佳作 【高校・一般部門】 元山 歩栞

夢を諦めない

 

もとやま あゆか
元山 歩栞 (神戸市)

『理学療法士になりたい!』そう思ったのは高校一年生の頃、祖母のリハビリをみたのがきっかけだった。高校三年生になり、理学療法士の養成校へ進学が決まり、未来は希望でいっぱいだった。

しかし、卒業式の前日に突然、病が私を襲った。病名は突発性難聴だった。入院して治療を行ったが、治療の甲斐なくこの日から私は無音の世界の住人になった。周りの音も自分の声も何も聞こえない。まるで出口のない真っ暗な場所に1人取り残された気分だった。何より、夢を諦めるしかないことが悔しくて悲しくて仕方なかった。なんで、わたしが…。と毎晩、涙を流した。

そんな私を救ってくれたのが人工内耳だった。全国で人工内耳を扱っている病院は少なく、診察を受けるのにまず3カ月かかると言われていたが、事情を話すとH病院のA先生がすぐに診察をして下さった。一ヶ月後に専門学校へ入学すること、どうしても夢を諦めたくないことを伝えた。先生からは人工内耳を使えば聞こえるようにはなる。ただ個人差があり、どこまで聞こえるようになるかはわからない。手術後、リハビリが必要で四月には間に合わないかもしれないと言われた。それでもほんの数%でも可能性があるならと手術をお願いした。

手術は成功し、数日後に初めての音入れを行った。どんな音が聞こえるのか、胸が高鳴り、前日は眠れなかった。しかし、実際に音入れをしてみると人工内耳で聞く音は今まで聞こえていた音とは全く違った。周りの音を全て拾い、雑音だらけの中で人の声を拾うことが出来ず、また抑揚がなく宇宙人のような言葉を理解することも出来なかった。入学式まであと一週間。絶対に会話できるようになる!と意気込み、その日から毎日、必死でトレーニングを行った。すると、少しずつ聞き取れることばが増えていき、入学式の日には五割ほど会話を理解できるようになっていた。

迎えた入学式。私は聴覚障害者だとばれるのが怖くて、髪の毛で人工内耳を隠した。そして、誰にも話しかけられませんように。と願いながら教室へ入ったが、そんな願いは叶わず、すぐに話しかけられた。どうしよう…。周りがうるさすぎて聞こえない。その場から逃げ出したくなったが、必死に話を合わせ、誤魔化した。明日からもこんな日が続くのかと思うと、気が重たくなった。でも、ここまでのことを考えると簡単には諦められなかった。

翌日からは授業が始まった。教卓から話す先生の声が聞き取れない、頼れる友達もいない、使い始めたばかりの人工内耳で今までとは違う聞こえ方、それに加えて新しい環境。どんなことに困っていて、どう対応したらいいのかが自分でさえわからない。今思うと本当に手探り状態の毎日だった。

学校の先生とは何度も話し合い、少しでも授業が受けやすいようにと試行錯誤した。

入学後少しずつ仲良くなっていった友人に耳のことを打ち明けても避けることなく、変わらず接してくれた。それどころか、困ったときは何も言わず手を差し伸べてくれている。『障害があってもなくても歩栞は歩栞。だから隠さなくていい。』そう言ってくれる友人もいる。

また、障害があるからできなくても仕方ないと思われたくなくて、私は毎日必死に勉強に励んだ。聞こえないところは友達に教えてもらったり、教科書を読むことで補った。兎に角、一日一日の授業についていくのが精いっぱいだった。

思い返せば、何度も自分は理学療法士になれない。そう思うこともあったが、ここまで夢を諦めずに、続けてこられたのは周りの方々に助けられ、支えられたからだ。学校の先生や友人だけでなく、家族、主治医の先生、言語聴覚士の先生。数えきれないほどの方々に支えられて私は今、理学療法士になるという夢を追いかけている。

また、聞こえなくなってから多くの方々と出会うこともできた。デフフットサルで知り合った人や全国で聴覚障害をもちながらも医療従事者として働く人や学生。きっと、聴覚障害が無ければ出会ってなかった方々だ。そして、そんな方々に出会えた私は幸運だ。

もし聞こえなくなった当時に戻ってもう一度、聞こえるか聞こえないかの人生の選択ができたとしても、私はまた聞こえないという現在の選択をとるだろう。それくらい、今まで出会った方々やその方々の優しさや温かさは私にとってかけがえのない財産となっている。

これまでにもたくさんの壁を乗り越えてきたが、これからも多くの、そして高い壁にぶつかることがあるだろう。でも、私が大丈夫、何とかなる!と思えるのは、周りにいる方々が障害のある私を理解してくれ、懸命にサポートしてくれるからだ。だから、今度は私が出会った方々を理解し、懸命にサポートできる理学療法士になりたい。