沖縄偉人伝 ―松村宗棍―

「ブシマツムラ」と称された傑出した武術家

 松村宗棍(まつむら そうこん)は、琉球王国時代から明治にかけて活躍した最も偉大な武術家の一人で、首里手の始祖とされています。松村は、唐手術の稀代の使い手であるとともに、古武術や薩摩「示現流」の使い手でもあり、「ブシマツムラ」として世に名声をほしいままにした武術家です。また、書や文人画など諸事一般に天賦の才を示しました。芝居や映画にしばしば登場する人気者であり、虚実が交錯した多くのエピソードが今日に語りつがれています。

武術家への道

 松村宗棍は1809年(注1)に首里山川村で筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)という位階の一般士族の家に生まれ、幼少のころから武術に興味を持ち、15歳前後にはすでに武術家として頭角を現していたといいます。佐久川寛賀や真壁朝顕が松村の唐手の師匠だという説がありますが、いずれも確認されていません。ただ沖縄固有の武術〈手〉(ティー)は、主に琉球王府に仕えた首里士族のなかで受け継がれ、文武両道に優れた人物を輩出していますので、首里士族に生まれた松村は、こうした環境の中で武術を極めたと考えられます。

 成人して琉球王府の役人となった松村は薩摩に派遣され、そこで「示現流」と出会います。示現流を開いた東郷重位から数えて4代目にあたる伊集院弥八郎兼喜に師事し、免許皆伝になるまで剣技を磨きました。「一の太刀を疑わず、二の太刀要らず」という「示現流」の一撃必殺の極意は、松村の唐手の基本思想に大いに影響したと考えられています。松村は、その生涯で中国福建省福州に2回、薩摩に2回派遣されており、福州滞在時は中国拳法、薩摩滞在時は剣法の修練に励んでいます。

(注1)1800年生まれという説もあります

琉球王府の行政官として

 琉球王府の遣外使節の一員としての中国や薩摩への派遣による4度にわたる海外往来で、松村宗棍は行政官、外交官としても琉球王府の中でしっかりと足場を築き上げていました。また、松村はそのたぐいまれな武術を認められて、17代尚?王、18代尚育王、19代尚泰王の三代にわたって、御側守役(要人警護職)をつとめたと伝えられています。ただ、王府役職制度に「御側守役」という役職名は存在しないので、これは私的もしくは臨時の役職であったのではないかと考えられています。また、松村はそのかたわら、国王の武術指南役もつとめたと伝えられています。

 晩年は、首里崎山町にあった王家別邸・御茶屋御殿で、弟子達に唐手を指導し、1899年、91歳の長寿で没しました。

松村宗棍のスタイル

 たぐいまれな武術家として「宮本武蔵」と比べられる松村宗棍ですが、そのスタイルは自在性と敏捷性を重視したものでした。義村仁齋は「自側武道記」のなかで「松村翁は豪力で敏捷で、典型的な武士気質であった。それでよく『武士は神速を尊ぶ』と訓えていた」と記述していますし、直弟子の本部朝基は著書『私の唐手術』の中で、「松村先生は(中略)決して力一方の武士ではなかった」「常に静中動きを見て運用自在であつた」「常に其の型の稽古は力の入れ方及び型の運用に意を注いで居れた」と語り、その稽古法が敏捷性や型分解、組手を重視していたものであったとしています。

 松村宗棍を語る上で欠かせないのは、唐手修行者の心得るべき文武両道のあり方を説き示したことです。晩年、高弟桑江親雲上良正に武術修行心得ともいうべき追訓を残しています。そのなかに

●文武の道は同一の理なり。文武共に其の道三つ有。
●文道に三つと申すは詞章の学、訓詁の学、儒者の学と申候。
●武道に三つとは学士の武芸、名目の武芸、武道の武芸有り。

と記し、「武道の武芸」を嗜むべき方向としています。

 また、武術修行者の求めるべき精神の道を中国古来の武術観である「武の七徳」に求め、「武は暴を禁じ、兵をおさめ、人を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする。是れ武の七徳と申し、聖人も称美し呉れ候段、書に相見え候」と説いています。

松村宗棍のエピソード

 松村宗棍には武人として多くの逸話が残されていますが、その一つに猛牛と戦う話があります。

 王の命を受けて猛牛と闘わざるをえなくなった松村は、黒装束に身を固め、手には鉄扇をもって毎日のように牛舎に通い、猛然と闘志をあらわにする猛牛の脳天めがけて鉄扇を打ちおろし、松村への恐怖を植え付けました。当日、黒装束と鉄扇という出で立ちの松村を見た猛牛は恐怖を覚え、完全に戦意を失って松村の二歩前進とともに恐怖の叫び声を上げて逃げてしまったのです。

 このような松村にかかわるエピソードは数多くあり、創作的で非現実的なものも含まれていますが、いずれも松村が戦略的にも戦術的にも非凡な武人であったことを物語るエピソードです。