空気震わせる沖縄の夏の響き伝統芸能エイサーに紡がれてきたもの

夕空に響き渡る空気を揺さぶるような太鼓の音、勇壮さをまとった躍動感ある踊りに、三線の旋律、そして場の空間を支配するような熱気。

沖縄の伝統芸能の1つ「エイサー」は、地域行事の1つとして受け継がれ、沖縄県民にも生活の一部として親しまれてきました。現在では旧盆の時期に家々を巡るという伝統的な部分を残しながらも、地域の祭りや披露宴、そして小中学校の運動会での出し物といった催しの中で季節を問わず披露され、観客を楽しませるエンターテインメント的な意味での広がりも見せています。

そんな風に沖縄県内外、そして今や世界でも踊られているエイサーですが、その起源や歴史、そして地域ごとでのバリエーションの違いなど、意外に知られていないこともあります。そこで、これまでのエイサーの物語をたどりながら、その魅力や伝統芸能の枠に収まらない広がりに目を向けてみましょう。


実は起源は分かっていない!? ~起源と歴史~

エイサーという言葉の起源については諸説ありますが、実は現在まできちんとしたことは分かっていません。 簡易的な紹介や説明では、琉球王朝時代に祭祀で用いられていた言葉を集めた歌集『おもろそうし』の巻十四「いろいろのゑさおもろ」の「ゑさ」の部分に由来があるというものを目にすることもあります。

しかし、この説については確実な証拠が積み重ねられた検証はされておらず、関連性は薄いと考えられています。他にも、踊りの際に発される「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー」という囃子に由来があるという説もありますが、これについてもきちんと立証されているわけではありません。

ただ、エイサーが「盆の芸能」であるということは、起源をたどるにあたって重要なポイントになります。このヒントをもとに、古琉球までさかのぼって歴史をみてみます。

時は1400年代後半。朝鮮から琉球に漂着した人々の報告の中に、当時の盆(中元)の時期に「仮面を着用して笛や太鼓で囃しながら王宮に向かう現地の人たち」の様子についての言及があります。このように古くからあった「門付け」(人家や店を訪れて金品を受け取って芸を披露して歩くこと)や「精霊祭」といった習俗に、浄土僧が布教のために歌に乗せて広めた教義が結合して、エイサーの原形となったという説もあります。

太鼓や鉦を打ち鳴らしながら拍子をとって「南無阿弥陀仏」と唱えて踊る「念仏踊り」または「踊り念仏」の影響もよく指摘されることの1つです。この踊りを始めたのは空也や一遍といった僧侶で、日本史の教科書で1度は名前を見かけているでしょう。念仏踊りそのものは今現在あまり残っていませんが、多くの人にとって馴染み深い「盆踊り」に大きな影響を与えました。

話を琉球に戻すと、17世紀の史料の中に「似せ念仏」という記述が見つかっていて、これが「念仏踊り」「踊り念仏」の意味で使われている可能性が高いとされています。この似せ念仏では「歌三線の演奏に、太鼓や鉦を鳴らして覆面をした集団が地域の家々を巡っていた」そうです。

念仏踊り・踊り念仏で歌われる歌は、近代以降から流行りの民謡も取り入れるようになり、さらに踊りの振りも変化していきました。

そして、現在の私たちがエイサーと聞いた時にイメージする「これぞエイサー!」という形が出来上がる契機となったのが、1956年にコザ市(現沖縄市)の誕生を機に始まった「エイサーコンクール」です。現在では「沖縄全島エイサーまつり」(以下、全島エイサー)と名称を変えていて、2022年で第67回を迎えました(注 新型コロナウイルス感染拡大防止のため開催延期)。

太鼓の人数を増やし、衣装を派手に“映え”させ、さらに歌謡曲(ポップス)に近い民謡も導入して、不特定多数の観衆を「魅せる」ための様々な工夫とアップデートがなされたのがこの時期でした。このイベント以降、エイサーは地域の青年会活動の核としての役割を担うようになり、もともとはエイサーがなかった地域でも踊られるようになっていきます。

その後、1980年代には県内初の創作エイサー団体(後述する「琉球國祭り太鼓」)の登場によって、全国そして海外にエイサーが広がるきっかけが生まれました。90年代以降には、沖縄ブームの中で観光イベントなどでも披露される機会が増えて、伝統的な要素を残しつつエンターテインメント的な要素も兼ね備えた沖縄の芸能として代表的なものとなったのです。

先祖の霊を送り出すための踊り ~地域の行事として~

沖縄では旧暦の7月が先祖のための行事を執り行う月で、7日の七夕に墓参りをして、盆を迎えます。13日の「ウンケー(お迎え)」で先祖の霊を迎えて、親戚で集まってともにご馳走を食べながら霊にも食事を供え、14日は「ナカビ(中日)」を経て最終日となる15日の「ウークイ(お送り)」で霊を送り出すためにエイサーを踊りながら地域の各家々を巡ります。これを「道ジュネー」と言います。

「エイサーのまち」宣言をしている沖縄市では、旧盆期間中になると市内各地の青年会がコンビニ・スーパー前の駐車場や、住宅地の小路などいたる所で演舞を披露します。建物がひしめく街中で鳴り響く太鼓の音や、間近で見る踊りは文字通りド迫力で、1度味わうと忘れることが出来ません。この道ジュネーを地元の人たちとともに堪能すれば、沖縄の夏の風情を存分に味わえたと言ってもいいでしょう。エイサーは祖霊を無事に送り出すための踊りなので、基本的に各家でウークイを済ませた後に夜(午後10時ごろ)から始めて、かつては徹夜で踊り通しました。しかし、現在では初日のウンケーから踊ることもありますし、ナカビから踊り始めることもあり、地域や集落によってそれぞれのバリエーションが出ています。

また、ウークイの夜は道ジュネーが最も盛り上がるタイミングで、地域の決まったポイントでは青年会同士が踊りや太鼓の音の大きさなどを競う「ガーエー(闘い)」が行われます。これは言わば“エイサーのダンスバトル”です。一通り地域を回り、日付が変わる頃の深夜に行われるにも関わらず、1,000人を超える観衆が集まる程の人気っぷりです。沖縄旅行でこのイベントを見届ければ、かなりの沖縄通と言ってもいいでしょう。

沖縄市で毎年開催されている全島エイサーは旧盆明けの最初の週末に行われており、沖縄を代表する一大イベントです。沖縄市の青年会を中心に、県内各地から選抜された青年会や団体、県外の姉妹都市などからもゲスト出演団体が招かれ、様々なエイサーを一挙に楽しむことができます。例年3日間開催され、初日には国道330号線コザ・ゲート通りでの道ジュネーで街中に太鼓を響かせる。中日には「沖縄市青年まつり」が行われ、「本祭」の最終日にコザ運動公園のグラウンドに全島の青年会が集結してエイサーを披露します。

全島エイサーには観光客も多く訪れますが、もちろん地域住民・県民にも不動の人気があって、開催期間は沖縄市全体が活気に満ちた雰囲気になります。全島エイサーや道ジュネーで演舞する若い青年会の面々を、憧れの眼差しで見守る子どもたちがギャラリーにたくさんいる光景も珍しくありません。スマホで写真や動画を撮影して「めちゃくちゃカッコ良い!」と、ストレートな感想を添えてSNSにアップしています。県民に愛される芸能としてエイサーが根付いている1つの証です。

太鼓が無いエイサーもあるんです ~踊りの分類と衣装~

エイサーと言えば、ほとんどの人が太鼓エイサーを思い浮かべるだろうと思います。実際に現在は太鼓踊りが圧倒的に多いのですが、実はいくつかのバリエーションがあります。例えば、名護よりも北の地域では太鼓を持たずに踊る「手踊り」の形のエイサーが残っている地域も多く、中には三線も使用しないというスタイルもあったりします。

エイサーの基本形態は数人~数十人で三線をかき鳴らして唄う「地方(じかた)」または「地謡(じうてー)」衆と、多数の踊り手衆で構成されています。そして踊りのタイプは主に4つに分けることができます。 先ずは最もポピュラーな男性による太鼓踊り。既に触れたようにエイサーをイメージする時に多くの人が浮かべる形で、主に沖縄本島中部の各市町村で行われています。全島エイサー祭りをきっかけに戦後、県内全域で大幅に広がりました。男性の三線と歌に合わせ、男性の踊り手衆が大太鼓や締太鼓を打ち鳴らして踊ります。女性、または男女ペアの手踊り衆が後に続くスタイルは、戦後になって特に増えたようです。

嘉手納町の千原では、現在でも女性が参加しないケースもありますが、1995年ごろからは各地で女性が太鼓衆に加わることも増えました。

2つ目は女性だけの手踊りで、沖縄本島北部西岸(国頭、大宜味)のみで行われています。今でも行事で踊っている地域は少なくなっています。 3つ目は男女対等の手踊りで、男性が弾く三線と歌に合わせて、男女混交の踊り手衆が共通の動きで踊る形です。これは主に本部、今帰仁、名護などの本部半島周辺で踊られています。

最後は男性のパーランクー踊りです。「パーランクー」は片張りで小ぶりの手持ち太鼓のことを指します。男性の三線歌い弾きに合わせて、男性の踊り手衆がパーランクーを打ちながら踊ります。これも男女ペアの手踊りが後に続いて、踊りの動きは太鼓衆とは違った控えめの振り付けになっていることが多いようです。この形のエイサーが伝わっているほとんどの地域では、女性たちだけで踊る「ウスデーク(臼太鼓)」があったため、エイサーを男性だけが担ったとされています。沖縄本島中部のうち、主にうるま市の与勝半島で踊られています。

そんなパフォーマンスを彩るエイサーの衣装は、戦前の時期までは日常着よりも少しだけ良い晴れ着といった程度の衣装でした。しかし、全島エイサーコンクールをきっかけに、審査員に向けて“見せる芸能”として変化を遂げる中で、衣装はどんどん派手になりました。

現在、代表的な男性の装束として定着しているスタイルは、白シャツに白ズボン、そして白いズックを着用し、頭に紫の「サージ」と呼ばれる布(紫色であることが多い)を巻いて背後に垂らします。そして上半身にはチョッキのような打ち掛けを羽織り、帯を締める。頭巾や打ち掛けは青年会や地域によって、色使いの違いや派手なデザインの場合もあります。

女性は着流しにミンサー帯を締め、たすきに草履履き。頭は「ねえさん被り」が一般的となっています。古琉球以来、基本的には芸能に女性は参加していないことから、エイサーも元来女性は参加していなかったとされています。実際、今でも基本的に男性の後ろに付いて、手踊りや四つ竹を持って踊るという役割が多く、エイサーにおいて女性は中心的な立ち位置ではありませんでした。しかし、最近では女性も大太鼓を持って勇壮に舞うこともありますし、しなやかな手踊りもエイサー行列を華やかに彩る重要な役割を果たしており、欠かせない存在と言っていいでしょう。

世界に広めるための挑戦 ~創作エイサー団体「琉球國祭り太鼓」~

沖縄初の創作エイサー団体「琉球國祭り太鼓」(以下、祭り太鼓)は、エイサーを県内外そして世界に広める上で大きな役割を果たしています。 祭り太鼓は1982年に結成されて、今年で40周年を迎えます。団体を立ち上げた目取真武男さんは、若者たちを惹き付けるエイサーのポテンシャルにいち早く気付きました。既存の青年会や地域の枠を超えて、踊りに空手の型を取り入れたり、ポップス風のオリジナル楽曲を使用したり、棒術や獅子舞を組み込んだりして、エイサーで沖縄の芸能を総合的に表現するために祭り太鼓を結成したといいます。

祭り太鼓のエイサーの広がり方はとてもシンプルで、イベントなどで披露した演舞に魅了されて「自分も踊りたい!」という若者たちを支部長に任命して、県内各地に支部を作っていきました。県外でも、慰問公演などをきっかけに九州や関西などで次々と支部が設立。さらに、その輪は海外の沖縄にルーツがある日系の人たちにも広がり、現在は国内に51支部、海外7カ国にいる会員は約2,500人にのぼります。

「人種や性別、年齢を越えて世界中で若者が踊りたくなる魅力があって、目取真さんは『エイサーに勝てるものはない』と30年前から言ってましたね」と語るのは、祭り太鼓副会長の與那嶺昭さんです。88年に祭り太鼓の会員となって、95年からは海外での支部結成にも尽力している“古参メンバー”の1人。海外の人たち、特に南米の人たちの「エイサーへの“食いつき”がとても良かったんですよ」と言います。「ノリが良い気質が沖縄の人たちとも通ずるところがあって、エイサーとの相性は非常に良いと感じました」 また、エイサーを海外の人たちに指導する中で、彼らが文化や芸能を大切にする姿勢に逆に学んだこともありました。

「文化や芸能の社会的なステータスが日本や沖縄以上に高くて、エイサーという芸能を沖縄の人以上に大切にしているんじゃないかと思うこともありましたね。海外での指導を通して、改めて沖縄の文化を再発見することも多かったです」

同じく副会長の比嘉康章さんは「地域や年齢、そして性別を越えて、誰でも出来る沖縄芸能の形を模索しながら、たくさんの人に見せたい、広めたいという気持ちが大きいですね」と語ります。伝統的な芸能という側面があるので、パフォーマンスに現代的要素を取り入れて大胆なアレンジをすることで、地域の青年会から批判を受けることもありました。しかし、各地域のエイサーもこれまでの歴史の中で、色々な変化を遂げてきています。「続ければ歴史になるし、それをさらに続ければ伝統になると思っています。祭り太鼓が認められてきたな、と実感を持てたのはつい最近からですよ」(比嘉さん)。

與那嶺さんは「祭り太鼓に魅了されてエイサーを始めましたが、太鼓を叩けば叩くほど、踊れば踊るほど、地域のそれぞれの地元青年会のエイサーの味のある魅力も見えてくるんです。どっちが良いとか、優劣の話じゃないんですよね」と付け加えました。

祭り太鼓が嚆矢となり、創作エイサー団体はその後どんどん誕生することになりました。1995年から国際通りで毎年8月に行われている「1万人のエイサー踊り隊」は、エイサーに触れたことのない人たちが実際に演舞を体験することにも繋がり、青年会以外でエイサーを踊る団体が増えるきっかけの1つになったといいます。

「目取真さんの思いを現役のメンバーでつなげて、エイサーを世界に広めていくことをずっと続けていきたいですね」と比嘉さん。2020年以降は新型コロナウイルスの影響で、様々なイベントが中止になりパフォーマンスを披露する機会が激減してしまいました。それでも、zoomなどを使って県外・海外の人たちと交流もしながら、WEBサイトでも動画を配信して「どうやったらもっとたくさんの人たちに知ってもらえるか、挑戦し続けていますよ」(比嘉さん)。「結成当時からずっと常に挑戦でしたからね」と與那嶺さんも続けます。「なにか新しいことにチャレンジするっていうのが祭り太鼓ですから」と笑顔で話しました。

エンディング

本土復帰50年の節目ははまだまだコロナ禍真っ只中というタイミングではありましたが、旧盆の8月に沖縄市では3年ぶりの道ジュネーが行われました。太鼓と三線、そして若者たちの威勢の良い掛け声が街中に響き渡り、それを見守る人たちの表情には、長い間待ちわびていたエイサーを味わえる喜びの色が浮かんでいました。

伝統を守ると同時に、新しい要素も取り入れながら形を変え、今現在も人気を誇るエイサー。その魅力にほんの少しでも興味を持ったら、写真や動画を見るのもいいですが、やはり演舞を目の前で味わい、塊のような太鼓の音の振動を感じに行くことをお勧めします。

参考文献

  • 沖縄全島エイサーまつり実行委員会「エイサー360度 歴史と現在」,那覇出版社,1998年3月
  • 久万田晋・三島わかな 編「沖縄芸能のダイナミズム 創造・表象・越境」,七月社,2020年4月
  • 井谷泰彦「モーアシビからエイサーへ 沖縄における習俗としての社会教育」, ボーダーインク,2021年1月
  • 宜野湾市青年エイサー歴史調査会 編「増訂 宜野湾市のエイサー―継承の歴史」, 榕樹書林,2015年9月