第2分科会「高齢社会フォーラム・イン東京」

「失敗しないセカンドキャリアデビュー ~ 人生二期作・二毛作 ~」

コーディネーター
松田 智生
(株式会社三菱総合研究所 プラチナ社会研究センター 主席研究員・チーフプロデューサー)
パネリスト
臼井 清
中村 昌子
栗原 邦夫
黒笹 慈機
松田 智生氏 今日のキーワード 失敗しないセカンドキャリアデビュー

松田 改めまして、皆様、こんにちは。三菱総研の松田です。

 今日は、この分科会では人生二期作・二毛作ということをテーマに、既にそういった二期作・二毛作を実践されているアクティブシニアの方から報告をしていただいて、後半はパネルディスカッションをしたいと思っております。主題は「失敗しないセカンドキャリアデビュー」ということですけれども、新しいセカンドキャリアをやろうと思っても、なかなかうまくいかない人も少なくないということです。そのために何が必要なのかということ、それから、人生の生き方というのは二期作と二毛作があるということです。二期作というのは、米なら米、麦なら麦を作りますけども、今まで同じキャリアをやっていた人が、自分のキャリアの延長線上でセカンドキャリアを築く場合が二期作。二毛作というのは、米と麦とか、米と何とかみたいな、違ったものを作る。それはセカンドキャリアの中で今まで自分が数十年働いてきたフィールドと全く違うことにチャレンジするのが二毛作ということでございます。

 私自身は三菱総研で超高齢社会の地域活性化あるいはアクティブシニア論を研究しています。内閣府の高齢社会フォーラムの企画員を2年続けておりまして、去年に引き続き、この分科会を持つということでございます。

 では、パネリストの発表の前に、問題意識を幾つか紹介いたします。今日、ここに書いてあるのが非常に重要な問題意識ということで、セカンドキャリアをするに当たって大事なのは、やはり生きがいなのです。皆さんが生きがいを持って次の人生を楽しむということです。多分、皆さんあると思うのです、自分が生きがいを感じる瞬間というのが。どういうときにありますか。

 どうですか。どういうときに生きがいを感じますか。

【質問者】 やっぱり仕事で頑張ったときです。

【松田】 仕事で。
どうですか。どういうときに生きがいを感じますか。

【質問者】 週末の家族の時間。

【松田】 家族の時間。
どうですか。どういうときに生きがいを。

【質問者】 感謝の言葉を人からもらったとき。

【松田】 ありがとうとかですね。
どうですか。どういうときに生きがいを感じますか。

【質問者】 もうすぐ定年でうれしいな。

【松田】 卒業ということですね。
いいですね、リラックスしてきましたね。
どうですか。どういうときに生きがいを感じますか。

【質問者】 やっぱり人に喜んでもらったときですね。

【松田】 多分、皆さんが生きている中で、そういう生きがいとかモチベーションを感じる瞬間はたくさんあるわけです。だから、生きがい、モチベーションというのが今日のキーワード。

 生きがいというと、今日、ここで話す私やパネリストの生きがいも大事なのです。今日、皆さんがしらっと聞いていると、私の生きがいも生まれないわけです。何か腕とか組んでいて、目をつぶったりしていると、はーとがっかりするわけです。途中でスマートフォンとかいじっていると、見ていて結構むかついてくるわけです。だから、今日、皆さんにお願いがあるのは、話していて、そうだなと思うときは大きくうなずいてください。そうすると、我々のモチベーションも上がります。本当にそうだなと思うときには、2回こうやって大きくうなずいてください。よりモチベーションが上がる。そうでないときも、1分に1回ぐらいうなずくと。

 次のキーワードは25%。これは、今日のフォーラムを考える中で非常に重要なキーワードです。何の数字でしょうか、25%って。どうですか。25%。

【質問者】 高齢化率。

【松田】 高齢化率。そう。別の会合で聞いたら、体脂肪率と答えた人がいましたけども、これは日本の高齢化率。世界で1番です。先月、中国に出張に行きましたけど、中国は10%。その前の月はフィリピンに行きましたけど、フィリピンは1桁ですよね。日本は4人に1人が65歳以上というから、世界で断トツなんです。

 じゃあ、それが悪いのかと。僕はそうは思わない。多くの人がやはり65歳を超えても元気だろうということです。だから、ピンチをチャンスに変えるという発想の転換が大事だということ。

 2つ目には、60歳。これは何の数値か。どうでしょう。今、雇用延長して60歳から65歳に定年が延びましたけども、実はこれはある年の日本の平均寿命なんです。  いつだと。

 1950年。1950年は、人は60歳で死んでいたのです。正確に言うと、男が59歳で、女性が61歳。60歳で亡くなっていた。ということは、今日、会場を見回すと、既にあちらの世界に行かれた方がたくさんいるわけです。

 それを、60歳が平均寿命というのをあらわすのは、わかりやすい事例は、『サザエさん』の波平とフネ。波平はおじいちゃん、フネはおばあちゃん、の年齢。波平とフネは幾つぐらいだと思いますか。おじいちゃんとおばあちゃん。

 どうでしょう。何歳ぐらい。

【質問者】 50歳ぐらいだったような。

 正確に言うと、波平が設定時54歳、フネは52歳。だから、非常に近いところをいっています。すごくおじいさんとおばあさんに見えますよね、波平とフネって。今でいうと多分、それこそ60歳や70歳に見えますけども、当時の54歳、50代はそうだったわけです。でも、今の54歳、52歳、もっと若いでしょう。じゃあ、今の54歳から52歳にはどういう人がいるかというと、例えば俳優でいうと、渡辺謙と、真田広之と、歌手の玉置浩二とか、俳優のトム・クルーズ。女性でいえば、黒木瞳、松田聖子、それから叶姉妹。もし叶姉妹と玉置浩二がフネと波平をやったら、結構違和感あるじゃないですか。

 でも、高齢社会というのは、前向きに考えれば、元気でアクティブな社会だと。そういう発想が大事だということでございます。

臼井 清

 今日、人生二期作・二毛作という点でお話しいただきます。今日はこの4人のスピーカーの方、私がこれまで仕事で接していて、将来こうなりたいなという方々のお話です。それは、人生二期作、同じことの延長線もあれば、二毛作、全く新しいこともあるし、そのミックスもあります。それぞれにやはりストーリー性があると思うんです。ですので、今日この後、それぞれのスピーカーから15分ずつぐらいお話をいただいて、まず前半はそれを進めたいと思います。

 じゃあ、最初は臼井さんですね。よろしくお願いします。改めてもう一度拍手でお迎えください。

【臼井】 僕、今、波平と同い年です。54歳で、もうすぐ誕生日で55歳になるんですけれども。

 お時間いただいて、少し私の経験談みたいな話になりますが、もし参考になればということでお聞きください。

○サラリーマン時代 上場会社の最年少部長として

 私30年サラリーマンやっていました。皆さん、サラリーマンの印象というのはどんな感じでしょうか。

 私、すごく衝撃的な言葉に出会ったことがありまして、それは小学校の低学年の女の子が、サラリーマンの印象はと聞いて、こう答えたのです。「真面目にこつこつやって、いつかリストラされる人」。これを聞いたとき、私は本当にショックを受けて、ただ、ショックを受けたんですけど、俺は違うなと。そのとき、現役ばりばりサラリーマン。なぜ違うかと。俺はね、格好いいサラリーマンだと思っていたのです。本当です。ちょっとお聞き苦しいんですが、ちょっとだけ聞いてください。私の当時サラリーマンとしての自己紹介を今、させてください。まず、海外赴任を経験しておりまして、アジアに始まり、例えばヨーロッパですとロンドンですとかミュンヘンに赴任していたと。ちょっと格好よさそうじゃないですか。結構若くして、自分で言うのも恥ずかしいですが、一部上場ですよ、40代の、しかもワールドワイドの8万人以上の会社の最年少部長に当時なりました。経営。しかも、新規事業。これを任されちゃって、ヒット商品を飛ばしたと。嫌になるぐらい格好よくありませんか。全然格好よくないですね。私は格好いいと思っていましたし、私、サラリーマン勝ち組なんじゃないかと。いつかリストラされる人、あり得ないと思っていたんですが、世の中、そうならないんですね。本当に社内失業になりました。

一番身近な事例から・・・ サラリーマンの印象は? 高齢社会フォーラム 嗚呼、サラリーマン勘違いから0歳起業家へ

○社内失業にあって

 あのときのあの専務に楯突かなければよかったなとか、あのときのあいつの失敗がなければ、俺は今でも大丈夫だったんだとか、いろいろ人のせいにしていたんですけど、ともかく格好悪いなと思いました。社内失業しちゃったんだ、俺とか。

 しばらくは人のせいにしていたんですけど、社内失業すると社内の中で時間がいっぱいあるので、いろいろ考えていたんです。1つ、私自身でわかってきたんです。どうやらちょっと違うかなと。

 皆さんも、今日、会場の半分以上の方がサラリーマンだったり、サラリーマンでいらっしゃるということなんですけれども、やっぱり長い間働いていると、実はすごく得るものがあるんです。これは積み重ねてきた経験ですとか、これはネットワークも人脈とかも含めてですけれども、ものすごくきらきら輝く、本当にダイヤモンド、財産だなと改めて私は思いました。社内失業中に。

社内失業! (長い)サラリーマン生活で得るもの

○社会と交わるチューニング機能

サラリーマン人生を通じての気づき

 もう1つ、思ったんです。同じなんですけど、積み重ねた経験と価値観がお荷物になっちゃっている場合もある。これは不思議だなと思って、何でこうなっちゃったんだろうなと。経験は皆さん同じようにお持ちなんだけど、すごく財産として使っている場合もあれば、荷物になっちゃっている場合もある。何でだろうなと思って、これまたちょっと考えたんです。昼間、することないですから、考えていました。気づきが1個あったんです。それは、チューニング機能と書きましたけども、いろいろな社会に様々に交わる力というのが、会社生活が長くなっているうちに衰えてきているんだということに気づいたんです。なぜかというと、会社の中でしかわからない用語とか、皆さん、いっぱいありませんか。会社の中としか話していないときって結構ありませんか。そうすると、A会社、B会社という会社の周波数でしか動かなくなっちゃうんです。ほかの周波数にいっちゃうと、全然何言っているかわからないし、全然感じないということになってしまって、いつの間にか、これ、衰えちゃったんじゃないかなと。

 社会人になったはずなのに、会社人になっちゃったという感じなんですよね。これをすごく感じまして、社内失業したおかげで私はそのことに会社にいる間に気づきました。

 それで、これはリハビリの機会を意識して持とうと。チューニング機能を復活させようと思いました。チューニング機能が衰えているだけで、決して使えないわけではないんですね。すごくラジオもいい音を出したりですとか、すごく素敵なデザインだったりとか、それはそのまま使えるんだけど、たまたまほかの周波数に合うことができないだけで使えないという、それが先ほどの荷物のたとえです。

○もう一つの居場所

「大人の部屋」(3rd Place)の勧め

 それで、社会と触れ合うといってもなかなかいきなり難しいんですが、ここ、英語で3rd Placeと書いてあるんですけど、大人の部室と私は勝手に呼んでいますが、大体この2つなんですね、サラリーマンは。左側にあるのは職場、右側にあるのが家庭。この2つ、ファーストとセカンド。どっちがファーストかわかりませんけれども。ここで、例えばですけれども、そろそろ会社辞めちゃおうかなというときに、会社の中で相談できるかと。

 あるいは、家の中で相談しようと。奥さんが要らぬ心配をしてしまって大変なことになる。いやいや、ちょっと辞めようかなと言っているだけで、辞めるとはまだ言っていないよなんて大変なことになっちゃう。と考えると、もう1つの場所があってもいいよねと。そういうことも含めて、どこの時間、場所、どんな人と会うかということで、もう1つ別の場所を設けるといいかな、そこで社会と交わればいいかなと思いました。

 多分、後ほどのディスカッションとかでもお話しするので、詳しくはここではしゃべらないんですが、私は例えばこういう場所を使いました。これは丸の内、ここから歩いてすぐのところにもあるんですけれども、3×3Laboみたいな、そういうスペースがあります。これは名前を覚えていただかなくてもいいです。ここにいろいろな人が集うので、そういうところに行ってみるというだけでもいいかもしれません。

○いよいよ起業へ!

 それで、結果的にこの部活をやってチューニング機能が少しずつ戻ったんじゃないかなと思うんですけれども、結構おもしろくて、これは笑うところなんですけど、若気の至りで、53歳のときに、よく読むとどこの会社かわかるんですが、従業員1万人超、これは国内ですけど、大企業勤めを辞めて、代表兼従業員1人の零細企業を立ち上げました。0歳起業です。初めて笑いが。よかった、よかった。

変わる”景色”!! 企業前(イメージ) ”部活”が高じて若気の至りで・・・

 ここからは、よく聞かれました、今でも聞かれるんですけれども、よく起業なんて思い切ったことしましたねと。僕もそう思っていたんです。何で起業しちゃったのかなというぐらいなんですけど、しちゃうと、どうってことないなというのはあるんですが、実はする前とした後で全然違ったので、その話を最後のほうにしたいんですけれども、起業前のイメージというのは、やっぱり自分もオフィスにいたので、こんなようなことをずっとやっているのかなと思っていたんです、正直言って。どちらかと言うと、黙々と仕事をするみたいな感じですよね。実際は、景色が全然違いました。これは私のもといた会社の地元の本社がここ出身の会社だったんです。長野県なんですけれども、長野県の善光寺というところの桜がすごくきれいに咲いているのを、辞めてから気づきました。

○社会とどんどんつながる

 それまでは全然わからなかったです、見たはずなのに。すげえきれいとかと思って、これはそのときに撮ってきた写真です。見えている景色が全然変わるんだなという。起業前と起業後ですね。会社卒業後という言い方でもいいかもしれないです。それからもう1つは、起業前のイメージというと、すごく、悲壮感とまでは言いませんけれども、孤独に耐えて頑張らねばならぬというイメージを持っていた。24時間働けますかみたいな感じ。ちょっと古くてあれですかね。なんて感じだったんですけれども、全然違って、会社にいるとき以上に、社会と交わっちゃっているせいもあるんですが、いろいろな人とどんどん出会っています。びっくりするぐらい。

 右下のものはいわゆる女子会ですよね。女子会に自分が参加させていただけるなんていうことは、これは夢のような話ですけれども、実際呼ばれましたりとか、あるいはサメの街の気仙沼というところを今応援しているんですけれども、そんなようなことも一緒にやったりとか、ともかくどんどんつながっちゃって、孤独でやっているなんていうことはあり得ないなと。起業したからこそチーム力かなぐらいのことを今感じています。

つながる”人”!!

 もう1つは、起業すると、自分の今までため込んでいたものを1滴1滴絞り出して、何としてでも生き延びるみたいな、そんなイメージを僕は持っていたのです。今持っているものを何とか小出しにして長らえるみたいな。

 これも全然違いまして、これは人に会うわけで、いろいろなことを教えていただいたりということがメーンになりますけど、どんどん自分の中の広がりが出てきて、自分の中にある可能性が本当に、無限大なんていうことは格好よ過ぎて言いませんけれども、まだまだいけるじゃんというのがすごくわかります。例えば何か賞に応募してみたら勢いで通っちゃったとか、それから、偉そうにしゃべっていただけだったのが、へえ、そうなんだなんて言っていたら、ちょっと記事書いてくださいなんて言われたりとか、商店街のところを一緒にやりましょうとかという話とか、どんどん、私ってそんなことを期待されちゃうのみたいなことが出てくる。これはよかったですね。

○丸の内プラチナ大学

 実は今日、コーディネーターをやっていただいている松田さんと一緒に、今、僕がそうやって経験してきた内容をもっといろいろな人に経験していただきたいということで、丸の内プラチナ大学というのをプレで始めています。ですので、これは宣伝ですけれども、是非また後で、丸の内プラチナ大学で検索できる方は検索してみてください。昨日もやっていました。

チューニングを磨くには、周りに合わせる前に自分に合わせる! ベースキャンプで英気を養う!! 広がる&広まる 可能性!!

 本当の宣伝はこれです。私、とはいえ、お金を稼ぐ零細企業にならなきゃいけないので、いずれにせよ、志事創業社というのは仕えることをずっとやってきたのですけれども、志すことでビジネスをやっていきたいなということで志事創業社をつくりましたので、是非一緒に、全然ビジネスじゃなくてもいいです、何かやってみたいなという方がいたら、丸の内プラチナ大学か、あるいは直接私に御連絡いただきたいなということで、これが締めです。

 ごめんなさい、一番肝心の締め。あと15秒ぐらい。これ、ここにいるつるっぱげ兄ちゃん、兄ちゃんって私と同期だったんですけど、彼も辞めたんです。彼とは正直言って勘違いサラリーマン時代、競っていまして、勝った負けた、出世街道どうだと。彼も結局辞めたんです。

 辞めて、家族と全然つき合う時間がなかったんだけど、今、一緒に山梨でブドウ園から始まって、ブドウ酒をつくっています。私、これ、すごく感じがいいなと思って、今、大の仲よしなんですけども、彼の家に行ってお祝いしたときの写真なんですが、ともかくチューニングしようと思うと、とかく周りにまず合わせようと思っちゃうんですけど、まず自分の心に合わせるのが大事だなと彼から教わりました。なので、最後にこの写真で終わりです。

 ありがとうございます。


【松田】 臼井さん、どうもありがとうございました。まず、外と合わせる前に、自分にチューニングを合わせるというのは非常に心に響く話だと思います。

 それぞれのスピーカーに対して、会場から御質問を1つか2つ受け付けたいと思うんですけども、もし今、臼井さんのご報告の中で質問等ある方、いらっしゃいますか。

 どうぞ。

【質問者】 3×3Laboというのは、どういうところなんですか。

【臼井】 ありがとうございます。今の御質問は、3×3Laboがどういう場所かということだったんですけれども、コワーキングスペースというのは御存じですか。コワーキングというのは、いろいろな起業家の人たちが集まってそこでワークしている、いわゆる仕事をしているという感じなんですけれども、コワーキングスペースを超ゆるくしたような場所なんです。会員になればいいんですけど、会員も本当にただみたいな値段ですけど、みんな、ふらっとその時間に行って、仕事を一生懸命やってもいいし、隣の人とくっちゃべってもいいし、そこでいろいろな自主的なイベントとかも開催できるので、そこで例えば今日みたいな話をしたり、あるいは全然違った、これからのテクノロジー、どうなるんだなんて話をしている人がいたり、そこにオープンにどんどん参加できるというような、そんな場所です。土日は休みなんですけど。

【松田】 あと1つか2つ。

 どうぞ。

【質問者】 志事創業社さんの事業の中心といったらいいのかわからないんですけど、丸の内プラチナ大学が中心となって、ここでいう志事というのは志のことと書いているようなんですが、具体的にどのようなことをなさっているのか。

【臼井】 幾つかあって、例えば私自身は人と人をこうやってつないだりとか、人と人が連携するときのことをかなり今まで担当しているので、例えばですけれども、会社の中で研修をやっていてもうまくいかないよといったときに、外部のところの人たちを入れてその研修の中身を変えたりですとか、あるいはキャリア相談みたいなところで、真面目に「私、どうしましょう」と言っているところよりも、今日みたいな話もそうですけど、別の視点を入れてあげることで変えたりだとかというところのプランニングをお手伝いしたりだとか、こんなようなことを具体的にはやっています。

 ありがとうございます。

【中村】 皆様、こんにちは。中村昌子と申します。昌子と書いて、ナカムラヨシコ。この名前、珍しいと思うんですけれども、大学院では20代の同期の皆さんから、愛称はキャッシーと呼ばれております。よろしくお願いします。この後、『釣りバカ日誌』の黒ちゃん、ハマさんが出てくるので、ちょっと対抗してみました。

自己紹介 「挑戦するシニアが時代を開く」 中村 昌子氏

 私の自己紹介なんですが、先ほど臼井さんがやはり30年以上勤められたというお話が出ておりましたが、私は厳密に言うと31年9か月、現場一筋で客室乗務員として働いてきました。それで、この分科会の副題が「失敗しないセカンドキャリアデビュー」、松田先生からもお話がありましたが、人生二期作・二毛作ということで、私、振り返るに、一番長かった乗務員の仕事が客室責任者という仕事です。いわゆるチーフパーサーというものです。15年ほどさせていただきました。この仕事は、今、セスナ機の事故で取り沙汰されていましたけど、操縦席、機長と、地上と、そして客室間の情報交換、かけ橋を担う仕事だなと振り返っております。そういう意味では、今、私がいろいろなプロジェクトでコーディネーターを担っているというのは、二期作、延長なのかなと思ったりしております。一方、大学院生、研究者の卵ですよね。おこがましいんですけれども。それは二毛作。そういう意味で、先ほど松田先生がおっしゃったように、私の場合は二期作・二毛作の折衷バージョンじゃないかなと自己分析しております。

 松田先生から御提案いただいた、15分ということで話をかいつまんで凝縮したテーマ、この流れでいきたいと思います。

話しの流れ

 退職後、リカレント教育の場、立教セカンドステージ大学を選んだ理由。

 立教セカンドステージ大学で得たもの。

 シニア世代で人気のある人・残念な人。主に定年退職後のお父さんですね。

 そして、仲間たちの修了後あれこれ。

 大学院での学びや今後のライフワーク活動。

 そして最後に、同世代へのメッセージ。

 この流れでいきたいと思います。ちなみに、この写真は東北の復興支援活動の中でちょっと立ち寄った猊鼻渓という船下りの場所です。

○母校での学び直し

「母校で学び直しと再チャレンジ」

 母校で学び直しと再チャレンジを私は選択しましたが、2010年にJAL、赤い翼を、早期退職後、R社、わかりますね、皆さん、リク、R社です、の就職支援サービスを受けました。再就職をした方々の例としては、ホテル・マンションのコンシェルジュ、病院の受付案内、保険会社の販売員、そして大学専門学校の講師など。ちょっと珍しい例では、司書の資格を持っていらした方ですかね、図書館の館長、都内ですけれども、あと、地元に帰って、新潟県に戻って小学校の校長先生になったという方がいらっしゃいます。そして一方、独立系ですと、退職前から資格を取得していて、コーチングコーチ、私自身もそうなんですけど、マナーの講師、あと、キャリアカウンセラー、カラーコーディネーター、日本酒コーディネーター、そして、ソムリエ。私がこの独立系で最もおもしろいバージョンだなと思うのは、室長だった方が、ジャズシンガーで首都圏のライブハウスで活躍しています。

○学び直しと第2のモラトリアム

学び直しと第二のモラトリアム

 そんな流れの中で、私自身は、母校立教大学で学び直しと再チャレンジの道を選択したわけです。学び直しと第二のモラトリアム。2010年、私、臼井さんの画像にもちょっと似ているなと思ったんですが、早期退職のとき、皆さん、宝くじ当たった人いらっしゃいますか。その例は……、すごいですね、松田先生。私は、最後の6年間、末端管理職というか、現場監督のマネジャー業務をしていたのですが、その間に、JASとの企業統合と経営破綻を経験しました。

 2010年、いろいろ労務とかも担当して、

 エギゾウステッドexhausted まさに退職後の燃え尽き症候群、ヒマワリに例えるとこのようにベランダに出した干からびたヒマワリみたいになった。まずは自己基盤を再構築することが何よりも必須でした。

 あともう1つは、私、1978年、立教大学出身、文学部英米文学科を卒業したのですが、地方の田舎娘だったもので、東京の生活に慣れるのに精いっぱいで、とても勉強どころじゃなかったんです。その自分の「勉強しなかった」というトラウマと、あと、立教大学の文学部英米文学科は、論文は必要なくて、ゼミもなかったんです。論文を書くこととゼミを経験したかった。それが学び直しと再挑戦の原動力となりました。

 大学という踊り場でモラトリアム、「私、もう一度勉強しているの」と言うと、昔の友達に「あら、優雅ね。あなた、いいわね。お金と時間のある人じゃなきゃできないわね」と言われます。もちろんそうなのですが、やはり同じお金があるんだったら、世界一周の船旅に出る人もいれば、不動産を買う人もいるだろうけど、でも、私は微々たる財産で自分に投資したかった。正直、そういうところです。現在、そのモラトリアムの学びの場も経て、今は「立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科」というところで、社会学を探求しております。

○立教セカンドステージの大学の概要

 立教セカンドステージの大学の概要ですが、2007年、団塊世代が大量に定年退職が始まりました翌年に設立されました。目的は、学び直しと再チャレンジ、そして異世代共学の場です。平均年齢は大体62歳前後と言われています。その当時、私は57歳だったので、ギャルでした。あまりモテませんでしたけれども、ギャルでした。

立教セカンドステージ大学で得たもの~人生第二章で出逢った仲間たち~ ゼミの仲間たちと社会学者の木下康仁教授を囲んで 立教セカンドステージ大学の概要

 これは卒業写真。私は文学部出身なので、社会学の学びがしたかったんです。これは木下康仁先生という、M-GTAという質的研究の権威の先生なんですガ、その先生のゼミで2万6,000字の修了論文を書いて、ゼミも経験いたしました。修了論文を書いて、ゼミも経験して、人生やり直しの宿題を果たしたのは達成感がありますが、何よりもこの立教セカンドステージ大学で得たものは仲間たちです。今日も何人か来てくださっています。

 左上は、ポスト団塊世代の「5期生ぎゃるず」と称しています。日本の世代区分は、学術的な区分ではなく、団塊世代の後、私たちポスト団塊世代、その後、バブル世代、ロスジェネ世代、そして、ゆとり、さとり世代というのが大体メディア的な区分です。私たちは団塊世代の物差しで思春期を送って、でもちょっと違うなというところがある「元祖白け世代」と言われた「ポスト団塊世代」です。

○人生の第2章につながる学びとは?

 右下の写真は、5期生、今日も何人かいらっしゃっていますけれども、5期生の1人が川越で助産婦さんを40年間やった方が「ほっとサロンむさし野」というコミュニティーサロンをオープンして、彼女の修了論文のテーマでもあったんですけど、そこに同期でお祝いにいったところです。50代から80代です。右手前の男性は、マスターズのウエートリフティングの選手です。世界選手権にも出た方です。

 何も私たちは大学の雰囲気を味わいたくて立教セカンドステージ大学に入ったのではなく、やはりセカンド、人生第2章につながるような学びを得るために学び直しました。5期ぎゃるずの例の場合、私たちは50代後半から60代前半なのですが、公立中学校の相談員、今日いらしていますけれども。それから、台東区で生活困窮家庭の子育て支援をしているNPOを設立したりとか、生きづらさを抱えた人の電話相談ボランティア、固有名称は出せないんですけれども。あと、障害者就労支援センターのコーディネーター、子育てママ塾を主宰したり、あと、18歳から45年間ずっと同じ銀行で働き続けて、今は大分報酬も縮小されましたが、遺言書作成相談部に勤務している63歳の女性、今はキャリアカウンセリングの勉強をしています。そして私。これが「ぎゃるず」のメンバーです。

○人気のある人、残念な人

修了後の仕事・活動・学びの例

 定年退職したお父さん、人気がある人とそうでない人じゃなくて、すごく人気がある人と、素敵なんだけど、ちょっとここが残念だなと思う人の境界線は何があるのか。まず人気のある人は、傾聴力が高く、双方向の言葉のキャッチボール、メールでもそうですよね、双方向のキャッチボールができる人。あと、日本では「察する文化」なので、「言わなくたって感謝の気持ちは伝わるだろう」と皆さん、お父さんたちは思っている。伝わらないんです。感謝、ねぎらいの言葉がかけられる人。こういう方は好かれます。あと、お父様たちはスーツ姿はすごく素敵なのですが、オフの姿というか、カジュアルファッションとか旅行のファッションなど、ガクンと、ダサくなるみたいな、いまイチだなと思う、そういう方がいたりする。あと、引き続き挑戦を続ける人、人生を謳歌する人はすてきですね。例えば学生時代から音楽をやっていて、交響楽団でチェロを弾いたりとか、ライブハウスでサックスを吹いたりとか、短歌・俳句をやったり、それから旅行したり、カメラに集中したり、何か自分の好きなものに集中している人はすてきだと思います。

人気のある人 残念な人

 一方、ちょっと残念だなと思うのは、皆さん、結構そうそうたるメンバーの人なんです。企業では役職についていたりとか、小学校、中学校、高校の先生を40年勤めた人とか、あとは公務員でも上のほうの人だったりとか、尊敬されて当然の立場が長かったので敬われて当然、それがリセットされていない人が結構いる。あと、知らないうちに俺々タイプ。若い方たちのコミュニケーションでも、いつの間にか自慢話になっちゃったりする。

 あと最後、笑顔がなかったり、視線合わせができない人というのは皆さん納得していただくと思うんですけど、私、すごくびっくりしたのは、立教セカンドステージ大学で、定年を終えた、日本を支えたサラリーマンの方とこれだけ集団で出会ったことがないんですけど、私、自分が難聴になったかと思ったぐらい、結構皆さん、声が小さいんですよね。これって、同期の女性と話したりしていたんですけど、声も年をとるのかなと思ったりするぐらい、意外とぼそぼそ系の人。滑舌よく話す訓練は必要なんじゃないかなと思ったりしました。

○お父さん変身講座

NPO・デパートと共同プロジェクト

 そういうのもあって、自ら、「お父さん変身講座」というものを企画、開催しました。これは、豊島区のNPO推進協議会に、柳田さんといってすごいおじさまがいるのですが、その方に紹介してもらって、池袋の東武デパートの協賛を得て、この「お父さん変身講座」は、コミュニケーション編、ファッション編、そして文化カルチャー編のストーリー性のある講座で、コミュニケーション編で傾聴と承認、そして言葉以外のコミュニケーションを学んでいただいて、ファッション編では、上の写真が変身前、下の写真が変身後なんですけれども、秋冬バージョンの小物、帽子とかマフラーとかかばんとかをちょっと効かせるだけで、これだけお父さんたちが素敵になっていく、この講座を企画、開催しました。

○多世代協働プロジェクト「ビジョンの共有」

大学院での学びライフワーク2 自立し笑顔の高齢者の指針となる= 多世代協働型プロジェクトはビジョンの共有が大切! 大学院での学び=ライフワーク1 実践!多世代協働プロジェクト

 大学院での学び、私のライフワークでもある、1つで、今日、午前中の樋口先生の基調講演の中でも出てきましたが、「実践!多世代協働プロジェクト」ということで、これは私の研究のテーマでもある陸前高田市広田町に移住した20代の若者とシニア世代との協働プロジェクトで、シニアスタディーツアー、そこに地元の人とか、あとはUターンした、この方、この方ですね、この方はカキの養殖漁師さん、30代の方です。地元の方を巻き込んで、過疎の町の交流人口を増やしていこうという試みです。

 多世代協働型のプロジェクトはビジョンの共有が大切で、先ほどからお伝えしているように、高度成長期に頑張った私たちの根性話や自慢話はNGです。失敗談や挫折した話のほうが、今の若い世代には、失われた20年に生を受けて、どっぷりその中で生きてきた彼らには有効なようです。まずは対等な立場でお互いの世代を理解して、そして、ちょっとずつお互いを微調整していき、先ほどチューニングという話がありました。そして、最も大切なのは、「一緒に楽しくわくわくする」こと。それで、ビジョンの共有。これが大切だと思います。

 これは、やはり身近なところで、社会貢献ということで、豊島区の小学校で後期高齢者、平均年齢75歳以上の奥様たちに向けての、ミニ講座の後、小学校の給食を一緒にとる講座だったのですが、ここで皆様のお手元にある「故郷」のメロディーで世界の挨拶をするかえ歌をつくったんです。もちろん転倒防止体操とか認知症予防運動とか、すごく効果的だと思うんです。でも、私は両親を介護した経験から、知的好奇心を刺激するということが本当に大切なことだと身をもって体験しているんです。彼女たちは、本当に45分の講座でしたけど、あっという間に、覚えたとは言いませんが、このメロディーと挨拶になじんでくださいました。

○「旬に生きる」

同世代の皆様へのメッセージ~人は一生進化し続ける~

 最後に、皆様に送る言葉です。この「旬に生きる」という言葉は、私のある友人の書家の方が私の生き様を見て誕生日に書いてくれたものです。身近なところで小さな一歩を。等身大でいいから身近なところで地域貢献する、コミュニティーに入る。そういった最初のステップが大切で、人は一生進化し続ける、これは社会学の中でエイジングという領域なんですけれども、棺おけに入るまで人は進化し続ける。Happy Smile Aging。こんなシニアになりたいと思っております。

一緒に頑張りましょう、皆さん。


栗原 邦夫氏

【栗原】 こんにちは。今年3月にキリン社を退職しまして、4月から長崎国際大学にお世話になっています栗原と申します。よろしくお願いいたします。まずもって、このような機会を設けていただきまして、ありがとうございました。

 今日お話しすることは、ほとんど自分のことばかりで、自慢話に近くなっちゃうので、是非気楽にお聞きいただければと思います。


人生二毛作

 タイトルはこのような形です。流れですけれども、自己紹介を中心にしまして、最後のほう、4つぐらいの部分、こちらをポイントにしてお話ができればと考えております。

 自己紹介ということですけれども、こちらにも2つぐらい、なぜ東京下町、日暮里生まれが長崎に移ってしまったかというポイントも書かれてございます。退職したのは56歳、今57歳になったんですけども。まず親が、とても出来のいい兄貴が2人いたので、大変安心して、どこでも行けちゃう三男坊というポジションです。

○一家離散型家族

 おふくろも下町ちゃきちゃきで、生まれ育った浜町で今も元気に暮らしております。そして、何はともあれ、うちの家族はどうなっているんだ。いろいろなタイプがございますが、自分で言うのも何ですが、一家離散型家族と。これは、みんなそれぞれ、一人一人自立して、困ったときに声かけて来いやみたいな感じで、私、今の環境、ずっとつくり上げてきたのですが、ハウステンボスの前に住んでおります。

職務歴 自己紹介

 今行っている学校も歩いて20分というところで、大変理想のところに、ユートピアに住んでいるというところですが、嫁さんは単身赴任が長かったんですけども、福岡に家を9年前に買いまして、そちらにピアノ部屋をつくりまして、私は体育会系なんですけど、嫁さんは音楽大好きでピアノから離れられない、そういう理由をもって単身赴任、お互いに認め合っているというところの、後でまた詳しくお話しできるかと思いますが、そういう中で、4人家族、一家離散型家族が手に手をたまにとり合って、生活をして、今の生活をつくっているというところでございます。これは簡単に見ていただければと思います。何が言いたいのかというと、私の職歴という部分、営業もやったり、工場で人事・労務関連もやって、大変いろいろな仕事をさせていただきました。大阪に11年ぐらいいまして、それから取手工場5年、それから九州が長いんですけど、約11年間、九州、長崎中心にいたということで赤く染めております。あと、水色のところは、私、あまり行きたくなかった東京本社ですね、そこにやはり7年、8年いたというところでございます。東京が嫌いなわけじゃないんですけど、何か田舎が大好きだというところをここで御説明をさせていただければと思います。

使用前→使用後

 これが私の使用前、使用後でございます。一番左が、希望に燃えて、慶應野球部卒業ということで勉強を一切しておりませんでしたが、たまたま採用試験の前に立教戦でホームランを打ちまして、「昨日、ホームラン打ちました」と言ったら、今から言うと裏口入社ですね、オーケーが出まして何なくクリアしたんですが、その10年後、32歳のとき、この怒られている姿のお父さんが、実は今、キリンホールディングスの会長をしている三宅でございます。直属上司という。もちろんやらせの写真ではございますけれども。その右側が東京六大学で一緒に野球をやっていた青島健太、スポーツライターですね。敵のアサヒスーパードライの宣伝で一躍有名になった人間と、キリンビールで乾杯している様子でございます。

○CSV-社会と共有できる価値

キリンのCSV概念図 Creating Shared Value 執行役員 CSV本部CSV推進部長(兼 キリン絆プロジェクトリーダー 栗原 邦夫)

 これが私の最後の名刺に近い形です。ここに私の意志というか、きっかけが2つ存在しております。CSV、これを聞いた方はなかなかいらっしゃらないかと思いますが、そのCSVというのと、復興応援キリン絆プロジェクトのリーダーをさせていただいたというのがますます自分の意志を高めたということでございます。

 Creating Shared Value、社会と共有できる価値の創造。私が言うと何かあまり、皆さん、笑われちゃうんですね。やっぱり体育会系があまり難しいことを言うと全然説得力がなくて、松田さんにも笑われちゃっているんですけれども、ハーバード大学のポーター教授という方が提唱されている経営コンセプト、経営の競争戦略ということでございます。

 この辺、キリンのって話していたら、こういうものの講演会を随分やっていましたので、これだけで終わっちゃうので、ここは是非うちのホームページを見ていただければと思います。簡単に言えば、事業を通じて社会をよくして会社も強くなるみたいなものということで、守り型のCSRじゃなくて、それが進化したもの、要はここに書いていますイノベーション、新たな価値を生み出そうというようなことが、社会というか、会社でも求められているということです。

社会の期待に応え接続的な成長を目指していく

 その象徴が、さっき怒られていた私の親分の三宅、今、会長ですけれども、左の「社会の期待に応え持続的な成長を目指していく」、ここを見ていただければと思います。やはりこういうところが社会に向けなきゃ企業も成り立たないというところでございます。私が同じようにCSVの責任者だというところでございます。

○大震災を経験して「絆プロジェクト」

 これは結構ショッキングな写真かと思います。震災でうちの仙台工場も15基中4基が倒れて、泡まみれです。本当はもっと見ていただきたいのは、屋上に481人の方が避難されて、何とか皆さん、無事生還されたというところ。ここに書いています、地域社会とキリンがともに地域の課題解決に取り組むために、この絆プロジェクトをつくってスタートさせたというのが私の大きな転換期になったのではないかと思います。

地域社会とのCSV -キリン絆プロジェクト JFA・キリンスマイルフィールド- 地域社会とのCSV -キリンビール仙台工場の被災-

 その中で、やはりキリンといえばサッカーということで、香川選手が写っていますけども、被災地3県で1,300校ある小学校の640校でサッカー教室をやっていまして、約1万人の方がやっているということで、大変評判のいい活動をしています。

 これを見て、私は実際、この転職というか、第2の人生を歩むに当たり、この2つをしっかり受けとめながら進めました。

○子供の笑顔とスポーツ

キーワード(CSV&被災地支援で学んだこと)

 第一はやはり、将来は子供しかないなというところ。スポーツですね。子供の笑顔とスポーツ。そして、やっぱり地域社会のということでは、被災地を目の当たりにしたおかげで、これは絶対、キリンビールがシェア何%だ、アサヒビールが何%、サントリーさんが何%、こんなことをやっている場合じゃないな、と言ったら社長に怒られますけれども、そういう中で、しっかり思いが出てきたと。

○CCRC - 持続的コミュティケア

CCRCとは

 そして、今、大学にいます。CCRCという、こういう地方創生の中の大事なポジションがあるんですけど、そういう中で、この地方大学というのがかなり大きな位置づけがあるということです。この辺は松田さんにお任せする場面です。

 そして、ここ、ちょっと簡単に私のきっかけという、年齢ごとの部分を見ていただければと思います。とにかく早慶戦に出たいという夢がありまして、慶應中等部に合格、これも裏口入学じゃないかと兄貴2人が言っていたものですので、常に裏口しか道がないのかなと思いながら、それでキリンビールに入ったのはいいのですが、田舎への憧れというのはこの辺からふつふつと来まして、大阪では結構勤務はきつかったんですけれども、岡山の女性と結婚して、その女性がよかったわけじゃなくて、というとまた怒られますね、という中、何かふるさとが欲しいなと思ったんですよね。

節目のきっかけ:経過一覧

 やっぱり東京人で、下町で生まれていますけど、何か田舎が大好きだなと常々思っていまして、その中で何と取手工場に行った後に、憧れの九州、やっぱり九州は1つの、文化が入ってきたのも初めかなというような歴史文化がありますので、そこへの憧れがございまして、長崎に行って、そしてやっぱりあまり好きじゃなかった東京本社の勤務が、またまた九州長崎への憧れというところにつながりました。

○スポーツで子供にお手伝い

 そこで、ここが一番ポイントかと思います。要は、会社を辞めて何をしたいかなというのを50歳のとき、47歳ですか、母親が入院したときに、あまりに暇なので履歴書を書き始めました。という中で、ここで志、先ほど臼井さんからもあった志というのはすごく大事だなと思って、ここで決めたのが、スポーツを通じて将来を担う子供たちへのお手伝いということで、ここで心を決めながら、先ほど申し上げました福岡にマンションを買って移住計画を進めたと。一番大事なのは、どこに勤めるか、どこに活躍の場を求められるかというところで、しっかりと長崎で得意先社長、要は学校も含めて地域の方たちとのおつき合いで、その糸口を見出しながら、毎年毎年、10年間かけてその方にこういう子供たちのためにお役立ちしたい、用務員のおじさんとして勤めさせてほしいというようなお話を続けて言ったことによって、何とか採用内定しまして、何とおまけがついて、今年、野球部が創部ということで、最高の人生を今歩んでおります。

○長崎国際大学

学部・学科 「長崎国際大学」について 長崎国際大学

 ということで、長崎国際大学、中身は簡単に御説明します。約2,000名の学生で、ハウステンボスから20分という、まだ15年しかたっていません。3学部4学科ということで、下に書いてあるのを読みますように、地域から愛され、地域社会に貢献できる人材育成を目指すというところです。

サークル活動(体育系) 施設

 野球場もできました。アーチェリーでは永峰さんという方がオリンピック選手としてこの長崎国際大学にいるということで、スポーツにも大変力を入れ、あと、文化ということではお茶ですね、茶道教育が必須科目になっている。これもまた特徴のあるところかと思います。

 今日の一番の自慢の写真がこれでございます。これからスタートする野球部のグラウンドができましたというところでございます。

祝 長崎国際大学野球場 落成 野球部のグラウンド

 そして、魅力は、この大学だけじゃなくて、実は大変地域に貢献していることをたくさんやられているグループでございます。九州文化学園グループ、70年という歴史なんですけれども、幼稚園、高校、それから歯科衛生士から調理師、それからリハビリテーション病院から老人ホーム、ここまでのものがあるというところで、まだまだ活躍の場は、活躍って、私がお手伝いできる場はたくさんあるのかなと。

○長崎への恩返し

学校法人 九州文化学園グループ(概要:創立70周年)

 こちらが何で長崎を選んだか。もちろん長崎支社長であり、九州統括本部長、これは通算、すいません、13年じゃなくて11年でした。

 それからやっぱり長崎、九州大好き人間ということで、特に私、瀬戸物というか、陶器が好きなので、有田とか波佐見とか伊万里が近いというのもありました。温泉も嬉野温泉があるということ。 それからやはり知っている方がたくさんいましたので、長崎への御恩返し。

 そして、先ほど長崎熟知という言葉も書いてありますけれども、実はあまりよく、こちらのエリアはまだ未開エリアであったと。

○セカンドキャリアのポイント

なぜセカンドキャリア(ライフ)で長崎を選んだか 早目の準備のコツ 長崎へ移って良かったこと・わかったこと

 先ほど言いました嫁さんとの距離。これが一番かと思います。たまに会うと、本当にお互い優しくできるという、多分皆さんも御経験があるんじゃないかと思います。うちの家族、2泊3日以上一緒にいると結構息が詰まってつろうございまして、イベント型家族と言われております。でも、陸続きなので、何かお互い困ったときは、嫁さんとは1時間40分でほどよい距離かなと思います。

 それから、早目の準備のコツ。すいません、ちょっと長くなって。まず、やはり思いを書きとめる。書くというところですね。よく日経新聞の私の履歴書も、対処法を書かれたらいいよというお話は皆さん御存じかと思います。

 そして、志をまずぶらさない、揺らがさないようにと。

 それから、有言実行。飲んだときはしょっちゅう言っておくということです。それから、キーマンの存在。これを探すのが結構重要なポイントかと思います。

 そして、家族にとってはやっぱり金銭的なもの、これをしっかり納得感、そして応援していただくということが大事かなと。

○デュアルライフのすすめ

まとめ(同世代へのメッセージ)

 デュアルライフという言葉、今かなり有名な言葉になっていますけど、是非こういう心地よさを事前体験、要は地方と都市、両またぎ、両方軸を置いていいという、これを是非事前にやられることがいいのかなと思います。

 それから、未知の世界に行くのは大変かもしれませんけど、また未知の方とのおつき合いができるという楽しみも見つかる。そうしたら、広い中での交流ですね。地域は特にお年寄りが元気です。早く次の世代に移してあげなよと言うんですけど、なかなか移しません。でも、それが地方の活力になっているというのも知りました。

 それから、昔の仲間と再び交流ということで、お帰りなさいと言われるこの言葉がとてもうれしゅうございました。東京の仲間もうらやましがるんですけど、なかなかそういう状況にはいられない。

○人生二毛作

人生二毛作  御清聴ありがとうございました。

 長崎、九州は本当に自慢話ができることが多いので、余計魅力を発信できると。あと、これが一番大事かもしれません。車社会です。車がないと何もできません。ですから、こういう移住を考えるときは、遅くても免許を取ったほうがいいかなと思います。最後に、まず生活する土地を大好きになる。金銭的不安をなくす。お手伝い、お役立ちに徹することを喜びとする。そして、自分の地位や名誉を望まず、立ち位置を明確にする。常に社会地域の一員であることを自覚する。最後の「こんなはずではなかった!」と絶対に言わない。これは元オリックスの田口さんが言っている言葉で、この間お会いして聞いたんです。彼はやはり御夫婦でお互いに言わないという約束をされたということです。あとはやはり感謝ですね。自分の人生は自分でつくるということです。これこそ最後かなというところですが、1粒で2度おいしい人生を皆さん是非チャレンジしていただければと。グリコのキャラメルは、おまけ(わくわく楽しいこと)がプラスでついてきますということですが、これで終わろうとしたら、グリコの社員じゃないのと思われるので、もう1枚つけなさいということで、最後、こちらをつけさせていただきました。ということで、将来を担う子供たちの絶対にお役に立てるように、これからも活動して、キリンと長崎国際大学としっかり活動して、二毛作をこれからも続けていただければと。乾杯したいなと思います。

 御清聴ありがとうございました。


黒笹 慈機氏

【黒笹】 私は黒笹といいます。今は高知に移住して3年半たちました。家族がまだ若くて、子供が今中学2年生、奥さんが今45歳ぐらいですかね、20歳以上離れて、犯罪だと言われているんですけれども。中村さんと同じ会社の、いじめられ役だったのかな、中村さんに。そういうポジションで、今、ある意味、本当に高知で第二の人生を、ハッピーリタイア天国なんですね、高知は。高知で、高知の方たち相手にいろいろなところで、講演で呼ばれるんですけれども、とにかく高知はハッピーリタイア天国で、本当に日本語の通じる外国ですよねなんて言うと、高知の人は、そうか、俺たち外国人だったのかってとても喜ぶんですね。高知の人って本当に脳天気だと思いますけれども、高知の人の脳は肯定脳と楽天脳ででき上がっていまして、2つ合わせると脳天気ということなんですけれども、それを言ってもちっとも傷つかずに、そうか、俺たちは脳天気だったなみたいな、とてもいいところなんです。

 なぜ釣りバカなのかは今から説明させていただきますけれども、実は小学館という出版社に就職しまして、東京生まれの東京育ちで、大学も東京だったものですから、そのまま東京の出版社に就職しまして、御存じなのは作品、かかわりました。ゼロからやったのは『人間交差点』と『釣りバカ日誌』ですかね。『浮浪雲』はもう始まっていました。あと、『三丁目の夕日』もほぼ最初からやりました。そういう出版社で、漫画の専門編集者として入社をした。もちろんそれまでは漫画なんかは全然知らなかったんですけれども、結果的に6年間ぐらいですかね、漫画にいたのは。こういう作品をつくりました。

いままで私が関わってきた雑誌と記事 いままで私が関わってきたコミック作品

 その後、今度は『BE-PAL』という新しい雑誌が出るというので、アウトドア雑誌ですね、呼ばれまして、一番若い編集者として、たたかれつつ、雑誌編集者の修行をしまして、それからはずっと雑誌の編集部におりまして、その後、『ラピタ』という雑誌、これは、創刊は編集長でやりました。それから、その後、『edU』という家庭教育雑誌をつくりました。これも編集長でつくりまして、結局37年間、小学館にいたんですけれども、創刊誌は3つ手がけたということで、大変に恵まれた編集者生活だったかなと思います。

○ハマちゃん 高知へ移住

定年退職を機に押しかけシルバーIターンで高知に来た

 これは過去の話なので。それで、3年半前にふらふらと高知に実は釣りがしたくて行って、皆さんみたいに何か地域の役に立とうとか、第2の人生をもっと輝くものにしようとか、そういう大それた考えは全くなく、密かに釣りだけをして過ごしたいと思って行ったら、高知新聞に見つかりまして、8月ぐらいだったかな、こういうふうに新聞に出ちゃいまして、「“ハマちゃん”高知に移住」みたいな話で、大変にわかりやすいタイトルですよね。魅力的な自然、来る運命だったとか格好いいことを書かれちゃいまして、そうしたら、黒笹さん、編集者だから文章書けるでしょうという話になって、今度はいろいろ高知新聞に連載とかを書かなきゃいけなくなりまして、高知でひっそりと釣りだけをして暮らそうという人生が大いに狂ってしまったというところでございます。

○ハッピーリタイア天国 7つの理由

高知がハッピーリタイア天国だと思う7つの理由

 それで、そういう形で、今年で3年半になるんですけれども、高知がハッピーリタイア天国だと思う7つの理由、まとめてみました。7つって非常に語呂がいいので。本当は100ぐらいあります。ただ、7つにまとめると、まず、高知は日本語が通じる外国である。外国以上ですね。国内マレーシア以上と僕は呼んでいますけれども。あんまり受けないな。僕らの世代で、外国移住で一番人気があるのはマレーシアなんです。

 きれいだし、食べ物もおいしいし、比較的コストが安くて、奥さんも旦那さんもいろいろ楽しむメニューがあるということですね。ただ、高知も外国でございます。土佐弁というちょっと偏った言葉を話しますけれども、基本的に日本語でございます。

 それから、これは大きいですね。高知は野菜も肉も魚も安くておいしいです。生活コストも、思っていたほどではないけれども安いですね。この歳になると、野菜、肉、魚が安くておいしい、ものすごくアンチエイジング効果があります。これは非常に大きいです。基本的には毎日の生活を普通にやっていると、毎日長生きのスイッチを押しているということなので、これは大いに強いところですね。

 それから、高知では、都市といっても大した都市じゃないんですよね。人口三十数万人の都市なんですけれども、一応都市機能はそろっております。それから、そこから、車じゃないですよ、自転車で30分も走れば良好な自然がたくさんございます。ほどよい距離で配置されている。都会と良好な自然が近くにあるというのは、これは世界の大都市の結構重要な部分で、例えばニューヨークだって車で1時間走れば本当にいい自然があります。高知とニューヨークは全然違いますけれども、人間が生活するにはこのコードって意外と重要なんですね。

 それから、高知は土に近い小都市である。土に近いということはどういうことかというと、あと20年も30年もたてば、当然僕も土の中に戻りますので、できるだけ土に近いところに住んでいたいなと。ちなみに、東京のこの丸の内は多分世界で一番土に遠い場所だと思います。人間が頭の中でつくったものでございますので。僕は60年東京に住んだので、もうこういうところはいいかげんにやめてほしいと。基本的には東京を見限って高知に行ったと。丸の内でそんなことを言うと石が飛んできそうですけれども、そういう僕の判断があって行きました。

 それから、高知にはシルバー世代に都合のいいシステムがたくさんございます。まず、朝起きるとご飯はつくらなくてもよろしい。喫茶店に行くとモーニングが必ずあります。これも朝7時ぐらいから、どんなに小さな喫茶店でもモーニングがありますので、シングルになっても、もちろん御夫婦でも、朝ご飯をつくらなくても済みます。ずるずると喫茶店で『釣りバカ日誌』なんか読んでいると、ランチの時間になりますので、これまたランチを食べて、だべっていると、3時ぐらいまではじっくりと時間が過ぎる。そんなに高くないですしね。ワンコインで大体終わりますので。こういうことをいろいろ都合のいいシステムがたくさんあります。あと、僕の場合は後期高齢者専用防波堤というのが周囲にたくさんございますので、そこへ……。あまり受けないなあ。どうしてかというと、70歳ぐらいのお年寄りが毎日、必ず同じ場所にいて、座席が決まっておりますので、我々は入れないんですけれども、そういう防波堤がにょきにょきと海に向かって出ています。餌代は1日50円ぐらいですかね。そうすると、夕方のお魚はそれで十分釣れちゃうんですね。原始的なといえば原始的ですね。

 それから、私、一番苦手なのは行列が大嫌いなんです。東京だと行列を見ると並ぶという癖があるらしいんですけれども、うちの奥さんなんかもそうなんですが、僕は行列があると基本的に避けます。渋滞があっても避けます。わざと渋滞を避けて遠回りになったりするんですけれども、これがございません。ラッシュアワーといっても、北京のような自転車のラッシュアワーがあるだけで、何とも素朴なところです。

 それから、3.11以降、基本的に高知の価値が急上昇しているんです。なぜかというと、売っているものの後ろを見ても、基本的には高知のものしかないんですね。ということは、自動的に放射能フリーだということですね。これは高知の人が意外と気がついていないことですね。僕は密かに大きな声で言っておりますが。

○高知大学 ニューリーダー育成

高知には大都会のストレスがない

 高知には大都会のストレスがないですね。地下鉄がない。地下街がない。渋滞がない。行列がない。満員電車がない。ディズニーランドがない。高級クラブがない。乗車拒否がない。デパートがない。このないない尽くしが、僕は全部苦手なので、これは大都会のストレスそのものですね。これ全部あるのが東京ですね。ですから、僕がいかに東京にいるとストレスがかさむかということがおわかりになると思います。

 私が現在楽しんでいる2つの趣味。仕事は、一応書いてありますけれども、南国生活技術研究所という怪しい会社名の代表をやっておりまして、生活技術というのはお金がなくても豊かに生活する技術ということですね。これは私がつくった言葉で、インターネットで引いても私の会社しか出てまいりません。それからあと、今年の春から高知大学に新学部、地域協働学部というのができまして、これは地域をこれから引っ張っていく、地域創生の時代に、地域を引っ張っていくニューリーダーを養成しようという大変に志の高い学部で、そこで特任教授という格好いい名前なんですけど、要するに時給が3,600円の日雇いの教授でございますが、そこでいろいろやっておりまして、それが仕事なんですけど、これは趣味ですね。

お遍路と釣り

 お遍路と釣り。これが結構おもしろくて、お遍路、御存じですよね。四国八十八カ所霊場。去年が1,200年の節目だったんです。今年は1,201年目なんですけれども、歩いております。去年の4月から歩いて、今ちょうど1年ちょっとたって1,000キロぐらい歩きましたかね。大変に楽しくて、健康的で、こんな感じですね。これは涅槃のつもりなんですけれどもね。必ずいい景色ではこのポーズをすることにしていまして、僕、新聞で連載やっているんですけど、これが大変に人気がございます。

こんな感じです

 こんな感じです。いわゆる白装束の、白い衣装のお遍路ファッションをしないで、僕、『BE-PAL』だったものですから、基本的にはアウトドアのBE-PALファッションですね、後期の。それで、「お遍路ードプロジェクト」という、お遍路を次世代につなぐための新しい観光お遍路でもっと地域を活性化しようというプロジェクトを立ち上げたんですけれども、新聞で取り上げられまして、夕刊の一面ですよね。こういうふうに出てしまうと、もう逃げられなくなりまして、歩いているということですね。ハマちゃんですからね。黒ちゃんのはずなんですけれども。ハマちゃんなんです。

 新聞の連載、これですね。これは第1回目です。これは高知新聞の記者が私と完全同行をして、毎日、前の日の歩きの記事が次の日の朝刊に出るという、新聞では最速のシステムなんですけど、これをやってくれます。結構真面目な文章なんですけれども、ここに僕がちょこっとだけコメントを出すんですけど、これが大変に人気がありまして、このコメントだけ読んでいるという読者がたくさんいまして、うれしくて恥ずかしいんですけれども、私はこの裏で、高知新聞のホームページで長々と、ものすごい長いこういうのをやっております。「釣りときどきお遍路」日記というのをやっていまして、今でもスマホでも何でも読めますので、検索していただくと、月に1週間ずつぐらい歩いていますので、毎日、だらだらと長い文を上げておりますので、ちょっと興味のある方は。

黒ちゃんの「釣りときどきお遍路」日記 新聞の連載 ハマちゃんら新プロジェクト

 それで、お遍路を楽しむコツは、こういうふうに言っています。1人ではなく2人で歩く。先を急がない。それから、1日20キロ以上歩かないとか、夜遍路もちゃんとやる。夜遍路というのは居酒屋めぐりということなんですけど。夜遍路ってまたインターネットで引くと僕のコラムしか出てまいりません。私の独壇場ですね。そういうことでお遍路を楽しんでおります。

 それからもう1つは、これは単なる自慢の写真なんですけど、こういうのが幾らでも釣れるんですね。これはキビレチヌという南方系の黒ダイですね。こちらはスズキですよね。これはシロギズ釣りにいってスズキが釣れちゃったっていう高知らしいあれなんですけど。単なる釣り自慢ですよね。

自慢の写真 釣りバク日誌

 それから、テレビの番組も持っておりまして、30分の釣り番組、「釣りバク日誌」、べたなタイトルなんですけど、僕の友達の夢枕さんと2人で県内の釣り場を釣り霊場と勝手に決めて、現在、釣り霊場7番ぐらいまで行っていますかね。30分番組を4本作りました。この9月にまたもう1本作りますけど、これは結構人気ありますよ。

 すいません、私のこれからの目標。「人生なんてパッと変わるさ」を高知で実践してみたいというのが私の志でございます。実はこれ、僕がつくった雑誌のタイトルです。『BE-PAL PRIMA CLASSE』という高級誌を『BE-PAL』でつくったんですけど、全く売れなかったですね。1年で休刊になっちゃいましたけど、その最後の休刊の号、「人生なんてパッと変わるさ」という捨てぜりふですね。私の捨てぜりふを特集のタイトルにしたという。とんでもない話ですよね。当然全く売れませんでしたけれども、ちょっと早過ぎたかなと。

RKC高知放送「釣りバク日誌」撮影風景at野根川 私のこれからの目標「人生なんてパッと変わるさ」を高知で実践してみたい

○一歩を踏み出す

高知を私のようなシルバーIターンの聖地にしたい

 今、「人生なんてパッと変わるさ」という本を出せば、おっという感じでもうちょっと売れたんじゃないかなと思うんですけど、僕はいつもやることが早過ぎまして、時期尚早な人生なんですね。生き急がないように長生きしたいと思いますが、私のメッセージは、人生を変えるのは、思うほど難しくないぞと。何か素敵なことが待っているかもしれないと思えば、その一歩を踏み出せるというのは僕の最近の口癖でございます。僕の場合、この素敵なことはお魚さんであったりとか、お遍路さんであったり、弘法大師さんだったりしているんですけれども。

 そうそう、最近は夜寝ると弘法大師様が枕元にあらわれるようになりまして。本当ですよ。20回ぐらい回っている人でもまだ弘法大師さんに会っていない人がたくさんいる中で、僕はまだ全部回っていないのに夢の中に出てくるんですね。すばらしいですよね。

 高知を私のようなシルバーIターンの聖地にしたいと。そのための情報発信が私の役割かなと思って、本当は来たくなかった東京に今日は来ております。

ということでございます。


【松田】 どうもありがとうございました。さっきの自転車、印象的ですよね。私は黒笹さんと高知でお会いしたときに、居酒屋で待ち合わせしたときに、その前に自転車が、黒笹さんがあらわれて結構びっくりしました。

 「人生なんてパッと変わるさ」というのは非常に印象的な言葉だと思います。

 では、会場の中で、今の御報告について御質問、御意見ある方、いらっしゃいますか。

 よろしいですか。

 今回、セカンドキャリアを考えるに当たって、失敗しないセカンドキャリアデビューという題名をつけているんですけれども、それぞれ皆さん今日御報告いただいた方々がどんな視点で今に至ったかと。さらに、多分皆さん、本当は今日さらりと話していますけれども、大変な苦労あるいは努力をされていると思います。その中でのターニングポイントは何だったのかということ。それから、これから皆さんに向けて、どういった点が重要かということを後半にお話ししたいと思います。

パネリストの皆さん

【松田】 前半は、パネリストの皆さん、素敵な報告をどうもありがとうございました。

 それでは、前半のそれぞれの皆さんのストーリーを振り返って、パネリスト同士でそれぞれの報告者に対して質問、御意見をいただければいいかなと思っております。

 じゃあ、まず臼井さんの御報告に対して中村さんから、それから栗原さん、黒笹さんから、それぞれ質問を1つずつお願いします。

【中村】 私から。臼井さんからチューニング機能、周波数を調整していくという話があったので、そこら辺、具体的に御自身が微調整していったかというようなところをもうちょっと詳しく聞きたいなと思います。

【臼井】 ワン・バイ・ワンでいいんですか。

【松田】 ワン・バイ・ワンで。

会場写真

【臼井】 わかりました。そうですね。どうやったんでしょうね。

【中村】 自動修正した。

【臼井】 自動修正。ともかくピントがずれているなとか話が合わないなという経験を何度かまずしました。例えば、私は昭和高度成長期、売り上げ右肩上がり当然の仕事をしていた中で、結果が出ない、何でやっているの、そのためにみたいな話を、例えば地域の方とお話しすると全然合わないですよね。何でこんなに合わないのかなという経験を多分していたんじゃないかなと思いますけど、それがその時点ではチューニングだという感じはしなかったですけど、そんな経験を結構しました。

 いつも娘とか、娘と息子がいるんですけど、と話している場面を外でやっているみたいな。何でこんなに話が合わねえのかなと。親子だと俺の言うこと聞けモードだからいいんだけど、ほかだとそんなわけにはいかないんで、そういう経験はしましたね。

【松田】 じゃあ、栗原さんはどうでしょう。

【栗原】 臼井さんに、あえてつらい、思い出してしまいたくないようなことを質問しちゃうかもしれず、失礼かと思うんですけど、社内失業、これは会社が倒産していないのに社内ポジションがなくなるみたいなことかなと思って、もうちょっと詳しく教えていただきたいのと、起業してつながりが楽しいとおっしゃっていましたので、そのつながりの種類の違いみたいなのを教えていただけると。

【臼井】 実は、もといた会社の人がいることを先ほど発見したので、あまり言っていいのかどうか、急に不安になりましたけど。

【松田】 いらっしゃるんですか。

【臼井】 そのまま申し上げると、私、ここはオフレコなのかどうかわからないです、エプソンという会社にいたんですけれども、プリンターとかプロジェクターで結構御存じの方もいらっしゃる会社だと思うんですが、ここは中に使われている部品を扱っていました。これをプリンター、プロジェクター以外の、エプソン以外の、エプソンがやっていない商品のところにも売る部隊がありまして、私はそこの販売の責任者をやっていたんですけれども、そのときに新規事業ということで、我々の位置づけでいうと、新しい部品を事業として新たな商品ラインにしましょうということをやっていたんですけど、結論からいうと、会社全体がちょっと右肩下がりにがくっとなったときに、部品なんてやっていたってしようがねえじゃねえかと。どうせうちの事業はプロジェクター、プリンターなんだから、そこに専念しようといって、ばさっとそこの部隊の販売系が切られちゃったときに、私は最初にメンバーの社内の中での行き先を考えていて、そのとき自分は全然思わなかったんですけど、行き先、全部終わった後に、じゃあ、次、僕何やりましょうかねと言ったら、いや、おまえ、もう仕事ないからって。それが社内失業のきっかけというかですね。

【栗原】 種類が何か違うんですかね、やっぱり。サラリーマン時代と。

【臼井】 ひょっとすると、会社の中にいてもできることだったとは思うんですけれども、今振り返ると。会社の場合はやっぱり仕事に、僕は表現的に嫌いなのは、よくウイン・ウインとかってあるんですけど、メリット、デメリット、どっちがいいのかわるいのか、お互いが勝つにはどうしましょうかみたいなことで協働、こういう感じだったんですけど、今はまず最初に、さっきの夜遍路じゃないですけど、とりあえず馬が合っちゃって、意見をああでもない、こうでもないとかいって、へー、ほーなんて言っているところから、場合によると、ちょっとこれ一緒にやりませんかみたいな、順番が全然違っているな、そういうつながり方があるなと思っています。

【栗原】 ありがとうございます。

【黒笹】 じゃあ、僕の質問ですね。先ほど大変に僕が印象的だったのは、財産と荷物という、ごみ袋とぴかぴか輝いているものが2つ対照で出てきたんですけど、これ、もうちょっと聞きたいなと思い、自分の持っている知見なり経験なりが財産にもなるし荷物にもなるぞということだと思うんですけれども、それは財産なのか荷物になるのか、決める要素って何なのかなと思いまして。

【臼井】 なるほど。要素かどうかわからないんですけど、結果的に決めるのは相手方かなと思っていて、例えば僕、海外にいた経験がありますと。ドイツ人はこういう性格をしているんだよと。これは経験していますよね。なので、例えば、ハマちゃん、ドイツ人とはこうやってつき合うんだぜといったら、多分お荷物系になると思うんです。

【臼井】 ところが、ドイツ人と知り合うためには、やっぱりドイツ人の人をよく知らなきゃいけないし、彼らのいいところ、悪いところ、彼らは日本人と同じで勤勉なんて思ったら大間違いで、実は怠惰な遊び人、それをロジカルにやるみたいな感じなので、例えばそれがわかると、すごくおもしろくて、じゃあ、それを例えば、いや、ハマちゃん、ドイツ人とつき合うとさ、こんなおもしろいことがあるんですよみたいな話を僕がして、おもしろいねという話になると、自分の経験が生きていけるみたいな、そんなことで、多分相手が決めてくる部分に自分が気づくということじゃないかと思います。

【黒笹】 じゃあ、1つの財産、それは財産にもなるしお荷物にもなるというのは、要するに相手がそれをどう判断するかによるということですよね。

【黒笹】 そうすると、自分の持っているものが全部ごみの場合もあるわけですよね。

【臼井】 いや、絶対ないと思います。

【黒笹】 それはないですか。

【臼井】 だって、世の中、変な人いっぱいいて、自分じゃごみだと思っても、すごいいいねって言う人、絶対出会いますから。これは本当です。あり得ないです、それは。それは、僕は断言します。自分の経験として。

【黒笹】 それは安心しました。

【松田】 私から質問というのは、多分セカンドキャリアを踏み出すに当たって、僕はその考え方でいうと、臼井さんの場合は準備期間というか助走期間がよかったのではないかと。それは、集う場があった。それがさっき言った3×3Laboだとかフューチャーセンターだったと思いますけども、おそらくそこで今までの自分と価値観が違う人に会ったと。そういうところで新しい発見があったと思うんですけども、3×3Laboやフューチャーセンターを振り返ってみて、改めて気づき、こういうところがよかったというのがあれば教えていただけますか。

【臼井】 その前の質問と合わせて、今の松田さんの質問を聞いて、また気づいちゃったんですけども、さっきも言ったように、僕はマーケティングが専門でやってきていたので、実は会社以外に行っているときが多くて、しかも今おつき合いのないような業種だとかとつき合っていたから、ひょっとするといろいろチャンスはあったみたいなんです。実は外に行ってしゃべる、僕、人としゃべるのが大好きなので、しゃべりが大好きで人の話をあまり聞いていないという問題もありましたけど、戻すと、やっぱりあれかな、会っている時間を物理的につくるだとか、いろいろな人と会うこと自体もちろん大切ですけど、自分の話じゃなくて、相手が何でこんなことが好きなんだろうとか、こんなことをやっているんだろうかという興味を持った瞬間に大分よくなる、よくなるっていうのは、さっきのチューニングが変わってくるんじゃないかと思います。

【松田】 なるほどね。相手のことをわかろうとすることを、知らず知らずのうちに始めていたんでしょうね。

【臼井】 そうですね。何か恋しちゃうみたいな。

【松田】 恋しちゃう。(笑)

【臼井】 それは言い過ぎですけど。

【松田】 あと、私、以前、臼井さんと話していて、そうだなと思ったのは、会社にいてある程度の役職の人だと、話をすると、この人は一体どういうことを話してくれるんだろうというふうに、周りの人が全神経を集中して聞いてくれると。会社の役員の挨拶とか聞いていると、相当よくわからない言い方で、しょうもないことをしゃべっているんだけど、みんな、専務のお言葉はどういうことなんだというのを全神経を集中して聞いてくれるというのがあるわけです。

 だけども、さっき言った3×3Laboや丸の内プラチナ大学フューチャーセンターに行くと、完全に上下関係はないんですね。話すときに、まさに他流試合というか、真剣勝負なんですね。最初の1分でつまらないと、異様につまらない評価をされる。専務はどんなお言葉を投げかけてくれるんだなんて誰も言ってくれないといったときに、僕はよい意味での他流試合というのかな、平場の目線でお互いが真剣勝負するというところがポイントではないかと思いました。

 あと、臼井さん、おやじギャグが好きなんで、今日、駄じゃれとか、もっと言っていいですよ。(笑)

【松田】 じゃあ、改めて臼井さんの報告の中で、会場のほうで御質問、御意見ある方いらっしゃいますか。

 どうぞ。

【質問者】 私の経験なんかも含めて感想を述べたいと思うんですけども、今、コーディネーターの方の話をずっと聞いておりますと、退職してから新しい社会に入っていくについて、そこで世の中と新しく触れ合っていくといいますか、そういうことが必要であろうと思うんです。

 それで、私は会社を退職してから、先輩の紹介で地域のグループに入っているんですけど、そこは100人ぐらいいるんですが、いろいろなお世話人なんかがいまして、会員発表会だとか、それから探訪会だとか、工場見学だとか、外部講師を呼んで世の中の話を聞くとか、そういうことをやっているわけなんですが、その中に入っているわけなんですけど、皆さん、会社を辞めると、会社は総務課とか庶務課とか、そういうみんなの世話をしてくれる人がセクションとして給料をもらいながらやってくれるところがいるわけなんですけど、会社を離れますとそういうことをやってくれる人がいないわけで、だから自分たちで背負ってお世話をしていかなくてはいけないと。だから、そういうことで、1つは閉じこもらないで積極的に仲間をつくっていくということと、それから、お世話をするのを嫌がらないで、積極的に皆さんのお世話をしていくということによって、新しい友だちができるとか、いろいろな新しい世界が開けてくると。こういうことがあるんじゃなかろうかと。

 それから、大きい2番目に、それで今の方々といいますか、コーディネーターの方々は何らかの収入を得ておられるような感じなんですけども、退職して年金だけで果たして豊かな生活ができるかということを思うと、今の世の中は決してそうではないんじゃないかと。お金はたくさんあれば、ますます便利でいいわけなんですけど、そこに金のもうかる仕事をやることができないかということで、私は恥ずかしい話なんですけど、在職中は皆さんどんどん年限が来ると上へ職がついて上がっていくわけなんですけども、どうも私は運が悪かったのか、力がなかったのか、仲間がどんどん上がっていくのに、どうも上がっていかないと。人事考課が非常に悪かったわけです。これでは満足できないということで、資格を取ろうということで、30歳ぐらいになってからやりまして、その後も運がよかったといえば運がよかったんですけど、その後の仕事を今も続けていますけど、少しずつ収入があるということと、そういうことで、積極的に出ていくということと、高齢者の収入があるような方向を見つけていくことが大事なんじゃないかなという感じを持っております。

 以上です。

【松田】 ありがとうございます。意見ということで伺えばよろしいでしょうか。

【松田】 今、御自身が資格を取って仕事をされているとおっしゃられましたけども、それは二期作なんでしょうか、それとも二毛作、新しいことをやるようなものか、それとも延長なのか。

【質問者】 それは2.5ぐらいといいますか。最初、会社に勤めたんですけど、その間の30歳ぐらいから始めた経験が生きているということもありまして、全く新しい仕事を始めたということではないんですけど、運がよかったといえば運がよかった。

 ただ、借金をして会社を立ち上げたりすると、うまくいかないと借金だけ背負ってしまって、家も取られてしまうという話を聞きますけども、そこで私は金のかからないような仕事を始めたということで、手数料だけが収入ですけどね、そういうことで、あえて年をとってから借金をつくらないような仕事を見つけていったということがあるんですけどね。

【質問者】 そういうことで、今も元気でやらせていただいております。

【松田】 ありがとうございます。引き続き元気にセカンドキャリアを続けていただければと思います。

 今の御意見の中で、積極的に外に出るというのは非常にそのとおりだと思います。それから、年金だけだとやはり厳しいというのもそのとおりであって、ボランティア以外で、ある意味、お金を稼ぐというのも必須だと思います。ただ、私、そうはいってもなかなかお金を稼ぐのが難しいのであれば、そこは政策や制度設計で何かできないかと。今日、せっかく内閣府主催のイベントなので、政策目線で言えば、例えば働いたものを、対価をお金じゃなくてポイント制のようなもので、それが自分の市町村の商品券や地域通貨として使えるようなものが大事じゃないかなと思いました。ほかに、臼井さんの件で御質問のある方いらっしゃいますか。いいですか。

 ほかに、臼井さんの件で御質問のある方いらっしゃいますか。いいですか。

 どうぞ、後ろの方。

【質問者】 どうもありがとうございました。大企業に勤めていらしたということで、起業するに際してはやっぱり大企業であればあるほど収入面の落差がかなり大きくなると思うので、要するに起業して収入が出なかったことについての不安がなかったのかということと、起業すると大体家族は反対すると思うんですけども、家族に対してはどういう説明をされたのかということと、ここにパネリストとして出席されているということは、起業がうまくいったと解釈して、起業がうまくいくためにはどういったことに気をつけたらいいのか。

【臼井】 期待に応えられる回答ができるかわからないんですけども、やっぱり起業するときに、不安、特に経済面の話、今も出ました、これは当然あって、シミュレーションを死ぬほどしました。死ぬほどしたけど全然わからなくて、結論は、実は先輩が技術屋なんですけれども、彼はまだ会社にいます、が非常におもしろいことを図解して説明してくれたんです。

 私、30年会社にいたので、あと10年ぐらいでもらえる金額、想定できますよね。そこから自分が今度無収入になったときの、無収入とは言わない、もちろん起業するから少しはお金をもらえるだろうと計算するじゃないですか、そこのぶれ幅と、それから、若いとき、例えば20歳のときに起業したときの生涯稼げる金額とどれぐらい差があるかというのをシミュレーションでやるんですけども、当たり前ですけど、20代からやるほうがものすごい振れ幅が大きい。これがリスク。

 もう1つが、健康。健康は20代で健康が多少だめでも、あとの残り30年あるからとかいうことで、健康のリスクと、それから、今50歳になっちゃって、例えばつまらない仕事をずっとやっていて不健康になるのとどっちがいいかなんて、そのリスクを図解して説明してくれたんです。リスクの大きさを。

 そうしたら、何だ、金額の差ってあまりないじゃんという話に思えて、それがよかったのか悪かったのか、わからないです。私はそこで納得しちゃって、じゃあ、まあいいや、シミュレーションそこそこでというのが1個目の話です。それから、家族のほうは、これは超意外で、私がいよいよ決めて、嫁さんに辞めるぜと、俺はもう決めた、辞めるという話をしたら、一言、「何だ、やっと決めたんだ」と言って、全然動揺ないんですよ。すげえな、この奥さんとか思って、感動しちゃって、俺、本当に辞めるんだぜとか言ったら、「いいじゃん、前から辞めたいんでしょ、辞めれば」と。その後は、10秒ぐらいたってからかな、「教育費と生活費は変わらないよね」。これ、順番が逆だと僕も文句を言いたくなるんですよ。「え、やめるの? 何で? 生活費どうなるの」って言われたら、いや、俺だってそりゃ一生懸命悩んでさと。でも、逆に「いいんじゃん、辞めたら」と言われると、言えなくなる。

 これ、嫁さんがすごいなという話ものろけでしたいんですけれども、実はやっぱりふだんから見ているんですよね。何かそわそわしているだとか、何かあちこち行っているだとか、いつの間にやら起業の仕方みたいな本を買っているだとか、そういうメッセージが半年や1年続いていると、何も言わなくても覚悟しているんです、実際は。それがいいのかなと思いました。

 最後の質問は、経済的なお話でいうと、全然うまくいっていません。これはさっき言ったシミュレーションの範疇にはまだ入っているのでこうやってにこにこしていますけれども、ただ、本当にこの1年間、まだたっていないんですけど、0歳企業なので、昨年の12月に辞めて、既に、多分僕は本当に10分以上しゃべっての名刺交換が600枚、700枚以上になっています。単に名刺交換じゃないですよ。10分以上は最低でもしゃべって。それだけのオポチュニティーを今いただいている中での話なので、何とかなるんじゃないのという感じはしています。なので、これを成功というのか失敗なのか、ちょっとわかりませんけど、そんな感じです。

【質問者】 社内失業されて、流れで起業されて……。

【臼井】 流れ。(笑)

【質問者】 流れという感じがするんですけど、もしかしたら我慢していると、またエリートコースになったかもしれないじゃないですか。だから、結果的によかったというところはわかるんですが、会社勤めとフリーと、絶対的にフリーがいい、フリーというか今の零細企業でやるような、そういうものがいいと思われていて、やっぱり会社組織自体に限界があると思われているのかというのが1つと、あと、再雇用というのがわりと社内失業に近いと思うんですよね。仕事はやるけどあまり期待していないみたいなところで。そうすると、再雇用になった場合は、その流れでいうと、あまり組織にいるよりは、頑張って再雇用されているよりは、出たほうがいいかなと思われているのか。その2つを。

【臼井】 エリートコースだったかどうかは別にして、私は社内失業していた間に、やっぱりやることないので、もともとマーケティングなのでいろいろ企画するのが好きで、そのとき構造改革という名のもとに1,000人近い人が大変な目、大変な目というか、ともかくウエイティングになっている時期がありまして、もったいねえなと思って、人事に企画書を出したんです。こういうふうにやったらとかみたいなのを。暇なので。そうしたら、こういうやつを放っておくと、集めて何かしでかすとやばいからといって、じゃあ、あなたが社内失業部屋の班長をやりなさいみたいになっちゃって、やらせていただきました。そのときに、単なる勉強会じゃなくて、企業研修とか外部に出していたものを中にいる人たちでできるじゃんとかいってやったりだとかして、結構いろいろ動いていたんですね。

 そうしたら、やっぱり案の定というか、しぶとく死なないな、あいつみたいな感じになっていて、また別の部門から新規事業のところで是非やってくれという話になったんです。これは本当にその時点ではうれしかったんですけど、ところがやり始めたら、さっきの話に戻るんですけど、やっぱり大企業なので、これから新規事業を僕がゼロから一緒に初めても、5年、10年かかるなと思ったときに、ちょっと難しいなと。もうちょっと僕、自分でやりたいということが、新しいことを試してみたいということだったんだなと気づいて、それで最終的には辞める判断をしました。

 それから、再雇用の問題というのは非常に全体的な日本の問題になるんじゃないかなと思っているんですけれども、私自身はよくこういう話をするときには、何せ人事にも1年ちょっといたんですけれども、今、企業から見ると、20年、30年、9to5、9時から5時までフルタイムで働いてくれる人で100%、1万人以上の会社を回せても、日本では現実的じゃないなと。つまり、いろいろな働き方を組み合わせて会社全体の仕事につなげるということが会社自体にとっても必要ですから、再雇用という年齢だけの話ではなくてと僕は思っているので、再雇用でいいか悪いかというのは、会社側でどうこうというのは、今言った話で会社は考える、それから自分は自分で考える。何せ30年以上投資した人材が、最終的に投資回収の場で会社に役に立つのか立たないかのかというのは、本人たちもそうだし、会社もそうだし、全然方向感がずれていないので、一緒に考えればいい話だなと思っています。

【松田】 では、続きまして、中村さんの報告に対してそれぞれパネリストの方から質問をしていただきたいということで、臼井さん、いっぱいしゃべっちゃったんで、黒笹さんから行きますか。黒笹さんが中村さんに対する質問をお願いします。

【黒笹】 僕はうちの奥さんから社内の内部の実態とかいろいろ聞いていますので、タコ部屋のようなところもあるしということで聞いているので、すごく質問しにくいんですけど、僕が一番聞きたいのは、一番ピンチのときに、例えば会社が立ち行かなくなったときに、社内ではどういう役割を担っていたのかということと、それに対して中村さんは会社のそういう係る事態をどういうふうに解釈して、自分としてはどういう行動をとろうとされたのかというのは聞きたいと思います。

【中村】 会社が経営破綻になるときに、私は現場のマネジャーとして乗務員を送り出す仕事、そして、帰宅して迎え入れる仕事をしていました。ちょっと思い出してきてしまうんですけれども。でも、やはり羽田だったんですけれども、そこに富士山が見えるんですね。そこでJAL機が飛び立っていくわけです。それで、7時になると私は20便を送り出している。3時起きで5時からシフトが始まります。国内線の仕事ってそういう仕事なので。でも、乗務員たちは本当に何事もなかったようにお客様を迎え入れ、お客様を送り出す。機内で罵倒を浴びせられたことも多々あったと思いますが、その乗務員たちが、羽がぐちゃぐちゃになって、しおれて帰ってきた彼、彼女たちを温かく迎え入れて、楽しく送り出す、その繰り返しです。それだけですね。

 でも、その当時のことというのは、同じ立場の人間と今話したりするんですけど、蜃気楼のように、記憶喪失感があって、ぶっ飛んじゃって、今、こういう機会を与えられて、コーチング用語でオートクラインというんですけど、そういうこと、あったな、でもみんな頑張ったよなって、職種を関係なく、あの当時のJALのカスタマータッチポイントにいた乗務員たちはすごく頑張っていました。以上です。

【松田】 じゃあ、栗原さん、どうでしょうか。

【栗原】 私も同じような質問をしようと思ったんですけど、急遽変えまして。いや、ネガティブ質問大好きなんで、干からびたヒマワリって頭にこびりついて離れないんですけども。

 是非、今、どういった場面で、以前と今、幸せを感じる実感、よく、あのときこうだったよねという、どういう場面のとき、それを感じられるか、教えていただければ。

【栗原】 前のときと今との違いを感じるときって、どういうときかなと。

【中村】 やはり、皆さんも御存じ、ああいうような状態で、あれだけ大きな会社が国民の皆様にも迷惑をかけて経営破綻になったときに、私は末端の管理職でいたわけですけれども、やはり私、ある時期は日航花子さんというぐらい愛社精神の旺盛な社員だったと思うんです。でも、私自身がこういう感じで言いたいことを言うので、左遷された時期もあったわけです。でも、会社に対する愛社精神じゃなくて、仕事に対する愛社精神、それが人と人を結びつけ、本当にトラブルとか、私たちは保安要員でもあるので機長の分身のような役割も、地上に伝えなきゃならない。それは本当にコーディネーターの仕事だったんですね。それが会社を辞めてからもいろいろなところで世代をつなぐコーディネーターの役割を担えたりとか、人と人をつなぐコーディネーター。やっぱり私は4人兄弟の末っ子なんですね。茨城のど田舎で生まれて。でも、やはり32年間、会社が育ててくれたと思います。すごく感謝しているし。あの当時はJALのことを思い出したくない、あの職場を思い出したくないって、左遷もされたし、なんですけど、今、本当にこういうふうに会社に感謝しているという自分がうれしいです。やっぱり会社に対して、本当に育ててもらったと思っています。以上です。

【松田】 そういう意味でいうと、今、中村さんが大学に通っていて、自分がすごく生きがいを感じるだとか輝いていると実感するのは、どんなときが楽しいですか。今でいうと。

【中村】 すごく率直に言うと、会社の組織上、どうしてもリストラする立場でいた時期もあったので、やはり若い世代に嫌われる役、悪役を演じた時期もあったわけです。でも、今は大学院では20代から60代、世代を超えて同級生なんですね。キャッシーと呼ばれていますので。やっぱりこういった新たな人間関係を構築できるというのは、人生捨てたもんでもないなと思います。

【臼井】 僕、立教大学の女子って昔から憧れだったんです。振られましたけど。

 昔の女子大生の時代と、それから今また女子大生になって、何か女子大生気質というか、当然年齢が違うというのもあるんですけど、どんな雰囲気の違いがあるのかということと、それに絡めて、よくある生涯教育じゃないんですけど、人生ずっと生きている間、学べますという中での大学というところで、改めて学びますってどういうことなんだろうかなと思って。

【中村】 立教大学、リベラルアーツなんですけど、チャペルもあって。私は会社、乗務のときにやっぱり上司と合わなくて、何とか救いを求めて、実はひっそり母校の構内に何度か来たことがあるんです。そのとき、私はやはりジャンボ機世代なので、世界中を回って、長大特路だとニューヨーク経由でサンパウロまで行くし、そういう状況のときに、何か大学がミニチュアハウスみたいに見えたんですね。自分がJALの、うまく言えないんですけれども、何か小さいな、世界中を駆け巡っていると、大学小さいなって、すごく僭越なんですけど、そう思っていた自分がいたんです。

 もう一度、年をとって学び直してみると、やっぱりあまりにも学ぶことの奥深さ、1つ1つの学ぶ授業の奥深さに、大学ってこんなに大きいんだと思い直したことがあって、実は3.11で、私、実家が茨城の沿岸部で被災しているんですけど、立教大学長が私たちの立教セカンドステージ大学の入学式のときにおっしゃったんですけど、何語かわからないんですけど、アジールという、避難場所という言葉を喩に、池袋周辺の帰宅困難者の4,500人が、まるで灯台の明かりのように大学を目指してやってきたと。その話を入学式のときに私たちに話してくれたんですけど、その帰宅困難者と同じように、人生の艱難を味わってきた私たちも、へろへろになった企業戦士の、私もどちらかと言うとおじさん系なんですけど、企業戦士の私たちが、灯台の明かりのように大学の明かりを求めて集まってきたというお話をしてくださった。まさにそんな感じで集まってきたのが立教セカンドステージ大学の同期たちだったんじゃないのかなと思いました。ちょっと返答になっているかどうか、わからないんですけど。

【中村】 私はど田舎に生まれて、常磐線のスーパーひたちで乗ってくるときも、なるべく早く上野駅に着きたかったほど、姉たちの東京の生活に憧れた末っ子だったんですね。だから、本当に学部生のときには東京の生活になれるのに必死で、勉強どころじゃなかったんです。でも、こうやって世界中を回ってきて、もう一度自分の母校に帰ってみると、学びの奥行きというのはまた違ったものに感じられるというのが実感です。以上です。

【質問者】 先ほど、JALに勤められたときに左遷されたとか、上司と合わなかったというお話を伺ったんですけど、私が、ちょっと失礼になってしまうかもしれないんですが、女性があまり出世とかを意識せずに思ったことを言っている、言える力があると思っているんですけど、一方で、男性は上下関係を意識、周りを見た上で意見すると感じているんですけども、左遷とか、そういったことを覚悟の上で、どんどん言っていくほうがいいのか、男性の皆さんを意識して、周りを見て、意見していくほうがいいのか、どちらがいいと御経験された上で思われますか。

【中村】 結果的に、私が左遷されたタイミングで室長は女性だったんですけど、あなた、その言葉って覆水盆に返らずってわかっているわよねって言われて左遷されちゃったんですけど、私はそのときに下の子たちが中村さんはよく言ってくれたって言って、今でも慕ってくれている。だから、私はあのときに室長に対して歯向かわなかったら、今の私はないなというのは若干あります。

 といっても、私のバージョンはオールウェイズワンパターンで、私は変わらず周りが変わっているだけで、本当に私の取り扱いに困った男性の上司が、「おまえはそのままでいいんだよ」と言った後に、「いや、そのままがいい」と言い直した上司もいたくらいですので、やっぱりはなむけの言葉としては、自分を貫くというのは大切なことです。それでまた会社を辞めなきゃならないことになっても、絶対いつか、あの判断は丸だった、周りにおもねったり、拘泥しないほうがいいと思います。以上です。

【松田】 ほかに会場の方、いらっしゃいますか。大竹さん、やっぱりクラスメートとして、中村さんのここがいいみたいなことがあれば、ちょっとお願いします。

【質問者】 本当に元気をいただいたんです。私も50歳のときに独立をしまして、そのときに営業の管理職をやっていたんですけれども、なった後がすごく大変で、代わりは幾らでもいると言われたような時代だったんです。やっぱりこれを私の一生の、ずっとこれから、本当に経済的にはすごく魅力があって、私の能力のなさが一番だとは思ったんですけれど、やっぱりここでしたいことをしなかったら人生には限りがあるんだなと。いわゆる90歳までと今言いますけれど、健康寿命ということで考えると、そんなに長く、したいことができる時期、本当に元気でやりたいことができる時期というのは意外と短いんじゃないかなと思っているものですから、そういう意味では、今、やっぱりしたいことをしないと、何にとらわれるという価値観の、何を一番、自分の指針とするかというところをとりまして、独立して、結果的にはまたその会社からお仕事をいただいて、セミナー講師とか、いまだにそのお仕事をいただいているという意味では、会社にあまり尽くせなかったんですけれども。

 今、そういう形で続いておりますものですから、それを続けたいんですけれども、やっぱり受注する仕事なものですから、それがいつまで続くかというように、いつまでも長くそれをやるという努力もしつつ、いつかは必ず終わります、それは。そのいつかが終わった後の、やっぱりサードステージというのも考えないと、セカンドということで今お話が進んでいますけれども、その後、最後の10年みたいな、そういったところで、また私は今、何をしようかと思っているときに、中村さんのお話を聞いて、本当の自分がこれから人生で、何、めり張りつけて、生きて、やっぱり何をしたいかというのは今まだ模索中なものですから、サードステージで何をするかという、そのことについて、しっかりまた見直しも含めて考えたいと思っております。本当にありがとうございました

【松田】 どうですか、ほかに。いいですか。大竹さん、クラスメートの方です。大竹さんから見た中村さんのいいところって何ですか。

【質問者】 中村は、すごいファイトがありますし、いろいろなことにチャレンジしようという気持ちが非常に強い方で、いつも、今まで積み上げてきたキャリアにとどまらず、新しいことを開拓していくというところに、すごくバイタリティーがあります。それとまた、今、大学院で若い世代とつき合いがありますけれども、そういう方たちに対して、求められれば自分のキャリアを話すけれども、それをとりたてて自慢するでもなく、同じ、対等な目線で話していく。若い方たちともそういうふうにおつき合いされるところがとても彼女の魅力だと。

【松田】 大事ですね。立教セカンドステージ大学のスライドを出してもらっていいですか。何枚か前かな、よくわからない。それでいいや。その次の集合写真がありますね。立教セカンドステージ大学は、補足すると、50歳以上でしたっけ、今。50歳以上を対象の方にやっている立教のシニア大学ですね。毎年約100名の方が入ってくると。1年目が本科で2年目が専科ということで、私は3年前にあるきっかけでそこでゲストスピーカーで話したときに、教室の中で一番輝きを放って目立っていたのは中村さんだったんです。

 おもしろいなと思ったのは、通常のシニア大学というのはまさに生涯学習講座で、出て、おしまい。だけど、ここは全員ゼミに入るということと、単なる趣味だけじゃなくて、一般教養とコミュニティービジネス、高齢化という大きな3本柱があると。全部のテストが終わった後、レポートを書かなきゃいけないということと、修了論文を出さなきゃいけないということで、相当本格的なシニア大学。年間の授業料が30万円ぐらいかかっていると。見ていておもしろいなと思ったのは、毎年行って話しているんですけれども、さっきあったように、男は結構自分のキャリアを語ろうとする人が多いと。1年目ね。2年目になると大体そこら辺が、何というか毒が抜かれるというか、かみしもが脱げるというんですかね。1年目の人とかで聞いてもいないのに俺は支社長だったとか何とか商社だという人もいるんですけども、大体1年たつと、皆さん、半年ぐらいですかね、よいようにかみしもが取れてくるということです。すてきだなと思ったのは、夏合宿が清里でしたっけ。最終日がキャンプファイヤーとフォークダンスというのを聞いて、僕も入りたいなと思っています。臼井さんと中村さんに共通しているのは、集う場ということです。セカンドキャリアを始めるに当たって、いきなりのキャリア転換は難しいわけです。でも、2人に共通しているのは、集う場があったというのは、立教のセカンドステージであり、臼井さんの場合であれば丸の内3×3Laboみたいなところに集う場があるということでございますね。非常に興味深い話でありました。それで、栗原さんに対しての質問。じゃあ、臼井さんから行きましょうか。

【臼井】 栗原さん、スポーツマンですよね。野球ですもんね。私、実はキリンさんのキリン絆プロジェクトはものすごいよく存じ上げておりまして。たまたまCSV系サロンみたいなところで提起している関係もあって、教材の1つにさせていただいているぐらいなんですけれども、実はここと野球が、私の中でどう結びついているのかよくわからなくて、栗原さんをひもとくと、野球と絆プロジェクトが転換点になって子供と地域社会の貢献に行ったって、どうだったんだろうというのが、すごく今、興味津々なんです。そこを教えていただければなと。

【栗原】 すいません、先ほどのシートを見ていただくように、私の説明不足で、慌ただしく説明してすいませんという。サッカーの写真を見ていただければ、これが全てという。ここですね。感動の場面が連続でした。被災地に行きますと、やはり子供たちの笑顔というのが最初のころ全然違って、やっぱり大人に気遣っているんでしょうか、全然心ここにあらずというか、でも表面はすごい元気だし、活動されているんですけれども、そこを自分事と知ることは全くできなかったです。

 それを、3年間で60億円のプロジェクトというところで、サッカー協会の方と一緒に企画しまして、こういう、やっぱり将来を担う子供たち、それもやっぱりスマイルという、本当の笑いというものですね、是非つくり上げたいという大きな構想と、正直お金がいっぱいかかっちゃっているんですけど、これ、今でも3年間60億円ということだけでなく、継続してやろうということで、サッカー協会の方の御協力もあって、続けています。

 その中で、本当は野球なんですけども、会社はサッカーだからとりあえずサッカーの路線でという中で、気持ちは同じスポーツというところですので、絆プロジェクトをやりながら、やはり子供たちというワードの中で、少しでも子供たちのお役に立ちたいと。主役は子供たちというところで、第2の人生を進めさせていただきたいとさらに思いました。

【臼井】 子供とは一家離散でも別にいい。(笑)

【栗原】 簡単な思いで、子供に愛情がないわけじゃないんですが、やはり特に被災地の子たちを見ると、うちの子たちは何て恵まれているになっちゃうので、そっちはだから早く自立してくれればということでしたから、就職した途端に、俺は好きなことをするぞというのは大分前から宣言していました。

【中村】 近くにハウステンボスがあるということで、さらにまちおこしプロジェクトとして産学官連携の何か具体的なプロジェクトとかは進捗しているんでしょうか。

【栗原】 この話になると、CCRC、先ほどの松田さんの話になるんですけれども、いろいろ本当は、先ほど言ったように用務員のおじさんという感じで、野球部のグラウンドに出て、ボールボーイとかグラウンド整備をやるだけのつもりでいたんですが、それだけじゃ採用してくれないということで、何でもやりますと言っちゃったら、今、全国地方創生という中で、松田さんが提唱されているCCRCとかいう中の仕事も、市とか県とかと一緒にさせていただくようなことになっています。それで、今おっしゃったとおり、ハウステンボス等々あって、いかに、ですから地域を活性化するかというキーワードの中で、自分の活動がまた広がっているというのも事実ですので、そこも楽しみにしています。

【松田】 その話を補足しますと、さっき申し上げたCCRCというのは、Continuing Care Retirement Communityということで、アクティブシニアタウンの話ですね。もう1回、長崎国際大学のことを出してもらいたいんですけれども、そのアクティブシニアタウンをどこにつくるかというと、今まではゴルフ場の近くが多かったと。ゴルフをやってのんびり過ごそうというんですけれども、これから、かえって大学の近くがいいんじゃないかということです。なぜかというと、多世代と触れ合うことがやはり健康の、生きがいを持つきっかけになる。年寄りばかり集まっていても元気が出ないでしょうということと、学びというのはやっぱり人を元気にするということです。立教で僕は1回教えた後に、生徒として倫理学の授業に出たんです。倫理の授業って自分が大学1年のときに一般教養で、大教室で出たんですけども、極めて退屈だったと。大教室の後ろで突っ伏して寝ているしかなかった。だけども、40代後半になって倫理の授業を聞いたときに、立教の先生が、何で人はコンプレックスを持つのかということを、日本人のメンタリティーとアメリカ人、欧州人、アジア人で比較して話してくれたときに、非常に心にしみ入るものがあったんです。つまり、18歳や19歳で世間のこともよくわからないし、働いたこともない子供と、ある程度、酸いも甘いも嗅ぎ分けてきた人になると、全然受け入れ方というか、しみ入るものが違う。つまり、学びは年をとってからのほうが楽しいんだと。だから大学の近くに住んで、もう1回学校に行きましょうと。

 何で長崎国際大学と連携かというと、非常に高齢化に関する関連性の高いものがあるわけです。健康栄養学科とか、薬学部とか、あるいは社会福祉学科とか。国際観光学科なんて隣にハウステンボスあるわけですからね。今、栗原さんと考えているのは、国際大学の近くにそういったアクティブシニアタウン、CCRCをつくって、そこに元気なシニアが集まって、もう1回大学で学ぶ。学ぶだけじゃなくて、自分の知見を生かしてキャリアアドバイザーをやると。元営業マンが営業って何だとか、あるいは海外赴任していた人が海外赴任って何だとか、エンジニアはものづくりって何だという話を学生にすれば、学生もありがたいわけです。

 振り返ってみると、私みたいなバブル世代でいうと、およそ学生時代にビジネスマンの話を聞く機会はなかったですよ。今の大学はちょっと違いますけども、今の教育で最大の問題点はキャリア教育ですよね。小学生、中学生は塾に行って夜中まで勉強して、そして大学に入ったら面接の仕方で、テクニックだとかおじぎだとか、そういうことばかり教えてもらって、働く論について全く学んでいない。だから、入社3年目で3割が辞める世の中になっているということでいうと、今日ここに集まった皆さんが働くって何だということを学生に教えれば、それは学生にとってこれほどありがたいものはないわけです。この話を福岡でしたときに、今の女子大生が聞きたいのは、肩肘張ったキャリアウーマンの話じゃないんだと。家庭に入るって何だとか、子供を育てるって何だといったようなことを聞きたいというと、何も華麗なるキャリアの方々じゃなくて、どんな方でも若い世代に伝えられることというのはたくさんあるだろうと。そういった多世代が集うまちづくりを長崎でやろうということを、今、栗原さんとしているということでございます。

【黒笹】 栗原さんのお話の中でたびたび出てきたのが、地方に暮らしたいというか、そういう思いが募ってきたとかという話が随分あったんですけど、その源泉は一体何なんだろうなと思って、僕なんかも東京に60年もいて、いいかげんこのまちええやろみたいな感じで、よその土地を探したんですけれども、栗原さんはそうじゃなくて、現役時代からどうもそういうところに住みたいという感じがあったみたいな、その源泉は何なのかなと思いまして。

【栗原】 初対面の方から、私、会って話すと、「田舎どこ?」って最初に聞かれるんですよね。ところが、私自身はシティーボーイだと思っているんですが、大分ギャップがあるんですけども、やはりテレビドラマとか何か見ても、優しいおばあちゃんが田舎で迎えてくれるような、そんな場面とか見たりして、田舎への憧れが小さいころからありました。特に九州は1つの文化圏というか、あって、やっぱり随分憧れという言葉を今回も出させていただいたんですけども、小さいころから九州への憧れ、田舎への憧れというのがありました。

 社会人になったら、やはり転勤族でいろいろなところに行きたいなと。都会志向じゃなかったんですよね。大阪に行って、また大阪の批判をすると怒られちゃうんですけども、10年間、バブルの時代を夜の商売ばかりやっていて、つろうございまして、さらにやはり田舎志向になったんじゃないかなと思います。

【松田】 では、栗原さんの長崎の話について、御質問や御意見ある方、いらっしゃいますか。

【質問者】 声がちょっと通らないかもしれませんが、質問させていただきます。長崎国際大学に関係されていると聞きましたけれども、長崎国際大学は外国人、留学生を受け入れているのですか。それが1つ。留学生は受け入れていますか。

【栗原】 よろしいですか。やっぱり200人弱いまして、全学生が201人ですから、1割弱はいます。留学生ですよね。

【質問者】 そうすると、授業は英語でやっているんですか。それとも日本語でやっているんですか。

【栗原】 ここがまだ学校の課題でありまして、今、やはりグローバル人材を育成しようという中で、授業も英語でという要望は強うございますけれども、なかなかそこまでは行っていないです。

 国際大学の名の割には、実態は特に欧米の方の留学生も少のうございますから、中国、韓国、それからベトナムとか、最近はインドとかいう広範囲なので、なかなかそういう英語だけの、皆さん御存じかと思いますが、立命館のアジア太平洋大学、自分の今度卒業したせがれが出たんですけど、そこは半数がほとんど留学生という中で、英語教育はかなり最先端を行っているということですけれども、長崎国際大学はまだそこのレベルまで行っていませんので、かなり課題として今取り組んでいるところです。

【質問者】 栗原さんと松田さんの両方になるかと思いますけれど、CCRCで縁もゆかりもないようなところに行くというのはやっぱり抵抗がある人、特に高齢になればなるほど生まれ育ったところにずっといたいと思う人が多いんじゃないかと思うんですけれど、たとえそこに大学があって、学びの場があってというのがあっても、なかなかそういう気持ちになれないんじゃないか。それから、じゃあ、それを克服していくというか、解消していく策として何かあるかどうかということを伺いたいです。

【栗原】 この辺は松田さんのほうが専門かと思いますが、私の思いとしましては、先ほどデュアルライフの御質問もあったと思いますけど、やはり体全部をどっちかに寄せるというのはすごく勇気がいることかなと思います。ですから、まずそれを始める前に、事前に都市と地方との両方を楽しむことをされたらどうですかというのを、先ほどちらっとシートでは御説明させていただいたんですけれども、今のところの満足度ももちろん認識して、そして、地方のよさ、要はお試しでいいんじゃないですかね。そこで両足のどっちにバランスを置くか。特に元気なときは両方楽しめると思いますので、その中で最終章をどうするか、第3ステージというお話が先ほどありましたように、そういう中で変化対応していくと、ますます生活も自分の楽しみにつながっていくんじゃないかなと考えます。松田さん、お願いします。

【松田】 今の質問は、要するに縁もゆかりもないところに地方移住するのを、きっかけとなるのは何かということで答えると、まずは地方移住について言うと、Uターンですね。縁もゆかりもある人が帰るというのが1つだと思います。北海道から沖縄まで回ったんですけれども、地元の高校、旧制中学や藩校といったところはまさに地元の最高学府があるわけです。だから、山形の米沢に行くと興譲館だとか、福岡に行くと修猷館だとか、高知に行くと知事も県の部長もみんな土佐高校なんですけれども、その名門高校を出た人の多くが東京で働いている。地元に戻りたいという思いを持ちながら、何かきっかけがなくて帰れない人って結構いるんですね。例えば地元の高校の復権のために、活性化のためにあなたのキャリアを生かしてください、あなたのキャリアを活用しましょうといったような前向きなUターン動機が必要だと。これは特に男が面倒くさい生き物で、帰るのが都落ちと思っちゃうわけですよ。よい意味での免罪符というか、大義名分、錦の御旗が必要だということです。それから次がIターンです。Iターンというのは、栗原さんの時代でいうと、長崎に長年赴任して、お世話になった長崎に恩返ししたいということでIターンされたということですけれども、僕が有望だと思うのは転勤族の移住です。例えば人気のある転勤する都市のベスト3は、札幌、仙台、福岡です。ほかの都市でいっても、支店長経験者、支社長経験者、長く赴任した人というのは、その都市に対して非常に思い入れがある。それなりの支社長や支店長をやった人は地元の経済界とかよくわかっている。人によっては市長だとか知事もよくわかっている。あと、さっきもあったように、お帰りなさいと言われるぐらいの地元の人との人脈を築いているのであれば、Iターンというのが転勤族の、支社長経験者のIターンというのがある。そして3つ目、これは地方移住の最大のネックは奥様なんです。アンケートをとると、地方移住したいということで、過半数以上したいという気を出すのは男性。女性は3割ぐらい。なぜかというと、既に地元にママ友もいる、コミュニティーもある、友達も地元にいるので、今さら地方移住して知らない人というのは嫌だなと。その積極的な前向きな解決策が、ハッピー別居。奥さんは東京にいて、自分は地方にいく。栗原さんは、奥さんは福岡ということです。実は私の周りにはこのハッピー別居が続々と増えている。そして、聞くとみんな夫婦仲がよくなりましたと。沖縄に行った人は、今、奥さんは東京に残しているんですけども、盆、暮れ、正月に帰ってくると。奥さんは季節のいいときに沖縄に来てくれると。

 でも、3日問題といって3日目ぐらいから雲行きが怪しくなるらしいんですけれども、たまに東京に帰ると、妻がつくるみそ汁1杯がありがたいと感じるという、至言を残しているんです。あと、秋田に移住した人は、自分は盆、暮れ、正月に帰って、奥さんは春からゴールデンウィークの一斉に花が芽吹くころに来てくれると。孫やペットの写真を写メールですとか、ITでやりとりするので、極めてIT能力も高くなりましたということなので、ハッピー別居。卒婚というらしいですね。卒業婚。離婚するほど仲が悪くないんだけども、お互いの立場を尊重して別居するというのが前向きな解決策。どうでしょう。今日、この中で地方移住に興味があるという方、手を挙げてください。いいですね。どうですか、どちらに移住したいですか。

【質問者】 僕ですか。ちょっと日和っていて、奥多摩の空き家とか群馬県とか、まずはちょっと近いところ。

【松田】 近いところ。まずはね。いきなりの移住はやっぱり難しいでしょうね。

【質問者】 でなければ、女房の実家のある愛媛。だけど、高知にちょっと少し吸い寄せられていますけどね。

【松田】 なるべくいろいろなところを僕は経験すべきだと。だって、結婚と一緒でいきなりするわけじゃなくて、ちょっとおつき合い期間が必要なので、いろいろな方とつき合って、最終的に。どこに移住したいですか。

【質問者】 私も近場、あまり遠くもないので、田舎であれ、東京なものですから、奥多摩とか秩父とか、古民家の再生に首出してみたりとか。

【質問者】 私も昨年、会社を辞めたもので、そういうことをしたくて、今は地元のそういう老人というか、健康の活動に参加したりとか。行くのでも、溶け込まなければ意味がないような気がするので、そういう溶け込み方みたいなものを今ちょっと、いろいろなところに顔を出して、参加させてもらっているという感じです。

【松田】 大事ですね。ほかに移住したい方はいらっしゃいますか。

 どうぞ。どちらに移住したいですか。

【質問者】 私はUターンですね。

【松田】 どちらが御出身。

【質問者】 群馬です。

【松田】 戻って、どんなことをしたいですか。

【質問者】 まだ具体的には決めていませんけれども、同級生もかなり残っていますし。

【質問者】 あとは、フォーラム的な集いというんですかね。それで、場合によっては行政というんですか、動かすような、圧力団体じゃありませんけれども、そういうサークル的な延長したものをやってみたいなと思っています。

【松田】 地方移住、今、国も大きな政策として打っているんですけれども、どうでしょう、女性の中で地方に移住したい方はいらっしゃいますか。

 誰もいない。まさにアンケート結果どおりの回答が現場でも得られたということですね。

 でも、今、会場の方が言ったように、移住したら何か役割というか、担い手になることが必要だと思います。それは学校で教えるですとか、あるいは地域のベンチャーの担い手になるでもいいですけども。例えば去年、我々が東北でお手伝いしたときに、極めて高品質のリンゴがとれると。1個1,000円ぐらいで売れる、アメリカで10ドルで売れると。でも、その売り方とか海外輸出とかマーケティングがよくわからないということで、商社で働いていたとかアメリカに赴任していたような営業マンを呼び込もうというアイデアがあったということです。

 いきなりこれをやると、得てして空振るのが、大企業の論理を押しつけて地元の人に嫌われるというのを我々はたくさん経験してきたので、であれば、1年間は地元の大学や高校で一緒に学びましょうということをやっていると。それがさっき言った大学連携型のCCRCじゃないかなということですね。

 では、地方移住の話が出ましたけれども、まさに地方移住を率先垂範して、難関の奥様も一緒に行ったという黒笹さんに対して質問は、じゃあ、栗原さんから行きましょうか。

【栗原】 最初の質問でよかったなと思って、そのまま話の流れで、是非高知に移住されたときの奥様の一言、それから、された約束なんかありましたら、お聞かせください。

【黒笹】 僕は単身赴任でもいいよと言ったんですけど、「いや、パパがいないと生きていけないから」と。

【黒笹】 実は深刻な話なんですけど、3.11がありまして、うちの奥さんは東京のスーパーマーケットで食品を買えなくなったんですね。野菜も肉も卵も牛乳も買えなくなって、ずっと1年間ぐらい高知の野菜を、僕の関係で毎週とっていたりなんかしていたものですから、そういう食の不安がそのときはすごく強かったんですね。移住したのが2012年ですから、2011年のただ中はまだ東京におりましたので、そういうのが多分背中を、福島くんも背中を押してくれたという感じだと思うんですけれども、今になってみると、ママ友とかまだ東京に親しい人がたくさんいて、みんな何事もなく過ごしているわけですよね。

 「パパ、ねえ、何かちょっと早まったんじゃないの」という気持ちがうちの奥さんにもあるようなんですけど、でも、基本的にはやっぱりパパと一緒にいないと、一緒にいるというのが家族としての選択だったということと、それから子供がやっぱりまだ小学生だったものですから、中学受験をして、ちゃんと進学校に入っていて、高校まで大丈夫というところに入っていたのに、引きはがして高知に行ったという、学校の校長先生には、お父さん、気が狂いましたかと言われたぐらい、かなり過激なことをやったものですから、僕としても責任はあるんですよね。ですから、そういう意味では、不退転の決意で行きましたし、それから、先ほどから2拠点とか言っていますけど、うちは退路を断ちました。東京のマンションを売りました。それで、半分の値段で高知のマンションを買って、残りの半分に今、働いていただいています。お金が自分で働くというのを僕、初めて知ったんですけど、ちょっと投資に関係した人に聞いたら、黒笹さんの年になったら黒笹さんが働く必要ないんですよと。お金が働いてくれるんですよ、知らなかったんですかと言われたんですね。確かに、多少リスクがあるんですけど、順調に働いてくれているので、年金の足りない部分はマンションを売ったお金の半分が今、回っています。世界中回っているんですけども、それでも小商いはやっていますけど、基本的には家族はそういう形でとりあえずは一緒に行って、ただ、これ、コツがあるんですけど、うちの奥さんに時々、年に3回ぐらいですかね、飛行機のチケットを渡します。それで、東京で1週間ぐらい放し飼いにすると、また元気になって戻ってきますので。うちの奥さんのお父さんはまだ千葉で元気に1人で暮らしていますので、そこに行ったり、妹が埼玉にいるので埼玉に遊びにいったりして、あと、高知では本人が満足できない美容院とか歯医者さんとかバーゲンとか、それを全部東京で楽しんで、また帰ってきます。1週間で元気になって帰ってきますので、これは必要なコストかなと思っています。

【中村】 私から2つあるんですけれども、1つは、観光遍路というお話が出ましたけれども、外国人の旅行客誘致の試みとかは何かあるんでしょうかという点と、2つ目は、きっと会場の皆様も思われていることだと思うんですけど、私、『釣りバカ日誌』のハマちゃんの西田敏行さんに何度か機内でお会いしたことがある、とてもいい方なんですね。必ずファーストクラスの5インチという一番小さなプレートに、自分の似顔絵を油性のインクで描いてくれて、1人ずつ乗務員に渡すような、とても素敵な方なんです。『釣りバカ日誌』のハマちゃんと、モデルである黒笹さんの共通点と、ちょっと違うなと思う点、何かありましたら、お知らせください。

【黒笹】 まず、前半の観光に関しては、お遍路ードプロジェクトと先ほど言ったものは、外国人が入っています。基本的には若い人たちと、それから外国人の力を借りて、1200年の文化をもう少しシェイプアップして、若い人からすると、お遍路って基本的にお金になるという感覚がないんですね、地元では。でも、それをちゃんと観光のビジネスにしていこうというのが僕の提案で、そのためにはいろいろな仕掛けと提案をしているんですけど、その中に、若いお姉ちゃんと外国人の力を借りようというのがございまして、これに向けてはいろいろとキャンペーンもやりつつ、イベントも仕掛けているというのがあります。

 ただ、これは全く将来的に、例えば世界遺産になるだろうとか、国のお金が少しお遍路に来たりなんかしていますので、地域が活性化しているので、それの様子を見ながら進めていこうかなと。私自身は、偉そうなことを言うのにお遍路やったこともないというわけにいかないので、1回回っておけば、これはずっと使えるかなと。それから、お遍路ってとても楽しいですよ。まず体の調子が大変によくなりますし。途中で会ったお年寄りの御夫婦に、とてもぜいたくなお遍路さんですねと言われたんです。なぜぜいたくなんでしょうかと聞いたら、いや、お金もかかるし時間もかかるから、それがぜいたくなんですかと聞いたら、そうじゃないですと言うんです。歩けるということそのものがぜいたくなんですと言われて、私たちは本当は歩きたいんだけど、体が言うことを聞かないので歩けませんと。ですから、元気なうち、歩けるうちにお遍路をするということはとてもぜいたくなことで、あなたは恵まれているんですよと説得されて、ははあといって、お大師様に感謝しながら歩きますと言ったんですけれども、お遍路というのはやっぱり元気なうちしかできない。やっぱり歩き遍路って遍路の基本なので、歩くことによっていろいろなものが見つかってくるんですね。

 お寺には宝物は基本的にありません。御本尊はありますけれどもほとんどが見れないので、結局はお寺とお寺をつなぐ遍路道に宝物があると。それを歩けば見つかりますよというのがお大師様の教えでございまして、僕の枕元にお大師様があらわれて、そういうふうにおっしゃいましたので、是非遍路をしながら移住を考える。四国4県ございますので。それから、ハマちゃんとの関係。実はなぜ僕がハマちゃんと呼ばれるかというと、『釣りバカ日誌』がビッグコミックオリジナルという漫画誌で始まるときの、僕、初代担当だったんです。ですから、あの漫画のストーリーを漫画家の人と、それから原作の人と一緒に考えたという、単なる初代担当だったんですよね。その後、漫画が究極のサラリーマン漫画だとかいってヒットして、映画にもなってという中で、黒笹ってハマちゃんのモデルなんだってみたいなうわさが沸き起こりまして、いや、違う、僕、別にモデルじゃありませんよって、うちの奥さんはみち子さんじゃないし、子供も鯉太郎じゃないしって言ったんですけど、そんなことはないでしょう、モデルに違いないでしょうって何回も言われまして、面倒くさくなりまして、わかりましたって言って、三十数年前にそういう時代がありまして、それは一旦終わったんですけど、高知に行ったら、それを見つけた人がいまして、黒笹さんってハマちゃんじゃないですかって言われて、さっきみたいな話になりました。

 西田さんとは僕、ちょっとしか会ったことなくて、スーさん役の三國さんとはじっくりとお話をさせていただきながら、もう亡くなっちゃいましたけど、いろいろな話を聞かせていただきました。

 トップニュースなんですけど、まだしゃべっちゃいけないかな。『釣りバカ日誌』の映画のほう、この秋から冬に第2部がスタートします。キャスティングはまだしゃべっちゃいけないんですけど、スーさんがものすごく意外な人ということだけ、予告しておきます。

【臼井】 お話の中で、土が近い高知、土が全くない、遠いのが丸の内というのがすごく印象に残っていまして、自分のことを言って恐縮ですが、私、料理だめ、当然魚さばけない、それから増して釣りできない。土から全く遠いという感じの、地震のときにスーパーで買わなかったら死んじまうタイプのほうなんですけど、こういう人って結構、そうは言っても多いんじゃないかと思っていて、こういう人はやっぱり高知で暮らせないのかとか、あるいはどういう楽しみ方があるのかとか、どうなんだろうなと。

【黒笹】 そうですね、僕は移住全般に言えることなんですけど、最後に人生をパッと変えたいかどうかと言ったんですけど、人生をパッと変えたい人だけが移住するべきだと思います。変えたくない、何となく今のままでいいやと思っている人はやらないほうがいいと思います。それは絶対失敗しますので。それで、逆に言うと、都会でしか生活できない人は、僕は都会を離れるべきではないと思います。

 ですから、それは非常にシビアな現実も待っていますし、僕も移住する理由は100通り以上あると言ったんですけど、家族1つ1つに理由があると思いますし、それから、移住というのは結婚と全く同じです。例えばこの人と結婚しようと思うときに、この人のきれいなところだけ見て、いいところばかり見て、100%で。だけど、悪いところは必ずありますよね。それも全部知った上で、全ての情報を手に入れた上で、それでもこの人と一緒になりたいと思うとき、結婚しますよね。移住も同じで、高知ってさっきから言っていますけど、いいことばかりじゃないですよ。社会的なルールはめちゃくちゃですし、基本、規範的な意識が薄いと思ってください。外国なんでね。交通ルールもひどいですし、事故も多いし、青少年犯罪も多いし、教育も崩壊していますし、まちを歩けば酔っ払いばかりだし、悪いところを見ようと思えば幾らでも見えるんですよね。だけど、それも踏まえて、そういうことも知った上で、でも愛すべきところなんだなと思えば、僕はむしろそちらの高知loveのほうを、ですから、likeじゃなくてlove。loveの段階まで行って初めてその場所に移住ができると思ってください。結婚と同じだって、僕ずっと言っているんですけど。

 それでもう1つ、やりたいことがわからなくて移住しないほうがいいですね。僕はやりたいことがはっきりあって移住したので、当然、どうしてかというと、リスクマネジメントなんです。うまくいかなかったときに、だけど、あんたさ、やりたいことがあって来たんでしょうと。そうしたら、失敗したっておまえの責任だろうということですよね。そういうふうに、うまくいかなかったときに自分が納得できる移住かどうかということが一番重要ですね。あのときこうすればよかったとか、そういうことは、僕の場合は退路を断ってきましたので、これはハッピーリタイアにせざるを得ない。ハッピーリタイアにする責任があるので、それだけの決意を持って来たので、気軽なことを言っていますけど、それなりの覚悟で来ていますので、当然ですけど、じゃあ、高知でどうやって生活するのかといったときも、年金と、それから、ほぼ年金と同じぐらい大学からお給料をもらえるようになりましたけど、それでも、それ以外にも県のアドバイザーとか、講演も非常に多くて、そうですね、月に5本ぐらいは講演をやっていまして、レートは安いですよ、安いですけど、それからミニ商社みたいな仕事もやっていまして、6月から仁淀のアライを新橋の鮎正っていう、月の売り上げでいうと180万円ぐらいですかね、毎日飛行機に乗せて朝一便で送っていまして、10%のマージンなので月に18万円から、少ない月で12万円ぐらいですかね。

 小商いをやりつつ、生活費を稼いでおりますので、雑食性のリタイアメントライフという感じでしょうかね。

【松田】 ありがとうございます。

 ちょうど黒笹さんとお会いしたのは、高知の移住の推進委員会の委員を私、やっていまして、そのときの会合で黒笹さんの発言が全て自分の中に腹落ちすることばかりだったので、それ以来のおつき合いを続けているということです。あと、今日のもう1つのやりたいことということで、皆様のお手元に「故郷」のメロディーで覚える世界の挨拶、ありますか。これは中村さんが現に取り組まれていることなので、せっかくなのでこの場でやってみましょう。唐突感ありありなんですけど。

【中村】 唐突感ありありですね。でも、皆様、すごく深いお話の連続で、アイスブレイクの1つとして、これは豊島区で後期高齢者の方相手にミニ講座としてやっていた。2020年東京オリンピックを目指して、今、日本を訪れている外国人の方って英語圏の方たちだけじゃないんです。外国人の方が道に迷っていると、皆さん、すすすっと見て見ぬふりして通り過ぎる。何かしてあげたいんだけど、英語が苦手って。英語じゃないんです。先ほどお話しあったように、タイ語だったり、マレーシア語だったり、インド語だったり、ラテン系の、フランス語、スペイン語だったり、それを、こんにちは、さようなら、ありがとうだけでも言える自分を目指しましょうと、75歳以上の方に向けて知的好奇心を刺激する講座を、私、開発したんです。それで、皆さんもちょっとやってみていただきたいなと思いまして、メロディーはチーチーパッパじゃありませんよ。唱歌の「故郷」のメロディーに合わせて、こんにちは、さようなら、ありがとう。

皆さん、最初からできないと思いますので、とりあえず唱歌の「故郷」、皆さんのふるさとを思い浮かべて、小川のせせらぎとか、昔仲よかった友達とか、思い浮かべながら1番だけ歌ってください。その後、私がこんにちは、さようなら、ありがとう、やりますので、口ずさめる方は口ずさんでみてください。よろしいですか。これ、3拍子なので。アイスブレイクですので。

【松田】 ありがとうございました。高齢社会フォーラム、長い歴史の中で、分科会で歌を歌うのは初めてになりますので。

 じゃあ、今日の分科会を振り返って、総括をコーディネーターとしてしたいと思います。私のスライドをお願いします。

地域で失敗するダメな方

 アイスブレークをもう1回したところで、今日の振り返りということです。まず、今日、皆さん、思ったのは生き生きとしているということです。残念ながら、セカンドキャリアで生き生きとしていない方もいるということで、これは数年前のNHKの「クローズアップ現代」の中で、団塊世代パワーが地域を変えるというときに、ゲストで出たときに、実際に地域で輝けない方々というのはどういう人かというのを類型化したんです。

 実際にセカンドキャリアに失敗してしまった人に出演を依頼したんですけれども、断られまして、NHKが誇るエキストラが迫真の演技をしてくれたと。これですけれども、過去自慢、俺は何とか物産にいたとか、部長だったとか言う人は大体だめ。あと、口は動くけど手が動かない。手は動くけど足が動かないという人。この方、一般のエキストラなんですけれども、当日のロケであまりにも嫌味な演技がうまくて、本当にみんなから嫌われちゃったっていうぐらい。

セカンドキャリア・デビューのポイント

 そして、今日、教えること、伝えることが大事だと言いましたけれども、我々、仕事の中でシニアが学生向けに何かを教えるということを結構やるんです。だけども、アンケート結果を見ると、評判のよいものと評価の低いものが極めて明確になる。どういうテーマが評価が低いか。代表的なテーマ。君たちに伝えたいこと。これが評価が低い。一方で、評価が高いのは何かというと、君たちと一緒に考えたいこと、君たちと一緒にやりたいこと。これは何が違うかというと、主語が違うんですね。主語が、君たちに伝えたいことは、俺が、私が。だけども、君たちと一緒に考えたいことというのは、主語はやっぱりweになる。みんなで考えよう、みんなでやろうと。だから、セカンドキャリアデビューの中で、相手に対するメッセージというのは、やっぱり主語がIではなくてweであることが大事であるということ。過去の自慢話ばかりじゃなくて、人気があるのは今何かに夢中で、汗をかいて、恥をかいている人。つまり、セカンドキャリアを、過去を語らず今を語る。今日のパネリストの方、皆さん、今何かに夢中な人だと思います。そして、この3つですね。セカンドキャリアの鍵って、3つのキーワード、WillとCanとMustということ。Willというのは、やりたいこと。Canはできること。Mustはしなければならないこと。これが一致できているかということです。これが曖昧だとなかなかうまくいかない。さっき、移住にしても何にしても、やることが明確かどうかということが大事だと。

しかし、世の中、どこでもやっていける人はわずか 丸の内プラチナ大学での挑戦

 そして、今回のテーマを考えるに当たって、私は世の中ってこういうふうになっているんじゃないかと思う。ピラミッドでいうと、上位10%や20%はどこへ行ってもやっていく人です。既に一歩踏み出している。一方で、下位の10%や20%は、やっぱりどこに行ってもやっていけない人だと。それは本当に健康の、体のぐあいが悪いだとか、あと、社会性に欠けるとかあるんですけども、問題なのはこの分厚い中間層です。今日ここに来ている人は既に一歩踏み出している方。家から出ている。壇上にいる方はさらに一歩踏み出している方なんですけども、実は皆さんの同僚やご近所の方でも、こういうことに興味があるんだけどもなかなか一歩を踏み出せない方が多いと。ここの人たち。これから社会的に最大のリスクは、この分厚い中間層がどんどん、生きがいややりがいや社会参加をしなくて、下に行っちゃうことが一番リスクです。病気になって、鬱になって、孤立して、医療費がかかる。なるべくこの分厚い中間層を上のアクティブ層に踏み出す、持っていくことが大事だと。ですので、今日ここに集まった方々はアクティブ層です。ですので、真ん中の潜在アクティブ層の方をどんどん誘って、一緒にやろうよということが大事ではないかと。例えば、こういったことで丸の内プラチナ大学ということで進めているというものがあります。それから、去年、立教のセカンドステージ大学の学生を高知に連れていったと。高知大学で学んで、地方の課題を勉強して、若者移住者と交流したということです。冬の一番寒い時期に行っちゃったんで、南国土佐だと思ったらみんな風邪ひいて帰っちゃったんですけれども、こういったことも取り組んでいる。

 そして、今日、こういう話をしたときに、いろいろなところで話すんですけども、会場によって雰囲気が違う、リアクションが違う。いい会場だと、やろうぜ、頑張ろうぜとなるんですけども、いまいちな会場に限ってこういう反応がある。否定語批評家症候群というのは、できない理由をロジカルに言って得意になる。それは難しい、制度が違う、あとはいかがなものかと言う人。いかがなものかと言っても何にも解決にならないですよ。いかがなものかって、英語で意訳すると、I have no ideaということなんです。否定、批判はいいんですけども、対案、代案を出すことですよ。対案、代案を出す。これを心がけたい。一歩踏み出せない。

 それから、やったもん負けになっちゃうところがある。本当はやったもん勝ちにならなきゃいけないんだけれども、ちょっとして失敗するとたたかれるというのも、知らなきゃいけない。それから、居酒屋弁士という、これは酒の席では雄弁なんだけれども、こういうところに来ると急に黙っちゃうという。終わった後に居酒屋で「何だよ、さっきの三菱総研の松田の話」とかいって盛り上がっちゃう。東京はよく新橋や神田にそういう人たちがいます。僕は居酒屋弁士は悪いとは言っていない。いいこと言っているんですよ、リラックスしているから。要はそれを実行しましょうということですね。じゃあ、今日のまとめということで、今日、参加した人の中には、今日の分科会を聞いてレポートを書かなきゃいけない、会社に報告しなきゃいけない、ブログに書かなきゃいけないという人がいたとすれば、このページを見て、6つのポイントにそれぞれ自分のコメントを書いていくと、立派なレポートができ上がるので、とても大事な資料なんです。

セカンドキャリアを阻む壁を打破せよ まとめ 今日の分科会は何だったのか?

 まず、人生は二期作・二毛作という考え。二期作というのは挑戦、二毛作というのは全く新しいことを始める。そして、その中で大事なのは、過去を語らず今を語るということ。何かに夢中になるということ。そして、WillとCanとMustの明確化というのは、Willというのはやりたいこと、Canというのは自分ができること、Mustというのはやらなきゃいけないこと。実はなかなかこれが一致している人はそういないということです。

 じゃあ、それに当たって、誰もができるかというと、そう簡単ではない。僕が思うのは、よい意味での助走期間、準備期間、第2のモラトリアムが必要だということ。もう1回、思春期。もう1回、尾崎豊を経験するような、ちょっとした助走期間が必要。第2のモラトリアム。それは、例えば臼井さんで言えば、3?3Labo、丸の内で集まった、あるいは中村さんで言えば、立教のセカンドステージ大学で学んだというのが、助走期間であったと。モラトリアムであったと。自分は一体何をやりたいんだということを気づく場になったということです。

 それが5番目に書いてある、集うということ。そして、磨くということと、気づくということだと思います。

 最後に、大事なのは一歩踏み出す勇気だということです。我々のような仕事をしていると、一歩踏み出せないことというのはあるわけです。それは、調査や提言、コンサルティングの仕事をしていると、ここはこの試算だけども、これを書くと、いや、実は松田さん、それを言ったら社長のメンツが丸潰れなんで書かないでくださいと。これを書くと、省庁間のあつれきを生むので、言わないでくださいということで、ちょっと鬱屈した思いを持ちながら1行消すだとか、一言言わないということは実は結構ある。実はその一歩踏み出せないということは、今、私たちが生きているこの空間の中にたくさんあるわけです。振り返ると、それは5年前の今ごろだったかもしれない、10年前のあのときかもしれない、あるいは昨日のあのときがそうだったかもしれないということで、そう考えると、一歩踏み出すということはとても大事であると。振り返って、あのときやっておけばよかったと思うことほどもったいないことはないということで、振り返ってみて、2015年7月31日がターニングポイントだったということにしようではありませんかということです。

 それは、1人がやったところで小さな一歩かもしれませんけども、今日、集ったこの皆さんが一歩踏み出せば、活力ある高齢社会に対して一歩踏み出すきっかけになるということで、そうした準備ができれば、セカンドキャリアも失敗しない、夢のあるセカンドキャリアになると思います。

 今日のパネリストの皆様の報告、それから、皆さんの質疑応答が、皆さんの新しい気づきや一歩踏み出すきっかけになれば、パネリストとしてこれほどうれしいことはないと思います。

 御清聴、どうもありがとうございました。