戦後復興の象徴「奇跡の一マイル」は沖縄観光の未来指す道しるべに

ヤシの木がずらりと並ぶ1.6キロの通りに、土産品店やステーキ店、アイスクリーム店、民謡居酒屋など約470の店舗がひしめき合う。日曜日の昼は歩行者天国に変わり、多くの観光客が押し寄せる。ここは那覇市にある、沖縄観光の中心地、「国際通り」。1945年の地上戦で焦土となった沖縄の中で、いち早く驚異的な復興、発展を遂げたこの通りは、その距離に由来して「奇跡の一マイル」と呼ばれました。奇跡の通りは戦後の沖縄県民にとってどんな場所であり、これからどんな未来へと続いていくのでしょうか。通りの歴史や名前の由来を振り返りながら、一緒に散策してみましょう。

①起源や歴史

芋畑の真ん中に開通した「新県道」

沖縄観光の中心地「国際通り」がある場所は戦前までは墓地と芋畑が広がる湿地帯でした。1919年に沖縄県庁が、1925年には警察署がそれぞれ那覇の泉崎に移転してきたため、那覇市の中心地がそれまでの西海岸側から少し内陸部の泉崎に移りました。那覇の新しい中心地と首里を結ぶ道が必要だということで、1934年、現在の沖縄県庁前から牧志の中央部を貫通するようにして安里に至る道路が建設されました。当時としては珍しい、コンクリートで舗装されたその道路は「新県道」と呼ばれました。国際通りの前身となる道です。

人々は道路開通によって、周辺が発展していくことを期待しましたが、その願いは打ち砕かれてしまいました。1945年に起きた沖縄戦によってです。後に「鉄の暴風」と呼ばれるほどの米軍の空襲や艦砲射撃、激しい地上戦で、沖縄は本島南部を中心に灰燼に帰し、多くの犠牲者が出ました。

映画館の名は

戦争が終わってからしばらくたち、住民が収容所から少しずつ元の居住地に戻り始めたころ、「同胞(県民)を慰めるために劇場を建てたい」と米軍に申し出た男性がいました。戦前、沖縄本島北部の本部村(現在の本部町)で映画館を経営していた高良一氏です。高良氏が狙いを付けたのは、戦後、米軍の物資集積所になっていた新県道沿いの土地です。米軍の許可を取り付け、1948年、その地に映画館をオープンさせました。映画館の名は「アーニー・パイル国際劇場」。米軍の許可を得やすいようにと、沖縄戦当時、沖縄に上陸し、沖縄北部にある島、伊江島で戦死した従軍記者の名前を冠したと言われています。

戦後初めての映画館の開館に、娯楽に飢えていた県民は歓喜し、連日、満席が続きました。 当時、沖縄本島中部の具志川村(現在のうるま市)から、アーニー・パイル劇場に映画を観に来た青年がいました。国際通りの中でも最も老舗の部類に入る、1967年創業の土産品店「守礼堂」会長の浦崎政克さんです。

「戦争中は文化、娯楽がなかったじゃないですか。那覇に映画館ができたらしいよということで、具志川からトラック、バスを乗り継いで那覇に行ったんですよ。お金を払って入ってみたら、大きな電柱がベンチになっていて。その上に座って映画を観たんですよ。屋根はなく、青天井でした」

93歳の浦崎さんは70年以上前のことを笑いながら、振り返ります。

戦後の那覇は、食器などの陶器作りのために陶工たちが入った壺屋から復興が始まり、その後、国際劇場がある牧志を中心にお店がどんどんできて発展していきました。国際劇場開館翌年の1949年、戦後初めてアメリカ本国の新聞記者が沖縄来島しました。その際、戦後の被害から牧志を中心に驚異的に復興、発展している姿を見て「奇跡の一マイル」と表現した、ということが「奇跡の一マイル」発祥の定説になっているようです。

当時、通りは「牧志街道」「牧志大通り」などと呼ばれていました。1950年、商店街店主が集まって通り会を結成する際に「アーニー・パイル国際劇場の名前にあやかって、国際通りでどうだろうか」と提案があり、通り会の名称は「国際通り団」に決まりました。今、私たちが知る「国際通り」の名前が生まれた瞬間です。

②観光名所として

県民が憧れ、集う通りに

国際通りにはアーニー・パイル国際劇場以降も映画館が続々とオープンし、多くの人が集い、物が売れました。1954年には道路が拡張され、歩道も含めて幅18メートルの現在の広さに。1979年まで警察官として、那覇市の交通安全を担ってきた浦崎さんは発展を遂げていく国際通りの当時の様子をこう振り返ります。

「国際通りとそれ以外の場所では賑わいに差がありました。記憶にあるのは、とにかく車が渋滞していたことです。モータリゼーションが進んでいて、車優先の通りでした。排気ガスも今よりひどかったですからね。それで一日だけ、歩行者に通りを開放しようよということで、沖縄が日本に復帰する前、歩行者天国をやったんです。私も交通安全担当の警察官として、道路上で交通事故のつらさを伝える写真展を開いたり、子どもたちに自転車の乗り方を教えたりしました。あのときの国際通りは人であふれていましたよ」

復帰を機に、「観光」の通りに

沖縄県が日本に復帰する1972年からさかのぼること2年前。映画館を起点に発展してきた国際通りの姿は少しずつ変わってきていました。テレビの普及で、映画産業はかつての勢いを失い、アーニー・パイル国際劇場の後身、「国際琉映館」の建物は取り壊されました。かつて国際劇場を開館した高良氏は「復帰した後は観光の時代だ」と見据え、土産品を販売するビル「国際ショッピングセンター」に建て替えました。

高良氏の見立て通り、復帰以降、多くの観光客が沖縄を訪れ、国際通りでお土産を買ったり、食事を楽しんだりするようになりました。国際通りの象徴だった建物が映画館から土産品店に姿を変えたのと呼応するように、国際通りもまた、客の顔ぶれの変化に合わせて、「観光」の通りへと少しずつシフトしていきました。

外的要因に翻弄されながら

沖縄県が日本に復帰した1972年の年間観光客は44万人。47年後の2019年には20倍超の1016万人に達するまでに、沖縄の観光は成長しました。観光にシフトした国際通りの道のりも順調だったかというと、そうでもありませんでした。家族が経営する土産店を1979年から引き継いだ浦崎さんが国際通りの景気の移り変わりを振り返ります。

「1979年の第二次オイルショックでお客さんは減りましたし、2001年のアメリカの同時多発テロ事件も大変でした。テレビの中継を見ながら『これは国際通りにとっても、大変なことになる』と思いました。ハイジャックされたのが旅客機でしたから、沖縄にもお客さんは来なくなるだろうなと予感しました。案の定、しばらくしてから後、国際通りに立ってみて、歩いている人が一人もいないときがありましたよ。そのとき、初めて、会員制の電子商取引を導入しました。今で言うウェブショップです」

③現在

戦後最大の危機

そんな激動の半世紀の締めくくりに、一番大きな波がやってきました。新型コロナウイルス感染症の世界的な流行です。1000万人を超えていた年間観光客も、2021年には300万人とピーク時の3分の1以下に激減しました。国際通りにある4つの商店街で構成する「那覇市国際通り商店街振興組合連合会」の石坂彰啓事務局長は、国際通りが受けた打撃の大きさをこう表現します。

「国際通りはこれまでいろいろな観光危機を経験してきました。それでも、今回のコロナ禍で、浦崎会長を含む先輩方が『これは戦後最大のピンチだ』と表現するほどのダメージを受けました。2020年7月の時点ですでに40店舗が閉店していました。連合会としても活性化に向けて、対策を打ち出す必要がありました」

連合会は2020年6月、再活性化に向けた事業として①GoToトラベルを活用した割引キャンペーン②路上を活用した国際通りマルシェ開催③連合会のホームページリニューアルとウェブショップの整備④売上の一部が連合会に寄付される商店街振興くじ⑤街頭バナーのスポンサー募集―をスタートさせました。プロジェクト名には、かつて沖縄戦直後の県民にとって、復興への希望の灯火となったあの言葉を引用しました。「奇跡の一マイル再び! 頑張れ国際通り応援プロジェクト」。

危機を克服する過程で

プロジェクトを通し、とりわけ取り組みが進んだのがホームページのリニューアルとウェブショップの整備でした。連合会はIT分野に長けた人たちを中心にデジタル部会を立ち上げ、ホームページの内容を充実させました。さらにそれまで各店舗のウェブショップごとでの決済だった方式を変え、各店舗の商品を横断してカートに入れてまとめて決済し、同じダンボールで郵送するという仕組みに変えました。石坂事務局長は詳細をこう説明します。

「物流システムを構築している企業や配送業者さんの協力のおかげで、各店舗のウェブショップでの販売が劇的に効率化されました。2022年12月からは実店舗においてもA店、B店、C店と違うお店で買ったお土産を、同じダンボールに入れて郵送する実証実験を始めます。手ぶら観光が実現できれば、滞在時間も伸び、飲食もゆっくりでき、買い物も増えるだろうと期待しています」

「今までお客さんは目の前に当たり前にいたので、国際通りの各店舗はいかにお店に入れるかということばかり考えていました。しかし、コロナ禍でそのやり方は通じなくなりました。ウェブショップを活用することによって販路を増やすことができましたが、他店舗と同じ土産品を取り扱っていたら、価格競争になります。各店舗とも独自の商品開発、独自の仕入れを伸ばす必要が出てきました。このコロナ禍における対応が、国際通りの歴史の中で一番スピード感のある進化ではないでしょうか」

そのほかにも「バーチャル国際通り」など国際通りのデジタル化を推し進める石坂事務局長は「ITばっかり提案しているとよく言われます」と苦笑いします。ただ、この間、「リアル」にもとことんこだわってきました。沖縄県警など関係機関と調整を重ねて、毎週日曜日のトランジットマイル(歩行者天国)時に、車道を活用したマルシェの開催にこぎつけました。

さらに、コロナ禍以降、中止やオンライン上での開催を余儀なくされていた「1万人エイサー踊り隊」も演舞会場を分散させるなどの密対策を取ることで、国際通りを主会場に2022年、3年ぶりに開催することができました。エイサー踊り隊のリアル開催を皮切りにするかのように、世界最長の綱引きとしてギネス認定された那覇大綱挽・旗頭行列や世界中の沖縄県系人が集う世界のウチナーンチュ大会・前夜祭パレードなど大規模なイベントが国際通りで再び開かれました。

国際通りの歩む道

石坂事務局長は国際通りの「これまで」と「これから」をこう話しました。

「コロナ禍で客足が落ち込んだときは、専門家などから新聞紙上で『観光客に依存しすぎた』と批判も受けました。ただ、国や県も観光を沖縄の経済構造の中心に位置付ける中で、国際通りはそのど真ん中を歩きながら、ここまで繁栄することができました」

「コロナ禍前、国際通りには1日7万人のお客さんが来てくれていました。今後はバーチャル国際通りにも力を入れていって、5年後にはバーチャルだけで1日10万人の来場を目指しています。バーチャル国際通りなら海外にも販路を広げられます。コロナ禍の経験を経て、外的要因に左右されない、リアルとテクノロジーが融合する新しい国際通りが歩き始めました」

エンディング

芋畑のど真ん中を通る「新県道」時代から今の国際通りまでを見つめ続けてきた浦崎さんは、次の50年への希望をこう託しました。

「光を観ると書いて、観光です。観光客の皆さんが、国際通りに惹かれるのは何なのかということを商店街のみんなで追求していく必要があるでしょうね。これからも、沖縄の文化が感じられるような国際通りであってほしいですね」

参考文献

  • 大濱聡「沖縄・国際通り物語」, ゆい出版, 2019年4月
  • 那覇市歴史博物館編「戦後をたどる」, 琉球新報社, 2007年2月
  • 那覇市市制100周年記念誌監修委員会監修「那覇100年の物語 那覇市市制100周年記念誌」, ボーダーインク, 2021年3月