第1分科会「高齢社会フォーラム・イン東京」

「大衆長寿時代のパイオニア――生き方と社会づくり」

 平成22年度高齢社会フォーラムの基調講演
「人生100年の生き方~すべての人に居場所と出番(樋口恵子)」
「最期まで生きがいを組み入れたプラン(堀田力)」
を踏まえ、
高齢社会におけるサクセスフルエイジングを目指した人生設計について考えます。

 主なテーマは、「健康・生きがいづくり」「老後の生活設計」等です。 

コーディネーター
嵯峨座 晴夫
早稲田大学名誉教授:「大衆長寿時代の生き方」等
■パネリスト
樋口 恵子
高齢社会をよくする女性の会理事長
梅原 健次郎
神奈川高齢者生活協同組合相談役
鈴木 絹英
ホールファミリーケア(傾聴ボランティア)協会理事長
第1分科会の様子1

〔はじめに/分科会の趣旨説明〕

嵯峨座:コーディネーターの嵯峨座です。この分科会の進め方は、まず、3人のパネリストの方々に「あいうえお順」でお話しいただいたあと、皆さまからの質問や意見を頂戴し、それに対しパネリストの方々が答えるかたちで進めたいと思います。

 さて、テーマの「大衆長寿時代」は、われわれ一人ひとりが等し並みに長寿を手に入れることができる時代を意味します。いま日本は、もう「人生80年時代」を過ぎて新しい状況に入りつつありますが、高齢者間での貧困率や所得格差の拡大等、最近の高齢者の生活状況の格差がちょっと気になっています。高齢期に直面するいろいろなリスクやイベントをどう乗り越えていくかというサクセスフル・エイジングの観点から、新しい高齢社会状況のなかで高齢者がどう生きるかについて、本日は皆さまと一緒に考えたいと思います。

 6月30日発表の「平成22年国勢調査人口速報集計」によれば、2010(平成22)年に65歳以上の人口の比率である高齢化率は23.1%です。また、国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口(平成18年12月推計)」では、6年後の2017年には、65歳~74歳よりも75歳以上のほうが全人口に占める割合が多くなり、そのとき、前期高齢者が約1,741万人、後期高齢者も約1,757万人で、全人口に占める比率はそれぞれ14.0%と14.1%です。かつて日本の高齢化率は1970年に7.1%に、1994年に14.0%に達しまして、2017年には後期高齢者の人口比率が14.1%と推計されています。そうしたなかで重要な点は、一人暮らし、あるいは夫婦のみの高齢者世帯の増加が顕著で、人生の最後の時期を送るのに、いろいろな問題が起こる可能性が高いことが示唆されることです。

 本日のフォーラムの設定の趣旨の一つは、超高齢社会のなかでどのように私たちは生き方を、とりわけ「生きがい」の問題を追及するかにあると思います。生きがいは、いくら健康を害していても、寝たきりであってもあり得るし、後期高齢期、あるいは人生の終末期、死への道行きというプロセスも視野に入れて、私たちはそれを追及していく必要があると思っています。

〔各パネリストからの報告〕

◆梅原 健次郎(神奈川高齢者生活協同組合相談役)

○大病しながら切り拓いた人生

 私は昭和5(1930)年生まれで、現在81歳です。私は、いくつもの大病をしながら社会参加と社会参画をすることによって、生きる道を自分なりに切り拓いてきたと思っています。そこで、こういう機会に私の生き様を皆さまにお話しして、あとは皆さまがどう受け止め、今日のテーマにリンクさせるかは皆さまのご判断に委ねたいと思います。

○定年間近に突然襲ってきた病魔との闘いと、社会福祉を学び直す

 私は、元々は都市銀行に勤める普通のサラリーマンで、26年前当時の定年年齢である55歳を間近に控えて、国際関係の部長や船会社の役員として、国際業務に携わっていました。55歳のときに、私は階段がまず昇れなくなり、次第に足が動かなくなってきました。そのうち、署名や、判を押すこと、ペンを持つことができなくなり、首から下が何となく硬直してきて、歩くのも億劫になってきました。

 そのため日赤医療センターで全身を隈なく検査しますと、頚椎症性脊髄症(けいついしょうせいせきずいしょう)という首の病気だと分かりました。この病気は、全身の神経の束が通っている脊椎管が全体的に締まってしまって、脊髄を圧迫するという難病です。当時まだ首の骨の大手術の前例がなく、このままだと残り3年間の命と宣告され、手術の成功率はそれほど高くないが、手術をするかどうかを整形部長から尋ねられました。私は、手術に賭けてみることにしました。

 首の骨を上から下まで縦に割って、両方に溝を彫りまして、脊柱管を開き、そのなかの詰まっているものを全部出して、脊髄を圧迫から開放する脊柱管拡大術という手術を受けました。私の骨盤から1センチ、1センチ2ミリ、10センチの角棒状の骨がえぐり取られまして、それを整形して拡げた首の骨のあいだに持っていき、ワイヤーで固定しました。このようなロボット状態で私は8ヶ月入院しましたあと、南紀白浜にある国立温泉病院で、3ヶ月間リハビリをびっちり行い、帰りには何とか杖を突いて自分の力で多少歩ける状態をつくりあげ、自宅へ帰ってきました。

 その後、必死になってリハビリに取り組みながら、いろいろ考えた挙句、新しい人生を切り拓くために、もう一度一からやり直しで勉強をしようと心に決めました。

 まず学びだと考えました。いままでの世界の反対側の世界をもう一度勉強し、これまで歩んできた道と一緒に考えて、人間の世界をもう一度見つめ直したいと思いました。そこで、私のように1種2級の重度身体障害者のため通学ができなくても、当時、日本で、唯一通信教育で正規の大学課程の福祉を学べる佛教大学の門を叩き、3年に編入しました。

 それからが、全く新しい世界でした。毎日触れる書物、大学から与えられるレポートの課題、試験に臨むための勉強、論文書き、これらで毎日が新鮮でした。実習の関係もあり、2年間で卒業できるところ、1年延ばして3年間で卒業しました。

○カウンセリングの仕事への取組みと癌との闘い

 引き続き、社会福祉の国家試験がちょうど始まったときだったので、今度はそのための実習をしなければならないので1年延ばして、社会福祉の国家試験を受け、首尾よく合格しました。このとき、60歳以上で合格したのは2人だけでした。引き続いて、中高年の生きがいづくりに取組む「健康生きがいづくりアドバイザー」に応募し、その資格も得ました。

 社会福祉の国家資格と健康生きがいづくりアドバイザーの資格を取ったあとは、サラリーマンで、生きる力をなくしているような人の相談に乗ることにしました。御茶ノ水に開設された「心理教育相談室オアシス」で相談業務を始めました。近所に電機メーカー、証券会社、保険会社等の本社があり、管理者と言われる人たちが、通院している近所の内科医院からこの心理教育相談室へ回されてきました。私は、真剣に悩んでいる人と向き合い、何が悩みの原因だろうかと一緒になって考えました。家庭に問題があれば、その家庭に飛んで行き、職場に問題があるときには、その職場で人事部長に会い、実家の両親の問題はその人の故郷の実家にまで出かけて行きました。

 一生懸命飛び回っているうちに、再び自分の身体がまいってしまいました。私は、頚椎の狭窄(きょうさく)で首から下は知覚神経が脱落しているため、痛いとか冷たいとかの感覚がいまでもありません。そのような身体ですから、体液の循環が非常に狂ってしまい、血液やリンパの循環がおかしくなって、右の腎臓にゴルフのラージボール大の癌ができました。見つかったときには手遅れで、右の腎臓を摘出しました。癌は肺に転移していました。退院後は抗癌剤の筋肉注射を自宅で3ヶ月間自己注射しました。その後3ヶ月経ったときに、たまたま病院に行ったときに肺梗塞を起こしました。直ぐに救急病棟に担ぎ込まれ、応急手当を受けたので死なないで済みました。それどころか、梗塞が転移した癌の病巣のところで起こったため、転移が止まってしまいました。こういうラッキーなことまで体験しました。

○大学における後進の指導と学会や合唱団への参加

 そうこうするうちに、佛教大学から後進指導の依頼で、大学の授業を持つようになり、週3日間は京都で生活をせざるを得なくなりました。それはつい去年まで続きました。

 また、日本女子大学名誉教授の一番ヶ瀬康子先生が主唱される福祉文化学会の創設に関わり、その理事を務めたことを始め、いろいろな学会活動にも首を突っ込みました。

 それから、いろいろな障害者、高齢者、児童の施設等に関わりました。そのなかで、姥山寛代(うばやま ひろよ)さんが代表をしている「地域福祉研究会ゆきわりそう」へ障害者の人たちといろいろ交流をしているとき、「貴方も一緒に歌いましょうよ」と誘われました。ベートーヴェンの「第九」を歌おうと結成された「私たちは心で歌う、目で歌う合唱団」に入りました。女房も「私も歌いたい」と一緒にその合唱団に入りました。毎日曜日、小学校の講堂で原語の歌を練習しました。団員のなかにはストレッチャーに乗りながら歌う重度の障害者もいました。ドイツのボン大学講堂で発表しました。私も女房と一緒に心のなかで自らの人生の喜びを重ねながら歌いました。ドイツ人の人たちはわれわれのところへ来て、「これぞ本当にわれわれが求めた"歓喜の歌"です」とまで言ってくれて、肩を抱いてくれました。

このように、度重なる大病とつきあいながら、私は、大学で教鞭を執りつつ、福祉に関わる学会活動や文化活動、さらにはその後のいろいろな非営利組織やボランティアの活動に幅広く取組んで、現在に至っております。

嵯峨座:それでは次に鈴木先生にお話を伺いたいと思います。

◆鈴木 絹英(ホールファミリーケア(傾聴ボランティア)協会理事長)

○高齢者による高齢者のための相談事業への取組みから

 私は、高齢者の方を中心として家族の方たちの心のケアをしたいとの思いから、1993年にホールファミリーケア協会を創り、その代表をしています。この協会の主な活動は、全国的に傾聴ボランティアの方たちを育成していくことです。

○アメリカに出かけ、シニア・ピア・カウンセリングを学ぶ

 アメリカではシニア・ピア・カウンセリングという高齢者同士の仲間が、話し相手や相談相手を欲しがっている方のところで、話を聴いたり、相談に乗ったりするボランティア活動が20数年前から行われていることを知り、その発祥地の米国カリフォルニア州サンタモニカの、あるパブリックの大きな研究所に出向き、どのような活動なのかを勉強してきました。そのとき、とてもびっくりしたのは、シニア・ピア・カウンセラーの方たちが概ね70代、80代、90代で、この活動を、生きがいを持ちながら、20年間やっている方たちや、車椅子に乗っている方たちが大勢いたことでした。

 このシニア・ピア・カウンセリングのプログラムは、必ず心の健康と身体の健康が両輪となることで私たちは初めて健康と言える、という理念に基づいており、その心の健康を保つには、向き合って話を聴いてあげることが一番だというものです。このプログラムにいたく共鳴しました私は、この傾聴活動を自分の人生の生きがいにし、同時に社会づくりに役立てたいと思って、勇んで日本へ帰りまして、シニア・ピア・カウンセラーイコール傾聴ボランティア、という名前で養成を始めました。

○「生きるエネルギー」を高めること

 傾聴はまず、人との関わり方、つまり、いい人間関係をつくること、これをベースにしながら、そのうえで、相手の方がご自分のなかに溜まっている諸々の思い、この澱を自由に吐き出してもらいます。ですから、私たちは、その邪魔をしないように、どのような話を聴いても、否定はしないで、素直な気持ちで、相手の気持ちに寄り添いながら、少しでも気持ちを共有させてもらいながら、いい関係をつくって聴きます。

 私たちのお喋りには大きな要素があって、知らず知らずのうちに、その要素を自分の心のなかに秘めながら、必ず歩いてきた、あるいはいま頑張っている人生の物語を話します。

 その要素の一番大きいものは、誰かに自分のことを分ってもらいたい、認めてもらいたいという「存在認知」です。どの人も、この欲求がない人はいない、と言われています。

 もう一つの要素は、自分がこの世のなかで一番大事な存在だ、という「自己重要感」です。自分がこの世で一番重要で、誰もが自分のことを大事にしてもらいたいという欲求があります。「存在認知」「自己重要感」の、この二つが心の健康の大事な栄養素で、これを充たすために私たちはお喋りをします。高齢者の方は特に、昔話をする人が大勢います。その昔話は概ね、男性は仕事の話、女性は子育てをしていたころの話といった、輝いていたころの、あるいは頑張っていたころの自分の話です。何故かと言えば、認めてもらいたいからです。歳を取っていくと、全体の機能が否応なしに衰えてくるので、できていたことができなくなります。そうすると、認めてもらえていない寂しい思いや、自信の喪失が出てきます。昔話をして、自分を分かって欲しい、認めて欲しい、なお且つ自分を大切に扱ってもらいたいと訴えているのです。高齢者自らが、生きるエネルギーを高めていくときにとても大事なことなのです。

 与えられた命のなかで自分らしさを輝かせていくうえで、辛いこと、寂しいこと、苦しいことを乗り越えるためには、エネルギーが必要で、このエネルギーを「生きるエネルギー」と私は言っております。この「生きるエネルギー」を自分のなかで湧かし、いわば自家発電をすることができるのが、「分かってもらえた」「認めてもらえた」「自分は大切に扱われているのだ」、という安心感です。傾聴ボランティアの目指しているのは、相手の方の「生きるエネルギー」を高めるお手伝いをすることです。

○傾聴ボランティアは、「お互いさまの相互支援活動」「聴くことでできる社会貢献」

 ところで、病気や障害等でサポートが必要な方たちのために、元気な高齢者の私たちが支援、お手伝いをすると、私たちは誰かのために役に立つという生きがい感が増します。この誰かのために役に立つという「自己有用感」、そして「生きがい感」が免疫力を大変高めることが、精神免疫学の先生方の調査研究のなかで発表されています。他方、いろいろな支援・サポートが必要な15%未満の高齢者の方たちは、傾聴ボランティアの人たちがその方たちのところへ出向き、一生懸命話を聴かせてもらって、「分かってあげる」「認めてあげる」ことによって、自分のことを気づかって、分かってくれて、大事に、優しく丁寧に関わってくれる人がいるのだというという安心感から、免疫力が高まります。このように、私たちの傾聴ボランティアの活動は、お互いさまの相互支援の活動なのです。そして、真のコミュニケーションは、温かさの伝え合いなのです。

 日本では大勢の高齢者の方たちがいることによって、医療・介護関係の財政支出が厳しくなり、高齢者施策のあり方が模索されています。だから、一人ひとりがちょっと聴くトレーニングを受けて、一人暮らしや日中独居の方たちのところへお邪魔しながら、その方たちの人生の物語を、否定をしないで、素直な気持ちで、相手の心に届くような愛語をかけつつ、聴かせてもらうと、健康寿命が高くなります。そうすれば、介護費や医療費も軽減できるではないですか。私たちのモットーは「聴くことでできる社会貢献。それも歳に関係なく、障害に関係なく、どのような方にでもやっていただける社会貢献、ボランティア活動」です。聴くことにより人間関係を密にでき、人との素晴らしい関わり方ができるようになりますから、機会があれば是非一度ご参加くだされば有り難いと思います。

嵯峨座:最後に、樋口先生にお話を伺いたいと思います。よろしくお願いします。

◆樋口 恵子(高齢社会をよくする女性の会理事長)

○「人生百年時代」の生き方

 私は午前中に十分お時間を頂戴いたしましたから、今回は鈴木先生、梅原先生のお二人のお話伺いまして、テーマに即して、私自身触発されましたことについて若干感想めいたことを述べようと思います。

○傾聴ボランティアはお互いさまの相互作用の前提こそが大切

 私は人間の根本的欲求は、食欲、性欲とコミュニケーション欲求の3つであると前からそう思っていました。このなかで、コミュニケーション欲求は、私たちが心を持ち、歴史、言葉を持った存在であるからこその、人間が社会的動物である基本だと思います。皆さんは、今日のシンポジウムでいろいろ知識を得られ、得をなさったとは思いますけれど、悪いけど、皆さんよりも元気になって帰るのはこの壇上にいる4人です。何故かと言えば、皆さまという名の素晴らしい傾聴ボランティアに話を聴いていただいたからです。

 私はいまでは話が結構上手だということになっていますけれど、一朝一夕でなったのではありません。樋口ぐらい図々しい人はいない、と今は思われていますが、私でも女子栄養大学での初講義では、準備した大学ノートを2枚一緒にめくったため、90分講義が60分で終ってしまいました。公開シンポジウムの司会の初体験では、最初の10分間手の震えが止まりませんでした。そういう失敗のうえに、舞台の役者もオペラ歌手も演奏家も、その演技力・能力を観客によって育てられるのです。

 私たちはいまや、超高齢社会でお互いによれよれになっていく、明日のわが身今日はどうやらという中にあって、傾聴する人も、される人も、実はお互いさまの相互作用であることを心得ていかないと、上から目線になったり、あるいは必ずしもいい話が引き出せなかったりすることもあり得るのだと思いました。今日私は、鈴木先生のお話を聴いて、つくづく講演会の聴衆という辛抱強い傾聴ボランティアによって本日の樋口恵子があると痛感し、あらためて感謝している次第です。

○胸腹部大動脈瘤(りゅう)感染症を克服

 梅原先生のお話ではまた、いろいろなことを考えました。実は、私も大病をしているのです。つい最近では、2009年の連休に胸腹部大動脈瘤感染症という大病をいたしました。4時間半の大手術で、4個あった大動脈瘤のうち、大きい3個を取って人工血管に置換する手術を受けました。おかげさまで生き延びて帰ってまいりましたが、一生分の痛さを経験しました。24日間の入院中はほとんど物を食べられませんでしたから、その間で7キロぐらい痩せて、その後2キロ、リバウンドしました。差し引き5キロ減、非常に動き易い状態になりました。

「人生百年時代」という言葉をさかんに広めたのは私だと思います。「人生百年教」の教祖のつもりで「人生百年社会」のいろいろなデザインや生き方について提言し、自分もそのように生きたいと思っていたのですが、こう大きくヒビが入ると、どうも100歳は無理のようです。ですからいまの私は女性の平均寿命86.44歳を目標に生きようと思っています。いま79歳ですから、80歳に向けてのカウントダウンの日々を、70代最後の1年を、丁寧に生きようと思っているところです。

○「自己有用感」にも一番繋がる「働くこと」

 私は、寝たきりの人だって役に立つように、小遣い程度がもらえる有償ボランティア的な仕事でも結構ですから、もうちょっと仕事が多くの高齢者に与えられればいいと願っています。まさに人間のコミュニケーション欲求を最大限活かすのは働くことで、働くは「傍(はた)を楽にする」ことだと言われるように、広い意味での働くことは、何らかのかたちで他者を助けお役に立つという「自己有用感」、他者との繋がりで自分の能力を生かす社会参加、それら人々との関連性等を一時に味わうことができます。この労働の場、就労の場が広がれば、これが何よりも介護予防に繋がると思います。私どもの「高齢社会をよくする女性の会」でつくった介護予防の標語は、「歩いて買物、近くに仲間、ちょっと稼げる仕事があって、これが本当の介護予防」というものです。

○長寿社会は「病み上手」「死に下手」「生き上手」の三点セットで

 元気な人が増えていくことは、いまの医療や介護費用の上昇率を少し緩やかにすることはできると思います。しかし、人間には寿命というものがあって、生命体としての老化が心身ともにあることも事実です。いま日本で医療費38兆円、なかでも65歳以上の人の医療費が6割以上占めています。若干縮小することはできるにしても、老いれば医療費はかかります。これは平和と豊かさの代償としての高齢化の対価として、皆で払っていかなければならないものです。

 私の姑はとても面白い人で、身体が弱くて何度も死にかけるのです。私は、一人息子の嫁でしたから、その度に駆けつけるのですが、行くと5遍ぐらい治りましたね。姑は笑いながら「恵子さん、ごめんなさいね。またお呼び立てして。私のようなのが病み上手の死に下手と言うのです」。凄い台詞です。

 実は、「人生百年社会」では、皆、部品をその都度入れ替え取り替えしながら、生き長らえています。その意味で私たちの社会全体が「病み上手の死に下手社会」になったのです。だから私たちは、そのなかにおける「生き上手」な人々になっていかなければならない。「病み上手」「死に下手」「生き上手」、これが絶対矛盾的自己同一(相反する二つの対立物がその対立をそのまま残した状態で同一化すること)という課題です。

 その生き上手とは、ヒョロヒョロ元気、ヘロヘロ元気です。これからは一病息災ならぬ多病息災。私の友人の吉武輝子氏は、私を上回る病気の問屋でありまして、先だって『万病息災』という本を出版されました。いつも酸素ボンベを引きながら全国を講演して歩いています。彼女がよく言う台詞は、「私は病気ではあるけれど、病人ではない」というものです。そのとおりです。私は、別の言葉で言います。「病気になっても元気であればいいのです。病気と元気は一字違い。病気であっても元気を失わずに病めばいいのです」と。難しいことですが、これが病み上手の生き上手です。

 長寿社会は、否応なく「病み上手、死に下手、生き上手」になります。それは、仮に病気になっても、傾聴ボランティアやいろいろな方のお助けを得て、自分自身もへこたれず、病気であっても病人でなければ、それでいいのです。病気でも元気で、少なくとも平均寿命まで私と一緒につきあってくださいよ、と申しあげて終りたいと思います。

嵯峨座:お話を聴いて、今日のテーマのサクセスフル・エイジングの本当の中身は、「病み上手、死に下手、生き上手」という言葉が当てはまるかなと大変印象に残りました。

〔質疑応答〕

嵯峨座:それでは、3人のパネリストの先生の発表に関し、会場の皆さまから質問や意見を頂戴し、何人かの質問、意見をお聴きしたうえで、先生方からお話しをいただこうと思います。

質問者1:品川区で知的障害者のグループホームを手伝っています。温かさの伝え合いを意図する傾聴ボランティアの活動のお話に共鳴しました。鈴木先生に、傾聴ボランティアの活動をどのように展開しているかについて教えていただきたいと思います。

質問者2:東京にある2つの高齢者関連団体の役員です。65歳以上が7%以上を高齢化社会とした1956年の国際的な基準にもとづく高齢者の定義と高齢者の実態とのあいだで現在乖離が見られるように、日本はいままでずっと過ごしてきた過去の状態を引き摺っている一方で、社会の仕組みが殆ど変わっていないので、その仕組みを変えないと長寿社会全体として実現すべき目標が見えてこないのではないかと思います。いかがでしょうか。

嵯峨座:いまの2人のご質問・ご意見に対し先生方からご回答・ご意見をお願いします。

鈴木:傾聴ボランティアの活動展開についてのご質問ですが、私たちは、スタート時点では、確かに高齢者の方が傾聴ボランティアの対象者でしたが、いまは、さまざまな分野から傾聴ボランティアへのご依頼があります。たとえば1つには、認知症の方の症状の進行を少しでも食い止めるうえで、傾聴ボランティアが認知症の方に関わることが大事だというので認知症の方の傾聴を行っております。それから、自殺防止のための傾聴ボランティアです。希死念慮(きしねんりょ:客観的に理解できない理由で、死にたいと願うこと)、自殺念慮(じさつねんりょ:自殺をしたい、という強い考えや意志に反して、自殺衝動が頭のなかで満たされること。自死念慮とも言う)を持っている方の予防や防止のためには、何より傾聴が必要であると言われています。この場合の傾聴は一般の方と比べると、ちょっといくつか留意する点があります。このように、同じ傾聴がベースにはなっていますが、相手の方の状況によって変えなければならないこともあるので、私どもの協会ではある程度傾聴の知識、技能のほかに、その方の持っている症状なり、いろいろな特徴なりを、併せて勉強し、傾聴の基本をそこで生かしていきながら、関係づくりをしています。

樋口:自殺防止について、友人たちのなかには「いのちの電話」に取組んでいる人がいますけれど、鈴木さんは、まさにこの命の正念場の場面でいまどのような活動をされていますか。

鈴木:「いのちの電話」を担当される方は、基本的には傾聴の技法を身につけています。自殺防止に一番効果が高いのは、話を聴いてあげることだと言われています。たとえば、働き盛りの男性が自殺を選ぶのは、会社のなかで自分が頑張ってきたのにリストラされたというように、いままでの自分の頑張りを否定され、それで鬱になって、自殺を選ぶ例がとても多いと聞いています。ともかく自殺をはかる方は「自己肯定感」の意識がとても低く、自分自身を安心して受け入れられないので「自尊感情」の回復が必要です。そのためには、自殺をはかる前の段階で、どのように自分が頑張ってきたのかについて、それを否定しないで、受容しながら、下手な慰め方はしないようにしながら、まずは一生懸命聴いてあげることが大事です。ゲートキーと言いまして、私たち傾聴ボランティアは、専門職ではないので、自殺をしようとするのを止めることよりも、その方たちのお話を聴きながら、その方が追い詰められた要因等についての話を聴いて、それを専門の窓口に繋げていく役目をすることで、自殺防止に関わっております。

梅原:傾聴も大事ですが、私は、日常生活での人と人との関わりのなかで、温かさを伝え合う血の通ったコミュニケーションが定着するような社会づくりをするのが本筋ではないだろうかと思います。いま会場の方が言われていたように、いままでのトレンドの延長線上で物事を考えること自体がおかしいのであり、仕組みそのものを変える必要がある、というのは名提言だと思います。ではどうするか。地域にちょっと腰掛ける椅子をつくることからスタートするのも一つの手です。それによって、そこに誰かが座ればお互いにコミュニケーションができる。そのように一言話ができることで一日全部が変わります。実は、私は毎朝6時に起きて、欠かさずわが家と近所の家10軒の前の路を掃除することをもう何年も続けています。登校途中の中学生や小学生が「小父さん、お早う」と言いながら登校してきたり、なかには、知的障害の方がいて、私に抱きついてきたりして、そのコミュニケーションだけで私は元気をもらっています。そういうコミュニケーションの機会や場が日常生活に定着することで、もっと世のなかが安心できる社会になると思います。

嵯峨座:高齢化社会が7%というのは、国連が仮に決めた基準であり、1956年に65歳以上の比率が7%以上の国が先進国に多かっただけで、いまでは通用しないと思います。事態が変わったときに、システム、仕組みがついていけない場合は、仕組みをむしろ変えて対応していくべきだと私も思います。それでは、引き続きご質問・ご意見をお願いします。

質問者3:千葉からきた85歳の者です。われわれ高齢者が地域の子どもが健全に育つためにどういう役割を果せるか、をもう少し真剣に考える必要があると思っています。

質問者4:市川からきました。いま54歳で、自治体連合会の会長をしています。いま、私のような現役世代が地域に関わるのは稀有で、現状日本では、男性は会社に縛りつけられていて、ワークライフバランスならぬ、ワークオンリーライフの状況です。この状況を変えないと、現役世代の男性は地域に関われないし、日本の高齢社会の明日はないと思います。

嵯峨座:ここでまとめて、先生方からご意見やご回答をいただきます。

樋口:他の先進国と違って、私たちはいま、人生50年社会から、少なくとも人生80~90年社会に、たった一世代で一跨ぎにきていますから、適応している時間が短かった。実は、私はそう思うからこそ、40歳の昔から男は仕事、女は家事・育児の性別役割分業を変えようと言い続けてきました。男は仕事、女は家事・育児でも、ある時期の社会には適合しました。人生50年で、その時代に女は6~7人の子どもを産み育てました。その当時、専業主婦は優雅な稼業ではなく、重労働の世界を生きていたのです。そのうえ、農家の主婦たちは家業の一翼を担って畑仕事までしていました。そういう社会からあっという間に、3食昼寝つき永久就職と言われる時代に、主婦の家事労働を巡る環境も急激に変わりました。

同時に、寿命はどんどん延びていき、これからまもなく大介護社会が到来します。私は、ボランティアも、官も、民も総揚げにして、大介護社会に取組まなければならないと思います。そうしないと介護保険も成り立ちません。何故かと言えば、介護保険が始まってからこの10年間に、要介護者ではなくて、介護をしている人、つまり40代~60代ぐらいの人の家族の状況が大変化したからです。

 いまや高齢者のいる世帯は、一人暮らしとお二人さまで過半数を超え、つぎが3世代世帯を抜いて高齢者と未婚の子どもの家庭です。われわれの世代が介護保険を論議していたころは、いま70代ぐらいの方がまだ嫁でして、嫁に介護負担がかかり過ぎ、これは女性差別でもあると言って、私たちは、いろいろ働きかけて介護保険創設に努力しました。

 でもいまは、嫁がいなくなったのです。自分の実家のことはさておいて、嫁いだ家の両親を看ることができる人のことを「嫁」と呼ぶならば、いまは「嫁ゼロ社会」になりました。われわれが50代、60代であったころは平均4~5人きょうだいがいましたから、嫁は婚家の両親を看ることができ、自分の両親には自分の弟か兄さんのところへ、大勢兄弟の女の子が嫁にきてくれますから、それで計算は合っていたのです。

 私は、大台少子化世代と呼んでおりますが、昭和25(1950)年生まれの方々は、まだ兄弟が3.65人いました。そして、それからたった10年経った昭和35(1960)年の合計特殊出生率は、なんと2.00で、それ以降2をほとんど回復していません。つまり日本は、団塊の世代が終ると、親の数の2倍子どもがいた社会からたった10年間で、親は2人、子は2人弱という社会に変わったのです。これからは介護世代が、親は1人に子は1人、しかもサラリーマン世界ですと、1組の夫婦の傍に4人の親がいて、他の子は海外や国内の遠隔地へ行くこともあるため、半径50キロ以内には、4人の親に50代~60代の1組子夫婦がいるだけになります。そして、その夫婦が60歳にもなると、親たちが80、90歳となり、同じ年頃ですから同時に倒れます。これを「同時多発介護」と言います。言葉は面白いけれど、悲劇です。しかも、子どものほうは共働きが増えています。

 この10年間の大きな変化は、主たる介護者の性別で、男性が10数%から28%に増えたことです。いま、家族類型の3番目に躍り出ている「高齢者と未婚の子」というときの、未婚の子の性別は、日本の家族制度から言いまして男性のほうが高いはずです。いま、これから介護に直面するのは、未婚の息子と老夫婦です。大部分の50歳ぐらいの娘や息子は、しっかりと勉強もし、きちんとした職業にも就き、外にでれば一人前に通用する、会社では管理職ないし管理職寸前の自慢の娘や息子たちです。しかし、ここで親が倒れると自分が退職せざるを得ない。嫁さんが代わりに退職して看てくれる時代ではなくなって、男たちはいま50歳、60歳で介護離職に直面します。

 ここで、男も女も含めて介護離職すると、多くの問題にぶつかります。第1に、育児退職ならば二度目の再就職が可能ですが、50歳の退職は二度目の再就職が利きにくい年齢です。ですから、50歳で退職した人は、男女を問わず老後は路頭に迷いかねません。第2に、会社は長年研修費などもかけて50歳の管理職の男女たちにビジネススキルを身につけさせましたが、管理職年齢で辞めざるを得なくなることで、企業にとっても大きな損失となります。第3に、50歳前後の順調に勤め上げてきた人は、収入も高く、税金も高く、保険料も高いので、その分国家収入が失われることなります。介護離職は少し前まで年間10万人でしたが、いま14~15万人に急増しており、そのうちの男性比率が1割であったのが2割近くにまで急上昇しています。

 女が直面する困難な問題をおろそかにすると、必ず男にも災厄が及びます。女のパートとか非正規雇用は、主婦の小遣い稼ぎだと言って雇用の世界をいい加減にしてきたことが、いまの男性の3割が非正規雇用で、この人たちの老後が危ぶまれる状況に繋がっています。介護は女に任せておけばいいと思っていたら、いまや男が50歳で介護のために退職し、自らの老後を失うところにきています。つまり、いま最も大きくシステムを変えなくてはならないことは、人生百年型対応にし、男女共同参画にすることです。これが厭だったら、どうぞ長生きしないでください。

嵯峨座:有難うございます。もう1つ、先ほど会場から地域でどのように子どもを支えるかという問題提起もありましたが、私も毎日腕章をつけて、小学生の登校の見守りを行い、ついでにごみを拾っています。ところで、そのとき路行く人に朝の挨拶をし合うのですが、一番挨拶をしないのはお年寄りです。ということで、最後に厳しいエピソードをご紹介して、今日のこの充実した分科会を終わりにします。

 パネリストの3人の方々、会場の皆さま、今日は、本当に有難うございました。

第1分科会の様子2