時に、あんなに拒んだんだろう。もっというと、気管切開が必要かもと最初に主治医からお話があった時も、わたしは泣いて嫌がりました。気管切開をしたら医療的ケアが必要になる。我が子の体にメスを入れるのも嫌でしたが、“医療的ケア”というこれまで経験したことのないものが怖かったんだと思います。“医療的ケア”が得体のしれないものに感じて、医療的ケアを理解したいと思う気持ちの前に、分からないことへの恐怖と、またそれが大事な大事な我が子に必要と言われたことが怖くて怖くてたまらなかったんだと思います。わたしにとっては、“障がい” も一緒でした。未知過ぎて怖い。だから、なんとか障害手帳を返還したい、我が子に障害手帳は必要ないって頑なになっていました。

ただ、今は福祉や医療のサービスに感謝の気持ちでいっぱいです。感謝の気持ちが持てるようになったのは、かりんを可愛がって大事にして下さった、かりんの周りの方々のおかげです。そして、かりんのおかげです。

産まれてすぐのかりんを見た時、産声を聞いた時、かりんのことが愛おしくて大事でたまりませんでした。産まれた時から誰が見てもパパそっくりの赤ちゃんでした。ただ、その後、容赦なく主治医からの厳しいお話がある日々が続きました。NICUでたくさんの管に繋がれてがんばっているかりんを、抱っこしたくても抱っこ出来ない。触るのも怖々で、新型コロナの影響で1日の面会時間は15分間の日々が続きました。この子は本当にわたしが産んだ赤ちゃんだろうか。大事な我が子のはずなのに、精神的に追い詰められていたんだろうなぁと思います。我が子と実感出来なかった。我が子なのか半信半疑のまま、家族が運転してくれる車に乗せてもらって15分の面会に通う日々でした。もし家族に送迎してもらっていなかったら、面会に行かなかったかもしれない。いや、行けなかったかもしれない。主治医も看護師さんも行政の福祉窓口の人も、誰のことも信じられないし、誰の話も素直に聞けない。わたしは酷い親でした。

そんな毎日が続いて、たくさん注射も検査も手術もがんばったかりん。少しずつ元気になって、リハビリの時間が大好きな女の子になりました。かりんにとってリハビリはたくさん遊んでもらえる時間だったようです。寝たきりだったかりんも、少しずつ首が据わって、寝返りが出来るようになって、欲しいおもちゃを自分で取りにいけるようになってと、出来ることが増えていきました。出来ることが増えると体の動きも活発になって、またリハビリの先生に褒めてもらえる。楽しくてまたがんばる、そんな様子に見えました。看護師さんにもたくさんたくさん可愛がっていただきました。まるで我が子(孫?!)のように!付き添い入院が出来るようになってからはずっと付き添いをしていたのですが、夜寝ていてハッと目が覚めると、夜勤の看護師さん達が「かわいいねぇ」とかりんの寝顔を見ていたこともありました。抱っこしてもらって、お散歩に連れていってもらったり、ナースステーションで過ごしていたこともありました。『障がいがあるかりんちゃん』というよりも、かりんを一人の人間として扱ってもらえた。かりんをかりんとして、あるがまま受け入れてもらえた。少しずつそんな気持ちになりました。誰も信じられないと思っていた自分が、かりんを通してまた人のことを信じることが出来るようになりました。それまで先が見えなくて怖くて出来なかった、「かりんが大きくなったら」という、もしもの話も、自然と看護師さんに話して笑えるようになりました。かりんを可愛がって下さった皆さんのおかげで、ピンと張りつめていたわたしの気持ちも少しずつ緩んで、楽になれました。そうなると、かりんに障がいがあるとかないとかじゃなくて、かりんはかりんなんだとわたし自身も自然と思えるようになった気がします。まわりの優しさが、わたしにとっての障がい受容の手助けをしてくれました。

かりんの旅立ちは、たくさんの方々、たくさんの看護師さんや病院の先生方が見送って下さいました。たくさん泣いて下さる方々を見て、また泣けてきたのと同時に、なんて周りに愛してもらっていた子なんだろうと感動もしました。かりんの旅立ちは今でも信じられないし、悲しくてさみしくて、やるせない気持ちになります。ただ、少しずつ、かりんがたくさんの方々に可愛がっていただいたように、自分も周りを大事に出来る人間になりたいと思えるようになってきました。周りを大事にすることが、こんなにも大切なことで、大事にすることが心のバリアをなくすことにつながることを経験しました。かりんはわたしが成長するために存在した訳ではないけれど、でもかりんのおかげでたくさんのことを学んで、たくさんの優しさに触れることが出来ました。かりんがまるまるとした小さな体全体で教えてくれたことを大切にして、次にかりんに会った時に「母ちゃんもがんばったよ」と笑顔で話せるように、一日一日を生きていきたいと思っています。かりん、ありがとうね。