沖縄偉人伝 松茂良興作

泊手の中興の祖

 松茂良興作(まつもら こうさく)は、琉球王国時代から明治にかけて活躍した唐手家であり、泊手中興の祖と仰がれる武術家です。

 明治以後に公にされた空手の系譜図では、この時代の唐手家のほとんどが首里王府の公僕ですが、松茂良興作は終生を在野の唐手家として過ごし、後進の指導に力を尽くした希有な武術家です。また清廉潔白で義侠心が高く「義烈武士松茂良」とも称されています

武術家への道

 松茂良興作は1829年、泊士族の雍氏・松茂良興典の一男二女の長男として、泊村(現那覇市泊)で生まれました。

 松茂良が生まれた泊村の港は、那覇港と並んで首里王府の貿易港として栄え、聖現寺(俗称天久の寺)がこの泊港に上陸した中国人など外国人の、琉球滞在中の活動の拠点となったといわれています。また泊港には、中国、朝鮮等の交易船が漂着することもありました。そのため、琉球王府の命によって聖現寺の周辺に、漂着者を収容する客舎が設けられていました。泊の人達は、漂着者の中にいた武人から武術の伝授を受け、首里、那覇とは異なった独特の武術「泊手」が発展したと考えられています。

 松茂良が最初に唐手の指導を受けたのは泊村の宇久嘉隆(うく かりゅう)です。宇久の家の庭先で3年間修行を重ね、最初に習う基本の型である内歩進(ナイハンチ)を習得し、足腰を鍛え上げました。次に師事したのが照屋規箴(てるや きしん)です。熱心に稽古に励む松茂良の根性と非凡なる武才に惚れ込み、師の照屋はこれまで庭先でやっていた稽古をやめ、人里離れた隈現寺近くにある祖父の墓庭に移って、型と実戦に必要な転身自在の変手技を教授しました。

 松茂良は、パッサイ、ワンシュウなど泊手の大半の型を修得し、後継者は松茂良だと評されるまでになりました。

 その後も松茂良の修行は続き、泊浜の「カーミヌヤー(フルヘーリンという説もある)」という洞窟に住んでいた中国人に教えを受け、修験者のごとく、ただ一筋に唐手の研鑽を重ねたといわれています。

義烈武士としての松茂良興作

 松茂良興作の生涯は、ちょうど琉球王国が滅びる動乱期にあたります。清廉潔白で義侠心の高い松茂良には、刀に、石を括った濡れ手拭いで立ち向かった話など、数々の武勇伝が残されています。

 波瀾万丈の人生を送った松茂良は、琉球王府から禄をもらうことなく清貧な生活を送りました。王府の財政逼迫により職を失い泊や那覇から都落ちした40世帯あまりの士族が住む阿楚原に隠遁した松茂良は、この一帯の地主の小作料取立人をして生活の糧としたが、人柄からか、取り立て成績がよかったと伝えられています。泊に帰っても定職はなく、当時盛んであった織物の染料である藍の売買を思い立ち、以前隠棲していた阿楚原や伊豆味で藍を購入し、泊村で販売して生計を立てていました。

「仁、義、礼、智、信」の五常の教え

 晩年、他流派の武術家が、武名の高い興作の腕のほどを探るべく訪れ、執拗に手合わせを要求したことがありました。仕方なく松茂良は三尺の間隔の柱の一方を背にし、両足を他方の柱に強く踏ん張り、「私を持ち上げてみなさい」と言いました。たかが老人と、内心甘く見ていた武術家たちは左右から腕を抱えて持ち上げようとしましたが、松茂良の体はびくともしませんでした。その後、お茶を飲みながら松茂良は「貴方がたは、たしなみがありません」と、暗にその非礼を諭したそうです。

 松茂良は廃藩置県前後の動乱の時代に、ひたすら武の信念を曲げず、1898(明治31)年11月に69歳の生涯を閉じました。松茂良の唐手は、本部朝基や喜屋武朝徳、伊波興達から仲宗根正侑、久場長仁に引き継がれました。

 松茂良の師であった照屋は、つねづね門弟に対して常に隠忍自重し、自分から先に手を出してはいけないと説き、「生半可な修練は、自滅である」と戒め、「仁、義、礼、智、信」の五常をわきまえよと教え諭しました。松茂良は「武の本体は、破邪顕正の道を歩み、大義を明らむことである」という照屋の教えを後世に語り継いでいます。