今なお、輝きを放つ沖縄の伝統工芸

染織物、焼き物、漆器など、沖縄には琉球の時代から今に伝わる、独自の伝統工芸品が数多くあり「工芸の宝庫」とも言われています。一口に「沖縄県」と言っても東端の大東諸島から西端の与那国島まで東西約1000km、北端の伊平屋島から南端の波照間島まで約400kmの広大な海域に多数の島が存在しており、有人島だけでも49島あるほどです。その広さ故に、地域や島ごとにバリエーションある伝統工芸が根付き、地域の誇りともなってきました。

①起源や歴史

地域ごとに多彩な沖縄の工芸

染め織物だけでも、例えば琉球王国の本拠地でもあり芸術文化の中心地でもある都・首里(現在の那覇市首里地区)では、王族や貴族といった身分の高い人向けに格式高い織物が作られました。王家の妃や王女の夏衣「首里花倉織」は、経糸と緯糸を部分的に浮かせて模様に変化を付けた「花織」と、「絽織(ろおり)」を交互に組み合わせて作ったもので、王家だけに伝わったと言われています。

琉球全域で身分の上下を問わず愛用された「芭蕉布」は、同名の沖縄民謡曲があるほど親しまれてきた織物です。風通しが良く、沖縄の風土に合った織物で、庶民階級ではアタイと呼ばれる家庭菜園に植えた糸芭蕉で糸を作りました。糸芭蕉の幹の繊維で糸を紡いで織る芭蕉布は、1反を織るのに200本の芭蕉が必要といわれています。現在では人々の普段着としての役割は薄れていますが、特に沖縄本島北部の大宜味村喜如嘉が芭蕉布作りのメッカとしてその技術を今に残しています。

他にも沖縄には、久米島の「久米島紬」、本島中部の読谷村の「読谷山花織」、八重山地方の「八重山ミンサー」など、多くの織物文化があります。

シーサーはどこからやってきた?

全国的に馴染みのある沖縄の工芸品と言えば、シーサーが挙げられるのではないでしょうか。民家の屋根の上や軒先などで見かけることができる“守り神”は2体が対になって置かれている場合も多く、俗説では、口の開いたオスのシーサーは家に幸せを呼び込む役割が、口の閉じたメスのシーサーは幸せを逃がさない役割がそれぞれあると言われることがあります。

全身が作られたシーサーの他にも、顔だけを作って壁にかける「面シーサー」や、玉に前足を乗せて鎮座する「玉シーサー」など、さまざまな種類のシーサーがあります。近年では、カラフルに色が塗られたり、笑顔の絵付けがされていたりするかわいらしいシーサーも、お土産店などで目にすることができます。

その歴史的ルーツは壮大です。沖縄のシーサーの原型はエジプトのスフィンクスにあるとも言われており、シルクロードでの交易を通して東へ東へとその姿かたちを変えながら伝わっていきました。ギリシア神話に見られる、下半身はライオンで上半身は人間の「スピンクス」、インドの国章にも採用されている「アショーカの獅子柱頭」、シンガポールの観光スポットでもある「マーライオン」はその一例です。沖縄には1400年代に、現在の中国から獅子文化が伝わったとされています。

②現在

歴史ある“石のシーサー”を現在に

沖縄本島南部・八重瀬町の富盛地区にある「富盛のシーサー」をご存じでしょうか。高さ約1.4メートル、全長約1.75メートルで、沖縄県指定有形民俗文化財に指定されており、村落の入り口にある石獅子「村落獅子」の中では最も古い1689年に設置されたとされています。

古い時代のシーサーの材料は、石でした。その後、シーサーの主たる材料は石から漆喰、漆喰から焼き物へと変化していきましたが、石作りのシーサー(石獅子)に魅せられて、現在の生活スタイルに合わせた石獅子を作っている工房があります。那覇市で若山大地さん・恵里さん夫婦が営む「スタジオde-jin(デージン)」です。

沖縄県立芸術大学で彫刻を学んでいた大地さん。卒業後10年ばかり経ってから「村落獅子」の魅力に取りつかれました。首里城や玉陵(歴代国王が眠る陵墓)にあるような“高貴で精巧な石獅子”とは一味違って、“その村落に住む普通の人が作った素朴な石獅子”は、大地さんの創作人生に大きな衝撃を残しました。

「自分のルーツは平民だということが分かっているので、平民の側のものづくりの方が、肌感覚としては近かったんですよね。最低限の作りで迫力もあるということに感動しました。時間をかければ良いものができるわけではないということは『村落獅子』から気づかされました」

スタジオde-jinでは、同じ石獅子でも、村落獅子のような大きなサイズではなく、小さく持ち運べて家にも気軽に置けるような石獅子を多く作っています。300年以上も前から沖縄にある文化をアレンジして、今につなげています。

アイデンティティの拠り所として

沖縄のアイデンティティともなっているシーサーは、海を越えて南米・アルゼンチンに住む沖縄県系3世の青年の心を打ちました。新門(にいかど)春助マルティンさん。2017年に、沖縄県の海外移住者子弟研修で3カ月間過ごした際、数ある研修の一環で体験したシーサー作りで、自らが継承するべき沖縄文化は「これだ」と確信しました。

アルゼンチンに帰ってからも自己流でシーサーを作り続けた後、2019年に沖縄県の県費留学生として再び沖縄の地を踏みました。理由はやはり、シーサー作り。「自分はウチナーンチュ(沖縄人)だから。シーサーは琉球の歴史そのものです」 2021年に、妻の実家がある沖縄本島中部・中城村に念願の工房をオープンしました。自らのルーツを示す名字から一文字取って「新(ミー)シーサー」。「ミー」という読み方は、「新門」の屋号の読み方である「みーじょう」や、スペイン語の「Mi=私の」に由来しています。

マルティンさんのシーサーには、革新的なアイデアが多く散りばめられています。LEDライトが埋め込まれて光が瞬くインパクトあるシーサーや、沖縄戦当時に住民の避難場所となった洞窟をデザインに組み込んで平和へのメッセージを込めたシーサーなど、自由な発想が持ち味です。最近ではペルーの陶芸「プカラ」の伝統的なデザインを一部シーサーに組み込んだ作品を作り出しました。シーサーを通して、沖縄と南米の文化の融合も模索しています。

「最新の沖縄工芸」琉球ガラス

数ある沖縄の工芸品の中でも、比較的新しい歴史を持つのが琉球ガラスです。「最新の沖縄工芸」とも言われています。 透き通る青や緑、赤などの鮮やかな色は沖縄の空や花々を連想させ、ガラスの中の気泡を眺めていると、沖縄の美しい海を眺めているかのようです。

新しい工芸品と言われるのは、戦後に再開したガラス産業に、事の発端があるからです。戦後の混乱で物資不足だった沖縄では、米軍が持ち込んだコーラやビールの廃瓶を色ごとに分け、それを溶かして新しい製品を作る動きがみられました。琉球ガラスの始まりです。捨てられるはずだったものを価値あるものにするという点では、現在でいうSDGsをさきがけて実践してきた産業でもありました。

今では、原料を外国から輸入する方がコストを抑えられるため、廃瓶を集めて再利用する工房は数少なくなっています。

そんな中で、廃瓶を原料にすることにこだわりを持つ工房の一つが、沖縄本島北部・名護市にある「琉球ガラス工房 glass32」です。代表の具志堅充さんは「戦後に材料がなかった時代から、先人たちが続けていたスタイルで続けていくのが良いなと思っています」と話します。

工房の隅には、県内各地から集めてきた廃瓶が並べてあり、生まれ変わるのを待っているかのようです。具志堅さんは汗だくになりながら、窯から出されたばかりの真っ赤なガラスに息を吹き込みました。まさに今、廃瓶に新しい命が吹き込まれている瞬間かのように。

エンディング

海外文化の影響を受けながら、独自の技法を発達させてきた沖縄の伝統工芸。今日まで脈々と受け継がれてきたその色は、今も輝きを放ち、多くの人々に愛されています。

参考文献

  • 宮城篤正監修「すぐわかる沖縄の美術」,東京美術,2007年11月