佳作 【中学生部門】 小早川 奈緒
私のお父さん
高松市立国分寺中学校 二年 |
平成二十六年十月二十六日、私のお父さんはくも膜下出血で倒れました。すぐに手術をしましたが、病院の先生には一生車いすの生活になるだろうと言われました。なかなか意識が戻らず、私はとても心配しました。毎日お母さん達と病院に通いました。いつ行ってもたくさんのチューブにつながれて、ただ眠っているだけでした。言葉を話す大切な機能が損傷している可能性があるとも言われました。話ができないということです。いつになれば目が覚めるのだろう、このまま目が覚めないかもしれない、目が覚めても私達のことを覚えているだろうかと不安でいっぱいになりました。
お父さんは、意識が戻ってもなかなか話すことができませんでした。私の言っていることがわかっているのかいないのか、それすらもわからない状態でした。話したくても話せないのかもしれないと思いました。さらに、左半身が麻痺しているようで手足が腫れて動かすことが難しい様子でした。
一ヵ月後、リハビリの病院に移りました。そこにはいろいろな障害のある人たちがたくさんいました。体の不自由な人、記憶の障害がある人、車いすの人、言葉を話せない人。毎日、時間を決めてリハビリが続きました。お父さんが話す練習や歩く練習をしているところを見ました。かすれた声で話すのがやっとのようでした。麻痺をした左足を動かすのがつらそうで、私が代わってあげたいと思いました。
それから私達はお父さんと交換日記をすることにしました。最初は何を書いているのかわかりませんでしたが、少しずつ読めるようになってきました。家族のこともしっかりと覚えていることに安心しました。「毎日リハビリをがんばってね。」と書きました。そんな生活が一年六ヵ月続きました。
退院の日、病院の先生からこう告げられました。「お父さんがここまで回復したのは奇跡だよ。」と。つらいリハビリを一生懸命したのでしょう。私は、よくがんばったお父さんを誇りに思います。今では、自転車に乗って通勤できるまでに回復しました。
しかし、お父さんには「高次脳機能障害」という後遺症が残ってしまいました。見た目では障害者とはわかりません。話をしても今までとほとんど変わりません。車を運転することはできないため、外出をすることも少なくなりました。お父さんができないことは私達家族が補い、協力して暮らしています。
この二年間で私の生活は大きく変わりました。そして障害者に対する考え方も変わりました。元気だったお父さんが障害者になったことで、今まで他人事だと思っていたことが決してそうではないと思うようになりました。お父さんも病気になりたくてなったわけではないし、その結果障害が残ってしまったことも本意ではなかったと思います。一度も弱音をはいたことはないけれど、私が考える以上にお父さんは努力してがんばってきたことでしょう。歩くこともできないと言われたお父さんが仕事に復帰できたことは、奇跡ではなく、きっとお父さんの努力が実った結果だと思っています。その努力を無駄にしないためにも、これからも私達家族でお父さんを支えていきます。
また、車いすの人や障害のある人を見かけたときには、見て見ぬふりはしないで、私にできるお手伝いがあれば進んでしようと考えています。これは、この二年でお父さんから学んだ大切な教えです。
私が最後に伝えたいことは、障害のある人も障害のない人と同じであること、そして誰もが障害者になる可能性があるということです。そして、障害者が住みやすい社会になっていくことを心から願っています。