第3分科会「高齢社会フォーラム・イン東京」
「シニアの地域社会活動の推進」
東日本大震災の被災地では、高齢の方が様々な場面で活躍しています。本分科会では、被災地でのシニアによる地域支え合い活動についてお話を伺った上で、地域社会の生活環境づくりや地域包括支援活動へのシニアの参画について、議論します。
第1テーマ「震災で学ぶ(被災地でのシニアの活動)」
- ■コーディネーター
- 吉田 成良
高連協専務理事、エイジング総合研究センター専務理事
- ■パネリスト
- 高橋 仁
仙台市健康福祉局部長、前地域活動推進課長 - 上原 喜光
全国介護者支援協議会会長 - 清水 福子
あかねグループ理事
〔はじめに/分科会の趣旨説明〕
吉田:第1テーマのコーディネーターを務める吉田です。第3分科会は、2部構成になっており、第1テーマでは「震災で学ぶ(被災地でのシニアの活動)」と題して、今回の震災・被災地においてシニアの社会的活動がどのように行われたか、ということを紹介していただきます。お集まりいただいたパネラーのみなさんは、被災地で実際に活動された方々です。
最初に、仙台市役所の高橋さんに、仙台の被災状況を含めて話していただきます。実は本日、仙台市では、東北の夏祭りを集めた六魂祭が開かれているのですが、高橋さんもその準備でお忙しい中、参加していただきました。ありがとうございます。
〔各パネリストからの報告〕
◆高橋 仁(仙台市健康福祉局部長、前地域活動推進課長)
○震災当時の仙台市
仙台市健康福祉局保険高齢部からまいりました、高橋です。みなさんもメディアなどを通じてご存知かとは思いますが、仙台市の震災による被害を説明しておきます。仙台市は東西に長く、東は太平洋に面しており、西は山形県との県境まで延びています。3月11日の地震では、津波によって沿岸部がやられ、4月7日の地震では、丘陵部が地割れなどの被害を受けました。
今回問題となったのは時間帯です。3月11日の地震は平日の午後2時46分でしたから、お勤めの人はみんな会社に行っていました。津波でやられた沿岸部というのは、一部工場などもありますが、主に居宅のある場所で、被害を受けたのは家にいて逃げなかったか、逃げ遅れた方々です。昔ながらの家があり、高齢者の方も数多くいました。
一方4月7日の地震は深夜に起きました。私はすぐに役所に向かったのですが、小さなお子さんをつれた人たちが避難所に向けて歩いているのを多数目撃しました。このように地震とはいっても起きた時間帯によって、避難者の種別や状況が大きく変わってきます。
また3月11日は大学受験もあり、受験に来て被災されたという方もいましたし、JRも駅を閉鎖していたので、行き場を失った旅行者も避難所にやってきました。深夜でしたが一部帰宅途中のサラリーマンなどもおり、駅周辺の避難所はさまざまな人が集まっていました。東京でも発生しましたが帰宅困難者の対応というのも大きな課題として残りました。仙台市の避難者の推移は次のようになります。
- 避難者の推移
- 3月12日 258カ所 105,947人
- 3月19日 141カ所 13,991人
- 5月24日 19カ所 1,703人
- 7月8日 9カ所 295人
地震の翌日には10万人以上の避難者が発生しました。避難者のタイプは大きく3種類に分けることができると思います。
<1>帰宅困難者
先ほどもいいましたが、会社帰りや旅行先で被災した人たちです。
<2>津波被害に遭った方
津波で自宅が破壊され、帰る家がない人たちです。
<3>一時的に避難した人たち
地震で危険を感じて、避難してきた人たちです。
従来の一般的な地震では<3>のタイプが多かったのですが、今回の地震では<1><2>の避難者が多かったのが特徴といえます。
○地域の主役はシニア
次に地震後の状況を説明します。水道、ガス、電気といったインフラ、さらに交通機関がストップして身動きがとれなくなりました。さらに携帯もつながりにくく、なかなか安否確認ができなくて不安が増大しました。これが一時的なものであればしのげるのですが、長期化したため、さまざまな困難が生じました。
今回一番きつかったのは、ガソリン、灯油といった燃料不足です。港がやられたということもありますが、ガソリンを運ぶタンクローリーまで波にさらわれてしまい、燃料を配ってまわる足が止まってしまったのです。この日は雪が降って非常に寒く灯油不足は大変な問題でしたし、生活の中心ともいえる車が使えないのは非常に不便でした。
また、交通がストップするということは流通にも影響します。いつも開いているはずコンビニが閉まり、開店できた店も棚に物があまり無いという状況でした。これはあとで笑い話になったのですが、ある雑誌を定期購読している人のところに、5月号が届いたあとで4月号が届くといったこともありました。そのぐらい流通は混乱していたのです。
このように物流が麻痺していますから、店には物資が満足に届きません。さらに緊急時になると水や食料を買いだめする人もおり、品不足に拍車をかけました。そうした中で、水や食料を入手できなかったのが高齢者です。品不足になると、限られた品を求めて多くの人が店頭に並びます。しかし高齢者は、体力的に長時間並ぶことができないため、食料や水の購入をあきらめてしまうのです。また、マンションなどではエレベータが止まってしまうため、階段を使えない高齢者は、外出自体が困難になるということもあります。今まで独りでもなんとかやっていける、とがんばっていたお年寄りたちも、今回は厳しかったようです。
ではこうした状況の中で、シニアがどのような活動をしたか、お話ししたいと思います。私たちが一番ありがたかったのが、町内会・自治会の役員さんたちです。町内会や自治会は、全国的に後継者がおらず困っている、という話を聞きます。仙台も同様で、ヴェテランの方が多いのですが、今回はそのヴェテランの方たちが大活躍をしてくれました。町内会や自治会といった、地縁で結ばれたメンバーが、安否確認や生存に必要なものを届ける、といった支援活動を行ってくれたのです。さらに「どこどこで困っている人がいる」「なになにが必要」といった話を行政につないでくれました。シニアの役員さんたちは、支援の担い手である地域包括支援センターや民生委員、地区社協、ボランティアといった人たちと連携しながら、地域を支えてくれたのです。
ここ数年いろいろなところで、地域のコミュニティが希薄化してきた、という意見を耳にします。地域の行事への参加が減少した、あるいは行事自体の存続が難しい、といった話も聞きます。価値観の多様化にともない、お祭りや運動会といった、娯楽性の高い地域の行事は敬遠されるようになりました。現代は、地域で楽しまなくても、自分にあったレジャーがたくさんあるからです。
それでも今回コミュニティが機能したのは、「震災のような大災害の場合は助け合いましょう」という意識が働いたからだと思います。そして地域のつながりや支え合いといったものが、まだまだ生きていることを認識できました。行政としてもこういった部分は継承していかなければ、と感じています。ただ、神戸市でも震災の後はコミュニティが活性化しました。ところが時間とともに薄れていった、という話も聞いております。
以上を踏まえて、どうすれば地域の中で安心して暮らしていけるか、を考えていかなければなりせん。地域の主役は、そこに住んでいる人たちです。冒頭でも言いましたが、平日の日中の住宅地においては、シニアの人たちが、地域の主な構成員となります。災害発生時には、シニアが知識と経験を活かして地域を運営していく場面も出てくるでしょう。今後はどのようにすればシニアが活動しやすい環境を作ることができるのか、そういったことも考えて行きたいと思っています。
吉田:どうもありがとうございました。では続きまして清水さんお願いします。清水さんは仙台市のボランティア団体で配食活動をしています。今回は、震災当時の様子や活動の状況などを報告していただきます。
◆清水 福子(あかねグループ理事)
○あかねグループについて
みなさん、こんにちは。仙台市若林区に拠点を置く特定非営利活動法人あかねグループで配食事業責任者をしている、清水と申します。このたびは大震災に際しまして、みなさまからご支援をいただいた事を大変うれしく思っております。絆の強さや暖かさを感じた日々でした。みなさま本当にありがとうございました。
さて、あかねグループについてですが、女性の自立と社会参加、福祉の街づくりをめざして29年前にスタートしました。誰もがいつまでも住み慣れた地域で暮らし続けるために、配食事業や訪問介護サービス、生涯学習の場の提供といった活動を続けています。
運営費は会員の支払う会費と寄付によってまかなわれており、現在会員数は正会員91名、準会員4名、利用会員が226名となっています。
○震災直後の活動
3月11日の地震が起きたとき、私は事務所2階にいました。慌てて配食サービスの準備をしている厨房に行き、避難するように言いました。激しい揺れによって調理器具が散乱し、3つあった炊飯器も床に落ちていました。また、大型冷蔵庫や調理台といったものまでが移動する激しい揺れで、何かにつかまっていないと立っていられない状態でした。そんな恐怖の中、スタッフは盛りつけ済みのお弁当を落ちないように、必死に守ろうとしていました。
揺れが収まった後、床に落ちたお弁当をどうやって作り直そうか、ということになりました。私たちは大雪でも台風でも常に弁当を作り続け、配食を休んだことがありません。ですから、地震の後も何とか配食するのが当然だと思っていました。しかし厨房の中は調理器具が散乱しており、お弁当を作れる状態ではありません。そこでコンビニへ買い出しに行ってもらったのですが、コンビニも物がありませんでした。
そんなときスタッフが、「卓上コンロが家にあるからもってくる」と言い、すぐに2台のコンロが集まりました。それでなんとか当日の配食分のお弁当149個分を作ることができました。
そして3時過ぎに配達を担当しているカーボランティアの方たちが集まってきました。このとき初めて「渋滞がひどい」「電柱が曲がっている」といった外の情報を知りました。そんな状況でしたが、とにかく配達するしかないということで、4時には出発しました。私も配達に出たのですが渋滞で車は動かず、停電であたりが真っ暗だったのを覚えています。ライトでお届け先の玄関を照らしながら配食してまわりました。停電しているためエレベータが使えず、11階まで歩いて登ったものの、お届け先が留守だった、という配達者もいました。いつもなら1時間半ぐらいで完了する配達ですが、この日は最後の車が戻ってきたのが7時40分でした。
配食の完了を確認してマンションの5階にある自宅へ戻ってみると、すべてのものが崩れ落ちてぐしゃぐしゃの状態でした。靴を脱いで上がれる状態ではなかったので、毛布だけ持ち出してその日から一週間ほど避難所で生活しました。避難先は小学校の体育館だったのですが、雪が降っていたので寒さに震えながら夜を過ごしました。また、東北一帯の惨状をラジオで聞き、本当に不安な気持ちになりました。
翌日、スタッフはあかねに集合しました。スタッフもみんな被災しているにもかかわらず、避難所から駆けつけてくれました。なにもできない状態であるのは分かっていたのですが、なにかをしたい、という思いが強く、若林区の区役所に行ってガスボンベを貸してくれないかと頼みました。ガスがあれば調理ができると思ったからです。ところが、区役所のほうも震災直後のパニックで対応できる状態にはなく、なんの返事ももらえませんでした。
仕方がないので再びあかねに戻り、スタッフと相談し、その日は休むということになりました。私たちが食事を届けている人は、毎日の配食を必要としている人ばかりですので、なんとか届けたい、という気持ちはあったのですが、震災の翌日だけはやむを得ず休みました。さらにその翌日、3月13日、スタッフが集まって、何かできることがあるのではないか、と厨房に入りました。何かを届けたい、という思いをスタッフ全員が抱いていました。冷蔵庫を見ると、焼きそばがありましたので調理し、そのほか残っていた果物や豆腐をセットにして配食の準備をしました。
そのとき、スタッフのひとりが「炭があるので一斗缶があればご飯が炊けるよね」と言いました。すると別のスタッフが「家にかりんとうを入れていた一斗缶がある」と答え、それでご飯を炊こう、ということになりました。これが午前中の講演で樋口さんが紹介してくださった「一斗缶」の始まりです。一斗缶を入手できたので、私たちは慣れない手つきで炭火をおこしました。しかし炭おこしというのは本当に大変で、なかなかうまくいきません。経験がないため最初は、缶に穴を開けるということすら知りませんでした。それでもなんとか穴を開け、炭をおこすことに成功し、ご飯を炊きました。
配食の弁当はできましたが、それ以外にも問題が山積していました。全員分の弁当はないので誰を優先するのか、また交通が麻痺しているなか誰が配達するのか。会員で話し合って、ひとつひとつ解決していきました。
弁当ができた頃、タイミングよくカーボランティアのみなさんが集まってきてくれました。しかしガソリンが入手できなくなっていたため、車を動かせません。そこで自転車による配達をお願いすることにしました。大変な作業ですが、みなさん快く引き受けてくださいました。車での配達時は二人態勢でしたので、カーボランティアは運転のみを担当し、弁当を直接手渡すということはしていませんでした。そこで、配達のマニュアルを説明するところから始めました。
カーボランティアのみなさんは、おにぎりを自転車の荷台に積み、1時間半か2時間ほどかけて、ひとりで7~8キロの距離を走ってくれました。それを30日間続けてくれたのです。体力勝負の配食を無事故で走りきってくれたことに感謝しています。
また、カーボランティアは車の運転だけではなく、グリーンサポートといって、庭の草むしりや剪定なども行っています。
このように、あかねグループの会員はみんな元気で、積極的に活動を続けています。あかね以外の場所でボランティアを掛け持ちしている人もいますし、震災直後にはボランティアセンターで活動をしている人もいました。また、会員同士でパソコン教室や編み物教室を開いて楽しんでいる人もいます。
厨房で活動しているボランティアさんの中には、手作り料理の良さを若い世代に伝えたい、ということで、親子料理教室を開いた人もいます。ちなみに、メニューはずんだ餅など、仙台の郷土料理でした。
あかねグループは、「出会い」「ふれあい」「学び合い」「支え合い」をモットーに歩み続けて29年になります。平均年齢は64歳になりましたが、会員はみんな元気です。いざという時に、自分たちがもっている力、知恵、積み重ねてきた経験を活かす場面があると思っています。今回の震災では、人のやさしさ、思いやりにふれることができ、助け合う中で各方面と協力態勢を作ることができました。ボランティア活動を通して自分のもっている能力を発揮することが、いきいきとした豊かな人生につながる、と思っています。
吉田:ありがとうございました。配付資料に道で豚汁を配っている写真がありますが、これは無料だったのですか?
清水:はい、無料で配りました。前々から決めていたわけではなく、冷蔵庫にあるもので何かを作らなければ、という状況で作ったものです。最初はみなさん遠慮して寄ってこなかったのですが、会員が食べてみせると、集まってくれました。
吉田:雪も降っていましたし、食べた人はうれしかったでしょう。
それでは引き続き上原さんよろしくお願いします。上原さんは全国介護者支援協議会の会長で震災の後、東京からボランティアとして被災地に入られました。
◆上原 喜光(全国介護者支援協議会会長)
○被災地におけるボランティア
全国介護者支援協議会の上原です。介護をしている人を支援していこう、という団体です。介護者が少しでも楽になるように、介護情報を提供するなど、さまざまな支援活動を行っています。今回の東日本大震災では、当協議会も支援活動を行っています。
今回は、被災地におけるボランティア活動についてお話ししたいと思います。私の前に話された高橋さんや清水さんは、仙台で被災された現地の方です。一方、私は東京で支援物資を集めてボランティアとして被災地に入りました。何回か現地に入っているのですが、その中から見えてきたものがあります。それは、現地に入っているシニアのボランティアが少ない、ということです。全国各地から東北へボランティアが集まっているのですが、遠方からのシニアの参加が、悲しいぐらいに少なかったのです。
ちょうど私は団塊の世代の一番上にあたるのですが、昭和22年から24年生まれの人口は、720~30万人と言われています。職人さんや自営業以外の勤め人は、みんな定年を迎えている世代です。ところが東北のボランティアの現場では、団塊の世代の影が、まったくといってよいほど見えませんでした。
南三陸、気仙沼、石巻とまわってきましたが、若い人たちは本当にがんばっています。
20代、30代が多く、会社に休暇届を出してきた、という熱心な人もいました。ただ、みなさん若く、熱意はあるものの、ボランティア文化が身についていなのです。
ある若者は、食料も何も持たずにいきなり被災地に入ってきました。コンビニは開いていませんから何も買えず、結局避難所に並んで食料をもらっていました。そんなことでは駄目ですよ、とアナウンスされると、今度は弁当やテントは持参してきます。しかし言われたことをやっているだけでは被災地のためにはなりません。
これは南三陸町の話なのですが、避難所の近くにボランティアの受付所があり、多くの若者が集まっていました。ご飯やテントを持参して働いています。ところが避難所の高齢者から、トイレに並ぶ人が多くて入れない、という苦情が出ました。大量のボランティアがトイレを使うと、肝心の避難民がトイレを使えないのです。ボランティアというのはありがた迷惑にならないことが大切なのですが、若者はなかなかそこまで気が回らないのです。
そんなとき、経験のある団塊の世代が、アドバイスしてあげればうまくいくのにな、と思いました。あるいは団塊の世代がボランティアのノウハウを勉強して、指導できるようになっておけば、東北の被災地でも役に立てるし、来るべき関東の地震でも指導的な役割を果たせると思います。
被災地を訪れて感じるのは、東北人は我慢づよいということです。ボウフラが湧いているような仮設住宅でも文句を言わず、逆に「屋根のある所に住ませてくれてありがとう」と言います。そんな状況ですから、なんとか協力してあげたいのですが、ノウハウがなければなかなかうまくいきません。うちの全介協も、練馬区の光が丘団地で支援物資を集めました。すると毛布やタオルが大量に集まりましたが、まったく整理がついていません。本来、「○○が必要だから集めましょう」、「○○へ送るから集めましょう」ということでなければいけません。しかしみんな集めたことで満足してしまっているのです。
そこで南三陸町に電話してみると、「いりません」という答えが返ってきました。本当は物資を必要としているのですが、全国から支援物資を大量に送りつけられて、整理がつかなくなっていたのです。物資があっても整理する人間がいない、配る人間がいないというのが現実なのです。練馬で集めた支援物資も黙って送りつけてしまえば、体育館に積まれてじゃまになるだけです。電話でどうすればよいか問い合わせたところ、「施設名を言うので、そこで配ってください」と言われました。
物資は配るところまでやらないと意味がありません。そこでトラックを仕立て、スタッフを集めて特養などの施設をまわりました。みなさんも物資を送るような機会があれば、誰が受け取って誰が配るのか、そこまで考えるようにしてみてください。
○シニアの地域社会活動
次に、第3分科会のテーマであるシニアの地域社会活動について、お話ししたいと思います。東北のように戸建ての多いところでは、地域のコミュニティがまだまだ残っています。しかし東京では、地域の中核を担う町内会そのものが機能していません。
私のいる練馬区の光が丘団地には約3万人の住人がおり、46棟の建物ごとに自治会があります。自治会の役員は団塊の世代の人が多数を占めています。そこではお祭りやイベントなど、さまざまな行事を提案しているのですが、なぜか自治会で話し合われた内容が住人に伝わっていきません。子供の頃のクラス委員を思い出してみてください。大体勉強のできる子と人気のある子が委員長になっていたのではないでしょうか。私のいた東京ではそうでした。団地の自治会の役員も同じです。ほとんどがサラリーマン、それも上場企業を定年退職したような人ばかりです。それと女性の役員は目立ちたがりで、なんでもやってくれるようなタイプの人がイニシアチブをとるようになります。
そうなると、一般の人たちは参加しにくくなります。役員は上から目線だけでものを言うのではなく、一緒になって盛り上げていこう、という姿勢が大切になります。
地域活動に関していえば、女性のほうが熱心なような気がします。団塊の世代の男性はどこに行ってしまったのでしょう。実は光が丘団地で面白い話を聞きました。団地の前に「光が丘」という地下鉄の駅があるのですが、朝の8時半頃に人出がピークを迎えます。9時始業だとすれば、少し遅い時間帯です。実はこの人出の正体は、団塊の世代の男性でした。朝、駅の売店で新聞を買い、10時頃まで公園のベンチに座っているそうです。
一方の女性はどうしているのか。団地内にあるファーストフード店にたむろしてコミュニケーションをとっています。そこでさまざまな情報交換をして連帯感を高めています。これからシニアの社会活動を引っ張っていくのは、女性ではないでしょうか。
しかし女性ばかり頼っているようでもいけません。地域活動を盛り上げるためには、団塊の世代の男性をどうにかして引っ張り出さなければならないのです。
吉田:お疲れのところありがとうございます。このフォーラムの十年来のテーマも団塊の世代をいかにして引っ張り出すか、ということにあります。団塊の世代が地域社会でどんなかかわりをもっていけるのか? それは第2テーマである地域包括支援センターにもつながっていくと思います。
〔質疑応答〕
質問者1:清水さんに質問です。あかねグループでは会員は会費を払って活動をしているということですが、活動は無償で行っているのですか?
清水:あかねで会員になるということは、あかねで活動してその対価を得るということです。よって配食の有償ボランティアは1時間450円の活動費を得ています。それからカーボランティアさんは昼食の配達は件数が少ないので1回来ていただいて700円、夕食は900円の車代を支払っています。あとヘルパーについては国の基準に従って活動費を払っています。
吉田:ありがとうございました。それでは第2部にうつりたいと思います。
第2テーマ「地域包括支援活動への参加取り組み」
- ■コーディネーター
- 河合 和
高連協理事、シニアルネサンス財団事務局長
- ■パネリスト
- 臼井 美幸
江戸川区医師会地域包括支援センター所長 - 松谷 知子
福島市渡利地域包括支援センター所長 - 和久井 良一
高連協理事、さわやか福祉財団理事
〔はじめに/分科会の趣旨説明〕
河合:コーディネーターの河合です。第2テーマでは「地域包括支援活動への取り組み」と題して、地域社会の環境作りや地域包括支援活動へのシニアの参画について、話し合っていきたいと思います。
みなさんは「地域包括支援センター」というものをご存知でしょうか。あるいはどのような役目を果たしているか知っていますか。少し聞いて見ましょう。
(参加者に質問)地域包括支援センターを知っていますか?
参加女性1:はい。
河合:ではいつできたかということは?
参加女性1:そこまでは。
河合:どのようなものかは知っていますか?
参加女性2:はい、高齢者を支援する施設であるという程度のことは。
河合:素晴らしい。実は他のシンポジウムなどで聞いてみると、大半の人が存在すら知らなかったりするのです。
上原:河合さん、ちょっといいですか。地域包括支援センターというのは、簡単にいうと高齢者と介護者の駆け込み寺です。
河合:はい。介護保険制度がスタートして、利用者が増えたの良いが、思わぬ財政の負担になった。このままいくと、日本の財政がもたない。そこで介護予防という考えが出てきました。手遅れになる前、重症化する前に予防すれば、医療費や介護費も抑えられる、という考えです。そこで地域の福祉向上や介護予防マネージメントの拠点として、地域包括支援センターが設置されました。今回は地域包括支援センターとは、どのようなものであるべきか、ということを、掘り下げていきたいと思います。
まずは江戸川区で地域包括支援センターの所長をされている臼井さんに、地域包括とはなにか、ということを説明していただきます。
◆臼井 美幸(江戸川区医師会地域包括支援センター所長)
○地域包括支援センターとは
江戸川区医師会地域包括支援センターの臼井です。本日参加のみなさまは、地域包括支援センターについてご存知の方が多いようで安心しました。実は江戸川区で65歳以上の高齢者に同様の質問をしたところ、「まったく知らない」という回答が65%もあり、存在の周知が徹底していない、ということを痛感しています。
先ほど駆け込み寺というお話がありましたが、本日はパンフレットを元に、地域包括支援センターの役割を説明させていただきます。主な役割は、下記の4つになります。
まずひとつめの役割として、「相談窓口」があります。介護や高齢者のことについて、なんでもご相談ください、という窓口になっています。
2つめは、「地域ぐるみで支援します」ということです。介護保険の利用者が適切なサービスを利用できるように、ケアマネージャーや医療機関、関係機関と連携して、支援します。
そして3つめは、「自立した生活を支援します」です。軽度の方になりますが、要支援を認定された方が自立した生活を送れるように、ケアプランを作成します。また、介護予防の観点から健康教室、介護予防教室を開催する、といった啓発活動も行っています。
4つめは、「みなさんの権利を守ります」ということで、成年後見制度の紹介、高齢者虐待の早期発見や予防、最近減ったとはいわれますが、オレオレ詐欺などの消費者被害についての相談も、受け付けています。以上のように地域包括支援センターは、高齢者のさまざまな悩みを聞き、解決の手助けをする施設です。
先ほど、いつできたのか? というお話がありましたが、平成18年4月に、介護保険法の改正に伴って設置されました。江戸川区内には15カ所のセンターがあり、ブランチという呼称の窓口も4カ所あります。1中学校区に1センターが望ましい、といわれていますので、30以上の中学校区がある江戸川は、まだまだ不足している、といえます。
各センターは担当する地域が定められており、私の所属している江戸川区医師会の地域包括支援センターは、区内の北部を担当しています。エリア内の人口は約3万5千人、高齢者人口約8千人を4名の職員でカバーしています。センターではケアマネージャー、社会福祉士、保健師などがチームを組んで支援活動を行います。4名で8千人をカバーするわけですから、当然人手は足りません。ですから地域のみなさんと連携をとりながら支援活動を行っていきたいと考えています。
また、江戸川区では介護予防だけでなく、生きがい事業にも早くから取り組んできました。現在生きがい事業として「熟年人材センター」「くすのきカルチャー教室」「リズム運動」「くすのきクラブ」といった事業を展開しています。「くすのきクラブ」は高齢者のクラブで200以上のクラブが活発に活動しています。健康作りとしては、ウォーキングの推進事業などもおこなっています。
こういった予防事業が活発なこともあり、江戸川区は23区の中では、介護保険の利用率が低い水準にとどまっています。センターの活動については以上です。
河合:ひとつよろしいですか。江戸川区のセンターの一覧を見ますと、臼井さんが所属されているセンターだけは、江戸川区医師会という特異な名称なのですが、これはどういったことなのでしょう?
臼井:一覧を見ますと、うち以外は、社会福祉法人か、委託を受けたセンターということになっています。私たちのセンターは、医療法人である江戸川区医師会が委託を受けて運営しているため、このような名称になっています。江戸川区医師会は地域医療に熱心な会員が多く、平成18年にセンターを設置することになったときいち早く手をあげたというわけです。医師会が母体となっていますので、認知症の問題にも力を入れており、月2回医師が相談窓口を開く、といった活動も行っています。
河合:それでは次に、福島で包括支援センターの所長をされている、松谷さんのお話をうかがいます。大変なときにもかかわらず福島から来ていただき、本日はありがとうございます。
◆松谷 知子(福島市渡利地域包括支援センター所長)
○福島における地域包括支援センター
福島市渡利地域包括支援センターの所長をやっています、松谷と申します。3月11日の大震災は、誰も経験したことのないできごとでした。電話はつながらない、水道、電気、ガスは止まる、交通は麻痺してしまう。どこのセンターも、目の前で次々と起こることを処理するのに追われる毎日でした。そうした状況の中で、私たちになにができたのか、そしてなにが課題であったのか、今になって見えてきたことがあります。今日は渡利のセンターがどうやってがんばってきたか、についてお話しします。
先ほどもお話がありましたが、地域包括支援センターとは、地域に住む高齢者がいつまでも住み慣れた地域で暮らしていけるように、介護、福祉、医療などさまざまな面から支援するところです。
福島市には、中学校区と同じ数ということで、19カ所の地域包括支援センターがあります。センターには、専門職種である保健師もしくは看護師、社会福祉士もしくは介護福祉士、主任ケアマネージャーの配置が義務づけられています。ですから、センターには最低3人の専門職が働いています。しかし3人とはいっても、対象となる高齢者は3千人以上いるので、非常に大変です(高齢者人口の詳細は<渡利地域包括支援センターの担当エリア人口>参照)。渡利地区の高齢化率は、福島市の中では、それほど高くありませんが、寝たきりや精神疾患をもった人が多い、という特徴があります。また、ひとり暮らしの高齢者も増加しており、去年までは300人台でしたが、今は400人を突破しています。
約3千5百人の高齢者をいかにして把握して、支援していくかということが大きな課題になっています。
- <渡利地域包括支援センターの担当エリア人口>
- 総人口=1,6963人
- 65歳以上の人口=3,492人
- 高齢化率=20.6%
- 70歳以上の人口=1,828人
次に、関連機関との連携についてお話しします。渡利地域の介護保険の事業所としては、ヘルパーステーションが8カ所、ケアマネージャーのいる居宅介護支援事業所が6カ所、デイケア・デイサービスの中小事業所が4カ所、訪問看護ステーションが4カ所、有料老人ホームが1カ所、となっています。そのほかに身体障害者や知的障害者の事業所が9カ所、病院が8カ所あります。
また昨年、福島市において、災害時要援護者避難支援連絡協議会というものが立ち上がりました。そこで要綱が打ち出されて、登録者の名簿の作成が始まりました。地域包括支援センターが最終的に町内会のほうに参入していく、という構造があったので、支所との連携を意識した活動に力を入れていました。
さらに昨秋、渡利の支所長さんから「渡利ネットワーク作りのために渡利地域の町会長、民生委員を集めた研修会を開くのだが、福島市以外での福祉施設視察をするならどこがいいだろう」という相談がありました。そこで石川町の地域包括支援センターの保健師さんの講演を提案しました。そして講演を聞いた町会長や民生委員が、これを自分たちだけで聞いたのではもったいない、と言って、住民にも聞いてもらおうと、講演会の第2弾を開催しました。渡利包括支援センターも後援としてお手伝いさせていただきました。社協や地域との連携も深まり、講演の第3弾は何をしようか、と話しているときに、例の大震災がやってきまいた。
震災後は支所が情報の拠点となり、町会、民生委員、消防団、社協、学校、包括支援センターが連携して、ことにあたりました。そのおかげで、地域全体や各組織との連携が深まっていきました。
また、5年前から渡利中学校の生徒を対象に「認知症サポーター養成講座」というものを開いています。中学生は体験学習として福祉施設を訪れるのですが、その前に地域の権利擁護委員の話と、地域包括支援センターによる寸劇をまじえた「認知症サポーター養成講座」を受講してもらっています。地域作りには、このような子供たちへの啓発活動も欠かせないのです。センターの対象は基本的に65歳以上ですが、地域の中のどんな相談にものることが、地域包括支援センターの役割だと思っています。
河合:ありがとうございました。それでは次に和久井さん、よろしくお願いします。和久井さんは、公益財団法人さわやか福祉財団の理事を務めていらっしゃいます。
◆和久井 良一(高連協理事、さわやか福祉財団理事)
○自分らしく生きることのできる社会
さわやか福祉財団の和久井です。財団は「目指す社会は、すべての人が最後まで尊厳を保って、自分らしく生きることのできる社会である」という理念に基づいて、さまざまな活動を行っています。
先ほど地域包括支援センターについてお話がありましたが、簡単におさらいをしておきます。高齢者の方がいつまでも住み慣れた地域で、安心してその人らしい生活するための、多面的な支援を行うことを目的としています。こうした理念を実行するためには、どのようなサービスが必要かを考え、足りないサービスがあれば掘り起こし、ネットワーク化していくことが大事になります。そういった意味で地域のネットワークというのは、安心して暮らせる社会を作るためには非常に重要となります。
そして何よりも大事なことは、地域に住んでいる高齢者の実態をつかむことです。もっと突き詰めて言えば、個人がどういった生き方をしたいのか、まで把握することです。医療や介護は生活の一部であり、それで生活をするわけではありません。その人がどういう日常生活を送りたいのか、そのためにはどういったサービスが適しているのか、といったことを考えなければなりません。
高齢者が地域に住む場合、人にお願いして暮らすのではなく、自分のできることは自分でやり、できる範囲でもよいので、地域の活動に参加するのが望ましいのです。もちろん社会参加をしたからといって、対価を得られるわけではありません。しかし何かをしてお礼を言ってもらえれば、それが生きがいになります。私がこの世界にはまるきっかけになったのは、移送サービスにかかわってお婆ちゃんを送り届けたとき、「ありがとう」とお礼を言われたからでした。生きがいは精神を活性化してくれますし、体も元気になります。私はそうした人をたくさん見てきました。健康になれば介護保険のお世話にならずにすみます。
○情報センターとしての地域包括
地域包括支援センターというのは、地域の情報センターだと考えています。そして情報を集めただけで終わらせるのではなく、得た情報を活用してどのようにお互いが地域で支え合うのか、その中心となるのが地域包括支援センターなのです。
先ほどお話を聞いておりますと、対象人数が多いにもかかわらず、4人のスタッフで対応しており、大変だな、と感じました。ただ、人手不足を理由に、できる範囲のことだけをやっていれば良い、というわけではありません。自分たちだけで抱え込むのではなく、地域と連携することで、支援の幅を広げて欲しいのです。
ここで地域が連携するためのネットワーク作りの例を紹介したいと思います。それが福井県の「越前フレンズ」という活動です。フレンズというのは「ふれあいのネットワークで地域の課題を解決しましょう」の頭文字から命名されています。越前フレンズの活動に、ひなたぼっこの家というものがあります。小規模の交流施設で、民家を借り上げてそこに人が集まれるようにしています。
地域活動では、今できることから始めようという姿勢が大事です。研修会など勉強はするけれど、行動には移さないという人がたくさんいます。フレンズもきっかけは「さわやか」のやったフォーラムでした。そこに集まった人たちが、フォーラムだけではもったいない、地域のことをみんなで考えようということで始めたのです。フレンズは介護の事業者や地域包括支援センターとも交流して、地域の問題に取り組んでいます。
またフレンズは越前だけでなく、北海道の登別、秋田の横手にもできています。登別は高齢者の居場所作りに取り組み、横手では認知症の問題に積極的に取り組むなど、それぞれ地域を支えるための活動をしています。今回の震災においても横手フレンズは、岩手へ行って支援活動を行っています。
やはり行政だけでは手の届かないところがあります。地域包括支援センターやNPOが連携して、住民の生活を見守る、という形態が理想ではないでしょうか。
次に資料の図を見てください(配付資料「地域包括ケアの町イメージ」)。
これは3千人~5千人のコミュニティにおける福祉をイメージ化したものです。中心には高齢者住宅や介護施設があり、その近くにヘルパーステーションなどの外部サービス拠点があります。その反対側に役場の出張所や地域包括支援センター、社協、NPOなどがあります。あらゆる組織や団体が連携して、中心にいる高齢者を支えていくという構図になっています。
またこの図には、共生型居場所というものがあります。コミュニティには、子供もいれば高齢者もいます。要するに地域は三世代でできているのです。ですから世代間交流を行える居場所を作っておくことも重要なのです。お婆ちゃんが孫世代の子供をかわいがる、子供がおじいちゃんに声をかけるといったふうに、お互いが顔を見せ合って交流することができるのです。こうした施設が点々とあれば、それだけで小さなコミュニティになります。これは防災、防犯対策にもなります。顔の見える関係ができあがっていれば、お互いを心配しますし気にかけるようになるからです。
また、地域包括ケアの町は就労の場という側面もあります。今、大企業が来ても合理化やロボット化が進んでいるため、大きな雇用につながるとは限りません。しかし子育てや高齢者福祉というのは、地域に密着した雇用も生み出します。これは山口県の話なのですが、あるグループホームを作ったところ80名の雇用が生まれました。企業で考えれば中堅企業の規模に相当する雇用です。しかも地域に密着しているため、地元から離れずにすみます。今後はこの図のような子育てや高齢者福祉を組み合わせた地域作りが大切になってくると思います。
河合:ありがとうございました。後半はそれぞれのパネラーの方に地域包括支援センターの具体的な活動についてお話しいただきます。それでは臼井さん、お願いします。
○ささえあいネットワーク会議
臼井:地域の中において、地域包括支援センターは、コーディネーターの役割を担わなければならない、と思っています。実際、私たちが地域の中でコーディネートしているもののひとつに、「ささえあいネットワーク会議」があります。地域の高齢者にかかわる方々に声をかけ、情報交換や地域の課題について話し合い、お互いに顔の見える関係を築いていく、といった趣旨の会議です。行政、警察、消防、消費者センター、医師、町会、介護事業者、ボランティアといったように幅広い職種の人たちに参加してもらっています。案内が100件を超える、大規模な会議です。
会議では、参加者それぞれから情報提供をいただき、地域で起こっている問題を見つけ出し、解決をはかっていきます。お互いの顔が見える会議を開くことで、それぞれの役割が分かり連携がスムーズにいくようになりました。
また、参加者の地域に対する問題意識が高まり、具体的な成果もあがるようになっています。あるとき、消防の方から、「独居している高齢者の救急搬送が困難」という課題が報告されました。かかりつけの病院が分からない、緊急の連絡先が分からない、といったことがあり、搬送までに時間がかかっていました。何とかできないだろうか、ということで、私たち地域包括支援センターでは「SOSシート」というものを考案しました。裏がマグネットになっていて、冷蔵庫に貼るようになっており、名前、住所、かかりつけの医療機関、連絡先を書き込めるようになっています。シートを貼っておけば、ひとりで具合が悪くなって倒れても、救急隊が駆けつけたとき、すぐに状況をつかむことができます。昨年は、シートを70歳以上のひとり暮らしの方に配布しましたが、「私も欲しい」という声が大きかったため今年は65歳以上で日中ひとりになってしまう方にまで範囲を広げました。希望があれば、高齢者夫婦世帯にも配布するようにしています。また、地域包括支援センターの周知が行き届いていないとうことで、シートの下に相談窓口やセンターの連絡先を書かせていただきました。SOSシートは、会議を開き地域の問題点を洗い出したおかげでできた成果だ、と思っています。
次にシニアの方の地域社会参画につてですが、江戸川区には介護サポーターという制度があります。元気な高齢者の方に講習を受けていただき、介護サポーターとして活動してもらうのです。サポーターとして活動すると、活動時間に応じてポイントが付与されます(1時間=1ポイント・100円で年度末に精算)。サポーターの方には、私たちが運営している介護予防教室を手伝ってもらったりしています。
それから先ほども話題にのぼりましたが、江戸川区でも女性のほうが社会参加には熱心で、男性は社会参画に消極的という傾向があります。私どものエリアに区内で一番大きな図書館があるのですが、そこの学習スペースに行くと、高齢者の男性がいつも居眠りをしています。こうした人たちにアプローチして、社会参画を促していきたいと考えています。
河合:ありがとうございました。ちなみに「ささえあいネットワーク会議」が開かれる頻度はどのぐらいでしょう。
臼井:消防から警察まで集まる大きな会議ですので、全体会議は年に1回です。ただ、そこで出された課題については、それぞれが持ち帰って話し合っています。
○福島における震災当時の取り組み
河合:分かりました。次に松谷さんに3月11日のことをおうかがいします。大震災に関して驚いたのは、早い段階で松谷さんのところから、ものすごい数の安否確認が送られてきたことです。
松谷:何千人という数の安否確認は、私たち3人だけではできません。しかし誰に聞けばこの情報が集まるかということが分かっていますし、日頃からネットワークを大事にしているため、迅速に把握できたのだと思います。
河合:なるほど。日頃からそうしたネットワーク作りに尽力されてきた結果なのですね。では震災当時の様子をお話しください。
松谷:統計によりますと、3月11日から1週間、福島市の包括支援センターが安否確認をした件数は7,892件でした。しかし実際には、この数字の何倍もの人を実態把握してきています。渡利地区の高齢者だけでも3千人以上いますので、市内の19包括が把握した数は、もっと多いはずです。
生活相談や具体的な支援については2,165件という数字が出ていますが、これも概算なので実態はもっと多いと思います。相談内容は、施設に入所するための橋渡し、医療機関への仲介、物資の提供、地域情報の発信、アルファ米の配布など多岐に渡っていました。
震災直後の渡利地域は、塀や瓦が壊れ、半壊している住宅も多く、道もまともに通れませんでした。主要道路はトラックや車で大渋滞しており、ドライバー同士が怒鳴り合うというパニック状態でした。もちろん電話も通じませんから、通信手段もありません。そのため安否確認は徒歩と自転車で行いました。一生のうちであんなに自転車をこいだことはないというぐらい、自転車で走り回りました。
高齢者のところを回ってみると、誰かしらが一緒についていて、ひとりぼっちでいるという高齢者はあまりいなかった印象があります。ただ、「避難所に早く逃げませんか」と誘導しても、避難してくれない人が多くいました。理由としては、自宅を離れたくないということと、通信が復旧したときに子供さんからの連絡が受けられない、ということでした。なかには「もっと大変な人がいるから先にあっちへ行ってくれ」という人もおり、大災害のなかでも周囲を気遣う高齢者に感心させられました。
介護保険を利用されている高齢者に対しては、事業所やケアマネージャーがすぐに確認に走ったため、迅速に安否確認が完了しました。複数の人間が確認に行った高齢者宅もありました。介護サービスの利用者に関する情報は二重三重に入ってきました。こうした重複は一見非効率に思えますが、高齢者からすればたくさんの訪問者があることで安心できたようです。
このことは、裏を返すと介護保険サービスを利用していない人の安否確認は手薄になるということでもあります。ですから地域包括支援センターでは、介護保険サービスを利用されていない方を中心に確認してまわりました。
一方、支所のほうでも町会長から民生委員という連絡網が機能していたので、ひとり暮らしの高齢者の安否確認が迅速に行われていました。支所には、消防団、社協、町会、民生委員、老人会、交番、学校の情報が集積されていたため、地域包括支援センターと支所が密に連絡を取り合うことで、高齢者の安否確認をスムーズに行うことができました。
渡利地域包括支援センターには、併設の居宅介護支援事業所、デーサービスセンター、ヘルパーステーションといった事業所があります。デーサービスには40名ほどの利用者がいたのですが、無線で道路状況を確認しながら、夜の8時頃までには全員を無事に送り届けました。
震災後は電話などの通信手段が途絶えていたので、情報的に孤立していました。そこでセンターの前にホワイトボードを掲示して、ガソリンスタンドや開店している商店の情報、避難所、井戸水の情報などを書き込みました。私たちも安否確認に飛び回っていたので、センターに人がいなくても地域の情報がつかめるようにしておいたのです。
○各機関との連携
それから先ほども少し触れましたが、家屋が半壊していてもなかなか避難をしてくれない人がいます。「ここで死んでもいいんだ」と言って動いてくれません。そのような場合は関係機関に連絡をとり、行政に頼んで家屋調査に入ってもらうようにしました。行政が入ると事態の深刻さを理解して避難してくれる人もいます。ほかにも認知症の高齢者の避難調整といったことも行いました。
消防団の方と独居高齢者宅を訪ね、避難を勧めたこともあります。部屋の中にものが散乱して歩けないような状態でも避難に同意してくれない人が多くいました。せめてトイレまでの道だけでも確保しておこうということで、片付けをしたこともあります。
また、ガソリンが不足していましたので、ヘルパーさんたちも身動きがとれず、配食や訪問介護などのサービスが機能しなくなっていました。そこでサービスがストップしたことで、困ったことが起きていないか確認し、配食に関しては民生委員と一緒に食事の調達調整などを行いました。
今まで引きこもっていた精神疾患の患者さんが、震災の影響で症状が悪化するという例もたくさんあり、市や県の精神保健福祉との連携もとりました。また、具合が悪いのに訪問時には表に出さず、悪化してしまうという人もいました。なかには骨が折れているのに我慢している人もいました。救急車を呼んでもなかなかこられないので直接病院に運びました。また、退院しても帰る家が住める状況ではない高齢者のために、避難の調整ですとか、介護施設への入所手続きのお手伝いもしました。ほかにも他地域からの避難者の調整、避難所内でのトラブルの対応、24時間の電話対応、市役所からの問い合わせへの対応、避難所への炊き出しなど、多岐にわたる業務に追われていました。
もちろんこれだけの業務は4人だけではやれません。たとえば中学生が高齢者宅へ水を運ぶというボランティアがありました。その姿を見てみんな感動し、地域の若者たちも自分たちも一緒にやるといって立ち上がってくれました。この動きはタクシー会社による水くみ支援活動へと広がっていきます。また、避難所では地元商店の方たちが無償で炊きだしを行ってくれました。
このように渡利では地域の中での連携や支え合いの意識が生きていたため、とりこぼされた高齢者はひとりもいませんでした。やはり地域の力は大きいのです。今後は住民の方と「地域の見守りはどうあるべきか」ということを一緒に考えていきたいと思います。
○市民後見人
河合:ありがとうございました。それでは続きまして、和久井さんに成年後見制度のお話をお願いします。いきなり話が変わるようですが、つながりがないわけではありません。介護保険制度がスタートしてできたのが、地域包括支援センターと成年後見制度ですから、どちらも介護保険を支えるためには必要な存在なのです。そのあたりのつながりについて、和久井さんに解説していただきます。
和久井:地域包括支援センターの事業の中に、権利擁護事業というものがあります。これは、基本的に社協がやるようになっています。権利擁護事業が難問になってきた場合に出てくるのが、成年後見制度です。では、成年後見制度とはどんなものか。
成年後見制度は、認知症や障害で判断能力が不十分になった人が、日常生活で、預貯金の管理や福祉サービスの手続きをする時、本人の立場に立って、本人に代わって権利や財産を守ってくれる制度です。
後見制度の潜在的な対象者は認知症・障がい者約450万人といわれています。ところが制度の利用者はまだ17万人程度です。一方、後見人のうち専門家は3割程度で、残りの7割は親族です。要するに制度を必要としている人は多いのに、後見人のなり手が圧倒的に不足しているというわけです。
その不足分をカバーするものとして期待されているのが、市民後見人です。専門知識をもった弁護士、司法書士といった専門職の後見人だけではなく、市民感覚をもった後見人を育てようということで、普及のために高連協や関係するNPOが活動を続けています。
そうした流れがあって、私たちも2008年に品川で「NPO法人市民後見人の会」を立ち上げました。そして2011年には、厚労省が「市町村長による後見申し立てと市民後見人・後見実施機関の創設」という政策を打ち出しています。
次に市民後見人の会の活動についてお話しします。私たちの会は、すでに法定後見人を受諾しているのですが、その仕組みは次のようなものです。まず市民後見人養成講座を修了し、支援員として実務を学んだ方の中から、正・副の担当者を決めます。これは個人で受けるのではなく、法人で受けるということです。個人の場合、それぞれ仕事や用事もあるわけで、いつも対応できるわけではありません。そこで正副担当者がスケジュール調整をして、カバーし合いながら後見活動をしていくのです。
そういった形で、10件の法定後見を受諾しています。後見の内容は、10件あれば10件ともまったく違います。家庭環境や経済状況によって変わってくるのです。そんなわけで、後見人の会では、初期段階に後見をした先任者が講師となって、勉強会を開いています。そして分からないことがあれば、品川社協に詳しい方がいますので聞きに行きます。こうしたやり方で活動を進めれば、市民でも十分に後見活動が進められます。
市民後見人には、相手に寄り添い、ふれあう心が、なによりも大切です。弁護士や司法書士は、職業としてやります。しかし私たちは、市民として、人間愛をもってやるのです。最初の受諾のとき、家庭裁判所より「なぜNPOが成年後見に取り組むのか」と問われ、「すべての人の尊厳ある暮らしを最後まで支える共助であり、安心の福祉の地域づくりをシニア市民が行う市民活動である」と答えました。成年後見は、町づくりでもあり、シニアの社会参加でもあるということなのです。
これは堀田さんが言ったことなのですが、「いきがいの真髄は何かを創り出すことだろう。それが人から認められれば、充実感は何倍にもなる」、という言葉があります。私たちは何もないところから市民後見人活動をはじめ、マスコミが評価し、厚労省も認め政策にのるようになりました。何かをして人に認められれば、お金をもらえなくても、うれしいものです。70歳を超えた私が、まだまだやっていけるのは、生きがいがあるからです。
河合:ありがとうございました。
〔質疑応答〕
質問者1:横浜市緑区から来ました。地域包括支援センターについてですが、職員が4、5名しかいないとのことですが、多くの相談に答えられるものなのですか?
臼井:相談員のメンバーは4名、相談件数は千~2千件の間です。相談の対応は電話、来所、訪問の3パターンで行っています。まだまだお元気な方には来所していただき、電話で対応しています。電話や来所で対応できないケースは、職員が訪問します。現在4名で何とか対応していますが、それでも時間的な制約で動ききれない場合は、民生委員や町会の方に協力していただいて情報を収集しています。そしてその情報を元に私たちが対応するようにしています。
松谷:私のところは以前3名でやっていたのですが、3名ではやりきれるものではないので、4名に増やしていただきました。相談の場合、来所できる人はいいのですが、困っているにもかかわらず来所できない人を、いかに発掘していくかが課題だと思っています。
河合:パネラーのみなさま、本日は遠いところからありがとうございました。
これにて第3分科会を終了いたします。