台所支えた公設市場は沖縄の食文化を伝える商業空間へ

熱帯魚 を彷彿とさせる色鮮やかな鮮魚に、新鮮な豚肉や牛肉、鶏肉。昆布や鰹節も所狭しと並ぶ。食材の鮮度に負けず劣らず元気な店主たち。ここは那覇市の中心市街地にある「第一牧志公設市場」。沖縄が日本に復帰する前に建てられ、2022年現在、2度目の建て替え工事が進められています。かつて「沖縄県民の台所」と呼ばれた公設市場は県民の食をどう支え、新しく建てられる市場はどんな役割を果たしていくのでしょうか。市場の成り立ちを紐解きながら、一緒に見ていきましょう。

①起源と歴史

始まりは「闇市」

沖縄観光のスポットとしても有名な「第一牧志公設市場」は実は「闇市」からスタートしました。

時は沖縄戦直後の1945年にさかのぼります。激しい戦争が終わり、収容所にいた住民は少しずつ元の居住地に戻り始めます。しかし、那覇市は市域のほとんどが米軍から開放されていなかったため、市民が市内に入ることはできませんでした。

1945年10月、103人の陶工が陶器製造を目的とした先遣隊として、ようやく那覇市の壺屋町に入ることができました。那覇市民の入市第一号です。同じ月に瓦製造と住宅設営を担う設営隊136人が那覇市に入りました。その3ヶ月後、先遣隊、設営隊の家族が移住してきて、壺屋町に集落が形成されるようになりました。

そうやって、人口が増えていった結果、1947年には壺屋近くの開南から松尾という地域に抜ける通りで、露天商による闇市が開かれるようになりました。米軍からの配給物資のほか県外や香港、台湾からの密貿易品が並んだと言われています

では、行政機関である那覇市はこの闇市を厳しく取り締まったのでしょうか。実際には、厳しい取り締まりを実施することは難しかったようです。物資が不足した戦後復興の過程の中で、闇市の存在は、非合法ながらも、市民の日常生活を支える存在になっていました。

そこで、那覇市は①交通上の危険を誘発しないこと②島内生産品の販売を主体とすることなどを条件に付けて、1948年にガーブ川沿いの場所に市場を移転させました。今につながる牧志公設市場の誕生です。1950年には廃材を使った建物が建てられ、牧志公設市場の精肉部と生鮮部がスタートしました。

氾濫との戦い

建物の下での営業開始で、その後は順風満帆だったかというと、そうではありませんでした。市場のすぐ近くを流れる人口水路、ガーブ川は、その名前が「ガーブー」(沖縄の言葉で湿地)に由来しているだけあって、大雨のたびに氾濫し、あたりを泥だらけにしました。

1960年ごろ、牧志公設市場の「長嶺鮮魚」で叔母の手伝いを始めた長嶺次江さんは腰のあたりに手を当てて、こう振り返ります。「もう雨が降ったときには、水はこれぐらい浸かるし。大変でしたよ。大雨が降ったら、毎回、氾濫して」

浸水被害を抑えようと、那覇市は1962年ごろからガーブ川の大規模な改修工事を始め、1965年には暗渠にする工事を完了させました。

もう一つ、当時の市場には解決すべき課題がありました。衛生問題です。長嶺さんは市場で働き出した1960年代の状況を説明してくれました。

「市が少しずつ市場の床をタイルに整備していって。氷もない時代だから、そのタイルの上に魚を落として、そのまま売っていたんですよ。周辺の道路でも、おばさんたちがタライの上にタコやグルクン(沖縄県の県魚)を直接、置いて売っていた。『衛生(当局者)が回ってくるよ』というときには魚に何かをかぶせて、逃げるわけ。去ったことを確認して、戻ってきては売る。そんな時代でした。でも、衛生法で氷を入れないと魚を売ることができないということになり、市場も(衛生管理ができる)陳列棚をつくらないといけないということで、建て替えの話が出てきました」

ガーブ川の改修工事と並行し、公設市場の衛生環境改善に向けた改築の話が出ますが、移転をめぐって那覇市や事業者、土地所有者の間で意見が分かれました。移転先について市場事業者の合意が得られないまま、那覇市は1969年、現在のプレハブの仮市場が建つ場所に「第二牧志公設市場」を建設し、一部の市場事業者はそこで営業を始めました(2001年に閉鎖)。

この経緯から、元からあった「牧志公設市場」は「第一」を冠するように。移転をめぐる土地の問題に決着がつき、沖縄が日本に復帰した1972年、1950年当時と同じ場所に整備されたコンクリート造りの建物で、「第一牧志公設市場」は再スタートを切りました。

②今

「県民の台所」から徐々に

復帰前から1990年ごろまで、公設市場のメインのお客さんは沖縄県民でした。売り手と買い手が話し合って価格を決める「相対売り」が特徴で、お客さんがどこから来たのか、家族は何人かなどを尋ねながら、その日仕入れた食材の中から勧めていったといいます。遠くから買い物に訪れたお客さんなどには「シーブン」(おまけ)する文化もあり、現在まで続いています。お客さん側から「シーブンして」と求められることも。長嶺さんは懐かしそうに、当時の様子を振り返ります。

「復帰前はもう、みんな、方言でしゃべっていましたよ。(那覇市)安謝の人も、宜野湾の人も離島の人も、言葉を聞けば、どこから来たか、すぐに分かりました。(漁業が盛んな)糸満からおばさんたちがバスに乗って、その日に取れた魚をタライに載せて持ってきて、全部ここの市場に持ち込んでいましたよ。たくさん持ってきても、夕飯時までには全部売れていました」

「昔のうちなーんちゅ(沖縄の人)はあまり刺し身を食べなかったので、なまし(酢の物)やみそ和えが多かったですね。おばあちゃんたちもみんな元気で。1人では来ないで、3、4人で寄り添って来る。周辺の商店街で服や雑貨を買った後、市場に来て『今日の夕ご飯はぬーすが(何にしようか)』と、市場の人たちとコミュニケーションを取りながら、買い物していましたよ」

しかし、沖縄県内各地にスーパーができ、郊外に広い駐車場を備えた大型商業施設が建ち始めると、徐々に県民の足は遠のいてしまいました。1980年代には、観光客が那覇市を素通りして、沖縄本島中北部に行ってしまうという課題も抱えていました。そうした中で、官民一体で那覇市の振興を図る目的で取り組んだのが、公設市場の「観光資源化」でした。その一環で、1990年ごろ、市場1階の鮮魚店で買った活きのいい食材を、2階の飲食店で調理して食べてもらう「持ち上げ」が始まりました。30年たった現在も続く、公設市場の「売り」の一つです

2000年に九州・沖縄サミット首脳会合が沖縄で開催され、翌2001年に沖縄を舞台としたNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」が放送されると、市場の状況は一変しました。年間100件を超える取材が入り、多くの観光客が訪れるようになりました。

建物の中にひしめき合うように並ぶ各店舗。ガラスケースの中には極彩色の魚や、豚・牛の内臓。見慣れない光景に、国内観光客は魅了されました。その一方で、観光客向けに商売形態をシフトする店舗が増えたことに伴い、地元客の減少に拍車がかかりました。米国同時多発テロ事件が起きたときには、増加の一途だった観光客が途絶えてしまい、市場内は閑散としました。地元客離れを真剣に悩みながらも、「県民の台所」から「沖縄の観光名所」へと少しずつ、その姿を変えていった時代でした。

2010年代に入り、中国など海外観光客のビザ発給要件が緩和されるようになると、沖縄観光に「インバウンドの波」がやってきます。2010年度に年間28万人だった沖縄への海外観光客は、2018年度には年間300万人と10倍以上に膨れ上がりました。公設市場近くの観光スポット「国際通り」は名前通りの状況になり、各国の言葉が飛び交いました。

第一牧志公設市場もその波に乗りました。中国やネパール、ベトナムなど多様な国籍の従業員たちが、訪れる海外観光客に市場の魅力をアピールしました。沖縄県にとって遠い目標だった「入域観光客1000万人」を達成したタイミングで、公設市場は老朽化に伴う建て替えの時期を迎えてしまいます。1972年の建設から45年超が経過していました。

③現在

仮市場移転直後の「想定外」

2019年6月、第一牧志公設市場は老朽化に伴う建て替え工事のため、多くの県民に惜しまれながらも閉場しました。工事の間は約100メートル離れた場所で、プレハブの仮市場での営業です。国際通りからのメインのアクセスルート「市場本通り」から離れるため、客足が遠のく心配がありました。

建て替え工事が終わるまでは「我慢の時期」。市場店主の皆さんがその腹積もりで臨んだ矢先、移転前には想定もできなかった事態が起こります。新型コロナウイルス感染症の世界的な流行です。2020年4月、市場からも感染者が出て、臨時休業することに。公設市場で「山城こんぶ店」を営む粟国智光・第一牧志公設市場組合長は、今でもその日のことを忘れられないと言います。

「条例上、那覇市には市場に対して休業しなさいという権限がありませんでした。だから、組合側で自主休業の判断を下さないといけない。市場を閉めるということは、周辺の飲食店や中心商店街全体に影響が出てきます。このエリアの機能を停止させることになるんです。公設市場の70年の歴史の中でこんな形で臨時休業する事例はなかったので、判断を下すのは本当に恐ろしかったです。その日は夜、眠れませんでした」

約1カ月後に営業を再開した後も、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が発令され、市場周辺からは人の気配がなくなりました。粟国組合長は当時を振り返り、苦い顔を浮かべます。

「親族が集まるはずの正月、清明祭、旧盆に『集まらないでください』という呼び掛けが1年、2年と続きました。それまで市場で買っていた行事食の消費がなくなり、観光客もストップした。市場に来るお客さんがゼロの日もありました。仮市場で営業している時期は誘客が難しく大変だろうなと思っていたけど、コロナ禍で、『大変』どころか『存亡の危機』ですよ」

2022年に入り、経済活動は徐々に再開し、観光客も再び沖縄を訪れるようになってきました。那覇大綱挽や1万人のエイサー踊り隊などが3年ぶりに開催され、那覇市の中心市街地はかつての賑わいを急速に取り戻しつつあります。

市場の変わらぬ魅力とは

「存亡の危機」を乗り切り、第一牧志公設市場は2023年春から、建て替え工事後の新しい建物での営業を予定しています。ピカピカの新しい建物になってしまったら、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた市場の魅力が失われてしまうのではないか。県民もリピーターの観光客も、心のどこかでそんな心配を抱いているかもしれません。そんな心配を粟国組合長にぶつけてみました。

「ハコ(建物)も大事だけど、市場は人なんですよね。魅力ある人が集まっているから、市場に魅力を感じてもらえるんだと思います。正月前に普段よりたくさんのお客さんが来てくれるときに『頑張ってよ』『あんたのお店があるから、市場に来ているんだよ』と言ってもらえるんですよね。公設市場の特徴である『相対売り』は、商売人の顔が見えるということなんです」

「大型スーパーでほとんど取り扱いが無いような、沖縄の伝統料理に使う食材も、市場はそろえています。新しい市場に移っても『相対売り』を続けて、沖縄の食文化を伝える商業空間として、中心商店街と一緒に沖縄らしい魅力があるエリアでいられるよう、頑張っていきますよ」

エンディング

沖縄の日本復帰のタイミングで建てられた、第一牧志公設市場。復帰50年の節目のタイミングで生まれ変わろうとしています。時代とともに役割を少しずつ変えていき、次の50年では沖縄の食文化を伝える役割を果たしてくれそうです。新しい建物になっても、変わらない市場の魅力に触れられることを心待ちにしています。

参考文献

  • 那覇市企画部市史編集室編「激動の記録 那覇百年のあゆみ」, 那覇市企画部市史編集室,1980年3月
  • 那覇市市制100周年記念映像・記念誌制作委員会編「那覇100年の物語」, 那覇市,2021年3月
  • 特定非営利活動法人まちなか研究所わくわく「み~きゅるきゅる Vol.7 第一牧志公設市場」,2011年