パネルディスカッション「高齢社会フォーラム・イン福島」

「高齢者の地域社会活動」

コーディネーター
冨田 光
(福島市健康福祉部長)
パネリスト
松崎 欽榮
(ふくしま花案内人)
渡部 八重子
(ふくしま民話茶屋の会)
宗形 初枝
(高齢社会をよくする女性の会「郡山」、郡山市医療介護病院看護部長)
助言者
堀田 力
(さわやか福祉財団理事長)

パネルディスカッションの写真

はじめに

冨田 光様の写真
  • 福島市の状況と避難生活を支えた高齢者の力

    冨田:福島市健康福祉部長の冨田と申します。本日、コーディネーターという大きな役割をいただきましたけれど、この会場の中で言いますと、本当に私などはぺえぺえで、これから皆様の足跡を辿って、じゃあ私が高齢者の仲間入りをした時に実際にお役に立つことができるのかなと思いつつ、その勉強を今日させていただくという立場でコーディネーターをさせていただこうと思います。それでは、今日の進め方ですが、まず、最初に、折角福島で開催されますので、若干福島の、震災は避けて通れないので、そのへんのこともお話をさせていただきまして、それからこのパネルディスカッションの進め方を皆様と共有させていただいた上で、お話を進めていきたいと思っております。

    まず、福島の状況です。県内の方は、既にご承知のことかと思いますけれど、もう2年と7か月になろうとしていますけれど、3.11の震災がございました。記憶に新しいところでございます。市の南部にある、あさひ台団地21戸が崩落するなどしましたが、こういうところは、福島市ではそれほど多くはなかったわけでございます。それでも、死者6名、負傷者19名、全壊743戸、半壊5,559戸、損壊7,668戸という震災でございました。何とか、取り壊しも終わりまして、再建されたお宅も多くなっている状況でございます。

    しかし、我々にとっていまだに重要なのは、福島原発事故による放射能被害です。震災直後の平成23年5月20日公表の第1回調査と平成24年10月1日公表の第4回調査の空間放射線量を図示していますが、さらに今はもっと低くなっています。ようやく除染のほうも、発注のほうが4割ぐらい終わりまして、5年以内に除染が終れるかなというぐらいになってきているところです。ただ、仮置き場等がなかなかできませんので、まだお庭等に置いていただいているお宅が多い状況です。

    さて、ここからが実は高齢者の方々とも関係してまいります。3月11日に震災が起こった時に、福島市民のために避難所を開設しましたが、震災直後私も市の災害対策本部にいたのですけれど、「どうも市外の人が来ているぞ」という声が次の日聞こえてきました。「えっ」という話になりましたら、原発のほうからの避難者(広域避難者)がどんどん増えてきて、あっという間に、市外からの避難者が市民の避難者を圧倒してしまいました。市民はお宅に戻ったのですが、そのまま浜通り方の方々が残っているというような状況になったのです。

    それで、どうなったかと言いますと、市外からは1万2,000人の方が避難されて、一方、福島市からも7,500人の方が、山形県、新潟県を中心に自主避難されました。今、自主避難の方は半分くらいまでに減ってきていますが、ただ、市外からの避難者の方は、いまだに福島市内の借り上げ住宅、仮設住宅にお住まいになっています。

    実は、この避難の状況ですが、かつてない長期的な避難所の開設となりました。市内の体育館という体育館を全部使い切りまして、被害のなかった体育館を避難所にしたのですが、最初のうちは、若い方々もこの避難所のほうへボランティアでお出でになったり、それから、炊き出し等も協力していただいたりしたのですが、さすがに長期化してきますと、お仕事を持っていらっしゃる方々は、ボランティアをすることがなかなか難しくなってきました。

    この時に最もご活躍いただいたのが、実は地区の高齢者の方々で、特に女性の皆様に大変お世話になりました。炊き出し、あるいは洗濯がなかなかできないということで、洗濯機を一生懸命回していただくこともあったと聞いております。そういう意味では、これら避難所については、これから復活ということになりますが、多くは語られておりませんけれど、地域の高齢者の方々に支えていただいた実績がございます。

    一方、多くの自主避難の方々が山形等に避難いたしましたが、福島に残した家を守られたのは、福島に残られた高齢者の方々でした。おじいちゃん、おばあちゃんが残って、お嫁さんに「いいよ、おっかなかったら、自主避難しな」と、背中を押してあげて、避難させ、自宅を守ってくれたのが現状でございます。そのお蔭で、安心した親御さんも徐々に、今自主避難から戻りつつあります。ここでも、高齢者の方々のどんと構えた姿勢が福島を救ったと考えているところでございます。先ほど堀田先生のほうから、「地域で暮らすということは、仲間づくりなのだ」という印象的な言葉がありましたけれど、まさに今回の震災というものが、そういったことの延長線上にあるのかなと思った次第です。

  • パネル討論の進め方

    本日のテーマは、「シニアの社会参加で世代をつなぐ」ということでございますが、このパネルでは「高齢者の地域デビューをどうするのだ」ということにもうちょっと絞ってみたいと思います。先ほどの、堀田先生のお話にもありましたように、「男というのは、仕事を終わって、地域に戻ってみたら、やることがない」ということがよくあります。したがって、どうやって地域デビューを果たすのが重要かなということを一つのテーマとしてみたいと思っています。

    午前中の森大臣のご挨拶にもありましたけれど、「高齢社会白書」の中で、「何かグループ活動をしてみたい」という高齢者の方は54%いるそうです。そして、「したいができない」という人が16%いらっしゃるそうです。「やりたい」という人の割合はこの10年間で10%増えていることになるので、これは、意欲はあるけれど、なかなか参加できないことがここに表れているのかなと考えています。

    このへんを軸にして、今後進めてまいりますので、よろしくお願いします。

パネリストそれぞれからの活動報告

松崎 欽榮様の写真
  • 「ふくしま花案内人」の活動 ~ おもてなしの心で

    冨田:それでは早速ですが、本日の3人のパネリストの皆様は、それぞれ独自の活動をなさっておられます。まず、それをご紹介いただいて、その上で議論を進めてまいりますので、よろしくお願いいたします。

    最初に松崎欽榮様からお願いいたします。

    松崎:「ふくしま花案内人」の松崎欽榮と申します。よろしくお願いします。

    • 「花見山公園」の状況と「花案内人」の育成

      花見山公園は、今年9月に94歳で亡くなられました園主の阿部一郎さんが、先代の伊勢次郎さんと一緒に昭和10(1935)年に自宅の前の山を開墾して花を植え始めたものです。皆さんが、花がきれいだと見にお出でになったので、昭和34(1959)年に、自分で「花見山公園」と名づけ、一般に開放しました。公園と言うと、公共的なニュアンスがあるので、「自由に遠慮なく見て行ってくなんしょ」ということで、一般向けに開園しました。

      花見山の来訪者は、平成14(2012)年から統計を取り始めました。年々多くなりまして、震災前の平成22(2010)年には32万人という大勢の人が来訪しました。震災の年は来訪者数は減り、震災の次の年は、花見山を養生しますということで、一般開放はしなくて、周囲を自由にみてもらったということです。今年は、一般開放しまして、23万7,000人の人が来ています。

      この最盛期の来訪者が32万人だった時には、土曜、日曜日の多い時には公園に3万人入りました。3万人と言えば、野球の球場で大勢の人が出入りしている情景を想像していただきたいと思います。もう押すな、押すなの状況です。そういう時に、飯坂温泉の旅館のおかみさんがお客さんに「花見山、どうでした」と聞きますと、「いやぁ、お客さんがねえ…」ということで、花がきれいだったという話は出てこなかったそうです。それくらい、人の肩を見て歩くというような状況です。

      皆様について行って説明するという同行案内は、とてもあの人だかりではできないので、花案内人は、3か所にポイントを置きまして、定点案内を行っております。それから、団体さんでどうしてもという方々には、公園内を巡って説明して歩くことになっております。

      花案内人になるには、養成講座を受講します。これは、市の観光コンベンション協会と福島市が共同でやっているのですが、その養成講座を受けて、花案内人になります。この養成講座では、故阿部一郎さんのお話もあり、受講者はそれを聞いて、その思いやおもてなしの心を習得したものでした。

      我々は、養成講座は受けるのですが、スキルアップのために、管内の月例自己研修、例年の管外でのボランティアガイドの勉強を行っております。

      活動している者は、今のところ142名ですが、男性が47人、女性が95人で、おおよそ3分の1が男性、3分の2が女性です。平均年齢が66.75歳で、言ってみると、高齢者が活動しているということです。

    • 花によるまちづくりを目指して

      平成16(2004)年には、「ふくしま花“み”シンポジウム」を開催しました。シンポジウムでは、「これから花でまちおこしをするのに、どうしたらいいだろう」ということを、参加されたそれぞれの方にいろいろ意見をいただきました。この時に、「花と雪を一緒に見られるといいね」という提案をいただきましたので、そのことについて関係機関に文書でいろいろお願いしました。その結果、それまでは、4・5月のゴールデンウィークからであったスカイラインの再開通が平成18(2008)年から、4月8日からとなりまして、それが今まで続いております。これは、シンポジウムの1つの成果ではなかったかと思っています。

      平成19(2007)年には、市制100周年記念事業として、「花と緑と史跡の探検隊」という市とのコラボ事業を企画し、市民の皆様を始め参加された方々を、市内に7コースを設定して案内するなど、会員一丸となって、取り組みました。

      そういうことで、会員がおもてなしの心で活動しています。この活動は、お客さんに「きれいだった。よかった」との言葉をいただくことが励ましになります。それを励みにして、そして、私たちもしょっちゅう花見ができて、きれいな花をみることができるということで、この活動をしています。

    渡部 八重子様の写真
  • 「ふくしま民話茶屋の会」の活動

    冨田:続きまして、「ふくしま民話茶屋の会」の渡部八重子様にお願いします。

    • 年々取組を重ねた民話を通して福島のよさの発信

      渡部:「ふくしま民話茶屋の会」の渡部八重子と申します。私は、生まれながらにして、標準語というのを習ったことがないものですから、自分の言葉で喋らせてもらいます。

      私たちの団体は、「民話茶屋の会」って、変な名前でしょ。平成13(2001)年に福島県が須賀川で、「うつくしまふくしま未来博」ってのをやったわけです。その時に、「からくり民話茶屋」というパビリオンがあったんですよ。そこに出演したのね。そこで、毎日受付に行ったり、案内したりしているうちに、すっかりそれが、身についちゃったのね。「このままにしておくのは、もったいないなあ」と思いましたので、その年度の中に、そこに参加した方たちにお手紙差し上げて、「どう、こちらで会つくらない」って言って、平成14(2002)年につくったのがこの会なのです。

      「茶屋」というのは、あの時の精神を忘れまいと、その「からくり民話茶屋」からいただきました。20人ぐらいだったんですけど、その後増えてって、今、名簿見ると、50人ぐらいが私たちの会を出入りしています。この会の定例会は「福島敬老センター」で行っています。

      その平成14年には、「第1回ふくしま民話まつり」を、平成16(2004)年には、「民話をひもとく公開講座」をやりました。平成17(2005)年には「おらほのいいどこ ふくしま弁で語る大会」という弁論大会をやってね、1等になったのは、真ん中のエプロンかけている人なんだけれど、この方は保原(伊達市保原町)の方で、豆っこ汁というのをやって、今は商品化している。凄いなと思いました。面白かったです。これ、もう1回やってみたいという気はあります。

      民話による福島県の観光PRということで、平成18(2006)年に県観光物産交流協会に同行して沖縄へ、平成19(2007)年には、県の観光課の公募に応募して、埼玉県の大宮へ行きました。どちらも、手出し(自分の懐から差額を出すこと)が圧倒的に多かったと思うんですけれど、福島のよさを民話で宣伝してきました。

      平成19(2007)年度に、福島市で市制100周年の各種行事等っていうのをやりました。

      その時に、私たちは福島市内の100の民話をピックアップしたわけ。で、100回の出前講演をやったんですよ。100回の出前講演のほかに、この「コラッセふくしま」の12階の展望ラウンジでも、毎週日曜日に語っていたの。その年は162回も語ってたのね。よく語ったと思うんですけれど、一人でやるんじゃなくて、皆でやっているから、できたんだろうと思います。

      その後、市の「ふくしま市政だより」に広報広聴課で、私たちが選んだ中の18の民話を、毎月掲載していただいたのね。それをもとにして、『ふくしまの民話 18話』っていう冊子をつくったんですよ。それは、教育委員会に800部寄贈して、それで教育長さんに感謝状をいただきました。

      震災後、私たちは、特に浪江町が多かったんですが、市外から福島市内へ避難された方たちの仮設住宅を歩きました。

      仮設住宅にいらっしゃる方は皆、全体が私たちみたいな年齢の人たちで、若い人は誰もいないって感じね。仮設住宅も100戸あるところから18戸のところまで、みんな行きました。特にね、その後お声がかかったのは、摺上川のそばの宮代(福島市宮代)というところなんですけれど、「いやぁ、こういうところにも(仮設住宅が)建ってんだわ」と思いました。そこを、何回かお訪ねしました。本当に、私も、民話を語りに行って、そして、後から、避難された方々がどういう生活をしているかについて大分聞くことができたと思います。

    • 現在の、さらにこれからの力になるさまざまな体験

      昨年から、「赤十字すまいるぱーく」(東日本大震災や原発事故により、屋外での遊びが制限されている子どもたちに対して、思いっきり遊んだり、運動したりできる場所を提供する期間限定のイベント)のお手伝いをしています。これは、学校に上がる前の、小っちゃな子どもの相手よ。幼稚園とか保育園の子どもたちは午前中そちらに行きます。そして、家庭にいる小っちゃな子がお母さんと一緒に、午後「すまいるぱーく」へお出でになる。それに、私たちが昔話をするということで行ったんです。ところが、あの子どもたちが1時間も話なんか聞いてはいないですよね。大体3分間「ああ、人参ちゃん、大根ちゃん」なんてやっているうちに、飽きちまう。で、今は紙芝居やったり、指人形やったり、歌を歌ったりなんかしています。そのように、子どもさんたちの相手をしてあげるうちに、私たちも「元気」をもらいましたね。

      いやあ、高齢者施設に行くとね、今度は全然のってこない方たちもいるわけね。この方たちのお相手も大変です。まあ、いろいろ体験しましたけれど、一つも無駄にはなっていないと思っています。

    宗形 初枝様の写真
  • 医療・介護の仕事をベースにした社会活動とボランティア関連活動

    冨田:それでは、「高齢社会をよくする女性の会「郡山」」の宗形初枝様お願いします。

    宗形:ただ今ご紹介いただきました宗形初枝と申します。私は、「高齢社会をよくする女性の会「郡山」」のメンバーでありますと共に、郡山市にあります医療介護病院の看護部長をしています。

    • 高齢社会をよくする女性の会との出会い

      私の仕事は、助産師なのですね。実は、28年ほど、総合病院の中で、赤ちゃんが生まれるところに立ち会うという仕事をやっておりました。それが、今から10年前、50歳の時に、その病院を退職しました。そして、社会に出た時に、本当に社会の動きが分からないという自分に気づきました。それで、いろいろやりたいことがあるので、どうしたいいか分からないという時に、実は郡山市の中に、いろいろ活躍し、活動しているさまざまな女性団体があって、その中の一つの「高齢社会をよくする女性の会「郡山」」というところに出会いました。これは、ボランティア団体ではなくて、学習をする団体です。今も毎月学習会を開いていて、その中で、いろいろな方のお話を伺ってきました。

    • 「リプロダクティブ・ヘルスを考える会」の活動──「いのちの授業」

      病院を辞めてから数年経った、平成17(2005)年に、地域で働くフリーの助産師ということで、私たちは、「リプロダクティブ・ヘルスを考える会」というボランティア団体を立ち上げました。この私たちのグループの活動の柱は、小・中・高校での性に関する講座──「いのちの授業」と、あと助産師であれば、子育て支援が自分たちの立つ位置であることは明らかで、それを軸として地域活動を始めました。

      「いのちの授業」は、われわれ5名のメンバーの中で、大体3~4人が学校へ行くのですけれど、私たちは、命のこととか、思春期の身体のこととか、そういうプログラムをいくつか持っていまして、もう8年間活動しています。市の教育委員会や、健康増進課から依頼を受けたり、学校から直接依頼を受けて、学校に出向いています。今年は、ほぼ80回やっている計算です。話すことは、命のスタートのことです。命のスタートということを科学的に爽やかに子どもたちに伝えます。たとえば、「呼吸はいつからスタートしているの」、「心臓が動いているのは、生まれた時からではないのだよ。誕生日からではないのだよ」という話を子どもたちにしています。「呼吸って、吸って吐くけれど、どちらから始まると思う」といったような話を子どもたちにしています。そして、「命のスタートは、私は分からないよね。これが分かるのは、皆のお父さんとか、お母さんだから、生まれたことは、お父さんとか、お母さんから聞かなければいけないのだよ」という話をしています。

    • 「リプロダクティブ・ヘルスを考える会」の活動──「子育て支援チャットタイム」

      子育て支援の一つとして、「子育てチャットタイム」というものを、平成17(2005)年から月1回やっております。フリー助産師は、地域で、「赤ちゃん訪問」という、生まれたばかりの赤ちゃんのところへ訪問する行政の事業があります。私もあるお母さんを、家庭訪問しました。生まれて1か月以内なのですけれど、そのママは、昼間なのに、遮光カーテンを閉めて育児していました。話を聞くと、彼女の両親は小さい時に亡くなり、一人っ子です。結婚して、郡山に来ましたが、旦那さんの出身がここでない。全く一人で子育てをしていることが分かりました。またあるママは「1日24時間の中、20時間抱いている。何で泣くのか分からない」と涙を流していました。ずっと泣くのは、ミルクの飲み過ぎが多いのですけれど……。そういう問題について、行政では、「問題があったら2回までは行っていいですよ」と言います。でも、これは2回で解決することではないのです。それで、「あっ、そうか、同じような人が悩んでいるのだから、これは一つ、ちょっと集めて、どこか借りて、場所を提供しようよ。行政の仕事を止めて、私が受け皿になるから、若い母親の相談に乗ることを始めよう」ということで、これを始めたわけです。「皆で悩んでいることを語り合っていこう。一人で悩まなくていいのだよ」ということで、もう7年やっています。

    • 赤ちゃんに「かわいいね」と声をかける社会に!

      私たちは、このグループをもう7~8年、5人の助産師でやっています。私たちのモットーは、まず「無理はしない」ということです。いつ止めてもいいという思いでやっています。力を入れない。

      それから、「自分の立場をわきまえる」というか、「教えるというより寄り添う」というか、実は、長くやってくるためには、無理なことをすると続かないのですよね。月1回だって大変です。一番大事なのは、食べることなのですよ。食べくること。皆集めて、お茶出して、煎餅食べるとか…。2時間の中でやることは、手遊び5分、読み聞かせ5分、あとはフリートーキングです。だから、できたのだなと思っています。助産師は、あらゆる命を引き受けます。「死」という命も引き受けます。「奇形」も生まれるし、いろいろな障害のある子どもたちも受け入れるのですね。だから、「ああでなけれればいけない、こうでなければいけない」という立場ではないのだよ、ということはいつも5人の中で共有しています。

      それから、ボランティアについて私たちは、行政にも限界がある。こちらの組織にも限界がある。その間を適当に埋める。それがわれわれのボランティアについての考えで、非常に重要なものではないかなというふうに思いながら活動をしています。

      それからもう一つ。実は、私たちの目の前に来る多くの子どもたちは震災後に生まれた子どもたちなのですね。私は郡山の中で生活をしていますけれど、この原発事故の問題の中で、ここで生んで、育てていこうというお母さんたちを見ると、本当に嬉しくなります。そして、何とかこの子どもたちを守っていくのがわれわれの仕事ではないか。大人がこの子どもたちを守るというメッセージをどんどん発信していかなければならないのではないかということは確認していて、赤ちゃんの顔を見たら、ニコッと笑って、「かわいいね」って声かけようよ、ということを今グループで話し合っています。このことを今、皆にちょっとでも伝えていけたらな、と思っているところです。

      これは、直ぐできる社会活動、地域活動ではないかなと思うのですね。何故これを言うかと言えば、まずフリートーキングをした時に、「最近、嬉しかったことはない」とあるお母さんに聞くわけですよ。そうすると彼女は何と答えるかと言うと、「デパートで、子どもを抱いていて、物を落とした。その時に、直ぐに高齢の方が寄ってきて、それを取ってくれて、「かわいいね」って言ってくれたこと」と答えが戻ってくる。「ああ、そうなんだ」と思います。子どもが「かわいいね」って言われて、嬉しくない人なんていないですよ。こういう福島だからこそ、いつでも、子どもに「かわいいね」と声を地域社会にできたらなと私は思って、機会があれば言わせてもらっています。

    • 郡山市医療介護病院でのボランティア活動受け入れ

      私が平成21(2009)年から勤めている社団法人郡山医師会郡山市医療介護病院では、さまざまなボランティアの皆さんが、入院・入所されている利用者の方々の生活の質の向上のために活動しています。平成18(2006)年の開院の時から来てくださる地域ボランティアの方々がいまして、活動も臨機応変に、利用者の方々への配慮を欠かさず、いろいろなことを行っていただいております。その中の一人の方は、要介護なのですが、本当に生き生きといろいろな人のところへ行ってお話ししてくださっています。また、この中のもう一人の方は、通所リハビリテーションで週1回行う、書道クラブの講師です。

      それから、読み聞かせのグループが月2回入っています。手遊びをやったり、南京玉すだれをやったりします。震災以降、子どもたちの居場所づくりを始めてくださいました。

      それから、生け花教室もあります。お花の代金は実費で徴収していますが、生け花の先生は全くボランティアで月2回入ってくださっています。

      地域の方々の押し花クラブもあり、利用者の方々に押し花を教えてくださいます。

      ここはきれいな病院なんですが、ここに園芸ボランティアの方がいます。この方は、敷地内の植木の手入れなどをやってくれています。

      私たち病院では、ボランティアの受け入れについては、堀田先生のお話にありました地域包括ケアの中で重要な部門として位置づけています。したがって、それをよく理解している社会福祉士がボランティアを受け入れる仕組みにしています。彼は、「まず、ボランティアであるからこそ、人と人とのつながりを大事にしていかなくちゃいけない」とよく言っています。そして、具体的には、「ありがとうございます」という気持ちをボランティアの方々に伝えていくことで、それを表そうとしています。

      もっと具体的に言えば、一つは、単発で来る方がいるのですけれど、単発で来た場合には、広報誌に載せたり、礼状を差し上げたりしています。それから、長年ずっと続いている方には、たとえば、開院何周年という時に表彰状をお渡しする、あるいは、暑気払いや忘年会等で、一緒に飲んだり、食べたりします。

      私たちは、このようなことをしながら、お互いに心地よくやっていけたらいいなと思いながらボランティアの受け入れをやっています。

パネリスト、助言者からの意見

  • 活動に入ったきっかけ ~ 活動を突き動かす潜在的な力は恩返しの気持ち

    冨田:お三人のパネリストの方にそれぞれの実践活動についてご報告いただきました。それでは、まずお三人それぞれが自分の活動にどういうきっかけでお入りになったかについてお聞かせいただこうと思います。松崎さん、いかがでしょうか。

    松崎:私は、第二の職場が終わり、暇になって、何かしてみたいと思っていました。花とか植物が好きだったのですが、丁度その時に、花案内人の養成講座がありましたので、それに応募したのがきっかけです。趣味や特技、関心のあることに一歩踏み出したということです。

    冨田:それでは、渡部さん、お願いします。

    渡部:私は、かなり厳しいことをお話ししたいと思います。実は、21年前かな、県で女性海外派遣研修制度というのがあり、それに応募したんですよ。倍率3.3倍。作文書いて、面接受けて、合格したのですけれど、団費が85~6万円で、その中2分の1を県で出すというわけね。それで、行こうと思って、職場に言ったら、有給休暇も何もあげないって言われたのです。何故ならば、女だからって言われました。もう、今ならね、パワハラか、セクハラだけど……。それをね、「何で、女ならいけないのか」って常務に食って話したら、「女は次長ならいいけど、あんたは課長だべ」って言う。「次長にしないのは、そちらでねえの」って言い返す。そんなやり取りをやっていると、支援してくれる部長さんたちがおられ、ほんで、行けたんですけれども……。その時、私は、このことは恩返しをしなければならないと思いました。休みを取って、県からお金もらって行けたんですから。市でも5万円ずつ出したんですよ。だから、県と市と職場に、恩返しをしなければならない。ただこそ高いものはない、と今更ながら思っています。

    だから、県の各種委員がありますよね。それにも、公募委員募集つうのには応募しました。それから、福島県男女共生センター(二本松市郭内)のボランティアを、平成15(2003)年にあそこができてからずっとやっています。やっている関係で、今回浪江町からの避難者の方々の支援をしようという感じになったのです。あそこには、震災後の5月23日から浪江町が役場機能を置いていた。それで、ボランティアカフェをやったのです。それは私の個人的なボランティア活動で、ふくしま民話茶屋の会の活動とは別ですよ。震災後間もない頃は、浪江町の方たちは、おろおろ、おろおろ、おろおろしていた。そのうち、だんだん落ち着いてきてもらえた。でも、この方たちに何とか民話の会のほうから手を差し伸べられないかなという思いで、浪江の社協さんと話したりしていました。何せ、うちの民話の会のメンバーは、いろいろな意味の、凄いベテランばかりです。私は何もしなくても、「こうしたほうがいいんでねぇべか」と言うと、直ぐ役割分担がたったったと決まって、ばーっと実行する。「浪江の手助けすんべ」と言ったら、ちゃんとうまく日赤からお金をもらう方法を考えてくれた。「じゃぁ、何か紙芝居を一つ多くつくらないと」ということまでも全部、メンバーの方たちがやってくださっているわけです。

    それで、ただほど高いものはないということですが、この浪江の仮設住宅への訪問活動はあまり補助金を使わなかった。それは、ただで語り部の養成講座を受けたから、そのお返しかもしれないな。行政でね、いろいろなことを無料、無料、無料でやっているでしょう。無料で受けた人には必ず恩返しをしてもらうこと。というのは、あれ、税金でやってるのだから、税金ってのは市民のものだもの、市民に返さななきゃいけない。

    それで、私が海外に行ったのは、海外の福祉、教育、男女共同参画を見たり、聞いたりすることだったのですが、それが国際女性教育振興会の主催だったのです。それで、やはり国際女性教育振興会がその後の私の活動の基本になっているんだなと思います。職場が終わったら直ぐに、そこの福島県支部の役員をやらされました。そして、ふくしま市女性団体連絡協議会というのに代表者として参加し、会長にさせられて、それを2年間やりました。それ終って、ほっとした時に、平成13(2001)年に「うつくしま未来博」があったのです。その後も、ただで受けたコースが2つあるんですよ。その1つが福島市文化財ボランティアで、2ヶ年研修を受けたのです。その分お返しをしなけりゃならないと思って、「福島市資料展示室 ふれあい歴史館」のボランティアとか、史跡見学とかをしています。それから、今、松川町というところに住んでいます。そして、松川町に「まつかわと花案内人」という組織を立ち上げたわけです。松川町というのは、素晴らしいところなんですよね。松川八丁目宿と言って、昔、大名様がお泊りになった宿場町ですし、その歴史の掘り起しとガイドをどんどんやろうということで、人材が集まりつつあります。やはり、誰かが何かやらないと、人は集まってこない。物好きだなあと言われるけれども、何とかそのように考えて、やっております。

    冨田:それでは、宗形さんのほうからお願いします。

    宗形:私がこの社会活動を始めた動機については、先ほど報告させていただきました。今、八重子さんがこの話をしてくださって、私はどきどきしているのですけれど……。実は、私も県からお金をもらって、海外に行かせてもらったのですよ。それは、今から10年前です。コスタリカ共和国というところに自主研修というかたちで行かせてもらったのですね。「憲法で戦争放棄を謳っているのは、コスタリカと日本だけなんだよ」という話を聞いて、行ってみたくなったからです。そして、その後、自分の中には、本当に何かお返しをしなくてはという感覚がいつもあるような気がしています。そういうことが力になっているのかなと今思っていたところです。

    冨田:聞いておりますと、皆さん、それぞれに明確な目的意識と言いますか、「やってみたい」、「動いてみたい」という皆さんの意欲の力強さに圧倒されるところですけれども、今のお話を聞いておりますと、いくつかポイントがあったと思います。まず一つは、好きじゃないとこういう社会活動というのはできないのだろうなということと、私、行政の立場としては、講座とか、そういうのをやっているけれど、きちんと社会に還元できているのだなと思って、自分たちのやっている、そういう支援というのも決して無駄じゃないのだなと一つ確認できたこと、そして、やはりそういうことを続けていかないといけないのだなと感じたことです。

    恩返しという言葉が非常に印象深かったのですが、おそらく恩返しというのは、そういう行政の講座とか、そういうものを意味するばかりではなくて、多分周りの方々から受けた支援というものに対して言っている部分が、もしかするとあるのかもしれない。やはりそこは、働きかけ、それを受けて自分のこととして、それをお返ししていく流れが一つ出てくるのではないかなというふうに思ったところです。

    堀田 力様の写真
  • 人間同士の共感の本能・本性を目覚めさすこと

    冨田:ここで、助言者の堀田先生に、いわゆる高齢者が社会活動に出ていくきっかけとしては、全国の事例では、どのようなことが多いのか、あるいは、こういう例もあるよということがございましたら、ご紹介いただければと思います。

    堀田:ちょっと時間をいただいていいですかね。どういうきっかけかが問題となっていますけれど、やはり基本は、人同士の共感と言うか、「あそこで困っている人がいる。ここ何とかしたいな」、そう感じるのは、人を好きだからだと思います。人を好きでないと、自分のことだけ考えている人は、いくら言ったって、そうはやりませんよね。ただ、私は、どんな人でも、人と人は共感するという本能、本性を持っていることを痛感した出来事がありますので、そのことからちょっと話させていただきたいと思います。

    私は、大震災が起こりましてから、主として岩手、宮城に入って、復興応援活動を全国の仲間たちと続けてきております。ただ、福島については、帰れる場所の帰り方が決まらないので、なかなか復興支援の活動ができないということで、県外避難者を居場所ができ、落ち着けるようにと、活動支援を続けているのですけれど…。震災が起こった年、一昨年の最初は緊急支援活動、その後は、どういうまちに復興するかということを地域の住民の方に話し合っていただき、それを行政に伝えて、これからつくるまちのあり方を住民にとっていいかたちになるように行政に決めてもらうという活動をずっとやっておりまして、震災が起こった年の夏ごろから、被災された方々を、いただいた義援金で、バスツアーにご招待して、そこで1泊、2泊で身体と心を癒していただきながら、元気を取り戻してもらって、もとの町をどういう町に復興させたいか、そういう話し合いをしていただくという活動を今まで続けておるのですが…。

    震災の起こった年の8月だったか、9月だったか、岩手、宮城の方がそういうバスツアーをやっていましたところ、茨城県北茨城市のわれわれの仲間から、「茨城県にも津波が来て、被災者がいるので、バスツアーに招待してよ」という話が来まして、「そりゃあ、そうだ」と言うので、北茨城の津波被災者の方々を伊香保温泉に2泊3日で、義援金でご招待して、町の復興の議論をしたのですが、そういうバスツアーをするために、私は北茨城市に行きまして、その活動を一生懸命やっている地元の仲間の方と一緒に、津波被害者の方々に「じゃあ、バスツアーに行きましょう。途中どこか観光に寄りますか。どういうところを、観光に寄って行きましょうか」と聞きました。そうすると、「私たちは観光には行きたくない。私たちは、福島の原発避難者の方々の避難所を訪問して、励ましたいのだ」と、津浪の被災者の方々がおっしゃったのですね。津波で家を失い、家族を失った方も多く、もう職もなく、すべてを失った方々が、それでも自分たちが楽しむのではなくて、福島の原発避難者の方を励ましたいとおっしゃるので、本当に感動しました。それで、「でも、あなたがたも大変なんでしょう」と言ったら、「いや、そりゃあ、原発避難者の方のほうがもっと大変なのだ。私たちはまだ、高台に戻って、高台の町をどうつくるか、皆で議論して、先に希望を持つことができる。ところが、原発避難者の方々は帰れるか、帰れないか、帰れるとしていつ帰れるのか、それすらも分からない。そういう不安な状態におかれている方々というのは、本当に辛い。まだ先に希望が持てる私たちのほうが幸せなのだから、その方々を励ましたい」と、こういうお話なのです。

    それで、バスツアーで伊香保へ行く途中、2か所、福島県の田村町などからの方々が避難しておられる避難所に寄りました。どういうふうに励まされるのか、私どもは後ろに引いておったのですけれど……。やはり最初は、福島の避難所の方々も、バスを迎えに出ておられる。そこに、バスが着いて、皆さんが降りていかれる。こう見合ったまま、言葉が出ない。固まったような時間が過ぎていく。それを私は本当に長く感じましたが、でも入って行って、仲介するようなことはできないので……。そうすると、自然に津波被災者の方々が寄って行かれて……、かと思ったらそれぞれこう抱き合って、本当にしっかり抱き合って、もう言葉もなく、お互いに相手の肩に顏を埋めて、涙、涙です。体を震わせながら、泣いておられました。もう本当に長い時間に感じましたが、そういう時間があって、ぽつぽつと津浪被災者の方から出た言葉が、「何に困っている?」とか、「どんなものが欲しい?」とか、そういう言葉でした。まだお互いに名前も名乗り合っていない、全く知らない方々に、「何に困っている?」と言うのは、久しぶりに会う親が下宿している子どもに言うような、そんな本当に親しい者同士の言葉ですよね。そういう言葉が自然に出てきて、「何々が持ち帰れなくて辛い」とか、そのようなお話をして……。

    その時の皆さんは、メールアドレスを交換され、今でもメールを送ったり、送られたりと交流を続けられているそうです。どちらも何もない中で、本当に相手が必要なものを送ったり、送られたりしているそうですが、私はあの情景を見て、同じことを阪神淡路大震災、中越地震の時にも感じていたのですけれど、やはり人は誰でも、困っている人がいれば、お互いに気持ちが通じ合い、何とか助けたい、自分が何もなく全てを失った、そういう状態ですら、困っている人がいたら、何とかしたいという、こういう気持ちを基本的に持っているんだなということを本当に痛感いたしました。ですから、もともとそういう気持ちを持っている方のそれをどう引き出すか。きっかけというよりも、それをどう目覚めさすか、スイッチを入れて目覚めるか。その点が目覚めるという問題でしょう。

    私は、女性の方は働いておられる方も、ご家庭の方も、そういう生活の中に入っておられますから、いろいろな生活の中で、「ああ、あの人は困っている」とか、「自分一人で子育て、心細いよね」とか、「ああ、保育園がなくて、困っているよね」とか、「身体がこういう状態になって、この家を離れるわけにもいかないし、といって、一人でだんだん不自由になってくるし、施設には入れないし、どうしたらいいかなあ」とか、そういう状況がどうしても、生活している中で目につく。だから、やはり福祉の分野は女性が圧倒的に多い。だから、もともとそういう人間は助け合う気持ちを持っているところに、そういう、「ああ、何とかしなければ。これは、行政もできない。企業も何ともできない。私たちがするしかない」と、そういう状況を見れば、自然に動かれる。これはもう、先ほど宗形さんも職場でいろいろ見ておられるから、自然にそれを自分の職場以外の場でも、助けたいと思われるでしょうし、渡部さんも同じ気持ちで、いろいろ民話を聞かせて、つながりをつくっておられる。そこが、自然に出るのではないかと私は思います。

    ただ、男性には、── 松崎さんは県庁にお勤めになっていたのに、よくこの世界に入られたなと感服しているのですが、── 県庁の仕事に限らず、もともとそういう気持ちはあるのでしょうけれど、どういうところで入っていっていいかなかなか分からない、そこがつかめない、そういう方が多い。松崎さんは、市民の生活をよくしたいというお気持ちを多分持ってお仕事をしていられたから、暇になったら何か役立つことをしたいなというふうに、割合つながり易かったと思うのですけれど、そうではなくて、企業なんかで利益を上げることばかり考えてやっていると、人のところへ目がいかないですよね。だから、引きっこもっちゃって、出てこないので、これにきっかけをつくれということはなかなか難しい。私は20年間ボランティア活動をやってきているのですけれど、それをどうやるかは、決め手はないのですよ。

  • 地域デビューに有効な奥様の力

    それで一つだけ。それは、奥様の力ですね。奥様が、優しくて、主人が会社等を辞めて、家でごろごろしているのをそのままにしておいて、食事をつくり、お風呂を沸かしやっていると、これはもうそのまま出ていきません。これは、樋口恵子さんがおっしゃる、濡れ落ち葉、粗大ごみ、粗大生ごみ、産業廃棄物というコースに行きますから。これは、追い出してくれないと出てこない。追い出すにはどうするか。世話しないことです。ご飯をつくってあげるから、本人はつくらない。着るものを出してあげる。そんなことをするから、そこにあるものを着て出て行けばいいのだと思っている。何もしない。だから、奥様のほうで、ほうったらかして出ていく。今日も、だから、すんなり帰らないでくださいよね。家に一人おいて、夜になるとお腹が空いてきますから、やはり冷蔵庫の中を何か探して、だんだん何かするようになるじゃないですか。少しずつ、少しずつ、そのようにほうったらかして、できれば3泊、4泊ぐらいは奥様が出ていただく。ボランティア団体は、3泊、4泊の研修会がありますから…。うちも3泊の研修会がありますけれど…。3泊ほうっておきますと、アイロンを当てたりし出しますから…。だから、ほうったらかすということが、男性の社会参加の第一の決め手です。

    もう一つ。ほうったらかすだけでは若干ぎくしゃくしますから、さっきから、ボランティア活動の決め手として、褒めるということが出ていますよね。松崎さんも「きれいだね」と言ってもらうことがエネルギーになる。宗形さんも、「ありがとう」と言って、子どもを「かわいいね」と褒める。これが、力になり、モットーでもありますから。だから、ご主人が何かつくったら「上手にできたね。おいしそうだね」と言って、褒める。食べて美味しくなくても褒めてください。食べるのは本人ですから、美味しくなければ、こちらは食べなきゃいいのだから。アイロンを当てて、しわがよっていたって、「きれいだね。クリーニング屋さんがクリーニングしたみたいね」と言って褒めてあげてください。しわがよっていたって、本人は気づきませんから。そう言っておけば、本人は乗ってきますから。だから、ほうったらかす。褒める。これによって、やり出しますから、どうぞそれによって、男性たちを社会の中に押し出して、そして、社会活動に参加するようにきっかけをつくっていただかないと駄目なぐらいに、退職した男性を外に出すことはなかなか大変なことです。こういうお話です。

    冨田:ありがとうございました。今、女性軍から拍手が出ましたが、男性軍にとっては極めて厳しいお話でした。決め手がないということで、本当に暗澹たる思いになりますけれど、俺は、これからほうったらかされるのかとも思いました。男が仕事人間になるのは、褒められるのが嬉しいからかなとちょっと思っておりまして、仕事をやると、上司に「よくやっているね」と褒められる。嬉しい。そして、もっと仕事をする。もし、男の本能を上手く使うとすると、そのへんを刺激することが、社会活動を続ける際の、男のボタンになるのかなと、今先生のお話を聞いて思った次第です。

  • 地域デビュー後、活動を続けるために重要なものは何か

    冨田:ここで、もう一つ。スタートはそういうこととして、高齢者がその後その活動をずっと続けていくには、どうしたらいいかについて考えてみたいと思います。宗形さん、ご自身のご経験も踏まえながら、お願いします。

    宗形:それじゃぁ、私の体験として、お話をさせていただきます。続けていこうなんて考えていることが続かないことになるのだと思います。私は、いつ止めてもいいと思っています。これは、重要なんですよ。そうしないと、疲れるんですよね。いま、やっている活動も、5人の意見が合わなかったりするんですよね。でも、それは当たり前のことなのです。続けていこうなどと努力すると、疲れるので、いつ止めてもいいと思っています。皆が、そう思っています。

    渡部:私たちは好きだから、皆、やってるんじゃないの。大風が吹こうと何があろうと、この「コラッセふくしま」の12階まで日曜日に上がってくるんだから…。

    それで、やっぱり女性がリードしなければならないのかなあっていう民話、短いのね。短く縮めてやります。

    「昔な、あっところに、凄く仲のいい夫婦いたんだと。死ぬときは一緒に死ぬべなって。そしたらな、ばあさまのほう、先に死んだんだと。ほうしたら、じいさまは、泣いて、泣いて、毎日泣き暮らしたんだと。それ見た隣の後家ばあさまな、ある日たずねてみた。何で泣いてんだ。ほうだって、おら、仲良かったべ。仲のいい夫婦だったべ。ばばのほうが先に行っちまったーんと泣いてんだと。それからな、隣のばあさま、毎日、毎日いろいろ持って行っては、ああだぞ、こうだぞとしゃべってるうちに、最初、ふーんなんて言ってのが、はははははは…と毎日楽しく楽しく笑い合うようになったんだと。じいさま、墓場さ行くの忘れちまった。そしてな、ある日気がついたんだな。ああ、ばあさまの墓場さ、行ってねえ。行ったど。そして、ばあさまに、あのよ、死ぬ時によ、一緒に死ぬべと約束したけどよ、おら、楽しくて、楽しくて、今、行かんにぃ。もうちょっと、我慢してよ、と言ってな。ほうして、帰ってくるべとしたと。ほしたら転んじまったんだと。転んだとき、ちいっちゃい時、教えられとったけど、………… 墓場で転ぶと1年しか寿命ねえぞって、と教えられとったのな。思い出して、わーんと泣いて帰ってきたと。それ待ってた隣のばあさま、何で泣いてんだ。いや、おら墓場で転んだから、あと1年しか生きられねえ。1回転ぶと1年だと言ったんだと。隣のばあさま、2回転ぶと2年か。3回転ぶと3年だな。あっ、そうか。じいさまはまた、墓場に取って返して、ころらん、ころらんと転がってたと。まだまだ死にたくねえ話、終り」

    松崎:何の話をするのだっけ。活動を続けるにはどうするかっていう話ですよね。

    「ふくしま花案内人」ってのは、観光ボランティアガイドということなんで、ボランティアだから好きな時に好きなことをやっていいよ、というものでもないと思うんですよね。これは、市というか、市の観光コンベンション協会が音頭を取ってやっていますから、面白おかしくということもありますが、地域の振興の役立ちたいといったちょっとした使命感を持って取り組んでいます。

    冨田:途中で民話が入ったので、私も少し戸惑いましたが、松崎さんに戻していただきました。今、お話がさまざまありましたけれど、やはり、男性っていうのは、若干の使命感と言いますか、そのへんがないとなかなかそういうことが続けられないのかな、と感じましたが、やはり基本的には、まず好きなものを見つけないと、おそらく使命感に辿り着くまでが難しいかもしれないなと思っております。実は、福島県の老人会が取ったアンケートがあるのですけれど、この中で、いろいろやりたい方が国の統計と同様、半分くらいはいらっしゃるんですけれど、「じゃぁ、何がやりたいの」という統計を取りましたら、ボランティアというのは、実は1割以下しかないんですね。一番多かったのは、旅行、ウオーキング、パソコン・デジカメということで、やはり、退職した後に関して言いますと、個人的なものがどうしても中心になりがちです。そのような中で、使命感のところに辿り着くまで、そして、それを共感を持って癒されるというところにまで辿り着くには、一回経験しなければいけないのかなと考えたところでございます。

    先ほど、お二人のほうから県の制度あるいは市の制度を使って、講座、あるいは研修に行かせてもらったことの恩返しだというお話がありましたけれど、我々行政としても、特に団塊の世代に続く世代が今後退職してまいりますので、そのあたりきちんと勉強していくことがきっかけとして重要なのかなと、今までのお話を聞いて思ったところです。

    それから、特に男性を引っぱり出すということでは、先ほど堀田先生のほうからは奥様の力というお話がございましたが、それぞれ活動していらっしゃる団体からの働きかけも、退職した方たちが地域に踏み出すはじめの一歩として、有効ではないかと考える次第です。

    今日のパネリストの方々のお話、そして堀田先生からのご助言は、地域の社会活動への参加への意識づけとして、共感するところが非常に多かったのではないかと思っています。

会場との質疑応答ならびに意見交換

冨田:それでは、まだ少し時間がありますので、これから会場の皆さまからご意見やご質問をちょうだいしまして、パネリストと助言者の方々に、それに対してお答えいただこうと思います。

  • 今後、ボランティア活動、地域活動を安定的に維持していくために大切なこと

    会場A:今日は、堀田先生のお話、どうもありがとうございました。私たちは、先生、よくご存じのナルク(NALC、ニッポン・アクティブライフ・クラブ)という無償ボランティアの会員なのですが、悩みは組織で活動する場合の運営費ですね。それから、若い人たちがなかなか入ってこないことです。そこで、パネリストの方にちょっとお聞きしたいのですが、費用の面をどういうふうに維持しているのか。それから、一般に各団体とも、これから一層高齢化が進むことが予想されまして、組織を維持する上で、若い方を入れることが重要だと思われますが、これについては、どのように対応しようとしているのかについて教えてください。

    松崎:若い人が加入しないことは深刻な問題ですよね。私のほうの老人クラブでも、若い人がなかなか入ってこない。若い人は、入ると何か役職をやらせるのではないかと思って、入らない。それから、比較的若い人、つまり75歳前ぐらいの人たちに、「60歳以上の人は老人クラブに入れますよ」と働きかけても、この人たちは、「ええ、老人クラブ?」と言って、老人クラブを馬鹿にしているように思えるのです。でも、若い人が入っていけるような雰囲気をうまくつくって、若い人が支えていかないといけないとは思っています。

    「ふくしま花案内人」の年会費は3,000円です。あとは、花見山を案内する時は、500円の弁当が支給されます。あとは、交通費として、1回500円も支給されます。

    渡部:「ふくしま民話茶屋の会」に限って申しますと、会費は年間2,000円です。それで、運営しています。といっても、これは容易ではないですよね。それで、この「コラッセふくしま」に、毎週日曜日に、4~5人出てきます。皆、自費で出てきます。その他、たとえば、先ほどの仮設住宅へ行くのも全部ボランティアです。私たちは、ボランティア以外は、あまりやったことがありません。「お金出すぞ」なんて言われたら、飛び上るほど、喜んじゃいます。それから、今の65歳以上が高齢者、その中で75歳以上が後期高齢者というのは、おかしいんじゃないかと思っています。というのは、63、64歳という場合、男性の方は働いていますよね。女性の方だって働いている方もいる。そのような人を入れようたって、無理じゃないですかね。私のほうは、やはり、定年退職しても、第二の職場は勤めないわという人で、好きな人に入ってもらえばいいのであって、もし61歳で定年退職した人が来れば、あなた、若いんだからこれやってということになります。会の平均年齢は70歳代ですから…。80歳代の人もいますが、皆同じです。皆さんの中で、民話を語ってみたいという方は、是非入ってください。

    宗形:私たちのグループは、ちょっと特殊なグループなのです。でも、来る人拒まず、去る人追わずでやっておりますので、どうにか組織を維持しております。費用に関しては、運営費については、NPOにしたほうがいいのではないかとか、助成金をもらおうかとか言って、一度そのように動いたことがありますけれど、それがどれだけ大変なことかが分かったので、できるだけお金がかからないように、あるものを持ち出しながら、やれることをやるようにしております。私たちの年会費は3,000円です。

    堀田:ナルク(NALC)さんは、随分会員を拡げてお金も集めてしっかりやっておられるので、尊敬しています。特に、夫婦で一緒に入るという、あの仕組みがユニークですよね。いろいろな工夫もしておられます。

    それでも、お金が足りない?まず、お金が足りないほうがいいのですよ。お金が足り過ぎているところは、必ずその組織のやる気が無くなってきて、弛んで駄目になっていっている。これは、世界中そうですね。ですから、お金は足りない、足りない、もっと集めなければいけないと、皆がそう思っているほうが、緊張感があって、いい活動が続けられます。しかし、そのままほうっておいて、じり貧では困りますので、お金が足りない、人が足りない、それは、当たり前の話で、何故そう感じるかと言うと、もっともっとたくさん広げたいからそう感じるわけで、そういう気持ちを持ち続けることが大事です。そして、そういう気持ちがあれば、皆で募金を集める。あるいは、若い人を引っ張る。そういう活動をする。だから、リーダーだけがそんなことを考えたり、行政に頼んだりとか、補助金を探したりとか、これはまあ、それだけでは駄目ですよね。全会員が、うん、この活動は素晴らしい。楽しい。だからもっと仲間にも楽しんで欲しい。自分と同じような喜びを持つ仲間を増やすことが自分の喜びだと伝えたい。活動に参加できなくても、お金をだすことで参加してもらう。そして、喜びを感じてもらう。そのようにして、自分の喜びを分かち合いたいという、そういう気持ちを、会員全員、仲間全員がまず持つことが第一ですよね。そうすると、それぞれが色々な人を引っ張ってくる貴重な仲間も増えていく。若い人も増えていく。

    そういう気持ちを持つためには、やはり何をやっているか、このやっていることが惰性で、今までやってきたからやるのだとか、会社に就職した時のように、意味は分からないけれど、ここで給料をもらうのだとか、そんな感じの仲間内の同好会みたいな、そんな雰囲気になってきたら、これは広がりませんし、お金も集まりません。そうではなくて、自分たちは、こういう活動をすることによって、世の中にこんな幸せをつくり出したい、もっといろいろな人を幸せにしたい、そのために私たちはやっている、そして、私たちもそれで幸せになっている、というそこのところを、何をやって、どう貢献しているか、どう皆を幸せにしているか、これを皆がはっきり気持ちを持って、訴えていく。そういう気持ちがあったら、単に活動するだけではなくて、「楽しいよ。どうしてやらないの」とか、「あなたのご主人、ぶらぶらしてもったいないよ。もっと連れてきてよ」とか、これは、会員たちが引っ張り出す。「いやぁ、主人はちょっと身体はまずいので、それはできないけれど、お金のほうだけは出易くし、応援するよ」というかたちで寄付が集まってくる。そういうかたちで、人や仲間を集めてくると、これは中の結束もエネルギーも高まるし、そのお金が尊いお金だから、本当に大切に使いますよね。やはり、税金で自然に入ってきて、予算でおりてきたお金と、必死で集めたお金の使い方は違いますよね。これは、大切に使って、凄く大きな効果を与えます。

    それが、我々の活動のいいところであって、そういう気持ちで、皆でやりたいと思いますし、ナルク(NALC)さんは、本当に皆でそうやっておられると思いますので、啓蒙的な質問をいただいたのだと思います。ありがとうございました。

    冨田:ありがとうございました。なお、行政の立場で少しコメントさせていただきますと、どうしても、特に市役所とか県庁で出す補助金は使い勝手が悪いと言われます。しかも、金額が少ないにも関わらず、成果報告と分厚い書類を出さなければいけないと評判が悪いのも事実でございます。

    我々もそのへんは十分に考えておりまして、できるだけ少ない労力で補助が受けられるような体制をつくろうとしているのですが、今、福島市の場合で申し上げますと、団体に関しては、二つの流れを考えております。

    まず一つは、既にある組織、特に自治会組織ですね、こちらのほうの運営をお助けしていく、ずっと継続していくというための補助金、これをどういうふうにしていこうかというものです。これは、やはり強くしていかないと、地縁組織と言われる自治会はなかなかもたないという部分がございます。もう一つの流れが、いわゆるスタートアップです。新たなボランティア活動、あるいはイベントをやってみたいというようなスタートアップをしたいという時に、使えるお金を設けようということで、「市民活動支援」というかたちでの補助金を、福島の場合ですと、プレゼンテーションをやっていただいて、そして、競い合っていただいて、参加していただくと方法もとっております。

    もし、そういうものもご相談いただければ市のほうもご用意できるものもあるかと思いますので、是非ともご相談いただければと思います。そして、やる気のある方の活動を支えていくのも、行政のこれからの役割だと考えておりますので、是非ともご利用いただきたいと思います。

  • 自治会のなかのボランティア部に地域通貨による助け合いシステムを

    会場B:この春、うちの町会にボランティア部というものができました。今のところ、集会所の掃除や周辺の草刈りといったことを行っていますが、今後どのようにして、幅広く地域社会に貢献していく団体に育てていこうかと構想中です。町会の中におられる電気工事店に勤めていた方、水道屋さん、警察署長さん等のプロの方々と連携して、実効の上がる地域活動、ボランティア活動に取り組むことに期待しているところです。また、以前勤めていた人たちが、かつての肩書を外して、こうした地域に密着した活動にいち早く参加することにも大きな期待を寄せているところです。

    冨田:自治会の中にボランティア部をつくるという新しい試みに感服しています。こうした新しい試みは必ずや地域の活性化につながるものと確信しています。

    堀田:私どもの団体が長年取り組んできた地域の活動を支える仕組みとして、「地域通貨」というものがあるのですが、今おっしゃった素晴らしい活動の中に、これを取り入れていただくと、とてもいいかたちで助け合いが進むと思います。

    地域通貨は全国にありますけれど、たとえば、自治会で皆さんが集まって、「30分券」とか、「1時間券」とかをつくり、それに地域の名前をつけていただく。たとえば、全国には「ピーナッツ」とか──これは千葉の名産です──、「オンドラー」とか──これは富山で、お前ということです──、私どもも被災地で地域通貨を行っていますが、「ガバチョ」にしようかとか、「ドウモ」とか、いろいろな単位の地域通貨を被災地で発行してやっております。

    これは、自治会で集まられて、自分はこういうところで人のお役にたつよということを登録していただいて、だから、たとえば警察署長さんは徘徊している認知症の方を探すなんてことが絶好だと思いますし、勿論電気工事店に勤めておられる方は電気工事を行いますということになる。その方々だけにやってもらうということではなくて、他の方々も、私は話を聞くのが上手ですとか、食事を一緒につくってあげますとか、皆さん、人のためにできることを持っておられますので、そのそれぞれの方々が人のためにできることを登録して、そして、それぞれ「30分券」と「1時間券」を配っておく。あとは、たとえば、電気工事に困っている人であれば、電気工事の方に、来ていただいて、工事をやってもらい、「30分券」とか、「1時間券」とかを渡していただく。電気工事をした方はまた、独り者で、食事が困るので、時々は夕食をつくってもらいたい、あるいは、一緒に食事をして、家族と語り合いたい、あるいは病院に通う時に車を出して欲しい。そういうふうに、サービスした方は、またそれを使って、人に頼める。これは、パソコンを教えるとか、留守番をしてあげるとか、いろいろなことができますから、それを町内で通用する地域通貨でやっていれば、そのプロの方は、ボランティア活動で手助けをするけれど、また自分がして欲しいことを人に頼める、というお互い様の関係が生まれます。

    それから、プロでない人も、人の役に立てる能力を皆持っていますので、たとえば、寝たきりの方だって、添い寝するボランティアという、人の話を聞くボランティアができますので、皆が人の役に立てる。そのことが楽しい。そういういい関係が生まれてきます。全国でも、あちこちでやられています。おっしゃる自治会にも適しているので、一度皆様方で、いろいろお話し合いいただければと思います。

    冨田:地域通貨という新しい概念をご紹介いただきました。是非とも勉強していただきたいと思います。

    そろそろ時間がきたようです。本日、パネリストの皆様から各地域での実践活動のご発表をいただき、堀田先生からは、長年のご経験も交えての幅広いご助言を頂戴いたしました。これらをお持ち帰りいただきまして、皆様のこれからのご活動にご活用いただければ、ありがたいと思います。

    本日は、本当にありがとうございました。

(参考)パネルディスカッション 福島市配布資料

直後の状況 地震被害 2011.3.11

現在の福島市 空間放射線量メッシュ調査

避難所等の数の推移

福島市の避難状況

ふくしま花案内人 提出資料

花見山公園の写真

花見山周辺MAP

花見山来訪者数の推移

花見山案内所(ログハウス前)

花‘み’シンポジウムの様子

ふくしま花案内人年代構成(平成25年)

ふくしま民話茶屋の会

第1回ふくしま民話まつりの集合写真

平成16年10月 民話をひもとく公開講座(市民会館)

平成22年3月 「ふくしまの民話18話」の冊子を福島市教育委員会に寄贈

さきにこらんしょ昔話を(仮設住宅)

高齢社会をよくする女性の会「郡山」、郡山市医療介護病院

今日お話しすること

リプロダクティブ・ヘルスを考える会の活動について

私たちのモットー

ボランティア受け入れで大切にしていること