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障がい者制度改革推進会議 差別禁止部会(第5回)
議事録

○棟居部会長 それでは、定刻になりましたので、これより第5回「障がい者制度改革推進会議 差別禁止部会」を開催させていただきます。
差別禁止部会は一般傍聴者の方にも公開いたします。また、会議の模様はインターネットを通じても幅広く情報提供いたします。
なお、御発言に際してのお願いとして、発言を求めるときはまず挙手いただき、指名を受けた後、御自身のお名前を述べられてから、可能な限りゆっくり御発言いただくようお願いします。
本日の会議は18時までを予定しております。
それでは、東室長から委員、オブザーバー及び専門協力員の出席状況と資料説明をお願いします。
○東室長 どうもこんにちは。御苦労様でございます。担当室の東です。
本日は伊東副部会長、小島委員、川島委員、野沢委員が御欠席、遠藤オブザーバーが途中で退席ということでございます。大谷委員は時間を遅れて来られるだろうと思います。
本日の議事は、第一に「差別禁止に関する諸外国の法制度について」ということで、アメリカの障害者差別禁止法制についてヒアリングを行います。
第二に「差別禁止法制の必要性等の論点について」を議論することになります。
資料の確認をさせていただきますが、議事次第、座席表に続きまして、資料1として「アメリカの障害者差別禁止法制(植木淳氏提出)」というものがあるかと思います。
資料2として「第5回差別禁止部会において論ずべき点」というものがあると思います。
資料3が「第5回差別禁止部会において論ずべき点に関する意見一覧」ということで、事前にいただきました意見をまとめているものです。
参考資料1が「障がい者制度改革推進会議における差別禁止に関わるこれまでの議論」ということで、親部会である推進会議において議論してきたものをまとめて配付しております。
参考資料2が「障害に基づいた、差別と思われる事例集(作成 ヒューマンネット熊本障害者差別禁止条例をつくる会)」という資料でございます。具体的にどういう差別があるのか、熊本で集めた事例がわかりやすくまとまっております。
参考資料3が「各国差別禁止法における障害(者)の定義比較表」でございます。
お手元に資料があるかどうか確認してください。
それと、本日、西村委員から「障がい児・者権利擁護条例検討プロジェクト〈報告書〉」ということで、条例成立までの取組みとか事案を集めたものが配られているかと思います。
以上でございます。
○棟居部会長 それでは、議事に入らせていただきます。
本日は最初にヒアリングを通じて、アメリカの差別禁止法制について共通理解を深めたいと思います。まず北九州市立大学法学部准教授の植木淳さんから45分程度でアメリカの障害者差別禁止法制について御報告をお願いします。
○植木准教授 こんにちは。私は北九州市立大学の植木と申します。
私は憲法上の平等原則、アメリカでいうところの平等保護理論と障害差別禁止法の研究をしてまいりました。
本日中心にするべきテーマとして、障害の定義についてお話をしろというお題をいただいたんですが、私は基本的にはアメリカの障害差別禁止法であるADAを中心に研究してまいりましたので、本日もそれを中心に報告をさせていただきます。
この点で、前々回報告された長谷川先生の報告と一部重複するところがあるかもしれませんが、極力重複を避けながら、まず最初に憲法上の平等保護条項とADAの関係について10分程度、次にADAの全体構造と各編にわたる訴訟の展開について、特に障害の定義を中心にして見ていった上で、時間に余裕があれば雇用差別禁止法理以外のいわゆる市民権法領域におけるADAの意義について見ていきたいと思います。
そういったわけで、資料は時間の関係から、適宜割愛しながら話を進めさせていただきます。
ADAを考えるに至って極めて重要な要因であると思われるのが、アメリカ合衆国憲法における平等保護という考え方になります。この点、合衆国憲法修正14条1節では、いかなる州も、各州の管轄権において、何人に対しても法の平等な保護を否定してはならないと規定しています。
この規定は、御承知のとおり、南北戦争ののちに人種差別を禁止するものとして制定され、特に人種差別禁止を定めた当時のシビル・ライツ・アクト、いわゆる公民権法、このレジュメでは市民権法と訳していますが、公民権法の合憲性を確認するために規定されたものであると考えられております。
その後、修正14条にもかかわらず、アメリカ各部においては人種差別が長きにわたって存続することになるんですが、20世紀に入ってから平等保護条項というものが再び脚光を浴びます。それが「2.平等保護理論の展開」というところです。
1930年代からアメリカの最高裁は、基本的には政治部門の判断を尊重するという司法消極主義の立場に立つんですが、その一方で、切り離され孤立したマイノリティに向けられた法律には、裁判所が積極的に審査をするんだということを示唆するようになります。つまり、一般的には政治部門の判断を裁判所は尊重するが、切り離され孤立したマイノリティの保護のためには、裁判所は積極的な判断をするんだという立場をとっていくようになるわけです。
切り離され孤立したマイノリティとは、勿論当初は人種的なマイノリティを意味するものだったわけですが、そのため人種区分、人種による差別は特に疑わしき区分であると考えられ、人種による差別は原則として違憲であると考える厳格審査基準という審査基準が人種区分には適用されるという判断が確立するようになりました。
そして、それに続いて平等保護条項の適用対象になったのが(3)にある性による区分です。性による差別、特に女性差別は準・疑わしき区分であるとされ、人種差別の場合ほど100%近く憲法違反になるわけではないが、それに準じるものとして厳格な合理性の基準あるいは中間審査基準と言われる厳しい判断基準で判断されるという枠組みが採用されることになります。
ところが、その一方で(4)ですが、特に年齢や経済状況による区分は疑わしき区分ではないとされ、原則合憲だとされる合理性の基準で判断されるという枠組みが採用されるようになりました。
そうなると、ここまで見たように、アメリカの最高裁判所は、平等保護条項に関して、特に人種差別と性差別は疑わしいが、それ以外の年齢や経済状況による差別は特別の保護の対象になる疑わしき区分ではないという判断枠組みを形成したわけです。
資料の2ページにいきますが、障害による差別をどのように考えるべきかというのが問われることになります。
そこで3の(1)ですが、そもそも憲法上の疑わしき区分とは何だったのか。つまり最高裁判所はなぜ人種差別や性差別は疑わしき区分であって、それ以外による区別は疑わしき区分ではないとしてきたのかという根拠が問われることになります。この点、連邦最高裁判所が人種差別が疑わしい理由として言及してきたのが<1>~<5>の要素です。
まず1つ目の要素として、そもそも修正14条は制定意図として、人種差別を禁止するという意図によるものであったということが理由として挙げられます。ところが、修正14条の制定意図だけを強調すると、それは性による差別も疑わしいということが説明できないわけですから、これだけで人種差別が疑わしいという理由を説明することは困難であるということになります。
そこで、その他の要因について検討していくと、まず第一には人種差別や性差別はまさに歴史的に続けられてきた差別であるということ。
それから、特に人種的マイノリティや女性はしばしば社会の中で劣った地位にあると考えられてきたこと。
更には人種的マイノリティや女性は、その人自身の努力によってはいかんともし難いような生来的で不変的な特徴によって差別されてきている。
その人たちは政治過程への参加を阻害されてきた、政治的に無力な存在であった。だからこそ、人種差別や性差別は疑わしき区分だとみなされてきたと説明されているわけです。
このように考えれば、障害のある人に向けられた差別というのは、まさに歴史的に継続してきた差別だと言えるわけですし、あるいは障害のある人たちは社会の中で劣った立場にあるとみなされ続けてきたわけですし、大部分がその人自身の努力によってはいかんともし難いような特徴に基づいて、政治的に無力な立場に置かれてきたわけですから、まさに人種差別や性差別と同じように疑わしき区分あるいは準疑わしき区分であるように思われるわけです。
ところが、この問題について、つまり障害による区分が平等保護条項の特別の関心の対象になるような疑わしき区分と言えるかどうかという問題について、最高裁判所の出した答えと連邦議会の出した答えは全く別のものでした。
(2)連邦最高裁判所の立場を見ていきますと、連邦最高裁は1985年のいわゆるクレバーン判決という判決の中で、実際に障害のある人が日常世界に適合して役割を果たす能力が劣っていることは否定できないので、障害のある人に対する処遇は立法府の裁量に委ねられるべきであるということを指摘。更には連邦議会の中で、障害のある人を保護するような法律が存在することからすれば、障害のある人たちが政治的に無力な存在であるとは言えないと言ったわけです。このようなクレバーン判決の議論は、まさに克服すべき誤った理論であると言えると思うのですが、それでもこの段階で裁判所は少なくとも障害による区別は疑わしき区分ではないという判断をしたわけです。
ところが、これに対して1990年に制定された障害のあるアメリカ人に関する法律、いわゆるADAの中で、連邦議会は冒頭で次のように述べているんです。それが2条に規定された事実認定という部分でして、ここでは社会は歴史的に障害のある個人を切り離し孤立させる傾向があり、障害のある人に対する差別の形態は深刻で継続的な社会問題であり続けているのに対して、障害のある人は人種差別や性差別の場合には存在しているような法的な救済手段を有していないということ。更に障害のある人々は集団として劣位の位置に置かれてきたんだということ。更には障害のある人は、その人自身によってはいかんともし難いような特徴に基づいて、意図的な不平等取扱いの歴史にさらされ、社会において政治的に無力な地位に置かれ続けてきた、まさに切り離され孤立したマイノリティなのだということを連邦議会は冒頭で述べているわけです。
このような言及は、恐らくは伝統的な連邦最高裁による平等保護理論、つまり疑わしき区分という議論を強く意識した上で、障害のある人々が置かれた状態が、平等保護法理においてまさに特別な保護の関心の対象となるべき切り離され孤立したマイノリティであることを強調するものであると考えられます。その意味で、少なくともADAは、制定された当初としては、憲法上の平等保護条項を実現するものだとして制定されたのだということが言えるわけです。
そのことを念頭に置いた上で、資料の3ページからになります。具体的にADA全体の規範構造について見ていきますと、ADAは全体構造として第4編からなり、特に重要なのが第1編から第3編になります。
まずADAは第1編で雇用における差別を禁止するとともに、第2編で公的機関、つまりは州や地方自治体の提供するサービス・活動・プログラムにおける障害差別を禁止します。ここで言うサービス・活動・プログラムとは、例えば国や地方公共団体のつくる建築物や道路、あるいは行政サービスや司法サービス、刑事手続きや福祉サービス、教育サービスなどを含むものだとされ、そのような行政サービスのいろんな部分に障害のある人が完全かつ平等な参加をすることが保障されなければならない。そして、そのための合理的な変更が提供されなければならないということを規定します。
第3編では、主として民間事業者の運営する公共施設における差別が禁止され、そこでいう公共施設とは、例えばショッピングモールやレストラン、ホテルや劇場、野球場といった広範囲にわたる施設において、その施設の利用やサービスに完全かつ平等な享受が保障されなければならないということが規定されているわけです。
その上で、このようなADA各編に共通する規範構造を見ていきますと「(2)『障害』の定義」については、前々回の長谷川先生の報告と若干重複するところではありますが、まずADAは障害のある個人として、<1>にあるように、その人の主要な生活行動を実質的に制約するような心身の機能障害、つまりはインペアメントを有する個人が障害のある個人であると定義した上で、副次的にそのような機能障害の記録のある個人及びそのような機能障害を有するとみなされている個人を障害のある個人として定義しているわけです。
障害の定義に関して、制定当時の解説では、例えば軽いあるいは短期間のけがや病気は含まれないと言っているぐらいで、それ以外の広い範囲にわたる身体障害や精神障害、あるいは知的障害、HIV感染やエイズ、発達障害や学習障害も含めて、広く含まれるとしていた。少なくとも制定当初は比較的ラフに考えられていたということが伺えます。
その上でむしろ重要だと考えられたのが、2のADA各編に共通する規範の構造です。
まず前提として(1)にあるように、障害のある個人であっても、合理的な配慮があれば、その社会活動の本質的機能を遂行し得る。あるいは参加することが可能な場合には、その人は資格を有する個人であるとみなされるということを前提とした上で、資料の4ページにいきます。
そこにあるように、3つの差別禁止規定を置いているわけです。つまり障害のみを理由にした不利益な取扱い。例えば企業における採用の拒否であるとか、あるいはサービスの提供の拒否は差別であるとみなされること。
2つ目に、障害のある個人を排除する傾向にあるような基準や運用方針を採用することも差別であるとみなされること。
3つ目に、障害のある個人の完全で平等な参加を保障するための合理的な配慮、あるいは第2編及び第3編では合理的変更と言われていますが、合理的変更を提供しないことは差別であるとみなされることなどを規定しています。
その一方で(3)にあるように、使用者や公的機関あるいは公共施設の所有者の側に認められる抗弁事由として、1つにはその障害のある個人の参加が、他者の生命・安全に対して直接の危険を及ぼす場合には、別異取扱いが正当化されるのだということ。
2つ目に、合理的配慮との提供義務との関係で、社会活動の提供主体に対して、不当な負担を負わせるものである場合には、合理的配慮の提供義務は免れる。あるいは社会活動の性質の本質的な変更になる場合には、合理的配慮あるいは合理的変更の提供義務は免れると規定されているわけです。
そうなると、全体を通じてADAの争点になるのは、その人が資格のある個人であると言えるかどうかと、その人が障害を理由とした差別を受けたと言えるかどうかと、その人の要求していた配慮が合理的配慮と言えるかどうかという辺りが、現実の訴訟での争点になるわけです。ただ、それらの争点は、現実の訴訟ではしばしば一体の問題として判断されるという例があります。
例えばADA第2編との関係で、大学で学習障害のある学生さんが成績不良を理由にして退学を余儀なくされた場合、それが障害を理由した差別であると言えるかどうかというのは、その人に就学を継続させるために必要となる配慮が合理的配慮と言えるものか。その人が要求するようなカリキュラムの変更であるとか、課程の免除というものが、その教育機関における本質的な内容を変化させてしまうような配慮かどうかというのが争われるということになります。そのような判断というのは、その人がその学校において、学習課程を履修することについて、本質的な機能を営むことができる資格のある個人と言えるかどうかという判断と実は裏表になっていますから、その意味で、上に挙げた要素は実際の訴訟では一体として判断されているケースがかなり多いということが言えるわけです。
ただし、ここまで見たように、いずれにしてもADAは修正14条の平等保護条項と公民権法における人種差別禁止規定を継受して制定されたものだという要素が強いわけですから、基本的には平等保護法だという要素が強いわけです。そのため、ADAは基本的には資格を有する個人であるということを前提にして差別を禁止するという構造を持つものであって、直接にはその人たちに対して社会的なサービスを提供するものであるとか、優先的な取扱いを認めてあげるものではありません。恐らくそのことには一定の意義があり、また一定の限界があるんだと思われます。
その中の意義は、特に後から触れますADA第2編訴訟やADA第3編訴訟の成果となって表れているということが言えるんでしょうが、その一方、ADAの限界としては、特にADA第1編訴訟との関係、つまり雇用差別との関係では、あくまでも本質的機能を遂行し得る、できる人を差別するなという規定ですから、ある意味で能力主義や競争主義というもの自体を変更するものではなく、特に雇用の局面でADAの保護の対象はある程度限定的なにものに限られることになろうかと思うわけです。その意味で、アメリカにおいても、ADAという反差別法的な手段には限界があり、むしろ障害者法の将来は社会保障法にかかっているのだということを指摘する見解もあるということは、指摘しておいた方がよいのではないかと思います。
このような意義と限界を双方とも意識しながら、資料の5ページ目にいきます。実際のADA訴訟の展開を、特に障害の定義との関係を中心にして見ていきたいと思います。ただ、言えるのは、ADA訴訟においては、雇用差別を禁止するADA第1編に関する訴訟とその他の領域におけるADA第2編あるいは第3編訴訟では、裁判所の姿勢にかなりの違いがあるということが言えます。
まず1番目ですが、ADA第1編訴訟、つまり雇用差別をめぐる訴訟において、裁判所は原告、つまり障害のある労働者に対して極めて厳しい判断をする傾向にあるということが言われるわけです。その中でも最大の問題になっているのが障害の定義をめぐる問題でして、この点は長谷川報告の中でもあったとおり、法律制定時には恐らく予想されていないほど、最高裁は障害の定義を厳格に解釈することによって、ある意味でADAの市民権法的な意義すら奪っているということが言えるわけです。
それを簡単に具体的に見ていきますと、<1>にありますが、1999年のサットン判決という判決は、日本でも多く紹介された判決ですから、御存じの方も多いかもしれません。事案としては、原告らが被告の航空会社のパイロットの職に応募したけれども、その会社では裸眼視力0.2以上の視力がない限り、パイロットとしての採用を認めないという基準を採用していたために、採用を拒否されたという事例だったわけです。
本件では、原告らが障害のある個人であるか否かというのが争われたわけですが、ここで最高裁は、原告に主要な生活活動を実質的に制約するような心身の機能障害、つまりインペアメントが存するか否かは、その機能障害を緩和する手段があるかどうかを考慮して判断されるのだという判断をして、ここでの原告たちは、確かに視力が弱いけれども、眼鏡やコンタクトレンズによって視力の低下が緩和され、通常の社会生活を送ることができるので、障害のある個人には該当しないのだという判断をし、原告の訴えを退けたわけです。
ちなみに、同じ日の判決でマーフィー判決というものがあって、ここでは高血圧を理由にして解雇された労働者の訴えに関して、確かにこの人は高血圧を患っているが、薬を飲むことによって、つまり投薬によって症状を緩和できるので、この人は障害のある個人には該当しないのだと判断して、これも訴えを退けているわけです。
このような判断は、ある意味でその人の症状が緩和されているから、採用拒否をしても違法ではないという判断をするものですから、一見してかなり不自然な結論になる判決だということが言えるわけです。つまりここでの原告は、現実に視力や高血圧を理由に不利益を受けている以上、この人たちがその職務の本質的機能を遂行し得るかどうかということが問題になるのであればともかく、その人の負っているインペアメントが軽ければ保護されない。つまりその人たちのインペアメントが軽ければ、逆にその人たちを採用拒否あるいは解雇しても違法にはならないんだという形になるわけでして、これはADAの先ほど見た規範構造からいっても明らかにおかしいという批判がなされるようになったわけです。
とはいえ、最高裁は、このような障害の定義を限定するような判断を更に続け、例えば2002年のトヨタモーター判決は、前々回、竹下先生から紹介があった判決ですが、原告が手根管症候群という手足の病気に罹患したことに起因する問題のために、被告の自動車会社を解雇されたという事案について、最高裁は特定の仕事に関連する業務が不可能になっているだけでは、主要な生活行動に対する制約があるとは言えないとして、本件との関係でいえば、自動車工場の組み立て工場で働けないということが主要な生活行動に対する制約ではないのだとして、原告の訴えを退けるわけです。
更には、原告が自分自身の衛生を管理することができ、個人的あるいは家事的な仕事を行うことができる。例えば本件でいえば、原告は歯磨きもできるし、洗顔もできるということを障害の存否に関する判断で考慮すべきだったとして、そこまで最高裁が言っているわけではありませんが、基本的には歯磨きや洗顔もできるんだったら障害のある個人とは言えないんだと言わんばかりの判断をして、本件の原告が障害のある個人であると判断した原審の判断を破棄する判断をしたわけです。
このような最高裁の立場によれば、原告は一方では自分自身が資格を有する個人である、つまり仕事ができるんだということを証明しながら、他方では障害がある個人である。つまりトヨタモーター判決の基準に従えば、家事労働ができない程度の障害があるということを証明しなければいけないという意味で、まさに二律背反的な立場に立たされるという、ある意味で曲芸のような立証が求められる。この点で連邦最高裁はそもそもADAの本来の市民権法的な性格すらきちんと理解していないのではないかという批判が挙がるわけです。
そこで、資料の6ページです。申し訳ありませんが(2)を割愛いたします。
資料の6ページの下(3)にいきますが、2008年の法改正が実現するわけです。つまり最高裁の判例展開が明らかにADAの趣旨に反することから、連邦議会はADA改正法の2条において、最高裁がサットン判決及び関連判決で判断した内容は、ADAによる保障が意図された広範囲な人々の射程を狭めるものであって、連邦議会が保護することを意図した多くの人々の保護を剥奪するものであるとして、サットン判決及びトヨタモーター判決の内容を詳細に否定するような規定を置いて、障害の定義の再拡張を図ったわけです。
2008年法改正は、ある意味でADA第1編の意義を制定当初の状態に戻した。つまりADA第1編訴訟を振り出しに戻した改正だということが言えるんでしょう。ただ、これは前々回も議論があったように、この改正によってADA第1編訴訟に関する全体的な裁判所の姿勢が好転するかどうかは、いまだに不透明だということが言えます。
また、この改正によって、ADA第1編の市民権法的な性格、つまり障害のある人ができるんだということを前提にして差別を禁止するという性格自体は変わらないわけですから、ADAの限界が克服されるものでは恐らくないんだろうと考えられるわけです。
資料の7ページにいきますが、その一方で、ADA第1編訴訟とは対照的に、ADA第2編あるいは第3編訴訟においては、原告に対してかなり好意的な裁判例が散見され、現実に原告勝訴率が比較的高い判断がなされていると指摘されています。
更に不思議なことなんですが、ADA第2編及び第3編も障害の定義に関してはADA第1編と同じ定義なんですが、それでも訴訟の場において、障害の定義が問題になる事例が少ないということが指摘されていますし、実際に探していてもほとんど出てこないという状況です。
その中でも「(1)ADA第2編訴訟の展開」から先に見ていきますと、ADA第2編というのは、先ほど申しましたように、障害のある人々が州や自治体の提供するサービス・プログラム・活動への参加を否定されず、そこに完全かつ平等な参加が保障されることを規定した条文であります。ADA第2編は、ADA以前から存在するリハビリテーション法の504条を踏襲したものであり、更に人種差別禁止を規定した公民権法の第6編の手続に準拠しているという訴訟類型ですので、担当している行政機関はEEOCではなく司法省になり、ADA第2編訴訟に関しては公民権法第6編が準用されている結果、行政救済を経ることなく、いきなり訴訟を提起することも認められていることになります。そして、その訴訟においては、金銭での賠償を請求することもできるし、インジャンクション、例えば一定の義務づけ命令や差し止め命令も要求することができるとされているわけです。
その中でも特に<1>にある道路や建物などの構造上のバリアの問題については、ADAはかなり詳細な規定を置いており、例えば新規に建設される施設や改造される施設については障害のある人も容易にアクセス可能で、利用可能であるように設計され、建設されなければならないと規定され、ADAAGという厳格なアクセス可能化ガイドラインが適用されて、施設のガイドライン適合性が要求されることになります。
ADA第2編訴訟の中でも極めて象徴的な判例として、1993年のいわゆるキニー判決という判決があります。事案としては極めて技術的な事案で、ここではフィラデルフィア市が市の街路を再舗装する行為が改造に該当するかどうかというのが争われた訴訟なんですが、この中で第3連邦控訴裁は改造とは施設の有用性に影響をもたらすような変化であって、何らかの変更によって街路が現在よりも利用しやすいものになるような場合には、そのような有用性の向上という利益の享受に関しては、障害のある人に対しても完全にアクセス可能なものとして保障されなければならないんだと述べるわけです。
この中で第3連邦控訴裁はADAの趣旨をかなり高らかにうたい上げていまして、要は連邦議会の意図として、一般の人にとって利用可能性が向上されているのに、その向上された部分を障害のある人が使えないということは、それ自体が差別なんだ。そのような判断が連邦議会の意図なんだと判断して、ここでも再舗装の改造であるから、その部分については容易にアクセス可能で、利用可能にしなければならないんだという判断がなされているわけです。
引き続いて、例えば刑務所や刑事手続の問題についても、時間の関係でかいつまんで説明しますが、1998年のペンシルバニア州対イェスキー判決という判決の中で、連邦最高裁はADA第2編は条文上明らかに州の刑務所にも適用されるんだという判断をし、その後の多くの判例の中で、刑務所の中での構造上のバリアやコミュニケーション上のバリアがADA第2編に違反するのではないかという訴訟が起こされるようになっています。
それが更に進んで、一般の刑事手続の中でも、例えば1998年のゴーマン対バーチ判決においては、逮捕して警察署に移送するまでの手続の間にもADA第2編が適用されるので、警察署に移送する手続あるいは警察署の中での取り調べの過程においても、障害のある人に配慮したような構造上のバリアの除去、コミュニケーション上のバリアの除去を講じなければならないんだという判断がなされ、このような判断は福祉サービスの領域であるとか、教育機関における領域などでもなされているということが言えるわけです。
最後に資料の8ページにいきまして、ADA第3編訴訟の展開について見ていくことにいたします。
ADA第3編訴訟は、先ほど申しましたように、民間事業者が運用する公共施設、例えばレストランやホテル、ショッピングモールにおける商品やサービス、施設の利用に関して障害のある人も完全かつ平等な享受が保障されなければならないという規定であります。
ADA第3編訴訟に関しても、救済手続は公民権法の2編を準用していますので、所管となる行政機関は司法省になり、ここでも行政救済を経ずに直接訴訟提起をすることもできるようになっています。
ただ、ADA第3編訴訟に関して問題になるのは、ここでは金銭賠償の請求だけはできないとされており、恐らくこれは民間事業者の中でも中小企業を含めたすべての事業者が適用対象になったこととの引き換えに、金銭賠償請求はだめなんだという妥協が成立し、とられた措置だと解説されています。
このように金銭賠償請求ができないとされている結果、ADA第3編訴訟では、訴訟の数自体が多くなく、事業者には法令順守のためのインセンティブがなかなか働きにくいという限界があることが指摘されているとあります。
それでも<1>のあるように、ADA第3編も特に建物の構造バリアなどの問題にはかなり厳格な規定を置いており、ここでも新規建設施設及び改造施設に関しては、容易にアクセス可能で利用可能な状態に建設し、設計しなければならないということが規定され、例えば1999年のリーバー対メーシーウェスト判決の中では、これはショッピングモールだったんですが、ショッピングモールの中での玄関や通路あるいはレジスターや試着室、トイレなどのさまざまな箇所がADAアクセス可能化ガイドラインに適合しないという訴えがなされました。この中で、連邦地裁はさまざまな箇所についてかなり詳細に見て、このショッピングモールの施設がADAAGに適合していないと判断をして、ショッピングモールの側に改善命令を出しているわけです。
また、2つ目ですが、商品・サービスの提供に当たって、障害のある人にも完全かつ平等な享受を保障しなければならないとされていることから、必要な場合には補助的な援助が必要なのだとされており、例えば2010年、比較的新しい判決ですが、次のアリゾナ対ホーキンズアミューズメント判決の中では、映画館の中で聴覚障害のある人に対する字幕サービス、あるいは視覚障害のある人のための音声説明サービスが提供されていないということの合法性が争われました。これに対して、第9連邦控訴裁は映画館における字幕サービスや音声説明サービスは、ADA第3編が要求する補助的な援助及びサービスに該当するので、この枠組みに従えば、それが不当な負担を及ぼすものであることが証明されない限り、字幕サービスや音声説明サービスを提供しないのは違法だという判断がなされたわけです。
最後に近年注目を集めている領域として、情報サービスとADA第3編、例えばテレビあるいはインターネットにおけるサービスのアクセス可能化がADA第3編から要求できるかどうかというのが論点になっています。
この論点に関しては、そもそもADA第3編の適用対象である公共施設というものが物理的な構造物に限定されるのかどうかというのが論点としてあるわけですが、一般的にはそれを否定する傾向があり、例えばトーレス対AT&Tブロードバンド判決においては、ケーブルテレビを運営する会社が視覚障害のある人にもアクセス可能なチャンネルを提供しないことがADA第3編に反するのだという主張に対して、連邦地裁はそもそもデジタルケーブルシステムとテレビ放送というのは、それ自体が公共施設の場所ではないとして訴えを退けているわけです。
ところが、このような情報サービスも特定の場所と結び付いている場合にはADA第3編の適用対象になる判決として、例えばNFB対ターゲット判決という判決があり、ここでは小売店の大手のチェーンであったターゲット社が開設していたインターネットのホームページであるターゲット・ドットコムというホームページに視覚障害の人がアクセスできるスクリーンリーダーが搭載されていないことがADA第3編に反するのではないかということが主張されたんですが、これに対して連邦地裁は、原告がターゲット・ドットコムというホームページにアクセスできないことによって、ターゲット・ドットコムによって紹介されている店舗であるターゲットストアで提供されている商品やサービスに対する完全な享受が妨げられているんだと主張する限りにおいて、インターネットのホームページにアクセスできないこともADA第3編違反になり得ると判断をするわけです。
これらのように、ADA第2編に関しても、ADA第3編に関しても、さまざまな領域において、まさにさまざまな問題点や論点が出されているわけですが、その中でも一定程度市民権法的な成果が上がっているということが言えるわけです。
その意味で、全体的にADAは、第1編訴訟と第2編、第3編訴訟でかなり異なる様相を示しておきながら、部分的には成功している領域もあるということを指摘して、随分と雑駁な報告になってしまいましたが、以上で私からの報告を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
○棟居部会長 植木さん、どうもありがとうございました。
それでは、植木さんの報告に関する討議に移ります。休憩を挟まずに討議に移らせていただきます。どなたからでもどうぞ。
太田さん、お願いします。
○太田委員 JDFの太田修平でございます。ありがとうございます。
資格のある障害者について、有資格障害者についてお尋ねをしたいと思うんですが、もしかしたら、既にお話をいただいているのかもしれませんが、有資格という概念は第1編、つまり雇用に関してだけなのか、全体を通して言われていることなのか。1つの危惧を持つのは、重度の障害者がそこに存在すると、その人は地域社会で生きたいと願っているとします。でも、地域で生きられる資格があるかどうかということは有資格に入ってしまうのかどうか。直接的な質問かもしれませんが、この人は施設、この人は地域という振り分けをされるのではないかという疑念を持つもので、まず雇用については一定の概念として納得できるんですが、全体を通してこういう概念があるとしたら、どういうふうになってしまうのかということに疑問を持っていますので、質問させていただきました。
○棟居部会長 太田さん、ありがとうございました。
植木さん、お願いします。
○植木准教授 植木です。
お答えいたします。質問ありがとうございます。実は今の質問は、始まる前に東先生とやりとりをした話の中で出てきたんですが、おっしゃるように、資格を有する個人のみ保護するという規定は、第1編には存在し、第2編との関係でも存在しますが、先ほど指摘を受けて初めてわかったんですが、第3編との関係では資格を有する個人だけを保護するという条文の規定がどこにもないということになります。
とはいえ、なぜそれに気がつかなかったかというと、途中で申し上げましたように、具体的には資料の4ページ目の辺りで申し上げたように、その人が有資格の個人であるかどうかという話と、その人がサービスの提供から排除された場合、それが障害を理由とした差別であったと言えるかどうか。あるいはその人を参加させるために必要な合理的な配慮が合理的な配慮と言えるかどうかというのが、実は一体的に判断されていることがあるので、その意味で第2編でも第3編でも有資格の個人であるかどうかは問題にされ得ることがあります。
恐らく御質問の趣旨はこういうことだと思うんですが、第2編や第3編との関係で参加する側に資格が必要だということが果たしてあるのかというと、実際にそういう局面は少ないです。ですから、第2編訴訟との関係で参加する側に資格が必要だとされるケースというのは、さほど多くありません。ただ、先ほど御説明した例ですが、教育サービスを受けるという局面でもADA第2編訴訟の趣旨が適用されるので、高等教育を受けるために足が不自由であったり、あるいは手や目が不自由であったりするのは本質的資格とは明らかに言えないけれども、一定程度の学習能力があるということが本質的資格として要求されるケースが恐らくあるんだろうと思います。現実問題として、第2編、第3編で資格が要求されるケースはほとんどないであろうし、訴訟でもそれが問題になったケースは少ないというお答えで差し当たりいいのではないかと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
太田さんは、今のことに追加で何か御質問ありますか。
○太田委員 先生がお話されたADAの能力主義的なところに限界があって、発展させて、担う部分を構築しないと解決できない部分があるというくだりをおっしゃった気がしたんですが、それは先生の御意見なのか、アメリカのどなたかがおっしゃっていることなのか。それは今の私の質問と先生のお答えと何か関連性を持つものなのか、再度お伺いしたいと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
植木さん、お願いします。
○植木准教授 質問に関する理解が間違っていたら済みません。ADAはそもそも能力主義的な前提に立っているので、それだけで主要な問題が解決されないだろうというのは、私もそう思いますし、アメリカでもそういう議論があります。そういうお答えでいいんですか。
○棟居部会長 つまり市民法モデルだけだと限界があって、福祉とか社会法が必要だとおっしゃいましたね。
○植木准教授 はい。
○棟居部会長 今、太田さんが御指摘になったのは、そこのことですか。
○太田委員 それはどういうことをおっしゃりたいのかということと、前の質問と関係があるのか、ないのかということです。
○棟居部会長 植木さん、そこはよろしいですか。質問が大き過ぎて答えが十分に出てこない可能性もあります。ほかのいろんな質疑応答の中で、太田さんの先ほどの質問に近くなったら、もう一回質問を入れていただくという格好でもよろしいですか。
○太田委員 結構です。
○棟居部会長 どうもありがとうございます。
○植木准教授 申し訳ないです。
○棟居部会長 松井委員、お願いします。
○松井委員 松井です。ありがとうございます。
先ほどの御説明いただいたことで、第1編、第2編、第3編の裁判所の対応、あるいは行政の対応も違うということだと思いますけれども、特に第1編、雇用について必ずしもADAが有効に機能していないということで、障害の定義について連邦議会の方で改正をしたわけです。その結果、どれぐらい変化が生じたのかがわかる、何かデータはあるんでしょうか。
○棟居部会長 植木さん、お願いします。
○植木准教授 残念ながら、ありません。済みません。2008年法改正で、恐らく2009年に発効だと思いますので、昨年いっぱいの判例でも改正後の判例というものは探し切れませんでした。現状ではわからないがお答えです。申し訳ありません。
○棟居部会長 ありがとうございました。
ほかにいかがでしょうか。山崎委員、お願いします。
○山崎委員 山崎です。
レジュメの3ページに関わることで、全体構造の1編、2編、3編、4編のことなんですが、教育という編がないものですから、先ほどの御説明ですと、公教育は第2編でカバーするというお話だったと思いますが、私立の学校の場合には第3編でカバーするという理解でよろしいのかというのが1点目です。
2点目は似ているんですが、逆に例えばディズニーランドのような民間の公共施設については第3編でカバーされるということですので、都立日比谷公園など公的な機関が運営している公共施設における問題については、第2編がカバーするのかということを教えていただきたいと思います。
以上です。
○植木准教授 植木です。お答えいたします。
教育に関しては、基本的に、今、山崎先生がおっしゃったとおりです。ただ、教育、特に初等・中等教育に関しては特殊な問題がありますので、障害者教育法、IDEAという法律でカバーされていて、そこではむしろ個別かつ特殊な教育ニーズに応えなければならないという趣旨で法律ができています。それがカバーされない高等教育の領域においては、公立の大学についてはADA第2編、私立の高等教育機関についてはADA第3編が適用されるという整理でいいのではないかと思います。
また、アミューズメント施設ですが、恐らくは都立日比谷公園が第2編で、ディズニーランドが第3編という機械的な整理になるんだと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
浅倉委員、お願いします。
○浅倉委員 浅倉です。
第1編に雇用とありますが、雇用に関するものであっても、その中には昇進や採用という何らかの選別する基準として能力評価をせざるを得ない分野と、もう一つとして、例えば福利厚生施設の利用というような、従業員であれば誰でもそれを利用できるという問題があると思います。そのような福利厚生施設の利用というものも雇用の分野に入っているのだとすれば、その場合には、資格の有無はあまり関係がないということになると思うのですが、いかがでしょうか。
○棟居部会長 植木さん、お願いします。
○植木准教授 質問ありがとうございます。植木です。
まさに先生のおっしゃるとおりですが、福利厚生施設の利用に関しても、先ほど第2編、第3編との関係で申し上げたとおり、資格の有無が問題になるということはほぼあり得ないのではないかと思います。ただ、ADA第1編訴訟の具体的な例を見てみると、ほとんど採用拒否か解雇、どちらかというと殺伐とした事例ばかりで、福利厚生施設の利用が拒否されたというケースは訴訟では余り見たことがないので、それが問題になったときにどうなのかということは、申し訳ありませんが、今、申し上げることができません。実際にこのような福利厚生施設の利用が拒否されて、申し立てをされたというケースは数的には少ないのではないかと認識しております。
○棟居部会長 ありがとうございました。
なお、先ほど竹下副部会長の挙手が一番早かったという証言がありましたので、済みませんが、西村委員の前に竹下副部会長に振らせていただきます。
○竹下副部会長 ありがとうございます。竹下です。
結論だけを先にいうと、DDAにおける行動プラクティスのような1つの有権解釈に相当するものがアメリカの場合はないのか。ないとすればなぜないのかというのが質問の趣旨です。
ADAの2008年法の改正に私は非常に強い関心があったんですが、アメリカにおいてはトヨタモータース事件もそうなんですけれども、障害の定義に対する解釈基準が明確でないことが障害者の敗訴の原因となったのではないかという思いがあるからなんです。
例えばリハビリテーション法の504あるいはそれ以外の法律、公民権法であったり、障害児教育法であったり、住宅保障法であったり、すべてにおいてそうなんですけれども、適用基準を明確にしないと非常にまずいのではないか。とりわけ日本で差別禁止法の必要性を議論するときに、日本で障害者差別禁止法を制定して、法規範を安定化させるためには、大いにその部分を学びたいと思うんですが、その点はいかがでしょうか。
○植木准教授 ありがとうございます。植木です。
今の御質問ですが、実際に日本では余りありませんが、立法権機関は勿論連邦議会にあり、解釈権限は裁判所にあるということで、実際にアメリカはいろんな領域で議会のつくった法律を裁判所が無理な解釈をして、その解釈を覆すために議会が法律を制定し直す、あるいは改正するというイタチごっこをやっている事例がほかの領域でもあると思います。
ADAに関してはまさにそのとおりで、1990年につくったADAを最高裁が明らかに連邦議会の意図とは違うように解釈してきたので、その意図を明確にするために2008年法改正があった。2008年法改正の中では、具体的意義は、今、直接全部紹介できませんが、サットン判決とトヨタモーター判決の判旨を覆すための詳細な規定が置かれている形になりますので、実際にはイタチごっこの中で、連邦議会の方が今回最高裁の解釈をつぶすために新しく法律を詳細にしたというのが2008年法改正の内容だったという感じになります。
○棟居部会長 ありがとうございました。
竹下副部会長、よろしいですか。
○竹下副部会長 はい。
○棟居部会長 続きまして、西村委員、お願いします。
○西村委員 西村です。
先ほどの御説明で第2編と第3編については、裁判の判決の中でガイドラインがあるということで、明確に法の趣旨が反映されたということでしたが、第1編がそれに反して全く違う傾向にあるということでした。第1編では、例えば有資格の判断基準としてのガイドラインはあるのか。無ければ、どういう視点から判断しているのか。
同じようことですが、不当な負担、権利条約でいう過度な負担という記載がありますが、この負担をどういう視点または基準で判断するのか。
それから、第1編の判例で示されている、そもそも障害に該当ないという判断基準がどうなっているのか。事例として、日本の場合は、視力障害があっても、コンタクトレンズや眼鏡使用により視力が回復すれば障害者にはならないという基準がありますが、アメリカの裁判所が、障害者ではないと判断した根拠とを教えていただきたいと思います。
よろしくお願いします。
○棟居部会長 植木さん、どうぞ。
○植木准教授 まず全体的にいうと、連邦議会がつくった法律に基づいて、EEOCであったり、司法省が規則をつくったり、ガイドラインをつくったりすることになります。その中でも御指摘いただいた第2編、第3編で出てきたADAアクセス可能化ガイドラインというガイドラインは、施設の構造という極めて技術的な領域におけるガイドラインなので、恐らく裁判所もその有効性についてはほぼ問題視することなくそのまま踏襲して、適用しているということになるんだと思います。ただ、もっと法律の解釈に関わる部分で、日本で政令ができたり省令ができたりするのと同じように、EEOCが規則をつくったり、司法省が規則をつくったりしている部分については、裁判所はその規則に準拠して判断をすることもあれば、むしろ行政機関の法解釈の方が間違っているという形でそれを否定することもあるというのが一般論です。
その中で、具体的に御指摘いただいた点で、障害という問題について、つまりADAの保護の対象となる障害のある個人とは何かという問題については、前々回の長谷川報告でもありましたが、当初はかなりラフな規定しか置かれていなかったということがあって、最高裁がそれをかなり限定的に解釈してきたというのを、2008年法改正で限定的な解釈を許さないような詳細な規定を置いたという展開になるんだと思います。
有資格の個人とは何かということに関しては、本質的機能とは労働者が遂行すべき本質的な業務であると定義されている程度で、それ以上に細かい定義が恐らくは法律上もなされていませんので、この点についてはかなり不明確な状況にならざるを得ないということになります。
不当な負担という文言ですが、不当な負担という文言に関しては、法律上重大な費用あるいは困難を要するような行為であるとされ、それは合理的配慮の性質や事業者の規模などを考慮した上で個別的に判断するというのが法律の規定ですので、不当な負担と言えるかどうかに関しても、法律はあくまでもどんぶり勘定的な考慮要素を挙げるだけで、具体的には個別的な裁判事例の中で判断せよというのが恐らくADAの規定になっています。
トータルで御疑問でお答えできたかどうかわかりませんが、ラフに規定されている部分と詳細に規定されている部分がADAの中で混在していて、技術的な部分に関しては、先ほど御紹介したADAアクセス可能化ガイドラインでかなり詳細に決まっているので、それがリジットに適用されているが、それ以外の部分についてはかなりラフに規定されているので、裁判所が柔軟に解釈することが、むしろ期待されているということになるんだと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
山本委員、今の関連でしょうか。
先ほどの太田委員の御質問に多少近づいたような気もするんですけれども、場合によっては、今のお答えに西村委員から何か追加の御質問をしていただきたいと思います。その後、太田委員が先ほどの補強的な質問をされるのであればおっしゃっていただく。こういう順番でよろしいですか。ということで、山本委員、ちょっとお待ちください。
どうぞ。
○西村委員 今の御説明について、具体的な裁判の争点として、そもそも資格の有無や不当な負担の基準自体が明確に裁判で、個別の判断があったのかということ。
それから、障害の範囲をアメリカの法律では、もともと広く定義しているのにもかかわらず、裁判所がそれを限定に判断する根拠が、どこにあるのか。そもそも限定すること自体が違法でないかと、私には、思えるのですが、その裁判所の判断自体を争点とした裁判なり不服申し立てなどはなかったのかどうか。あったとしたら、どういう結論になったのかを教えて頂きたいと思います。
○棟居部会長 植木さん、お願いします。
○植木准教授 まず有資格かどうかについて具体的な裁判で争われた事例ですが、よくある事例としては、例えば通常に勤務していたが、その後、けがや病気などを理由にして従前の職務を継続できなくなったときに、配置転換や長期の休暇を合理的な配慮として要求されるというケースがあったときに、配置転換や長期の休暇が合理的な配慮として是認できるかどうかという判断と、その人がそもそもその会社の中で本質機能を遂行できるような能力が残っているんですかということが、しばしば裏表の関係で議論されるという判例が多く出ています。
何でそういうことになっているのかというのは、恐らく採用拒否が訴訟になるケースよりも、解雇が訴訟になるケースの方が多いからだと思います。通常どおり仕事をしているが、途中のけがや病気で離職せざるを得なかった。そこでそれに対応した配慮が合理的かという判断と、その人がそもそも本質的な機能を遂行し得るのかという判断が裁判の中で一体的に判断されるという感じだと思います。
そのようなケースでは、裁判例としては、原告たる障害のある個人にとってはかなり厳しい判断が続いている。つまり従前の職務を遂行できなくなったら、その時点で有資格ではないという判断がされるケースの方が裁判例では目につきます。それが差し当たり有資格の個人に関する裁判例があるかどうかということに対する一応のお答えになります。
障害の定義をなぜ裁判所が勝手に限定できるのかということなんですが、これはまさに資料の3ページに出てくる個人の主要な活動を実質的に制約する機能障害という言葉の解釈の問題で、例えばサットン判決の中で、最高裁がどんな理屈を言っているかというと、ここで問題になっているいわゆる機能障害は、主要な生活行動を実質的に制約するものでなければならない。つまり現在形の動詞が使われているということまで言っていて、現在形の動詞で実質的に制約するものでなければならないのであって、実質的に制約し得るかもしれないような損傷はこの文言に含まれない。だから、今、目がよく見えない人でも、コンタクトレンズをかけることによって目が見えるようになるのであれば、それは主要な生活行動を実質的に制約していないという解釈がなされていることになります。
恐らく法律の条文をつくるところでは、実質的に制約するという言葉に強い意味をそんなに持たせていなかったのではないかと思うんですが、最高裁はその言葉をかなり過度に重視して障害の定義を限定する判断をしたということだと思います。
あるいは個人の主要な生活行動という言葉も、例えば連邦最高裁のトヨタモーター判決によれば、自動車の生産ラインで仕事をするのは主要な生活行動ではないと解釈したわけですから、これも恐らくは連邦議会が当初はそんなに重要視していなかった文言を過度に重視して、その範囲を狭めているんだということになろうかと思います。
納得いただけないのはもっともですが、それは連邦最高裁の判断に言っていただきたいということです。
○棟居部会長 ありがとうございました。
私の感想も差し挟ませていただくと、そもそも先ほど植木さんの一番最初の方の原理的なお話として、切り離され孤立したマイノリティとございました。だからこそ、疑わしい差別という類型が成り立ってきた。それと比較をすると、障害がそちらに入るのかというのは、勿論それ自体が大きな論点になり得るわけですが、結局、今回御紹介になったADAは中ぐらいの障害という言い方がいいのかどうかわかりませんけれども、先ほど太田委員が最初に御質問になった重度の障害者の場合はどうなんだというのは、そもそも合理的配慮があれば本質的機能を遂行できるという、いわゆる資格を有する個人ということで、コンタクトレンズで補正できるような軽い人は除外しているという意味では、軽い人は除くんですけれども、重度の人も実は入っていなくて、中ぐらいの障害者だけを視野に入れている。そこにADA自体の言わば立法のある種のあいまいさというか、多少後ろめたさというか、そういうものがあると思います。
そうすると、最高裁は立法のスタンスも少し腰が弱いのではないかということで、それを言わば絞り込んでくるとか、ずらしてくる。ある意味でそういうことをされても、立法側は正面から抵抗できない。理念は弱いですから、あれこれ細かく書き込んでいくことによって、ラインを戻そうとする、どっちもどっちという感じがします。これは人様のところだから、そういう茶化した言い方ができるのかもしれないけれども、少しそういう感想を持ちました。
先ほど予告しましたように、もう一回、太田委員に御登場いただきたいということです。
○太田委員 ありがとうございます。太田です。
今、座長がおっしゃられたように、日本で立法する場合、有資格という概念を持ち込むか、持ち込まないかは別において、やはり障害の重い人が決して排除されてはならないように立法がなされないといけないと思います。
それで、先生のお話を伺っていて疑問に思っていたことがあるんですが、今、先生はADAでは有資格や定義についてラフに規定していて、技術的な部分については細かく規定していないとおっしゃったように思います。実は雇用という部分では、ラフな部分が重要になってくるわけで、裁判所の判断に委ねられているときに、アメリカという国はすごく広い国であることは言うまでもなく、都市部、農村部あるいは政治的に保守的な地域、リベラルな地域によって、裁判所での解釈がラフな部分をめぐって180度違うのではないかという推測をしてしまったんですが、このような疑問に対してお答えをいただけますでしょうか。
○棟居部会長 ありがとうございました。
植木さん、お願いします。
○植木准教授 今、おっしゃった内容が本当にそのとおりだと思います。つまり技術的な部分は細かく規定していて、リジットな判断がなされるが、特に雇用の領域における幾つかの概念、有資格の個人とは何かとか、合理的な配慮とは何かというところに関しては、かなりラフな規定を置かれていて、裁判所の判断に任せられるところが多いということです。まさにそのとおりだと思います。
それでよろしいですか。
○太田委員 解釈が180度違う場合というのは、現実にありますか。
○植木准教授 解釈が違う場合というのは、実際問題は連邦裁判所の中であれば基本的に最高裁が解釈を統一することができるので、特に障害の定義などに関しては連邦最高裁の立場が高まってからは、下級裁判所でも一様に障害の定義を厳しく判断するという形で裁判の判例は統一されつつあるということになります。ただ、連邦議会の思惑と裁判所の思惑というか立場が現実にずれたときに、後から法律を改正することによって調整しているという状況になります。
そういうことでお答えになっていますか。
○太田委員 基本的に解釈は統一されているということでよろしいんでしょうか。
○植木准教授 問題にもよりますが、連邦最高裁判所で出された判断がある部分については、解釈がその中で統一されるので、それがいいことか悪いことかはともかく解釈は統一されてしまうことになります。
○棟居部会長 恐らく裁判所は法解釈の権限は立法者にではなくて自分たちにあるんだ、解釈機関は自分らだというのが彼らにとっての武器ですから、解釈の対象になる法律を解釈の幅が少ないようにどんどん絞って、詳しく書いていけば、幾ら手品師のような最高裁も立法者と180度違う解釈はさすがに無理だということで、解釈の余地を狭めてしまうという物理的な解決をとっておるという御紹介だったと思います。よろしいですか。
ちなみに、これは後でまた御紹介しますけれども、今日は後半の部でいろんな議論をいたします。障害の定義についても論点として入ってくるということなので、そこでまたリターンマッチがあり得るということで、一応切らせていただいてよろしいでしょうか。
大変長らくお待たせしました。まだ質問を覚えておられますか。山本委員、お願いします。
○山本委員 どうもありがとうございます。覚えております。
聞きたかった問題はかなりたくさんの方に既に御指摘いただきましたので、1点だけ質問させていただきます。
それは第3編の公共施設の意味についてです。公共施設の意味については、どのような定義がされているのか、あるいは公共施設に当たるかどうかについてどのような基準が提示されているのかをお教えいただければと思います。それは公共、パブリックの意味をどう考えているのかということと、施設の意味がどうかということです。
施設の意味に関しては、8ページの最後のところで情報サービスについて問題点を指摘されていますが、私がどういうことになっているのかと思いましたのは、<2>でもそうでして、映画館という施設としておそらくとらえているのだろうと思うのですけれども、字幕サービスなどになってきますと、施設の問題なのか、役務、サービスの問題なのかがよくわからなくなってくるところがあります。こういった点について、どのように考えられているのかをお教えいただければと思います。
以上です。
○棟居部会長 植木さん、お願いいたします。
○植木准教授 ありがとうございます。
公共施設に関しては、法律上は公共施設において商品・サービス、施設利用などに関する完全で平等な享受を妨げられないという規定になっておりまして、公共施設とは何かという問題なんですが、実はそれを言葉で定義するというよりも、ADAではリストをつくってずらっと書くという方式になっています。宿泊施設、飲食施設、観劇施設、集会施設、商業施設、サービス施設で、その中の類型も、例えばサービス施設であれば病院、銀行、弁護士事務所、保険会社、旅行代理店と網羅的に書く形になっています。
ただ、ここで問題になるのが、まずは施設というのが物理的な意味での場所に限定されるのかどうかという問題で、場所に限定されないという立場に立つとどういうことができるかというと、例えば現実に訴訟で問題になっているのが、健康保険だとかあるいは生命保険などの保険契約の内容が、特定の障害のある人に対して有利、不利な効果を及ぼしている場合、その保険契約というものが公共施設に含まれるかどうかということで、連邦控訴裁の判断は割れています。
また、例えば会員制の組織があります。スポーツ競技団体の中で特定の障害のある人が差別されたという場合、競技団体自体が公共施設と言えるかということについても判例は割れています。司法省の規則だと物理的な構造物でなければならないと読めるんですが、判例は割れている段階です。
その上で山本先生がおっしゃった役務の問題なのか、ハコの問題なのかというと、差し当たりハコの中で提供されている役務はすべて適用対象になるということになっていますから、そうなると、どんな変なことが起こるとかというと、例えば通信販売で電話で物を買う場合にはADA第3編が適用されず、店舗に行って差別されたらADA第3編が適用されるというのはおかしいことになるのではないかという議論があり、だからこそハコに限定するべきではないという議論が成り立ち得るという関係に今のところなっています。
そうなると、最も争点として問題になるのは、テレビ、インターネットのサービスが公共施設におけるサービスと言えるかどうかで、判例は全体的には否定的ではありますが、特定の場所とつながりのあるサイトであれば、保障対象になり得るという奇妙な判例もあります。最後に紹介した判例ですが、こういう立場もあります。
ただ、この立場に立つと更に奇妙なのが、例えば店舗を展開している会社がホームページを開設している場合、そのホームページには第3編が適用されることになりますが、店舗を展開していない、例えばアマゾン・ドット・コムがホームページを持っていても、それは特定の場所とのつながりがないのでADA第3編が適用されないことになるので、それはそれで変だという議論になっているということです。
○棟居部会長 ありがとうございました。
東室長から御質問ということで、お願いします。
○東室長 差別に当たるとしたあとの法的効果のお話を少し聞きたいんですけれども、先ほど第3編では金銭賠償はないというお話をいただきましたが、金銭賠償の中でも填補的な賠償と懲罰的な賠償の2種類があると思うんです。第1編、第2編、第3編、第4編はそれぞれどうなっているのかという知識を教えていただきたいと思います。
金銭賠償のほかにインジャンクションリリーフといいますか、是正命令とか差し止め命令と言われる部分がありますけれども、例えば喫茶店に行こうとしたら段差があった無理ですと断られた場合、金銭賠償でコーヒー1杯飲めなかったことの慰謝料なんて大したことないわけです。そういう場合に訴訟を起こすというのは、やはりそこにスロープを設置するように裁判所が命令を下してくれることが、原告の意に一番かなうことだと思うんですが、それを担保するような是正命令はあるということですけれども、それを日本の法律の中に取り込めるような余地があるのか、ないのか。そこら辺はどう思われるか、少し御意見をいただきたいと思っています。
○棟居部会長 どうぞ。
○植木准教授 まず1つ目の金銭賠償の範囲の問題ですが、途中で申し上げたように、第3編、民間企業者による公共施設に関しては金銭賠償がない。
第2編、公的機関に関しては、懲罰的損害賠償は認められないという判断がなされています。あくまでも填補的な損害賠償だけである。そして、それも意図的な差別がある、差別的意図の立証がある場合しか認められないという制限があって、これでは不十分だという批判があります。
ただ、これは第3編もそうなんですが、連邦の法律とは別に州の差別禁止法の中で損害賠償の規定を別に置いているところがありますので、そういうところだと、ADA第3編訴訟に事実上勝つことによって、州の差別禁止法を根拠にして損害賠償を取るということが州によっては認められているところがあるということなので、さまざまだということになろうかと思います。
インジャンクションの問題ですが、例えばスロープの設置などを命じるようなインジャンクションを出せるという点に関しては、先生が御指摘のとおりです。
さて、日本でどうかと言われる問題ですが、それはかなり難しい問題だと思います。むしろ先生方に伺いたい気がしますが、一般に不法行為訴訟の形で、差し止めであればできます。積極的な給付請求までできるかどうかということについては、今後の検討次第ということにさせていただいてよろしいですか。そういうことになります。
○棟居部会長 ありがとうございました。
今の最後の点は、多分これからの話になると思います。今日の後半はそこまでカバーするかどうかわかりませんけれども、いろんな概念を詰めていくときに、市民権的にとらえていくのか、それとも社会権的な方に入っていくのか。市民権というと、要は自由権的なもので、つまり妨害排除的なということですね。
○東室長 そうではないと思います。
○棟居部会長 そうですか。済みません。
どうぞ。
○東室長 そういう切り分けではなくて、アメリカにはコモン・ローと衡平法といいますか、違う法源があるわけで、要するに社会保障か市民権かという切り分けではなくて、正義の実現手段として実際に現実を変える手段がコモン・ローにはないんだけれども、衡平法の方にはあるわけです。そういうものを日本でも法としてつくっていけるのかという議論ではないかと私は思っています。
○棟居部会長 つまり日本法に接合するときには、実体権の接合の問題もある。救済の接合の問題もあるということですね。
○東室長 そういうことです。
○棟居部会長 わかりました。
予定しておった時間にほぼなりかけております。もうお一方ぐらい御質問はよろしいでしょうか。今日は後半に自由な討論の時間を取っておりますので、そちらに回していただければ、それはそれでありがたいんですが、今から休憩ということでよろしいですか。
池原委員、お願いします。
○池原委員 池原です。
第1編、第2編、第3編で裁判所の判断が大きく違っているというのは、ずっと議論が出ているわけですけれども、第1編のところはEEOCが前座のところでかなりいろいろな機能をはたしているのかどうかということがちょっとよく見えないんですが、先ほどの御説明だと第2編、第3編の方は公民権法でダイレクトに裁判所に行ってもいいということになっているということでしたが、EEOCみたいな調整機関の役割というのが、ADA上有効な意味を持っているのか。むしろかえってブレーキがかかる方向になっているのかということは、実態としてはわかりますか。
○棟居部会長 植木さん、お願いします。
○植木准教授 それは労働法の先生方の方が詳しいとは思うのですが、一般論としての訴訟よりも行政救済の方が簡易迅速な救済が期待できるということ自体は、さほど変わらないと思いますし、実際にEEOCや司法省は権利保障のための強い意欲はそれなりに持っていると考えますので、行政救済を経由せずに訴訟を起こすルートを開いた方がいいといえばそのとおりでしょうが、行政救済の道があった方がいいというのは一般論としては言えるのではないかと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
それでは、時間になりましたので、ここで休憩に入らせていただきます。
以上でアメリカの障害者差別禁止法制についてのヒアリングを終了します。御協力いただいた植木さん、本当にありがとうございました。なお、植木さんには後半の部も御参加いただきます。どうもありがとうございました。
○植木准教授 ありがとうございました。(拍手)
○棟居部会長 それでは、ここで15分間の休憩をとります。再開は15時55分とさせていただきます。

(休憩)

○棟居部会長 それでは、再開いたします。
続きまして、第5回差別禁止部会において論ずべき点についての議論に移ります。
なお、この間の事情を若干御説明させていただきます。
この間、事務局より論点が提示され、これに対して皆さんの御意見をいただいたところでございます。前回のこの場ではそのようなお尋ねの予告をいたしておりませんでした。驚かれた方もおられたかもしれません。大変失礼いたしました。しかしながら、この会議の論点一覧があのような形で提示されたわけであります。この会議は御承知のように非常に多くの論点を議論しなければなりません。それらを整理する意味合いも込めまして、この間、御意見をいただいたという事情でございます。どうぞ御了解いただきたく存じます。また、委員の皆さんには短期間の間に御回答いただきまして、御協力に厚く御礼申し上げます。
なお、この点につきまして、東室長から後にコメントをちょうだいしたいと思います。
まず今日の後半のコーナーにおきましては、今、申し上げました皆様方の御意見を拝聴したうち、第1の論点でございました差別禁止法制の必要性について、また第2の論点でございました差別禁止の分野における障害のとらえ方について、第3の論点でございましたすべての機能障害を対象とするか否かについて、議論を深めてまいりたいと思います。
最初に東室長から本日配付の資料3に基づいて、委員の皆さんからの事前意見の特徴を10分程度で御報告いただきたく存じます。お願いします。
○東室長 担当室の東です。
棟居部会長から御指摘のありました論点表に関しましては、もう少し最初の方できちっと説明申し上げればよかったと思っております。ただ、推進会議もそうですが、本当に議論すべき論点が多うございます。ですので、自然発生的な形で議論を進めていても時間が足りないということで、あらかじめ想定されるような論点を体系的に整理して、本来であれば最後まで論点のすべてをまとめて1回目に提示すればよかったと思いますが、いろんな事情もありまして、推進会議みたいな形で事前に全部を配付するということができずに申し訳なく思っております。例えば今日の会議が終われば、次回の会議の前に次回の論点を配付して、意見をいただくという形で今後進めていきたいと思っております。
ただ、意見の締め切りがタイトな形になっておりますのは、1つはこれを点字に直したり、情報保障の面で事務局で作業する関係上こちらにも時間がほしいということでございます。ぎりぎりの御提出の場合は持ってきていただいて、当日配付していただくというのが推進会議でやっている原則的なやり方でございますので、そこら辺は御了解いただければと思っております。
さて、第1、第2、第3の論点につきまして、委員の皆様方からいただきました御意見を御紹介させていただきたいと思います。
まず差別禁止法制の必要性について御意見を伺いたいという第1点目の点です。実質上議論が始まるのは今日が最初でございます。議論の一番最初にこの論点を持ってきたのはなぜかということですが、この部会自体は差別禁止法という新しい法律を目指す部会ですから、その法律をどうしてつくらなければならないのか、その必要性が最初にくるということは至極当然のことであります。しかしながらも、差別禁止法はこれまでの障害者関連の法律と比べて大きく違った点が1点だけあります。それは何かというと、これまでの障害者関係の法律は、どちらかというと、そこに登場する人物は国、行政と障害者という2面関係が基本であったわけですけれども、差別禁止法はそれに加えて、一般の国民が登場します。障害者と一般国民という民民の関係が出てくるわけです。私人間においては私的自治という原則が働く中で、一般の国民の皆様との利害関係を調節する形での法律になる。そういう意味で、これまでの法律とはすごく違った点があります。ですので、なぜこういう法律が必要なのか、多くの国民の皆様に御理解いただくということがまずは必要になるかと思っております。
更に障害者を含む社会の在り方として、権利条約ではインクルーシブな社会を構築することが求められているわけですが、そういうときに障害者と国民の在り方を問う差別禁止法制が新しい社会づくりに当たって重要な役割と意義を有するという点からいっても、一般の国民の方に理解していただかなければならないということで、最初のこの論点を持ってきました。
御意見としては、大体6つぐらいの観点からの御意見がございました。
第1点目の御意見は、実際に差別の問題が存在するんだということにあると思います。法律をつくるときには、当然立法事実といいますか、法律を支える前提となる事実が必要なわけですけれども、この点に関して、あらゆる分野において差別の事例が存在して、障害者の尊厳が害されている。そういうことが既に事実として確認されているという意見がありました。障害者に対する差別が存在するということは、障害に関係のある方はある意味でよくわかられている話ではあるかもしれませんが、多くの国民にとってどうかというと、決してそうではないわけです。
ですから、そういう事実を明らかにしていく作業も必要なわけですが、例えば千葉県の差別禁止条例の場合においては、約800ぐらいの現実の事例を基に条例の制定が進められていったということを聞いております。また、内閣府の調査によっても8,000ぐらいの事例が挙がっております。今回参考資料2で挙げておりますが、障害に基づいた差別と思われる事例集を配付しております。これらの事例を文章だけでよりも、見やすい形でつくられておりますので、この資料は多くの人に見ていただければと願っております。
また、今日当日配付ではありますけれども、西村委員から「障がい児・者権利擁護条例検討プロジェクト〈報告書〉」という題のものを提出いただきました。後ろの方に実際に集められた事例が挙がっておりますので、御参照ください。
このように差別が現に存在するんだということが、法制定の最初の根拠になるかと思われます。
第2点目の意見は、そういう差別が現実に存するわけでが、現行の法制度では現にある差別を効果的になくしていくことは困難であるといった御意見でした。憲法とか人権条約における差別禁止条項では、基本的には私人間を問題にしないという大きな枠組み的な制限がありますし、そのことによって私人間で発生する差別を効果的に防止する、救済するということが困難であるという御意見があります。
また、現行法としては、今、改正案が国会で議論されているところですが、障害者基本法にも差別禁止規定があります。しかしながら、この差別禁止は理念として扱われておりまして、裁判規範性もない。ましてや救済手続も規定もない。そういう中では実効性が上がらないという御意見でした。
第3点目の意見としては、差別をなくしていくためには、裁判規範性を有する統一的な法制度が必要だという御意見です。差別をなくしていくためには、社会の意識としても差別禁止といったことが確立される必要があるわけですけれども、そういう社会規範を確立するためには、差別の定義とか差別の類型、適用範囲、社会生活や日常生活の場面ごとの基準を合理的配慮も含めて類型的、体系的に示して、明確な裁判規範性のある統一的な法律が必要であるという内容でございました。
また、こういう立法を通じて、人権侵害とか差別の反社会性を国家意思として表明することが差別のない社会づくりに大きな効果を発揮するのではないかという意見もございました。
第4点目としては、国際社会からの要請といった観点からの御意見です。日本政府は差別禁止に関しましては、既に社会権規約委員会から勧告を受けて久しいところであります。
また、障害者権利条約は、条約上の義務として、国家と個人の間の差別禁止のみならず、私人間の差別を禁止することを求めております。ですので、合理的配慮の否定を含む差別の禁止を日本の法制度として確保するべきであるといった御意見でございました。
第5点目の意見としては、救済手続との関係でございますけれども、現在、新法の制定が見込まれている人権委員会の判断基準を明確に示す必要性があるんだといった観点からの御意見でした。救済手続だけあっても、その基準となる実体態規定がなければ、救済もなかなかうまくいかないということが前提でのお話だと思います。
第6点目としては、今、言われたような必要性は十分にわかる。しかしながら、民間においては契約自由とか、思想の自由とか、私的自治といったものが原則して働いている中で、そういうところに踏み込むためには、何が差別か、どういう差別が違法となるか、国がどのような条件整備を行うべきかといったいろんな論点について、差し当たり社会通念上の最大公約数を並べるべきではないかという御意見もありました。
今の御意見にもありますように、やはり差別禁止という問題と私的自治ないしは契約自由、そういうものとの整合性といったことが法制定に当たっては一番基礎的な問題として整理しておく必要がある、課題であります。この点につきましては、また議論を別に起こして、議論していきたいと思っております。
以上が第1番目の論点に関する委員の御意見でした。
○棟居部会長 今、6点ほどに集約をしていただきましたが、勿論お手元にございますように、非常に詳細な御意見、論文に近いようなものを返してこられた方もおられるということで、今、この場でそれぞれの御意見を再び個別に述べていただく時間はございません。ただ、お聞きになったように、差別禁止法制の必要性についてはおおむね必要であるということで一致を見ておると思うんですけれども、その理由づけといいますか観点、これにはかなりの差が直感的にもあるかと思います。
このような大きな出発点における問題意識の差というのは、例えば今後の障害の定義をどうするといった個別の論点にどんどん反映されてくると思うんです。この場でなぜ差別禁止法制が必要なのかということで、無理やり我々の見解を統一する必要はないとは思うんですけれども、むしろ最後にはっきりさせる方が、議論をこれからクリアーにしていくためにはいいのかもしれませんが、とりあえず今の第1点目につきまして、東室長から6点に集約をしていただいたところで切らせていただきます。この点につきまして、こういう観点からの必要論も追加的に唱えたいんだという方、あるいは今いろいろあった中で、こういう観点は本来おかしいのではないかとか、随時御感想をどなたからでもお述べいただければと思います。
なお、私も一応回答させていただきましたが、私も全く承知をいたしておりませんで、話をよく聞いているかどうかの抜き打ちテストだというような感じで、余り中身にわたる回答をしておらぬ上に、ここで勉強をさせていただくより前の段階の非常に限られた知見での回答しかいたしておりませんし、私はむしろ皆さん方の活発な議論を誘発する立場に徹しさせていただきたいと思っております。それでは、御自由にどうぞ。
竹下副部会長、どうぞ。
○竹下副部会長 結論から言えば、差別禁止法という、言わば統一法というか担保は絶対に必要だと率直に思います。これまでの諸外国の学習、レクチャーを受けてくることが大きな参考になったと思います。
3つだけポイント的に申し上げれば、アメリカであれ、イギリスであれ、統一法があるからこそ進化していっているということを、我々は十分に感じ取ることができると思います。間接差別に対する概念の確立であったり、範囲の拡大であったり、適用場面での拡大であったり、あるいはアメリカでいえば、判例との対比の中で定義を広げたり、あるいは法の適用を安定させるための進化は、まさに統一法があるから現実になってきているというのが1点目であります。
2点目は、どの国でもそうなんですが、当然障害者が今まで無視されてきたわけではなくて、一定の人権擁護であったり、差別に対する是正というものがなされてきたと思います。それらを前提にしても、なぜ障害者差別禁止法が必要かということになれば、例えば合理的配慮を差別の要件として掲げたり、場面ごとで適用が異なることにより生ずるトラブルを回避するための解決になるからです。そういう意味でいうと、その国の実情を踏まえて統一法が議論されるとは思うんですが、我が国においては、今、その必要性が大いに高まってきているのではないかというのが2点目です。
最後です。これは私がフランスに行ったときに感じたんですけれども、フランスでは2005年法ができたからといってすべてが解決したわけではない。言わば2005年法ができたことによって、それまでの教育分野、労働分野における問題を顕在化、明確化していくことによって、次の段階に踏み込むことができているのではないかと思うわけです。2点目と重なるのかもしれませんが、その点から日本においても是非統一法を急ぎたいというのが私の意見です。
以上です。
○棟居部会長 竹下副部会長、ありがとうございました。
なお、先ほどこちらの進行の手順を申し上げませんでしたが、16時45分をめどに15分の休憩をとらせていただきたいと思っております。ということで、後半の中の前半といいますか、今からちょうど30分ほどで、先ほど御紹介のありました3点すべてについての議論をさせていただく。
先ほど私の言い方がまずかったかもしれませんが、第4、第5、第6という御意見を拝聴させていただきましたうちの後半の3点について、休憩後に集約的な議論をする。今日の議論も勿論盛りだくさんということでございますので、割り算をしますと、そもそもこの法律が必要かという点については、10分弱ということになります。ただ、これは意見が結論としては一致を見ておるということ、また、今、竹下副部会長から大変集約的な決意表明のようなお話もいただきました。そういうところで、特に御意見があれば伺いますけれども、第2番目の障害とは何ぞやという非常に大きなテーマがすぐ出てまいりますので、できるだけ早くそちらに移った方が進行上はよろしいとも感じておる次第です。
この差別禁止法制について、特に御意見ございますか。
大谷委員、お願いします。
○大谷委員 意見出ししていないものですから、一言だけ言わせていただきたいと思います。大谷です。
なぜ必要なのかというのは、そこに現に差別があり、現行法ではそれが救済されないからの1点に尽きると思っているんですけれども、ただ、なぜ救済されないのかということに関しては、やはり2004年に障害者基本法が改正されて以降、差別されてはならないというか、それが入れられているにもかかわらず救済され得ないということが明確に意識されたものが必要だと思っています。
それから、立法事実が現に存しているということは広く共有されていて、ここにいる人たちに関しては、言わずもがなのことなんですけれども、法制定するときに必ず立法事実があるのか、ないのかということが問題になりますので、そこのところは是非早目に共有したい。今日熊本の例がありますから、既に条例で制定されているところもありますし、千葉もありますので、それは情報として全部共有する。条例ができたところに関しては実態調査をしたということも含めて網羅的に、私たちが調査をする時間はないので、是非それは共有していただきたいと思います。
なぜ必要なのかというよりは、どういうものがなければならないのかという意味において議論するなら意味があると思いますけれども、結論においては一致しているということで、竹下さんが言ったように規範性があり、障害者基本法の3項の1項だけでは絶対に足りないんだということを意識した議論を是非したいと思っています。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
立法事実のない世の中を目指すというのが法の目的になるかと思いますけれども、要するに見なければ見えないような、ある意味都合が悪いものは無視してきたような非常に手ごわい社会的な障壁があるかと思います。
太田委員、短くおっしゃってください。太田委員で一応切らせていただきたいと思います。
○太田委員 差別禁止法がなぜ必要かを議論するときに、現在も差別法制があるかもしれない。欠格条項、例えば耳が不自由だから運転免許を条件付きでしか取れないとか、そういう今ある差別的な法令も見直し、精神障害者の強制的な医療の問題についても現行法をとらえながら、差別禁止法制をつくっていきたいと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
法律自身に差別的なものが残っておるではないか。その除去も含めて立法が必要だという御指摘だと理解してよろしいですね。
○太田委員 はい。
○棟居部会長 わかりました。
山本委員、お願いします。
○山本委員 この問題についてもそうですし、今後の進め方についても当てはまることを、1つだけ私自身の意見として申し上げておきたいと思います。
このような非常に難しい立法については、基本的な物の考え方についてはどうしても対立があり得ると思います。少なくとも多様な見解があるだろうと思います。そのようなレベルで一致を見るまで立法できないとなりますと、おそらく立法には至らないだろうと思います。ですので、そのような基本的な物の考え方を踏まえて意見を出すべきだとは思いますけれども、そこで一致を見なくても、立法の中身としてコンセンサスが得られるものができるのであれば、それを立法化する方向で進めていくべきではないかと思います。勿論その後で立法された規定の意味や考え方については、また対立が生まれるかもしれませんが、何よりもやはり立法化するということを考えて議論をすべきではないかと思います。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
それでは、予告どおり、第1の点は以上とさせていただきまして、第2の差別禁止の分野における障害をどうとらえるかについて、東室長、集約等をお願いします。
○東室長 東です。
差別禁止の分野における障害のとらえ方について御意見を伺いました。ここの問題は非常に大きな問題ですので、どちらかというと、時間をとって御議論いただきたいと思っているところではあります。
ただ、この中で医学モデル、社会モデルという考え方が背景にあるわけですけれども、どの意見も社会モデルの考え方自体をベースにされているのではないかと思います。しかしながら、社会モデルの考え方をとったとしても、差別禁止法における障害というのは別個の考え方が入れられるべきではないかというのが多数の意見でした。勿論社会モデル、特に権利条約で述べてあるような規定を差別禁止法でも入れるべきだという御意見もありましたけれども、多くの意見はそうではなくて、別個の視点で考える必要があるという御意見だったと思います。
その点につきましては、さまざまでしたけれども、差別禁止法においては、障害の問題はどちらかというと入り口の問題なんだ。だから、入り口で閉ざされれば何もできないということではなくて、入り口はすんなり入れて、その後で実質的な議論ができるような仕組みとして障害を位置づけるべきだということが別個の視点として考えるべきという御意見の中の共通項だと思っております。
紹介としてはこの程度にしておきたいと思いますけれども、実はここでの議論だけではなくて、次回に予定をしているんですが、特に直接差別の類型論の中でも障害という問題をどう考えるかで、その類型をどう考えるかということにもつながっていく関係にあるのではなかろうかと思っておりますので、そのときにも議論していただきたいと思っています。
ついでに第3も説明していいですか。
○棟居部会長 お願いします。
○東室長 次に第3ですが、第3は機能障害について、すべての機能障害を対象とすべきか、何らかの制限、例えば期間とか程度を加えるべきかという点について御意見をいただきました。
ここでは一時的な傷病、例えばけがとか風邪、軽微な障害をどう扱うのか。そのほか、御意見の中には一定の評価を伴う言葉を使うことによって、判断するものによって結論が左右されるような記述を伴う制限規定をどうするのかといった点が問題とされておりました。一時的な傷病や軽微な障害の取扱いについては、意見はまとまっておりません。それは除くべきだという意見と、それも含めるべきだという意見が半々的な状況にありました。
例えば先ほどADAの障害の中で出てきた実質的という一定の評価を伴うような言葉によって結論が左右される規範的な制限規定については、池原委員から問題提起が挙がっておりますので、その点について、ほかの委員の方がどういうふうに思われているのか御意見をいただければと思ったところです。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
今、第2と第3を連続して意見集約していただきましたが、勿論両者は別個の問題でございます。第3の論点が埋没しないように気をつけなければいけないんですが、やはり大きな論点としては、第2の障害をどうとらえるかというものがございます。今日はあくまで議論の第1回目といいますか、実質的な出発点ですので、今後我々も相互にどんどん修正をしていくだろうと思います。
今この時点で障害についてどういう定義を行うか、非常に大きな見方の対立として、医学モデルなのか、それとも社会モデルなのかということがございます。御不在の川島委員がおられたら、非常に社会的な観点を強調されると思うので、彼がいないところでこれを論じるというのはやや彼にとってはアンフェアである。つまり自分がおればもっと違った議論になったと思われるかもしれません。ただ、これは世界に向けて発信している場ですので、彼も勿論見ているということで、今日これは我々の間で余り大きな差はなかったと済ませるのではなくて、障害をどうとらえるかについて原理的な議論をしていただければと思います。それでは、御自由にお願いします。
大谷委員、どうぞ。
○大谷委員 定義の比較表が非常にわかりやすくて参考になると思うんですけれども、ドイツの社会法典というのは、何年法なのかを教えていただきたい。
各国比較で6か月とか明記したものというのは、ドイツしかないんでしょうか。その点どなたか知っている方がいたら教えてください。
○東室長 参考資料3ですね。そこの1ページ目ですか。
○大谷委員 それは何年法のものですか。
○東室長 これは前回か前々回にいただいた高橋先生の資料から持ってきたものです。何年というのはないと思います。ドイツ障害者対等化法というのは1つしかないと思います。
○大谷委員 だから、いつできた法律なのかということです。
○東室長 そこまでは覚えていません。
その点については、専門協力員の方が詳しいかと思いますけれども、どうでしょうか。
○棟居部会長 専門協力員の先生方御自身で御報告いただいたところで、こうした期限の区切りがあったか、なかったかを簡単に御紹介いただければと思います。
引馬専門協力員、お願いします。
○引馬専門協力員 どこの国と正確には言えませんが、EU各国の差別禁止法上の障害の定義を比較する中で、期間を定めている国々がほかにもあると読んだことがあります。資料を当たればもう少し具体的に御報告できるかと思います。まず、EU内では差別禁止法上で障害を定義する国としない国があり、定義する国はどの国も時間的条件に触れるものの、その内容として期間を定める国と定めない国があるという比較結果があります。
○棟居部会長 ありがとうございます。
西村委員、お願いします。
○西村委員 関連してですが、差別禁止法ではありませんが、日本の身体障害者の認定に当たっては、認定基準がありまして、脳梗塞関係では、おおむね6か月状態を見て、そのときの状態が固定すると、障害者ということでの認定になります。
また、海外では無いと思いますが、その方の状況によっては3か月で障害を認定する場合もありますが、こうした場合は、再認定ということで、1年後なり、一定の時期に再度ドクターの診断を受けて障害の状況を再確認する仕組みがあります。
○棟居部会長 ありがとうございました。
データに関することですので、後日確認の必要がございましたら、資料の追加なり、高橋さんにもう一回メールで詳しく聞いてみるとか、手段をとらせていただきたいと思います。
今、御質問ということでしたが、ほかに御意見等はいかがでしょうか。非常に大きなテーマですので、これは何もないということはあり得ないです。
それでは、こちらから振って恐縮なんですけれども、先ほど山本委員が全体の進め方というか、非常に困難な立法であるとおっしゃいました。そういうときに、全員一致というところまでこだわるのではなくて、多少私が補充的に追加しているかもしれませんが、概念を全部詰めていくということではなくて、ある程度のコンセンサスが得られたところで、どんどん立法化をしていく。こういうプラグマティックな手段が好ましいのではないかというか、それしか実際現実化できないのではないかということをおっしゃったように思います。どこかに収録していただいていますけれども、私も1人の観察者としては似たような感想を当初持っておりました。これから議論でどんどん洗脳されていくというか、頭は変わっていくと思いますけれども、大丈夫なんだ、もっとやれるんだとどなたかにおっしゃっていただければ自信もついてくると思うんですが、どうしても抑え気味ということです。
ごめんなさい。まず山本委員にこういうプラグマティックな観点からですと、医学モデルと社会的障壁を強調する社会モデルでは、やはり医学モデルということになるんですか。私は理屈として何となくそうだと思っていたけれども、理解が浅いだけかもしれません。そういうことでお尋ねしたいと思います。
○山本委員 今の御指摘は部会長の読み込みが相当入った御指摘でして、私が先ほど申し上げましたのは、このような定義をどちらにすべきかというレベルの問題ではなくて、もっと基本的な物の考え方、つまり障害者基本法を制定するとするならば、その目的をどのようなところに求めるかとか、あるいは先ほど指摘のあったものと差別禁止との関係をどのようにとらえるかという点については、いろいろな考え方があり得ると思います。しかし、規定する上で、意味づけはそれぞれ違うかもしれないけれども、これであればコンセンサスが取れるというときは、それを採用すべきであるというレベルのお話でしたので、少し読み込みが過ぎておられるように思いました。この定義については、どうこうということでは必ずしもありません。
○棟居部会長 どうも失礼しました。
竹下先生、御発言をお願いします。
○竹下副部会長 今の点なんですけれども、私も山本先生の話を聞いて、その通りだと思います。結論からいえば、理想的なものがほしいというのははっきりしている。先駆的なものがほしいというのも願望でもある。しかし、平成25年までの立法で実現することは多分不可能だろうと思います。
ただ、そうはいっても2点だけお願いしたいのは、山本先生が言うように、まさに対立点がないとは言いませんが、対立点が起こり得ればこそ、各論点ごとに議論を深めておいて、あるいはどこに対立点があるのかとか、どういう価値観の相違があるのかということの議論をある程度尽くしておいて、提示しておくことによって、おのずと落ち着くところがあるというのが1点。
もう一つは、決して見切り発車という意味ではありませんが、我々の課題はやはり平成25年までに、山本先生が言うように、言葉は悪いけれども、内閣も政府も国会も受け入れてくれるであろうものをつくらざるを得ないわけでありますから、そういうものをつくるために、どのラインまで落としてもよいのか、どこを到達点とするのか、技術的に可能かということ、議論のやり方を少し念頭に置きながら、この1年半の議論を進めていただければと思っております。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
なお、東室長には先ほど来意見集約という、そこばかりをお願いしてまいりましたが、東室長御自身の御意見をこのタイミングでおっしゃるということでお願いします。
○東室長 私個人というよりも、川島委員がいないので、彼の意見を少し申します。変わってできるかどうかわかりませんが、12ページをごらんください。川島委員の意見が真ん中付近からございます。
川島委員は障害の社会モデルというものについて、インペアメントのある者を取り巻く社会の問題に着目する視点であると書いています。要するに社会モデルという考え方は視点を提供するものなんだ。障害者が負う不利益、その原因が一体どこにあるのかということを考えるに当たって、これまでずっと個人の内部の問題として意識されてきたんだけれども、社会モデルという考え方はそうではなくて、社会の側にいろんな問題があるんだということを気づかせる視点とか視座とか、そういうものなんだということをまず最初に言っておられます。
そういう観点から考えると、その原因をどう取り除くかということが見えてくるわけですけれども、具体的な原因を取り除く手段は、手段の性格などに従って考えればよくて、何も社会モデルという定義のような形で提示されているものに、全部が拘束される必要はないんだという発想だと思います。ですので、差別禁止という観点から考える場合、社会に存在する差別行為、そういう社会的障壁をどう取り除くかということが重要であって、障害の定義として「社会的障壁」をまるごと入れ込むということではないのではないか。だから、差別禁止法制においては、障害をインペアメントとイコールで結んでも何らおかしくないんだという御意見だろうと思います。
これから先は私、ほかの委員の方の意見でもそうなんですが、やはり法制度として差別禁止をする場合、最終的には訴訟でどうなるかということも念頭に置かなければならないと思うんです。障害を社会モデル的な要素、簡単にいえばインペアメントと社会的障壁のり相互作用という形で定義づけた場合、やはり障害があると立証するためには、少なくとも原告としてはその3つを立証なければいけないわけです。だから、立証としては結構大変なんです。しかし、インペアメントだけに限定すれば、インペアメントがあるということを立証するだけで、そこから話は進んでいくわけです。だから、そういう訴訟という観点も念頭に置くならば、入り口の問題としてはなるべく軽く済ませるような法制度の方が使い勝手がよくなるのではないかという感じもしているところです。
先ほどのADAの話もありましたけれども、3つの要件が必要だということになると、逆に社会によっての軽減措置があるならば、インペアメントがあっても相互作用によって障害が打ち消されて障害がないという判断構造を提供することにもなりかねないんです。そういう点からいっても、やはり社会モデルの考え方を否定するという意味ではなくて、それを実現化するための法制度としては、差別禁止においては単純にインペアメントを中心に考えればいいのではないかという視点も大事ではないかと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
川島委員が御不在だということを申し上げましたが、かわりに川島委員のおっしゃりたいことを的確に伝えていただき、かつ川島委員が出発点は社会モデルの方に立っておられるんですけれども、今回の寄せられた意見をよく見ますと、むしろ障害の法律学的用語としては、社会モデルを全面に押し出すということはあえてしないということです。これは私の読み込みが入っているかもしれませんけれども、そういう観点にお立ちになっているということが、今の東室長の御紹介で私には理解できたように思います。
ただ、逆に社会モデルが一番恐れていましたのは、インペアメントである、医学的な観点からの障害だという一見客観的といいますか、医学の専門家が判定を下せる。その基礎には社会がつくり出しておる障害という面があるのに、それが一見技術的、医学的、中立的な装いをとってしまう。これは具合が悪いのではないかという問題発見的な視点が社会モデルにはあったのではないかと思います。障害の方から社会モデル的なニュアンスが全部外れてしまって、社会との相互作用、社会の側の壁というのが差別という法概念に全部持ち越されてしまう。そこでは勿論社会の側の壁なども差別なんだという中に読み込んでいくんでしょうけれども、差別以前の最初にそもそも障害があるんですか、障害者なんですかという一見中立的、医学的なスクリーン、ふるいにかけるところで、社会の側がつくり出している面が含まれておるのに、そういうことに気づかないまま、これは障害だ、障害でないというところで議論が終わってしまうとすると、差別の話にいく前に話が終わってしまうようなことがあると、これは具合が悪い。
例えば努力が足りないだけだとか、そういう社会の側があえて医学的に問題なしだといって、しかし、今まで学習障害などは多分怠けであるとか何とか言われてきた面があるのではないかと思うんですけれども、そういう意味で、障害概念も客観性、中立性、医学的なことだけでは済まないと思いました。勝手に議論を混ぜ返して恐縮ですけれども、社会モデルの持っている問題発見的な側面にはこれからも留意していく必要があると個人的に思っています。時間もないのにべらべらしゃべってしまって申し訳ございません。
川内委員、どうぞ。
○川内委員 川内です。
皆さんの意見を見ていて思ったんですけれども、障害者差別禁止法とかあるいは障害差別禁止法でいう障害と、障害の社会モデルという場合の障害というのは意味が違うというのは多分明らかだろうと思います。
まず最初にこの法律がだれをカバーするのかというのは、すべての人をカバーするわけではなくて、やはりインペアメントをベースにした障害を持つ人に対してのカバーだということを最初に言わなくてはいけないので、その点では障害者差別禁止法の障害というのはやはりインペアメントだろうと思います。
ただ、今、部会長がおっしゃったようにも、インペアメントによって起こる現象というのが社会モデルとしての考え方でしょうから、まずインペアメントの障害というのを定義づける。そして、それによって起こる現象をもう一つ間に入れた上で、更にそれによって生じている差別というものに対して焦点を当てるということで、障害というのをすべての場面で使うべきではない。それぞれの場所によって、これは社会的環境によって起こる不利を示しているんだというように、現象をきちんと表した日本語を当て込んでいかないと、何でもかんでも障害ということで表していては、かえって混乱するし、後々禍根を残すと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
先ほど45分で休憩タイムに入る予定であると申し上げました。
また、先ほど室長から3つの論点の御紹介ありましたうちの2つ目でございます。ということで、3つめの論点について、皆さんの御意見を拝聴というところに本来ならば移らなければいけない時間帯なんですが、2番目の障害について、もうお一方何かございましたら、お願いします。
大谷委員、どうぞ。大谷委員で時間配分上一度切らせていただきます。
○大谷委員 議論の進め方に関して、何となく抽象的にならないようにしていただきたいから、あえて提言なんですけれども、例えば障害者差別禁止法における障害とはこれこれであるということを全く別立てで定義したい、定義するべきであるかどうか。
今回、障害者基本法が通るかどうかわかりませんけれども、一定程度の障害者とはどういうものかということが定義されたときに、障害者基本法における障害者とはこれであるが、障害者差別禁止法においてはこれであるという、全く別のものを想定しましょうという形も含めて議論しよう。今、障害者差別禁止法においては、ある種狭いというか、争いがないようにするためには、一定程度インペアメントの方向性も含めて強調しようということに異論はないんですけれども、そういうふうに対象領域によって概念を変えてしまうんだということを前提にした議論をされているのかどうかということがよくわからないので、伺いたいと思います。
○棟居部会長 室長、この点をお願いします。
○東室長 ここは何も最初からこの枠でという議論ではありません。法律上のやり方として、同じ言葉であれば同じ意味でということが一般的な解釈の統一という面では求められるかもしれませんけれども、法律の目的が違えば、目的に応じて解釈する。そのことも大きな要請ですので、相対的に障害という文字をこの法律ではこうだ、別の法律ではこうだという規定するやり方もあるわけです。それがどうなのかという議論は基本法が通った後、またここでの議論が済んだ後、最終的に本法においてはどうなのかという御議論をすべきだというところで、今の段階では基本法がどうであるからということよりも、純粋に差別禁止としてどうなのかという議論をしていただければと思っているところです。
○棟居部会長 太田委員、お願いします。
○太田委員 私の今の感想を言えば、インペアメントの概念を広げていくことが必要であるという立場をとっていて、例えば130kg、150kgの体重の人がいるとして、飛行機のエコノミークラスに乗れないから、2人分の座席を買うしかなかったという問題についてどうかということも想定されています。障害者基本法では太っているというのは障害には入らないのかもしれませんが、もしかしたら、差別禁止法においては、太っているということもインペアメントに入る。社会がその人の症状をインペアメントとして判断し、特別な扱いをしたときに、禁止法がどう対応するかということを視野に置く必要があると思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
今、限界事例というか、1人で2人分の座席を占めるような肥満、巨体である。しかし、医学的には病気ではないという例をお出しになったと思うんですけれども、これは1人分か2人分かだと質的な変化があるけれども、例えば体重制というか1kg当たり幾らとか、そういうやり方をとっていくと、実はそうした巨体の人などに対して高い料金を払ってもらうというのがねらいであっても、一見中立的でだれも排除していないように見えます。
そこら辺も含めて、限界事例は頭の体操としては非常に面白いけれども、今、時間がございませんので、医学モデルではいろんな限界があるという御意見、御発言はありましたし、また先ほど来の議論の中でも出ていると思います。しかし、余り制約的ではないという留保付きで、社会モデルよりは医学モデルを一応の足がかりにして議論したらどうかというのが、今回集めてみました意見の中では多く出ていた、その確認だけでよろしいですか。川島委員の御報告もそういう観点だろうと思います。
どうぞ。
○東室長 例えば体重が150kg方は、お医者さんから見て障害があるのか、ないのかといった場合、別にないと言われても、社会モデル的に見ると150kgというのはある意味では機能障害に見えてくる側面があると思います。だから、インペアメントといった場合、インペアメントとは何なんだ。医学的な基準でインペアメントというのか、もう少し社会学的な側面を入れてインペアメントというのか。そういうことも問題になると思います。だから、インペアメントに限るから医学モデル、社会的障壁を入れるから社会モデルだという単純な切り分けではない。そういう意味で、別に対立した議論ではないという気がしています。
○太田委員 室長のおっしゃるとおりだと思います。室長の今おっしゃった点でやっていただいたらいいと思います。
○棟居部会長 私の不手際で気づいておりませんでしたが、これから休憩をとらせていただきまして、再開後に第5番目の論点として、障害に必ずしも機能障害が伴わない外貌やその他心身の特徴を含めるべきか否かについてという質問項目がございます。今まさに議論されている点がここに入ってまいります。
そういうことで、第3の機能障害についてすべての機能障害を対象とすべきかについては、何らかの制限、例えば期間、程度については、先ほど6か月云々ということで、あくまで事実確認のレベルでしたが、若干の議論をしたということにさせていただきます。
大変恐縮ですが、進行より遅れておりますので、ここで一旦休憩をとらせていただけるとありがたく存じます。よろしいでしょうか。恐れ入ります。実は51分ぐらいになっていますが、50分から休憩ということで、5時5分まで休憩をとらせていただきます。再開後は先ほど来の論点もまた議論させていただきます。5時5分再開でお願いします。

(休憩)

○棟居部会長 それでは、再開します。
第5回差別禁止部会において論ずべき点の後半の御議論に移ります。
このコーナーでは第4の論点である過去、将来の障害やみなされた障害を含むかについて、第5の論点である外貌等機能障害を伴わない障害を含むかについて、第6の論点である障害者に有資格という制限を加えるか、障害のない関係者を差別禁止の対象に含むかについてを取り上げます。
最初に東室長より資料3に基づいて、委員の皆さんからの事前意見の特徴を10分程度で報告していただくよう、お願いします。
○東室長 担当室の東です。
第4番目の論点、現在の障害だけではなくて、過去、将来もしくはみなされた障害というものを守備範囲に含めるかという議論でございますが、ほとんどの御意見としては、含めるべきだということでした。例えば被害の実態があれば救済すべきである。障害に起因する差別という観点から対象に含めるべきである。もしくは社会モデルの観点から入れるべきであるという御意見がありました。
ただ、ADAの改正にも関連しますけれども、みなされるような場合については、合理的配慮の提供は要らないだろうということが御意見として挙がっております。
実はこの問題は、立法政策としてこれらの事由を取り込むべきかという政策判断的な観点と、そうではなくて、論理的に入るのか、入らないのか、法論理としてどうなのかという2つの判断が要るのではないかと考えております。
そして、これらの問題は6番の問題にも関係してくるんだろうと思いますけれども、これからつくろうとする差別禁止法の枠組みをどういう形で考えるのかというところに関連してくると思います。
先ほど川内委員からありましたけれども、障害を有する者を対象とする法律と考えるか、それとも浅倉委員が指摘されますように、障害ということを理由として差別すること自体を禁止する。だから、保護の対象としてはすべての人になります。すべての人は障害に基づいて、もしくは障害を理由にして差別を受けない。どういう枠組みで考えるのか、そこがまず決まらないと、ここの問題は政策的につけ加える課題なのか、そうではなくて論理的に入ってくる課題なのか、そういうところにも関連してくる問題であろうと思っております。ですから、枠組みの問題は別個に議論を立ててやりたいと思っております。
ちなみに、日本国憲法は、すべての国民はと書いてあるんです。差別禁止事由はいろんなものがありますので、ここは分けられないという観点からすべての国民と書いたということも言えるんですが、ある意味でそうではなくて、こういう事由においてはだれも差別を受けないと書いたとも言えると思います。
権利条約はどう書いてあるかというところなんですが、権利条約の第5条は、締約国はすべてのものが云々・・、いかなる差別もなしに平等の保護の権利を受ける権利を有することを認める。1項では障害者に限定はありません。しかしながら、2項では締約国は障害を理由とするあらゆる差別を禁止するものとし、いかなる理由による差別に対しても平等かつ効果的な法的保護を障害者に保障すると書いてあります。ですので、1項と2項の関係をどう解釈するのか。2項の障害を理由とするあらゆる差別を禁止するという部分と、後段の法的保護を障害者に保障する、この関係はどうなのか。この解釈がいろいろあろうかと思います。
既に5条の中に各国がどういう法律をつくるかという段で、障害者を対象にするのか、もしくはもう少し広げた形で対象にするのかという議論が含まれているのではなかろうかと思っていますし、これは非常に重要な点でありますので、別に議論したいと思っています。
次に第5ですけれども、機能障害が伴わない外貌その他の心身の特徴を含めるべきかということですが、1980年のWHOの国際障害分類では、形態障害もしくは形態異常という形でインペアメントの中に入ってはいるんです。しかしながら、日本の法制度においては、機能障害を伴わない形態障害は現行法上障害には当てはまらない。基本法でもそうですし、身体障害者福祉法でもそうだと思います。
差別禁止の分野ではどうかということで、ここでの意見としては、入れるべきだということで一致しておるところです。この点も、今、述べた大枠の問題と絡むのではないかと思っているところです。
ただ、意見の中にもありましたけれども、当事者団体がございますので、やはりそこの団体の意見も尊重すべきだと思っているところです。
第6の1ですが、有資格という問題です。先ほどお話がありましたので、関連する問題なんですが、この点に関しましては、資格制限を設けるべきであるとする御意見もありましたけれども、多くは設けるべきではないということでした。反対の理由としては、差別という点で、そこに該当するかどうかということで判断すれば足りるのではなかろうか。もしくは差別に当たっても、例外として許容されるところで議論すべきではないかという御意見がありました。
また、有資格ということの概念や範囲があいまいであったり、新たな差別を持ち込む可能性もあるということ、日本では職種ごとにそれらに求められる必須の職務を含む職務内容を詳細に規定するといった慣行がないんだ。そういう状況において、本質的な職務、能力というものは日本にはなじまないのではないかということが御意見として挙がっております。
第6の2番目ですが、身内とか友人、その他関係者の人たちが、ある人の障害を理由に差別を受けた場合、差別禁止法の適用範囲に含めるべきかということですけれども、この点に関しては、多くは適用対象とすべきであるという御意見でした。その根拠としては、障害に起因する差別であると言えるはずである。もしくは障害のある人に関係した人が、その関係性を理由に差別を受けることを放置することは、障害に対する否定的な評価を容認することになる。また、障害のある人が多くの人と有意義な人間関係を形成することが妨げられる。こうしたことは、差別禁止法で容認すべきではないといった御意見がありました。
現実にいろんな場面で、障害者の家族が不利益を負わされているんだという御意見もございます。
更に何をおいても、障害を理由に差別されないという書きぶりにするのであれば、身内や友人も当然のことながら、ここに入ることになるという御意見がありました。ただ、関係者自身の障害が推測されるような場合については、対象にすべきだけれども、関係者の介護などによる労働能力の減殺が疑われる場合には対象としないというという御意見もありました。もしくは一般条項としての法の下の平等という規定で十分に禁止することができるから、対象としなくてもいいのではないかという御意見もございました。
これに関しては、イギリスのコールマン事件を引用されている方もいらっしゃいました。それについては、専門協力員の引馬先生から後でコメントをいただければと思っております。
以上です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
なお、時間の進行の予定を最初に申し上げますと、この議論は50分までということでございます。30分少々で3つの点がございます。単純に割ると1項目10分ずつになるんですが、今の最終コーナーで取り上げるべき第4、第5、第6のうちの第4と第5は、先ほど太田さんあるいは太田さんに対しての返答も含めてのいろんな議論の中で、私も限界事例という言葉を使ったんですが、つまり医学モデルというものに立脚するとした場合、医学的には問題なしという巨体であるとか、第5ですと、機能障害は伴っていないが、外貌に特徴があるという場合はどうなんだという医学モデルをどこまで補正すべきかという、もし医学モデルから出発するとした場合の話ですけれども、こういうことをどうとらえるんだという問題であるように思います。第4の点は、現在、治癒していますとか、あるいは今は発現していないけれども、将来発生する蓋然性があります、これも全部医学的観点からの話だと思います。
私は何を言いたいかといいますと、第4と第5は私の浅い理解かもしれませんが、つなげて、要するに医学モデルをとるとした場合、こういう限界事例を考えていけばいいかという、それで議論すればいいと思うんですが、いかがなものでしょうか。よろしいですか。
第6については、2つ小さな問題が入っておりますので、第6は盛りだくさんということでございます。
ですから、第4、第5をつなげさせていただいて、30分の前半15分ぐらいで議論したいと思いますが、いかがでしょうか。御自由に御発言ください。よろしいですか。
医学モデルを出発点にするというところで、いろいろ問題があり得るんですけれども、雑談で非常に勉強させてもらったのは、山本委員に民法改正についていろいろ伺いまして、直し直しでもいけるんだという職人タイプの実務家もたくさんおられる。あえて大胆に新法をつくるということをしなくてもいいんだという、常にそういう議論というのはどこの世界でもあると思います。ですから、医学モデルというある意味保守的、無難というか、そういう素朴な出発点に立っても、限界事例を広目に、あれも障害、これも障害とどんどん拾っていけば、修正でどうにかなる。何も社会モデルにいかなくてもできるのではないかというタイプの議論もあると思います。民法でもそういうことを言ってる人はいるけれども、ここまでくればやはり新しい体系でいくべきなんだということで、現代の民法学者は大体固まっている。これは私の読み込みが勿論入っているんですけれども、こういう御示唆を全く別件ですが、ちょうだいしまして、なるほどと思いました。
今回、新しく立法のたたき台というか1つの案を我々なりにつくる。例えば障害とは何だということを出していこうという言わばスタートラインの話ですから、ここでいきなり医学モデルというのは無難かもしれないけれども、説明し切れないものをたくさん抱えているものに、あれやこれやのパッチワークで修正でどうにかやるんだというのは、立法の最初の案としてはいかにも寂しい感は確かにありました。ただ、そうではない社会モデルというもので、新しい民法典のように現代のいろんな現象をきれいに説明できて、しかも、体系を保っていることになるかというと、運用ではまたいろいろ問題が出てくるかもしれない。つまり法律論になかなかブレークダウンしにくいというか、それを危惧している委員さんの御意見もあったと思います。
要するに大きな問題が第4、第5の2つにあると思うんですけれども、いかがでしょうか。どなたでも結構です。
太田委員、お願いします。
○太田委員 太田です。
差別禁止法を論じるときに、医学モデル、社会モデルというふうにそれぞれのカテゴリーで分けるのではなくて、施行の方法としては、目的は不利益をこうむった場合、裁判に持ち込んで、裁判で争えるかどうかということなんだろうと思います。そのために定義が必要なんだと思います。
その観点からいえば、その人が持っている障害とか特徴とか体の機能が、今の社会と調和がとれないときに差別が起きるわけだから、その人の障害あるいは特徴を抱える機能を理由に差別されたということを立証しやすいような立法が必要であり、だから、具体的な障害、インペアメントという定義が求められているのではないかと思います。
○棟居部会長 ありがとうございました。
先ほど私は強引に民法改正の話に引っかけまして、古いモデルと新しいモデル、それと医学モデルと社会モデルの対比がつなげられるようだと、我々は余りにも古いものから出発しようとしているということを申し上げたんだけれども、今、太田委員がおっしゃったのは、医学モデルか社会モデルかというのは、要するに目的にとっては手段というのか、施行のためのモデルだということで、どちらがより救済しやすいかとある意味割り切って考えていけばいいという御示唆なので、古い、新しいという私の対比は余りよろしくなかったと感じたところです。
これは大き過ぎる話を振ってしまいました。第4、第5の実際の問いはいずれもかなり具体的な細かな点でございます。いろいろ御回答を寄せていただいておるんですけれども、補足だとか、あるいは逆に質問などの点でも結構ですが、もしございましたら、お願いします。ないようでしたら、後半に移ります。
山本委員、お願いします。
○山本委員 質問を1つですが、仮にこれらの事由を障害の中に含めるとすると、どのような定め方をすることになるのかということをお教えいただければと思います。形態の不全というものを書けばそれで足りるということなのか、そう簡単なものではないのかという点を御専門の方にお教えいただければと思います。
○棟居部会長 非常に難しいことを聞かれました。協力員の先生方で、自分の見た立法例ではこういうふうにうまい具合に書いているという助け船を出していただけましたら、どなたからでもお願いします。あるいは私の質問自体が余り適切ではありませんか。
お願いします。
○東室長 どのような文を書くかというのは、今、枠組みとかそういうものが決まっていない段階ではなかなか難しいと思いますけれども、欧米の法制度で使うインペアメントを日本語では機能障害と一般的に訳していて、ICIDH的には形態障害も含むという形で厚生労働省から訳が出ているわけです。ですから、機能障害にはそれを含むということが前提でのことであれば、機能障害と書けば形態障害も入ることになるわけですけれども、やはり日本の持つ意味からそこまで推測できるかというと、なかなか難しいとなれば、必要であれば括弧書きで形態障害を含むとか、そういう念押しの規定が要ると思います。そのことは過去、将来、もしくはみなしという部分についても確認規定として入れるか、本来は入らないけれども、付加的な形で入れるかみたいな形の議論があり得るのでなかろうかと思うところです。
○棟居部会長 ありがとうございました。
立法について、これからどんどん具体的に議論するにしても、抽象論をするにしても、どういう立法をしていくんだ、具体的な事例についてどう解決に結び付けていくんだということは念頭に置かなければならぬと思います。今の山本委員の御質問は、宿題として、私個人は引き取らせていただければと思っております。
そういうことで、ほかに第4、第5についてございませんでしたら、第6の差別禁止法の適用対象という問題に移らせていただければと思います。これは2つ大きな問題が入っておりますので、一応分けた方がよろしいですね。つまり資格付け、有資格という点につきまして、御意見を賜れればと思います。
太田委員、お願いします。
○太田委員 私は有資格という概念自体を否定するものではありません。ただ、差別禁止法という法律が立法化されたときに、有資格という言葉がもしそのまま入った場合、どのような影響が出るか。
先ほどアメリカの事例での議論のときに申し上げたとおり、この人は地域で生活できる資格がある人、この人はできない人という、もしそういう運用がされる危険性があるのであれば、そういう書きぶりはやめた方がよいという考え方です。
○棟居部会長 ありがとうございました。
これは非常に大きな問題ですけれども、ほかに御意見ございますか。
私が当てていいのかわかりませんが、先ほど御報告いただいた植木さんには資格を有する個人であるということについて御紹介いただきましたけれども、もし日本でこうした立法をするとしたら、アメリカの経験をごらんになって、うまくいかないのでないかという点はございますか。今、急に振って申し訳ありません。
○植木准教授 全く私的な意見ですが、実際にアメリカの状況では、資格を有するかどうかが最初に争われるのではなくて、結局はそれが障害を理由とした差別と言えるかとか、あるいはその人が就労するために必要になる配慮が合理的配慮と言えるかどうかのところで一体的に争われていることになります。
その意味では、いただいた資料の23ページの下、例えば川島委員の御意見にあるように、何人も障害を理由に差別されてはならないという規定にして、その人があらかじめ有資格の個人かそうでないかを分けるのではなくて、そこで行われた採用の拒否や昇進の拒否が障害を理由にしたものだったがどうかという判断をすれば、それで同じ目的は達成できるのではないかと考えております。
その意味で、資格を有する個人という文言を最初に入れるというのは、ひょっとすると間違った方向で使われる危険性はあると考えます。
○棟居部会長 どうもありがとうございました。
私の素朴な質問、無知をさらけ出すにほかならないという質問かもしれませんけれども、植木さんあるいはほかの方への質問なんですが、こういう資格を有する個人云々という要件は、先ほどいただきましたレジュメですと、障害のある個人であっても、合理的配慮があれば、特定の社会活動の本質的機能の遂行に参加することが可能な場合には、資格を有する個人であるということなんです。つまり障害がある状態プラス合理的配慮で本質的機能が遂行可能、これをもって有資格と定義するんだということだと思うんですけれども、一番平等の原始的な命題として、等しいものを等しくというのがあります。つまり合理的配慮とかそういういろんな条件付けを加えていって等しいというラインに乗れるのであれば、等しく扱われるべきであるという命題が出発点にあるんでしょうか。合理的配慮などを幾らしようにもそれが見当たらないというか、そもそも等しくならないときには、等しいものを等しくという平等の一般的な命題自体が出てきようがない。異なるものは別という裏命題の方にむしろいってしまう。だから、異なる扱いで構わぬということになってしまうんですけれども、そうした原理論というのはあるんですか。
○植木准教授 植木です。
私は大学院で棟居先生に平等保護条項の解釈を教わりましたので、棟居先生にそのように振られるとちょっと立場が弱いですが、恐らく資格を有する障害のある個人ということをあえて規定されたのは、政治的な配慮もあるのではないかと思います。アメリカにおいてそういうものが規定されたのは、政治的な配慮もあるのではないかと思います。
その上で、等しいものは等しく扱うというのが平等原則の基本だということは言えるわけですが、差し当たりは人間みんな等しいということを前提にした上で、何を理由にして区別をしているのかというのが重要なポイントになります。
例えば職務に関連する事情あるいは業務上の必要性を理由にして区別をしましたのであれば、それは障害を理由にした差別ではないが、それとは関係ないインペアメントに起因する問題によって、その人の採用を拒否したり、解雇したりしたのであれば、それは障害を理由にした差別だ。大ざっぱにそういう整理をすれば、有資格であるかどうかという要件を頭のところでもってくる必要はないという気がしております。
○棟居部会長 ありがとうございました。
私に答えにくいとおっしゃったことからもわかりますように、1つの立法テクニックにすぎないので、特に日本でこれを引きずる必要はないのではないかというお答えで、私も結論的に同感というか、それならこういうおかしいものを余り抱え込まない方がいいという気になってきました。
ほかの方々はいかがでしょうか。これは一応50分まで予定しておりますが、最後に残っています第2の点にいきますか。関係する、つまり身内、友人だ。その前に今の有資格について、もしお一方でも発言があればと思いますが、いかがでしょうか。
浅倉委員、どうぞ。
○浅倉委員 今の議論は全くそのとおりだと思います。つまり有資格という要件を必要とする場合と、必要としない場合があると思うのですが、それは結局、立証の問題なのではないかと思います。つまり、障害を理由とする差別なのか、それともそれ以外のことを理由とする差別なのかということを区分けをするときに、資格という基準が入ってくるのではないでしょうか。
先ほど私が質問したことと絡むのですが、雇用の中にも職業上の能力と関わる差別と全くそれとは関わらない差別もありますので、必ずしも有資格性が必要とされる問題以外のものもたくさんあるのでしょう。ですので、結局、有資格であるということを大前提に考えるより、これが果たして障害を理由とするものなのかどうかということを判断する際に、裁判所あるいは行政機関が何を判断基準としてとらえていけばいいのかという問題なのではないでしょうか。
○棟居部会長 ちなみに、私も含めてですけれども、日本では裁判所の運用に任せるということに対して、非常に信頼感が厚いわけです。しかし、今日の前半の植木報告だと、裁判所に任せておいたら、どんどん勝手な切り下げなどをされてしまう。だから、立法でもう一回ねじを締め直さなければいかぬとか、今、浅倉先生の御発言の前提も下手に詰めるよりは、裁判所の運用に任せた方がうまくいくと私は勝手に深読みをしたんですけれども、そういうお考えでよろしいでしょうか。
○浅倉委員 浅倉です。
たしかに立法をつくるときには、EEOCの解釈基準のようなものが行政としては必要になる場合があると思います。そういう中で、禁止される障害を理由とする差別の具体例を、例示として示して、それによって行政指導をしていく場面もあると思います。また、行政機関が準司法的な判断をする場合もそれを利用することもあるかと思います。
私は、立証責任の分配の問題や司法における判断の問題などは、おのずと判例が蓄積される中で決まっていくのではないかと思います。さきほど書かない方がいいと述べたのは、法律上の条文として解釈の範囲を限定する形では書かない方がいいということです。ただし、行政指導の場合には、例示としてさまざまな事例を書いておくことについては賛成します。
○棟居部会長 行政機関に対しては一定の縛りが要る。裁判所に関しては判例の発展にある程度委ねるという使い分けの感覚が私個人はあります。果たしてそれがうまくいくかどうかわかりません。
最後のテーマにいきます。身内や友人など、関係する障害のある人の障害を理由に差別を受けた場合、こういう方を適用対象にするか。これはかなり実際の裁判の局面では問題になってくるのではないかと思います。そうしたケースについて、どうお考えでしょうか。一応皆様方の意見を寄せていただいているんですけれども、先ほど来出ているトーンとしては、あれもこれもと欲張るよりは、むしろ中心的なテーマからまず立法していく。あるいは我々の議論もそこに合わせていくというスタンスも出ていたと思うんですけれども、これは最初から当然入れるべきだということなのか、どうなんですか。
障害とは何ぞやにも勿論関わってきます。社会の側が勝手に壁をつくっているんだという観点からすると、いわゆる医学的に障害がある人だけではなく、その周りの方も含めて、そういう人が職場にいるとややこしいからとか、そういう排除の論理になってしまう。しかし、医学的云々ということになると、こういう方は入ってこない。これも先ほど来のモデル、施行のモデルと太田さんがおっしゃったことです。
室長、お願いします。
○東室長 障害者に関する差別禁止法制を議論する場というのは、政府の中では初めてだろうと思います。ですから、どうやってそれを生んで育てていくかということになっていくわけですけれども、やはり世界の障害者に関する法制度は歴史があって、それなりの進化を見せているわけです。我々は同じ失敗を繰り返さない、学ぶべきところは学んで、いいところは取り入れていく。そういった観点も必要だろうと思います。
現実的にそれがどうなるかということはまだわからないわけですけれども、今、世界の到達点がどこら辺なのかということを議論することは非常に意義があると思っています。ですから、主要な問題はこれで、これは付加的な問題だという位置づけではなくて、やはり考え方の基本を提示する論点として私は提示しているつもりです。そういう意味で、時間はないんですが、できるだけ幅を広くした議論の中から、現実的にはどうするかという議論に移っていければと思っているところです。
○棟居部会長 医学モデルか社会モデルかというときに、医学モデルだと個人中心、社会モデルだと必ずしもそれに限定されないということが言えると思うんですけれども、社会モデルを一度脇に寄せてしまうと、医学的にとらえていくことになると、障害の問題を個人単位でしか見られなくなるとすると、まさに身内だとか友人だとか、こういう障害者の周りを取り巻く人たちが視野から落ちがちになる。でも、それは最初から視野に入れていく。言わば視野の点では社会的な視野が必要だ。今の室長の御発言はそういうことだったのではないかと思います。
残り時間はあと7~8分ですけれども、御意見ございますか。
忘れていまして、済みません。引馬専門協力員、先ほど室長から振られた点について、お願いします。
○引馬専門協力員 26ページの太田委員の御意見にコールマンケースのことが載っています。これは欧州司法裁判所のケースでして、障害を持つ子どもを生んだ母親が就労上で差別とハラスメントを受けて結局仕事を辞めたというケースです。EU指令の文言自体は、障害者に対する差別禁止ではなく、障害による差別を禁止すると記しています。このため、この障害による差別禁止の対象者に、障害当事者の家族や介護者といった関係者も含まれるのか否かが議論になりました。こうして、イギリスからEU指令の解釈に関わりEUに先決裁定が求められたわけです。結局、欧州司法裁判所の判決は、彼女が差別された理由というのは障害以外の何ものでもないことを指摘しました。そうすると、彼女が救済されるには、これが障害による差別であるとして、EU指令の範疇に入らなければいけないと書かれていたと記憶しております。
欧州司法裁判所の先決裁定を受けて、イギリスの労働審判所は、イギリスの障害差別禁止法をEU指令の国内法化のために改正し、これが施行された2004年10月にさかのぼって、イギリスの障害差別禁止の対象者に家族などの関係者も入れるという判決を出しました。先般の長谷川先生からの報告資料にも記載がありましたが、こうした流れを受けて2010年のイギリス平等法では障害者の関係者に対する平等取り扱いが明確になっています。
今はイギリスとEUの関係の例ですが、EUにおいてはEU法や欧州司法裁判所の判決が、加盟国内法に原則として優位します。このため、少なくとも加盟27か国に関しては、障害者を理由とする差別禁止に障害者の関係者が入ることになるかと思います。
○棟居部会長 どうもありがとうございました。
今の点も踏まえまして、御質問、御意見等はございませんでしょうか。
実質の討論は今日が第1回ということでしたので、これは収拾がつかなくなるのではないかと恐れておったんですが、前半の質問の中でも広範にわたるような議論があったのと、あるいは今後にとっておこうということで自制をされているのか、世界に発信されているという点で若干あれされているのかわかりませんが、私は既にかなりおかしいことをたくさん言っておりますので、ほかの先生方も忌憚のない御意見をお願いします。
今日、御発声が余りなかった山崎委員はいかがでしょうか。
○山崎委員 余り発言する中身がないんです。実は問いかけの第1から第6までいただいたときに、私は第2から第6は全くお答えしておりません。途方に暮れまして、これまでこういう関係の研究をしたことがございませんので、自己抑制をしたわけではなくて、出すものがなかったというのが率直なところでございます
今日の議論、特に前半の御報告は大変勉強になりました。改めて植木先生に御礼申し上げます。
全般的な雑駁な印象なんですが、定義の仕方も障害者でいくか、障害でいくのか。多分2つがあるということを改めて感じたというのが第1点です。
第2点として、一般的に定義するということなのか、非常に厳密に救済の対象になり得るという形で限定していくのかというところが、今日の段階では私の印象としては余り見えていなかったので、今の段階からそこをクリアーにして議論を進めた方がいいのか、それは置いておいた方がいいのか、私は今の段階でよくわからないんですが、その辺りはいろいろ整理すべきことはあるというのが今日勉強して感じたところです。
以上です。
○棟居部会長 辛口の集約をいただきまして、しかし、おかげさまで、今、何を議論しているのか私自身はよくわかったような気がします。つまり立法に落とし込むときに、先ほどの山本委員の御発言の中にもありましたけれども、どうくくっていくんだ。例えば障害なのか、障害者なのかということも非常に大きな分かれ道ということです。言葉の恐さをますます感じるわけです。
そういうことでほぼ時間になりかけております。今、山崎委員が全体を総括されるお話をされましたけれども、ほかにも自分の観点からこうだという御発声がありましたら、承りたく存じます。
御指名させていただいて恐縮ですけれども、松井委員は今日の議論についてどのようにお考えですか。
○松井委員 ありがとうございます。
今回、差別禁止を全体で議論するのは初めてですけれども、既に厚労省の労働政策審議会で議論をしています。これは労働分野です。そういう意味では、個別分野との関わりというか、労働分野では労働分野における差別禁止の絡みで議論しているわけですけれども、ほかの分野で今後この問題をどういうふうに考えていくのか、この議論と関連づけながら展開していくのかということを考えながら、今日の議論を聞いていました。
ありがとうございました。
○棟居部会長 どうもありがとうございました。
横を向けば労働に特化された議論だけれども、それはかなり細かい議論をされていると思います。そういう議論の状況も今後こちらにもどんどん発信していただければと思っております。周りを見て、だれも走っていないと道を間違えている可能性もございますので、別のところでこんなことをやっているというと、こちらの方も半歩、一歩前に出るというファイトも湧いてくるということが個人的にあるかと思います。
ちょうど時間になってまいりました。
東室長、今後の段取りも含めて最後にお願いします。
○東室長 どうもありがとうございました。
事前に意見書を書いていただいておりましたので、発言が少ない方もあったと思いますが、推進会議では事前に意見を書きながら、あえてまた同じことを述べる方もいらっしゃいます。遠慮される必要は全くないと思いますので、よろしくお願いします。
次回は7月8日金曜日、14時から18時ということになっております。
次回の議論の内容としては、今、考えておるのは、直接差別がメインになると思っています。直接差別は基本的な差別の類型に当たるわけですけれども、障害を理由にする差別というのは、大体3つの部分からなるわけです。今日議論したことを前提に、障害と差別を結ぶ問題というのは議論されていませんけれども、大きな問題で、この問題が2010年のイギリスの一般平等法では起因する差別という形で、障害自体はインペアメントならインペアメントでもいいけれども、そこから発生する事由に基づく差別ということでいろんなものが入ってくる。そういう第2の直接差別の類型という問題もありますので、そういう部分の議論。
最後には差別とは何かという、権利条約を見てもらってもわかりますけれども、書き方としては、異別取扱いという要素と、不利益処分という要素が混ざって書いてあるんです。その2つの要素をどうするかという辺りが議論になると思っています。
そのほか、特に理由とするという文言を使う場合、主観面として何が必要なのか。理由とするという場合には、理由とするわけですから、当然そのことが主観的にも入っているわけです。しかし、差別意図との関係でそういう主観的な要件をどこまで求めるのかという議論も出てくるのではなかろうかということを、今、考えております。
なるべく早く論点表をつくりまして、送りますので、なるべく早く返していただければと思っているところです。
どうもありがとうございました。
○棟居部会長 どうもありがとうございました。
1点、次回なるべく早く送られてくるという意見照会の一覧ですけれども、前回、立て続けに2つ送られてきて、後の方はイエス、ノーをまず書くような指定になったような印象を私は持ったんですが、特にそういう結論を判決主文みたいに書く必要はないですか。書き方の話で恐縮です。理由がざっとあって、大体見ればわかるけれども、統計的にはまずイエス、ノーというのが必要だと思ったりするんですが、いかがでしょうか。
○東室長 まず結論を書いていただいて、次に理由を書いていただくという形にしたいと思います。
○棟居部会長 そういう書式でお願いしたいということでございます。
どうもありがとうございました。本日の「差別禁止部会」の議論は以上で終了したいと思います。
また、植木さん、ありがとうございました。
本日の概要につきましては、この後、記者会見において私と東室長から説明させていただきます。
本日はお忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございました。以上です。

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