交通事故被害者の支援 第3章 交通事故が被害者に与える精神的影響
交通事故ではしばしば身体的な受傷が発生し、そのためにさまざまな後遺症が発生する。頚部の過進展によるむち打ち症は比較的よくみられるものであるが、なかなか治りにくく、被害者は長期にしびれやめまい、痛みなど不愉快な症状に苦しめられることになる。
交通事故によって脳に高度の障害を負った被害者では、被害者のみならず、その家族に多大な精神的ストレスが生ずるが、実はこの分野についてはほとんど研究がなされておらず、実態がよく分からないのが現状である。ここでは、主に脳に重度の外傷を負った被害者の家族の問題を取りあげる。
脳外傷では、その部位や重症度に応じてさまざまな症状が出現する。その障害された部位の身体機能の麻痺、失調、知覚の異常、精神機能、認知機能の障害、意識障害や場合によっては生命の危機を伴う。身体機能の障害と異なるのは、脳機能障害の場合、被害者本人が病状について理解することが困難なことがあり、被害を自分の問題として対処できず、家族がそれに代わって対処せざるを得ないことである。
また、遷延性意識障害をはじめとする意識障害や高次脳機能の障害を負った場合には、家族に介護という問題が生ずることになる。特に、医療の高度化に伴い、このような脳機能の障害を抱える患者は増大することが予測される。
以下に遷延性意識障害と高次脳機能障害の特徴についてまとめた。
1) 遷延性意識障害(一般的に植物状態といわれる)
メルクマニュアル第17版によれば、「大脳半球の高度の損傷または機能不全のために、自覚精神活動の能力が欠如しているが、保全されている状態。正常の睡眠―覚醒サイクル、自立反射や運動反射をつかさどる間脳や脳幹が十分に保全されている状態」とある。
分かりやすくいうと、生命維持に必要な脳機能がかろうじて残っているが、意識をはじめとする高度脳機能が障害されている状態である。意識がなく自発運動もないため、栄養、衛生、身体機能の維持などすべてにわたって介護を要する状態である。
症状が固定すると、自宅での療養が求められることが多いが、家族への負担が大きい。痰の喀出が困難なため、しばしば気管にカニューレが挿入されるが(痰が出ないと窒息の恐れがある)。この痰の吸引は、看護士などの有資格者以外は家族しか行えないため、ヘルパーなどに任せきりにすることができず、絶えず家族が気をつけなくてはならないことや、自宅療養に十分な補助が受けられるわけではないことなどのさまざまな問題が存在する。
2) 高次脳機能障害
外傷性脳損傷、脳血管障害などによって脳に損傷を受けた結果、後遺症として生じた記憶障害や注意障害、社会的行動障害などの認知障害などを指すものである。具体的な症状としては、
などである。
これらの症状によって、人とコミュニケーションをとることが難しく、日常生活や社会生活を行うことが困難になるために、今まで持っていた社会機能――仕事、学業――を行うことができないばかりか介助を必要とするようになる。
急性期では、生命の安全のための治療が中心で長期の入院を要する。慢性期には、リハビリテーションによって身体、脳の機能の維持、回復を行うことが中心となる。完全な回復を望むことは難しく、生涯にわたる支援を要する。現在、厚生労働省では「高次脳機能障害支援モデル事業」への取り組みをはじめたばかりで、現在の支援は不十分なものである。
このような脳の重度後遺障害を抱えた被害者の家族の自助グループがいくつか存在するが、その一つであるNPO法人「交通事故後遺障害者家族の会」の代表・北原浩一さんの手記を以下に掲載する。
家族の精神的な辛さや、また実際にさまざまな負担が生じていることが読み取れる。
NPO法人「交通事故後遺障害者家族の会」
代表 北原浩一 記
(置かれた立場)
交通事故で肉親が重度の頭部外傷を負うと、家族は命を助けることに夢中になり、加害者の刑事責任を追及する余裕はないのが実状です。命が助かっても半年から3年くらいの間に遷延性意識障害者(植物状態)とか、高次脳機能障害者と診断され、手間と費用のかかる介護人生になります。
被害者は脳障害のため事故の説明能力を失ってしまい、警察の捜査は加害者の言い分だけの不公平なものとなり、後日の民事訴訟に際し正当な解決が困難です。
(介護の苦しみ)
植物状態の被害者は言葉が話せず、喉にカニューレという呼吸用の孔が開けられ、約2時間ごとに痰の吸引を必要とし、床ずれ防止のため頻繁な体位変更が必要で、おむつの交換など手間がかかり、感染症予防の気配りなど近親介護者は安心して眠ることもできない介護人生を余儀なくされます。
高次脳機能障害になった被害者は、損傷した脳の部分により多様な障害の表れ方をします。言葉が話せ、動けるなど一見、健常者に見えても介護者は監視に気が抜けないのです。
外傷性てんかん発作は、時と場所を選ばず生じ、転倒したり物を落としたりする。平衡感覚が失われ、酩酊状態で歩きいつ転倒するか油断ができない。整備されていない道を歩く場合に、理由なく端のでこぼこで不安定な部分を歩く。視力が低下し、または視野が狭くなり、安全に歩くことができない。失語症になり、意志疎通が不可能である。ろれつが回らないため、意志疎通ができない。記憶力障害で5分後には話したことを忘れ、対人関係を維持できない。車椅子を動かせるけれども、物にぶつけるなどして安全に動かせない。目にした電気スイッチ類を理由なく衝動的に押してしまうとか理由なくガス点火したりするとか、幼児のように刃物で自分の身を傷つける。常動運動といって手や足のパタパタ運動が止まらなくなる。頻尿になり不衛生になる。嗅覚が失われ、ガス漏れが分からなくなる。味覚がなくなり、食べ物の異常が分からなくなる。羞恥心を失い、他人の前で陰部を出して掻く。半身麻痺のため、足を引き摺って歩き痛めるとか、麻痺硬直した手を無意識に他人の顔に打当ててしまう。同じ言葉を繰り返して側にいる他人をいらいらさせる。訪問販売の口車に乗せられ何でも契約し、予想外の高額支払い要求を受けた。情緒不安定でリハビリ施設入居中に、同室の患者に暴力を振るって退所させられた。20歳代の若者が理由なく怒り出し、両親を腕ずくで真冬の戸外に追い出し鍵をかけた、などなど。
(介護者のストレスと不安)
私たちは記憶力があり、失敗を繰り返さなくなり、注意を受けたことは繰り返さなくなると思い込んでいます。しかし、脳障害のある息子が、トイレに間に合わず漏らしてしまったり、不安定な姿勢をして転倒したり、トイレの戸を手加減ができず激しく開け閉めを繰り返すとか、次の動作に移れないで止まっていたりするのを繰り返している。また、常動運動で物を叩き続けたりすると、親は本能的に言葉で注意を促してしまいます。
障害のため「聞き分けはできない」のだと頭では分かっていても、身体は分かっていないために、親はイライラが嵩(こう)じてその息子を暴力で叩いたり、蹴飛ばすなどの悲喜劇が日常的に起きてしまうのです。頭では、障害者なのだから暖かく優しい心で接すべきだと思うのに、親も忍耐できずキレテしまうのです。次の瞬間には親も自己嫌悪になるとか、介護について自信を失うとか、精神状態が不安定になります。交通事故という加害者の暴力を受けた後、10年以上経っても介護する親から暴力を受け続けるという現実に、親は身動きができないでいます。
青春を失い、他人の介助なくしては生きていけない息子は親が亡くなった後、人間らしい人生を送ることができるか不安が残ります。親が多少の財産を残しても、悪い福祉関係者にだまし取られたという新聞報道が時々あり不安は増幅します。
(自助努力)
頭部外傷被害者の事件解決支援のため、2001年に「交通事故後遺障害者家族の会」を設立し、2003年には東京都よりNPO法人認証を得ました。全会員が被害者家族により構成され、経験を活かして自助努力で「被害者の立場から」正当な事件解決の支援をしている日本で唯一の会です。当初からホームペ−ジを開設し、現会員は北海道から鹿児島まで在籍していてニ−ズの高さを示しています。
このような高次脳機能障害を抱えた家族の問題は、その原因に関わらず共通しているものの、特に交通事故や犯罪など人為的なものが原因である場合は、加害者の存在や賠償の問題が生ずるとともに、それ以前は全く健康であった家族が人為的な出来事により、このような状態に至らされたという怒りや憤りが家族に存在するために、精神的ストレスはより大きくなることが考えられる。
(1) 介護の問題
高次脳機能障害者を介護する家族では、身体的な負担もさることながら、精神的な負担が非常に大きいことがいわれている。
特に、障害に起因する本人の問題行動をなかなか受け止められず、それに振り回されて疲れてしまうということがある。さらに興奮や攻撃性の問題、意欲がなく無為に見えること、徘徊すること、障害を認識できていないことや何度注意しても学習できないことなどは、介護する側をやりきれなくさせ、疲れさせる問題である。
また、介護によって行動が制限されること(外出できない、社会参加できない、プライバシーが保てない)、介護に時間をとられること、経済的な不安、将来の不安(本人がどうなるのか、親がいつまでも面倒をみれない)などが、大きな要因とされている。
また、交通事故など突然の出来事によって本人がこのような障害を負うと、それ以前の本人の生き生きとしていた姿とのギャップが大きく、現在の姿を受け入れることは極めて困難である。ある家族の、「息子は生きてはいますが、過去の息子とは別人です。過去の息子は私にとって殺されたと同じです。」という発言にみられるように、そこには深い喪失感が存在している。
介護によって精神的疲労がたまると、家族の精神健康が障害され、うつ病に至る危険性がある。
(2) 事故の処理が後回しになることの問題
このような障害を負うような事例では、事故の直後は生命の危機が考えられるような状態が多く、家族は病院に詰めっぱなしで、ひたすら本人の安否を気づかい、回復を祈る毎日となる。
その結果、賠償を求めたり、裁判を起こすなどの余裕がない。一方的に、司法関係者、保険会社、加害者側の提供するものを受け入れるだけになってしまうこともある。情報も不足しているため、後からもっとできたのではという後悔を感じる場合がある。
このように事故直後から事故について追求し、被害者に代わって賠償を求めることが物理的に困難であることや、またその後も介護しながらでは十分に行えないというストレスが存在する。
(3) 支援体制の乏しさ
遷延性意識障害や、高次脳機能障害は医療の高度化に伴って出現してきた問題であるため、医療や福祉での支援がまだ不十分である。在宅での介護になった場合の家族を支援する体制や回復のためのリハビリテーションの開発、介護にかかる費用の補助などについては、家族会などの活動によって学会や国、地方公共団体が取り組みをはじめようとしている段階であるため、現在は個々の家族の負担が極めて大きいものとなっている。
[本章の参考図書]
『DSM-IV 精神疾患の診断・統計マニュアル』高橋三郎ら訳、医学書院、1996
『心的トラウマの理解とケア』厚生労働省 精神・神経疾患研究委託費外傷ストレス関連障害の病態と治療ガイドラインに関する研究班 主任研究者 金吉晴 編集、じほう、2001
『臨床精神医学講座S6 外傷後ストレス障害(PTSD)』中根充文・飛鳥井望 責任編集、中山書店、2000