【高校生・一般部門】 ◆佳作 中森 里江(なかもり りえ)

私の宝物中森 里江(三重県)

私の娘は、生まれて間もなく癲癇の発作が出た。治療や訓練も行ったが、九年の生涯で言葉を発することも歩くこと、立つこともできずにすごした。その九年の生涯の中で輝いていたのは、病院でも保育園でも小学校でもいつも仲間の真ん中でいた満面の笑み、笑い声、そしてかけがえのないつながりであった。そして、その様子を見てきた家族も地域の人もそのつながりから大切なものを学んだと思っている。

私自身元気で入院した経験さえなかったので、娘にまさか「しょうがい」があり、長期入院や療育を受けるとは思ってもみなかった。そのことを受け入れるのは時間がかかったが将来のことを考え仲間の中での育ち合いをさせたいとの思いは家族で大切にした。

娘の発達は、周りの子どもたちの刺激がそれを促すということで、二歳から心身しょうがい児療育専門施設「かしのみ園」に入園した。隣の保育園では元気な子どもたちの声がしていたが、交流もほとんどなく、教室ではしょうがいがある子どもと付き添いの母親、そして保育士さんの数名の空間で、手厚く療育をしてくれたが、静かな教室が淋しかった。いろんな子どもがいて、いろんな声が聞こえ同じ地域の仲間との育ち合いが大切なのだと改めて感じた。そして地元の保育園に入園させてもらおうと役場にお願いに行った。保育園に入園する当たり前のことが難しかった。何回も役場に交渉し、娘の命を大切に考えて保育園の準備態勢も整えてもらった。そして四月晴れて娘は年少児のクラスで地元大山田保育園に入園できた。

保育園での生活に不安もあったが、初めての集団生活は、娘もまわりの子も同じで不安を抱えながらみんな精一杯の保育園生活をスタートさせた。みんながそれぞれ精一杯の中で、一人の仲間の「しょうがい」は、そのもの全てが当たり前で、当たり前の関わりを彼らはしていた。膝かけがずれれば、そっと直してくれ、バギーも押してくれた。普段の生活、遠足、生活発表会、運動会など、どうすれば娘が仲間の中で活動できるのかを保育園全体で考え育ててくれた。

生活発表会で劇の配役をみんなで決めた。「美来ちゃんの役はどうする」と担任の先生が仲間に聞いた。教室の園児たちは、娘の立場になり、いろんな意見を出してくれた。結局、「私と一緒のタンポポの役がいい。」という子と一緒にタンポポの役で舞台に出た。仲間が付き添い、いつも誰かがそばにいて、そしてしんどい時には娘のそばに座っている、娘がその子の居場所となる、そんな関係が育っていく場面をいつも見てきた。

娘が小学校に入学すると、私も付き添いができなくなり、さらに子ども同士のつながりが深まった。学習活動は勉強する仲間の声を聞き、空気を感じる仲間との学習を大切にした。一年生として初めて鉛筆を握り文字を書く。私が保育園で娘にクレヨンを握らせ絵を描いていたように、仲間が娘に鉛筆を握らせて線を書き、文字を書かせてくれたノートを見た。図工の絵は、友達が一緒に描いてくれたもので、紙粘土の作品は、粘土の感触を楽しみながら、それを瓶に貼ってあった。小学校の娘の特別支援学級の部屋には、いつも友達が来てくれていた。娘は言葉が発せなかったが、友達は「美来」にたくさん手紙を書いてくれた。そんな手紙が娘にはいっぱい届いた。そして毎日の連絡帳も時間割を仲間が順に書いて届けてくれた。そのノートや作品、手紙から私たち家族は仲間のつながり、優しさを届けてもらった。こうして私たちはずっと仲間と一緒に娘は成長し、思い出が積みあがっていくものだと私は疑わなかった。

娘が四年生になった秋、娘は長めの風邪をひいた。それが治りかけの時、痰が喉につまり、本当に一瞬で命を落としてしまった。家族も仲間も別れは突然のことだった。娘の死をどう受け止めたらいいのか分からなかった。それでも、仲間はしっかりとお別れをしようとお葬式までの三日間で千羽鶴を折って参列してくれた。そして、いろいろなしんどい経験をしてきた人が私に励ましの言葉をかけてくれた。お葬式を終えた次の日、娘の担任の先生が家庭訪問をしてくれた。
「美来ちゃんの連絡ノートを子どもたちが続けたいと言うので、弟さんに学校に持たせてもらえませんか。」 ということだった。次の日から、娘の連絡ノートの輪はつながり、仲間が連絡を届けてくれるようになった。学校の様子も毎日三行日記としてその日の出来事が綴られていた。二冊目もつながり、終了式の三月二十五日まで続いた。連絡ノートは家族の楽しみ、生きる勇気になった。このつながりは、修学旅行にも写真を連れていっていれて、お土産も買ってきてくれた。発表会にも登場させてくれた。そして思いがけなく私たちに娘の小学校の卒業式の招待状が届いた。参列した私の前に、仲間の胸に抱かれた娘の遺影が登場した。教室には娘の座席も用意されていた。仲間の中で娘も一緒に大切にされていることがありがたかった。

そして仲間たちは中学校に入学した。それぞれが新しい中学校生活に希望と不安を抱えその生活に慣れることに精一杯だと思っていた。そんな中、四月の末に一人の女の子が一枚の絵を届けてくれた。両手でハートの形をつくったその中に娘の似顔絵が描かれていた。そしてDear my Friendの文字。それぞれの新しい旅立ちを祝福しつつ、少し淋しかった私の心に温かい風を届けてもらった。「忘れないよ、ずっと一緒…」この絵は娘の机の上で今も笑顔を届けている。

この体験は私の大切な宝物となっている。「共に生きる」証としてつなげていける生き方をしたいと思っている。