【一般区分】 ◆最優秀賞 植田 悠郁(うえた はるか)

今伝えたい事 ~ 弟と歩んだ日々 ~植田 悠郁(鳥取県)

今年26歳になる私の弟には重度の知的障害がある。弟は生まれてすぐ、髄膜炎にかかり、その後遺症で脳に障害が残ってしまった。弟は運動機能の障害はなく、歩いたり走ったりする事はできる。しかし言葉の発達は極めて遅く、文字の読み書きは全くできない。時間や曜日もはっきりとは分かっていないようだ。日常の生活を送る上でも、常に誰かの助けが必要で、食事やトイレ、洗面、入浴、歯磨きさえ一人で行う事ができない。

言える言葉も限られている。独り言で、「おてて、おてて」と言ったり、「はっか、はっか」と私の名前を呼ぶ事はあるが、何かを伝えようとすると、単語しか話せない。例えばジュースを飲みたい時は「ジュシュ」、おしっこに行きたい時は「おっこ」と言う。確かに弟が伝えられる言葉はたった一言だが、その一言で私たち家族は随分助かっている。

幼い頃の私は、弟の事がかわいくて、世話も好きだった。しかし、当時を振り返ると無意識に弟は何も分かっていない、弱いと思い込んでいたような気がする。それは小学校中学年の弟に対し、日常的に赤ちゃん言葉を使う、「よしよし。かわいいね」と言って頭をなでるなど、私の行動にはっきりと表れていた。

さらに私が小学校6年になるとそれまで好きだった弟の世話も嫌いになっていった。弟より自分が好きな絵を描く事に、夢中になっていたかった。だからそれを中断して弟のトイレの世話をしなければならない事が苦痛でたまらなかった。

そんな私に変化が起きたのは私が高校生の頃だった。私が悩んで思いつめた顔をしていた時、弟が私のそばで笑ってくれた。その笑顔は優しくて、「大丈夫。僕がいるよ。」と言ってくれているようで心強かった。

弟はちゃんと私の事を見ていてくれた。私の気持ちを分かってくれていた。何も分かっていないんじゃない。むしろ私たちより敏感に周りにアンテナを張っているのかもしれない。分かっていなかったのは私のほうだった。

弟のIQ(知能指数)は現在でも2歳4か月程度しかないと診断されている。けれど弟には26年間生きてきた【経験】がある。それはIQでは計れない弟の学びの証だ。弟が小学生の頃は怖がって、歯医者での治療ができなかった。でも今は歯医者でも泣かず、一人で診察台に上る。病院の血液検査も自分からさっと手を出すようになった。今まで食べられなかったトマトやキュウリも食べられるようになった。これは歯医者や検査は必要な事で怖くないと学んだから。トマトやキュウリは食べたらおいしいと分かったから。

弟と一緒に生活していて、困る事がある。それは弟の体調が悪い時、すぐに気づけなかったり、どこが痛いのか、しんどいのか分からない事だ。弟はおなかが痛い、体がだるい、熱っぽいなどと言葉では一切伝える事ができない。「あーん、あーん」と機嫌が悪くなる、今までしゃべっていたのに急に静かになるなど、小さな変化でしか、様子がおかしい事が分からない。だから体調の悪化に気づくのが遅れる事も度々ある。

けれども弟も必死で伝えようとしている。それを強く感じた出来事がある。弟が高校生の頃、体に膿がたまり、痛くて泣きわめいていた事があった。その時、弟が母のカバンを持ってきて、テーブルの上にぼん!と置いた。片付けても何度もそれを繰り返した。様子がおかしいので母は病院に連れて行く事にした。処置を受け、家に帰ってきて、母が言った。

「何回もカバンをテーブルに置いたのは『病院に連れて行け』って訴えてたんだわ。」

それを聞いて私ははっとした。弟も伝えたいんだ。伝えようと努力しているんだ。でもどう伝えたらいいのか分からない。弟も苦しいんだ。もどかしいんだ。弟の気持ちが少し分かったような気がした。私たちも分かろうと必死になり、イライラもするが、弟だって、分かってもらいたくて同じ感情を抱いているはずだと気づいた。

知的な部分に重い障害があるからと言って何も感じない、何も理解できない、何も学べないというわけじゃない。弟は毎日、様々な事を自分なりに感じて学び、成長している。今回、私が弟と歩んだ日々を書く事で、弟を知らない人たち、そして知的障害者への偏見や差別、虐待が表面化していないだけで日々起きている現代社会にそれを伝えたかった。十分に言葉も話せず、仕事なんて勿論できない。でも弟が生きている、その事に意味があるのだと、私は伝えたいのだ。

今、私は弟の成長を自分の事のように喜べるようになった。そして弟を大切に思っている。弟に重い障害があるからではない。家族だから、弟だからだ。

今日も私の隣で、弟が元気いっぱい「はっか、はっか」と私の名前を呼ぶ。私は嬉しくて「何?」と答える。そんなささやかな日常が私の幸せである。