第1分科会「高齢社会フォーラム・イン東京」
「 人生100年時代、いつでもどこでもチャレンジ 」
- コーディネーター
- 沖藤 典子
(NPO法人高齢社会をよくする女性の会副理事長) - パネリスト
- 時田 純
(社会福祉法人小田原福祉会潤生円理事長) - 冨安 兆子
(高齢社会をよくする北九州女性の会代表) - 青森 千枝美
(伊豆・松崎・であい村蔵ら代表理事)
〈要旨〉
第1分科会では、「人生100年時代、いつでもどこでもチャレンジ」をテーマに、平均年齢85.7歳のパネリスト3名による社会活動の発表が行われた。
満91歳になる潤生園理事長、時田さまからは、ご自身の生い立ちから人生における四つのチャレンジを発表いただき、現在も運営されている「高齢者介護安心システム」について発表いただいた。続いて、高齢社会をよくする北九州女性の会代表の冨安さまからは、従来の血縁、地縁を超えた平等な関係性を基盤とする新しいコミュニティーの創造に向けた子育て支援活動を発表いただくとともに、人口減少と少子高齢社会の先頭を歩む日本の取組みが、今後同じプロセスをたどる世界の多くの国にとって、より良きモデルになるであろうという意見も出された。最後に伊豆・松崎・出会い村・蔵らの代表理事の青森さまからは、「町おこしのお手伝い」、「高齢者が生きがいを持って働く、活動できる場所づくりと働き場づくり」、「高齢者の居場所づくり」をテーマに組合形式で運営する「ものづくり介護」の活動について発表いただいた。
グループディスカッションでは主に、男性の社会参加、地域参加について働きかけようという意見や、ボランティアの高齢化問題に対し後継者をどのようにつくるのか、資金不足に悩んでいるといった課題が出された。また、コーディネーターの沖藤さまからは、社会活動年齢、社会活動寿命を延ばしていくことがこれから大切といった意見が出された。
【沖藤】 皆さま、この第 1分科会にお集まりくださいまして本当にありがとうございます。この分科会のテーマは『人生100年時代、いつでもどこでもチャレンジ』ということでございます。先ほど清家先生のご講演の中で、健康寿命を延ばしていくことや職業寿命を延ばすというお話がありましたが、さらにもう一歩、社会活動寿命を延ばす、これもまた重要なテーマではないかと思いながら拝聴しておりました。きょう、ここにお集まりの3人のかたがたは、その社会活動歴、燦燦たるかたがたでございます。
ご紹介の前に、時間配分を申し上げたいと思います。この分科会の与えられている時間は 120分です。2時間。例年お越しの方はご記憶あると思うんですが、2時間半だったんですが今年から2時間に縮まりました。それで、どう進行するか大変悩みました。はじめに70分パネルディスカッションを行います。その後50分ぐらい、10人程度のグループに分かれましてグループ討議、いわゆるバズセッションというものをいたします。さらにその後、また、そのグループの中のどなたか代表の方がお立ちくださいまして、どういう議論があったかということを発表させていただきます。こういうやり方になっておりますので、トイレ休憩はございません。ですから、ご用の方はお静かにお立ちになってくださいませ。それではパネルディスカッションを始めます。ここに並んでおります3人それぞれの肩書等につきましては、皆さまお手持ちの資料の中にあるかと思います。この3人の平均年齢が実に85.7歳なんでございます。1人、ちょっと平均年齢を上げられた方がおられまして。
そういう、そうそうたる社会活動歴、寿命を歩んでおられる3人でございます。江戸時代中頃、与謝蕪村という俳人がおりまして、こういう俳句を詠んでおります。「麦蒔きや百まで生きる皃ばかり。」ここにおります3人、それから皆さまがたも含めて、どの方も100歳までどころか、100超えですね。100超えて生きる顔ばかりという、たくましい面構えでございます。
3人に順次15分程度、発言していただきます。最初に時田純先生お願いいたします。先生のご略歴等はお手持ちの資料の中にあるかと思いますが、とにかく元気な方です。お生まれになったときに大変な未熟児で「この子はもう育たない」と言われたそうです。その子がなんと延々と91年、社会に大きな影響を与えながらご活動をなさってこられました。そういう、元気な時田さんでございます。どうぞよろしくお願いいたします。拍手で皆さまお迎えいただきますようお願いします。
パネリスト 時田 純氏のお話
【時田】 ただ今ご紹介をいただきました『社会福祉法人小田原福祉会』の時田と申 します。最初に、このフォーラムにご推薦くださいました『高齢社会をよくする 女性の会』の樋口先生、感謝を申し上げます。また、沖藤先生、丁寧なご紹 介をありがとうございます。それでは座らせていただきます。
私は 1927年に東京の日本橋で生まれました。未熟児で生まれたそうでござ います。現在、満 91歳の現役のソーシャルワーカーでございます。24歳からこれまでソーシャルワーカーとして福祉、介護に携わってまいりました。今も毎日、楽しく働いております。私ごとですが今も入れ歯は1本もありません。 骨密度は60代だそうでございます。まだしばらくは働けるだろうと思います。私の長い人生には、これまで大きく4回チャレンジがございました。きょうはその経験をお話させていただきます。
私が生まれた当時の時代背景でございます。ご高齢の方もたくさんいらっしゃいますからご自身のご経験にもなるかと思いますが、人生は、まさにその人が生きる時代の気候現象、世界、国内の政治経済、家族の構成や健康状態まで含めたさまざまな要件に左右されるわけでございます。
私が生まれる15年ほど前まで日本は農業国家でございました。しかも経済全体に占める農業の割合が大きくて、地主制の下で小作農中心の農業でしたから、全体的に非常に貧しい時代であったとご理解をいただきたいと思います。国内では安定した職業があまりなかったわけでございます。それが第1次世界大戦が始まって戦争による特需が起きます。工業が発達を始めます。未曾有の好景気になりまして工業生産額が農業生産を初めて上回ったという時代背景がございました。
しかし大戦の特需景気が終わりまして生産活動が低下し経済が悪化します。そして慢性的な大不況に陥りました。さらに1920年の株式市場の大暴落により、世界的に景気は悪化をし、庶民生活は長い苦境が続いていたのでございます。 一方、当時の日本の政治状況は1921年に総理大臣が暗殺をされる。そこに関東大震災が2年後に起きます。そして社会の混乱が著しくて、私が5歳のときに陸軍の反乱による5.15事件が起き、続いて9歳のときに同じく2.26事件が起きます。非常に不安な社会でございました。
10歳のときに日中戦争の発端になった盧溝橋事件が起き、12歳のときに第2次世界大戦が勃発をします。まさに戦争の時代を生きた青春時代でございました。私は18歳のときに単身、満州の国立建国大学へ進学をいたしました。しかし終戦間際にソ連軍が国境を越えて侵略をしてまいりましたので、大学の全学生に召集令状がまいりました。いきなり戦場に駆り出されて、天皇の詔勅が1日遅れれば死んでいたという、運命でありました。そのような経験から、人間生命の尊厳を無視し、民は知らしむべからず、由よらしむべ しという封建主義は国民を不幸にする、そのことを肝に銘じてその後の私の人生観を決定づけたのでございます。国が情報をクローズすることがどれほど危険か。私が満州へ渡る頃にはもう既に敗戦の色が濃かったわけでございますし、満州国が滅亡するという未曽有の事態に陥るわけでございますが、知らずに入学したためにどれほ ど苦難にあったか。その後、 2年間の抑留生活を経て日本へ引き上げてま いりましたが、なんと終戦の前日に我が家が空襲で焼けていたという、ひど い運命でございました。戦争ほど悲惨なものはない愚かなものはないということを、肝に銘じたのでございます。
○第2のチャレンジ
第2のチャレンジは、昭和24年、市役所にソーシャルワーカーとして就職をいたしました。生活保護の受給者の方の保護費を支給するのが最初の仕事でございました。その後、戦後の復興事業に携わりました。市営住宅の建設をします。その次に国民健康保険の創設をします。まだ健康保険がなかった時代でございますから、先ほど清家先生のお話でもあったように乳幼児の死亡率が非常に高かった。そういう時代に、アメリカのGHQの指導で、早く国民健康保険を作らなくてはいけない、そういうことで私が担当させていただいて幸いにこれは成功いたしました。
その次に市立病院の建設をいたします。当時はドイツの医療からアメリカの医療に大転換する時代でございした。国立東京第1病院の中に国立病院管理研究所というのがありました。そこに2年間、病院管理学を学びに小田急で通いました。幸い、これも成功体験を収めました。
このようにして約14年間、福祉行政を経験いたしまして、社会福祉へ献身する将来の端緒になったわけでございます。 29歳のときに仏教を知る機会がございまして、生涯の学習を自覚いたしました。法華経という釈迦の経典に『法に依って人に依らざれ』という言葉があります。人の言葉ではなくて、法によらなくてはいけないという人生の根本の羅針盤を得て生きる目的と自己実現の目標を知りました。36歳のときに推されて市会議員に当選し、以来12年間務め、その間に多くの特養ホームを見学をする機会がございました。当時の老人福祉は大変な時代でした。一つの部屋に8人、10人と詰め込んだ、そういう老人福祉の実態でした。人権無視は著しい状況でした。なんでこんな状況なんだろうと疑問におもいました。実は在宅はもっとひどかったのです。大きな床擦れを作った老人が5年も6年もお風呂に入ったことがない、そういう不潔な状態で、在宅のお年寄りたちが苦しんでいた時代でございます。その間、国会議員の秘書を10年兼務をいたしました。
○第3のチャレンジ
次に第3のチャレンジでございます。48歳から3年間、全国社会福祉協議会研修センターという所で、社会福祉制度を体系的に学び直しました。そして、1977年、50歳で生命の宣言を基調にした「人は人として存在するだけで尊い」という理念を掲げ、社会福祉法人を設立し、翌年、特養ホーム潤生園を創設いたしました。
先ほど申し上げたとおり、在宅から施設にお入りになるお年寄りたちは、こんな大きな床擦れを作り、もう骨まで達するような緑膿菌で汚染された大変ひどいお年寄りたちをお受けしました。その方たちの褥瘡を治したり、寝たきりのお年寄りたちを起こしていく。認知症のお年寄りの背景にある栄養障害を改善していく。そして、おむつを外し排せつの自立を支援して、全員ベッドから起こすことに専念したのです。そして人間性の回復を図りました。当時の特養ホームは、例えばJR線から見える老人ホームがありました。その施設の屋根には寝たきり老人ホームと書いてありました。今では考えられませんが、そういう老人福祉の実態でございました。
1979年、特養ホームを造ったすぐ翌年から在宅の寝たきり老人の施設入浴と、そして宿泊のサービスを無償のボランティアで開 開始をいたしました。これが後のデイサービスであり、またショートステイとして制度化をされていったわけでございます。また、認知症の人の評価スケールを独自に開発いたしました。その結果、神奈川県内の特養で第1号の認知症専門施設の指定を受けたのでございます。
○第4のチャレンジ
そのようにして第3次から第4のチャレンジへ向かってまいります。90年には365日、昼夜2食の配食サービスをボランティアで開始をいたします。年間で約700万円の赤字を出しながらボランティア活動を続けました。そして翌年に嚥下障害の方の「介護食」を研究開発し、日本栄養改善学会から学会賞を受けたのでございます。また、次の年、神奈川県初の毎日型24時間の訪問介護事業を創設し、その次の年、全国初のホームヘルパー1級養成研修事業を施設の中で開始しました。少し飛びますが、14年ほどたった当時、深夜、あるいは早朝の訪問介護はない時代に初めて夜間対応型訪問介護を作り、これを政府が後に制度化をいたしました。
私は2008年5月に24時間在宅ケア研究会を結成し、その理事長として10年間、全国定期な推進に努めてまいりました。また、2008年に日本認知症ケア学会から読売認知症ケア功労賞を授与されました。そして2012年に、定期巡回随時対応型訪問介護を創設しました。これは1日に必要な都度訪問し、特に退院をしてくるお年寄りたちが、在宅で不安なく生活できるように、サービスを提供していく。それによってスムーズに医療機関から在宅へ受け入れるという、そのような仕事を進めたわけでございます。
60歳のとき、法華経という経典の中に「人間は人間でなければできないことをするために人間に生まれた」という釈迦の言葉があります。その示唆によって私は介護へ生涯献身するという使命を自覚いたしました。きょう、1枚の絵がお手元に渡っていると思います。これが、現在、私どもが地域展開をしている事業です。要介護高齢者が在宅で暮らし続けるためのサービスを、作り上げてまいりました。私は「高齢者介護安心システム」と言っておりますが、これが地域包括ケアシステムそのものであろうと思います。
パネリスト 冨安 兆子氏のお話
【冨安】 皆さま、こんにちは。折あしく風邪気味でお聞き苦しいと思います けれどもお許しください。前段 15分でという厳密な指令が来ており ますが、年とともに話が長くなっておりますので 15分で終える自信 がございません。それで大体 12分で終わる映像中心のスライド ショーの形につくって参りました。スライドショーが終わったときに 私の話が終わっていれば 15分という約束は守れると。
皆さまのお手元の資料の中に、ピンクのリーフレットがございます。 それと、きょう、配られました 1枚もののA4の紙があると思いますが、このA4の部分を生でしゃべります。なので、皆さまは映像をご覧になって、こんなことをやってきたんだなということをイメージしていただきながら私どもの活動の特徴はどこにあるのかを、この文章で捕まえていただければ、と思います。
もう一枚の簡単なレジュメのほうに、今日の私の発題の流れをお示ししています。 1.は「映像を通して見る会活動のあらまし」です。 「会の立ち上げに至る問題意識」につきましては、このリーフレットに会の設立の目的とか趣旨とか書いてございますので読んでいた だいたら分かります。 3番目、「会活動の特徴」ですが、ここに五項目を挙げておきました。
何しろ立ち上げたときが1985年、もう33年前の話でございますので、その頃はまだ日本の高齢化率は、7パーセントぐらいでした。きょう、清家先生のお話に、「学者は奴雁になるべきだ」という福澤諭吉さんの言葉がありましたが、今、思えば、学者ではございませんけれども、奴雁という、先を見ながら、これからどんなふうに取り組んでいくべきかを考えて、それをみんなで実践してきた、と言えるかなと、あらためてきょうは総括ができてよかったと思っております。
○血縁、地縁を超えた平等な関係性を基盤とする新しいコミュニティーの創造がテーマ
ここに書いてあります3番目、「会活動の特徴」ですが、第1の特徴としては従来の血縁、地縁を超えた平等な関係性を基盤とする新しいコミュニティーの創造をテーマとしています。ご紹介いただいたように私は伊豆の修善寺という所で生まれ育っておりまして、子どもの頃は、18歳まで生きられるかどうか分からないという大変な虚弱児、大風の吹く日に外に出すと転がっていきそうと言われたぐらいですが、今このように、まだ、たくましく生きております。人生100年時代と言われますけれども、私は2037年まで生きる予定になっていますので、あと18年か19年くらいはそれなりに頑張らないといけないと思いながら暮らしております。
○女性たちの不満をプラスにつなげていこうというのが立ち上げのきっかけ
そういうテーマを持ちまして、40代から60代の普通の女性を中核に新しい社会連帯を生み出したいという、理想だけは壮大な出発でございました。それまでにも職能団体はいろいろありましたが、普通の人々、その頃、「般ピー」という言葉がはやりましたが、一般ピープルつまり、普通の女性たちが、それまで仕事はしていたとしても結婚して家庭に入って、家族の世話で追われて、そして一生を終わるという、その中で、実はたくさんの不平不満を聞いてまいりました。
私はPTAが社会活動の始まりなんですが、夫の赴任で鹿児島に参りまして9年、子ども2人を出産し、子どもの幼稚園や何かの世話をして、その後、北九州に移りました。社会教育活動を一方でしておりましたから、女性たちの間でこんなに勉強させられて一体どうしてくれるの?というような不満が渦巻いているのを見聞きしていました。そこで、そういう不満になるような女性のエネルギーを何とかプラスにつなげていきたいということが、組織を立ち上げる一つのきっかけだったわけです。
そういうことで学習活動をベースにおいて、問題の所在を明らかにしながら、さまざまな運動を展開してきましたけれども、いまだに運動のレベルを超えていないというのは、代表である私はもとよりのこと、理事の皆さんも無給であるにもかかわらず、事業のお金も、 4000万~5000万の単位で動いていますが、それを超えるお金が出ていくという意味では、やはり時田先生が始められたときのように赤字でございます。その赤字分を映画会や、その他さまざまなことをして稼ぎ出しながら、したいと思うことをやっているというのが実情です。高齢者の身辺介助や話し相手などの、つまり家族に替わる家族としての働きも大事にしてきまして、そして、これらのサービスの受け手はもちろん高齢者なんですが、一方でサービスを提供する側も高齢者というところに大きな意味があると思って、そのようにやってきました。
○行政が手付かずだったことを行ってきた
第2の特徴は、社会の高齢化はやがて少子化によって一層加速されるという認識が当初からありましたから、女性のリプロダクティブ・ライツ/ヘルスを擁護しつつ、生まれてくる子どもがすくすくと成長するための子育て支援活動をしていることです。20年前はまだ行政でもそういうことは手付かずでしたし、「こういうことが必要だ」と行政の担当者に言っても「予算がありません」「財政がウンと言いません」というような形で取り合ってもらえない。行政がやらないなら私たちでやるしかないというので、配食活動もそうですが、ありとあらゆる思い付くことをやってきたわけです。
その頃、家族が特に母親が子どもに密着し過ぎるあまり、さまざまな悲劇が起きていました。ですので、他人だからこそできる程よい距離での関わり、人間的な関わりが必要だと考えて『グランマ』活動が始まりました。会が発足して10年目のことで、現在も続いています。
○高齢者が蓄積してきたさまざまな経験と知恵を次世代育成のために生かしている
第3の特徴は高齢者の資源を次世代育成のために生かしていること。高齢者のためにお金を使い過ぎだという議論がこのところ、盛んに行われますけれども、高齢者がこれまでどれだけ若い人たちのために自分の資源を使ってきたでしょうか。この辺の経験をぜひどこかがきちんと数字として研究してくださるといいなといつも考えています。そういう意味では新しい関わりを地域社会に生み出すことがとても必要なので、核家族化現象の中で閉鎖的であればあるほど密着しがちな、だからこそ問題をはらんだ親子関係が生じる傾向が強い、そういう時代に、子どもの自立、親の自立を射程に入れた子育て支援は親身な他人だからこそ可能だと思います。
生まれたばかりの赤ちゃんが私どもの活動で『グランマ』と関わりを持ちながら、成人式を迎えましたとか、結婚式を迎えましたとかいう形で長いお付き合いが続いているのも私どもの活動の特徴と言えるかと思います。第3の特徴は、つまり、高齢者が蓄積してきたさまざまな経験と知恵を個人的な血縁の範囲で終わらせるのではなくて、社会的な子育てに生かせば新しい関わりを地域社会に生み出すことになる。核家族化現象の中で閉鎖的であればあるほど問題をはらみがちな関係性を、開かれた地域社会にするための新しい関係性に転換することがとても大事な課題だという認識があったからでした。
○地域の活動が全国的な組織を通し集約され意味のある活動に
第4番目。本会の主体的な活動が高齢者の生きがいをつくりだすということも大きな目的の一つでした。『グランマ』を通しての活動もそうですが、一方で学習活動を大切にすると同時に、介護保険が入るときもアンケートを集めたり署名活動をしたり、と積極的に動きました。幸いなことに『高齢社会をよくする女性の会』という、女性が主体的に活動する全国的な組織があることを通して私どもの地域でのささやかな活動も全体に集約されて、それなりの意味のある活動になっていく。これはとても大きな意味を持っていると私は今もそう思っています。
○活動を通し社会経済活動にかかわっている
5番目。会員が活動を通して社会経済活動に関わっていること。こうした生涯学習や実践の普及とともに、個々人の能力も当然向上しているのですから、こうして一人当たりの生産性が高まれば、経済的にも、時間、空間的にもゆとりのある、より人間らしい暮らしの営める社会になる可能性は高いと思っています。人口減少と少子高齢化の先頭を歩む日本は、恐れずに課題に勇敢に取り組むことを通して、遅かれ早かれ同じプロセスをたどる世界の他の多くの国、 特に高齢化後発国のアジアやアフリカの国々にとっての良きモデルとな るであろうと思っています。
○次世代が高齢社会をそれなりの希望を持って迎えられる社会にしていきたい
清家先生の最後のほうのお話に、「日本が世界のよきモデルになる」とありました。私がこの骨子を書いたのは清家先生のおっしゃる以前のことですので清家先生の真似ではございませんが、今こそ私たちはよきモデルとして、そして次の世代が高齢社会をそれなりの希望を持って迎えられるような、だからこそ今を一生懸命生きていこうと思える社会にしていきたいと、大それた考えではありますけれども、そう考えております。
○理論武装して理論的に迫る
もう一つ、調査研究、これも私どもの会のとても大きな課題でありまして、会員さんたちがこんなことで困っている、こんなことが心配だというようなことがありましたら、じゃあ、その実態をまず調査してみようと。というのは、行政に掛け合っても「お金がありません」というのが最初の担当者の答えで、私はウルトラCを使って上から下へというのはどうも性に合いませんので、現場の担当者を説得するためには理論武装して迫るしかないと考えました。
例えば、保育園でも、「こんなにちゃんとやってます」か言いますけれども、写真を撮って、ご覧のとおり「こんな状況で子どもたちは保育園に通ってますよ」とか、あるいは「学童保育の状況はこうですよ」とか、実地に調査したものを基に持っていきますと、これはもう、ぐうの音も出ないで、次の次ぐらいのところで政策課題として上がってくるという、そういう意味では大変面白い実験をいろいろ、この33年間でさせていただいたと考えております。
○国際化の動きの中で
お隣りの韓国でもウルサンとかテジョン北九州と似た土地柄の工業型社会でありまして、北九州市と共通した課題を持っていますので、あちらから、話に来てほしいとか、こちらの様子も知りたいとかいうこともあって、いろんな関わりが生まれています。そういう意味では、韓国だけではございませんけれども、私が国外に出たりしたときのつながりなどを基に、できるだけ北九州の、北九州がもちろん出発点ですし、北九州が一つの大きな舞台ではありますが、北九州にとどまらず日本全体に、あるいは世界の必要とする地域にこうした情報を届けられたらなと思って活動を続けてまいりました。
46歳のときインドに女性問題の調査に行った折、「聖者」と言われる方に「あなたはあと、57年生きる」というご託宣を受け、数えてみたら103になるわけで、そんなことがあるはずがないと思いまして日本に帰っていろいろ調べましたら、103ぐらいは軽いという可能性が出てきました。それで、2037年の誕生月の3月にちょうど人生が終わるよう精一杯生きていけたらいいなと思っております。
パネリスト 青森 千枝美氏のお話
【青森】 皆さま、こんにちは。一昨年の 10月3日に樋口先生と出会いまして、そのときに私も大腿骨を骨折してまして車いす、先生も8度5分以上の熱を出されて、本当に痛々しいトークセッションで出会いました。そのときに『人生100年時代』というお話を伺って、今まで、私もそろそろ終わりかなと思ってたのが、また勇気をいただいて、もう少し頑張ってみようかなと思っていたところで、このたびこのような光栄な所でお話させていただくことは本当にうれしいというかどきどきしてますけど、皆さんよろしくお願いします。
○ずっと考えていた『ものづくり介護』を組合形式で経営
松崎町は静岡県で一番小さな町なんです。人口が6700ほどですね。高齢化率は40パーセント、4人に1人は高齢者ってことで、高齢者が元気でないと町が成り立たない、そういう町づくりです。自然と、山があり海があり川があり、歴史、文化、本当に穏やかな町なので、みんな、ゆったりとした気持ちで温泉に入っているような気持ちでいるんです。そこで私は15年ほどずっと考えていたことが今やっと日の目を見ているんですけど、『ものづくり介護』なんですね。女性はものづくりが大好きなので、それで何とか元気にしようっていうところから始まったのが『蔵ら』の始めなんです。
どういうふうに経営していくかというときに、ワーカーズコレクティブという組合形式で、生協とか、農業協同組合とか、漁業協同組合とかそういう組合なんです。そういう所の事務をやっていた人が、この指止まれで集めたとき25人の中に1人いらして、じゃあワーカーズ方式でやろうということで、これは雇うとか雇われるとかそういう関係ではなく働く者同士がみんなで出資して、ですから、うちは25人全部が社長なんです。たまたま私が一番年が上なので、一応、理事長となっていますけど、みんな社長なんです。
○一人ずつから特技を引き出し、町の団体とは持ちつ持たれつ協力した
今まで家庭にこもってたお母さんとか、美容師をやってた人、民宿をやってた人、それぞれの特技があるわけです。それを私は一人 ずつ引き出しまして、あなたはこういうことができるんだからこういうほうに生かしましょうよっていうことで、それが楽しくて。食の部門、手芸の部門、それからお花の部門、そういうふうにいろんな特技を出すことにしました。
それが、小さな町ですので家族が一番大切なのですが、 1日奥さんがうちにいないわけですから、そうするとご主人もみんな元気になって、電子レンジの使い方覚えたり簡単な料理ができるようになったり、そういう結果も生まれています。あと、小さな町の得意なところは、商工会、観光協会、生協、社会福祉協議会、役場、これがみんな持ちつ持たれつ協力してやれるってことが私たちにとっては一番よかったんです。例えば経理は最終的に商工会でやってもらうそれから社会福祉協議会にはずっと関わりがありますので、私も14年間、社会福祉協議会で理事から会長までやりまして高齢者問題に取り組んだわけです。こんなことでやっております。
○『蔵ら』の三つの理念
次、私たちの場合、おばあちゃんたちの集まりですので、わいわいやっているだけではいけないので、『蔵ら』の三つの理念というのを作り出しました。これは町を元気に、町おこしのお手伝いです。
これはお手伝いっていうことは、私がお店、開いた所の通りが全部もう、お店ができちゃったんですね。町おこしのお手伝い、これはもう、クリアしました。高齢者が生きがいを持って働く、活動できる場所づくりと、働き場づくりをつくったわけです。大体、今、私の店で70人ぐらいの人が、ものづくりとその他いろいろ活動しております。あとは一番大事なことは子どもから高齢者まで1人でも気軽に入れる居場所づくりです。
○居場所としての「蔵ら」の役割
私が予防介護で始めたことですので、施設の先生がたには申し訳ないですけど、デイサービス行く前の前ぐらいをやりたいなと思って元気なおばあちゃんたちの面倒見てるわけです。あと、この方たちは、右の方は86歳で今でも藍染めのバッグを一生懸命毎日作っております。下の方ももう96歳です。トミナガさんっていう方で。それが、きれいなもの、お人形さんとかたくさん作って、「形見分けよ」なんて、「お金はいいから」なんて言ってみんなに配ったりしております。
居場所としての『蔵ら』の役目としては、月水土日4日間は日替わりの軽食としてお食事を出しております。その他、火、金は視察研修など、また、『ものづくり介護』ですから、いろいろ、子どもからおばあちゃんおじいちゃんまでがやれること、手作りのものを講習しております。それぞれ先生が替わってやっております。一番高齢が99歳の おばあちゃんが先生になってやっております。あとは皆さんが作ったもの、リフォームして作ったベストや洋服、その他、小物、バッグ、それは200から300種類ぐらいあります。
一つ、珍しいものがあるんですが、これは、ミカンの産地ですのでミカンの皮を使ったピールアートっていうものを作っております。ユズなんかで作りますと、家の中に置いとくだけで香りがいいという。みんなで食べた後の白い皮までバラの花にしたりしております。これはちょっと違うんですが、カンボジアに、たまたまカンボジアの父と言われる方が友人でして、たまたま王妃、シハヌーク殿下の息子さんの奥さまなんですね、この方とちょっと縁がありまして直接にシルクのスカーフや子どもさんが作った小さなカボチャなどを送ってきまして、それを販売してお金を送るっていうことが私たちの、これがボランティアと思って少し協力しております。あと、私の『蔵ら』のお食事です。日替わり『ひる膳』。全て500円です。
さんまずしも500円。一応、お味噌汁も磯ものの貝などを使ったお味噌汁で、皆さん「安過ぎる」とか言われるんですけど、それはお世辞だと思っています。今、フキノトウが採れてるんですが、朝採れたフキノトウの天ぷらも付いてます。そんなふうに皆さんの声でやっております。これは私が賞をいただいた、『いづこいし』っていう石なんですけど、これは、皆さん、体験で、今、おひなさま作りをやっております。
これが、松崎のゆるキャラのまっちーちゃんです。桜餅のサクラの葉は松崎が80パーセント以上生産しております。なまこ壁が200軒ほどありますので、なまこ壁の洋服を着たまっちーちゃんです。
○『四つのチャ』で活動
私たちは、チャンスを大事にしよう、私の考えですけど、チャンスがあったらチャレンジ、チャレンジをマンネリになったらチェンジ、そして女性が多いのでチャーミングでいこうっていうことで、『四つのチャ』っていうことで活動しております。それから、若い移住者の人たちが農業したり、お花作ったり、いろいろ、パン作りやケーキ作りやそういう人たちのアンテナショップとしても、コーナーを作りまして販売しております。『蔵ら』の会員など協力者は本当に皆さん1人も辞める方もなく、高齢になって卒業する卒業っていうところでしてるんですが、一応、今まで平均年齢73だったのが、今70になって、若い方が50代の人が2人ほど入りましたのでちょっと若くなっております。福祉が主ですが、観光地ですので観光、それから商工、中で本当に私たちは高齢者でも町のために今まで子どもも孫もみんなお世話になった町のために頑張ろうっていうのがテーマです。キザですけど国でいただいてる年金は、みんな国のお給料だと思って恩返ししようっていうことで、それがテーマになっております。
火曜日の高齢者の『ものづくり介護』は、今、私が人形のボディーを作りまして、それで自分を作ろうっていうのをやりましたらとても人気がありまして、毛糸で頭付けたり、男の人がズボン履かせたり、この人形作りがとても皆さん楽しいらしくて、今、やっております。こんなふうに。これはポプリ作りですね。針を持てない方は、針を持つのが嫌って方はこういうふうにポプリを作ったり、リボンで結ぶだけですので作っております。これは、『いづこいし』を作ったところですね。大勢で作りました。今年がちょうど、合計しますともう18年目になりますので、このカルチャー教室も13年目になります。
それで先日とてもすごいチャンスが訪れまして。手作りのできる人が多いんですね、和裁、洋裁、小物作り。それを認めまして世界の バービー人形の着物を作ってほしいという依頼がありました。それをみんなで。今、チャレンジしてるところですが、とてもいいものができまして楽しみなんです。日本の着物で作ってほしいっていうことで。 これが世界に羽ばたくんじゃないかなって、みんな夢を持って作っているんで、もう 100着ぐらいできました。まだ販売はしてないんですけど、皆さん、今、見にきていただいています。左の上はちりめんで作ったおすしです。これも、外国の方がとても喜んで求めていきます。
下は招き猫で、昔、着た、絵羽の羽織ですね、そういうものを使ってやっております。あとは、こちらのうさぎさんなんですけど、これもふる さと納税になってまして、結婚式の方たちにはプレゼントされて東京のほうへも送ったりしております。上のバービー人形になっております。 この『蔵ら』というのは、名前は蔵、結局、古民家を利用しているもんですから蔵なんですね。その蔵に、松崎の地方の言葉で「いいだら」、 「そうだら」って「ら」付けるんですね。その言葉を付けて『蔵ら』にしま した。それから、鬼瓦に恵比寿、大黒が付いているのでもう少し頑張ってみようかなと思います。
本当に簡単ですけど、こんな感じです。
パネルディスカッション
【沖藤】 それでは、先ほど来お話しいただいておりました 3人のパネリストのかたがたに、時間があまりないので申し訳ないんですが、お一人5分 時間厳守で、最後のまとめのお話、あるいは追加のお話、気付いたこと等々をお話いただければと思います。時田さんからよろしくお願いします。
【時田】 少し補足をさせていただきます。今、いわゆる要介護度の、重度の方の最後の看取りとして期待をされていますのは特養ホームであります。現在、当法人の特養ホームの要介護度は平均4ということですが、 4、5がほとんどという状況です。ここで特にお話をしたいのは、終末期のケアです。先ほども清家先生から医療のお話がありましたが、現実に特養ホームで体験をしておりますが、ほとんどの方が実は医療処置の必要がないのです。無いというよりはむしろ控えるべきだと思います。というのは、高齢になって死を迎えるのは自然の摂理だからです。特養ホームはある意味で医療の処置を終わった人たちです。現実は、厚労省のデータでも100歳以上の方の1年間の医療費が平均119万円かかっています。国民医療費は一人当たり33万円ですから、このような医療費の使い方は間違っていると私は思っております。特養ホームの入所者の平均年齢は、現在87歳で90歳以上が半数を超えています。急性期の症状はほとんど無いので、医師が関わる必要がないのです。必要なのは、介護と看護なのです、どうもその辺の認識を早期に意識転換しなければ駄目だと私は思っています。必要のないところにお金をつぎ込んでるんです、今の仕組みは。最後のところにお金が大量につぎ込まれている。これは見直しが必要な非常に大きな課題だと思います。
われわれ特養ホームの終末期のケアでは、最後まで経口摂取に努め、 実に平安な臨終を皆さま迎えていらっしゃいます。医師のみなさんが「俺もここで死にたいよ」といわれる状 況です。とにかく床擦れなど一切作りませんし、脱水を起こさせません。はっきり言えば、一般病院の介護力は、特養の半分しかないというのが現実でしょう。どうも日本の医療介護政 策は、根本的な間違いを犯しているのではないかと思いま す。われわれの現場感覚では、既に社会保障政策は大転換の時を迎え、特に現在、 医療につぎ込まれている費用をむしろ介護へ廻すべきだと率直に申し上げたいのでございます。ありがとうございます。
【冨安】 只今の時田さんのお話、共感というか全く同感です。自然な死に方をするにはどうしたらいいかという、いろいろな研究がありますけれども、生きている間に精いっぱいエネルギーを使い切って、そしてくたびれ果てて、死んでちょっと休みたいというふうになるまで、そのエネルギーを使えるかどうかですけれども、使える仕組みをどう作るかということが、多分、まだ実験途上なんだと思いますが、そうありたいと思っています。
最初の発題で「今後の課題」という4番目の所を残しておきましたので。生きていく基盤としての住まい、単なるハウスの問題ではなくて関わり合い方も含めた住まい方、私はその一つの理想形、若い人たちがかなり早くからやってきたシェアハウジングの形を、高齢者だけとか若い人だけではなくって、高齢者もいたり子育て中の人もいたり、さまざまな、ときにはよその国からやってきた留学生もいたりという、混ぜこぜの、ご ちゃまぜの住まい方ができていかないかなと長年考えてきましたが、しなきゃならないことが他にもいっぱいあるものですから、これまで手付かずできました。
シェアハウスについては銀行の不祥事なんかもあったりして、まだ、さまざまな状況、さまざまな環境の人たちが一緒に暮らしていく暮らし方については、きちんとした経験も積み上げられていませんし、そういうことの調査もまだ見えていません。でも最終的には、もともとは血縁の関係の中でのそうした住まい方が他人同士の間でもできるはずだと思ってこれまでの会の活動もいろいろやってきたつもりなんですけれども、最後は人間としての、人間同士としての連帯とか、人を大切に思うとか、今、困ってる人がいたらほっとけないとか、自分は大したことはできないけれど、これぐらいのことならできるみたいな、ちょっとした小さいものを組み合わせて、と言いましょうか、結び合わせてそれなりの一つのまとまったものにしていくという、これは息の長さも要りますしお金も必要です。いつも悔し紛れに「悪いことしてないからお金がないのよ」って負け惜しみを言うんですが、すみません、悪いことしないでお金持ってる方には大変失礼な言い方ですけれども、常に資金をどうするかが課題です。
北九州市は政令市の中で一番高齢化率が高い。それなのに「子育て日本一」と言われたりしますし「住みやすいまち日本一」という ふうな所にときどき顔を出したりします。それから、私どもも関わっている北九州市立大学との協働、いわゆるネットワークという関係の中では、「大学の地域貢献度」と言う点で日本で 1、2の評価を得たりしてきましたので、長年こつこつとやってきたことが、今、少しずつそういう形で結果を出しつつあるのかなと感じています。ただ、どこまで続けられるかが問題です。こういうことを面白半分で、つまり、そこから収入を得るわけでもなくやろうとする人ってそんなに多くない。やっぱり社会にゆとりがなくなっているということを実感しています。
私たちが活動を始めた頃は、ボランティアでこういうことをやろうっていうときに、この指止まれ方式で、かなりの人たちがそれに共鳴 して集まってきましたけれども、今はちょっとそういう余裕がなくて、しかもボランティア活動の必要性ってあちこちで災害があるたびに人が動きますし、こつこつとあまり目立たない所で日常的にエネルギーと時間を使っていく活動に積極的にかかわろうとする方は少なくなっています。
私たちが会を始めたときは、まだ自分たちが十分に若かったので、年を重ねた方たちを支えたい、そういう気持ちで始まりました。世代間の連帯と言いますけれども、それだけではなくて、たとえば私の立場で言うと、親は伊豆にいますし私自身は九州に暮らしているわけですから、そんなにしょっちゅう駆けつけるわけにもいかないので、自分は自分の住んでいる地域の親世代のために頑張るし 私の親のいる所ではその地域の皆さんがそれなりのことをしてくだされば、それが最も理想的な形ではないかと思ってやってきました。
しかし、今はもう、れっきとした当事者集団になっているわけですから、亡くなる会員も多く、最大時1300人くらいだった会員数も今年、正確に数えたら 500人を切るぐらいになっています。それでもそれだけの人たちが毎年3000円の会費を払って会員として活動しようと思ってくださっていますし、それから活動者の平均年齢が大体もう70歳を超えています。もちろん、会員でいるだけで学習会はともかく、配食などの活動には参加できない方もいます。それはそれでいいと思うので、世代を超えたいろんな立場の人がいろんな関係性をつくっていく、そういう実験体としての営みをこれからも大事にしていきたいと思っています。
そこをつないでいく張本人というのは高齢当事者である私たちがやらないで誰がやるのよ、そこは自分たちでやって見せていこうとときどきは世の中を慨嘆したり後ろ向きになったりしますけれども、そういうときにはまた学習をして新たに意欲をかき立てながら前進していこうと思っています。
【青森】 きょうは、伊豆から、うちの大得意さまが来て聞いていただいています。本当に遠い所ありがとうございました。静岡県の県知事さん川勝知事が、食と健康は自分でもやれる、だが社会奉仕というかそういうことは自分ではできないので、社会貢献は誰かが声掛けてあげないとできないということで、私たちはそれをこれからもやっていきたいなと思っています。元気な高齢者を見ると「あなた、何かでき ない?」、「お菓子作り、どう?」、「おまんじゅう作り、どう?」みたいに声掛けを、今、一生懸命やっております。
一昨年、樋口先生にお会いしたときに、樋口先生からすてきな言葉をいただきまして、これ、とても皆さんにもいいと思うので読ませていただきます。
歩いて買い物、近くに仲間、ちょっと稼げる仕事があって、できることなら人助け。共に集いて、共にはぐう、こんな地域に私はおりたい。という言葉をいただいて、これ、私たちはこれを標本にしてみんなで頑張っております。今、介護してる方に本当申し訳ないんですけど、私の所では働くデイサービスって言われるぐらい、みんな元気で仕事を、毎日、朝8時にはみんな集まって4時まで頑張っております。これからも1人ずつ増やして元気な高齢者を増やしていきたいと思います。
【沖藤】 どうもありがとうございました。3人の先生がた、膨大な人生、膨大なチャレンジの歴史を、わずかな時間の間にまとめてお話しくださいまして本当にありがとうございました。会場の皆さまがた、いかがでしたでしょうか。多くの方が感銘を受けられたのではないでしょうか。盛大な拍手で3人にお礼を申し上げたいと思います。
それでは引き続きグループ討議に入ります。10人ぐらいで1グループをつくっていただいて、どなたか1人が司会役になっていただいて、これから14時10分ぐらいまでの30分間をそのグループ討議の中で、質問したいこともあったでしょうし、いろいろ感想を述べたいこともあったでしょうし、そういうようなことをお話いただいて、司会者の方から後に発表していただくという形に入りたいと思います。皆さま、いすを動かして対面形式になるようにグループをつくっていただければ幸いでございます。どうぞよろしくお願いいたします。
グループ討議
【グループ1】 まとめたわけではないのですが、皆さんのところから出てきた言葉を少しご紹介したいと思います。いろんな活動を高齢になってからなさっている方のたくさんいらっしゃるグループで、私自身も非常に刺激を受けた内容でした。その中で皆さんにお伝えしたいと思ったのは、まず、今、女性がすごく元気だけど男性が元気がないのではないかということで、「男性を元気づけるような活動というのをしたい」というのを言ってらした方がおられます。
それから、「今、非常にボランティアとか志のある方で支えられているという活動があまりにも多く、そこは政策できちっと支えることも考えていく必要はある」という感想を言われていらっしゃいました。
それから、「日本の未来を見据えた活動というのは非常に大事」ということと、「新しい日本をつくるために1回、壊してでもいいから政策を」というようなことも元気のあるお言葉として出た次第です。
それから、高齢者住宅の管理会社などをなさっていると、今、高齢化が進んでいる団地などが問題になるんですけど、「それを活気付けるために、まず、事業者がやるべきか、行政なのか、住民なのか、その辺も大きな課題」という話をされています。
あと、がんになられた方が傾聴ボランティアをされているんですけど、「そこで、いろんな問題がある」と。「介護、認知、虐待というところで表には出にくい、いろんな問題を抱えながら生活している人がたくさんいるんだ」というようなことを言われておりました。 本当に、まとまったことではないんですけど、皆さんから出てきた言葉がこんなことでございました。以上です。
【グループ2】 私たちのグループはちょうど10人で男性と女性が半々ずつ、とてもバランスの取れた、いい議論がというか事例を随分紹介し合いました。そして、皆さんそれぞれ地元のほうで老人会なり、町会なり、ボランティア活動してらっしゃるんですけれども、市原で活動してらっしゃる方は奥さまが早く亡くなられて、その家を開放して地元で皆さんの集まる場所にしているとか、それから配食サービスをしてらっしゃる方、傾聴ボランティアをしてらっしゃる方、社会福祉教育に力を入れてらっしゃる方、それから、1人、姫路のほうからいらした行政マンがいらしたんですけれども、その方も、後からお話ししますけれども皆さんの意見を聞いて深くうなずくところもあるというような感じでした。それから、自立支援ネットワークというものをご自分で立ち上げて高齢者のために活動を支援している、例えばパソコンによって、そういう活動の幅を広げるような活動を行政と組んでやってらっしゃるというようなこともお話を伺いました。 そして共通して感じることは、ボランティアは今、非常に、みんな一生懸命やっているけれども高齢化していると。後継者がなかなか育ってこない。付いてこないということ。それから行政とどのように連携していく、共同していったらいいかというようなことも大きな課題として挙がりました。
それから、さきほどのボランティアでは女性の方は特に配食サービスに力を入れてらっしゃる、そういう方もいらっしゃいました。女性は主に家事援助の力を活用して、そういう地域の中で力を発揮したらいいのではないか、男性はそういう送迎サービスをしたらいいのではないかというような、そういう課題も出てきたんですけれども、最終的に話し合ったのは、男性の社会参加をどうするかということなんですね。それで、なかなかいい考えは浮かばないんですが、お一人の方が「行政を動かすには、そういう男性参加も含めて、文書によって議会なり行政なりに要請を出す」と、「そして、それをフォローしていく、しつこく追求していくと、そういうことで行政も動くのではないか」というような一つヒントをいただきました。
まとまりませんが、以上です。
【グループ3】 うちは9名のうち8名が社会活動を盛んにしている、成年後見人、ライフデザインプランナー、知的障害者の補助、『植木鉢の会』など、それから民生委員を10年やっていたとか、ユネスコ活動、いろいろあります。
その中でみんなで課題を出し合いました。二つ出ました。まとめました。一つは資金不足、高齢化をしている内向きに活動がなってきてるっていうのが大きな課題。もう一つは、高齢者特有のフレイルが問題になりました。
一つ目の課題について、みんながああでもないこうでもないと提案を出しました。「行政の助成金をもらうのも一つじゃないか」、「だけども、それだけでは足りない」と、「もっと根本的に考え方を変えていく、いわゆる私たち高齢者が自己満足に活動するのではなくて、次の代につなげていく、社会を変えてく気概を、誰もが生きがいを持ち活躍する地域へ私たち自身が変えていく」と。ただし、今言った資金が足りないというところでは、いわゆる国も政策として、もっと補助をする、民活の政策を深めていく。ぜひ、内閣府さんももっと広い視点からそういう国をつくり上げていくための高齢者の動きっていうふうな捉え方をしていただきますと、そういう民活に対しても意識を変えていただけるのではないかなと思います。
そうして、「内向きになってる」っていう話も出ましたが、いろんな活動してるのをよく調べてみると、今、SDGsを国連で決めて、各国、我が国も政府を挙げて2030年までのいろんな課題を整理し直してるというところがあります。振り返ってみれば、私たちの社会活動は全部どこかに引っ掛かっている、そして底辺で必ずお互いに問題提起がつながってるっていうところがありますので、そういうSDGsの組み直しによって、もう一回、私たちの活動を見直す、国も見直していただくというふうな双方の努力が必要ではないかということです。
それから、もう一つ出された課題は、「高齢化してる私たちの年齢の体力もいろいろ厳しくなってきて、フレイル状態になっている」という指摘がありました。確かにそれは現実問題として、内向き、1人暮らし、孤独死が増えるとか、いろいろな現実の厳しさが高齢者であるがゆえに出てきているというのは皆さん活動中に感じていらっしゃる。そこをどうするかということなんですけれども、健康寿命と平均寿命の差を縮めるためにも、私たちの努力ももちろんですけれども国の施策としての生きがいへの創出に対する援助もぜひしていただければと思います。
補助はありますか。結局、今、活動しているメンバーはどうしても年金生活っていう方が、パーセントが多いので、もう少しそこの部分の、豊かな心になれるように、豊かな財力も付けていく。受けているサービスを受けている人たち側も、提出する側も、それからサービスを受ける側も、お互いに貧乏ばあさん同士でやっているとなかなか前向きに広がらないというところ、国の根幹として、人数はこれだけ高齢者が増えているということは、国としても見直していただくということをぜひ提案したいと思います。以上です。
【グループ4】 小田原から参りました『社会福祉法人小田原福祉会』のアズマと申します。こちらのグループは『小田原福祉会』のメンバーと『高齢社会をよくする女性の会』の最高幹部の方がいらして、非常に濃密なよもやま話が繰り広げられました。明年、小田原で『高齢社会をよくする女性の会』の全国大会が行われることになっておりまして、詳しいことはまだ決まっていないんですけれども、これからしっかりと詰めていきたいと思います。
小田原のほうでは、私どもの法人でようやく外国人の介護をしてくれる人材を受け入れるっていうのが去年の11月からスタートいたしまして、インドネシアから6名の男女が来てくれました。本当に、実際の施設のご利用者ですけれども、しっかりと受け入れてくれ、その外国の方をこちらが心配する以上に受け入れてくれたりとか、そういうのが、今は施設の中でしかないですけれども、いずれ在宅のほうにもそういうふうな形で外国のかたがたがわれわれの介護のお手伝いをしてくれる時代になっていくのではないかなというところがありまして、樋口先生のほうから、「そのときに、ありがとうという言葉を、その方の国の言葉で言えるようにしなくちゃいけないな」などのお話もありまして、さすがだなというふうに思いました。
そのような形で、本当に、そういう社会貢献をしているメンバーが今はなかなか若手のほうにシフトしていかないという状況もありますけれども、明年に向けての『高齢社会をよくする』全国大会の取り組みの中で、どういうふうに次の世代のメンバーに、いかに継続していけるのかなというところを考えながら取り組んでまいりたいと思いますのでよろしくお願いします。以上でございます。
【グループ5】 私、横浜市の市役所のほうから来ましたイケダと申します。私のグループは自己紹介のほうで終わってしまった感があるんですけれども、男性の方も何名か私も含め、いらっしゃいまして、今、地域のほうで囲碁を通して、また、世代交流であったりとか、孤独の対策っていうのをされていたりですとか、あとは最近、定年退職をされたという方で中央区から来られているというところなんですが、区のほうで無料で『区民カレッジ』、退職後の生活というところでどういうふうな生き方をしていくかとか、退職後の生き方教室とかというのを無料で参加できるという所がありまして、男性の社会参加であったり、男性に限らずですけれども定年した後にどういうふうに社会参加につなげていくかというところが大きな課題で、教室に参加されている中でもかなり元気な方がたくさんいらっしゃるというところで健康寿命を延ばしていくというところで社会参加も重要なところの一つではないかというような意見が出ていました。
あと、青森さんのお客さまで伊豆からいらしていただいた方もいらっしゃいますが、その所は、だいぶ村自体が過疎化が進んでいるという所でしたけれども、村にいる高齢者の方もみんな働く所があるというか、畑仕事をされていたりですとか、散歩をされたりグラウンドゴルフをされたりというところで、常に日々何かすることがあるというところで社会参加につながっているというところが大きな発見というか気付きを得られました。
やはり認知症の方もいらっしゃらないというところで、人とつながるとか、社会参加をするとか、働いているというところも一つ大きなポイントなのかなというふうに私は感じたところです。以上になります。
【グループ6】 私の所は自己紹介は全くしませんで、それぞれ、きょうの3人の方のお話を伺った中でどんな感想を持ちましたかということでお話をさせていただきました。中に、学生さんに教える立場の方が2人いらっしゃいまして、「今日のこういうフォーラムは、若い人たちにぜひ参加をしてほしい」というお願いが何人かありました。
実は私も男女共同参画という活動を通して、これも絶対に当たり前の社会なので若い方たちにぜひいろいろな事業に参加してほしいという気持ちがあるのですが、なかなか若い人たちの参加がありません。「これはどういうことなのか」ということもお話をさせていただいたのですが、そんなわけで、「なかなかこういう機会に、ぜひ若い人たちに参加をしていただきたいけれども、それがなかなかできませんね」というお話に終わりました。
それから、皆さん、「健康寿命を延ばしましょう」というお話がだいぶ出てまいりました中で、きょうの清家先生のお話を通して、先ほど青森さんのお話のように皆さんが出資をして、少しだけ稼いで、それが生きがいになったら、そして「それが社会貢献になったらもっといいよね」、「こんな活動、これからも私たちは続けていきたいよね」っていうようなお話になりました。
それぞれ、皆さんが熱く、きょうの3人の方の感想を申し上げましたけれども、私は記録を取っておりませんで、司会をさせていただきましたので、この辺で恐縮ですが終わらせていただきます。
【沖藤】 どうもありがとうございました。これで6グループ全部、発表が終わりましたが、追加でしゃべりたいというようなそういうグループの方いらっしゃいますか。はい、1人います。どうぞ。短めにお願いしますね。
【参加者】 このグループでは個別に話したので、まとめるという形ではないんですけど、私が触れたことでちょっと言い足りないことがありますので申し上げます。地域包括ケアという制度が、今いろいろ論議されていますけれども、私、今、提案してるのは、家庭の中でダブルケアという形で子育てと親の介護、それを両方抱えて苦労されている家族がいらっしゃる、そういう所で囲碁を普及したらどうかと。
新聞でご存じのように、10歳の女の子が今年4月にプロになるという。3歳の頃からやろうと思えばできるんですが。それからもう一つ、101歳のおばあさんが100歳のお祝いのときにプロの棋士と碁を打っている記事が、実はここにも持っているんですが、あるんです。その方が碁を始めたのが93歳で、7年間で初段になったと。碁は言葉が通じなくても世界中の人がやるということで、皆さんそういう意味で、これから福祉の問題あるいは教育の問題に関わっているときにちょっと頭の中にかすめていただけたらよろしいかと思います。 もう一つ、最近出た本の中で、『囲碁文化と学校教育』という本に出ていますが、囲碁は娯楽以上に教養である。囲碁を学校教育に取り入れようと長年尽力してきた著者が囲碁文化の発祥から考察し、その教育的側面とアジア友好の可能性を追求した、そういう一言があります。
それからもう一つ。これは20年前に出た本ですが、『囲碁はボケ予防の妙手』。囲碁を打ってボケを防ごう、治そう、『二万一千人以上の痴呆患者を治療し、ボケ治療で世界の最先端をいく金子先生の“ハツラツ人生のススメ”』。こういうこともございますので、これからちょっと新聞を見るなりテレビを見るなりしながら囲碁に関心を持っていただければありがたいと思います。
これは、私、個人的に趣味の問題で言っているのではなく、教育とか福祉の中で論議されてることなのでちょっと紹介したまでです。よろしくお願いします。
【沖藤】 ありがとうございました。脳トレのお薦めでした。
それではこれで終了させていただきます。15分の休憩の後に、この会場で全体会がございます。また皆さまどうぞお集りくださいますようにお願いいたします。