沖縄県民を熱狂させる野球

「沖縄とスポーツ」を語る上で、野球の存在は欠かせません。特に高校野球に対する熱は極めて高く、沖縄のチームが甲子園で試合をする時は、多くの県民が自宅や職場、ショッピングモールなどでテレビ中継に釘付けになります。その様子は、試合の最中に「道路から車がいなくなる」と言われるほどです。高校野球が一スポーツにとどまらず、一つの「文化」として地域に根付いているといっても過言ではないかもしれません。

ただ本土復帰前は甲子園に出ることすらままならず、高校野球の後進県で他県とは大きなレベルの差がありました。しかし、1999年に選抜高等学校野球大会(春の甲子園)で沖縄尚学高校が県勢で初めて甲子園優勝を果たし、2008年春には同校が2度目の優勝旗を獲得。さらに2010年には興南高校が全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)を含め、史上6校目となる春夏連覇の偉業を果たし、今や全国でも強豪県として知られるようになりました。

なぜ小さな離島県に、全国3,000校以上の頂点に立つ強豪チームが生まれる土壌が築かれ、県民は高校球児の活躍に熱狂するのか。その背景には、沖縄戦や本土復帰などの独特な歴史を歩んできたことによる特殊な県民感情や、苦難の中でもがき続けた先人たちの苦労と工夫の積み重ねがありました。沖縄の高校野球史を、当事者の証言も交えながら辿っていきましょう。

高校野球の”復帰”は1952年

沖縄に野球が伝わったのは1894年のこと。当時の沖縄中学校(のちの第一中学校、現首里高校)が修学旅行の折に京都の第三高等学校を見学した際、同校の学生が「ベースボール」をしているところを目にし、ルールの説明を受けました。そこでバットやボール、ミットなどを土産にもらい、持ち帰って校内で広めたのが沖縄における野球の始まりとされています。

その後、1910年に沖縄中学から分かれて誕生した第二中学校(現那覇高校)や、那覇商業にも野球部が創設されました。当時は正式なユニホームはなく、選手は柔道着を着て、スパイクの代わりに地下足袋を履いたそうです

社会人も含め、少しずつ沖縄に野球が根付いていく中、1921年には南九州大会に出場した第一中学校がなんと優勝を果たします。沖縄の学校は全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校選手権大会)の九州予選にも出場するなど、着実に経験を積んでいきました。

しかし戦争が激化するにつれ、県外と同様に野球文化は一時途絶えます。それでも終戦翌年の1946年9月には沖縄戦の傷跡が残る中、石川市(現うるま市)で第1回全島高等学校野球大会が開かれ、早くも野球文化復興の足音が聞こえ始めました。当時は物資に困窮していた時代で、米軍からもらったソフトボールを使い、野球のルールで試合をしました。

ただ、沖縄は戦後米国の統治下に置かれたため、1946年に復活した全国中等学校優勝野球大会の予選には参加できませんでした。そんな中、「沖縄野球の父」と呼ばれる第二中学校出身の国場幸輝さん(沖縄県野球連盟会長や沖縄タイムス社運動部長などを歴任)らが主催者との折衝に奔走。1952年から再び全国大会の予選出場が認められ、高校野球が一早く「本土復帰」を果たし、その年の東九州大会に戦後初めて石川高校が参加しました。

同じ時代の1949年には県野球連盟が立ち上がり、職域野球も広がりを見せていた沖縄。娯楽も少ない中、野球は戦後の荒廃から立ちあがろうとする県民に勇気を与え、励ます存在になっていきました。

1956年には県高野連が誕生

一方で、当時はまだ県高等学校野球連盟(県高野連)は発足しておらず、高校カテゴリでは指導者不足など全体としてレベルアップを図る組織体制は構築できていませんでした。転機が訪れたのは1955年12月末のこと。九州の強豪だった鹿児島商業高校が県内高校との親善試合を目的に来沖した際、日本高野連の佐伯達夫副会長が同行して来たのです。

経緯はこうです。その年の夏、東九州大会で敗れた沖縄の高校がその足で夏の甲子園大会を見学に行き、佐伯さんの耳に「沖縄の学校が来ている」という一報が入りました。終戦から10年目。佐伯さんは「そうだ、しまった。沖縄のことをすっかり忘れていた」(書籍「佐伯達夫自伝」より)と反省し、「こりゃあ、沖縄をほっといてはいかぬ」とすぐに行動に移しました。

来県した佐伯さんは沖縄県高等学校体育連盟(県高体連)の阿波根直成会長や前出の国場幸輝さん、首里高校野球部の福原朝悦監督ら沖縄の関係者5人と懇談の場を設けました。目的はただ一つ。県高野連の設立を促すことです。県高野連で第20代会長を務め、沖縄高校野球史に詳しい神谷孝顧問(67)は「先輩方の話」として、当時の様子をこう説明します。

「その時、佐伯さんが『実は』ということでポケットから紙を出してきて、沖縄県高野連の大まかな規約が書いたものを見せたらしいです。当時は高校野球も高体連の一部としてやってるけど、君たちも高野連を組織しなさいと。高野連のこともほとんど知らなかったもんだから、参加した人たちはみんなびっくりしたそうですよ」

準備委員会を経て翌1956年2月1月、県高体連の阿波根会長が兼務する形で会長に就き、ついに沖縄でも高野連が誕生しました。

海に捨てられた「甲子園の土」

沖縄の代表校が初めて甲子園の土を踏んだのは、その2年後の1958年夏です。代表校は、県大会で出場17校の頂点に立った首里高校。それまで夏の甲子園に出場するためには、県大会で優勝した後に宮崎県の代表校に勝利する必要がありましたが、この年の全国高校野球選手権大会は第40回の記念大会で、各都道府県から一校が出場できることになったのでした。

迎えた甲子園の開会式。当時首里高校3年で主将を務めていた遊撃手の仲宗根弘さん(82)は、沖縄の高校が初めての出場だったこともあり、選手宣誓の大役を任されました。前日はチームメートが入念に体を動かす中、一人宿舎の押し入れに籠り、必死で暗記したそうです。当日は身長162センチという小柄ながら、スタンドを埋める約7万人の大観衆を前にしても臆する事なく、背筋をぴんっと伸ばし、力強く、堂々と宣言しました。「宣誓、我々はスポーツマンシップに乗っ取り、正々堂々と戦うことを誓います。昭和33年、8月8日。沖縄代表、首里高校、仲宗根弘」

大会第2日の8月9日、首里高校は敦賀高校(福井県)と対戦しました。0-3で初戦敗退となりましたが、甲子園における沖縄勢初の試合にも関わらず、見事に善戦。あっぱれな戦いぶりは、8月10日付けの朝日新聞の戦評で「遠来の首里は甲子園の大うず巻きの中におめずおくせず場に立った。先輩達が幾度か出場した経験をもつ古いチームでさえこのフンイキの中には進退、度を失うのに初めて日本を見、大甲子園の土を踏みながらいささかも動揺の色を示さず、力のありだけを傾けつくした」(原文)と高い評価を受けました。

しかし、船で那覇港への帰路に就いた首里校メンバーに悲劇が待っていました。選手たちが一生の思い出として持ち帰った「甲子園の土」に待ったがかかったのです。時の沖縄は米国統治下。日本にとって”外国”だった沖縄に上陸する直前、植物防疫法に触れるという理由で甲子園の土は防疫官に没収され、無情にも海に捨てられてしまいました。ただ、捨てる神あれば拾う神あり。その悲劇に同情した日本航空のスチュワーデスの方が後日、植物防疫法に触れない甲子園の「小石」を集め、首里高校に送りました。その小石は、今も校舎敷地内にある「友愛の碑」に埋め込まれています。

沖縄の高校野球史にとって歴史的な場面に立った仲宗根さんは、その後も県内の高校野球関係者と深い付き合いを続けました。自身の野球人生を振り返り、何度もこう語ります。「体を動かすのが好きで、野球が好きで、ああいう経験ができた。社会人になっても先輩、後輩とも繋がってきた。本当に幸せな男だよ」

選抜高校野球大会では1960年に那覇高校が県勢で初めて出場。のちにプロ野球・広島東洋カープで「巨人キラー」として活躍する安仁屋宗八投手を擁した沖縄高校(現沖縄尚学高校)が1962年に南九州大会を突破し、県勢として初めて自力で夏の甲子園への切符をつかみました。翌1963年には首里高校が夏に日大山形(山形県)との初戦を4-3で勝利し、甲子園で県勢初の白星を獲得。さらに5年後の1968年夏には、我喜屋優現監督が主将を務めていた興南高校が当時の県勢最高成績となる4強入りを果たし、”興南旋風”と称されました。

沖縄の高校野球を変えた栽弘義監督

沖縄のレベルは少しずつ上がってはいましたが、沖縄が日本に復帰した1972年夏に甲子園に出場した名護高校が初戦敗退を喫するなど、まだまだ県外とのレベル差は否めない状況でした。しかしこの復帰年には、後に沖縄のレベルが向上する要因の一つになる出来事がありました。前出の神谷さんが解説します。

「復帰前は本土のチームが沖縄に来て親善野球をしていたけど、『いつまでも日本高野連のお世話になるのはまずい』ということで、復帰してからは招待試合という形で沖縄が他県の強豪チームを招待するようになったんです。そしてその時に、県外の名のある監督や部長に指導者講習会をしてもらい、県内の指導者たちが教え方を学んでいきました」

そんな中、沖縄の高校野球の水準を飛躍的に伸ばす一人の監督が現れます。指導者として通算18回(うち一回は部長)の甲子園出場歴を誇る栽弘義さんです。

1975年春に豊見城高校で初めて甲子園に出場し、準々決勝で原辰徳選手(現読売ジャアンツ監督)を擁する東海大相模高校(神奈川県)に1-2で惜敗したものの、いきなりの8強入り。さらに1976年からは夏の甲子園で3年連続ベスト8という好成績を残しました。

その後沖縄水産高校に転任し、1990年と1991年の夏に甲子園で2年連続準優勝という快挙を成し遂げます。

栽監督は研究熱心で知られ、チームを強くするために書籍などから様々な練習法を考案した他、学校の強力なバックアップもあり、練習設備も整えました。そのため、当時の沖縄水産は県内各地から有力選手が集まっていた他、県外からも甲子園を目指す選手が入学していて、約120人の部員が激しい部内競争を繰り広げていました。

沖縄が本土に復帰してから約20年が経過していた当時、インフラ整備や人材育成など、まだ沖縄は様々な面で他県より遅れている現状もありました。1991年当時、3年でエースだった大野倫さん(49)はこう振り返ります。

「沖縄の高校野球と、沖縄の世情はリンクしている部分があると思ってます。僕たちもまだ、県外に対するコンプレックスを持っていました。そんな中、栽先生はよく『沖縄の子供たちでもできる』『沖縄だから、という考えはもう捨てなさい』と反骨心を持つように言っていました。2年連続の準優勝は、沖縄がもがいてる中で一つの壁を突破したという意味があったと思います」

野球を通して沖縄の子どもたちに自信を植え付けた栽監督の功績は、今も色褪せることはありません。県民から優勝の期待も大きく、重圧を背負いながら甲子園の6試合を全て完投した大野さんは「僕自身、すごいプレッシャーの中で2年続けて決勝戦の舞台に立てたことは誇りです」と感慨深そうに語ります。

県民が熱狂した悲願の初優勝

沖縄の高校がついに甲子園の頂点に立ったのは、その8年後の1999年春。栽監督の豊見城高校時代の教え子である金城孝夫監督が率いていた沖縄尚学高校です。

初戦の相手は好投手を擁する比叡山高校(滋賀県)でしたが、当時沖縄尚学のエースを務めていた現監督の比嘉公也さん(41)は、初の大舞台にも関わらず「不思議と緊張はありませんでした。試合の初球でストライクが入り、そこから乗っていけた記憶があります」と振り返る通り、快投を見せて1-0の完封勝ち。エースに引っ張られる形で勢いを増したチームは順調に勝ち上がり、準決勝では優勝候補だったPL学園高校(大阪府)との延長12回に及ぶ死闘を8-6で制し、決勝に進出しました。

準決勝で212球を投げて完投した比嘉さんは決勝では登板できませんでしたが、チームは決勝で水戸商業高校(茨城県)に7-2で快勝し、沖縄県勢初の甲子園優勝という快挙を成し遂げました。ベンチで優勝の瞬間を迎えた比嘉さんにとって、忘れられない光景があります。「万歳!」の掛け声と共に沖縄尚学の応援席からウェーブが巻き起こり、それが満員のスタンドを2周、3周とぐるぐると回ったのです。比嘉さんは「すごいことをしたんだなという実感が湧いてきて、鳥肌が立ちました」と当時の興奮を振り返ります

歓喜の余波は、沖縄に帰ってからも続いていたと比嘉さんが続けます。「優勝をした事に対する第2の実感は、那覇空港に着いてからです。たくさんの人が出迎えてくれて、学校に向かうバスに乗っている間も祝ってくれる人が沿道に途切れないんです。僕はたまたま沖縄で初めて優勝したチームの一員になりましたが、仲間にも恵まれ、本当に誇りに思います」。

沖縄の本土復帰から27年目。当時は社会的な目標として「大臣が先か、甲子園優勝が先か」という言葉も生まれ、様々な面で県外と「肩を並べたい」という思いがあった沖縄。苦難の歴史を歩んできた県民は、全国の頂点に立つまでに成長を遂げた高校球児の活躍に沖縄社会の発展を重ね合わせ、熱狂し、歓喜しました。

その後、2008年には比嘉監督率いる沖縄尚学が東浜巨投手(現福岡ソフトバンクホークス)を中心に2度目の春優勝を成し遂げ、2010年には興南高校が史上6校目となる春夏連覇を達成。本土復帰から50年、以前は甲子園で1勝を挙げることでさえ高い壁だった沖縄は、今や全国でも強豪県として認知されるまでに飛躍を遂げました。

プロ野球春季キャンプ 子供に刺激

沖縄は野球が地域に根付いていることで多くの指導者が育ち、中学生以下のレベルも高く、全国大会での優勝や、選手が世代別の日本代表に選ばれることも少なくありません。県外の強豪高校からスカウトされる選手も多くいます。

近年は福岡ソフトバンクホークスの東浜巨投手(沖縄尚学高校出身)やオリックス・バファローズの宮城大弥投手(興南高校出身)、埼玉西武ライオンズの山川穂高内野手(中部商業高校出身)、昨年の東京五輪代表に選ばれた平良海馬投手(八重山商工高校出身)などプロ野球の一線で活躍する県出身選手も増え、地域的なレベルの高さを表しています。

また、毎年プロ野球チームが県内で行う春季キャンプも沖縄の子供達にとっていい刺激になっています。前出の神谷さんはこう指摘します。
「沖縄は少年野球の頃から親に連れて行かれたり、チームでキャンプを見に行ったりします。選手による野球教室もあるため、一流のプロ野球選手を身近に感じることができて、本当にいい刺激になっています。練習を見学して、指導者にとっても勉強の場になっています」

1979年の日本ハムファイターズが名護市でキャンプを張ったのを皮切りに、今や多くの球団が沖縄を利用していて、今年は9球団が県内で実施しました。1982年から沖縄市でキャンプを続ける広島東洋カープは2016年に市に1億円を寄付し、その資金を活用して市内の高校と県外の高校が試合をするイベントが開かれたりするなど、交流を通して地域に好影響も与えています。

エンディング

沖縄という地域に深く根付いた野球文化。これからも県民に勇気や感動を与えてくれるスポーツであり続けることでしょう。

参考文献

  • 沖縄県高等学校野球連盟 発行「沖縄県高校野球50年史」,1972年5月1日
  • 沖縄県体育協会史編集委員会 編「沖縄県体育協会史」,1995年3月15日
  • NHKプロジェクトX制作班 編「NHKプロジェクトX 挑戦者たち3 翼よ、よみがえれ」, 日本出版放送協会,2003年12月15日
  • 佐伯達夫 著「佐伯達夫自伝」,ベースボール・マガジン社,1980年8月

引用

  • 「朝日新聞 朝刊」,1958年8月10日