沖縄偉人伝 ―佐久川寛賀―

沖縄空手の祖

 「彼(佐久川)の後には彼はなく、後世の世に称せられる人で、力量その他の点において、彼の右に出るほどの人はなかった」(本部朝基『私の唐手術』)と評され、現代につながる沖縄唐手の始祖・琉球古武道中興の祖と崇められている武道家が佐久川寛賀(さくがわ かんが)です。

「唐手」の始祖

 琉球の歴史において、「唐手(トゥーディー)」という文字が現れるのは、この佐久川寛賀の時代です。以前からあった沖縄固有の武術は〈手〉(ティー)と称されていましたが、この「手(ティー)」に、佐久川が中国から持ち帰った中国武術を融合してできたものが、今日の空手の源流である「唐手」だと考えられています。

 佐久川は「唐手佐久川(とうでさくがわ、トゥーディー・サクガァー)」というあだ名で呼ばれていました。佐久川寛賀の弟子で首里手の大家の一人である安里安恒さんは「沖縄の武技」という本の中で、〈唐手〉という名称は、唐手佐久川こと佐久川寛賀前後から使われだしたものであろうと推断し、それ以前は〈組合術〉と呼ばれていたと述べています。狭義の意味での唐手の歴史は佐久川寛賀に始まるといっても過言ではありません。しかし、当時の沖縄武術は一子相伝・門外不出としての性格を有していたため、具体的にどのようなものであったのかは不明です。

北京への留学

 佐久川寛賀は琉球王府時代の人であり、生年は1782年とも1786年ともいわれ、諸説あって不明ですが、18世紀後半には易氏・浦添親方寛安から数えて九世にあたるとされる首里の士族の照屋家に生まれました。(注1)
 照屋家は筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)という称号と従七品の位階をもつ一般士族であり、領地(采地)は有していませんでした。姓を佐久川に改めるのは後のことです。

 照屋(後の佐久川)寛賀は、頭脳明晰で武術にも秀でていたので、20代(30代とも)の頃に琉球王府の推薦を受けて中国へ留学しました。この時の航海では、乗った船が海賊に襲われ、照屋寛賀は棒を使って海賊を退治したとの武勇伝が伝えられています。

 当時の琉球王府では、清への留学資格を得て留学し、中国の最高学府である国子監を出ることで王府における高位高官に就く資格を得ることができました。そのため北京には琉球からの留学生会館ともいえる「琉球学館」がありました。

 照屋寛賀は、勉学に励む傍ら中国武術を修行したとされます。また、その後も琉球王府の清朝への進貢船の乗員として数度に渡って北京に赴いたといわれています。

 北京から戻った照屋寛賀は琉球王府の国学教師となります。国学とは当時の琉球王府の尚温王が開学した琉球王府の最高学府で、行政官の養成所でした。

(注1)生まれた場所も赤田村(現・那覇市首里赤田町)、鳥堀村といくつかの説があります。

沖縄固有の武術と中国武術の融合

 北京において中国武術を会得した照屋寛賀は、国学教師の傍ら、幼少の頃より学んだ沖縄固有の武術「手(ティー)」に北京で学んだ中国武術を融合させ、独自の武術を創造したといわれています。琉球は地理的には福建省や浙江省に近く、古来福建省との民間交流や貿易が盛んであり、当時中国から伝わり沖縄武術に影響を与えていたのは南派小林拳であったと考えられます。一方、当時の北京で照屋寛賀が学んだ武術は少林寺を源流とする少林拳であり、彼が編み出した拳法を南派小林拳の影響を受けた沖縄武術と区別する意味で、「唐手(トゥーディー)」と呼ぶようになったのではないかといわれているのです。

 さらに、彼は気功や擒拿術を導入したことで、古武道の世界でも中興の祖といわれ、とくに棒術「佐久川の棍」は現代にも引き継がれています。また、明治の三大拳聖の一人で、首里手の創始者といわれる松村宗棍は、佐久川寛賀に唐手を師事したといわれています。

行政官としての佐久川寛賀

 1835年、照屋寛賀は八重山在番となり、同時に「佐久川」という名島(領地ではなく、領名)を賜り、姓を照屋から佐久川に改めました。八重山在番とは、琉球王府から派遣された八重山の司法行政を管理する役人で、徴税業務も行う八重山の最高行政官です。また、在番は八重山の人々に、新しい情報などを提供する役割も果たしていました。佐久川寛賀は1838年5月17日に帰任するまで八重山在番を務めました。

 佐久川は1836年に最後の渡航をし、北京滞在中の1837年に病のため北京で客死したとされ、遺骨は北京の外蛮墓地に葬られたと言い伝えられてきました。しかし近年の研究で、1838年には52歳でまだ八重山在番を勤めるなど健在だったとの指摘も出ています。現在では1867年、行年81歳で亡くなったという説が有力です。

 諸説多いですが、それほどに伝説上の人物であったということでしょう。