なぜ沖縄は「豚食文化」なのか?歴史から紐解く沖縄と豚の物語

「豚は鳴き声以外、全て食べる」。沖縄の豚食文化についてよく言われる、象徴的なフレーズです。沖縄県民も観光客も大好きな「沖縄そば」では出汁に豚を使いますし、盛り付ける具材のソーキや三枚肉も豚肉。あるいは沖縄風角煮の「ラフテー」、豚足を煮付けた「てびち」、きくらげのようにコリコリとした食感の「ミミガー(耳皮)」、胃や小腸、大腸などの臓物を丁寧に処理して上品な味わいに仕上げた「なかみ汁」、そして加工品ではポークたまごおにぎりでもお馴染みの「ポークランチョンミート」もありますし、琉球王国時代の宮廷料理にも豚肉を使った料理が当然あります。

このように、挙げると切りが無いほどバリエーション豊かな沖縄の豚肉料理ですが、そもそもなぜ沖縄ではこんなにも豚肉が生活に欠かせないものになっているのでしょうか。とてもシンプルな問いですが、普段から豚肉に馴染みのある沖縄県民でも、実は意外と知らないことが多々あります。そこでこの記事では、『豚国・おきなわ あなたの知らない豚の世界』『復活のアグー 琉球に生きる島豚の歴史と文化』などの著作を出版し、豚肉事情も含めた沖縄の食文化に詳しい平川宗隆さんの言葉を交えながら、沖縄の豚食文化について紐解いていきたいと思います

①歴史

戦前までは贅沢品だった豚肉~琉球王朝時代から戦前~

豚は、15世紀前後に中国の福建省地域から沖縄に伝わったとされています。ただし、一般庶民の間でも食べられるようになったのは、そのもっと後の18世紀以降のことです。琉球王朝時代に豚肉が普及した1つのきっかけは、中国からの客人(冊封使)をもてなすためだったと言われています。

「琉球王国へ招かれた冊封使節団は400~500人もいて、半年~8ヶ月もの間滞在したといいます。豚肉好きの中国人を歓迎するためには、どうしても豚が必要でした。しかし、この頃の琉球王国内だけでは豚肉を賄うことができません。そもそも、養豚のための豚のエサどころか、一般庶民の食べ物もそんなに豊富にある時代ではありません。そんな中で、冊封使のために1日20頭あまりの豚が彼らの食事として消費されたんです。琉球王国の手持ちではとても足りないので、奄美や沖永良部などの近隣諸島から豚を買い集め、何とかもてなしていたんですよ」(平川さん)

こうした事情もあって、王府は18世紀に入ると冊封使をきちんと迎えられるように養豚をする畜業者の数を増やします。ここで重要なターニングポイントになったのが、サツマイモの存在でした。

「1605年に野國總管が中国から持ち帰り、後に儀間真常が広めたサツマイモは食料不足だった人々の命を救ったと同時に、豚の数を増やす上でも画期的なものだったんです。というのも、イモが庶民の主食として普及することで、皮や葉っぱ、ツルなどが豚のエサになるんです。これがとても大きかった。イモの出現で養豚が広く浸透することになって、一般庶民の食生活にも徐々に豚肉が並ぶようになったんですね」(平川さん)

これ以降、琉球処分の後の明治期に入ってからも沖縄は豚の飼育頭数全国一という活況を誇っていました。とはいうものの、実は日常的に豚肉を食べられるのは、一部の裕福な人たちに限られていました。養豚は普及しましたが、豚肉はまだ“高級品”という位置づけで、一般庶民は旧正月や旧盆の行事ごとの際に、年1~2回食べられるご馳走だったといいます。

その後大正時代を経て昭和に入って戦争の足音が近づくと、豚食文化どころかそもそも食べることもままならない状況になっていきます。

②エピソード

戦後の食糧難を救ったハワイからの豚~海を超えたウチナーンチュのつながり~

終戦を迎えた沖縄では、戦火によりあらゆる家畜がほとんどいなくなってしまいます。当然、養豚業も壊滅状態。上述した通り、戦前は全国一の飼育頭数で1938年(昭和13年)には14万頭に上っていましたが、戦後の1946年(昭和21年)にはその1割以下に激減したといいます。

戦後しばらくすると、米国民政府主導で養豚業が再スタートしますが、豚の数があまりにも少ない状況だったため、米国や本土から西洋種の豚を移入することになりました。ただ、それでも畜産頭数の安定化には程遠い状態。その窮状を知って立ち上がったのがハワイ在住のウチナーンチュたちでした。豚は食糧になるだけでなく、その糞尿は肥料となって畑に恵みをもたらし、作物が育つことにもつながる。こう考えたハワイのウチナーンチュたちは、故郷への強い思いを原動力にして動きはじめました。

「故郷の同胞の生活を心配したハワイのウチナーンチュたちは『布哇(ハワイ)連合沖縄救済会』を立ち上げて、厳しい状況にある沖縄への豚の輸送作戦を実施します。彼ら自身も日系人として差別されて貧しい生活だったのにも関わらず、故郷のウチナーンチュのために資金を集めて種豚500頭余りを買い求めて、1948年に沖縄に輸送しました。ただ、この輸送もなかなか大変で、この頃の海にはまだ機雷もありましたし、台風で1度引き返してもいるんですよ。そんな苦労しながら、5,000kmの船旅を経て、やっとたどり着いたのが現在のうるま市のホワイトビーチだったんです」(平川さん)

輸送船「オーウェン号」に乗り込んだ7人のハワイのウチナーンチュは文字通り“命懸け”の航海を経て、豚を送り届けるという責務を果たし「七勇士」と呼ばれています。届けられた豚は、引き取りを希望する養豚農家が非常に多かったため、抽選で配布されたといいます。その後、4年の月日が流れたころには10万頭に達して沖縄の養豚業を復活させました。

このエピソードは沖縄の養豚の歴史だけでなく、食糧難という庶民生活の窮状を救済し、戦後復興にも貢献したいという意味でも大きな意味を持つ出来事でした。今現在まで続く沖縄の豚食文化の礎になったと言っても過言ではないでしょう。この出来事をモチーフにして、七勇士の決死の航海と豚を受け取った沖縄県民の喜びと感動を描いたミュージカル『海から豚がやってきた!!』が、2003年にはうるま市で上演され、その後ハワイやロサンゼルス公演も行われました。

③現在

「アグー」って一体何?~琉球在来種消滅の危機と復活~

ここでちょっと豚の品種にも触れておきましょう。沖縄の豚肉について、よく見かけるワードの1つ「アグー」。豚料理を提供しているお店や、あるいはスーパーに並んでる調理用の生肉のパッケージでも目にすることがあると思います。「アグーだから美味しい」というイメージを何となく持っている人も多いかもしれませんが、ではこの「アグー」ってどんな豚なのか?と聞かれると、すんなり説明が出てくるかどうかはなかなか難しいところです。

端的に言うと、アグーは琉球在来豚のことです。黒い毛色で小型なのが特徴で、足が短く背中が大きくへこんでいるのが見た目の特徴。肉の味の特質すべき点は、脂肪分が多いにもかかわらず旨味成分のグルタミン酸の含有量が高く、脂そのものが美味しいということだといいます。平川さんは、アグーは「もともと脂をとるための豚でもあった」と指摘します。

ただし、アグーの肉質は良いものの、発育の遅さと小型だったことがネックでした。明治の末期から大正にかけて、本土から大きく早く育って、より多くの肉をとることができるバークシャー種を導入して改良を進めた結果、昭和初期ごろには純粋の琉球在来種の豚はほとんど見られなくなったといいます。こうして消滅しかけた品種を復活させようとする動きが1970年代ごろから出てきて、80年代に本格化します。その立役者について、平川さんは自身の取材をもとに以下のように語ります。

「在来家畜の保護に尽力していた陶芸家の名護宏明さんはアグーへの興味を強く持っていて、1970年代にはほとんど見かけなくなってしまった状況に危機感を覚えました。そこで、県内各地を東奔西走して、私財をなげうってアグーの特徴を持った島豚を買い集めて交配を重ねて改良を重ねました。これが、後の復活への動きにつながる“種”になりました。

次いで、アグーがいなくなってしまったら大変だ、ということで奮起した名護博物館の初代館長・島袋正敏さんという方が1981年に在来家畜の収集と展示を計画して、純粋に近いアグーを買い求めて約20頭を博物館で飼い始めたんです。ところが、周辺住民からのクレームや市政の交代があって計画が頓挫してしまったんですね。それで豚の引き取り手を探した結果、北部農林高校で教諭をしていた太田朝憲さんに出会うことになります。

太田さんは北部農林の広い農場で名護博物館から譲り受けた豚の飼育を始めました。農協や養豚農家、食肉関連業者などからは、経済的に不利なことも含めて評判が悪かったアグーですが、太田さんはその将来性を見込んで飼育管理や子豚の成長を事細かに記録し、研究を続けました。それが北部農林ブランドとして名を馳せている『チャグー』の基礎を築いたし、在来豚が現在まで保存されていることの大きな功績だと思います」

さらに平川さんは「この3人がいなければ、今のアグーはなかったでしょうね」と付け加えて、その偉業を強調しました。

豚食文化のこれから

琉球王朝時代の普及から、戦前、そして戦後にかけて様々な経緯を経て現在に続く沖縄の豚食文化。冒頭でも紹介した通り、多種多様な豚肉料理は、県民はもちろんのこと、県外から訪れる観光客も美味しく、楽しく味わっています。ただ、「沖縄の豚肉」「沖縄の食文化」という言葉の意味を考えた時に直面している課題もあります。

海外産で価格の安い豚肉が輸入されているため、沖縄県産豚肉を使いたくても、コストダウンのために海外産豚肉を使わざるを得ないお店や家庭も少なくはないということです。もちろん、沖縄県民は必ず沖縄県産の豚肉を食べないといけない、というわけではありません。しかし、沖縄そばの出汁もソーキも三枚肉にも、なかみ汁の具にも、ラフテーにも、沖縄県産の豚肉が使われていなかったら、少し寂しい気がします。

エンディング

これまで見てきたような経緯を踏まえると、先人たちが繋いできた沖縄の豚の歴史をこれからも紡いでいくためにも、沖縄で育てた豚を沖縄で美味しく食べ続けていくことはとても大切なことではないでしょうか。

「持続可能性」という言葉が日常的に言われるようになった今、これまでの沖縄の養豚や食文化の歩みに向き合い、先人たちがどのように持続可能な豚食文化を築き上げてきたのか、そんなことに考えを巡らせながら豚肉料理を食べることが、沖縄の食文化の“これから”を積み上げていくための一歩になるかもしれません。